地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

<   2010年 09月 ( 30 )   > この月の画像一覧

 模擬原爆(パンプキン)投下の情報と被害情報を照らし合わせた時、完全に重なったのは、郡山駅周辺と日東紡郡山第三工場の被弾だ。これは、「郡山市史10巻(資料下)」に掲載される「警備当番日誌」の記載とも重なる。
 重ならないのが、「7月29日の空襲、整理された情報では、駅前周辺、日東紡績富久山工場、中島航空機会社付近に空爆を受けた」とある情報の駅前周辺以外の被弾情報だ。この情報は、「郡山の歴史(郡山市昭和59.11月発行)」が元になっているらしいことまでは分かった。
 この情報を確認する中で、ここでいう中島航空機会社は、「警備当番日誌」でいう「第三工場」であり、「日東紡郡山第三工場」のことであるという事も分かった。
 曖昧なままだったのが、日東紡績富久山工場被弾情報だ。
 これは、工場の発展経緯とかかわって、複雑に情報が重なっている可能性があると思えてきた。
 この日東紡績郡山第三工場がたどる発展経緯は、郡山の紡績工場の吸収統廃合経緯と複雑にからみあって、最終的に日東紡績富久山工場に整理統合されるという事になるらしい。

 郡山の紡績工業の発展経緯から空爆情報にかかわりそうな概要を整理してみる。
 スタートに地元資本の郡山絹糸紡績を考える。
 これが、明治45年に創設された片倉岩代製糸所に吸収され、最終的には日東紡績工場へと発展する。その経緯の中で、いろいろ別のからみもあるようだが、結果として地元資本の大日本紡績・郡山紡績も日東紡績に吸収される。これが日東紡第二工場・第三工場ということになるらしい。更に、日東紡績では、冨久山工場を新設するのだが、これらの工場がそこに統合されていく。こんな感じだろうか。
 その第三工場に視点を当てれば、その設立は大正8年で郡山紡績だ。大正11年には、名古屋紡績と合併してその郡山工場となり、主として綿紡を営む。第二工場は、大正13年に日東紡に合併されるが、ここは昭和12年まで不況時を乗り切って増設までも計画される。しかし、昭和12年には日東紡と合併し、その郡山第三工場となる。
 そして、それらは新設された冨久山工場に統合されていくという経緯のようだ。現在、地元では、日東紡といえばこの冨久山工場を指しているはずだと思う。
 「郡山市史10巻(資料下)」では、これらの工場の現在地や経緯が具体的に紹介されているが、他所者には、複雑な絡まりをなかなかとけない。幸いTUKA氏からお助けの情報を得たということだ。

 曖昧なまま残った日東紡績富久山工場被弾の情報は、今のところ、このこととかかわると思っている。
 「郡山の歴史(郡山市)」は、昭和59年11月に発行されている。その基に「郡山戦災史」があるとしても、この発行は昭和48年だ。この時点で、日東紡郡山第三工場は、既に日東紡績富久山工場にその機能を全て移動している。地元感覚では、日東紡績富久山工場=日東紡績になっていたと考えられる。
 それで、日東紡郡山第三工場の公式な記録も、日東紡績富久山工場に移動されたはずだと思うのだ。日東紡績富久山工場の沿革として、日東紡郡山第三工場の沿革が整理され、その中に工場の被弾情報も含まれてる。そんな状況を想像したが、どうだろうか。
 そうすると、地元の感覚で、「中島航空機会社という情報=日東紡工場という情報=日東紡郡山第三工場という情報=日東紡績富久山工場という情報」の構図が成り立つのではないかと思うのだが……。

