地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 講演会の中では、「福島市渡利に投下された模擬原始爆弾の痕跡と思われる跡」が写る「昭和22年米軍撮影」の写真が提示された。
 この情報は、自分にとっては、着弾地点の推定がより確実さを増すかもしれないという興味と、被害状況の実感が深まるという意味を持つということ。

 被害状況の実感が深まるというのは、以下のグランド0地点についての表現に視覚化された情報が加わったということだ。a0087378_3254343.jpg
 これは、その部分を拡大して示されたもの。
 当時の新聞記事では、グランド0地点を「約3反歩の大穴」と表現していた。いろいろ説明される中では、「爆弾の落ちた地点の穴は約90mで、暫くは沼になっていたため、その辺一帯(現在のわたり病院○付近)を「沼之町」と呼ぶようになった」と表現される。
 上空から撮影されたこの写真自体からその大穴が鮮明に実感できるという事ではなく、今までの情報と組み合わせると、この大穴の実感を得たような気にさせてくれるということだ。

 もう一つが、着弾地点の推定にかかわる情報として。
 着弾地点については、先にいろいろな情報を組み合わせて「グランド0」地点を想像しているが、まだ曖昧なところがある。
 この写真をもとにして確認していけば、「グランド0地点」が確実に特定できるかもしれないと思ったのだが、実際に歩いてみると、この辺りの風景は激変しているようで、ここだと言いきれるほど確実性が増したという事にはならなかった。
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 現況の風景の中で、写真の地点が比較的分かりやすいのは、集落の北西隅付近のこの風景だろうか。この風景の左側に写るお宅に沿って西に延びる道筋が写真に写っていると思うのだが、この道筋は今も健在で、これが先に整理した「グランド0地点は、この一角と推定する」とした写真に写る道筋につながっている。
 その道筋より寧ろ集落の北側を東西に走る道筋に近い付近が、その地点なのだろうという程度の想像はつく。 
 なお、ここに半沢氏の「フィールドワーク地図」の情報を組み合わせれば、ここに写る道筋が古くからの中心地だったところらしいということが分かる。その情報によると、この集落が「もと渡利村字町(渡利の中心地)このあたりはまわりの土地より1段高くなっている」ということであり、これが写真に写る集落でもあるということなのだろうと想像される。この道を挟んだ北東側に、渡利村役場があったり、初めて小学校があったりしたところだとことになるのだろうか。

 講演会の中で得られた着弾地点情報としては、着弾点は岩 郵便局から南に約100m以内付近ということやGPSで確認すると民家の駐車場と一致したというような情報、渡利病院との南側という位置関係など等々あったが、先に整理した時に確認した情報を越えるものではなかった。
 これらと地図との照らし合わせをしたことを持ってしても、確実にここがその地点という情報にはならなかった。ただ、今回、情報を得るたびに、自分の予想するグランド0地点より西に引っ張られる感じがしていたのだが、このズレが示す意味の想像がついた。
 それは、模擬原爆は、西から放物線を描いて着弾するということとかかわる。模擬原爆はその着弾の衝撃で炸裂するのだが、その爆弾の破片は、その反作用の力が加わってその西方に散らばって被害が拡大するという事になっていたのだろうという想像だ。その拡大した被害地が、渡利病院との南側ということなのではないかということだ。
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by shingen1948 | 2012-10-31 05:24 | ◎ 福島と戦争 | Comments(2)
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 「福島の戦争展」の位置を示すために掲げられた地図の№14が、模擬原爆の渡利着弾地点だ。この地図、今は福島駅南側から№14地点にかけた範囲が、模擬原爆とかかわる地点に見える。
 そういう見方に変えると、先に確認した模擬原爆のもう一つの目的が見えてくる。

 模擬原爆投下は、「人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練」+「充分な殺傷」を目的としていたということのようだだった。
 その「充分な殺傷」だ。
 渡利着弾地点だけでは見えなかったのだが、これが見えてきているのではないかなと思うのだ。計画で、福島の目標地点に二つの工場が示されるが、それは道義的な名目のために目標を軍事工場に置いているだけ。
 この模擬原爆のもう一つの本来の目的に、充分な殺傷を確実に実行できることも想定しているらしいということだった。
 この事を頭に置いて地図と見比べる。

