地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

<   2011年 11月 ( 29 )   > この月の画像一覧

 この事が表面化するきっかけは、福島市大波地区で生産された玄米から暫定規制値を超える放射性セシウムが検出されたことだ。
 11月14日に生産者の依頼により玄米をJA新ふくしまの簡易分析器で分析した結果、暫定規制値を超える値が検出されたという。その日に福島市放射線モニタリングセンターで再分析も同様の結果となり、15日に県が米の放射性物質調査本調査の方法に準じてサンプリングし、県農業総合センターで分析を行った結果も、暫定規制値を超える630ベクレル/kgの放射性セシウムが検出されたという。

 この問題でショックなのは、県の調査で安全宣言された後に、暫定規制値を超える放射性セシウムが検出されたことにかかわることだろうか。
 先に二本松市小浜地区で、暫定基準値なみのセシウムが検出されているはずであり、福島県では、この経験も踏まえたモニタリングをして調査に生かしたはずだと思っていた。 
 あらためて、その調査がどう生かされたのかということを視点にネットで検索してみる。

 検索した範囲では、専門家の方々は、高濃度汚染が起きた主たる原因を、以下のような水田土壌の土性との関連としたように思われる。
 この地区(二本松市小浜地区)の土壌は、福島県の多くの水田で見られる粘土がかった土壌と異なり、「全般的に有機物含量が低く、塩基の溶脱が激しく強酸性を呈する土壌が多く、地力的に劣る」「礫質赤色土」が圧倒的に多いように見える。
 この土壌の違いで、放射性セシウムの吸着力には、最高で10倍の違いがあるとした。
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 この福島市大波地区は、福島市という行政区の中では、渡利地区や山口地区と共に、特定避難勧奨地点指定の検討や除染モデル地区の対象になるなどした比較的放射線量が高い地域に囲まれていることは周知のことだ。
 更に、近くの伊達市南部の特定避難勧奨地点指定の検討された小国地区や飯舘村の隣接地域である月舘地区とも隣り合うという関係だ。 
 それでも、この地区での水田土壌の放射性セシウム濃度の調査が行われなかったのは、この土壌主因特殊説とのかかわりだろうか。それとも、伊達市との連続の中で調査点を決定したというかかわりだろうか。

 ただ、散歩人が出会う単なる農民の方々は、その話の端々に地形とのかかわりの方が主因と感じているらしいことが伺えた。
 比較的線量の低い地区では、僅かなセシウム検出は表面的な問題には上がらない。その範囲の中での話だが、その検出される特徴の共通項は山際と感じていらっしゃるようだった。専門家や科学者から見れば理由なき単純な勘でしかないだろうが、散歩人としては、その素朴な勘を専門家よりも信じるところがあって、勝手に地形主因説が優位だと思っていたところがあった。

 今回の確認でも、先の専門家の方の報告に、主たる要因とはしていないが、以下のようなこの素朴な勘の根拠になりそうな部分も見えている。

 褐色森林土で栽培した稲を部位別に放射線量を測ると、穂に近づくほど高かったというものだ。穂は7、8月の暑い時期に成長するとのこと。
 調査者は、「放射性セシウムを含む山林の落ち葉などの有機物が分解され、かん水と共に水田に流入した可能性がある」と指摘したとのことだった。 
 今後、大雨の際、土壌に流れる放射性セシウムの量を調査するとのことだ。

 今から思えばという事でいえば、二本松市小浜地区で土壌の違いの可能性があったという結果の活かし方の問題ではないのかなと感じる。
 素人考えでは、先の考察は、低線量の地区であっても、似たような土壌の所ではその可能性を考慮しなければならないとする資料にすべきだったのではないのかなと思う。それを、特殊な土壌だから他は大丈夫と活用したことに、誤りの原因の一つがあったような気がする。
 その背景には、産業としての農業の最後の砦である米にセシウムが検出されないことを願う意識が考察に強く働いてしまったのだと思う。しかし、そのことが、かえって「福島産」の信用を失墜してしまう結果に導いてしまったように思う。

 専門家が、単なる農民の素朴な勘に勝るためには、表面に出す必要はないが、主たる要因でないと考察された地形とのかかわりの可能性にもきっちりと配慮したサンプリングで、念を押すべきだったということなのだと思う。
 特に、比較的線量の高い地区とその周辺にあっては、そうした科学を農民の素朴な勘で培った常識に近づけるこのような配慮が必要だったのではなかったかと、勝手に思っている。
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by shingen1948 | 2011-11-30 05:05 | ☆ 地域・自治話題 | Comments(0)

