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カテゴリ:◎ 地域散策と心の故郷

  • 地域の人々が伝える祈る心~清水町宿「阿弥陀堂」
    [ 2012-05-27 05:28 ]
  • 地域の人々が伝える祈る心~飯坂「念誉山満願寺」②
    [ 2012-05-25 12:36 ]
  • 地域の人々が伝える祈る心~飯坂「念誉山満願寺」
    [ 2012-05-24 05:31 ]
  • 地域の人々が伝える祈る心⑤~飯坂「塞耳庵」②
    [ 2012-05-19 05:20 ]
  • 地域の人々が伝える祈る心④~飯坂「塞耳庵」
    [ 2012-05-18 05:20 ]
  • 地域の人々が伝える祈る心③
    [ 2012-05-17 05:20 ]
  • 地域の人々が伝える祈る心②
    [ 2012-05-16 05:20 ]
  • 地域の人々が伝える祈る心
    [ 2012-05-15 05:46 ]
  • 湧水の里の風景⑧~大笹生トンネル
    [ 2012-03-31 17:14 ]
  • 今から思えば(2012)の4
    [ 2012-03-11 05:51 ]

地域の人々が伝える祈る心~清水町宿「阿弥陀堂」


 ここには、先に清水町宿の一風景として立ち寄っている。
 ただ、この時には、案内柱に誘われて立ち寄っただけで、この阿弥陀堂も、この「地域の人々が伝える祈る心」の話とかかわることを意識していなかった。この庵の別名が「塞耳庵」とされることは聞いていたが、それまでだった。

 この「塞耳庵」という名称が、この地区のその道に通じている人にとっては、無能上人とのかかわりをイメージするということだ。

 ということで、あらためて訪ねてみた。
 案内柱には解説がなかったが、この「阿弥陀堂」は、「信夫郡仏堂明細帳」では、延宝元年(1673)3月28日建立。佐藤清右衛門持ち、曹洞宗仲興寺持受け持ちとあるらしい。仲興寺は、この清水宿のお寺だ。
 土蔵造りの仏堂は、昭和29年に再建されたものらしい。

 その土蔵造りの仏堂前に名号塔が建つ。
 表面と裏面の両面に名号が刻まれているのだが、手持ち資料に「明和6年(1758)8月15日願主然蓮社良成天阿暢音による百万遍一万座供養塔造立される。この正面の名号は別人のものだが、裏面は無能の花押入りの名号が刻まれる。」とあるものだろうと思う。


 これが、その裏面で、無能の花押入りの名号が刻まれるとされる名号だろう。



 無能の花押入りというのが、この部分なのだと思う。 



 「当地ゆかりの人物の墓標(正徳・享保・元文)も数基確認できた。」というのが、こちらだろうか。
 この確認とかかわるのが、佐藤家に伝わる縁起(宝暦8年(1758)8月当庵現住戒心の作)標題「奥州信夫郡清水町塞耳庵之縁起」にある以下の部分らしい。

 〇 延宝元年 芝増上寺出身の旅僧安心開基。(泰心庵)
 〇 元禄5年(1692)上州から達山という僧が奥羽地方行脚、衰退したこの旧庵に庵を結ぶ(選仏庵)
 〇 享保5年(1716)信州高遠の僧縁知が無能の徳を慕ってこの地に来たり、随身給仕したりした。この淨業に感銘した佐藤半右衛門が、旧庵の地に小堂を再建し、この縁知を請じた。
 元文元年(1736)10月縁知没

 資料で、曖昧で確認が取れないというのが、以下のことらしい。
 〇 この間に、庵を現在地に移し、新たに3尊を講じ、48夜別時念仏を開白するとともに、二本松大運寺を本寺と定めて、庵号を「「塞耳庵」と定める。
 〇 縁知没後、元文2年3月、半田村の善之丞こと直翁が移住、居住数年一生をここで了える。
 特に、半田村の善之丞のくだりは明らかに違うというのは、自分でも確かめられる。

