地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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  会津若松の観光客数が年々減少しているという新聞の記事を見たのは何年前だろうか。この時、比較されていたのが隣町の喜多方で、小グループ対応で観光客数を伸ばしていた。会津若松も団体対応から、小グループや個人客も対応できるように観光の開発を変えているということは聞いていた。機会があって、観光旅行をする個人という視点で、会津若松市内の印象を感じてみた。
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  繁華街を歩いて疲れたので、七日町駅に立ち寄った。ここも街づくりの一環としてかえたという噂は聞いていた。
  確かに、道の駅風に地元の産物が置いてあって、それを眺めたり、コーヒーを飲んで休めたりできるようにもなっていた。そこに置いてある観光案内のパンフレットを見ると、阿弥陀寺が気にかかった。

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  この寺はこの駅の向かえにあって、戊辰戦争の会津藩戦死者の墓があるとの説明だ。確かめてみることにする。

  阿弥陀寺境内には案内板があって、「戊辰戦争の悲しみを残す阿弥陀寺」として、会津藩戦死者については、以下のように解説されていた。


「戊辰戦争の悲しみを残す阿弥陀寺」
 (前略)
  明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。幾度もの懇願で埋葬が許可されたのは、翌2年2月のことでした。埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には1300柱にものぼる遺骸が埋葬されました。春・秋の彼岸には手厚い供養会が行なわれます。
(後略)

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 ここに出ている長命寺にも行ってみることにする。この寺は日新小学校近くで、小さい頃に住んでいたところから近かった。会津藩戦死者にかかわる案内板を探すと、寺の右手にある墓地の中にあって、次のように説明されていた。


「戊辰戦役 会津藩士戦死者之墓」
慶応4年(1868)戊辰戦争中の8月29日、ここ長命寺付近で大激戦があり、会津藩側に多くの戦死者が出た。
9月22日会津藩の降伏開城により戦争は終わったが、城下の会津藩戦死者の遺骸は、新政府から埋葬が許可されず、翌年の雪解けまで放置された。
 これを見かねた、時の長命寺住職幸證師は、年の暮れに付近の遺骸を密かに埋葬した。その総数は145体と言われている。墓碑は明治11年4月になって、旧会津藩士75名の有志によって建立されたが、碑面には「戦死墓」の三文字以外表示することが許されなかった。
財団法人会津弔霊義会

 二つの寺を回り、戊辰戦争後のこういった取り扱いが、戦争それ自体の残忍さと共に、長州への怨念へとつながっているのだと実感する。そして、そのことを案内板に残す努力が継続されている間は、会津の「先の戦争」という概念は、戊辰戦争ということであり、怨念の継続を意味する。
これは、ここ会津だけではない。自分で確かめただけでも、母成峠・白沢村・大玉村・二本松市・日本柳宿等の戦場跡に残る。政府の命令にもかかわらず、その地の村人が東軍の遺骸をそっと埋葬したことの語り継ぎは、今も生きている。

昨年の「今日の記事」
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by shingen1948 | 2007-09-30 04:10 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)

土湯探索余談

  自分としては、街を探索しているつもりだが、そこに住む人々にとっては、不審な人物でしかないだろうなと思うことがある。特にそれを感じるのは、行き止まりで、地域の人しか行かないと思われる地区に入るときだ。
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  土湯街道から、土湯小学校の北側に入る道路は、決心に近いものがいる。
  最初の時は、行き止まりというこすら分らないのですんなりと行く。六地蔵の案内板につられて、ハンドルを切り、入っていったら、直ぐに三叉路になって右手は行き止まった。そこに六地蔵はあった。左手は、細道でどこに行くか分らないというところまでが、最初だった。
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  家に戻って、半沢氏のフィールドワーク地図で確かめたら、あの左手の細道は、旧旧ニ本松街道のようだった。近くには、ここに住む和算家渡辺一の墓があるという。また、太子堂のある元々の寺とゆかりの九山和尚の墓もあるという。そこで、二回目の探索になるのだが、このときが、決心がいるのだ。ここに住む人々にとっては、行き止まりのこの道を入り込んでくる人間は不審者に見えるはずだなと思っていると、ちょうど近くに住む人が、家から出てくるところに出くわす。怪しいものではありませんと心の中でいいながら、頭を下げる。しかし、相手からみれば、どう見ても不審者だなとは思う。
 それでも、渡辺一の墓墓の位置の標識は見つけた。その墓のうちのどれが、目的の墓なのかは後で確認することにした。
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  九山和尚の墓も、土湯小学校の裏手に見えた。確かに九山和尚の墓であった。このときも、道行く人に合ってしまったので、写真だけとって戻った。