忠霊塔

 今回、少し時間にゆとりがあったので、小さい頃に会津で過ごした記憶の中の原風景を探してみた。
 小田山は、小さい頃に遊び場にしていた所だ。スキーで足をねん挫して大騒ぎをしたのもこの山だ。ここには、葦名氏の墓地もあり、「忠霊塔」もある。これ等は見慣れた風景だが、「忠霊塔」を確認しておく。
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 ここには、日清戦争からの対外国との戦争の戦没者が祀られている。

 会津での戦没者の慰霊は、戊辰戦争の「西軍墓地」と「東軍墓地」、そして、この「忠霊塔」といのが原風景にある。

 この原風景との比較のなかに福島縣護國神社への違和感がある。この違和感については、先にも整理しているのだが、言いきったという感覚になっていない。小さい頃の記憶をたどると、それは会津での戦没者の御霊の祀り方を戊辰戦争に限定しているからのような気がしていた。

 もう一度、福島縣護國神社を確認する。
 若松にあった招魂場に祀られていた戊辰戦争従軍者の御霊は、明治12年に、相馬・三春の御霊と共に官祭信夫山招魂社に合祀されたという。その時に、これらに祀られていなかった同戦争の従軍殉国者として、世良氏等も合祀されたのだろう。
 これが、昭和14年(1939年)に福島縣護國神社と称する内務大臣指定護国神社となったということのようだ。

 小さい頃に会津で過ごした者にとっては、戊辰戦争は身近な戦争だ。護国神社と会津の中での祀られ方とを比べながらみてしまう。
 ここでいう戊辰戦争従軍者の御霊は、若松では西軍墓地に祀られた御霊を指すのだろうと思う。戊辰戦争従軍者とは、「戊辰戦争西軍従軍者」であり、「若松の東軍」は除外されている。
 会津で過ごす頃は、当然ながら「若松の東軍」の視点でみている。更には東軍の遺体を埋葬することすらかなわなかったという話を聞く中で、東軍墓地を眺めている。
 大きくは、これが福島縣護國神社への違和感となる。
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 福島縣護國神社では、ここに対外国との戦争の戦没者が合祀されていく。これと対比するのが、会津では「忠霊塔」に祀られるということだろうか。ここで気になるのも、靖国神社とのかかわる第二次大戦の戦犯問題ということではなくて、西南戦争で戦死した御霊はどこにも祀られていないということのようだが、確認していない。

 なお、具体的な違和感については、先に「戊辰戦争の犠牲者の弔い~ようやく会津へ⑥」で整理した。
 この時に忠霊塔の写真がないことに気がついたという記憶がある。意識していなかったが、ここに立ち寄ろうと思ったのは、そのこともあったかもしれない。
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by shingen1948 | 2011-11-29 06:14 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 裏磐梯湖沼群の水利と東京電力㈱のかかわりを視点に「秋元発電所」を整理した。しかし、散策の中でここにたどり着くのは、「中国人殉難烈士慰霊碑」に出逢ったことが出発点だった。気になったのは、この頃に「福島と戦争」にかかわって整理していたことがかかわるのかもしれない。
 整理がまだだったのは、その確認も中途のままだったからだ。その状況は変わらないのだが、今回「秋元発電所」を整理したこととのかかわりで、「中国人殉難烈士慰霊碑」を整理しておく。
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 この碑は、半沢氏の「歴史地図」の「猪苗代周辺」のメモと案内板によれば、次のようなことのようだ。

 先の第2次大戦末期には、全国的には4万人の中国人がむりやり連れてこられて働かされている。 福島県でも中国人労働者が、主として会津地方の水力発電所建設現場で働かされ、飢えや寒さによる病気などのため25名が亡くなられている。全国合わせると6805名の中国人の方が亡くなられているという。

 この碑は、この事実を知る福島県内の日中友好関係が、戦後の1965年に広く民間に呼びかけ、1970年に建立されたその追悼のための碑ということのようだ。

 この慰霊碑が建つのは、沼の倉発電所建設工事に携わった方の飯場だった所らしい。この県道を挟んだところには、この発電所の建設に関わる1947年建立の慰霊碑があるという。
 メモによれば、1944年、15年戦争の時、1000人以上の朝鮮人と712人の中国人が、無理やり連れてこられて、発電所を造るための水路工事をさせられたとのこと。ろくな食べ物も無く、着るものも無くひどい寒さの中で、朝鮮人32人、中国人11人が死んだという。