 今のところ、7月29日の模擬爆弾(パンプキン)投下による空爆を受けたのは、駅前周辺・日東紡績郡山第三工場だと思っている。照らし合わせた情報を整理すると、先にも記したようにその詳細は次のようだったと思っている。ここは、変わらない。
 ◎ 午前8時30分警戒警報発令後、B29機が3機、高度6千mで福島県西北進し、反転して南進、その内の2機が郡山上空にて旋回する。一機は、そのまま東京方面に向かう。
 ◎ 午前9時過ぎ、駅前付近に模擬原爆(パンプキン)着弾。直撃された付近の建物は全壊数棟、駅庁舎は半壊、待合室などで即死者が出る。線路も吹き飛ばされて、貨車も被害を受ける。
 【郡山操車場 死者34名,傷害224名】(郡山駅員10人を含む市民39人爆死の情報もある。)
 駅の火災が無かったので、警防団は死傷者の救護、搬出を優先する。重傷者は樺沢医院に運ばれる。
 ◎ 11時40分、別の1機が第3工場付近に爆弾投下する。
 【郡山軽工業 死者15名】(公式記録では、ここの被害は軽微とされているようだ。)
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by shingen1948 | 2010-09-30 05:38 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 7月29日の空襲の記録部分を、「郡山市史10巻(資料下)」で確認してきた。
 先に「『福島と戦争』~模擬原爆(パンプキン)投下⑥」で記録した内容と相違はなかった。
 また、郡山第三工場にかかわる「7月29日の空襲、整理された情報では、駅前周辺、日東紡績富久山工場、中島航空機会社付近に空爆を受けた」という情報の拠り所も確認できた。「郡山の歴史(郡山市昭和59.11月発行)」と思われる。
 その内容を確認すると、中島航空機会社には、現パラマウント工場という注が入っていた。
 したがって、「郡山市史10巻(資料下)」で確認した「警備当番日誌」の「第三工場」が、当時の地域の方々の意識では「日東紡第三工場」であり、それが、実際には「中島航空機会社」の仕事をしていたとう推定の確からしさは高そうだということが分かった。
 ただ、「郡山の歴史(郡山市昭和59.11月発行)」では、日東紡富久山工場の空爆の情報も記録するのだが、この情報と結びつく情報が見つからない。曖昧なままだ。少なくとも模擬原爆(パンプキン)とのかかわりは低いと思われる。かかわるとすれば、二次的な爆風被害だろうか。それとも、別に空爆被害があったのだろうか。これも考えにくい。第509混成軍団司令部は、別部隊で連携はなさそうだが、それでも考えにくい。

 さて、任務№1の7月20日の模擬原爆(パンプキン)投下は、東京中心部(北緯35°50′―東経139°46′)であり、第二目標として平「北緯37°04′―東経140°54′」であり、北茨城市の大津だ。しかし、その投下目標は郡山の工場だった。この日の郡山の状況を確認したかった。市史の中の「郡山市中町警報当番日誌」には、この日の郡山も記録されている。
 7時30分警戒警報発令。東海岸より北進中の敵機は中部に進みつつあり。敵機は、郡山付近を北進中なり
 8時 山形県警戒警報発令、新潟地区に北進中の敵機は、山形県の北部に進みつつあり。新たなるB29ニ機は鹿島灘より進入、海岸線に沿い郡山に投弾することなく、新潟洋上に北進中なり。郡山に被害なし。警戒警報解除。

 7月20日の模擬原爆(パンプキン)投下情報と組み合わせて想像してみる。
 「7時30分警戒警報発令。東海岸より北進中の敵機は中部に進みつつあり。敵機は、郡山付近を北進中なり」が、任務№3の攻撃した目標長岡の工場の2機の動きではないだろうか。その内の主として記録されている8時に山形県が警戒警報発令することになった新潟地区に北進中で山形県の北部に進みつつあった敵機が、長岡の津上安宅製作所に模擬原爆(パンプキン)を投下した機ではないかと思う。時間的な順序は逆の可能性もある。長岡の津上安宅製作所に模擬原爆(パンプキン)投下が、7時55分だ。それで、8時に山形県警戒警報発令とも考えられそうだ。
 この陰に、東海岸の平に模擬原爆(パンプキン)を投下したB29があるはずだと思う。

