ANA国内線【PR】

<  2012年 02月   >

  • 奥州街道浜田町付近②
    [ 2012-02-29 05:20 ]
  • 奥州街道浜田町付近
    [ 2012-02-28 05:23 ]
  • 上条古墳群付近②
    [ 2012-02-27 05:20 ]
  • 上条古墳群付近~腰浜廃寺とのかかわりで
    [ 2012-02-26 05:20 ]
  • 腰浜廃寺と上条古墳群付近
    [ 2012-02-25 05:57 ]
  • 腰浜廃寺付近③
    [ 2012-02-24 05:24 ]
  • 腰浜廃寺付近
    [ 2012-02-22 05:20 ]
  • 北五老内町遺跡付近②
    [ 2012-02-21 05:20 ]
  • 北五老内町遺跡付近~2012の立春の頃の風景⑪
    [ 2012-02-20 06:03 ]
  • 「福島市環境部環境課放射線モニタリングセンター」~2012の立春の頃の風景⑫
    [ 2012-02-19 05:37 ]

奥州街道浜田町付近②


 現在の情景としては、市街地の一区画でしかない。しかし、その原風景としては、福島城下から仙台方面の大木戸を過ぎたこの辺りの街道筋は田園風景が広がり、その左手にこの観音堂があったということだろうか。その頃、その手前の五老内地内の長者伝説が語られていたものかどうかは分からない。

 この観音堂脇に案内板が建ち、別当寺という腰浜町の寺と町内会が「鼻取地蔵」の伝説を紹介する。
 鼻取地蔵
 むかしむかし、ある農夫がひとり、汗水を流し、田んぼを耕していたところ、どこからともなく男の子がやってきて、馬の鼻綱を引きながら農夫の手伝いをしてくれた。その甲斐あって仕事が一段落。農夫は男の子にお礼を言おうと辺りを見回してみたが、どこにも男の子の姿が見えない。「あれ、おかしいぞ」と思った農夫は辺りをくまなくさがし回った。しかし、見つけることが出来ないまま、気づけばお地蔵堂にまで来ていた。ふとお地蔵様を見てみると、ずぶ濡れの上に足元は泥だらけ。顔を見るとどことなく先程の男の子に似ているではないか。農夫はこのお地蔵様が男の子になってお手伝いしてくださったのだと悟り、大いに感謝し、その後毎日のように参拝に通ったという。
浜辺村五良内にあったというそのお地蔵様は、その後「鼻取地蔵菩薩」として子どもたちをお守りくださり、苦しみから救ってくださるお地蔵様として皆の信仰を集め、やがて地蔵堂が再建され、貞享2年(1685)龍鳳寺5世超山祖全和尚以来4代に亘って地蔵堂に隠居され、引き続き龍鳳寺の別当として現在に至っています。
(後半略)
 平成21年11月吉日
 腰浜町 龍鳳寺
 五老内町内会
 当時町名は、この辺り、「浜辺村五良内」かな。

by shingen1948 | 2012-02-29 05:20 | ◎ 奥州街道 | Trackback | Comments(0)

奥州街道浜田町付近

 散歩資料を確認すると、奥州街道浜田町付近は、スポッと抜ける。
 福島城下の散歩資料では、旧奥州街道の仙台口の大木戸とされる現マーケット付近までが紹介される。また、この北側の付近は、信夫山とのかかわだったり、瀬上宿とのかかわりだったりしながら紹介される。

 確かにこの付近、これといったものは無さそう。ただ、個人的には懐かしい。
 現マーケット付近は、元明治末年からの青果市場だったはずで、昭和47年に矢野目に移転したという状況。
 学校群あたりは、福大学芸学部(教育学部)。その向かいには、その学生を見込んだ飲食店等々が並んでいたその名残りの風景。その北側と東側には、その学生を見込んだ下宿屋、アパートが並んでいた。そんな風景を思う。
 北五郎内遺跡で税務署とされた地点には、自分の記憶では済生会病院が建っていたはず。これが、最近移転して、競馬場の駐車場になっている。


 その福島競馬場も、昨年は開かれなかったはず。これが、地震被害なのか、原発被害なのかは分からない。
 
 そして、この道路にチンチン電車が走っていた。その駅は、市場前、福大前、桜木町?だったかかな。
 そこに、今回は西に信夫郡家の正倉院跡を、学校群の東に腰浜廃寺をイメージしたということ。