 会津に来る機会に、これら「沼の倉発電所」そして、これらの碑をゆっくりと確認してその視野を広げていきたいと思っている。これらの感覚の延長に、ぼんやり眺めている裏磐梯湖沼群の風景があるのだと思えている。

 電力供給の恩恵を受ける関東圏の方々にとっては、単なるその供給源でしかないのだろうが、これらの経緯があり、その延長に、会津を代表する風景の一つ裏磐梯湖沼群の風景とかかわっている。
 東京電力の発電所を主体とした水管理が、この風景全体を考慮している成果が、裏磐梯湖沼群の風景であるということにも実感を持ちたいと思っている。
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by shingen1948 | 2011-11-28 05:35 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 湖北地方の水利は、裏磐梯から猪苗代湖に注ぐ長瀬川にかかわる。その水利にかかわって、小野川湖の小野川発電所、秋元発電所、沼ノ倉発電所等東京電力㈱も関わっていることについてふれた。
 その視点は、土田堰を中心に農業用水からのものだった。これを、東京電力㈱がかかわることの視点から確認しておく。

 この水利にかかわる上記3発電所は、昭和12から21年にかけて建設されている。それに伴って、裏磐梯湖沼群の水の貯水水深を増すための堰堤などが必要であり、これらは農業用水側と事前折衝を行い、協定を結びながらすすめてきているということだった。
 時事的に確認しておきたいのは、これら地元の農業用水側との関係だが、これらは対立関係には無く、現時点でも、むしろ共存共栄的な関係を構築してすすめられているということだ。
 原発が、事故によって東京電力と地元との関係に亀裂が生じていることと、ここの違いは大きいように感じる。
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 これは、その中の一つの発電所である「秋元発電所」に送られるパイプが印象的な風景だ。会津へ来るたびに目にする見慣れた風景だ。

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 この発電所は、明治21年夏の磐梯山噴火によって、川がせき止められた裏磐梯秋元湖の水を160メートルの落差を利用するのだが、そのためのパイプが目を引く。
 近づくと、折れた付近までのパイプしか見えないのだが、そのことによってかえって、160メートルの落差の大きさを想像させる。

 3つの発電所の建設の経緯は、初めに1937年(昭和12年)に小野川発電所が秋元湖畔に建設され、小野川湖よりトンネルを通じて取水を行い、発電が開始される。
 その後、秋元湖の開発にも着手したが、折から戦時国家統制の動きが進んで「電力管理法」が1939年(昭和14年)に施行されて、日本発送電が既存の電力会社を半ば強制的に吸収合併する等の経緯は複雑。
 それでも、事業としては、日本発送電によって発電所の工事が進められ、秋元発電所が1940年(昭和15年)に完成するという経緯のようだ。

 現在のこれ等の発電所と湖のかかわりについて、「猪苗代湖およびその集水域に於ける水利用(吉越昭久)」では、以下のように解説される。
 現在、水面標高822mの桧原湖から25m下の小野川湖まで人工の水路が造られて、湖水の大部分は、この水路で小野川湖に流出するという。自然の流路はほとんど流下しないという。
 この小野川湖からの自然河川は長瀬川で、これは秋元湖を経由しないとのことだ。その水を隧道によってほぼ全水量を秋元湖に流出しているという。小野湖と秋元湖との比高差が61mあるので、この落差を利用して小野川発電所を建設して発電しているという。
 この秋元湖から流出する水の一部が、秋元湖西岸の堰堤から長瀬川として流出する。これが、先の各用水に利用されるようになる。
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 そして、その一部の水が秋元湖南岸から隧道によって名家の西まで導かれて、秋元発電所に送られるようになるとのことだ。
 
 これが、この秋元発電所の風景の背景にある景色ということのようだ。
 更に、この発電用水は、長瀬川を暗渠で横断し、ポンプによって揚水されて長瀬川右岸の沼の倉発電所に送られるという。この水は、そこでも発電に利用されて、少し下流の長瀬川に流出するようになるという。

