地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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「福島と戦争」⑥

 信夫山の地下工場を探った感覚が、整理していく中で知った強い主張とずれている。
 散策した感覚では、頼まれてもいないのに、情報となる可能性も勝手に考えて、安全上位置的に曖昧に整理したところがあった。しかし、発信力の強い方々は、ここを遺産としたいという主張をお持ちの方が多いように感じる。
 福島と戦争展をみて、その感覚のずれを確認しながら、信夫山の散策の中に紛れ込ませておいた「信夫山の地下工場」にかかわる散策を振り返っている。
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 南側の金龍抗と北側の坑道がつながっていることが、展示の中で示されていた。その北側の坑口に向かったことを、「信夫三山23 ~ 再び羽山」で整理している。
 
 信夫山の北側を目視した経験と福島駅に置いてある地図のプロットで、そこにたどり着けるものかどうか試したものだ。
信夫山の北側を目視した経験というのにかかわって、「信夫三山⑯ ~ 羽山⑫」で整理している。これが、調査された方の使った道筋と重なり、また、地下工場へ向かったと思われる道筋と重なる。
 「信夫三山24 ~ 再び羽山②」として、そのことを探りながら降りてきた事を整理している。
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 山根工場の北側を意識して、射撃場の南側から観察したのはこの時だ。整理されたものを読み返すと、最初からうまく観察されたようになってしまっている。実際には、見逃してしまったことを後で追加したり、見誤りを修正しながら整理している。


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 この写真を整理に使っていないのは、何もなかったこともあるが、山根工場を整理して随分時間がたっていたこともある。
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by shingen1948 | 2010-08-31 06:11 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)

「福島と戦争」⑤

 金龍抗工場は、信夫山金山の坑道が活用されていると聞く。管理的にはこの金龍抗が難しそうだ。開いているような坑口に出会う可能性がある。
 塞がれた二つの金龍抗の坑口に出会ってから、北の坑口を見つけ、何度か南北に真っ直ぐ上り下りして雰囲気をつかんだところで、報告されたものを読み返すと、内部がイメージできる。
 「信夫三山⑰ ~ 羽山⑬」として整理した時は、ぼんやりと概要が見えかけたところではあったが、南北に縦確認するよりも前の段階だったと思う。
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 金龍抗では3本の坑道が縦に並んでいるようだ。証言の中に、ここにはエレベータ設置も想定していたらしいことを伺わせるものもある。
 こちらにも入抗したらしいことは、今回の展示会で知った。中ほどの坑道に入抗した様子らしい。恐らく、その上下の坑道は、縦坑でつながるわけだから同じような位置に想定されるのだろう。


a0087378_626306.jpg 現地では、北側にこの抗と関わると思われる坑口が、烏ケ崎より西側に開いていたという。そのことを基にすれば、坑道は南東から烏ケ崎を挟んで北西に向けて走っていると勝手に想像する。それだけではなく、カメラを穴に入れて撮影すると、真っ直ぐな道筋が確認できるので、本当はある程度の確からしさを感じている。
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by shingen1948 | 2010-08-30 06:29 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)

「福島と戦争」④

a0087378_591842.jpg 山根第二工場は、先に「信夫三山⑯ ~ 羽山⑫」として整理している。この工場を現地で実感しようとするのは、更に難しい。
 とりあえずは、調査で入抗したと思われる点からイメージをふくらます。調査では、この第一工場の南端の坑道から、第二工場の第一坑道へ入場したらしい。
 その情報を元に、寺あたりから25m間隔で3本南北に走る坑道をイメージする。
 烏ケ崎に向かってこの上を歩った感覚を思い出したり、北側から警察射撃場を観察したりしたイメージを組み合わせたりして、およそこのあたりかという見当をつけたものだ。
 そのイメージをもとに、寺の方向からも一応確認して、第二工場と表示する場所としては、ここがいいかなという確からしさでしかない。そういう意味では、やや弱い。
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 ここに、報告にある第一工場から入場した描写を重ねてイメージする。
 その両抗の間の下部に、敷居か土台らしいものがあったこと。坑道の大きさは、約230mの長さ、幅5m、高さ3mと第一工場に比べ大規模だったということ。そこには、湧水を流す溝跡が走っていたということ。
 そして、その坑道に直角に、変則間隔で坑道が10本走っていて、旋盤機械が設置されていたらしいこと。

 しかし、イメージが落ち着くのは、現地を後にしてからだ。多分、思いめぐらすことによって、不確実なイメージが消去されて、イメージしようとするものだけが固まったのだと思う。
 