 その間の鼻取り地蔵尊と天満宮が鎮座するのにあれっと気づいたのは、最近だ。
 「ふくしま散歩」にこの伝説が、紹介される。伝説の類は、その整理を避けてきたところではあるが、そちらも整理してみるか。

by shingen1948 | 2012-02-28 05:23 | ◎ 奥州街道 | Trackback | Comments(0)

上条古墳群付近②

 先に上条古墳群付近を散歩した事については、整理していると思っていた。
 本宮市庚申壇古墳の現地説明会に出かけたのは、2007年頃だったろうか。この古墳は、古墳時代中期以降における福島県中通り地域中部の有力首長墓群である七ツ壇古墳群の中の一つの古墳で、墳長約40mの前方後円墳とのことだった。

 この発掘調査の前に、上条1号墳の発掘調査をしていたとのことで、その報告書を確認して散歩した。現況では1号墳しかないが、報告書では、他の消滅した古墳群の位置も示されていたので、イメージを膨らませながらその辺りを散歩した。
 現在、震災の影響で図書館が完全復旧しないので、気軽に資料確認ができないが、その時の記憶では、この付近から115号線国道付近にかけての範囲に分布していたということだったはず。
 「ふくしまの歴史」によれば、その2号墳(円墳15m)の横穴式石室から金銅製圭頭太刀の柄頭(6世紀後半~7世紀前半)・八窓倒卵型鐸・鐸の金具・ガラス製小玉が出土したとあるが、今はその2号墳の位置記憶はあいまいだが、それらの遺物を念頭でイメージと結び付けて散歩したはず。

 上条1号墳は、見た目は、二つの丘陵があって、その北側の丘陵の石積みの上に祠があるというような状態だが、これが「6世紀後半に築造された墳長46mの前方後円墳」とのことだ。

 丘陵の石積みに見えるのが、「後円部の横穴式石室が一部露出」した状態ということだ。
 その埋葬施設の横穴式石室は、一枚石の奥壁を持っていて、その床面に礫が敷かれていたということだったらしい。

 その内部の様子が見える写真が、2008「福大考古学室所蔵資料特別展示」案内ポスターにあった。

 「ふくしまの歴史」の発行を確認すると平成17年(2005)だ。僅か数年の間の記述される内容に変化があることを実感する散歩でもあった。 

 なお、この近くの「日向古墳群」を散歩したことについても整理していないのかなと思ったら、こちらは、「忘れ去られる古墳群」①~「日向古墳群」 として、整理してあった。

by shingen1948 | 2012-02-27 05:20 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Trackback | Comments(0)

上条古墳群付近~腰浜廃寺とのかかわりで


 上条古墳群の状況について、「一号墳は、削平により今は二つに分断され、後円では横穴式石室が一部露出している。」とある。
 これが、その露出した横穴式石室だろうか。この石の上に、祠が祀られる。
 この南側にある墳丘が、前方墳にあたる部分なのだろう。



 また、「当古墳群では、前方後円墳の1号墳以外は墳丘が残っておらず、2号墳と5号墳の石室に使用されたと思われる石材がわずかに散在しているのみである」とする。
気になって撮っていたこれも、それとかかわるようなものなのだろうか。

 腰浜廃寺付近の散歩は、整理し難い。
 それは、その建物自体が特定されないという曖昧さだけではなさそうだ。いろいろな歴史的な状況の要的な要素があって、意味づけの複雑さもある。その可能性の絡み合いの複雑さに曖昧さが加わっていることがある。しかも、これらの絡み合いが、きちんと説明して頂けないということもあるように思う。

 その中の一つの意味づけが、腰浜廃寺は、北五老内町遺跡が信夫郡衛と想定した場合には、郡衛に付属した寺としての位置づけになるという歴史的な役割を担うこと。
 しかし、腰浜廃寺は、多賀城以前から存在するということからは、信夫評造(大領)となった豪族の方の私寺という想定も成り立つということ。
 更には、信夫評造(大領)となった豪族の方と近くの古墳群のかかわりから、2004年の測量調査で、福島盆地最大級の後期古墳と推定される上条一号墳と信夫評造(大領)との関係性というふうな想定が広がっていく。
 特に、伊達郡衛も明らかでない中、桑折町の錦木塚古墳の被葬者が信夫国造だった可能性も想定されていた桑折町の錦木塚古墳を上回ったということが、注目されることのようだ。
 それで、この上条古墳群あたりまで足を延ばしたという経緯だ。