 ただ、「秋元発電所」以外は、まだ散歩では確認していない。
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by shingen1948 | 2011-11-27 05:20 | ◎ 水 | Comments(2)
 「民間払い下げとなって人手に渡った土津(はにつ)神社地を、地元の有志が旧会津藩領全域で募金を募って買い戻して、神社の社地とするために松平家へ寄与する」
 土津神社の観光案内とのかかわりでみれば、これを土田村民の忠義と、名君が我が郷土を選んだという郷土に対する誇りと捉えればよいのかもしれない。

 しかし、実際にこの神社の風景を見ると、もう一つの観点として、「豊かな地域を実現した土田堰用水建設に対する感謝」というのも重要なのではないかと思えてくる。
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 土田堰用水は、猪苗代湖に流入する最大の河川である長瀬川から取水する。
 この長瀬川にかかわる他の用水とのかかわりについて、「猪苗代湖およびその集水域に於ける水利用(吉越昭久)」で確認すると、土田堰開削以前の灌漑地は、「上山下堰用水路」にかかわる灌漑地域だった事が分かる。
 この上山下堰の取水口は、土田堰用水の約1.2㎞下流長瀬川右岸とのことだが、この取水口も、酸川と合流する地点より上流部で取水するらしい。酸川は、温泉水によってpH2~3の酸性になっていることと、毒性の金属イオンが含まれるので、灌漑用に適さないためだとのことだ。
 この幹線水路は、長瀬川に沿って南流し、堅田を通り中小松から猪苗代湖に至るという。
 「新編会津風土記」及び「福島県耶麻郡誌」によると、この用水は、承応2年(1653)に堰守であった小桧山半内らによって工事に着手され、人夫を約75000人動員して7年後に完成。約380ha灌漑が可能になったという。
 恐らく、この堰の建設でこの地域に豊かな恵みが与えられたのだと思うが、更に20年後の延宝元年(1673)に、その長瀬川上流約1.2㎞から取水した土田堰用水が、磐梯山麓に開削されたということのようなのだ。
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 現在、この神社から下流にかけて土田堰沿いの道が自然歩道になっているようで、先に整理した磐梯山麓の風景には、いつもの堰が写り込んでいる。
 
 この磐梯山の南麓は、火山泥流や火山岩屑物で構成されているため、漏水が多いので、管理も大変だったらしい。開削の難工事も推測できる。
 特に、明治21年(1888)磐梯山の噴火では、用水路が埋没して、取水口を変更せざるを得なくなるなど、管理には多くの労力を払ってきたという。

 最近は、昭和35年に県営灌漑排水事業としての水路が改修されたという。昭和42年には、約1.2㎞の改修が完成し、また排水路もその後整備され、漏水などは少なくなったとのこと。
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 なお、これ以前は、磐梯山東斜面の琵琶沢の水と、今泉付近より長瀬川の水を取水する長瀬堰及び中小松にある六ツ成堰による灌漑とのこと。ただ、水質のかかわりで、土田堰用水・上山下堰用水の改修後に、改修工事が行われたので、最も古くから耕作されていた地域が、最後に改修されたという。

 この碑がどの段階の改修のものかは確認していない。また、現在、概念的にはこれら3つの堰の総称としての土田堰があり、これらが、この地区の豊かな実りと深く関わり合っているような気がするが、これも確認はしていない。
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by Shingen1948 | 2011-11-26 06:05 | ◎ 水 | Comments(0)

土津(はにつ)神社⑤

 写真を確認していたら、「社地復故記碑」が写っていた。
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 この碑について確認してみると、明治11年11月1日容保公の題と撰文で建立されたとのことだ(南摩綱紀の書)。
 先にこの「土津神社」について、半沢氏のメモを借りて、「まるで日光の東照宮のようだといわれた土津(はにつ)神社は、ぼしん戦争の時、敵にやられるよりは……と会津の軍によってやかれてしまう」のだが、「今の神社は1880年につくられた」としたその復故碑とのことだ。

 土津(はにつ)神社は、戊辰戦争で灰燼に帰すが、王政復古後、その社地は官有とされたため、わずかに土津公の墳墓周辺の百間余りだけとなってしまうようだ。それが、明治5年に民間払い下げとなって人手に渡ったという経緯があって、それを地元民が買い戻して松平家へ寄与するということになるようだ。
 地元の有志が、旧会津藩領全域で募金を募って買い戻したのが、明治7年とか。
 まだ確認していないが、容保公の碑文には、その文意に感謝の意を込め、増えた地所は、子孫の教育の為に使うようにとあるとのことだ。
 地元民にとっては感謝状を頂いた誇らしげなものなのではないかと想像する。

