地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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a0087378_5195345.jpg 山門から立木観音堂までの間、いろいろな案内板が建つ。
 「あいづめぐり」の解説から、会津三十三観音巡礼地図、それに会津6詣の旗。
 ここが十一面千手観音で子年生まれの守り神との話とかかわって、三仏堂に阿弥陀如来を中心に薬師如来、六地蔵菩薩が鎮座し、戌・亥年生まれの守護神だとして参拝所が設けられる。小金塔には大日如来が鎮座する。未・申年生まれの守護神は大日如来ということらしい案内があり、この塔の再建の発端についての案内板が建つ。
 会津風土記<寛文6年(1666)>に、その昔恵隆寺立ち木千手観音堂の現境内地に、小さなまばゆいばかりの塔があったと書かれている。
 このことにより、昭和57年の調査で礎石が発見され、方形に塔の四隅の土台石として正方形に発掘された。
 寺に継承されてきた御仏も、昔をしのぶ御姿に大補修され、発掘された4個の大石を四隅に配し再建して今日を迎えた。
 寺に立ち寄った感じとしては、今の自分の感覚では雑然とした印象だが、その中から懐かしさの風景を思い出しているところもある。
 生まれ年による守護神対応は、この地域の日常的な生活の中で心の持ちようとして仏様とのかかわりを表しているようにも思う。会津坂下町のホームページの立木観音(千手観音像)の解説の後半に、「会津三十三観音」「ころり観音」の信仰や「だきつき柱」や「櫛奉納」などの解説を加えるのも、そのことを表現したかったのだろうと思う。

 こういったものの他に、櫛の奉納解説だとか、ここで祈願して旅に出て、旅の途中難に合ったが、無事帰郷できた御礼に奉納した鰐口などというものもある。それだけでなく、歌碑等各種石碑があって、その中には、別れの一本杉の記念歌碑案内などというものまである。
 会津にいた頃、近所には拝み屋さんもいたし、近所のさもない観音堂毎の祭りもあったし、訳もなくここがお前の生まれ年の守り神だと言われたなぁなどという記憶もよみがえる。親父が亡くなった時、おふくろに冬木沢に連れて行けと頼まれたことも思い出す。

 今の自分の感覚には、こういった日常生活との連続の中で何かを信じるという感覚が湧きおこらなくなっている。いつ切れてしまったのかなぁと思いだそうとしている。
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by shingen1948 | 2012-11-30 05:27 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

立木観音堂②

a0087378_5234515.jpg  山門は、現在修理中のようだった。
 慶長16年(1611)の会津大地震で伽藍が倒壊し、30年後に再建した最初の建造物だとか。町指定重要文化財のニ躯の金剛力士の木造立像が、山門を守るとのことだが、よく見なかった。