 対抗の錦木塚古墳は、「律令国家とふくしま」によれば、世紀前半頃の切石積みの整美な横穴式石室を有した古墳で、この被葬者が信夫国造だった可能性もあるとされているらしい。
 なお、福島県ホームページでは、伊達郡は所在不明とするが、その候補地としては、そのコホリの名称から桑折町と、国見町徳江廃寺が、その附属寺院の可能性として想像されているらしい。
 また、「ふくしまの歴史」では、上条1号墳の発掘調査はされていないとするが、2004年に福島大学が測量調査した後、2005年、2006年にこの1号墳を発掘調査したらしい。上条古墳群調査としては、福島市教育委員会が3回調査しているとのこと。

by shingen1948 | 2012-02-26 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Trackback | Comments(0)

腰浜廃寺と上条古墳群付近

 北五老内町遺跡は、古代信夫郡を治めた郡衙の候補地であり、腰浜廃寺は、信夫評造(大領)の私寺で、7世紀末に信夫郡寺に昇格したということで、この辺りを散歩してきた。

 2001年発行の「律令とふくしま」では、北五老内町遺跡が信夫郡衛で、腰浜遺跡が郡衛に付属した寺ならば、信夫郡衛が、上条古墳群を造営した豪族の近くに営まれる事に視点を当てる。
 上条古墳群の1号墳の被葬者が信夫クニの国造であった可能性を指摘する。ここには、先にも立ち寄ったが、足を延ばしてみる。
 ただ、塚野目古墳4号墳の被葬者の可能性もあるとする。

 もし、上条古墳群の1号墳の被葬者なら、福島盆地の最有力者でない人物をあえて信夫国造に任命したことになり、塚野目古墳4号墳の被葬者なら、信夫のコホリの設定あたって、評督に任ぜられるのは、コホリにおける最有力の豪族ではなかったことになるとしていた。

 この辺りの遺跡は、資料の年代によって表現が微妙に変化する。
 2006年には、以下のような表現に変化する。これは、この遺跡が福島大学の2004年実測で、50m規模の古墳とされ、福島盆地最大級の古墳とされたこととかかわるのかもしれない。
 上条古墳群は、信夫郡衛と考えられる北五老内町遺跡、その附属寺院の腰浜廃寺に最も近い場所に位置し、かつ東北最大級の後期前方後円墳を含むことが明らかになったとし、福島盆地地域間関係、信夫評成立期における各勢力の動向など、古墳時代後期から終末期の社会像を読み解く遺跡として注目される。

 先に立ち寄った時には、単に福島盆地の古墳巡りだったが、今回は、意味づけられた関連遺跡間を歩ってきて立ち寄った。その感慨の違いを味わう。

by shingen1948 | 2012-02-25 05:57 | ◎ 奥州侵略の路 | Trackback | Comments(0)

腰浜廃寺付近③

 腰浜廃寺について、昭和42年3月発行の「福島のあゆみ」では、以下のように記す。
 福島の腰浜からは、たくさんの布目瓦や、礎石(土台石)・焼き米などが発見されているところから、かなり大きな寺院があったらしく、この菩提寺の記事と、何か関係があるようにも思われます。
 主文では、菩提寺とのかかわり等を意図して、布目瓦の方を紹介する。
 その後半で、二種類の瓦について、以下のように解説する。
 腰浜から出る瓦は、蓮花文系と花文系の二つのグループに分かれています。蓮花文系の瓦は奈良時代の終わり頃、岡島の宮沢の窯で大量に焼かれたものであり、花文系の瓦は、平安時代の初め頃、山口の赤埴の窯をはじめ、渡利の三本木などでも焼かれたようです。


 「ふくしまの歴史」と照らし合わせると、大規模な発掘調査は、昭和35年(1960)~昭和38年(1963)に行われ、奈良から平安にかけての遺跡と推定したらしい。その成果を「福島のあゆみ」に直ぐに取り入れたということらしい。
 その時の様子の写真が、この神社前の空間であり、ここに「腰浜廃寺跡」の案内柱が建つという事情らしい。

 ただ、ここで腰浜廃寺が菩提寺とかかわるらしいとする推定は、今では、西原廃寺がそれとするらしい。それは、腰浜廃寺は、9世紀前半に廃れること、これの瓦の流れを受け継いだ西原廃寺が建てられるのが9世紀前半ということで、こちらが定額寺となった菩提寺だと考えているようだ。