  東鴉川の東側は、日常の山であり、日常の死と向き合う墓地がある。東鴉川の西は、供養塔が建ち、寺が建ち、感謝で讃える墓が建つ聖なる地がある。意識的か無意識的かは分らないが、そんなすみわけをしているように感じている。
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by shingen1948 | 2007-09-29 05:34 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)

飯坂こけし③

  「伝統こけし」を検索していたら、「南相馬市博物館からの御案内」というページ(http://www.city.minamisoma.lg.jp/mpsdata/web/915/090108.pdf)がみつかった。その内容は、以下のようなことだった。
エンテランス展示
  「職人の手仕事① こけし工人」9月1日(金)~10月31日(火)
こけしは東北地方独特の郷土玩具で、ロクロ引きで手足を省略し、円筒形の胴に球状の頭をのせた木製の人形です。
福島県では、土湯こけしが有名ですが、土湯系鯖湖型(飯坂温泉)の流れをくむ原町区のこけし工人親子三代の作品を紹介します。
 また、江戸時代に藩から招かれたといわれ、明治初年まで、高倉の山中で木地師をしていた家に伝わる往来手形や伝承を紹介します。

  具体的な工人の名前が無かった。その推理の手がかりが、先の「木人子室」にあると勝手に想像した。このページには以下のような内容の記述があった。

  昭和十二年春、橘というこけしに興味のある人が、原の町にこけし工人の高橋忠蔵さんを訪問したという。その時、高橋氏は「珍しいこけしを進呈しましょう」と言って奧にはいって行って、押入などを探し回って、鯖湖らしいこけしの頭を見せたとのこと。
 目じりの上がった描彩で、轆轤は角治さん、描彩はきんさんに間違いなかったという。高橋氏の説明では、二十年程前、師匠渡邊角治さんに別れてこの地に開業したときに、見本として貰ってきたものだとのことだったという。
  彼は、大正7年には、ここに移って木地店を開くと同時にこけしを作り始めたが、あまり売れていなかったととのことだ。

 高橋氏という工人は、伊達郡小国村の生まれで、百姓であったが十八歳の時木地屋を思い立ち、鯖湖の渡邊角治に弟子入りして8年間修行して独立したとのことで、昭和35年には、東京都日野市百草園に移っているとのことだ。

  土湯系鯖湖型(飯坂温泉)の流れということと、原町区のこけし工人親子ということから、高橋忠蔵とのかかわりをひらめいたのだが、確かではないのだが、推理小説を読み解いているようで楽しかった。また、飯坂ではこけしの匂いを感じることができなかったのに、こけし工芸の伝統が、今まで思いつかなかった地域に広がっているという情報が新鮮だった。
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by shingen1948 | 2007-09-28 21:10 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)

飯坂温泉:飯坂こけし②

 先の「木人子室」というこけしのホームページによると、飯坂こけしにはもう一つの系統があるという。自分としては「土湯こけし」にこだわっての「飯坂こけし」の探索ということだったが、飯坂の探索としての「飯坂こけし」ということで、ここまで広げて確認することにした。

もう一つの「飯坂こけし」は、弥治郎系のこけしとのことだ。「木人子室」によると、次のような概略になるようだ。

明治二十三年に、弥治郎出身の毛利栄治が、八幡神社門前の佐藤応助三女クラに婿養子に入って木地屋八幡屋を開業したという。佐藤応助という人は、義太夫に長じ、踊りの師匠までやった人という紹介まである。
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  そこで、中村屋辺りの探索と共に、八幡神社の門前辺りも探索するが、木地屋八幡屋を確認することはできなかった。この地に芽生えた二つの伝統こけしは、この地ではもう無くなったのかもしれない。確認不足かもしれないが、今のところはそう思っている。

この日の探索は「飯坂こけし」については、収穫はなかったが、八幡神社の北側にある鯖湖湯の石碑や、その奥にある飯坂大火の記念碑を確認したりできた。また、八幡神社と鯖湖湯との位置関係について、自分の感覚のずれを修正することもできたという収穫はあった。

