地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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白い湯

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 岳温泉の岳の湯で、久しぶりに白い湯に出会った。この湯華に出会うのは、源泉に湯守りが出かける日だったということであり、私としては、とても得をした気分になる日だ。ここには何度か来ているのだが、なかなかこの白い湯に出会えない。
 6月25日を記録しておこうと思っているのは、法則性を見つけようしていることで、気持ちの上ではおおらかさを失ってきているのかなとも思う。本当に知りたければ聞けばいい話だが、そこの楽しみ方は残しておく。

 昨年は、6月13日に「白い湯華に出会った日」として5月23日を記録している。その後も2、3度この湯に出会ったのだが記録はしていなかった。
 今のところ法則性は月末の23~25日からまりというところ。
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by shingen1948 | 2008-06-30 04:26 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち) | ウーマンエキサイトシネマ
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 フォーラムで上映された「 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち) 」を観た。
 夜8時から11時15分までの上映で時間的にきついし、楽しい映画でもない。しかし、当時もっていた感覚の曖昧さが少し整理できるかもしれないとの思いがあって見ることにした。観客は、全共闘世代のおじさん、おばさんのご夫婦が多かった。

 あの時代に若者だった者は、一概に学生運動を過激派の跳ねた行動だけとは見ていないと思うのだ。見方はいろいろあったし、どういった思考の持ち主かを探りあう嫌な側面もあったが、夢と理想を語るエネルキーに替えてくれた側面も感じていたように思う。
 それが、あの事件によって、あの時代の前の学生運動までも矮小化させてしまったとの思いがある。

 映画は、まずは当時のニュース映像を中心に60年代の闘争を概観する。
 1960年代、ベトナム戦争、パリの5月革命、文化大革命、日米安保反対闘争、世界も変革の波がうねりを上げていた。学費値上げ反対運動に端を発した日本の学生運動も、三里塚闘争など、農民や労働者と共に、社会変革を目指し、勢いを増していった。これを本物の迫力とエネルギ-を感じさせるドキメンタリータッチで描く。
 それは、活動家の逮捕が相次ぐ中、先鋭化した若者たちによって、連合赤軍は結成されるという映画の導入であるのと同時に、社会事象を真剣に受け止めた行動の側面をも固定してくれている。その中に、どこか懐かしい酒場の雰囲気や、中東に飛ぶ重信房子と遠山美枝子の別れの場面を挿入する。

  続いて、山岳ベースでの同志粛正に至る人間模様を描く。
 新左翼用語が飛び交い、「異議なし」のワンパターンで繰り返される異様な迫力のある会話。森恒夫や永田洋子らのリーダーに導かれる「総括」と称する自己否定と粛清。これが、化粧をしたとか、風呂に入ったなど革命とは無縁その理由で、リンチ、私刑へとエスカレートする。その非情で、すさまじい私刑シーンが延々と続くのがたまらなくなる。

 そして、クライマックのあさま山荘の銃撃戦へとつなげる。
 5人の若者たちが、長野県軽井沢の「あさま山荘」に立てこもり、警察との銃撃戦を展開するが、これはテレビ中継されて外側から見ている。そのニュースを内部から描く。

  現実の社会では、この後、彼らの同志殺しが次々と明らかになり、あの時代の前の夢と理想を語るエネルキーまでも否定される。
 そして、目標を失い混沌とする今日を迎え、どこかおかしいと思いながらも、ひたむきさ、自己犠牲、純真さなどの空しさを知っている「大人らしい社会」を生きている。
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」の映画詳細、映画館情報はこちら >>

作品紹介内容
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by shingen1948 | 2008-06-29 07:50 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(5)

季節たより~梅雨の頃~

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「県民の森」の山菜の森付近へ来た。この季節にここに来るのは初めて。
 植物について詳しくなくても楽しめる。案内されたままに撮った写真を整理しておく。