 福島での投下目標地点は、道義的な名目のための目標として、福島の北西隅に位置する福島製作所と福島高校南にあった品川製作所だ。
 福島投下予定機B29の2機は、7月20日テニアン島を1時20分に飛び立っている。そのうちの1機が、エンジントラブルで引き返す。それで、福島投下予定機B29の1機だけになる。
 これが、福島上空に現れるのだが、福島まで来たところで、曇りで目視投下が出来なかったとのことだ。それで、上空9000m【高度3万フィート】からレーダーで投下したということだった。
 その投下地点が、投下目標地点に近い福島駅の北側ではなく、南側だったということだ。
 
 目視ができない状態で、レーダーでの投下なのだから、そのセットは福島駅の北側にもできたはずだが、道義的な名目より本来の目的である「充分な殺傷」が頭にあれば、これはどちらでもよいことだったのだろう。
 もっと勘ぐれば、「充分な殺傷」を試すには福島駅の南側の方がよかったという判断も無かっただろうかとも思う。そういう視点で地図を見れば、ずれがなければ駅があり、多少のずれなら県庁付近がある。ここに着弾なら大成功だったのかなとも、……。

 実際には、目標から逸れて、渡利の水沼に着弾する。これが、先の確認の情報では、8時33分。これがどちら側の情報だったか記憶にはない。
 経過とかかわる情報を新聞報道からも拾えば、「午前8時3分に大型機1機が現れ、雲の上をしばらく旋回して北東に機首を向けた時に爆弾を1個投下した。」ということであり、「投下後、そのまま北東部から洋上に向かった。」という情報につながるのかな。
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by shingen1948 | 2012-10-30 05:20 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 福島市に投下された模擬原爆の投下地点が福島駅の南側で、着弾地点が渡利沼ノ町であったという情報からは、地点ということに限定されずにイメージが広がる。
 その一つは、投下したB29と模擬原爆の関係のようなもの。
 投下地点から着弾地点へ流れた方向は、投下地点で与えられた力のベクトルを示すものであり、その距離は与えられた力の大きさを表すものだろうと想像される。つまり、投下したB29の方向と力(大きさと速さ)がイメージできるということだ。a0087378_428528.jpg
 ここらあたりの上空で、模擬原爆は投下されたのであろうということだが、少なくとも放出された時点で、B29は西から東に向かって力を与えたという事である。ということは、この西側からB29は飛んできたという事であり、その方向の先が、B29の福島盆地への進入路であろうと想像することができる。
 B29が福島盆地へ進入してきて空襲警報のサイレンが鳴り響くと直ぐに、模擬原爆は投下されたのではないかな。

 投下された模擬原爆は、渡利地区に放物線を描いて落ちて行くのだが、その間に住む地上の人々にとっては、その頭上を通過したということだ。その模擬原爆の上方には、上方に旋回するB29が重なっていたであろうか。あるいは、着弾地点確認のため、そのまま進行してきたという状況だったのであろうか。
 地上の方は、一瞬の短い時間ではあったろうが、上空を模擬原爆とB29が渡利に向かって飛んで行く姿を見たかもしれない。少なくとも、その頭上からB29の飛行音と5tの模擬原爆が落下する音は聞いて恐怖したはずだ。a0087378_4331228.jpg
 北にそんな状況を想像しながら天神橋まで歩いてみる。その間の北側方向には県庁があり、医大があり、(その時代の旧女子師範とのかかわりはこの時未確認)日赤がある。
 情報の中に、「爆音は福島まで轟き、福島駅近くの事務所のガラスも割れ、被害は半径2㎞に及んだ」というのがあるが、もしかすると、この福島市の爆音と福島駅近くの事務所のガラス割れは、この頭上を放物線を描いて落下する模擬爆弾と低空で通過するB29状況とのかかわりもあるのかもしれないとも思う。
 体験が聞こえてくるのは渡利からだが、投下から着弾までの時間の恐怖を、福島市内で感じた方もいらっしゃったのではないかなと想像する。
a0087378_4344930.jpg そして、渡利地区への着弾が、昭和20年(1945)7月20日午前8時34分。
 ここからは、先に整理した以下の情報につながる。