 なお、斗南へ移されていた御神体は、明治7年9月16日に隣の磐梯神社に仮遷宮し、明治13年7月28日に再建された社殿に御遷宮したとのことだ。
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「土津(はにつ)神社」から奥の院には、神社の本殿脇をなだらかな杉木立の中の登り道になっている参道を進む。

 その本殿を見やると、本殿を守るように小霊社が配置されている。
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 これも何気なく撮ったものだが、跡で確かめてみると、その家老や初代土津神社司となる家臣、そして、我が子の霊号とのことだ。
 視点を霊号におけば、この風景は、家族や家臣の霊に囲まれた祭神土津大明神正之公の霊号ということになるのだろうか。
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by shingen1948 | 2011-11-24 06:29 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 ここを保科正之公の墓所とみれば、「土津神墳鎮石」と文字が刻まれた鎮石を乗せた「保科正之公墳墓」とセットになるのが「土津靈神碑」で、これが墓碑ということになるとのことだ。これが「神道形式の墓」の様式で、院内御廟の歴代藩主の墓にも受け継がれているという。
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 この「土津靈神碑」は、神社の鳥居の脇の広場に建ち、その脇の案内板は、この碑が保科正之の履歴を刻んだ石碑であることを解説する。
 碑文は山崎闇斎が撰文し、字数は1943。神社の石碑としては、日本最大のもので、碑石(竿石)は河東村八田野から、台石(亀石)は地元土町から採石されたとのこと。

 具体的に書かれている文章は確認しなかった。安易にどこかに解説されたものがあるだろうと思ったのだが、それが今のところみつからない。

 「保科正之の履歴」と「土津神社」のかかわりについては、階段前の案内板に解説される。履歴にかかわりそうなのは、以下のようなことだろうか。
 保科正之公は、ずっと神道を尊信し、吉川惟足を師としてト部家神道の伝を学んで、道の奥義を極められたことと会津の領主としての実践が主たる経歴。
 特に、土津霊神の霊号を受けられたのは、幕府には神道方を置いて、神道精神の復興に大きな貢献をされた為に、その幕府に置いた神道方吉川惟足から、寛文十一年(1671)に霊号を「土津」と奉られたらしいこと。
 「国立磐梯青年の家」の「猪苗代町歴史探訪ガイド」によれば、霊号「土津」の意は、「宇宙の万里を究められた会津藩主」ということらしい。
 土(つち、はに)は宇宙構成要素の根元であり、万物の始めと終りであり、信実の主体とのことで、公はその道理を体得されたということのようだ。津は、会津の領主の意とか。

土津神社
 土津神社は、2代将軍徳川秀忠の第4子、会津松平家の初代藩主保科正之公(1611~1672)をお祀りした神社である。
 正之公は吉川惟足、山崎闇斎、横田俊益等当時の最高学者を師とせられ殊に当時殆ど絶えなんとした日本古来の卜部神道の大家吉川惟足を師とせられ4重の奥秘を受け継がれ会得されると共に領内の政治、産業、文化、教育、武道の基盤を定められ是が実践を図られた。
幕府には神道方を置き、神道精神の復興に大きな貢献をされた為、土津霊神の霊号を受けられたのである。
              記
 祭神土津大明神正之公の霊号
 相殿客神高良玉垂の大明神
     武内宿袮の神号
 相殿合祀3代―9代歴代藩主

 なお、先に「第2代正経を除いて、会津藩主は神式で祀られることになるらしい。」としたが、ここに「相殿合祀3代―9代歴代藩主」が見える。
 相殿のもうお一方の「客神高良玉垂の大明神」については、今のところ確認できるのは「干珠満珠を自由に操る神」ではないかという情報程度だ。
 高良の神は、敵と対峙した時には干珠を海に投げ込んで潮を引かせ、敵が船を下りて攻めて来る時には満珠を投げ込んで潮を満ちさせて敵軍を溺れさせて降参に導くとのこと。
 戦いの神としては、その玉を使いこなして、潮の満ち引きを司る神。潮の満ち引きは月のなせる技なので、月の神ともいわれるらしい。
 人は潮が引くときに、息を引き取り、潮が満ちる時に生まれることとかかわれば、「延命長寿」などの御神徳につながるものなのだろうか。
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by shingen1948 | 2011-11-23 06:08 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 神社わきの参道を奥に進んでいくと、保科正之公墳墓に着く。墓碑銘は、「会津中将源君之墓」。
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 その門前に案内板が建っている。
 町指定史跡
 保科正之公墳墓
 昭和60年3月28日指定
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 会津藩初代藩主保科正之公は、寛文12年(1672)12月18日江戸において、62歳で亡くなられた。正之公は「我死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」と自らの埋葬地を猪苗代湖が一望できる磐梯山麓に決めていたので、2代藩主正経は遺言どおり墳墓の造営にあたった。
 最初南北60間東西50間を整地し、その中央に小屋を建て棺を安置し、その周辺南北30間東西32間に柵を作り、四方に鳥居を立て、3月26・27の両日にわたって葬儀をとり行った。その後、棺の所に円墳を築き頂上に土津神墳鎮石」と刻んだ八角形の鎮石を建てた。

