地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 地域散策と心の故郷( 741 )

 浅川地区の散歩資料で、「浅川と喜熨三太郎秀房一座」とかかわるとされる辺りを散策したところだ。
 この辺りを、旧浅川村とのかかわりで眺めれば、中沢屋敷とかかわる辺りだろうか。
 「浅川、松川散策の写真メモから⑤~舟橋地区④:船橋観音堂」でもふれたように、旧浅川村の起こりは、5軒在家なそうで、古浅川村と呼ばれるそうだ。
 そのうちの宮屋敷、中屋敷、舟橋屋敷(尾形若狭)、古浅川屋敷辺りについては、ごく一部ではあるがふれていた。今回は、今までふれていなかった「沢の深い中沢屋敷」の一部にふれたということだ。
 ただ、今では風景としては開発された地域のように見えるが、古くはこの「沢の深い中沢屋敷」の耕地を潤すための中沢渠の水源地群の東端辺りの風景のようだ。
 そして、「沢の深い中沢屋敷」在家自体は、もっと東側の現上中沢・下中沢地域辺りなのだろうと思う。

a0087378_9342468.jpg これは蓬莱団地の道筋に上ってから眺めたところだが、ここに写るお堂が、「黒虫地蔵」なのだと思う。
 「黒虫」というのは、マムシの別名だ。恐らくこの辺りには多くのマムシが生息しているということなのだろう。それで、小心者の散策人としては、ここに立ち寄るつもりはなかったのだが、この写真を見る限りでは、その心配もなさそうにも思う。
 浅川の散歩資料によれば、昔は樹齢200年程の松がお堂を覆うようにかぶさっていたのだそうだ。幹回り150㎝程の太さだったそうだが、松喰虫の被害で昭和末年頃に切り倒されたのだそうだ。
 祀られた地蔵尊は文政年間(1818~1830)に清水町の人が彫ったものなそうだ。
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by shingen1948 | 2018-01-12 09:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_10274623.jpg 「初代市川猿之助の母の墓」があるとされる土手の南側の風景だ。
 民家の左側から登っていくことが可能と紹介されるが、地域の方ならいざ知らず、よそ者が立ち入れるものなのかどうかは知らない。

 この喜熨三太郎秀房一座と初代市川猿之助の母の墓についての話だが、何となく懐疑的に受けとめているところがある。
 ただ、初代市川猿之助を確認すると結構辻褄が合っていて、確認自体も楽しめる。

 歌舞伎など古典芸能にも疎いので、取りあえず基本的な情報を検索してみる。
 「ニッポニカ」に初代市川猿之助<安政2年(1855)~1922>について服部幸雄氏の次の解説があるとの紹介が検索できる。

 「坂東三津五郎の門弟で、殺陣師の名人といわれた坂東三太郎の子。
 初め5世尾上菊五郎に入門したが、後9世市川団十郎の弟子になり山崎猿之助と名のる。明治7年(1874)中島座で、歌舞伎十八番の『勧進帳』を師に無断で上演して破門され、松尾猿之助の名でもっぱら小芝居や各地方の芝居に出演していた。
 明治23年(1890)帰参を許されて市川猿之助と改め、師とともに歌舞伎座に出られるようになった。
 しかし、明治30年(1897)以降は、小芝居の座頭格の立者となって活躍。明治43年(1910)には、2世市川段四郎と改名した」

 この情報を元に、三太郎一座の座長が江戸に出て、殺陣の技をかわれて坂東三津五郎の門弟となり、その殺陣師となったとの想像は可能だ。
 また、「千代田区観光協会」のページでは「初代市川猿之助が珍しい名字の喜熨斗(きのし)で、本名が亀次郎」との紹介もあり、情報が重なるようにも思える。