 ここで大切にしたいのは、その位にこの戒心という方が、無能上人との縁を結びたいと思っていたこととそれを地域の方に伝えたかったという熱意の部分なのではないのかなと思う。

by shingen1948 | 2012-05-27 05:28 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(0)

地域の人々が伝える祈る心~飯坂「念誉山満願寺」②


 ここを、信達33観音12番札所と意識すれば、気になるのは観音堂を中心とした風景になる。
 それが、「地域の人々が伝える祈る心」の飯坂「塞耳庵」とのかかわりを意識すると、この地蔵と石塔群の風景の方が気になるようになる。

 今回の震災のためだろうか、幾つかの石塔群が倒れたままになっている。1年以上たってもその影響を引きずったままだが、石塔群が倒れる前の風景は、飯坂「塞耳庵」と似ていたと思う。

 素人目には、倒れている石塔の方は、形状的にも飯坂「塞耳庵」のそれと似ているように思う。脇に、〇十八夜塔が見える。
 浄土宗寺院では、「十夜講」の念仏会が広く行われていると聞く。
 陰暦10月5日の夜から15日の朝まで10日10夜にわたる阿弥陀さまのお慈悲に感謝する法要で、10日10夜法要とも。この法会は、浄土宗で最も大切な経典の一つ「無量寿経」の巻下に、「この世において十日十夜の間善行を行うことは、仏の国で千年間善行をすることよりも尊い」と説かれていることによって、その教えを実践したものとか。そういう講との習合だろうか。

 立っている方の名号塔は、形状的には飯坂「塞耳庵」のそれとは違うのだが、気になるのは下方に花押らしきものが見えるような気がすることだ。脇に、文政5年(1822)女人講中が見える。

 この風景の後ろが、名号塔群になっている。

 その中のこの名号塔は、先の名号塔と字体は違うのだが、気になるのは、下方に花押らしきものが見えるような気がすることだ。裏に年の部分が欠けているが、「5月6日弟子法全」が読める。

 ここを整備されていた方に、「御朱印かい。」と声を架けられた。
 名号塔の興味を伝えると、いろいろお話しいただいた。その中で、「飯坂「塞耳庵」」にかかわって「ゴアンの地蔵様」という言葉と、その庵のお世話の様子をお聞きすることができた。
 また、観音堂に安置される像の話では、阿弥陀仏座像が、この寺の御本尊でないかなぁという言い方をなされ、見てみるかいと誘われた。単なる散歩人としては、恐れ多いのでやめておきますとお断りした。
 こちらの予備知識としては、安置されるのは、中央に本尊厨子、十一面観音、法然上人像とのことと、その他の像が、「信達33札所観世音霊場」では地蔵とし、「信達33観音のみち(村井幸三著)」では、阿弥陀三尊( 阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩を配する三尊 形式)で、厨子に阿弥陀仏座像とするという程度。
 なお、毎月24日は、この観音堂は開けておくとのこと、講のかかわりか、仏事との係わりかはわからない。

 後ろは、庚申塔群で、100庚申塔という言い方を聞く。

by shingen1948 | 2012-05-25 12:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(0)

地域の人々が伝える祈る心~飯坂「念誉山満願寺」

 地域の人々が伝える祈る心の整理に戻る。
 大鳥城址から、大手門の石碑を経由して、飯坂塞耳庵とのかかわりで、満願寺へ向かう。
 途中、震災で崩れた温泉集会所は整地され、共同浴場大門の湯の駐車場になっていた。

 ここは、先に、「天王寺の散歩」で、信達33観音12番札所を意識したという経緯の中で「飯坂散歩⑳:満願字観世音」として、整理している。
 その中でイメージした満願寺の配置を確認すると、この観音堂の北側に、別棟の籠り堂があり、その籠り堂の南側に小堂があって、その奥に仏間がある建物があるという配置だったとのことだった。その堂前に札張堂があったとか。<「信達33札所観世音霊場」より>
 この満願寺は、明治13年の飯坂大火で焼失して、観音堂だけになったという経緯のようだ。