 当時14歳だった1人の少年が命を落とす。その状況は、投下地点から約30m離れた自宅近くの田んぼで草とりをしていたところを、爆風に襲われたということだ。また、農家2軒が焼けた事、破片が村中に飛び散ったことで、裸足で耕作できなくなったという。
 また、爆弾の落ちた地点の穴は約90mで、暫くは沼になっていたため、その辺一帯(現在のわたり病院○付近)を「沼之町」と呼ぶようになったとか。
 北に200mほど離れた学校のガラスも全部吹っ飛んだとあるのは、現在の渡利公民館だろうか。爆音は福島まで轟き、福島駅近くの事務所のガラスも割れ、被害は半径2㎞に及んだなどの状況が説明される。
 この爆弾の破片が瑞竜寺に残されたのは、亡くなった少年の父親が拾って、「息子のかたき」と寺に預けたものとのことだ。
 講演会で提示された投下と着弾の情報から、こんな想像をしてみた。
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by shingen1948 | 2012-10-29 05:27 | Comments(0)

模擬原爆と福島

 先に「福島の模擬原爆」を整理したが、14日に「模擬原爆と福島」という似たようなテーマでの講演会があるという事で出懸けてみた。
 講師は、福島民友新聞社論説委員紺野滋氏。講演内容は、「太平洋戦争時、福島市渡利に落とされた模擬原爆の正体をさぐる。併せて、この度の原発事故とかかわりについて」とのことで、後半の「この度の原発事故とかかわりについて」について付加されるのは、講師が、福島民友新聞社論説委員という肩書と時節からだろうか。
 それでも、興味は前半で、先に整理した「福島の模擬原爆」内容の整合性の確認。勿論、その内容に誤りがないかどうか確認したいという事もある。もし、新たな情報があれば付け加えたいということもある。

 この問題を確認していて感じるのは、落とした側には驚くほどの正確な情報が存在するのだが、落とされた側の情報は曖昧なものがあるということ。中には、落とした記録があるのに、落とされた側に記録がないというものまである。そこまではいかなくても、落とされた側の被害情報は記録されているが、これがその模擬原爆と意識されていないというものもある。更に気になったのが、落とされた側の記録も存在するが、正確な記録のみで、被害証言などの情報として生々しさに欠けるというものもあった。
 これらに、付加する情報が得られるかという興味だ。

 その情報の元が同じらしいということもあるのかもしれないが、自分が整理したものの少なくとも落とした側の情報を読み違えたものはなさそうだ。その内容において、とりあえず正確であったということのようだ。ただ、渡利の模擬原爆投下地点に想像との違いを確認できた。
 氏は、模擬原爆を投下した方から直接でその地点を訊ねたらしい。そこは、矢張り職業人だなと感心する。
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 さて、その投下地点だが、駅の南側を狙って投下しているらしいのだ。想像では、目標の二つの工場のどちらか、あるいは両方をイメージしていたので、少なくとも駅の北側をイメージしていたので、想像とは大きくずれたと感じた。
 7月20日午前8時13分ごろ、最初の一発が、新潟県長岡市の信濃川近くの畑に投下される。そして、午前8時34分に二発目が、福島市に投下されるのだが、その投下地点が福島駅の南側で、渡利沼ノ町に着弾する。位置関係は、左図のようだ。
 これが、今回得た情報で修正したいことの一つ。
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by shingen1948 | 2012-10-28 05:20 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 治承元年(1177年)反平家の機運が高まる中、「比叡山の強訴」が起きる。ドラマでは、この事件は平清盛が延暦寺と通じ合い仕組んだとするが、ドラマの創作部分だろうか。
 説では、事の発端は、加賀守・藤原師高の弟で、代わって現地に赴任していた藤原師経が、白山中宮の末寺・湧泉寺といざこざを起こして、末寺を焼き払ったことにあるらしい。それで、怒った白山衆徒が本寺である比叡山に訴えて、延暦寺の山門衆徒が師高・師経の解官と配流を求めて強訴の挙に出たということになるらしい。
 その後の師高・師経は西光(後白河院の側近)の息子ということで、後白河院は師経だけを罰して事態を収拾しようとする以降の強訴顛末の展開からは、ドラマも通説通りらしい。