昨年の「今日の記事」
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by shingen1948 | 2007-09-27 04:54 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
  土湯こけしを確認しようと、あちこち検索していたら、偶然、「木人子室」というこけしのホームページ(http://homepage3.nifty.com/bokujin/index.htm)を見つけた。東北のこけしを中心にこけしに詳しいページだった。このページの中で、土湯こけしにかかわる部分を探していたら、飯坂こけしの記述をみつけた。概要は次のようだ。

  明治32年に、土湯の工人である渡辺作蔵の二男角治(明治10年~大正11年)が飯坂に移ってきた。これは、土湯温泉から飯坂温泉に移ってきた中村屋旅館の主人阿部与右衛門の口利きがあったという。そして、作蔵は、キン(明治14年~昭和16年)と結婚し、明治37年頃から木地業山根屋を開業する。 ここでといわれるこけしを、角治が木地を挽き、キンが描彩してつくっていたとのことだ。角治が大量に木地を挽いていたので、角治が亡くなった後も、キンは、描彩を続けることができたという。
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  今は飯坂を散策しても、こけし作りの気配は感じられない。興味は、二つ。一つは、飯坂こけしの存在で、もう一つは、土湯こけしの飯坂進出に手を貸した中村屋という旅館。
  鯖湖湯の前に建つ中村屋は、趣のある白壁のどっしりとした造りで、前から気になっていた。

  秋分の日に、自転車で出かけ、鯖湖湯の脇の足湯に浸かりながら、この建物をゆっくりと眺めてみた。、「鯖湖こけし」の気配は感じなかったが、前に鯖湖湯に入ったときのことを思い出した。鯖湖湯の温泉分析表の標示板は、どっしりとした木製であった事が、強烈に頭に残っていた。また、近所の古い店の看板にも木製でがっちりしたものをが心のどこかで気になっていた。それを、自分の頭で、木地師の存在の想像と結びつけられなかったのだ。 そこは、探索の弱さで、反省点だ。
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  中村屋のホームページには、旅館の沿革について以下のように紹介していた。

  初代阿部與右衛門は、明治のはじめ現在の福島市外土湯温泉からこの地飯坂に出て参りました。当時土湯村において旅籠を営んでおりましたが、たび重なる洪水に悩まされ、このまま土湯に留まっては家運が衰えると判断し、飯坂に進出することを考え、当時の花菱屋、(現在の花水館の前身)を買受け営業したのであります。その後旧館(江戸館)に新館(明治館)を増築し、100年が過ぎました。
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  この度重なる洪水に見切りをつけたのは、明治22年の水害の時点のようである。

今日は、共同浴場「八幡の湯」で疲れを癒して帰る。

昨年の「今日の記事」
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by shingen1948 | 2007-09-26 05:11 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)

湯町建設と高湯温泉

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庭坂の湯町を探索したことがあったが、この時、そのことが高湯温泉に与えた影響については考えなかった。この時の探索は、新聞記事をなぞったものだった。そのことを、「庭坂湯町~湯元から離れた歓楽街形成の試み跡」として書いた。

  その湯町を形成する動機は、新聞記事の通り、万世大路開通によってさびれた庭坂に、宿場町として賑わいを取り戻すためと思っていた。しかし、官舎がここに整備されていることなどを考えると、それだけの動機ではないということは推定すべきだったと今は思う。
  この官舎跡も探索して、「庭坂(米沢街道の宿場町)の官舎を訪ねて」にまとめた。

  その時の記事から湯町の沿革概要を整理する。
明治14年万世大路完成
明治17年三島県令の許可が降りて、町並みを整える。官舎整備
明治18年5月から引き湯工事、10月完成、祝賀会
明治29年引き湯権売却、官舎払い下げ
明治31年引き湯停止
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  この庭坂の湯町建設について、「高湯温泉四百年史」は、高湯温泉の立場を訴えていた。
 
  湯町を形成する動機については、三島県令の都合と見ている。
  三島県令が、郡長に命じて、歓楽街を作ったのは、中央のお歴々をもてなし、それによって政治家としての地位を揺ぎないものとするためだとする。

官舎がこの湯町周辺に整備されていることなどを考えると、庭坂村の都合ではなく、三島県令の都合との考えに説得力がある。

歓楽街建設と高湯温泉とのかかわりについて、詳しく解説しているが、概略をまとめると次のことのようだ。
  高湯温泉の宿屋総てを引き払い、湯町に移動させるという計画だったということ。
湯元は、温度が高い高湯温泉の滝の湯に、湯花沢温泉の温度も高く湯量の多い三番温泉を混入して湯町温泉の源泉にしたこと。