 今は、この時点の推定よりもっと古いということが、注目されているというとこらしい。
 昭和53年発行の図版「福島の歴史」では、以下のように解説される。
 この瓦は白鳳時代の瓦とされる広島県寺町廃寺や岡山県の大崎廃寺から出土する重圏文縁で水切りをつけた瓦文に酷似していて、8世紀を下らない東北地方最古の瓦で、単弧文平瓦を伴っている。
 東北地方最古の意味には、当然多賀城以前ということで、「ふくしまの歴史」では、権威者の名をあげて、この寺が飛鳥時代まで遡ると紹介する。
 「ふくしまの歴史」では、腰浜廃寺跡が、北五老内遺跡とかかわって信夫郡衙と推定するという辺りまでふれるが、この遺跡、もっと想像を広げさせるらしい。 

by shingen1948 | 2012-02-24 05:24 | ◎ 奥州侵略の路 | Trackback | Comments(0)

腰浜廃寺付近

 自分の住んでいた辺りを確認してみる。
 昔を懐かしく思うようになるのは、先に心細さしかなくなった時とのこと。

 記憶にある道筋をたどるが、当時の面影はない。確かお店の隣だったはずなので、その店が頼りだったが、この辺かなというあたりに、店らしきものはない。
 ぐるりと見回すと、その商店名と同じ表札が掲げられた民家があった。それを目印に周りを見回していると、何となくこの辺だったと思えてきた。
 その記憶をたよりに、阿武隈川方面に向かう。当時は、その辺りは畑地だったはずだが、びっしりと民家が建ち並ぶ。その向こうに、記憶と一致する建物を見つける。何となく、その頃の記憶が蘇ったような気分になる。

 その感覚をもとに、稲荷神社を探す。
 稲荷神社にこだわるのは、腰浜廃寺跡調査状況の写真には、その脇に稲荷神社が写っていたことと、この辺りに住んでいた記憶を結び付けたかったからだ。

 その「腰浜稲荷神社」前には、白い案内柱が建っていて、直ぐにそれと分かったが、記憶には結びつかなかった。当時、関心がなかったからだろう。

 鳥居脇に、「腰浜廃寺跡」の案内柱も建っていた。
 特に案内はない。以下は、「ふくしまの歴史」よりの引用。
 腰浜廃寺は、信夫評造(大領)の私寺で、7世紀後半ごろに朝鮮半島の百済系の瓦を用いて建てた東北地方で最も古い寺院です。7世紀末に信夫郡寺に昇格します。

 更に、金堂の基壇は、23×19mで、多賀城より大きく堂々とした寺院であり、信夫郡家・郡寺は、朱塗りの柱・青い瓦の壮大な建物群が並ぶ、見事な景観であったことだろうとの紹介。

by shingen1948 | 2012-02-22 05:20 | Trackback | Comments(0)

北五老内町遺跡付近②

 手持ち資料を確認すると、昭和42年発行の「福島のあゆみ」には、北五老内町遺跡は登場しない。子供向けだからということだけではなさそうに思う。
 昭和58年発行の図版「福島市史」には、この北五老内町遺跡が紹介される。
 その紹介のされ方は、条理制遺構についての説明があって、腰浜廃寺と五十辺舘にもその地割と考察される遺跡があるとして、その間にある遺構だとして、次のような状況だと解説する。
 古瓦や土器が出土し、多数の炭化米の層があり、礎石が発見されている。古代信夫郡を治めた郡衙の候補地である。


 これに、その炭化米だとする写真と、長島正夫氏の描く北五老内町付近の炭化米出土分布図として88点プロットした図を掲げている。その範囲は、ABCDで囲まれた範囲の赤線で囲った辺りだ。
 今回頂いた資料では、西に道路1本広めの範囲を点線で示しているらしいことがわかる。
 「ふくしまの歴史」ダイジェスト版から、昭和40年(1965)頃、この範囲から多くの焼米が出土して、信夫郡家の正倉院跡といわれていたことと、平成16年(2004)の工事立会調査で、一面に厚く積み重なった焼け米が出土して、正倉院跡以外には考えられない遺跡としたらしい経緯が伺える。

 青文字は、この「炭化米出土分布図」に表示されたもので、現在は給油所以外はここにはない。C地点の職安としたのは、税務署とされていたものを間違ったのだが、自分の記憶の中では、ここは済生会病院付近。
 この図では、その済生会病院から西に延びるこの図の一本北の道筋に「旧松川跡」だと印す。そして、その南側に河岸段丘筋と考えたらしいラインが入る。説明はないが、炭化米出土としてプロットされる範囲は、このラインの南側ということらしい。

 河岸段丘筋と考えたらしいラインは、一本西の道筋と済生会病院から西に延びる道筋の交点付近から眺めると、イメージできる。
 都市化された風景の中にこの高低差を意識することはなかったが、この高低差がその範囲のイメージの手助けもしてくれる。