 猪苗代町教育委員会
燈篭がずれているのは、今回の震災の影響だろうか。
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 こちらが、案内板にいう「円墳の頂上に建てられた『土津神墳鎮石』と刻んだ八角形の鎮石」だと思われるが、無事のようだ。

 「自らの埋葬地を猪苗代湖が一望できる磐梯山麓に決めていた」ということについて確認していくと、自己の霊魂を祀る生祀の計画ということとかかわるらしい。素人考えでは、「自らの埋葬地」というより「磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」ということに強い意味があるように感じる。
 これは、中国思想の影響を受けた神道の影響で江戸時代に増えたとのことで、長命を得るため、あるいは死後に神となるために行われたものという。
 保科正之公の場合、直接的には1671年に儒教の礼式を参考に祭式を考案し、自らの霊魂を京都の自邸の垂加霊社を祀ったという「山崎 闇斎」とかかわるらしい。
 「山崎 闇斎」の項を確認していくと、寛文5年(1665年)に、会津藩主保科正之の賓師に迎えられ、藩政への助言者として、領内の寺院・神社の整理等と活躍しているらしい事が浮かぶ。

 実際には、2代藩主正経が、遺言に従ってこの地に墳墓を造営し、その後に神社が造営されることになるようだ。これは、正之公が生祀の計画が実行される前に没したためということらしい。
 なお、これ以降、第2代正経を除いて、会津藩主は神式で祀られることになるらしい。

 この生祀に関して、1797年に松平定信公が奥州白河城に自分の生祀を成立した例があるとの情報を見る。
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by shingen1948 | 2011-11-22 05:21 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 公民館に出かけたら、「福島市男女共同参画トップセミナー」というポスターが目に着いた。
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 その演題は、「福島から見える『日本の未来の形』~復興に向けた経済・経営のヒント」とのことだ。
 驚いたのは、その講演会講師が、経済評論家のK女史であることだった。それは、原発被災地である「福島から見える『日本の未来の形』」という演題と講師K氏という違和感だ。

 今回の福島第一原発事故は、政府と電力会社は「原発は安全」と呪文のように唱え続けてきた中で起こった最悪レベルの事故だと思う。その原発安全神話のお先棒を担いで原発CMで主演を張ってきた著名人で、その発言力の大きいオピニオンリーダーの一人が、この経済評論家のK氏ではないかという批判がある。
 K氏は「お詫び」を表明してはいるが、原発のCМ出演料を受けとったまま今も評論家を続けることへの批判だ。その方を講師に原発被災地福島を考えるという「福島市男女共同参画センター」の大胆な企画のようだ。

 その中部電力のCMは、何故か3月11日の震災で打ち切られ、ネット上では削除されている。現在そのCМを見ることができるのはここだけだが、K氏は、原発はコスト面での安定性が優位であることを主張している。
http://v.youku.com/v_show/id_XMjU0ODYxNDM2.html
 