 ここが「立ち木観音」と呼ばれるのは、ここの御本尊が立ち木の大樹に彫られた11面千手観音像である事に由来するらしい。
 今回は、境内を散策させていただき、ただお参りしただけで拝観しなかったが、こちらも国指定重要文化財とのことだ。
 会津坂下町のホームページで確認すれば、以下のように解説される。    http://www.town.aizubange.fukushima.jp/Members/bunkashinkou/contents/list/bunkazai02.html
 国指定重要文化財
 立木観音(千手観音像)
 (大正4年3月26日)
 千手観音像は、恵隆寺観音堂(立木観音堂)の本尊であり、鎌倉時代初期の作とみられています。一木造で、像高7.42m、総高8.5mの大像であり、「塔寺の立木観音」の名で親しまれています。観音堂内に二十八部衆・風神・雷神を従えたその姿はまことに壮観です。
 また、恵隆寺は会津三十三観音31番札所として、また西会津町・如法寺(鳥追観音)、新鶴村・弘安寺(中田観音)の観音像とともに「ころり観音」のひとつとして信仰を集めています。観音堂のだきつき柱にだきついてお祈りすれば、ころりとあの世にいけるとの信仰や、苦死(くし)からのがれるために、櫛(くし)などを奉納するなど、連日多くの参詣者でにぎわっています。
 ここでは鎌倉時代初期の作とあるが、金塔山恵隆寺立木観音堂ホームページでは、御本尊十一面千手観音は、大同3年(808)弘法大師が夢のお告げを受け、桂の大樹に一刀三礼の精魂を込めて彫り上げたとし、彫り上げたのは徳一大師の可能性もあることを匂わせる。
 「福島県の歴史散歩」では、寺伝や「新宮雑行記」等、恵隆寺が高寺伝承の寺といわれることを元にして、平安時代初期に、現在地に再建したのが徳一大師だと紹介する。
 なお、眷属としての木造二十八部衆・風神・雷神は、県指定重要文化財らしい。
 県指定重要文化財
 木造二十八部衆立像  風神・雷神
 (昭和58年3月25日)
 二十八部衆は千手観音に従い、真言のお経を唱え教えを信ずるものを病気・災害から護ってくれるといわれています。恵隆寺の二十八部衆は、観音堂本尊(千手観音)の左右壇に、それぞれ14体ずつ(そこに雷神・風神が加わる)5列に並んでいます。
 像高157cmから175cmで、ケヤキやホウノキによる一木造です。像の製作は室町時代以降と 思われますが、像の彩色は、慶長の大地震(1611年)後の修理の際に塗り替えられたものです。また、像の姿・形は儀軌(造像する際のきまり)によらず、地方色にあふれています。肥満ぎみの容姿が多い中で、藤原様式の古様をしめす3体の像もあり、今後詳しい調査が待たれます。
 代表的な例として京都・蓮華王院 (三十三間堂)の諸像がありますが、より時代が下がるとはいえ、これだけ大きな像が完全にそろっているのは壮観で大変珍しく、注目されています。【会津坂下町のホームページ
http://www.town.aizubange.fukushima.jp/Members/bunkashinkou/contents/list/bunkazai13.html
 次の機会には、拝観して見たいと思う。
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by shingen1948 | 2012-11-29 05:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

立木観音堂

a0087378_5535415.jpg ここに立ち寄ったのは、立ち木観音の大きな絵が大広間に掲げられたのを見たからだ。会津自然の家に行く途中見かけていたことも、きっかけの一つになっているかも。
 ここを話題にすると、皆が立ち木観音といい、コロリ三観音、三十三観音の一つらしいことの話とか、子年生まれの守り神との話になる。正しくは、石塔山恵隆寺観音堂というらしい。
 いろいろな案内板が建つが、観音堂の建物自体も国指定重要文化財で貴重というのは見かけなかった。見逃したのかもしれない。
 「会津坂下町のホームページ」では、以下のように解説される。
http://www.town.aizubange.fukushima.jp/Members/bunkashinkou/contents/list/bunkazai01.html
 国指定重要文化財
 恵隆寺観音堂(立木観音堂)
 (明治37年2月18日)
 恵隆寺観音堂(立木観音堂)は、寺伝によると建久年間(1200年頃)の建立と伝えられています。慶長16年(1611年)の会津大地震で被災後、直ちに大修理に着手し、元和3年(1617年)に竣工しましたが、主体部は創建当時の形態を踏襲しているといわれます。
 観音堂は、方五間で正面には向拝があり、木割が雄大です。柱はすべて円柱で、柱頭には和様の三斗を組んでいます。寄棟で茅葺の屋根には、会津地方独特の棟飾り(グシ)があります。軒の出は深く、二重繁垂木は隅木近くでほどよい反りをみせており、下から見上げたとき、その線列の美しさにひかれます。豪放でどっしりとしたこの堂は、鎌倉時代の遺構を残す和様の古建築です。
 「福島県の歴史散歩」によると、元和3年(1617年)の大修理は、領主蒲生氏郷の援助によるものとか。桁行5間、梁間4間の単層寄棟造りで、茅葺(1986年文化庁指導で全面葺替え)創建当時の形態をそのまま踏襲しているとされる。
 純和様の遺構であることを強調するのは、会津では勝常寺薬師堂、円蔵寺弁天堂、藤倉二階堂など禅宗様古建築が多い中では、数少ない貴重な遺構ということらしい。
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by shingen1948 | 2012-11-28 05:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