式典や賑わいの状況も詳しい。
式典は、庭坂新道の開通式典と併せて行なわれたこと。
黒田清輝内閣顧問や奈良原日本鉄道社長も臨席したこと。
明治20年の時点で、湯町は、58戸であったこと、貸し座敷3であったこと。
  21年には、庭坂駐在ができたこと。

村全体にかかわる影響についても、町村合併への影響として言及している。
明治4年に統合された在庭坂が、引き湯負担金に泣かされるのが嫌で、明治19年に1000円の引き湯工事拠出の妥協案で、分離したこと。
高湯は、庭坂に属しながら、高湯温泉の湯守の故郷である二子塚村と在庭坂村が合併してできた庭柄村に親近感を持っていたこと。
高湯温泉の復興は、明治31年引き湯停止によるとのことで、現在の高湯温泉の原型が形成されたのは、明治33年時点とのこと。その時の原型は、元湯が安達屋・吾妻屋・信夫屋・吉田屋、それに、たまご湯で、それぞれ100人収容施設を誇るようになっていたとのこと。

  探索の感受性が衰えてた分を、資料で補う。少なくとも、湯町探索の時、感受性を研ぎ澄ませば、少なくとも高湯温泉への影響があったことぐらいは感じられたはずと思う。

昨年の「今日の記事」
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by shingen1948 | 2007-09-25 05:06 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
温泉は、湯治場として健康に関する効能も大切な要素である。当然、湯治場としての地位を確立することと薬師の信仰とが結びつく。

土湯の薬師様の事情は、土湯の「薬師こけし堂」の説明で確認し、高湯の薬師様は、「高湯温泉四百年史」で確認する。
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土湯の「薬師こけし堂」の説明では、この山の宗教的な位置付けと、太子堂の説明と、薬師堂の説明が、渾然と溶け合っている。
最初の段落で、太子堂に祀られている聖徳太子と、薬師堂に祀られる薬師瑠璃光如来について説明される。
そして、土湯の薬師堂を温泉街から太子堂の経堂に移転するのは、大正2年だが、その理由は水害のためという。
その経堂に仮住まいの薬師堂を昭和49年に現在地に再建し、木地業の始祖も一緒に祀ったという。太子堂と薬師堂が合わさったというところがいい。

もともと日本人の基本的な考えは、尊いものに区別無く、神も仏も融合させてしまう論法でいいはずだ。神も仏もなくごちゃ混ぜにして信心してしまえばいい。これは、自然な考え方だ。
ただ、ここで抜けていると思うのは、明治維新政府の打ち出した神仏分離政策の影響だ。
薬師瑠璃光如来が、廃仏毀釈の被害を受けているはずなのだ。そのことと、薬師瑠璃光如来が存在しないことと関係するかもしれない。経堂という仏教関係の建物に仮住まいということも、そのことの影響が考えられる。再建される建物が、神社風であるというのも……。

「高湯温泉四百年史」によると、高湯の薬師堂が、歴史として建立されたのは、寛政6年(1794)のようだ。安達屋三四郎・吾妻屋八郎兵衛・信夫屋五右衛門が施主となり、渡邊勇吉という大工が建立したという。伝説的には、薬師様は慶長15年(1607)の開湯と同時に菅野国安によって安置される。

  この薬師様の危機は、明治新政府の行なった明治元年の神仏分離令で訪れる。
高湯でも、廃仏毀釈の動きが高まり、仏像破壊の動きが起きる。薬師如来は他の場所に隠して難を逃れたが、それ以外の仏像は破壊されたという。
薬師堂自体の撤廃も逃れるため、お堂を社殿とよび、名称も温泉神社に改められたとのこと。再び、薬師如来が薬師堂に安置されたのは、大正9年12月23日とのことだ。

  この時、温泉神社は、湯殿神社に併合し、温泉神社を名乗ることになる。ちなみに、現在の御堂は昭和52年に建立されたという。

  明治維新政府の打ち出した神仏分離政策は、神社から仏教的な色彩を一掃し、神と仏を区別するというもので、必ずしも廃仏毀釈が目的ではなかったという。しかし、実際にはその影響はあちこちに残しただけでなく、心のよりどころにかかわることで、大きな影響があったと思う。