 3月26日、K氏はテレビ朝日の『朝まで生テレビ』に出演し、以下の発言もしているらしい。
 福島第一原発3号炉のプルサーマル炉について「プルトニウムが、たまたま濃いだけ。特に大きな危険の区別はないはずです。」と発言し、原発問題について「放射性物質が実際よりかなり怖いと思われていることに問題がある。」「今回の原子力の問題について、死者が出ましたか。津波の死者に比べて、報道のされ具合と死者の多さの、バランスが悪い。」などと発言を行ったという。
 更に、その原発擁護の発言とCM出演についての関係で物議を醸す中、サイトに謝罪文をアップしたという。
 この「謝罪文」では、原発対策については、東電の役員総辞職や電力会社にいる天下り官僚の総辞職、原子力保安院の解体といった内容で、原発それ自体を今後どうするかという事に関しては「全原子力発電所の徹底した調査」「全原子力発電所の冷却装置の改良」といった評論だったようだ。
 K氏がCMに出演した中部電力の浜岡原発の懸念は、直下型の大地震による原発そのものが破壊されるリスクのはずで、評論家ならそのリスク対策を真摯に考え、原発の根本的な問題に目を背けるなという批判が多い。その前に、中部電力からCM料を受けとった状態のままで、中立的な評論は確保できないのではという批判が多い。
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 そんな中で見たポスターだ。
 主催は、福島市だ。
 福島市民をリードする方が、いかに温厚かということを感じることもできた。
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by shingen1948 | 2011-11-21 05:20 | ☆ 地域・自治話題 | Comments(1)

土津(はにつ)神社②

 保科正之公出身地が高遠町ということで、直ぐに思い浮かぶのは、「高遠蕎麦」。
 地元では、辛味大根の絞り汁に焼いた味噌を溶かしたものを”つゆ”に食べる食べ方で、焼き味噌の香ばしい香りと辛味大根の辛さを味わうものとして復活しているらしい。
 自分のイメージは、蕎麦に大根おろしをのせ、それに醤油をかけて、ねぎをかじりながら食うという感じだ。
 どちらが本来的かは知らないが、保科氏が会津藩へ国替えとなったことで、会津地方にもこの食べ方が広まったということらしい。

 半田氏の「歴史地図」の「猪苗代周辺」では、「土津(はにつ)神社」にかかわって、「土田堰」のメモがある。
 土津神社の前を流れる土田堰は、うらばんだいからの水が流れる長瀬川の上流(川上温泉下流1400m)より取り入れている。
 この用水路は土津神社の経費をまかなうためにつくられた。(土田新田→祭田)
 1676年(えんぽう3)8万人の人々が動員され、全長16.5㎞新しくつくられた水田は35.3ヘクタールという。
 今はこの土田新田から4キロの水路を通って、西久保から猪苗代湖に流れ込んでいる。
 なお、上流取り水口から3㎞までは、東京電力が管理している。
 かんがい面積850ヘクタール。

 これが、その神社前を流れる用水路だか、時事的に気になるのが、「東京電力が管理」という部分。
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 確認すると、「猪苗代湖およびその集水域に於ける水利用(吉越昭久)」の湖北地域の水利にかかわる解説でその事情が分かる。
 この地域の水利に関して東京電力㈱とのかかわりは強いようだ。猪苗代湖から流出する唯一の自然河川である日橋川でも、東京電力㈱猪苗代第一発電所が関与するが、湖北地方の水利とは、小野川湖の小野川発電所、秋元発電所、沼ノ倉発電所等が関わっているのが分かる。
 土田用水と東京電力㈱との関わりについては、以下のように解説する。
 土田堰用水路は、農業用水以外としては利用されていない。ただし、取入口と排水路は他との係わりが認められる。取水口では、東京電力㈱による檜原・小野川・秋元3湖の貯水池と、小野川・秋元・沼ノ倉3発電所の建設に伴って、長瀬川の流量変化がおこり、このため長瀬川筋の3農業用水(土田堰・上山下堰・長瀬川堰)と東京電力㈱は5回にわたり協定を結び、各用水にはできるだけ影響を与えないよう、また与えた場合の補償の方法等について取り決めた。
 資料として、3用水の協定取水量が期間ごとに定められた表が提示されている。
 神社西側に、この土田堰についての案内板が建つ。
 ここは土田堰用水路です

 初めは、土津神社神領の水田開墾の用水として、会津藩家老友松勘十郎氏興が、神社落成の翌年1674年に開削されました。現在は、猪苗代町内の約1/3の980haの水田を潤しています。
この水路は、裏磐梯から流れる長瀬川より長坂の上流で取水し、末端まで約12㎞あります。末流は、高橋川へつながり猪苗代湖へ流れます。裏磐梯には広大な森林があり、その森林が雨水を蓄えてくれるおかげで、私たちは豊かな水を利用することができます。
 私たちの大地を潤す水は、森林によって育まれた水なのです。

 森林の恵で豊かな稔
 農業用水水源地域保全対策事業
 猪苗代町土地改良区

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by shingen1948 | 2011-11-20 06:23 | ◎ 水 | Comments(0)