中田観音②

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 中田観音の最寄り駅は、只見線根岸駅で、この直ぐ脇の踏切前に案内板が建つのだが、駅からはこの案内板の裏しか見えない。あくまでも、車への案内。
 この根岸駅前の踏切を横切るように導く中田観音へ導く案内板は、「野口英世ゆかりの地」として中田観音と旧新鶴村の施設案内も兼ねる。この案内板に、中田観音堂と「野口英世博士、中田観音御礼詣」の写真が掲げられる。
 「野口英世博士、中田観音御礼詣」
 大正4年9月15日、母シカが信仰していた中田観音に御礼詣する野口英世博士と小林栄先生
中田観音は母シカさんが英世の火傷の治癒と立身出世を願い10里(40㎞)の道程を月詣りしていたことで知られる。
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 案内の意図は、会津が誇る野口英世博士が、母シカさんと御礼詣した中田観音ということだと思う。結果的にはそういうことだが、感心するのはその信仰心のようなもの。
 シカさんは、ごく日常的なこの地域の人々の心の持ちようを代表している姿とも見れる。息子の火傷の治癒と立身出世という現世的な願をかけに、毎月欠かさずにやってくる。翁島から会津若松の新城酒店(末廣)で休憩した後、ここまで徒歩でやってくるというその心の持ちようは、この地域に根付いた姿とも見ることができる。
 そういう日常的なこの地域の人々の心の持ちようが、文永11年(1274)頃から脈々と続いているということなのかな。

 どうでもいいことだが、この日も野口英世博士は過密なスケジュールだったようだ。
 前日には、耶麻郡医師会主催講演の後に若松の東山温泉新滝に宿泊していたと思われる。この日の朝、親友の石塚三郎氏が、博士の自宅に訪れるらしい。午前8時に母シカ・小林栄氏、そして、この石塚三郎氏と共に新鶴村の中田観音に参拝するとあるが、どこで合流したかは分からない。この後午後2時には、北会津郡役所で会津1市4郡医師会主催の講演をし、午後4時には、官民合同歓迎会、午後5時に新滝で医師会主催の歓迎会に出席しているらしい。この日も、新滝泊かな?

 なお、先に整理した翁島駅に降り立った9月8日の日程は以下のようだ。
上野駅午前7時6分発の列車で、郡山駅で友人の八子弥寿平市、村長の二塀蓮三郎氏の出迎えを受け、午後4時20分に翁島駅着。
 ここから翁島小学校に向かい、ここで出迎えた村民800名に帰国の挨拶をする。そこから八幡神社に参拝。その後、集落の家々を個別に挨拶して、長照寺で先祖の墓に参拝後に、自宅に戻ったとか。
 翌日9月9日は長浜の湊谷旅館で翁島村歓迎会、10日は小林栄宅訪問、11日には闘病中の友人の父六角謙三氏見舞、12日には猪苗代高等尋常小学校同窓会で講演、13日には午前8時に猪苗代高等小学校で講演、11時に猪苗代町江戸亀旅館での同窓会創立会に出席、14日午後には喜多方町立小学校で耶麻郡医師会主催講演、若松の東山温泉新滝に宿泊。そして、この15日の日程という事のようだ。
 この後、16日には県立会津中学校等主催の講演会をこなし、翌17日には、午後2時に福島市の県会議事堂で福島県医師会臨時大会記念講演をし、午後5時に医師会の歓迎会に出席し、飯坂温泉に出席、翌日には、伊達駅から東京に戻ったとか。
 出迎えた方々が十分満足なされたことは分かるが、出迎えられた方が満足だったかどうかは分からない。
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by shingen1948 | 2012-11-27 05:21 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