高湯温泉は薬効をメインのPRとしている分、薬師如来の位置付けは重要であったと想像する。土湯温泉は、伝統こけしをメインのPRとしている分、聖徳太子との関連が重要であったと想像する。

薬師こけし堂の由来説明板

当山の鎮守は聖徳太子におわしまし、推古朝の御字近臣秦川勝に命じ太子堂を創建され給うと伝う。太子は深く仏法に帰依され普(あまね)く本邦に教法を広め給い、とりわけて薬師瑠璃光如来信仰の志篤く、法隆寺に薬師三尊を祀り給う。当山は太子垂迹の語本願を訪ねて顕現し奉り、温泉の功徳を持って病苦を除く衆生済度のご本尊におわしませば、土湯温泉発作の縁りの地湯元下の町に薬師堂を営みて鎮護ましませに、大正2年8月27日水魔の災厄により御堂流亡し、経堂に仮遷座奉りて今日に及ぶを、御堂を再建してここに奉祀す。ときに昭和49年11月21日なり。
また木地業の始祖と崇め奉る推喬法親王をも併せ祀る。法親王は55代文徳天皇の第一皇子にして、所以あって皇儲を第4皇子推仁親王に譲り給い、仏門に帰依されて素覚法親王とも尊称し奉るを草創し奉りて世に広め給うと伝う・「土湯こけし」の根元もまたこの流れをくみ、温泉の効験と共に育まれて今日の隆昌をみる。
薬師瑠璃光如来は温泉守護のご本尊にして、推喬法親王は名湯なるこの地に栄えし木地業の始祖たり。ここに天地の根元渾然一体と融和するをもって一堂に祀り、薬師こけし堂と尊称し奉る。
平成元年10月
土湯山興徳寺
土湯温泉観光協会


昨年の「今日の記事」
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by shingen1948 | 2007-09-24 04:55 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
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  昨日は暑かったので、土湯温泉の中の湯で一風呂浴びて、太子堂付近の散策をもう一度確認した。

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太子堂から会津への旧道を確認する。旧街道と山神社の標示板には、以下のように説明されている。
旧街道と山神社(祭神 大山祇命・木花咲耶媛)
土湯から会津へ通じる街道は、この山神社の前を通って、ほぼ現在の送電線の下に沿って野地温泉を経て土湯峠に抜ける重要な路線であった。土湯のいでゆで休息をとった旅人や運送業者は、この太子堂や安政2年(1773)建立の山神社に詣で、道中の安全を祈った。急坂な道を5キロ程登ると陣場という地にいたるが、そこに山神社奥宮の石祠がある。ちょうどここは土湯峠との中間地点にあたる。この旧道は、115号開通後は寂れて迷いやすくなり、現在は廃道になってしまった。

戊辰戦争で、会津軍はこの道を撤退するのだが、その時に、情け容赦なく火を放つ。
そのことを、「土湯の太子堂へ行ってみて②」で以下のように記述した。
慶応4年(1868)8月2日、戊辰戦争の折りに、会津軍はこの村を撤退するときに、西軍の拠点になることを恐れて、土湯の全村に火を放ったのだが、この道を撤退していったに違いない。
村には73軒の家があったが、71軒が焼け落ちたという。

高湯温泉でも、戊辰戦争の焼き払いによって壊滅的なダメージを受けるということが起きている。そのことを、高湯温泉400年史は、以下のように記述する。
元禄以降高湯温泉は、薬湯として名高かったので訪れる人が多く、2~30棟の宿屋で賑わっていました。
それが中断するのは、戊辰戦争に巻き込まれたからです。新政府軍の侵攻に危機感を抱いた米沢藩が、防御を固めて国境の警備をやりやすくするために、高湯温泉を焼き払ってしまったのです。わずかに安達屋の蔵一つだけ残して、焼け野原と化したといわれますから、哀れむべき惨状を呈するにいたったのです。(中略)街道筋にあたる集落や、休憩地になりうる温泉地は、情け容赦なく火がつけられたのです。

土湯温泉は、会津藩の撤退であり、高湯温泉は、米沢藩の撤退であるという違いはあっても、同じ悲劇を味わっている。

昨年の「今日の記事」
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by shingen1948 | 2007-09-23 04:10 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(6)