 その散策で、この満願寺が、念誉山満願寺岩城専称寺末寺「信達両郡寺社院」ということを確認している。しかし、そのことが、今回の「地域の人々が伝える祈る心」とかかわることを理解していなかったらしいことが分かる。
 岩城専称寺は、浄土宗名越派奧州総本山の寺院であり、名越檀林傳宗道場の寺あるということを認識することで、この風景の見え方が変わるようなのだ。
 
 その岩城の専称寺の寺伝「梅福山主歴代」には、「13世 良実 真蓮社霊達 同州信夫郡満願寺開山 明暦3年7月23日寂」とあるとのことだった。これは、正式にその末寺とされているということになるということだ。開山者が明暦3年(1657)に亡くなられていることからは、この寺の開山はそれ以前の推定が。

 その明暦3年(1657)年代を確かめる。
 先の飯坂「塞耳庵」の良照不能開創は、元文5年(1740)9月だ。それと比べると、それよりも83年以上古くから歴史を刻んでいたということのようだということが分かる。
 無能寺とかかわる無能上人は、1683〜1719の方だから、それよりも古い時代だ。

 このことから、飯坂「念誉山満願寺」の視点で経緯を確認する。
 明暦3年(1657)飯坂「念誉山満願寺」は、浄土宗名越派奧州総本山の末寺寺院として歴史を刻む。
 その経過の中で、同じ名越派の無能上人が強烈な念仏のブームを起こし、その無能上人が入寂後、その弟子の不能が無能上人の徳をあがめて享保20年(1735)2月に「無能寺」と改称し再興される。
 その不能上人が、元文5年(1740)9月に飯坂「塞耳庵」に住するようになる。同じ浄土宗名越派の寺院であることから、この寺との交流があったのではないかと想像する。 
 それらの経緯の後、この寺は、宝暦7年(1757)に桑折無能寺の支配下に入るということなのだろう。

 更に、この名越派の特徴が一念業成を説くことであり、一念の念仏で往生が決まるという教えだったらしいという概観を付け加えておくことで、「地域の人々が伝える祈る心」としての風景が、より見えやすくなるということのようだ。

by shingen1948 | 2012-05-24 05:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(0)

地域の人々が伝える祈る心⑤~飯坂「塞耳庵」②

 適時ということでは、大河ドラマ「平清盛」にかかわる方を整理したいところだが、飯坂「塞耳庵」も途中だ。どっちを先にするかだが、適時を無視して飯坂「塞耳庵」を先にする。
 資料では、検証のために複雑な言い回しがあるのだが、散歩をする者にとって興味があるのは単純に、この庵の経緯。そのことに絞って整理する。
 飯坂「塞耳庵」
 元文5年9月 良照不能開創する。
 天明癸卯年 法禅尼が、中興する。
 文政2年4月 德譽素薫香山求寂尼が、その跡を継ぐ。

 「信達2郡村誌」では、中興の天明癸卯年法禅尼が創建と記される。中興の法禅尼は、この「塞耳庵」で亡くなられたらしい。その跡を求寂尼が継いだとみるらしい。
 また、筆弟子等建立から、寺小屋的な性格を持ち合わせたことを推定し、信仰と教育活動を併せ持つ事で、この庵を復興維持管理していたとみているようだ。

 その道に通じている方にとっては、「塞耳庵」と「良照不能開創」が気になるところらしい。
 「良照不能開創」なら、無能寺建立の不能上人の草庵で、笹谷の「称名庵」で整理した不能上人の活躍の後で、ここに住を移されたということになるのだろうか。
 その道に通じる方の根拠は、無能寺末寺帳で、飯坂「塞耳庵」が元文5年9月良照不能開創になっているらしいことと、「無能和尚行業遺事」の不能の序文に、「時に元文5庚申の歳9月終わりの5日、遺弟沙門不能、陸奥信夫の里丸山の麓の塞耳庵にして是を記し侍う」とあるらしいことのようだ。