中田観音

 主要な街道筋には、あちこちに中田観音への案内板が立っている。時間調整もあって、案内に沿って進んで、立ち寄ってみた。
 寺の本堂にも見える観音堂前の案内では、以下のように説明される。
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 国指定重要文化財
 銅造十一面観世音及び脇侍二体
 文永11年(1274)長者江川常俊が娘の菩提を弔うために十一面観世音菩薩立像を鋳造し愛娘の心が宿るここ中田の里に納めたといわれる。
 次いで弘安2年(1279)冨塚伊賀守盛勝公が伽藍を鋳造し普門山圓通閣と称した。その後、普門山弘安寺と改名され、観音堂におさめられて現在に至る。
 十一面観世音菩薩立像
 鋳造物で御身の丈6尺1寸7分(1m87㎝)光背に文永11年(1274)8月8日の銘文がある。
 脇侍 不動明王立像
 同3尺1寸(93.9㎝)
 3体とも、昭和3年4月3日国宝に指定
 昭和25年8月国指定重要文化財となる
 会津美里町教育委員会
a0087378_6154983.jpg 案内板は、車道を案内するようで、西側から入り込んだ。逆コースになったが、帰りは細道の表参道を下った。表参道からは、門前はこんなふうに見える。
 「福島県の歴史散歩」で確認すれば、長者江川常俊は、左布川(会津高田町字宮の腰)の長者とか。
また、山門過ぎて直ぐ右手の保存庫に弁天堂(国重文)が収められていて、この堂が元々の厨子だったとか。それが、寛永19年(1642)観音堂再建の際に本堂外に出されたものとか。しかし、この堂も弘安2年(1279)冨塚伊賀守盛勝公が伽藍を造営した当時のものと考えられているとか。
 今度は、きちんと参拝する心づもりでたずねたいもの。
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by shingen1948 | 2012-11-26 06:18 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 緑の村に立ち寄ったのは、ここに日本硫黄沼尻鉄道の車両が保存されているということからだ。
 今年の夏に沼尻駅跡へ立ち寄って、以下の3回に分けて整理したその延長線上の立ち寄りだ。
 「2012夏の頃~沼尻駅跡へ立ち寄る」
 http://kazenoshin.exblog.jp/15958481/
 ―2012夏の頃~「高原列車は行く」と沼尻鉄道
 http://kazenoshin.exblog.jp/15964135/
 ―2012夏の頃~鉱山鉄道のイメージと「高原列車は行く」のイメージ
 http://kazenoshin.exblog.jp/15969755/
 それで、タグに「沼尻」を入れた。
 会津へ出かける時には、115号線を使う事が多く、沼尻鉄道もこの道筋付近に沿って走る区間があるのだが、そのことを家族に講釈を語ったこともあるらしい。
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 その日本硫黄沼尻鉄道の車両は、旧翁島駅舎の後ろに展示されていた。特に詳しく見てみたいということではなく、115号線の沼尻鉄道の走っていた区間と重なる道筋を走る時にイメージできれば楽しいかなと思っただけだ。思っていたより結構しっかりとした車両だなという印象。
 この沼尻鉄道については先にも整理したが、猪苗代町の名所旧跡では、以下のように案内される。
a0087378_5403368.jpg 村内には旧沼尻鉄道の貴重な車両が、原型のまま保存されています。
 この鉄道は、大正2年(1913)から昭和43年(1968)までの55年間、沼尻鉱山の硫黄を運ぶため、川桁駅と沼尻駅の間約16㎞を走りました。
 地元住民や観光客の足としても活躍し、丘灯志夫氏作曲の愛唱歌「高原列車は行く」のモデルともなりました。
 猪苗代町
 この緑の村に保存される前の中ノ沢温泉に残存していた当時の車両の写真が見られる「思い出車両アルバム」というページをみつけた。
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~imaita/rnumajiri81_0.htm
 