高湯温泉と土湯温泉①

 高湯温泉400年史を購入した。高湯温泉の記述であるとともに、自分が探索してきたことを保管できる部分がいくつかあったのが、買おうと思ったきっかけだ。その一つに、土湯温泉の探索を補完できる部分がある。そのいくつかを確認していく。

 まずは、幕領の代官供養は、どちらの温泉にも建立されているという。
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  土湯温泉の探索では、そのことについては、「土湯の太子堂に行ってみて③」でふれた。
 そこで、代官の石碑については以下のように紹介した。
 
一番東側にあるのは、幕領福島・伊達岡村陣屋代官池田新兵衛の碑(1707)だ。これは、温泉宿が困らないように年貢の取り方を変えたので人々がそれを讃えて墓を作ったという。
 次の石碑は、幕領大森陣屋の代官鈴木兵十郎の碑(1738)だ。これは、温泉が寂れないようにしてくれたというので人々がそれを讃えて墓を作ったとという。

 「高湯温泉400年史」によると、同じ趣旨の石碑は、高湯温泉にもあるという。その建てられた理由や経緯について詳しく紹介されている。恐らく、土湯に建てられた理由も同じであろうと推定される。湯役銭がつくられ、最終的には50両の多額に及んだ経緯を説明した後、以下の記述がある。建立した心情がよく伝わる。
池田新兵衛は、幕府の了解を得た上で、湯役銭を廃止し、先に納めた50両も還付して高湯道の改修にあてたばかりでなく、名主組頭に配分しました。検知が早速その年の内に行われ、大幅な減免措置がとられたのです。
 高湯温泉は、この時を境にして、三人が湯守りとなり、共同経営となりました。当時は小屋が3から4棟あっただけでしたが、改築をしたことで、湯治客も大幅に増加しました。
新兵衛のおかげで、高湯温泉はようやく一息をつくことができましたから、五左衛門ら三人は、安達屋近くの薬師堂境内に、代官池田新兵衛供養碑を建立し、その功徳を永久にとどめることになったのです。

 安達屋は「あったか湯」の向かいの旅館だ。そこの薬師堂には、まだ行っていない。機会があればこの代官の碑も確認してみたいと思う。 

 なお、元禄15年(1702)に、板倉重寛が、福島三万石の藩主になっているのだから、この時代は、土湯も、高湯も、福島藩とはかかわり無く、幕領であったということになる。

昨年の「今日の記事」
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by shingen1948 | 2007-09-22 04:13 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
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 15日(土)には、天王寺穴原温泉の共同浴場に出かけた。
 天王寺温泉は、もとは橋の手前を左手に折れたところにあったはずだが、今は旅館になっていた。ここは、白い湯で、皮膚病に効くということで有名だった。
 穴原温泉の共同浴場には、行ったことがなかったが、多分橋の西手の川沿いにあったように思っている。
 飯坂温泉湯めぐりマップによると、穴原温泉は、寛政元年(1789)開湯で、天王寺温泉は、文化2年(1805)開湯、開湯者は、藍原清吉、佐藤孫兵工とのことだ。

 今は、天王寺穴原温泉となって、橋を渡って右手に折れたところに移っている。入湯券を橋のたもとの商店で買うのは変わりない。200円で、値段は違うが、券のデザインは昔と変わらない。

 ここの湯は、無色透明だった。昔の天王寺温泉の泉質ではなさそうだ。
 掲げられた泉質表によると、源泉名は、富士屋温泉で、泉質は、単純泉である。泉温は、60.0℃、PHは8.4のアルカリ泉とのことだ。

 かなり熱い湯である。観光客で、湯めぐりをする客が増えたので、43℃まで湯温を下げるようにお願いの掲示がしてある。それでも、45℃ぐらいはあるかなと思う。

 吉井田から来ていた方がいた。土湯温泉のほうが近いのに、何故こちらまでと聞いたら、自分には、ここの湯の方が効くとのことだ。足に人工骨が入っていて、それを癒すのにここが一番利きそうな気がしているという。そういわれて、温泉と薬師の働きの関係を思う。

 昔、伊達政宗が、飯坂の湯を大森まで運ばせたという話を思い出した。そういえば、飯坂温泉駅近くの共同浴場は、切り湯だった。切り傷に効きそうな湯もあったのかもしれないと納得した。今でこそ、湯質はどの浴場も同じだが、昔は、場所によって少しずつ違っていたのではないかと思う。

昨年の「今日の記事」
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by shingen1948 | 2007-09-21 04:18 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)