地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:ブロクとわたし( 18 )

 【会津のわだつみ「長谷川信」氏にかかわる情報を得ているサイト】として、「Web東京荏原都市物語資料館」のページをリンクさせていただく。
 メモ帳のページは、今は簡素化されたようだが、最初の頃はちょっと面倒だった。その頃のやり方を踏まえたままなので、ここに一度下書きして、それをメモ帳のページに張り付ける。
 〇 < Web東京荏原都市物語資料館

 「会津の「わたつみ」にかかわる資料について②」に掲げた信氏の所属する「と号第三十一飛行隊隊」の概要と「Web東京荏原都市物語資料館」のページからの情報を照らし合わせると、次のような状況が分かる。

 この隊の7名が特攻戦死だ。
 長谷部伍長以外の出撃基地は、台湾八塊飛行場とのことだ。長谷部伍長は、誠隊から振武隊に転属して、知覧から特攻出撃しているのだということだ。
 この隊では、長谷川中尉をはじめ4名が戦死扱いになっている。
 長谷川中尉、西尾軍曹、海老根伍長は、台湾へ前進中、与那国島で敵機に撃墜されたためだとのこと。
 飯沼伍長も戦死だが、こちらは少し事情が違うようだ。こちらは、特攻出撃はしたのだが、戦果が確認できなかったために戦死扱いになったとのことだ。

 会津の資料では明らかにならなかったこの隊の飛行コースだが、新京から松本へは、新京一平壌、大邱を経て、大刀洗飛行場→各務原→松本のコース。
 松本から台湾へ向かうのは、松本一各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→ 杭州(筧橋)→台湾八塊のコース。                          

 この隊は、浅間温泉の富貴の湯で東大原国民学校学童疎開児187名と出会う。
 「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」は、これを糸口にして集められた情報をもとにして紡まれた物語なのだろうと想像している。
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by shingen1948 | 2017-09-20 11:58 | ブロクとわたし | Comments(2)
 「戦争経験を聴く会語る会」に参加された方の講演メモから、信氏の所属する「と号第三十一飛行隊隊」の概要部分をお借りする。

 特攻4隊は昭和20年(1945)2月10日満州新京(現・吉林省長春)で以下の特攻隊四隊が編成される。この中の誠第三十一飛行隊(武揚隊)が、長谷川信氏が所属する隊だ。
 〇 武揚隊=と号第三十一飛行隊山本中尉以下 15名 機種・九九襲
 〇 武剋隊=と号第三十二飛行隊広森中尉以下 15名 機種・九九襲
 〇 蒼龍隊=と号第三十九飛行隊笹川大尉以下 15名 機種・一式戦
 〇 扶揺隊=と号第四十一飛行隊寺山大尉以下 15名 機種・九七戦

 武揚隊=と号第三十一飛行隊には、以下の15名が所属する。

 山本  薫  中尉 23歳 陸士五六期 特攻戦死 昭和20年5月13日 徳島
 五十嵐 栄  少尉 24歳 特操一期  特攻戦死 昭和20年5月13日 山形
 柄澤甲子夫  伍長 21歳 航養十四期 特攻戦死 昭和20年5月13日 長野
 高畑 保雄  少尉 22歳 幹候九期  特攻戦死 昭和20年5月17日 大阪
 五来 末義  軍曹 19歳 航養十四期 特攻戦死 昭和20年5月17日 茨城
 長谷部良平  伍長 18歳 少飛十五期 特攻戦死 昭和20年5月22日 岐阜
 藤井 清美  少尉 24歳 幹候九期  特攻戦死 昭和20年7月19日 京都
 長谷川 信  少尉 22歳 特操二期  戦死   昭和20年4月12日 福島
 西尾 勇助  軍曹 20歳 航養十四期 戦死   昭和20年4月12日 千葉
 海老根重信  伍長 19歳 航養十四期 戦死   昭和20年4月12日 茨城
 飯沼 芳雄  伍長 19歳 少飛十四期 戦死   昭和20年7月19日 長野
 中村 欽男  少尉     幹候    生還
 力石 文夫  少尉     特操二期  生還
 吉原  香  軍曹     航養十四期 生還
 春田 政昭  兵長     少飛十五期 不明

「会津の「わたつみのこえ」を聞く32」でふれたように、ここで力石文夫氏とされる生還者は、「明治学院百年史」がいう「信と同じ第一次「学徒出陣」組で特捜2期生だった力石丈夫(神奈川県在住)」氏とされる方と同じ方だろうと思われる。
 また、ここで中村欽男氏とされる生還者は、「明治学院百年史」の中村メモ者である「中村敏男(大分県在住)」氏だと思われる。この方は、信氏の上官で、台湾に向かう時の交戦で、右肩撃ち抜かれ左腕に盲貫、顔面に破片による裂創を負い戦闘不能となり、低空飛行で与那国島に向かい不時着された方だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23904097/