 8時に新たなるB29ニ機は鹿島灘より進入してきたのが、任務№1の攻撃した目標郡山の工場の3機だろうか。
 海岸線に沿い郡山に投弾することなく、新潟洋上に北進して、郡山が警戒警報解除した後に、大津、東京、平に模擬原爆(パンプキン)を投下したのではないだろうか。
 ここは、まだ想像を膨らませているという段階で確からしさは弱い。
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by shingen1948 | 2010-09-29 05:24 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 実際に模擬原爆(パンプキン)が郡山に投下されたことと、その被害についての情報を結び付けて整理してきた。
 この他に、郡山と模擬原爆(パンプキン)投下のかかわりは、本当は郡山に投下する予定だったが、実際には別のところに投下されたというのもあるようだ。
 それが、1945年7月20日任務№1だ。攻撃した目標は郡山の工場で、3機飛び立っている。
 目標までの往路は6/10の低い雲、全ての目標上空に3層の雲が存在し、全ての爆撃航程がレーダーで行われたとある。天候の関係で、第二目標に投下したという経緯のようだ。
 このうちの、ネットの中で華やかな情報は、301号機の東京中心部(北緯35°50′―東経139°46′)投下だろうか。
 これが、皇居に向けて投下したということだ。実際には、目標が外れて呉服橋と八重洲橋中間の堀に着弾したということだ。死者1名、けがをした人62~3人といわれているらしい。ここまでは、目撃情報とのかかわりだろうか。
 情報は続く。ただ以下は、確認された情報かどうかは分からない。
 この機が、B-29「ストレートフラッシュ」で、陸軍航空隊のエリートパイロット「クロード・イーザリー」が機長だったとのことだ。この機は、広島への原子爆弾搭載機に指定されていたらしいが、この独断行為を命令違反として任務を外され、気象観測機として「エノラ・ゲイ」に随伴する事になったと言われているとのことだ。

 投下した側の記録では、他に福島県の平と北茨城市の大津にも投下されているが、この着弾情報は曖昧なようだ。
 最近、この時の大津(北緯36°50′―東経140°47′)に投下されたはずの着弾の目撃情報を求める新聞記事を見た。
 「県内の原爆投下訓練、見てませんか 研究者ら情報求める『朝日新聞(2010年7月20日)』」
 戦争遺跡の調査を手がけてきた筑波大大学院の伊藤純郎教授が「もう一つの原爆被害が茨城にもあったことを知ってほしい」と、情報提供を呼びかけたものだ。北茨城市史などの史料には全く記載がなく、大津町で投下訓練があったことが記録として残っていないという。
 そこでは、この模擬原爆(パンプキン)投下について次のように説明されていた。
 当初の目標は、原爆投下対象だった新潟を想定し、福島県郡山市の工場だった。B29は7月20日朝、郡山を目指したが、当日の天候が悪く、投下地を大津町に変更した。文書によると午前7時55分、大津町付近に投弾したとの記録がある。

 調査依頼を受けた地元の郷土史家、丹賢一さんは、
 「4.5トンという爆弾の威力であれば、山中に落ちても爆風や残った穴でわかると思う。誤って海中に投下してしまったのではないか」との推測もあるとしているようだ。大津町は風船爆弾にも利用されたジェット気流が上空を通り、爆弾投下の際に誤差が生じうるとのこと。

 伊藤教授は、この調査の意義を「大津町での投下訓練は地域の歴史から忘れ去られている。原爆投下の帰結点は広島、長崎だが、投下に向けたプロセスに目を向け、訓練があったことを歴史に位置づけなければ、全体像が見えてこない」としている。
 その記事の中、「大津町以外の投下地は、実態の解明が進んでいるところが多い」とあるが、本県の平に投下された模擬原爆(パンプキン)の着弾情報も同じような状況のような気がする。
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by shingen1948 | 2010-09-28 05:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 散歩は、その中で何かを見つけ、結びつく情報を見つけてドッキングさせると、新しい世界が見えてくるというのを楽しむのが本来だと思っている。それが、今回は、その情報が見つからなくて、自分で構築するはめになっている。