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今頃山に咲いている白い花は、えごのきとのこと。土湯街道の山道にも確かにあちこち咲いていた。気がつかなかっただけだった。


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 秋になれば実をつけると思っているあけびも、もう実をつけている。


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 野草で目立つのはばいけいそうなそうだ。


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 ここにも水芭蕉があった。


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 山の池には、オタマジャクシとイモリが共存していた。


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 その上の木にはモリアオガエルの卵。


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 近くで、きれいな青筋の糸トンボが遊んでいた。家の庭の黒い糸トンボとは格段に違う。

 今週は、突然最高気温が21℃という低温で始まり、その後もなかなか気温が上がらなかったが、昨日は、晴れ空で最高気温も28℃となった。久々に晴れて温かい一日、山のいい空気を吸った。
 このあたりでは梅雨になってもそれほど雨が降ったという実感もないが、全国的に見れば、東日本太平洋側と西日本では多雨とのことだ。特に関東甲信地方が多かったとのことだ。
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by shingen1948 | 2008-06-28 05:05 | ★ 季節便り | Comments(6)

藤田城へ②

  藤田城の築城年代や築城者については分からないようだが、この城の興味は、二つだ。その一つは、阿津賀志山の戦いとのかかわりであり、その二は、伊達氏とのかかわりだ。
 国見の地は、東北の歴史を塗り替えたところであるが、その一つ阿津賀志山が平泉藤原氏幕引きの場といえるということだ。
 平泉方の大将藤原国衡の軍勢は、阿津賀志山に陣を取って源頼朝の率いる鎌倉の大軍を迎え撃つ。防塁構築の努力もむなしく、奥州軍が敗走するきっかけの地だ。ここで、平泉藤原氏は幕を引き、芭蕉のあこがれる義経の忠臣佐藤基治が討死する。
案内板の説明によると、文治5年の阿津賀志山の戦いとの関わりでは、その敵の源頼朝の本営が置かれたとのことだ。それで「源宗山」の地名のになったといわれているとのことだ。

 そして、この戦いでは、新しい奥羽の統治者も登場させている。それが伊達氏で、この戦いで功を遂げた常陸入道念西が、伊達郡を与えられて初代伊達朝宗が伊達氏を名乗るのである。
 案内板の説明では、その伊達氏とのかかわりについて次のように説明する。
 室町時代以後は、伊達氏家臣藤田氏の居城であったこと。また、天文11年の天文の乱では、城主藤田晴親は伊達稙宗方に与して破れ、相馬氏を頼って落ち延び、城が廃城になった。藤田氏はその後晴親の子宗和が伊達政宗に帰参して仕えているとのことだ。
 直接的な説明ではないが、南北朝時代について、霊山城の支城として南朝方の拠点であったことも伊達氏との関わりとして読む。
 霊山城に南朝の拠点があったのは、伊達氏とのかかわりだからだ。伊達氏は一貫して南朝を支え続け、その伊達氏を信頼してここに拠点を置いたらしい。伊達氏はそのために打撃を受けるのだが、その後よみがえるのだ。だから、案内板の室町以降の説明とつながる。
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案内板は次のように説明している。


町指定史跡
藤田城跡
指定 平成5年10月1日
 藤田城跡は山崎字南古館・北古館・通称「源宗山」藤田城は通称「源宗山」に位置する中世の城館跡である。現在は中心部が東西約180㍍・南北160㍍の略方形を呈する広大な平場で、西辺と南辺の一部に土塁跡、北西隅に桝形虎口を残しているが、明治期の地籍図によれば城跡中央部に方形の区画があり、本来は複郭式のの城跡であったと考えられる。
 伝えによれば、文治5年(1189)阿津賀志山の戦いの折、源頼朝が鎌倉軍の本営をここに置き、阿津賀志山の奥州藤原軍の陣を攻める指揮をとり、それが源宗山の地名の起こりになったといわれている。
下って南北朝の時代には、藤田城は霊山城の支城として南朝軍の拠点となっており、貞和3年(1347)奥州管領吉良貞家の率いる奥州の北朝軍を総動員した軍勢の攻撃を受け、激戦の末落城している。この時期の城主は不明であるが、伊達行朝か藤田下野守と推定される。
 室町時代には伊達氏の家臣、藤田氏の居城であったと考えられるが、本宗家は一時断絶している。戦国時代の天文年間(1532~1555)に藤田氏は再興されたが、奥州守護伊達稙宗と嫡子晴宗が争った天文の乱で稙宗方に付き、敗れた藤田晴親は相馬に逃亡したため藤田氏は再び断絶することになる。この時点で藤田城は廃城になったと思われる。
現在見られる城の遺構はその形態・構造から、天文の乱時点のものと考えられる。
平成12年2月
国見町教育委員会