 これは、C地点から南を眺めているが、旧4号線の道筋は、奥州街道の道筋でもある。その道筋の西側に信夫郡家の正倉院跡らしい焼け米の出土地が分布するという位置関係だ。

by shingen1948 | 2012-02-21 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Trackback | Comments(0)

北五老内町遺跡付近~2012の立春の頃の風景⑪

 「2012の立春の頃の風景」を求めて付近を散歩しながら、浜田町あたりまで足を延ばした。若い頃、このあたりに住んでいたのだが、この辺りの変化が激しくて、その思い出と景色が結びつかない。昔住んでいた辺りがどこだったのかさえ分からなくなっている。
 確認していくと、信夫郡衙の付属寺院とされる腰浜廃寺跡の近くに住んでいたということらしい。
 その辺りも確かめてみたいという思いがあった。

 先の講座「『ふくしま』を知る」で頂いた資料では、その遺跡は実線で示されるが、その正倉院(米倉)とされる北五老内町遺跡は、その範囲を点線で示されている。
 郡衙は、基本的には正倉院(米倉)と郡庁(行政施設)と付属寺院、それに館(宿舎・厩)とそれにかかわる厨院(調理棟)など約四十棟で構成されるという。北五老内町遺跡は、その正倉院(米倉)と考えられているらしい。

 福島市のホームページによると、北五老内町周辺では、昔から焼き米が発見されていたという。具体的に、花園郵便局北側のガソリンスタンド建設敷地の溝の中から、籾殻がついたままの焼米が、約30㎝の厚さで発見されたことも紹介する。
 そのガソリンスタンドが、ここだろうと推定する。

 こういう遺跡の認識の経緯は、大概は、先に長者伝説のようなものがあって、その辺りを調査することで、焼き米などが出土し、郡役所らしい事が特定されていくということのようだが、ここはその辺りが少し違うような気がする。
 想像でしかないが、遺跡としての認識がない所から焼き米が出土するということが先にあって、それが腰浜廃寺等とのかかわりから、遺跡としての可能性の認識になったという経緯なのではないかと推定する。
 点線で示されるのは、そんな事情ではないかと勝手に推定する。

 ただ、福島市のホームページでは、「北五老内町周辺に郡役場があった可能性が高い」として、北五老内町に郡役所を想定し、ここにその遺跡を完結したいような感じが伺える。「建物や、建物に使われた瓦や郡役所で使われた土器などはまだ発見されていません」との表現をしている。
 これを、福島県のホームページでは、信夫郡の郡衙としてのイメージを、北五老内町遺跡と腰浜廃寺跡も含めた腰浜遺跡をセットにしているように思われる。
 どちらにしても、郡役場のイメージは曖昧のままという感じだろうか。

by shingen1948 | 2012-02-20 06:03 | ◎ 奥州侵略の路 | Trackback | Comments(0)

「福島市環境部環境課放射線モニタリングセンター」~2012の立春の頃の風景⑫

 「東日本大震災」の地震による被害にかかわる風景は、人間の小ささとかはかなさといった思いの延長線の感覚をいだかせる。

 これは、市の児童公園から見た元児童文化センターだが、これは「東日本大震災」の原発事故に伴う被害にかかわる風景でもある。こちらの風景にいだく感覚は、地震による被害にかかわる風景にいだく感覚とは全く違う。



 正面にまわれば、ここには「東北大学福島第一原子力発電所事故対策本部福島市分室」と「福島市環境部環境課放射線モニタリングセンター」の看板が掲げられる。

  「元児童文化センター」=「東北大学福島第一原子力発電所事故対策本部福島市分室」・
「福島市環境部環境課放射線モニタリングセンター」という違和感であり、更に、その隣に「福島市児童公園」があるという風景にかかわる違和感だ。

 児童文化センターは、その建物の老朽化もあって、その機能は、駅前の「コムコム」に移動した。また、児童公園も地味な施設である。違和感を持つのは、子供が小さい頃に活用させていただいたせいなのかもしれない。
 これが日常の風景にあって、その日常の風景が変質していく様とみているのかもしれない。

 それでも、これも来年の立春の頃には、日常の風景に溶け込んでしまうのだろうと想像すれば、頭に時限をつけた「2012の立春の頃の風景」ということだろう。
 原発事故に伴う被害にかかわる風景は、人間の性にかかわるドロドロとしたイメージを抱かせる。 自分の感覚の中に、全く違う感覚が存在することを思い知らされる一瞬でもある。

by shingen1948 | 2012-02-19 05:37 | ★ 季節便り | Trackback | Comments(2)