 「塞耳庵」は、無能上人とのかかわりをイメージする名称らしい。
 命名は不能上人だろうか。憧れた無能上人にあやかりたいとの思いなのか、その域に達したと思われたのかは凡人には分からない。

 地域の方の見方だが、住民から「ゴアン」と呼ばれているとのことだったが、自分が聞いたのは、「『ゴアン』の地蔵様」だった。
 これらのことから、自分の感覚に素直に従ってこの風景を解釈する。

 地域の方の感覚を中心にしてみれば、この風景は、手の届かない聖人がお住みになったという語感「ゴアン」に聖地というイメージを込めるが、それが石塔群に象徴的に感じられる事ではないかなぁと思う。合わせて、そのありがたさに手を合わせてしまう対象として地蔵様がいらっしゃるということなのではないのだろうか。 勝手な想像だが、……。

by shingen1948 | 2012-05-19 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(0)

地域の人々が伝える祈る心④~飯坂「塞耳庵」

 笹谷の「称名庵」で気になった風景を確認したところだが、その作業を通して、ここが飯坂「塞耳庵」の風景であるらしいことが分かった。
 この「塞耳庵」は、「信達二郡村誌」では、上飯坂村の項で以下のように記される。
 元標の西南1町50間、夜蚊坂に在り。伊達郡桑折村浄土宗無能寺の末派なり。境内東西12間6寸、南北13間、面積5畝7歩3厘。天明癸卯年法禅尼開基創建す。

 この風景、散歩の中で気になる風景であったが、それを知る手がかりが無かったのだが、確認作業の中で、上飯坂村の「塞耳庵」の現状を記す資料を見つけたのだ。
 現在、当庵は住民から「ゴアン」(御庵か?)と呼ばれているが、すでに庵室の体をなしておらず、石造地蔵尊と3基の石塔に屋根がかけられているだけである。そのうち1基は無能名号が刻まれた供養塔(文化元年5月14日)で、いま1つは「当庵中興 祥興慈薫求寂尼 天保14卯年8月12日 関備前守内國分三益次女 筆弟子等建立」と刻まれている。

 「石造地蔵尊と3基の石塔に屋根がかけられているだけである。」という全体像は、その通りである。
 石塔について確認すると、「文化元年5月14日の無能名号が刻まれた供養塔」というのは、右側の石塔のことだろうと判読できる。付け加えれば、左に、「誓譽妙連法尼」とあり、右に、「本秀智性求寂尼」とある。
 そして、「天保14卯年8月12日の当庵中興 祥興慈薫求寂尼で、関備前守内國分三益次女 筆弟子等建立」というのが、中央の石塔だろう。「関備前守内國分三益次女 筆弟子等建立」は左側に、「天保14卯年8月12日」は右側に刻まれる。
 一番左側の小さな石塔の解説はないが、「德譽素薫香山求寂尼」が中央に、「元治2乙丑年2月○(2?)9日」が右側に、「大和國○村駿河 家中上山氏」が左側に刻まれる。

 なお、ここは、「花水山孝徳寺~高舘周辺散歩」の散歩で、高舘周辺案内図の表示から明治6年(1873年)に廃寺になった「花水山孝徳寺」の跡なのではないかと勝手に思ったところでもある。この近くらしいとは思うのだが、こちらの確認はまだできていない。
 
 笹谷の「称名庵」で整理した不能上人のその後と、この飯坂の塞耳庵のかかわりを指摘する資料もみる。

by shingen1948 | 2012-05-18 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(0)