 その中で、福島軽工場への投下がうまくイメージできなかった。これが、郡山の紡績工業の発展経緯とかかわるらしい事までようやく推定できたのだが、ここで、「街道Web」のTUKA氏からお助けの情報が頂けた。
 これで、自信がなかった第三工場のイメージが固まり、駅東側の紡績工場とのかかわりがイメージできたような気がする。
a0087378_5523536.jpg
 郡山における昭和20年7月29日の模擬原爆(パンプキン)投下にかかわることの位置関係はこんな感じでどうだろうか。まだ推定の段階で、確実なイメージではないが、それ程外れてはいないとも思う。
 アメリカ側では、駅の東の工場群の中から模擬原爆(パンプキン)投下目標郡山軽工場のとして、この第三工場を選んだのではないかと思う。

 ここに、もう一度、模擬原爆(パンプキン)投下による被害情報を簡単に記す。
◎ 午前8時30分警戒警報発令後、B29機が3機、高度6千mで福島県西北進し、反転して南進、その内の2機が郡山上空にて旋回する。一機は、そのまま東京方面に向かう。
◎ 午前9時過ぎ、駅前付近に模擬原爆(パンプキン)着弾。直撃された付近の建物は全壊数棟、駅庁舎は半壊、待合室などで即死者が出る。線路も吹き飛ばされて、貨車も被害を受ける。
 【郡山操車場 死者34名,傷害224名】
 駅の火災が無かったので、警防団は死傷者の救護、搬出を優先する。重傷者は樺沢医院に運ばれる。
◎ 11時40分、別の1機が第3工場付近に爆弾投下する。
 【郡山軽工業 死者15名】
 公式記録では、ここの被害は軽微とされているようだ。
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by shingen1948 | 2010-09-27 05:59 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 確認していく中で、目標とされた郡山軽工場の位置が、郡山の紡績工業の中心地帯らしいことが見えてきた。
 市街地の中心より西外れの位置は、発電所とのかかわりらしい。その発電所の電気利用とともに、この発電所も郡山の紡績工業の発展経緯とかかわっているということのようだ。
 その発電所は、郡山絹糸紡績が猪苗代湖の水路に発電所を作ったようだ。その地元資本の郡山絹糸紡績は、明治45年に創設された片倉岩代製糸所に吸収され、最終的には日東紡績工場へと発展するようだ。その経緯の中で、地元資本の大日本紡績・郡山紡績も吸収される。これが日東紡第二工場・第三工場ということらしい。更に、日東紡績では、冨久山工場を新設し、これらの工場が統合されていくようだ。
 これらのめまぐるしい変遷が分からない他所者には、多様な工場の名称使用が情報の混乱と見えたということのようだ。

 その第三工場の着弾情報は、アメリカ側の情報では、最終報告書で優秀とされるのに、「被害軽微なり」しか見つからないのが気になっていた。最近【郡山軽工業 死者15名】【郡山操車場 死者34名,傷害224名】という情報をみつけ、勝手にこちらの情報が事実に近いのではないかと思っている。
 死者15名というのは単なる数値かもしれないが、その数にはそれぞれの尊い人生が対応するはずなのにとも思う。それでも、郡山は4月12日にも空襲を受けて92人が亡くなられている。このことによる感覚の麻痺と理解できなくもない。

 もう少し、昭和20年7月29日の郡山空襲の情報と照らし合わせる。警防団の活躍のページでは、郡山駅に着弾した模擬爆弾の被害とその対応状況が確認しやすい。

 警防団の活躍のページ
 7月29日(日曜日)は、午前9時過ぎ、駅前付近に爆弾が投下された。空襲警報は発令されていなかった。爆弾の直撃を受けた付近の建物は全壊数棟、駅庁舎は半壊、待合室などで即死者が出た。
 線路が吹き飛ばされ、貨車も被害を受けた。