 ただ、気になるのは次の二点だ。
 その一つは、「千代田区観光協会」のページでは、初代猿之助は「浅草生まれ」とされる事だ。
 もう一つは、名字「喜熨斗(きのし)」は、初代猿之助の父である坂東三太郎が、六代目坂東三津五郎の門人であった縁で、坂東家の屋号の1つ「喜の字屋」と替え、紋の熨斗模様から生まれたという解説も見るということだ。
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by shingen1948 | 2018-01-09 10:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_1054036.jpg 浅川地区の散歩資料では、「初代市川猿之助の母の墓」が、この溜池の土手にある事を中心に紹介される。
 この浅川地区は、かつてはとても芝居が盛んだったそうだが、喜熨(きのし) 三太郎秀房一座に負うところが多いとする。特に仙台藩の伊達氏にひいきにされていたとのこと。その三太郎の妻は嘉永5年(1852)12月25日に道坂で病死し、この地に葬られたという。法名は空江山智明善女とのこと。
 三太郎は、残された亀次郎(2歳)を連れて江戸に出たのだが、この亀次郎を苦労して歌舞伎役者に育てたという。それが、初代市川猿之助だとする。

 こちら側からは立ち入り禁止になっているが、南側の民家の左側から登っていくとは可能らしい。
八丁目宿の情報では、この南側の民家が三太郎喜熨(きのし)秀房一座の本拠地というふうに紹介されるが、こちらの紹介ではあくまでも「初代市川猿之助の母の墓」がここにあるという感じの紹介だ。

※ 前回の「浅川、松川散策の写真メモから34」の整理に「~八丁目宿と喜熨(きのし) 三太郎秀房一座」を付け加え、今回の「浅川、松川散策の写真メモから35」の整理は、「浅川と喜熨(きのし) 三太郎秀房一座」とする。
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by shingen1948 | 2018-01-07 10:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_9193652.jpg これは、福島医大側から看護寮の方向を撮った写真だ。
 この写真を撮った時点で興味があったのは、右手に写る溜池だった。浅川村の中心的な集落の一つが、中沢渠の開発とかかわるようなのだが、この溜池は、その地域への潅水とかかわっているようなのだ。

 今、この写真を見直しているのは、その溜池の右手の丘への興味だ。
 先の八丁目宿散策で、その八丁目文化情報にこの丘とかかわるのではないのかなと思われる情報を得たからだ。
 「松川のあゆみ」の八丁目文化で、芸能活動にかかわる地芝居について次のような紹介がある。

 芸能活動としての地芝居興行には、原則的には領主代官の許可を必要として厳しかったのだそうだが、実際には、幕末にはその禁制も緩んで急激に盛んになったとそうなのだ。
 八丁目宿の菅原神社や諏訪神社の祭礼には、この地芝居興行が大層人気があったのだとか。その中でも特に人気だったのが、「三太郎」喜熨(きのし)秀房一座で「三太郎芝居」と言われていたそうだ。その芸は、仙台公のおほめに預り、その藩士の息女を媒酌されたりする程だったのだそうだ。
その一座の足跡は一関にまで及んだという。その後、この一座は江戸にまで上ったのだそうだが、その子が初代市川猿之助になったというのだ。

 この金谷川地域の散歩資料を確認していたら、この溜池の土手の南側に「浅川芝居一座」の本拠地があったという情報があった。
 その情報を何となく確認していたら、「松川のあゆみ」がいう「三太郎」喜熨(きのし)秀房一座の情報と重なるような気がしたのだ。

 「その子が初代市川猿之助」という部分の確からしさは知らないが、どちらもそのかかわりを強調するという共通点がある。
 少なくとも、この溜池の土手の南側に八丁目宿で人気の「三太郎」喜熨(きのし)秀房一座の本拠地があったということではあったようなのだ。
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by shingen1948 | 2018-01-05 09:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「浅川、松川散策の写真メモから32」の再び修正。
 ここでの写真を「2009年7月に諏訪神社辺りから本町方面に向けて撮った写真だ。右手が諏訪神社」としたところだが、右手は現「常円寺」のようだ。
 誤りが続く言い訳になるが、八丁目家主一欄で、本町側に描かれる寺は「常光院」だ。更には、散策資料の一つである半沢氏の「歴史地図」では、現存寺院として「常光院」を挙げ、「常円寺」は廃寺になっているようにメモされていたのをそのまま受け入れてしまっていたのが、原因のようだ。

 その「常円寺」について「信達二郡村誌」を元に整理したが、「羽前国置賜郡米沢曹洞宗東源寺末」であることと「奈良沢主殿助淳盛開基」であることが気になったので、更に確認を進めてみた。
 すると、上杉氏の会津移封に伴うその家臣団の動きとかかわるらしいことが伺えた。