 昔、子供が小さかった頃、福島駅発ミステリー号という行き先の分からない列車が運行されたことがある。それに乗った子供の話に、淡水魚館や魚のつかみ獲りの話、塩焼きの魚を食べた話などがあった。その話から、ここだったのではないかなと思っていたことも思い出した。平成元年(1989)年開業らしいので、もしそうなら、あれは開業して間もない頃だったのかな。
 案内板は、旧沼尻鉄道車両の説明の前に、緑の村について「町営緑の村には、淡水魚館、釣り堀、蕎麦処、駅舎亭などファミリー向けのレジャー基地となっています。」と紹介している。
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by shingen1948 | 2012-11-25 05:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 地元の方が自慢に想う翁島駅は、緑の村で案内される「明治41年(1908)翁島駅舎建設」という、その年に完成した天鏡閣の最寄り駅として相応しい駅舎。
 明治32年(1899)岩越鉄道により開業されてそれ以降明治41年までの駅舎と、昨日整理の昭和58年(1983)に建替えられて現在に至る駅舎は、その範疇にはなさそうだ。
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 緑の村に移築された旧駅舎は、地元自慢の駅舎の3代目とのことで、大正11年5月に建設され、大正13年改修された貴賓室も設置された駅舎とか。外観は屋根がスレートから銅板葺きになったほかはほとんど手を加えられていないとか。「福島の建築」として整理してもいいかなとも思うが、躊躇するところがあるのは、地元自慢はその立派さで、訪れる者が感じるのは懐かしい駅舎という感覚のずれのようなものも感じること。

 案内される内容からその関連を推測する。
 大正11年建設は、猪苗代湖畔に有栖川宮・高松宮の翁島別邸(天鏡閣・迎賓館)が設けられ、その最寄駅が翁島駅であったことに由来するらしい。大正13年改修は、現陛下が御成婚後初めてのご旅行でおいでになり天鏡閣に25日間ご滞在の際にご利用になられたこととかかわるのかな。
 現況は、「駅舎亭」というそば店らしい。開いていないのは、朝早いせいか、季節外れのせいかは分からない。貴賓室部分は、食事のスペースとなっているとか。こちらは、家人と来た時に立ち寄ってもいいかなとも思う。

 ここに立ち寄ったのは、ここに日本硫黄沼尻鉄道の車両が保存されているということから。こちらは磐越西線川桁駅から出ているので、翁島駅とは直接的にはかかわらない。
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by shingen1948 | 2012-11-24 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

翁島駅

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 翁島駅に立ち寄ったのは、深い意味はない。ただ、旧沼尻鉄道の車両が緑の村にあるというので立ち寄ったら、そこに旧翁島駅舎が移築されていた事で、その旧地を確認しておこうと思っただけ。
 ここに、「野口英世が郷里に凱旋し歓迎を受けた翁島駅」の案内板が建つ。
 野口英世博士の想いで
 「野口英世が郷里に凱旋し歓迎を受けた翁島駅」
a0087378_12351729.jpg 大正4年(1915)9月8日、15年ぶりで帰国した英世が初めて郷里の土を踏んだところです。駅前にはアーチと国旗が掲げられノロシもあがり、歓迎のため沿道には800名程の村人が集まりました。医師試験受験のために上京した明治29年(1896)9月、19歳の時には、単身で故郷を離れ東北線の本宮駅まで歩いて行った英世にとって、この歓迎ぶりにはたいへん驚き、万感の想いをいだきました。
 野口英世博士生誕のふるさとづくり推進委員会
 英世は、明治29年(1896)9月に上京するのに本宮駅まで歩くのは、この時には鉄道が走っていなかったからで、ここに駅ができるのは、3年後の明治32年(1899)に、岩越鉄道によって開業されてから。これが、明治39年(1906)に国有化される。
 ただ、この時の駅舎は、緑の村で案内される貴賓室のある立派な建物になる以前の建物のはずで、緑の村で案内される「猪苗代湖畔には、有栖川宮・高松宮の翁島別邸(天鏡閣・迎賓館)が設けられたその最寄駅」以前のできごとということで、扱い的には現在の駅舎の扱いに近いかな。
 ということで、写真は、掲げられている凱旋写真の構図に近い位置から撮ってみたもの。