 この事件の中の「軍兵の放った矢が神輿のひとつに命中した」というのが、第13話「祇園闘乱事件」とのかかわりで、苦労したことを思い出す。最近でこそ「平家物語」との照らし合わせはスムーズに出来るようになったが、この第13話あたりでは四苦八苦していた。ドラマでは、この時に「清盛は、こともあろうに強訴の渦中に、みこしへ一本の矢を射て、「神に向かって矢を射た」と朝廷・寺社・武家をまきこむ大問題に発展する」という展開になっていた。この時の強訴と今回の「比叡山の強訴」が混乱していたのは、この「軍兵の放った矢が神輿のひとつに命中した」表現だった。
 すっきりしなくて整理がまだだったようなので、第13話「祇園闘乱事件」の要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りしておく。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_13.html
 「祇園闘乱事件」
 久安3年、一門の繁栄祈願のため祇園社を訪れていた清盛一行は、僧兵ともめ、それがきっかけで延暦寺の強訴を招いてしまう。清盛(松山ケンイチ)は、こともあろうに強訴の渦中に、みこしへ一本の矢を射る。「神に向かって矢を射た」と朝廷・寺社・武家をまきこむ大問題に発展する。とらえられた忠盛(中井貴一)・清盛親子の処遇をめぐって頼長(山本耕史)と信西(阿部サダヲ)が対立。待賢門院(檀れい)なきあと、権勢をふるう得子(松雪泰子)のもとで朝廷内のパワーバランスも次第に変わり始めていた。平氏の武力と、それを率いる忠盛・清盛親子を流罪にすることは、王家・貴族の力関係にも大きく影響を及ぼすことになる、と朝廷内は揺れる。ついに、ことの次第を知っている僧兵・鬼若を証言者として呼び、詮議が始まる。清盛放逐派の頼長と弁護派の信西の果てしない討論が続く中、ついに鳥羽院(三上博史)は清盛と直接話すことを望み、検非違使庁へ向かう。

 今回の「比叡山の強訴」と「平家物語」との関連を確認しておく。
 事の発端にかかわるところで記した部分が「平家物語」第1巻「鵜川合戦」で、「軍兵の放った矢が神輿のひとつに命中した」あたりが、「御輿振」。そして、その祟りとして「内裏炎上」―「座主流し」―「一行阿闍梨」と続く。
 よそ見が好きな者としては、同時代の「方丈記」も気になる。
 この第2章は、20代の鴨長明が、平安時代の悲惨な災害体験の数々を伝える部分なのだが、この最初の災害として描かれる安元の大火と「内裏炎上」が重なるらしい。この時、鴨長明23歳。
 ドラマの時代背景としてイメージを重ねながら読み直してみた。その解説で確認すると、「平家物語」の「内裏炎上」の方が、逆に「方丈記」の描写を借りているのではとも。

 第41話「賽の目の行方」の要点もエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_41.html
 「賽の目の行方」
 1177年、加賀国白山の鵜川寺で目代・藤原師経(清水優)が僧ともめる。師経は西光(加藤虎ノ介)の息子。鵜川寺の本山である比叡山延暦寺が後白河(松田翔太)と西光をこらしめるために山門強訴をおこす。後白河はいよいよ重盛(窪田正孝)に武力の出動を発令。重盛らは内裏を警護するが、神輿(しんよ)に重盛の家人が矢をうってしまい、問題となる。だが、朝廷により処分されたのは西光のふたりの息子、師経と師高だった…。事の次第と、背後に父・清盛(松山ケンイチ)のたくらみがあることを知り困惑する重盛。一方、伊豆では時政(遠藤憲一)が、娘の政子(杏)に平家ゆかりのもとへ嫁ぐことを勧めるが、政子は頼朝(岡田将生)にひかれ始めていた。
 この回の視聴率は、7.9%との事。最低記録更新かな。
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by shingen1948 | 2012-10-27 05:20 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
 時の流れとかかわらせて梁川を見るようになったのは最近の事。若い頃は、どちらかというと地質的な興味が強かった。その視点での見え方は、広瀬川の少し上流に、霊山層と梁川層の境界線があり、貝の化石、サメの歯などの化石などが採れる所もあるということ。
 有名なのは、昭和59年(1984年)8月にこの川の河床で良好な保存状態のまま発見された梁川化石パレオパラドキシアだ。パレオパラドキシアは、今から1500万年から1600万年前に生息していた古代の大型のほ乳類だ。伊達市観光ポータルサイトに、復元骨格と復元想像図が載っている
 http://www.date-shi.jp/kanko_date/yanagawa/bunkazai/kaseki.html
 同じ場所を時の流れとかかわらせて見れば、城跡とかかわって、そこは桝形経由桜舘(屋敷跡)の道筋が見える広瀬川沿いの風景ということにもなるということ。