 上杉氏にかかわる整理でお世話になったMASAさんが、そのブログで「泉八家と信達八寺 その1」として整理されていた。
 その情報によると、上杉氏の家臣団の泉八家とされる方々の奈良沢氏とのかかわりであるらしいことが分かる。
 https://blogs.yahoo.co.jp/ssyinb27/12021236.html

 その「泉八家」については、次のように整理されています。
 信濃国水内郡常盤郷尾崎庄(長野県飯山市尾崎)には、泉親平という豪族がいて、その子が尾崎の五反田に館(尾崎城・三桜城)を構えたとされているそうだ。
 その泉氏13代政重は、文明8年には自ら尾崎姓を名乗るようになったのだとか。
 その尾崎氏が、高井水内両郡の領地を7人の弟に分封し、それぞれの土地の名を苗字としたとされるそうだ。
 すなわち、重安は上倉氏、重継は今清氏、重永は上堺氏、重家は大滝氏、重道は中曽根氏、重能は岩井氏、重直は奈良沢氏を名乗ったという。
 その7家に宗家の尾崎氏を加えて泉八家とされているのだそうだ。

 その泉八家とされている方々が、慶長3年(1598)1月10日の上杉景勝の会津移封によって、奥州信夫郡・伊達郡に所領を宛がわれたのだが、それに伴って信濃国高井郡・水内郡から、次のような地に菩提寺を移したとされているのだそうだ。
 南具羅東源寺(信夫郡名倉村)  尾崎三郎左衛門重誉
 喜松山嶽林寺(伊達郡糠田村)  上倉玄蕃元春
 天徳山明智寺(伊達郡増田村)  今清水掃部介重将
 般若山仏母寺(信夫郡笹木野村) 上堺左馬之助誉正
 玉泉山泉秀寺(伊達郡泉田村)  大瀧甚兵衛実安
 大悲山成願寺(伊達郡大波村)  中曽根小左衛門義清
 岩井山金剛院(信夫郡入江野村) 岩井備中守信能
 長沢山常円寺(信夫郡八丁目村) 奈良沢主殿助淳盛

 奈良沢主殿介氏の情報を拾うと、録は文禄3年定納員数目録によると計3841石(奈良澤 楢澤主殿助2983石+上田庄奈良沢・野口・八日町 奈良沢主殿助858石)だったらしいとのことだ。
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by shingen1948 | 2017-12-31 11:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回の「浅川、松川散策の写真メモから32」での旧街道に続く道筋については勘違いに基づいての整理だったので消去する。
 西の将軍地蔵堂の辺りの旧街道と旧国道の関係性と、「水晶沢の清水」に続く道筋との関係性を勘違いしていたのだ。この辺りの旧街道は、もっと山沿いを通っている。
a0087378_10111494.jpg これは2009年7月に諏訪神社辺りから本町方面に向けて撮った写真だ。右手が諏訪神社だ。旧街道は、写っている信号の角を左に進み、石合町に入る。

 「八丁目家主一欄」と見比べると、この旧国道の道筋になっている辺りに、常円寺という寺があったらしいことが分かる。
 その寺は、「信達二郡村誌」では次のように紹介される。

 「北部水晶沢に在り、境内東西33間、南北12間。段別1段2畝23歩官有地外に民有地3畝9歩有り。
 羽前国置賜郡米沢曹洞宗東源寺末派なり。慶長6年丑年奈良沢主殿助淳盛開基と云伝ふ」

 「松川村の小字」とも照らし合わせると、本町と石合町の間のこの辺りから小字水晶沢であることが分かる。勿論、先に整理の金明水の泉辺りも小字水晶沢のはずである。
 
 松川村の小字水晶沢と浅川村の界については、「北は水晶沢の畔搒を以って浅川村に界す」とある。
 この記述からは、小字名の元になった「水晶沢」という沢があって、その畔搒が浅川村との境界線というふうに読み取れる。
 このことから、水晶沢という沢は、浅川村との界近く東西に走ることが想像される。
 現在の地域名と照らし合わせると、恐らく現団地入口辺りの道筋と並行して西に向かって流れる沢だったのではないのかなと想像している。