 今回、野口英世博士の郷里凱旋とかかわる中田観音にも立ち寄ってきている。そのつながりのようなものも感じる。
 なお、駅の沿革にある「昭和59年(1984)にお召列車が運転され、昭和天皇夫婦が下車された」とあるのも、旧駅舎が緑の村に移築された次の年のということなので、この駅舎が新築されて間もない頃ということかな。
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by shingen1948 | 2012-11-23 12:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
  「古代会津の歴史」に「高倉宮以仁王流転の伝説」が紹介されるのだが、よく読みとれていなかったのが、以仁王の無念な心情。ドラマでは、そこのところを丁寧に描いてくれた。
 先に伏線として登場させて、その後に物語が進行し、そして、遂に今話で「以仁王の令旨」という構成で、その心情が丁寧に描かれる。よく読みとれていなかった部分がこれですっきり。
 治承4年(1180)高倉天皇は譲位し、幼い清盛の孫が即位して安徳天皇が誕生し、平家と清盛にとっての最終的な権勢の頂点に達する。ここで起こったのが、後白河の第三皇子で高倉帝の異母兄である「以仁王」の謀反。これまで不遇の地位にあった以仁王は、源頼政と組んで、突然平家打倒を呼びかける令旨を 全国の源氏に向け発令する。
 次回には、以仁王の令旨を知った清盛が激怒し、以仁王、頼政らが捕らえられ、鎮圧されるのだろう。頼政は宇治川で敗戦し、以仁王は園城に脱して、ここでも敗れ、光明山の鳥居前で戦死されたという。

 ここから「高倉宮以仁王流転の伝説」につなげれば、伝説を楽しめるのだろうか。
 「古代会津の歴史」によると、この伝説の原本は、「御墳墓考【宮城三平著】」とのこと。宮城三平氏は、会津の郷土史家として有名な方とのことだ。
 その伝説では、この後、以仁王は桧枝岐村を通過して、東蒲原郡小川荘まで落ちのびていくらしい。その概要は、以下のようだとか。
 宇治川で敗戦後、奈良路から近江の信楽に逃げる。そして、東海道を経て甲斐、信濃・上州沼田から片品川に沿って尾瀬沼畔に達して、ここから福島に入る。
 尾瀬沼畔から沼山峠を越えて桧枝岐に来ているとする。
 一行は、ここから下流伊南川沿いの各地に伝説を残しながら、只見川叶津から80里越えを経て越後に入り、小川荘中山村で逝去。ここに高倉天皇御陵ができるという物語らしい。
 「御墳墓考」では、ここに、いろいろな通路、宿泊地、滞在日数、合戦場所まで詳細な記述があって、それを史実だとしたらしい。
 例えば、この一行には、尾瀬中納言藤原頼実もついていて、その兄大納言頼国が桧枝岐に留まったとされるとか。また、会津より江戸への裏街道南山通り大山宿では、この「御墳墓考」の記述に基づいて高倉神社がまつられ、頼政の子乙部重朝の娘と伝える宮の愛妾桜木姫が旅の疲れで倒れたとした立派な墓までつくられたとか。

 ドラマの方は、これから、清盛は安徳のための都として福原への遷都を強行し、8月には、以仁王と頼政に刺激された東国武士たちの思いを受け、頼朝が打倒平家を掲げて兵を挙げるという展開にすすむのかな。