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by shingen1948 | 2008-06-27 04:34 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)

藤田城

藤田城は、国見町の観月台文化センター近くにあることしか分からなかったので、観月台の職員の方に聞いたら、親切に北側のラウンジから北側の小高い丘を眺めながら説明してくれた。
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 案内された小高い丘の道を登ると、山頂辺りに町営の住宅が広がり、道の左側に公園がった。
 その公園の脇に立つ案内板によると、公園が藤田城の本丸のようだ。


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 公園の中に古井戸なのか、またはここが最高地なので配水曹なのかは分からないが、それ以外は時代物がかった物が見あたらない。ただの公園だ。


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 城らしいものを見つけようと見回すと、西側に土塁跡のようなものがあった。公園の端に目を凝らせば城らしさを感じることはできる。


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枡形虎口らしきあとも残っているが、公園への通路という感じでしかない。


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 公園南の麓にある水雲神社から本丸を見上げる。
 見上げているこの辺りも広い平場になっていて、城域であることが実感できる。この平場が東側に繋がっていて、その上の平場に高台の平場があるのだから、どこまでかは別にしても、あの町営の住宅地も城域なのだろうと想像する。この高台全体が藤田城と考えた方がよさそうだ。


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 神社の東側から細い道を下り、神社を正面から捉えてみる。この城の周りをぐるりと回ってみると、観月台文化センターの方向の防備を意図した城のように感じる。
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by shingen1948 | 2008-06-26 04:44 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)

瀬戸川館を訪ねる②

 瀬戸川館についてのイメージは、まだ不確かだ。史跡のデータベースを見るとプロットの位置は、史跡の西端になる。また、頭の中で要図と地図とのイメージか一致ししていない。
 プロットされた位置は、「山形・宮城・福島の城郭」の説明のうち次の描写と重なるような気もする。
 
空堀の南に約6㍍四方の段上状の平場があり、中の郭より3㍍高く、眺望のよい場所である。ここから2㍍×4㍍の柱穴4本が発見され、平均50㌢と深く、場所から考えて物見櫓と考えられる。

 不確かだか、もしそうなら館跡はもっと東側ということになる。

 それはさておき、人取り橋の合戦の動きを、いろいろな資料を貼り合わせて想像する。
「山形・宮城・福島の城郭」では、次のように描写する。
 戦いは高倉城の小競り合いから始まり、会津街道から荒井の人取り橋へと発展した。本陣にいた茂庭左月は、士卒若干を率いて人取り橋方面へ将校を斥候に出した。荒井で敵の一陣と遭遇し、押し立てられ人取橋に退却したが、陣を立て直し、連合軍に攻めかかり、伊達軍100人余と共に左月も討死した。連合軍は勝ちに乗じて観音堂山の本陣めがけて一斉に攻めかかった。連合軍の支隊は成実の陣のある瀬戸川館に向かった。

 これを、連合軍側から見ると、三方面から北上するということになるようだ。
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 一隊は、佐竹、岩城、二階堂、白河、石川の軍勢で、高倉城方面に進む。ここで伊東重信を追い散らして、二・三十人を討ち取る。それから、北進して瀬戸川館の伊達成実勢と戦いながら、阿武隈川方向から観音堂山の敵本陣へと向かう。