 子育ての時期は、梁川希望の森へ出かけたのだが、実は、その風景を完全に思い出していなかった。あの時の風景がポツンポツンとは見えるのだが、それが記憶とうまく結びついていなかったのだ。今回は、その確認をしてみた。
 阿武隈急行を利用して、梁川希望の森駅で下車して、梁川町営プールで泳いだこともあったし、SLで梁川希望の森公園の滑り台で遊ばせたり、ロッジを借りてキャンプのまねごとをしたりもした。
 今回の指定駐車場は梁川プールで、ここがその時の梁川町営プールのはず。その駐車場から眺めると、確かに梁川希望の森駅が見える。
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 確認すれば、どうということはなく、この駐車場から出て東に向かう道筋が、梁川希望の森への道筋で、この右手がSL乗り場。
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 線路沿いの道筋を確認して、SL乗り場東口を確かめる。そのまま道筋を進めば、懐かしい風景につながった。

 子育ての時期とかかわってふと思い出したのが、子供が化石に興味を持って、同じような興味を持った友達の母親とご一緒させていただいて化石探しに来た時に、親切に案内してくださる町の方に出会ったとかという話を聞いた事。
 同時に、子供が、意気揚々と学校で理科の先生に話したら、それが化石のはずがないと言われて意気消沈で、一気に熱が冷めた事。
 その先生、他所で理科教育の権威者として出世したというのは後日談。
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by shingen1948 | 2012-10-26 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回の説明会の帰り道、現地説明会に参加したことのある舟橋北遺跡を確認してみたくなった。
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 この舟橋北遺跡の調査は、梁川駅前から西に市道が伸びるように建設されることに伴う調査だったので、消滅しているのは分かっている事。
 ここでの調査の成果としては、以下の三点が整理される。
 ① 奈良時代以前の遺跡遺物
 ② 奈良時代以降平安時代前半までの集落跡
 ③ 鎌倉時代前期の屋敷跡

 自分として興味深かったのは、鎌倉時代の屋敷跡とされるところから見つかった木組みの井戸跡だろうか。
 しかし、話題の中心は、奈良時代以降平安時代前半までの集落跡だろうか。
 その建物跡の中に、住居跡と共に、その並び方の計画性などから役所に関わる倉的なものが想像されるものも含まれていた。
 「福島民報」の記事では、その建物について「当時、静戸郷(しずりべのごう)と呼ばれた周辺地域の役所か、分庁舎のような機能を果たしていたと考えられるという。」といういい方をしていた。そのことは、「舟橋北遺跡現地説明会④」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9182843/
a0087378_17575154.jpg もっと注目されたのは、銘のある蓋だった。文字が彫られた土器は奈良時代の土師(はじ)器のふたで、両面黒塗りだ。そこに表に鋭利な道具で引っかいたように「真刀自」と彫られている。
刻まれた「真刀自(まとじ)」の文字は位が高い女性の名前を示しているとのことだ。
「刀自」は、年配の女性の敬称で、家事を取り仕切る「戸主(とぬし)」が語源という説があるという。ここに、「真」という力を持った女性か、位の高い人物の妻が、この地に住んでいたと想像できるということのようだった。
 その遺物は、今回の発掘地点の中心部にあたる住居跡から発掘したようで、この住居跡は、平安時代の建物跡と一部重なっているが、奈良時代の建物跡とされた。そのことについては、「舟橋北遺跡現地説明会②」として、整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9174078/
 その後、この「真刀自(まとじ)」にかかわって、地方紙「福島民友(2009/11/4)に、鈴木氏が、寄稿文を寄せていた。「真刀自」は、小倉郷に「真祢麻呂」という方がいるが、その方の夫人ではないかということだった。
刀自は夫人の尊称なので、「真○○夫人」ということになるわけだが、それが真祢麻呂夫人ということではないかということだ。これらのことは、「船橋北遺跡現地説明会の後で②~「真刀自」の刻字」として整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9218563/ 
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 この舟橋北遺跡の南には舟橋遺蹟があり、道を伸ばしてつないだ方向には東土橋遺跡がある。いずれも平安から近世の遺跡と考えられているらしい。この辺りから南側にかけても遺跡の宝庫らしいが、こちらは、現在の便利さを求める開発を優先させて折り合いをつけたようだ。
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by shingen1948 | 2012-10-25 18:00 | Comments(0)
 指定された駐車場が、梁川プールで、ここから発掘現場に向かう途中、梁川中学校の向かいのプレハブ建物が、梁川小学校と表示されているのを見た。
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 家に戻って確認すると、梁川小学校は2011年3月11日の震災で使用不可となったことで、子供達は梁川中学校、梁川高校にわかれて学んでいたということらしい。それが、2012年2月になって、この仮設校舎への引越しをしたという状況のようだ。