 ※ 「郡山戦災史」の「第一、第二各分団の活動」
 <第一分団> 本町方部。分団員50名(消防部員20名、警護部員15名、警報救護部員女子15名)
 △  7月29日の空襲=救護班を編成して郡山駅の死傷者の救護に当たる。重傷者は樺沢医院に運  ぶ。
 <第二分団> 中町、北町、柳町、大町方部。団員50名(男子のみ)
 △  7月29日の空襲=爆撃を受けた郡山駅は火災にならなかったため、消火活動より死傷者の救  護、搬出に当たった。
 (昭和20年7月29日の郡山空襲の記録部分を抜粋した)

 なお、この時に一緒の任務で中島飛行機発動機工場に投下した模擬原爆(パンプキン)は、現在の保谷市柳沢1丁目に外れて、死者3人 負傷者8人とのことだ。死者は、農家の主婦の方らしい。
 こちらでは、中島飛行機武蔵野製作所を狙った空爆が頻繁にあったようだが、その被害についての情報がきちんと整理されているようだ。ネットでも簡単に戦争の被害を知ることができる。
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by shingen1948 | 2010-09-26 05:25 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 4回の郡山空襲の情報の中から、7月29日にかかわる情報を検索で抜き出してみる。そのことで、模擬原爆(パンプキン)を投下された側の状況が見えてくるはずだと思う。

 7月29日の空襲、整理された情報の多くでは、駅前周辺、日東紡績富久山工場、中島航空機会社付近に空爆を受けたとある。
 これを先の任務報告書と照らし合わせると、少しずれているように感じる。模擬原爆(パンプキン)は、駅前周辺と郡山軽工場の2か所に着弾したはずなのだ。
 情報が一致するのは、駅前周辺ということだ。残りの日東紡績富久山工場と中島航空機会社付近というのが、郡山軽工場に着弾という情報と重ならなければならないはずだと思う。
 具体的には、この郡山軽工場は、「市の中心から西におおよそ1500mの地点にあった福島製作所の1/5の大きさの第3工場」のはず。これが、「日東紡績富久山工場と中島航空機会社付近」の情報とどうかかわるかというこだ。

 ここからは、勝手な想像だ。
 まず、富久山工場それ自体が空襲を受けたということではないのではないかと思う。また、中島航空機会社というのは、この時点では日東紡績なのではないかと思うのだ。それは、福島の場合、日東紡績半地下工場が中島航空機会社だったという。同系列の日東紡績の郡山でも同じ事情と考えても、それほどの見当違いでもないと思っている。
 つまり、市街地から西1500mの第3工場は、日東紡績の工場であり、中島航空機会社でもあるととすれば、情報が重なるのではないかと想像する。

 今のところまた聞きのままで確認していないが、7月29日の空襲について、市史には次のような記録があるという。
 <○ 昭和20年7月29日天気晴 >
  午前8時30分、警戒警報発令。
  B29機高度6千mにて福島県西北進し、反転して南進、郡山上空にて旋回
  9時30分、郡山駅へ爆弾投下、駅内破損し、死傷者多数なり。
  同11時40分、第3工場付近に爆弾投下したるも被害軽微なりしと・・
  同10時半警戒警報解除す。(記載者・鴫原専次郎)
  郡山中町第1隣組「警報当番日誌」から

 この中の、午前8時30分警戒警報発令後、「B29機高度6千mにて福島県西北進し、反転して南進、郡山上空にて旋回」したのは、最終報告書と照らし合わせると、3機のはず。
 そのうちの一機が「9時30分に郡山駅へ模擬原爆投下」、別の1機が「11時40分、第3工場付近に爆弾投下」する。これが郡山軽工場のはず。
 そして、ここにはないが、別のもう1機は南進を続け、東京方面へ向かったと思われる。
 この機が、第二目標の東京都保谷市の中島飛行機発動機工場発祥地へ爆弾を投下する。これが少し外れて、柳沢1丁目に着弾するらしい。このアメリカ側の評価は、爆撃の結果は貧弱。それでも、死者3人、負傷者8人が記録されている。
 これに比べ、第3工場投下へのアメリカ側評価は、最終報告書で優秀とされる。それが「被害軽微なり」という情報は、少し怪しいと思う。
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by shingen1948 | 2010-09-25 05:08 | ◎ 福島と戦争 | Comments(2)
 郡山の初空襲は1944年4月12日で、死者460名という大きな被害を受けているようだ。その後、7月29日、8月8、9日にも空襲を受けているという。
 その中から、7月29日の空襲の情報を抜き出し整理すれば、模擬原爆(パンプキン)を投下された側の状況が見えてくるはずだと思う。