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 もう一隊は芦名、佐竹、相馬軍勢で、荒井・五百川方面に進む。それから、人取り橋と瀬戸川館へと向かう。
 更に、もう一隊が佐竹、芦名の軍勢で、会津街道を進む。青田原に布陣した伊達勢の先鋒等を撃破して、荒井・五百川辺りに布陣した伊達勢を追い上げる。そして、人取り橋を越え観音堂山をめざす。


 この戦いでは、劣勢だったのに、連合軍が突然引き上げ、政宗の運命が大きく開ける。
 この運命を開くことに関して、ラッキーな事件の背景を解説するのが普通のようだが、それよりも、政宗が本宮城に退却した後も観音堂山の留守軍勢と瀬戸川館の伊達成実勢が日没まで持ちこたえたことが大きかったのではないかと思う。
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by shingen1948 | 2008-06-25 05:41 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

瀬戸川館を訪ねる①

人取り橋の合戦に関わって、左翼遊軍として伊達成実を配したという瀬戸川館が気になった。
 位置的を確認するのに、「桝形」という地名と「福島県の歴史散歩」の中で、本宮宿周辺の史跡の地図にプロットされている所ということを頼りに探してみることにした。

 プロットされた位置は、本宮の観音堂で合わさる奥州街道と会津街道に挟まれている。この城は、「山形・宮城・福島の城郭」によれば、「往昔は、会津街道がこの丘陵から本宮に入ったとされている……」とのことで、「本宮城の出城として会津街道の要衝の守りのため、築城されたといわれている。」とのことであることから、信頼できると思っている。

プロットされた位置の北側に、奥州街道と会津街道を結ぶ太い道路があるので、ここから入ってみるのが分かりやすいと判断した。
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  この道から南に向かう細い道路に入る。


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 この北側の高台に桝形地区の公民館があった。


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 そのまま進むと、左側から細いながらも主要道路がT字に交わる。
 そのやや南側で、民家が建っているあたりが、地図でプロットされた所であり、高低差を考慮しても、ここが館だろうと推定してみて、南側からそちらを眺める。


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 西の方には、土塁らしいところに道が走っている。


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 改めて北側から眺めてみた。こんもりしたところが、「山形・宮城・福島の城郭」の要図にあった「物見」のあった所であろうと想像する。

 この位置なら、仙道の道が東に望まれ、最前線基地高倉城が見え、本陣を置いた日輪寺にも近く、本宮城も望まれるという要としての位置であったろうとは思うが、不確かではある。
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by shingen1948 | 2008-06-24 04:46 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

うぶかの郷の温泉へ

 桑折、国見あたりを散策して、西山城を北側から眺めたいということもあって立ち寄った。ここは、電車で近くまで来て、徒歩での散策を中心とすることが多く、なかなか立ち寄れないでいた。
 今回は、車を使っての散策なので、思いつくままに動けける。
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 まずは、気軽に昼食を食べるのに立ち寄る。
 玄関を入った所におある無料休憩所には人がいっぱいだ。桑折町の地場産品がロビーで売っている。食堂前の水槽では、蛍の幼虫を飼育している。


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 ここから、国見の阿津賀志山の防塁で見逃した心残りの所を散策し、その帰りにもまた立ち寄って、風呂に入る。温泉地でもないのに、くつろげる。
 無色透明のお湯は適温。塩素臭を感じるが肌触りは優しい。大きな窓ガラス越しに庭が見られる。湯船も広くて脱衣所もきれいだ。シャワーのある洗い場は10カ所で、散策の後に立ち寄るには、贅沢な感じ。タイルの浴槽も広い。