 ※ ここでの写真を「2009年7月に諏訪神社辺りから本町方面に向けて撮った写真だ。右手が諏訪神社」としたところだが、実際は、右手が現「常円寺」の所のようだ。次の「浅川、松川散策の写真メモから33」で修正している。
  誤記を含む記事をそのまま残すのは、散策では、その過程で試行錯誤を繰り替えしているが、それも楽しみの一つである側面があるからだ。
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by shingen1948 | 2017-12-31 10:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 昭和40年頃の「明治天皇御料水碑」が建つ「水晶沢の清水」の風景について、 地元の地域紹介では、「松川の入り口の旧4号国道の西側に清水の跡と1本の松の木とともにブロックで囲まれている」とある。これは、現況の風景とは微妙に違う。
 「1本の松の木」も「ブロックの囲い」も見当たらない。

a0087378_9505080.jpg この碑の裏側に回ってみると、石積みのところに、時勢の変遷によって荒廃したこの「明治天皇御料水碑」を修復した事が記されている。この修復が昭和63年12月とのことなので、恐らくその整備の時点で消失していたのだろうと想像する。
 ただ、「明治天皇御料水碑」が建つ位置が「清水の跡」辺りの風景という事には変わりがないのだろうと想像している。

 この「水晶沢の清水」が「明治天皇御料水」であったということは、この清水が名泉であったということだ。その情報が、「浅川、松川散策の写真メモから22」で整理した福島市唯一の蔵元の情報とも重なる。
 この蔵元「金水晶」が元々は旅籠「蝋燭屋」だったことや、明治天皇御巡幸の折に和歌を献上した方がこの蝋燭屋のご主人であると想像できる事については、この時にふれた。
 今回整理するのは、この酒蔵の酒造りと「水晶沢の清水」が名泉であることとのかかわりだ。

 この「金水晶」のホームページに、「金水晶のはじまり・由来」の項があり、そこにこの「水晶沢の清水」について次のように紹介されていた。
 https://www.kinsuisho.com/?mode=f1
 蔵元の近くには、遠い昔金売り吉次が発見したと伝わる金山があり、湧き出る名水は水晶沢へと注がれました。明治初年、明治天皇東北御行幸の折、当地に御立ち寄りになり、ご所望によりこの湧水を献上致しましたところ、ことのほかお誉めにあずかり、特に「金明水」と御賜銘下されました。

 そして、この蔵元を「金水晶」と命名したのもこの水晶沢の霊泉で酒造りを始めたこととかかわっているとしている。
 「金水晶」の「金」は金山から、「水晶」は水晶沢からとっての命銘なのだとか。
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by shingen1948 | 2017-12-26 09:52 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_746216.jpg これは「明治天皇御料水碑」だ。
 碑の下部に判読できない箇所もあるが、地元の資料と照らし合わせながら読むと、おおよそ次のような内容が記されているらしいことが分かる。

 ここには「水晶沢の清水」といわれる泉があったようだ。
 明治9年の明治天皇が東北巡行の際に御飲水されて、「清冽無比富士山の金明水のようだ」といわれたとのことだ。それ以降、この泉の水は「金名水」と言われるようになったとのことだ。
 明治15年に三島県令が水晶沢に国道を通すことに策定した時には、この明治天皇御飲水である清水は移設しないように要望し、現在地に残されたのだそうだ。ただ、残念ながら昭和8年の金鉱採掘によってこの泉は枯れてしまったそうだ。
 せめて「金名水」の名前だけでも残そうと、昭和10年にこの由来を記した「明治天皇御料水碑」が建てられたとのことだ。

 「松川のあゆみ」には、次のようなエピソードも記される。
 〇 福島の行在所にお着きになった夜、この水が欲しい旨仰せになられたので、騎馬の兵隊がこの水を汲み持ち帰ったとも言われているのだとか。
 〇 御飲水選定では、水晶沢の水と清水町の水が最後まで残り、甲乙つけがたかったが、両方の水を同量比べたら、水晶沢の水が僅かに軽かったので、不純物が少ないと判断されて水晶沢の水に軍配が上がったのだとか。