 詳しく確認すると、震災直後は、梁川中学校に校長室と職員室を置いた上で、富野・五十沢・白根・山舟生小学校などの空き教室を活用して授業を再開するという計画もあったようだ。
 そんな中、原発事故によって学校敷地の放射能に汚染された表土の仮置き場という新たな問題が派生する。梁川の学校は、梁川城の史跡に建つ。特に、小学校は梁川城本丸の史跡になっているために埋設できないという状況となり、2011年11月には、幼稚園・仮校舎建設地・小学校・中学校の表土を、小学校校庭にコンクリート壁で囲って置くことになるという。
 しかし、3月には、仮置きされた汚染された表土をどけて、卒業式を旧小学校体育館で行ったとか。

 以下は、2012年2月に、この仮設校舎への引越すことを報じる「KFB福島放送(2012/2/28)」の情報。
 伊達市の梁川小は、27日から梁川中に隣接する仮設校舎で授業を開始した。2カ所に分かれて登校していた児童にとって待望の校舎。全校児童492人が久しぶりに一堂に会し、全校集会が開かれた。約11カ月間、梁川中と梁川高の校舎に間借りして授業を行ってきた。高校生のじゃまにならないよう、2階の奥の教室に行くときもいったん3階に上がり、廊下を通って再び2階に下りていた。また、6年生は2教室に3クラスが入り、カーテンで仕切って授業した。児童は「机がぎっしりで、通るのに苦労するほどだった」と話す。体育は挌技場で行った。仮設とはいえ、真新しい校舎に児童は大喜び。「みんな一緒に通えてうれしい」と笑顔を見せた。

 なお、震災に伴うこれら一連の動きの前に、2009年7月には、梁川小学校校舎の老朽化に伴う改築・移転のための検討委員会が設置されるという状況の中で、これ等震災に伴う状況が重なったという事でもあるようだ。
 その移転計画の背景には、現在地が梁川城本丸跡であり、福島県指定史跡を受けている史跡であることとかかわるようだ。市(町)では、ここから小中学校を移転させていく方向性で、梁川中学校が新築移転が完了しているという状況下だったらしい。それが、今回の大地震のために、その計画を早めざるをえない状況になったというような経緯もあるらしい。
 その開校予定が平成28年度とのことだが、市の提案する蚕業試験場跡地という場所をめぐって、防災の観点からいろいろな問題提起もされているらしい。ただ、学校、特に小学校には、その町の精神的な中心を形成する機能も持ち合わせている。表面に現れていないこの町の精神的な中心を形成する機能の移動に関する抵抗感のようなものもあるのだろうなと想像する。
 歴史ある街が、新たな街づくりに挑戦するための悩みは、深そうだな。
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by shingen1948 | 2012-10-24 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 昨年度、出土品については、「梁川城現地説明会に出かける⑤~調査地点の意義を感じてみる③」で整理している。それは、「大規模火災が起きた事」や「大規模な建物跡が検出された事」について、区画溝や出土遺物と検出された掘立建物跡をからみ合わせることで語る事が出来るということらしいからだった。
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 本年度頂いた資料では、「出土遺物は、主として、火熱を受けた赤褐色を呈する建物壁材と思われる粘土塊・かわらけ・白磁(碗)・青磁(碗・盤)・中世陶磁(甕など)・瓦質土器(擂鉢・火鉢・風炉)・鉄製品・銭貨など」「少量だが漆塗の碗・炭化米・植物遺体・砥石・軒丸瓦など」と記される。「中世陶器では、越前系・古瀬戸系・常滑系・在地産系のものなどが出土している」とも。
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 この中で、「大規模な建物跡が検出された」とこの建物跡の性格付けとかかわる出土品が、青磁(碗・盤)・白磁だと思うが、資料では、「特に、青磁の中でも高級品とされる盤と思われる破片」だとする。
 出土品に、位の高い人が利用する青磁盤などが確認されたことから、検出された寺院か武家屋敷大規模な建物は、位の高い人がかかわるという性格付けになるのかな。