 ここの紹介では、アルカリ性単純泉というのと塩化物泉(ナトリウム一塩化物・硫酸塩温泉)というのがある。pH8.4なのでアルカリ泉で、ナトリウム一塩化物・硫酸塩ということで、塩化物泉ということで、どちらを強調するかということでの違いらしい。
 パンフレット等による紹介
源 泉 名:こおり温泉
泉  質:塩化物泉
泉  温:25.6℃(源泉) 42.0℃(浴槽)
P  H:8.4
効  能:きりきず、やけど、慢性皮膚病、虚弱児童、慢性婦人病、動脈硬化症など
休 館 日:第2・4火曜
入浴時間:午前10時~午後8時
入 浴 料:500円
住  所:伊達郡桑折町大字南半田字川端22 
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by shingen1948 | 2008-06-23 04:40 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
仙台気象台のホームページによると、今年の東北南部の梅雨入りは19日で、昨年は、21
日だったが、平年は10日とのことなので、昨年よりは2日早く、平年よりは9日遅い。確定値を確かめると、この程度の変動は、大きな変動ではないように思う。
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 21日に、庭の池から糸トンボが羽化した。昨年は管理がうまくいかずに一匹も羽化しなかった。一匹ではあるが、季節便りとして記録しておく。


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 この羽化は、こ二・三日、最高気温が、30℃を越したせいだろうと思う。19日は26℃だったが、18日は30℃の夏日だった。それでもすっきりした暑さであった。それが、20日も21日も最高気温が32℃で、しかもじめじめとした暑さだった。


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 初夏に関わっては、6月11日に、近くの電線にとまってカッコウが鳴いているのを見かけた。初鳴きを姿を見ながら聞いたのは初めてだ。写真におさめておいた。昔、カッコウを初めて聞いた日を報告せよと言われていたことがあったことを思い出しながら……。

 このカッコウに関わって、6月16日の「福島民報」の「あぶくま抄」に、カッコウの托卵の話が載っていた。
 ウグイスやホオジロなどの留守を狙って巣に入り込み、その巣の卵を1個飲み込んで、自分の卵を一個素早く産み付ける。そして、世話は仮親に一切任せてしまう。自分は知らんぷり。
 カッコウの卵は少し早くかえる。すると、そのカッコウの子供は、他の卵を巣外へ放り出してしまって、仮親のはずなのに、愛情を一身に浴びて過ごす。そして、季節が来ればさっさと巣を離れてしまうとのことだ。

 これが、郡山の市の鳥ということで話題になったそうだが、托卵は本能であり、本能を人間の常識で律することはできないと日本野鳥の会会長が回答したとのことだ。自然界の不思議は人知の及ぶところではないとしたとのことだ。

 そういった大らかな真理に近い理屈が通用した時代を懐かしみながら、初夏を記録する。
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by shingen1948 | 2008-06-22 18:27 | ★ 季節便り | Comments(0)
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高倉宿は、江戸から44番目の宿で、日和田宿から1里約4㌔、本宮宿へは1里11町約5㌔の位置にあり、背後に高倉山があり、室町、戦国時代は、畠山氏の居城だった。この宿場も、八丁目宿のように、高倉城の郭内(武家屋敷町)を基に集落が形成されたと考えられるという。

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 そうだとするならば、山清寺の平場と同じように、高倉山の北側にある神社あたりも重要であるように感じる。


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 現在は村社「鹿島神社」になっている。
 階段を登ると、広場があって、その北側に、神社は建っている。


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 そして、そこから少し登ったところには、古くからの社であろう稲荷が祀られている。


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 そこから、急な坂道だが、登りの山道が続いている。これは、少し登って振り返ったところである。


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頂上近くは、行き手を防ぐ倒木、藪である。


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 山清寺と鹿島神社の中間地点に、不動尊があるのだが、その意義は、高倉山頂部の真下ということに意義があると思われる。 

 ここには、確かに古い建物はないが、ひなびた雰囲気の中に、そういった背景を重ね合わせてみると、それなりに感じるものはある。
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by shingen1948 | 2008-06-21 06:02 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)