 後者のエピソードは滑稽さも漂うが、要は村としはその位神経を使ってお迎えしたという事なのだろうと思う。
 清水町散策時には、御飲水選定で清水町の水が最後まで残ったという話は聞かなかった。選定の一番の話は残るが、二番以下の話は残らないというのが常だが、少し残念に思うところもある。
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by shingen1948 | 2017-12-24 10:45 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_7443171.jpg この写真は、「浅川、松川散策の写真メモから25」で使った稲荷神社を写した写真の左側を切り取ったものだ。
 奥に見えるのが、松川国民学校から移築されたという奉安庫を想像している建物だ。今回、確認したいこととかかわるのは、その手前の石灯篭の陰に写り込んでいる石碑だ。
 これが「明治天皇御駐輦之地」の記念碑のようなのだ。この碑の左には「陸軍大将荒木貞夫謹書」とあるそうで、昭和10年(1935)12月に造立されたものとのことだ。

 松川を通過されるのは3度なそうだ。
 その1回目は、明治9年6月19日の東北御巡幸の往路。二回目が明治14年(1881)8月9日の奥羽・北海道の御巡幸で、三回目は10月14日のその御還幸とのことだ。

 この写真の石碑は、元々三度とも小休止されたという添田旅館があった地に造立されたものなそうだが、昭和63年(1988)に現在地に移されたとのことだった。

 気になったのはその添田旅館だが、この辺りかなと想像がついてきたのは最近だ。
 それは、現ハイツの建っている辺りらしいとのことだが、八丁目家主一欄で確かめると、この辺りは屋号で記されるものの、それらしい旅館は見当たらない。
 今のところ、変遷によるものなのだろうと想像している。また、その建物の様子を知る情報も得てはいない。

 「松川のあゆみ」では、最初の御巡幸である明治9年6月19日の東北御巡幸の際の様子が詳しく記される。
 それには「9時15分に八丁目駅の添田朔助の宅で御小憩」と記される。その「添田朔助の宅」が、添田旅館なのだろうと思う。
 ここで天覧に供されたのが、天満宮の神代石(石剣)・古書画・古墨跡と盛林寺の古茶釜とのことだ。
 また、この時に西光寺の平林宥京氏が祝辞、蝋燭屋の斎藤健輔氏と稲荷神社神官である石合の西東広親氏が和歌を献上したとのことだ。
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by shingen1948 | 2017-12-21 09:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「奥州一覧道中膝栗毛」第五編序の千菊園一葉を検索すると、この方は、翠千条(みどりせんじょう)という江戸時代後期の狂歌師とのことが分かる。
 仙台の人で、千柳亭唐麿の社中で判者となり、後に、師の一葉号をゆずられて千菊園一葉とあらためたのだそうだ。文政9年(1826)刊「狂歌鼎足(ていそく)集」などの編著があるそうだ。姓は伊藤、名は恒徳、通称は直吉とか。

 「奥州一覧道中膝栗毛」第四編序の百舌自廼屋、あるいは、百舌鳥廼舎排、百舌鳥団七で検索してみるが、こちらから塩屋の通称渡辺団七氏である排氏に辿り着いてはいない。また、その挿絵を描いたとされる枡屋銀五郎、通称加藤候一にも辿り着かない。
 そういう意味では不確実さが残るのだが、地元の情報として整理しておく。

 図説「福島市史」の「近世の文化と生活」では、町人文化とのかかわりで十辺舎一九の「金乃草履」の図説を使っている。
 福島宿も八丁目宿も描かれるのは「諸国道中金乃草履6」の「奥街道仙台」で、残念ながら国立国会図書館デジタルコレクションではこの編は欠落している。
 この編は、県内かかわりでは、檜皮(高倉駅)―本宮―杉田―二本松―二本柳―八丁目―若宮―根子町―福島―瀬上―桑折―藤田―貝田―越河―幸川―白石等々の宿駅にふれる。

 福島宿は、「諸国道中金乃草履8」の出羽三山参詣(羽黒山行脚)でもふれられる。この編は、県内かかわりでは、福島―佐々木野(笹木野)―庭坂―李平―板谷―大沢―米沢等々の宿駅にふれる。

 なお、「諸国道中金乃草履」の越後行脚(会津・小出・新潟紀行)では会津方面の会津若松―高久―坂下―野尻―白坂―八田―焼山―天満―津川―諏訪峠等々の宿駅等にふれられている。
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by shingen1948 | 2017-12-19 11:32 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)