 「会津の「わたつみのこえ」を聞く36」で最終的に確認したように、長谷川信氏の菩提寺に奥さんと尋ねて来た方は、生還者の吉原香軍曹(茨城県出身)だと思われる。
 この方は、済州島へ飛来した時点で機が不調を起こして不時着したとのことだ。この時に怪我を負ったようだ。
 この方は、古河地方航空機乗員養成所で同期だった扶揺隊の生き残り久貫兼資氏が、茨城県古河市まで会いに来たことがあるらしいという情報とつながる。
 また、八紘荘の海老根軍曹の言からは、三十一飛行隊の海老根氏、柄沢氏、五来氏、吉原氏は、同期生であり、他に4名が朝鮮、上海経由で台湾に行く事になったとあるその「他に4名」の中に、長谷川信氏も含まれていると思われるということだった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23913509/
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by shingen1948 | 2017-09-19 10:15 | ブロクとわたし | Comments(0)
 「会津へ『わたつみのこえ』を聞きにいく⑯:戸ノ口の風景とその変遷⑥」で記したように、自分を「きけわだつみのこえ」に紹介される長谷川信氏の世界に導いて下さったのは木村健氏だ。
 その木村氏が、東京の学童疎開児童との交流とかかわり情報やNHKラジオ深夜便出演を機に得た人脈を通して信氏の所属部隊の様子や信氏の最後の状況に至る経緯にかかわる径なども明らかになってきたようだ。その冊子が近々出版されるとのことだった。

 それが、「Web東京荏原都市物語資料館」のページを確認したら、「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」と題して出版されたようだった。

a0087378_100252.jpg 帯に紹介される「知覧だけでない新たな特攻出撃の史実を掘り起こす」というのに、信氏の所属した「武揚隊」も含まれているように思われる。
 「愛機に「必沈」と書き入れる武揚隊の山本薫隊長。松本-新田原を経て、兄弟隊の武剋隊に約1 か月半遅れて、1945 年5 月13 日台湾八塊より発進。沖縄西方海上の敵艦に突入、散華。彼の長文の遺書も発見された」と紹介されるのが、信氏の所属した隊の隊長さんだ。

 読んでみたかったが、価格が自分の懐具合に比して高かった。
 「ライフログ」は、本当は読んだ本を掲げる趣旨であるらしいが、今回は紹介の意味で掲げさせていただいた。先にも記した通り、自分を長谷川信氏の世界に導いて下さったことに対する感謝の気持ち。
 ただ、現在のところ紹介のページまでリンクできていないので、とりあえずここから「Web東京荏原都市物語資料館」がリンクさせているページにつないでおく。
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by shingen1948 | 2017-09-18 10:00 | ブロクとわたし | Comments(0)
 管理画面を整理しようと思ったのは随分前だ。
 それが遅れたのは、管理画面の変更があったからだ。年を取るとその変化になかなか対応できないという事情があった。それも理由の一つではあるが、操作のたびにエラーが発生したのだ。
 記事投稿でさえスムーズでなかった。記事を書き上げ「投稿」のスイッチを押したら、「このページは表示できません」などということが何度かあった。こちらのミスではなく、管理画面変更に伴ってのエラーだったのだと思う。
 困ったのは、こちら側の苦労だけではなかった。コメントのページにもスムーズに移動できずに、失礼を承知でそのままになってしまったこともあった。

 最近、ようやくスムーズに動くようになったと感じるようになった。それで、[地域の活動や情報]の欄を整理してみた。以下の二つのリンク先を過去歴にしまった。
〇 「楽山舎通信(旧まち・もり・ひと)」のブログが閉じられたようなので、「過去歴」の中にしまった。
 「まち・もり・ひと」の表題の時代には、野生動物とのかかわり方の考え方とか、田舎の本当のよさは何なのかなとかといったことにいろいろと示唆を与えていただいた。その後、「楽山舎通信」と表題を変えられたようだ。この時代は、二本松の情報を確認させてもらっていた。