地域の人々が伝える祈る心③

 案内板は、ある程度体系化された事を基盤にして解説される。その観点からすると、混沌としている部分はさらりと流したいところなのかもしれない。しかし、体系化や形式化が進むと、その根本にあった心の部分が段々忘れ去られていくということなのではないかとも思う。その観点を大切にすると、解説の中でその混沌として曖昧な部分にこそ、祈る心に関わる思いを読み取るヒントが隠されているように思う。

 改めて、称名庵を訪ねると、その西側に並ぶ石塔群の中に、少なくとも4基の念仏に関わる石碑が並んでいる。この庵が、本寺から正式に末寺とされているのかどうかは分からないが、これらの石塔群が、庵からみて本山とかかわって建てられたということではあるのだろうと想像する。

 無能寺を起こす不能上人の状況の経緯がある程度見えてくると、その石塔群の年代を確認したくなるのだが、今回はそこまで深追いしない。というのは、風景として強力なパンチを送ってきたのは、権威とか、名のある方とか、有名な寺とかという事に関係なく、地元の方が、純粋に祈る心を伝えるという部分だからだ。
 散歩人として楽しむのは、享保8年(1723)以前の話の方で、繰り返すと、無能上人の感化を受けた方が、この庵で道を求められ、その方の感化を受けた地域の方が「仏名会」なる会を組織し、仏像を建立されたという物語なのではないかという勝手な想像だ。

 ただ、もう一方では、そのことを知り得るには、その体系化が必要だということでもあるとは思う。
 不能上人の活動の概略をメモしておく。
 正徳2年(1712)に上人は、保原浄運寺6世の元で得度しているが、この庵が建った時代は修行の身であったようだ。正徳3年(1713)には、専称寺に入寺し、享保6年(1721)あたりまでの間に、浄運寺に出入りはしているが、住職という立場ではなさそうとのことだ。
 不能の念仏勧化が、享保8年(1723)24歳~享保16年(1731)32歳の頃であることは、先に記したが、この間に、享保10年(1725)に桑折付近に草庵を、享保15年(1730)に保原浄運寺の住職になるという経緯があることを付け加える。
 そして、享保18年(1733)からの無能寺と改号の動きにつながる。

 今回のこの石塔群の風景は、求道者が起こした庵が、地域の人々の信仰の拠点となり、あるいは勧化の要請主になっていたことが想像できるものとして整理しておく。

by shingen1948 | 2012-05-17 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(0)

地域の人々が伝える祈る心②

 熊野神社で気になる風景を見つけた事についての確認を続ける。
 案内板では、庵にかかわっては、以下のように解説されている。
 称名庵 開山創建享保元丙申年7月15日<280年前>
 宗派 浄土宗 名越派
 山号寺名 来迎山 称名庵
 本山 伊達郡桑折町 守一山 無能寺
 本尊仏 阿弥陀如来
 脇待 観世音菩薩 勢至菩薩
 開基 黒沢信海和尚 

 最近、どこかで元号と西暦を併記しないと頭の整理が出来ないのは、日本史をよく学んでいない者の習性らしいということを読んだが、自分はまさにこれに当たる。

 この庵の開山の享保元年頃は、西暦では1716年。この時、ここで本山とする伊達郡桑折町 守一山 無能寺としてはまだ存在しない。
 正徳寺であったこの寺が、無能寺として改号するのは、享保20年(1735)2月とのことだ。この改号に向けて、享保18年(1733)に無能の影像と石浮図塔が運ばれ、不能上人がこの正徳寺住職に任命され、そして、入仏式が翌年(1734)に行われて、まず正徳寺として復興する。 そして、享保20年(1735)に捨世寺として無能寺と改号が完結するという状況だったらしい。