 この照らし合わせとかかわる郡山のイメージにいくつか勘違いがあって、そのイメージを修正していた。その事を先に確認しておく。
 その一つが、「操車場郡山」だ。
 この操車場は、ビッグパレット近くの郡山貨物ターミナル駅だと勝手に思い込んでいた。それでも、一応確認してみると、「郡山操車場として開設され、東洋一と言 われた規模を有していた。それが独立して、郡山貨物ターミナル駅になった」とある。その後に創業にふれて、「その創業は昭和40年(1965)」とある。確認しているのは昭和20年時点だ。ここではないということだ。
 多分、この時の操車場は郡山駅付近にあったのではないかと思う。照らし合わせをしている中で感じてきたことは、市民感覚では駅が襲撃されたという事と重なるということだ。

 その7月29日の任務№11の郡山の模擬原爆(パンプキン)投下の読み取りにも、勘違いがあった。これも、照らし合わせをしている中で気がついたことだ。
 攻撃目標は、郡山軽工場、中島飛行機発動機工場、郡山鉄道操車場だ。
 先に整理したように、郡山軽工場は、今のところ具体名は推定だが、日東紡の第3工場(市の中心から西におおよそ1500mの地点にあった福島製作所の1/5の大きさの工場)、郡山鉄道操車場は、恐らく郡山駅ということでいいだろうと思う。
 ここまではいいのだが、その間に挟まれた「中島飛行機発動機工場」について勘違いしていた。

 中島飛行機発動機工場も、郡山と勝手に思ってしまっていたのだ。しかし、最終報告書の爆撃データの項目は次のようで、よく見ると違う場所だと気がついた。
 第一目標の郡山軽工場「北緯37°24′―東経140°24′」と第二目標の中島飛行機発動機工場「北緯35°41′―東経139°35′」と臨機目標郡山操作場「北緯37°24′―東経140°24′」に、目視により投下。

 中島飛行機発動機工場は第二目標で、北緯35°41′―東経139°35′ということで、東京の工場だ。
 そういう目で、敵の対空砲火の項をみると、「中島飛行機を攻撃した7297号機は、投弾後30秒から60秒たって東京で対空砲火を受けた」となっている。

 これ等の勘違いを取り除いて、7月29日の任務№11の郡山だけの模擬原爆(パンプキン)投下についてだけ整理する。
 模擬原爆(パンプキン)は、第一目標の郡山軽工場「北緯37°24′―東経140°24′」と臨機目標郡山操作場「北緯37°24′―東経140°24′」に、目視により投下される。
 この爆撃について、攻撃したアメリカ側の評価は、任務成果は優秀。

 爆撃を受けた側にとってはたまったものではないが、郡山軽工場と郡山操作場は戦果を挙げたとみたようだ。
 この時の対空砲火についても記述される。「郡山軽工場に投下した機が、郡山から機の下方1万フィートに軽い砲火を受け、貧弱」とのこと。
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by shingen1948 | 2010-09-24 05:07 | ◎ 福島と戦争 | Comments(5)
 日本製錬会社(燐生産会社)と操車場郡山については、アメリカ側では、仕事内容を把握した上で、そこをターゲットにしている。
 郡山には、模擬原爆投下の目標がもう一つある。「軽工場郡山」とのことだが、福島の軽工場と同様に、これは仕事内容は把握されていなかったと思われる。
 ③ 90.10-無番号軽工場郡山
 この工場は、市の中心から西に1マイルの位置にあるが、未確認である。しかし、その潜在能力は日本の戦力にとって重要であろう。工場は東西400フィート、南北300フィートの大きさの一つの大きな建物からできている。その南に、東の軸に沿ったいくつかの小さな長方形の建物がある。