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by shingen1948 | 2010-08-29 05:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(2)

「福島と戦争」③

 山根第一工場は、先に「信夫三山⑰ ~ 羽山⑬」として整理しているが、この工場を実感するのには、確実な2点が必要だ。その確実な2点間を、調査資料などから得られる寸法から、頭の中で刻んでいくと、その規模がイメージできる。
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 先の整理では、その一点を曖昧にしている。
 調査で入抗したと思われる点で、調査資料などから読み取って推定したが、ほぼ間違いないだろうと思ったのは、地下からの通風の気配だ。現場では、その点ともう一点をもとにイメージを広げている。したがって、実際には、東西に走る坑道をイメージしている。2点間を4等分すれば、その地下を走る坑道の位置がイメージできて、そこから等間隔に北側に伸ばしたところに、もっとも北側の坑道をイメージするのだ。
 それから、眼の前の坑道をイメージする。
 124mの長さで、入口から25mまでの間は、幅1.8m、高さ2mの狭い坑道。25m進んだ地点からは、幅5m、高さが3mの広い坑道になっている。
 この連絡坑に直角に、14m間隔で、6本の幅5~6m高さ3mの坑道が掘られているという。そこに、旋盤等の機械が設置されていたと想像しているらしい。
 この時には、先に西側から烏ケ崎に散策していることもこのイメージには役だっているかもしれない。さらに、北側のイメージの広がりは、射撃練習場から西の景色と重ねるといった具合だ。
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 その坑道の中に、トロの軌道用枕木が敷設されていたらしい。
 落盤防止用の支柱はなく、高さ2mの岩石には、掘削中に明りとりとして使った跡らしい油壺が数か所あるのを確認したということだった。
 この模型は、その北側2本の坑道を、そんなイメージを持って作られたものなのだろう。そのイメージまで伝わるのはなかなか難しい。この模型の左側が、警察射撃場につながるあたりだろうか。

 その脇に展示された遺物には、確かに電灯用のガイシがあって、これがそこに転がっていたものだろうと想像しながらみている。
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by shingen1948 | 2010-08-28 06:02 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)

「福島と戦争」②

 戦争展をみたことと散策を重ね合わせて整理する。
 信夫山地下工場の散策は、大きくは「山根工場」と「金竜抗工場」に分かれる。実際には、山根工場は、更に第一工場と第二工場に分けて散策し、金竜抗工場は、北側と南側に分けて散策した。
 今までは、できるだけ正確に整理することに心がけていたのだが、今回はそこに躊躇するものがあった。それは、とりあえず入口はコンクリートで固められてはいるのだが、実際に散策してみると、完全な危険防止は不可能なのではないかと思ってしまったからだ。
 そんな迷いの中で、とりあえず羽山散歩の一場面として「信夫三山⑬ ~ 羽山⑨」として整理を始めている。ここではコンクリートで固められた入口の写真だけ載せている。曖昧な説明で、金竜抗工場の南側1.2階入り口の周辺写真と山根工場第一工場の写真が一枚紛れ込んでいるのは、この時点での意図的なものもある。
 社説では、信夫山そのものを遺産としてはどうかという提案をしていた。多分、理念だけの話なのだとは思うが、真剣な提案ならハードルの高い課題が多くありそうな気がする。
 実際に散策をしていくと、危険防止の問題のほかに、民地とのかかわりもある。入り込まないように注意はするが、それでも実際にはいつのまにか間違って入り込んでしまって、慌てたりもしている。
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 今回の戦争展では、信夫山全体の模型が展示している。散歩したことをいろいろ思い出しながら散歩の全体のイメージ整理をさせてもらった。
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 更に、並べられていた冊子の中に地下工場の全体計画図があったので、これと重ね合わせてみた。 
 驚いたのは、北側は更なる開発の計画があったようだということ。特に東側の金竜抗工場の北側は、北口めざして散策したその道下あたりまで計画されていたらしいということだ。
 思い出してみると、荷物を持ち上げる設備に使ったのだろうと想像した溝があった辺りなのだろうかと勝手に思う。
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by shingen1948 | 2010-08-27 05:35 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)