 この庵主である黒沢信海和尚という方がこの庵に住まわれて、地域の方が「仏名会」なる会を組織し、仏像を建立されたとされる時代は、無能寺以前の経緯と思われる。

 大胆かもしれないが、直接的に無能上人の影響を受けられた方との想像をしてみる。
 というのは、正徳5年から享保元年辺りにかけては、その無能上人の念仏勧化が活発な時代ではあるらしいというような状況のようなのだ。この時の上人の法談場は、常にその会場となる寺院の収容能力の限界を越し、その話の内容を聞くという状況ではなかったらしい。それでも、大半の人々は、無能を一目見て彼に結縁すればそれで満足するという状況だったとか。
 この信夫の里でも、今の時代からは想像もできない念仏流行の状況があったらしいのだ。
 なお、無能上人は、享保3年(1718)頃からは病気がちとなり、享保4年(1719)には入滅しているという状況のようだ。

 無能寺を起こす不能上人の念仏勧化は、享保8年(1723)24歳~享保16年(1731)32歳の頃とのことであり、この庵がそちらとかかわるとすれば、享保8年(1723)以降の話だろうと思う。
 散歩人として楽しいのはそれ以前の話で、無能上人の感化を受けた方が、この庵で道を求められ、その方の感化を受けた地域の方が「仏名会」なる会を組織し、仏像を建立されたという物語なのではないかという勝手な想像だ。

by shingen1948 | 2012-05-16 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(2)

地域の人々が伝える祈る心

 「季節便り2012年の桜の頃④~熊野神社の風景を切り取る」で気になる風景を見つけた事について、確認を続けてみる。

 庵に掲げられた案内板に、この「石仏」について、以下のように解説されている。

 石仏 阿弥陀如来座像
 由来
 黒沢信海和尚が享保年間に(この庵を)開山、その数年後、地域の仏名会の数十名が地域の無病息災、家内安全を祈念して献立した。
 
 如来は、仏様と一般によばれているが元来仏様の教えやさとり慈悲(思いやり)を表したものである。
 それを仏像にしたのが、阿弥陀如来座像である。南無阿弥陀仏を文字で表した仏様である。
 仏は人々を悩みから救い、苦しみ、悲しみのどん底にいる人の為には希望が持て、病に苦しむ人を和らげ心の支えとなっている。
 ここから読み取れることを確認する。
 この熊野神社を鎮祭したのは、当地居住の上杉景勝の家臣青木・吉原・長井の3氏で、元和年間(1615~1618)とのことである。
 したがって、その一は、この阿弥陀如来座像及び庵は、ここに熊野神社が鎮祭された後に建立されたという経緯という事が分かる。
 もう一つが、この神社境内に鎮座する阿弥陀如来座像を建立したのは、地域の方数十名の名も無き方であるということのようだ。
 更には、恐らく、「仏」について解説された方も、この地域の方々であろうと想像できるということだ。

 このことを整理すると、気になるのはプロの仏教者が建立したのではないらしいということだ。ごく普通に日常生活を送る人々が、心を込めて建立した石仏であるということだ。
 この仏像を建立された方々が組織されている「仏名会」なる会が、現在も存続しているものかどうかは分からない。しかし、この解説には、少なくともその会の精神は受け継いでいきたいものだという心持が感じられる。
 そこに、浮かび上がるのは、生々しく祈る心を受け継ぐ息遣いだ。その感化力の発現が、ここに固有名詞で語られる黒沢信海和尚という方らしい。
 この方がどういう方かは知らないが、その方の感化力で、この阿弥陀如来座像が建立され、祈る心が息づいているということが想像されるということだ。

by shingen1948 | 2012-05-15 05:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(0)

湧水の里の風景⑧~大笹生トンネル

 大笹生トンネルは、東北中央自動車道の福島市と米沢市間の福島側最初のトンネルという。その東北中央自動車道は、福島県相馬市を起点として、福島市、米沢市等を経由して、 秋田県横手市に至る幹線道路とのことだ。
 この道路は、福島県、山形県、秋田県の主要都市を結ぶとともに、 常磐自動車道、東北縦貫自動車道、山形自動車道、秋田自動車道と接続することから、山形県内陸部と北東北や南東北地域を結び、緊急時の代替・迂回等の機能の強化をも担う路線という。
 そういう視点でみれば、期待される道路の福島市側最初のトンネルと見える。