 昨年度の説明だったか、西山城の説明だったか、あるいは別の機会だったかは忘れたが、越前焼きについて気になる情報を耳にしている。
 それは、越前焼き自体は福井県で造られた製品で、高位の人の使用と限定できるものではないとのことだが、県北地方では、伊達氏とのかかわりを想像させる出土品ということらしいということ。というのは、県北地方では、伊達氏と深く関わりのある遺跡だけで見つかっているということらしいという情報。この当時、日本海側の製品は太平洋側ではあまり流通していないのに、この越前焼は、桑折西山城跡でも見つかっているとも。
 この事を考慮すると、この建物が、街づくりに伊達氏がかかわった所に建つ事こととも併せて、この建物にかかわる人は、伊達氏にかかわる「位の高い人」と言う事になるのかな。

 この中で、「大規模火災が起きた事」とかかわるのが、「火熱を受けた赤褐色を呈する建物壁材と思われる粘土塊」かな。釘などの建具にかかわる鉄製品もかかわるのかもしれないな。
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 本年度、紹介された中で興味深かったのは、少量の漆とともに、漆で修理された瓦質土器。「中世陶器在地産」と表示されたものだが、その表面が、こんな様子。
 貼った部分が今でもしっかり接着されているとか。


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 「笄」と表示されたこれは、<こうが>と読むのか<かんざ>と読むのかな。髪にさす男性用だとか。手前突起は、かゆいところがかけるようになっているのだとか。

 「かわらけ」だが、この素焼きは、主に武家の儀式の際に宴の杯として使われるもので、武家屋敷跡の可能性とすることとかかわる出土品とのイメージ。ただ、煤がついていれば、灯明の容器として使われたとすることもあるらしいことは、ここでの情報だったかな。
 寺かもといいながら、遺物にそれらしきものが見当たらないので、確認していく中で出会った情報だったかも。
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by shingen1948 | 2012-10-23 05:43 | Comments(0)
 「平成24年度梁川城現地説明会」に出かたことについて、もう少し続けたい。
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 これが、掘立柱建物跡が見つかったとされる11トレンチとされるところ。中心的な説明はここで受ける。新聞報道で伝える「大規模火災が起きた事」や「大規模な建物跡が検出された事」についても、ここで解説される。

 この辺りは、昨年度しっかりとした柱跡が多数見つかったという状況があった昨年度の第5トレンチ、第6トレンチ、第7トレンチとされた試しぼり部分の第6トレンチ、第7トレンチあたりが拡張確認されたところのようだ。
 その昨年度「しっかりとした柱跡が多数見つかったという状況」については、「梁川城現地説明会に出かける⑦」で整理している。そこの拡張確認作業から、掘立柱建物跡が検出されたということなのだろう。
 http://kazenoshin.exblog.jp/14221641/ 

 建物跡として検出できそうな柱跡の様子については、その柱跡を紐で結んでくださる。幾つかの建物跡が重なる中に、東西に張られた紐の柱跡部は、他の柱跡と比べてかなり大きいことが分かる。
 本年度の説明資料にある「しっかりとした柱穴が区画溝と並行及び直行する形で検出された」とされる部分で、「その柱穴の規模が30~70センチmで、本丸の調査で確認された柱穴よりも大きい柱穴が確認された」とする部分のようだ。
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 新聞報道に、「見つかった柱穴は本丸跡の柱穴最大40㎝よりも大きい。力を持つ人物の蔵や寺院などの建物が建っていたと推測される」とある部分のようだ。
 一部彫り込みを行った中に、柱穴の底面に柱材が遺存しているものもあるのは、こちらかな。彫り込みを行った様子が見えるのが2か所あるが、他方はおき石らしい脇の彫り込みのよう。

a0087378_436749.jpg 「しっかりとした柱穴が区画 溝と並行及び直行する形で検出され、その柱穴の規模が30~70センチmで、本丸の調査で確認された柱穴よりも大きい柱穴の『力を持つ人物の蔵や寺院などの建物』と想像される建物跡は、この10トレンチの東側まで、続いているらしい。

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 この建物跡の南と西の方向の掘立建物跡の範囲は確認できているようだが、北と東の方向の範囲の確認はまだのような気がする。
 その建物の南西隅から眺めると、こんな感じ。建物の周りの溝跡・土抗の様子が視野に入るというイメージかな。

 これが、今回の調査で見えてきた「室町時代15~16世紀を中心とした伊達氏に関連の深い寺院或いは武家屋敷跡と考えられる建物」の様子ということかな。
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by shingen1948 | 2012-10-22 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)