福島と戦争

 8月15日付「福島民友」社説は、「終戦の日/『戦争遺跡』を平和の象徴に」と題し、戦争を伝える「戦争遺跡」に着目していた。
 これら遺跡はすべての国民が戦争のために動員され、爆弾や機銃掃射にも見舞われた事実を物語る物証としての意義を説く。県内の遺跡として紹介される中の「信夫山地下工場」と「旧ノートルダム修道院」は、今年散策したところだった。
 8月24日からは、「ふくしま平和のための戦争展」が、コラッセふくしまで開かれている。
 日中友好協会記念企画漫画展と「福島と戦争」にかかわる展示のようだ。
 「中国からの引き揚げ~少年たちの記憶」という漫画家たちのみた日中戦争の漫画展が中心で、そこに「福島と戦争」にかかわる展示をするということのようだった。
 しかし、散歩とのかかわりで「福島と戦争」の展示を中心に見る。
 こちらは二つのブースで、前半が、戦争時の現物として、軍服・千人針、それに戦争時の新聞や教科書などの展示。後半が、信夫山地下工場模型・模擬原爆模型と原爆にかかわる展示だ。

 民友社説とこの展示会で共通に取り上げているのが、「信夫山地下工場」にかかわる展示だ。
 散歩中も感じていたが、この展示会でも根本の出典はどれも、福島東高の歴史研究会資料らしい。 同高の2種の冊子も一緒に展示されている。
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 散歩の中では捉えることができない展示を中心に見させてもらう。
 まずは、信夫山地下工場の中で回収した遺物に目がいく。

 展示されているものはただのがらくたでしかないが、信夫山地下工場をイメージして散歩をした者にとっては、そこで人が働いていた息吹を感じることができるという貴重品だ。
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 そして、これを手にできるのは、中に入って散策できた者の御褒美としての宝物のはずで、うらやましいという気持ちもある。

 「信夫山地下工場」自体を戦争遺産とすることは、安全上の理由から難しい。入り口はコンクリートでふさがれて坑内に入れない。展示会の開催には、その次善の策としての意義を感じる。
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by shingen1948 | 2010-08-26 10:12 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)

安江繁家33

 安江氏と上泉氏とのかかわりから、上泉氏の御家族を引き取りお世話していく経緯と最終的には、その上泉氏の次女と監物氏がかかわるという物語は、大笹生を舞台に展開された可能性があるということだ。そして、その経緯とかわって寛永元年に、信夫山に碑が建てられたということだ。
 この辺りを概観しておく。
 
 元和4年(1618)に安江氏が再勤する。ここから寛永13年(1636)まで福島奉行と郡代を兼務し、その後郡代となる。
 繁家氏の奥様が、寛永11年(1634)年8月23日に亡くなるのだが、その前の寛永元年(1624)には、繁家氏の碑を建てる関係になっている。従って、寺の創建の関係では、名目を誰にするかは別にして、実質的には監物氏がかかわっていることになる。
 この頃には、根津監物氏と上泉秀綱氏次女との縁が整っていると見るべきで、少なくとも既に大笹生とは深くかかわっていたという事ではないだろうか。
 監物氏は、元和2年(1616)に繁家氏が200石福島代官を辞し、嫡子繁国に家督を相続して隠居する事情を理解する立場であり、安江氏が、元和4年(1618)に再勤する時には、監物氏が視野に入っていると見るが、どうだろうか。

 根津監物氏と安江繁家氏、そして安江氏と上泉氏の物語が、大笹生を舞台にして展開していた。このことが、天地人の時と深くかかわった昨年のうちに整理できていれば、もっと楽しかっただろうなと思う。簡単な検索で、安江氏とかかわる上泉氏が、この信夫の里でも輝いて活躍している姿がイメージできたはずなのだ。
 時期を逃した整理になったかもしれない。
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by shingen1948 | 2010-08-25 05:31 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(2)