 しかし、湧水の里の風景という視点で見れば、別の見え方になる。
 このトンネルは、おだやかな傾斜を持つ台地形状の通称台山(最高高さ462m)を貫く延長2090mトンネルだが、この台山こそ、十六沼脇の山神がその対象とする山である。
 台山は、山の幸を与えてくれる山神の籠る聖地であるということである。その山神が籠る聖地の山に横穴を空け、事実として認めてはいないが、瀧清水の水脈をぶった切って、枯渇させてしまった可能性があるということだ。

 これは、2009年7月に、国道13号線側から見た大笹生トンネル側を見たてところで、小川橋が沖根山トンネルへ延びてきている様子だ。
 この大笹生トンネル工事の経緯を確かめると、2007年からnatom工法で福島側から掘削が始まったのだが、約600m付近でトラブルが発生しているようだ。
 掘削に伴う地山の変形が計画値を超え、吹きつけたコンクリートにひびが入り、地山を補強するロックボルトが切断する事態に遭遇したとある。
 工事関係資料では、その難局を乗り切った自慢の対応として語られる。
 この原因は、予想を越える湧水で地山の粘性土が膨らんで、トンネルにかかる土圧が増したためで、トンネル断面の変形は20㎝以上だったとのことだ。責任のない素人の散歩人の立場では、これが、瀧清水の水脈とみる。山神の抵抗とも見える。
 工事関係者は、直ちに吹きつけコンクリート厚を増すなどの再施行施してこの難局が乗り切れたという視点だ。
 事前の計画とともに経験とノウハウを生かしての対応が自慢される。
 一見すると、山神を人間の技術が征服したというふうにもみえるが、……。

 今回はその逆の視点で、湧水の里の風景を一変させたトンネルとして眺めている。
 「瀧清水」の水量が激減し、東北中央道の大笹生トンネル工事との因果関係が指摘されているということで、山神を無視した開発という視点での眺めだ。

by shingen1948 | 2012-03-31 17:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(0)

今から思えば(2012)の4

 昨年3.11以来思考が停止している。その自覚があって、図書館や書店で設置される東北大震災や原発事故のコーナーには近づかないようにしている。
 もう一つ感覚的な症状がある。それは、この災害にかかわる報道を素直に観られていない自分がいるということ。ただ、歪んだ見方をしているという自覚はあるのだが、その起因するところが曖昧なのだ。

 そんな時、宗教に関心があるわけではないが、たまたまNHK教育「こころの時代~宗教・人生~」を観た。
 山浦玄嗣氏が、医院のある岩手県大船渡市で、東北大震災の被災と向き合う姿を伝えていた。キリスト教徒でもないので、この方については、ケセン(気仙)語の聖書を書かれた方という程度の認識しか持ち合わせていない。

 まず導入で語られたのは、一町医者として被災した患者と接した時の感慨が中心で、地元の電気屋さんや水道屋さんに助けられたことなども語られる。
 これが、素直にすとんと入ってきた。

 それから、津波被害に関わって、宗教的な考えを織り交ぜ、祈りの原点とか、災難をどう考えるかという話が、展開する。
 要約してしまうと空々しくなってしまうが、途中の話の積み重ねで素直に自分の心に確かに響いている。
 この津波の災害の中で、我々は本当に打ちのめされて、生きているんだか死んでいるのか、自分もわからないほど心がポッカリ空白になって、何を言っていいのか、何を感じていいのか自分の感覚さえもわからなくなってしまう、そんな虚脱感の中に叩き込まれました。
 でも、また立ち上がろう、また立ち上がろうではないか、そして明るく朗らかに元気に力強く新しい暮らしを始めて行こうではないか。

 ここで気づいたのは、津波という災害に向き合う姿を観た時には、歪んだ見方が全くないということだ。

by shingen1948 | 2012-03-11 05:51 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Trackback | Comments(0)