 ここから読み取れるのは、ターゲットになった理由は、規模の大きさのようだということだ。
 その位置をイメージするのに、1マイルを換算してイメージしようとしたら、これがいろいろある。1600m~1850mまでいろいろな換算の仕方があるようだ。現在は、1500mとのことだ。
 要は、軽工場郡山のおおよその位置を確かめたいだけなので、これらの違いは許容範囲。市の中心から西におおよそ1500mの地点と見当をつける。
 これを地図に当てはめてみると、おおよそ開成山公園辺りではないかと見当をつける。そこにあった福島製作所の1/5の大きさの工場ということだが、この工場、地元の方なら直ぐ思い当たるのだろうなと思っていた。

 思考は、そこでストップしていたが、最近ちょっと思い出した事がある。
 それは、15年位前に、この辺りに来なければならない用事があった時に困ったのが駐車場だったということだ。
 当時、この辺りは公共の施設が多いのに、その割には駐車場が少なかった。それで、この辺りで会議を開くとなると、車をどこにとめるかが話題になる。その時に公園の北側の工場跡地が話題になったことを思い出したのだ。確か日東紡の工場跡地だったような気がするのだ。
 市史で「11時40分、第3工場付近に爆弾投下したるも被害軽微なり」と記すことと重ね合わせると、その第3工場がその公園の北側の工場跡地に思えてきている。

 「被害軽微なり」と言うものの、確認していくと数名の死者が出ているようなのだ。そのひとりひとりに人生があると思えば、今の時代では違和感がある。そのことは、後で整理する。

 今日から、「カテゴリー」に「◎ 福島と戦争」を加え、整理しなおすことにした。
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by shingen1948 | 2010-09-23 05:09 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 福島のターゲットにされた工場について語られる事が少ないのは、実施の段階で目標を大きく外れて、渡利地区に落下したという事情があるようだ。
 同じ県内ということで、郡山の目標とされたところについても確かめておく。日本製錬会社(燐生産会社)と操車場郡山と軽工場郡山だ。
 ここでは、目標に投下されている。それでも、前の空襲について語られる陰に隠れているような気がする。それ程、それ以前の空襲の被害が大きかったのだ。
 そのため、ここでもこの模擬原爆(パンプキン)投下にかかわる目標については、確認した範囲ではあまり語られていないような気がする。ただ、その大きな被害をもたらした空襲の目標と一緒に混じり合って語られているのかもしれないとも思う。
 ① 90.10-1088 日本製錬会社(燐生産会社)
 郡山の日本製錬会社は、日本の化学工業を完全に破壊しようとする計画の優先目標リストの上で上位にある。事業は日本最大の燐の工場だと信じられる。一時生産に制限を加えられたために、生産している戦時物資の種類と量を詳細に知ることが不可能になった。

 ここでは日本最大の燐の工場と推定されていることが分かる。しかも、化学工業を破壊する計画の優先目標リスト上位だったということのようだ。
 照準点参照90.10-2025の保土谷化学工業も化学工場だ。この工場は先の空襲でもターゲットにされたようだ。2010/4/8の「毎日新聞(福島版)」で、こちらの郡山空襲が取り上げられ、この化学工場が、「4エチル鉛」の製造をしていたことがターゲット理由だろうとしているのを見た。