安江繁家32

 信夫山上の碑文からは、安江繁家氏の経歴とこの碑を建てた方にかかわる情報が分かればいいと思っていた。
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 漢文が不得意なせいもあるだろうが、それよりも韻を踏んだ美文調の文章にその情感を感じる術はないと思っていた。それで、この碑の本文の情報については興味が無かった。
 しかし、確認していくと、監物氏は繁家氏の生き方に本当に感じるものがあったように思えてきている。目的としては、この碑を建てる行為を通して、誰かに何かを訴えたのかもしれないし、顕彰碑の意味合いかもしれない。方法としても、韻を踏んだ美文調の文章になるように、ひとに頼んでいるようだ。しかし、そこにできるだけ本音に近いものを表出するようにしたいという思いが込められているのではないかとも思えてきている。
 漢文が不得意なので、とりあえず原本に近いと思われる情報から、機械的に写し取っておく。印刷が不明瞭なことと、読めない所があったりしているので、写し間違いがあるかもしれない。
 ここに、ゆっくりと、この文章にかかわる情報から修正を重ねて、より原本に近い形にたどりつき、それから監物氏が描こうとした繁家氏像が感じられるものかどうかを確認してみたい。
 藤原○臣安江繁家公者越之後州之英産也年之先依太守之国替移居於奥之南而司伊達信夫之両郡代政行依倚○傳史霖蘇民之渇治功匹似於顔巷解人之愁今世難哉於爰(ここに)為達ニ全智居士供養清静僧以令読誦妙法連華経一千部忠儀豈堪比功徳不可量富散筳日彫刻頃石作一浮屠以伸供養誠如看現○○堅固法身相以縦然滄海變作桑田○斯石碑有消日、伏願居士々々憑斯聞動力列千佛之果位坐九品之蓬○夷説什麼果位説什麼連○印今月前月白風清、咄一咄、
 千時寛永元年仲夏廿八日
 (前正法山主○用於禅林陋室書焉)

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by shingen1948 | 2010-08-24 05:36 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(9)

安江繁家31

 一応史跡としての観点で確認させていただく。
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 これが「捐舘楽翁心安居士神儀」の隣の墓碑の表面だ。
 masa氏情報で、「損舘□室妙□□□」ということだ。
 ちょっとデジタルカメラの操作で陰影をいじってみた。この画面で、「昌室」が読めるような気がするが、どうだろうか。また、「大姉」の「大」も読めるような気がするのは、可能性のある法名を元にしているからだろうか。
 確実に読める範囲を「捐舘昌室妙○大○」だとしてもよさそうに思うが、どうだろうか。




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 これが、石が割れて補修されている石碑の表面だ。
 右側に「寛文○秊(ねん)」、中央に「舘固あるいは舘因」その下に「○常○○居○」、左側に「三月拾○」が見えるような気がするが、どうだろうか。
 masa氏から、この墓碑は平成13年7月に法名をもとに復元されたという情報を頂いている。

 この碑文の形式をもとにして、先にみた「捐舘楽翁心安居士神儀」の墓石を見直すと、右側が読める気がする。
 「寛永拾七秊」のような感じだが、気のせいだろうか。

 最初に「安江繁家」として整理したのは、この場だ。
 この場をmasa氏がいう「殿様の墓所」は、この3つの墓碑で祈りの場が構成されている。
 散歩人の立場では、これを史跡としての観点で読み取っている。散策の範囲では、この地域の歴史として自然に溶け込める解釈が可能なようだと思っているが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2010-08-23 05:35 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)

安江繁家30

 安江繁家氏を追う形で散策を始めたのは、根津監物氏の墓碑を確認したことからだった。散策の範囲では、安江家伝でいわれていることと、大笹生地区でいわれていることが統合できる感じはした。
 散歩するものにとっては、墓も史跡ではあるが、墓は本来弔い、死者の霊を慰めるために追善供養が営まれるところである。そうして、周忌が重ねられて先祖の霊として神格化されていくという現場でもある。
 3つの石碑が建つところは、そういった現場でもある。祈る者と知ろうとする者の間には感覚のずれがある。
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 地域の資料を確認していくと、祈る立場からすると「捐舘楽翁心安居士神儀」の墓石が、神格化された地域の長の象徴らしいことが確認できる。恐らくイメージとしては、大井山城守であり、根津監物氏であり、代官様であった方であり、根津家の御先祖様であり、言い伝えの根津賢物氏であったりするものの統合されたものなのではないかと想像する。もっと大きくこの3つの石碑全体にそのイメージが重なるのかもしれない。
 masa氏から、大笹生笹谷文化財保存会「-ふるさと再発見-地域の石造文化財」にこの石碑が載っているとの情報を頂いた。
 そこに、「損舘楽翁心安居士神儀 寛永17年3月20日(墓碑伝根津監物)」とあるとのことだ。 (masa氏注「損は捐」、「3月20日は3月24日」)
 この冊子は目にしていたが、その事は見逃していた。この冊子は、平成元年8月から4年かけて信陵地区(大笹生、笹谷)にある1,360の石造文化財を調べたものとのことだ。


 安江家伝をもとに史跡として散策すると、この石碑が「安江繁家」氏の墓碑と想定されるという事になるということだ。詰めていくと、この祈りと史跡のずれは避けられないのも自然なような気もする。
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by shingen1948 | 2010-08-22 05:25 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(1)