 第45話「以仁王の令旨」の要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_45.html
 「以仁王の令旨」 
 後白河院(松田翔太)を鳥羽離宮に幽閉し、クーデターをおこした清盛(松山ケンイチ)は、ついに武士として初めて天下の頂に君臨する。清盛は福原にいながら、朝廷の人事権を掌握し、高倉帝(千葉雄大)に安徳帝への譲位を迫るなど、思いのままの政を展開していた。一方、治承3年の政変で、不遇に言づかった鳥羽院の嫡流・王家の以仁王(柿澤勇人)は、源頼政(宇梶剛士)に接近し、武力決起による平家討伐を考え始めていた。伊豆でも、高い租税に困る東国武士たちは、徐々に平家への不満をあらわにしつつあった。そして義経(神木隆之介)は弁慶(青木崇高)とともに奥州藤原氏を頼り、力を蓄えつつあった。頂にたち、孤独の中で我を失い始めた清盛をよそに、各地で反平家の火がくすぶり始めていた。2月21日、かねてよりの清盛の望みどおりに、高倉帝が譲位、上皇となる。清盛は言仁親王(安徳帝)の即位の儀を福原で行うといいだし、周囲を驚かせる。
 今話視聴率は、大幅ダウンの7.3%で、最低視聴率更新とか。
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by shingen1948 | 2012-11-22 05:20 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
a0087378_415220.jpg 途中でキリシタン殉難の地入り口の案内を見たが、今回の寄り道はここまでにした。
 キリシタンという言葉から頭に浮かぶのは、会津の殿様にキリシタン大名に蒲生氏郷がいたなといった程度。家に戻って、猪苗代町史等を確認したら、猪苗代の領民がことごとくキリシタンになった時代があったという。その視点で、磐椅神社や土津神社を眺めれば、別な見え方になるらしいことが分かる。

 今回の磐椅神社の散策や迷い込みをした見袮山のどこかに、その時代にセミナリヨ(神学校)があったらしいということでもあるらしい。
 隣り合わせの位置にあったと磐椅神社は、その影響が大きかったこと推測されるが、あおりを受けた神社仏閣の経営が破綻してしまいそうな困窮ぶりが紹介されているのも見た。
 宝永3年(1706)の「磐椅明神旧記」には、「社人等は切支丹のために苦しめられ離れ散りて奉仕の途も無之様と相成候、されば元和の前後二十年か程は神官も絶えて社殿は損じ御物も多く紛失し、鐘楼、回廊を始め社人の社宅等、皆切支丹宗徒のため焼き尽くされ候由」との記載とか。

 猪苗代町史等によれば、特にキリシタンが全盛だったのは、岡越後が猪苗代城城代だった慶長14(1609)年から元和8(1622)年の14年間だったとする(会津藩主蒲生秀行の時代)。セミナリオ(神学校)を建て、亀ヶ城の外堀の内側に「天主の宮」を建てたのは、この岡越後らしい。
 情報をつなげれば、江戸初期に磐椅神社社領を全て没収されたという情報と、この岡越後が猪苗代城城代だったこととが重なるのかな。この時に神官は逃れた右近山から磐椅神社を見守ったという情報も見たような気がする。
 元和8年(1622)には、岡越後は城代を罷免され、岡左衛門佐が城代になるのだが、今度は、猪苗代の大殉教が起こる(会津藩主蒲生忠郷の時代)。

 先に確認した磐椅(いわはし)神社の沿革の以下の部分をこんなふうに修正すればいいのかな。
 天正17年1589摺上原の戦いの後は、衰退し、江戸初期、会津藩主蒲生秀行で猪苗代城城代が岡越後のとき(慶長14(1609)年~元和8(1622)年)に、社領を全て没収され神官らも離散した。
 元和8年(1622)頃には、その勢いは収まるが、万治2年(1659)会津藩祖保科正之が当社に参詣して社殿を復興する。

 詮議が成就院で行われたということにかかわって、今回の散策と迷い込みとのかかわりで気になるのは、六地蔵の情報かな。
 「猪苗代の野仏(猪苗代地方史研究会)」の「調査を終えて」という項でこの院とのかかわりで、以下の地元の方の恐れおののく表現が気になった事を記した。
 見祢「成就院」:吾妻山の研修洗礼の場所と聞く不動尊
 ―カメラにおさめると目がつぶれるという……
 ―御神体を出そうとしたが手が震えてどうしても出せなかった……。

 これを修験に対する恐れおののきの表現と見ていたが、これに詮議を受ける切支丹の怨念も加わるのかな。表現をよく見れば、「研修洗礼」という表現も見える。
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by shingen1948 | 2012-11-21 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)