 日本製錬会社(燐生産会社)は、日本化学工業ではないかと思っている。今のところネットで検索している段階だが、その沿革を確かめると、大正13年(1924)に子会社として東洋電気工業(株)旧三春工場を設立して、黄燐、赤燐などの燐製品の製造を開始しているとある。昭和10年(1935)には日本化学工業(株)を合併し、郡山工場(燐製品)の工場を加えるという記事も見える。
 この会社なら、郡山駅南東で、保土谷化学工業の隣にある工場という事になる。駅の東の化学工業の工場地帯をターゲットにしたように思われる。
 ② 90.10-無番号 操車場郡山
 ほとんどすべての軍艦や商船が公海から駆逐され、効果的な機雷敷設で瀬戸内海の輸送が封鎖されたために、日本人は戦時補給の船舶輸送と同じように、輸送をほとんど全面的に鉄道にたよらなければならなくなった。そのために操車場は最近空軍の目標として重要になってきた。最も重要な操車場が、本州北部の郡山にあるものである。この操車場は、本州の北部地域と南方東京地域の間の交通を左右する。郡山の操車場は、市の東の外れに沿い、北から南へ6000フィートほどの長さがある。操車場の幅は最も広い所で300フィートある。

 操車場郡山は、東北と東京地域を結ぶ最も重要な操車場としてその目標にされたという事のようだ。郡山は、確認していくと軍都をめざしたようだが、それはこの交通の要所であったということとかかわるのだろう。

 ここまでが、アメリカ側では、この工場の仕事内容を把握していて、そのことがターゲットにされた理由であることが読み取れるところだ。
 もう一つの軽工場郡山の仕事内容は、把握されていたとは思えない。
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by shingen1948 | 2010-09-22 05:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 目標に選んだのは、アメリカ側の都合だ。迷惑な話だが、何故目標として選ばれてしまったのかという事が気になる。
 まず、福島の目標とされたところが、何故選ばれてしまったのかを確認する。

 ④ 90.10-xxⅠ6216軽工場福島
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 未確認工場、福島
 写真偵察は、この工場が日本の軍需組織を作る上で疑いもなく潜在的な力を持っている事を示した。この工場は、福島の北西隅に位置し、福島操車場の北の部分に接している。工場は北西から南東に向かう軸にそっておよそ2000フィートにわたって建てられている。北東から南西に向かっては1000フィートである。長方形をした工場敷地は、全体で150万平方フィート(14万㎡)の面積があり、主要な建物10棟を含むが、それは全面積の1/3を占めている。

 この工場の位置は、福島の北西隅で、福島操車場の北に接するという。それで、この未確認の軽工場福島は、福島製作所と考えて間違いなさそうだ。
 この工場は北西から南東に向かう軸に沿って建てられ、広い長方形をした工場敷地に、主要な建物10棟あって、建物が全体の1/3の面積ということで、駄目押しの確認ができる。
 アメリカ側では、必ずしも工場の内容を知っていたわけではなさそうだということも分かる。選ばれてしまった理由は、この工場の内容ではなく、規模の大きさと福島操車場と接しているという事のようだ。それが、軍需組織として潜在的な力を有するというのがその理由のようだ。

 ⑤ 90.9-1665 品川製作所
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 発動機工場、機体組立工場、部品工場を含めて、日本の航空機産業は戦略爆撃目標の首位に挙げられた。発動機工場と機体組立工場にはすでに相当な被害を与えたので、注意は部品工場に向けられた。この工場は鐘淵織物工場から転換したもので、ゲージや高度計を含む航空機部品を生産している。(※ 写真は「品川製作所」があった地点を示しているだけ。現在、品川製作所はここにない。)

 アメリカ側では、この工場の仕事内容を把握していて、そのことがターゲットにされた理由であることが読み取れる。
 この品川製作所は、航空機部品を生産していることが、ターゲットの理由とされたようだ。
 それまでの空襲のターゲット理由が、発動機関連工場や機体組立工場であったという事も読み取れる。それらは、叩き潰したので今度は部品工場だということから、航空機産業であることは、いずれはターゲットになるということのようだ。
 ということは、中島飛行機が、ここ福島に信夫山地下工場や日東紡半地下工場をつくって移転してきたこととかかわるということのようだ。そして、いずれはターゲットになる可能性が高かったということもいえるかもしれないとも思う。
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by shingen1948 | 2010-09-21 05:14 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)