〇 「福島市街地周辺地域の安心を守る住民の会」のページも閉じられたようなので、これも「過去歴」の中にしまった。
 都会人が理想を語り、その実現のための迷惑施設は田舎に押し付ける。そこにあめを加えてがんじがらめに締め付けて反対できなくした施設が原発かな。
 「福島市街地周辺地域の安心を守る住民の会」のページの副題<福島自立更生促進センターの安易な構想と運営に反対する会>は押し付けられた田舎の抵抗だと思っていたが、震災でこの運動が消えてしまったようだ。それでも、そのままページは存続していたようなのでそのままにしていたが、最近は民間会社のページにつながるようになったのでリンクをやめた。
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by shingen1948 | 2016-09-16 09:43 | ブロクとわたし | Comments(0)
 震災前、福島自立更生促進センターの安易な構想と運営に反対する「福島市街地周辺地域の安心を守る住民の会」のページにリンクしようと思ったのだが、そのままになっていた。
 しかし、東京電力の原発事故で、旧来の公共のためとのお達しにお上に逆らえない姿勢では、都会の中央エゴ論からその被害を免れることはできないことが明らかになったように思えた。
 現在は、福島自立更生促進センターの南側に、原発事故被災者の仮設住宅が建ち、近くに立てられていた反対運動の旗はいつか消えていた。「福島市街地周辺地域の安心を守る住民の会」のページ自体も、2013/02/28から更新がないようだが、つながせていただく。
 http://f-anshin.com/

 地域の散策と「福島自立更生促進センター」とのかかわりを整理しておく。
 法務省が刑務所の仮出所者の受け入れ施設「福島自立更生促進センター」を福島市に開所しようとして、建設地の地域住民と対立したのは、2010/3/8頃だった。
 この施設が必要であることは、多分誰にも異論がないのだが、それが自分の近所に造られては犯罪が起こりそうで困るという施設でもあるということだ。
 この事について、散歩で目についた看板をもとに、「福島自立更生促進センター考」として整理したのが2011/1/1だった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11820832/
 その問題の本質は、大義に異存はないが、自らがそのマイナス要因を被る立場になった時にどうするかということだ。
 その経緯をみると、保護観察所は06年夏に、概要を市や近隣町内会長に説明していることが分かる。ここで大きな反対運動もなく、08年1月に着工し、同7月に完成させている。
 推進者の説明によると、開設を見合わせた他所との違いは、反対運動がなかったとのことだった。都会では、市や近隣町内会長に説明した時点で、しっかりと反対の意思表示をしたが、福島市や近隣町内会長はそれができなかったということだった。
 この時点では、強引に開所に踏み切ったという背景から、その推進者の誠意に?をつけて整理した。

 散歩の中では、その推進者の説明で地域が学んだことは、とりあえず絶対反対をすることの大切さということだというふうに見えた。そのことを「福島自立更生促進センター考②」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11826592/
 「福島自立更生促進センター考③」では、受け入れ体制の充実が「待ったなし」の状態なので、この時点で、中央エゴの論が勝利する結末は分かっていた。大手中央紙は、大義のために、そのマイナス要因を被る可能性の立場はさておいて展開すべきとの説教論が主流になっていた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11832462/

 震災を通して学んだのは、都会の中央エゴ論からの被害を免れるには、たとえ公共のためのお達しといえども、言うべきことをしっかり言わなければならないということかな。
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by shingen1948 | 2014-05-05 05:13 | ブロクとわたし | Comments(0)
 2011震災のインパクトが強くて、それ以来、頭の整理ができていない。最近、考える余裕が少し戻っているようにも思う。今回、「地域性にこだわった題材や公演場所の選定」にこだわった「劇団120◯EN」の方からコメントを頂いたのを機に、この欄を見直して、整理しようと思った。
 まずは、「地域性にこだわった題材や公演場所の選定」にこだわる「劇団120◯EN」のページをつなぎたい。「時々お邪魔しています」という題なので、ことわりなしで許されるかなとの勝手な判断。つなごうとしたら、公式サイトは現在登録期限切れのようなので、紹介サイトにつないでおく。
 http://stage.corich.jp/troupe_detail.php?troupe_id=9290

 そのまま継続して残すのが、「楽山舎通信(旧まち・もり・ひと)」・「 < 街道Web >」・「<尺八修理・製管・販売 尺八修理工房幻海>」・「< 坂の上のサインボード>」・「会津暮らし」のページとそのリンク。その理由は以下のようなこと。
 「楽山舎通信(旧まち・もり・ひと)」さんは、情報発信の内容や方法を変化させながらも、地域情報の発信は継続されている。
「 < 街道Web >」・「<尺八修理・製管・販売 尺八修理工房幻海>」・「< 坂の上のサインボード>」・「会津暮らし」さんは、以下のようにリンクした当時と変わらない。
〇 「街道筋や廃道などを確認する時に参考にしている「 < 街道Web >」
〇 <福島の尺八のゆかりの地紹介とのかかわりで知った「<尺八修理・製管・販売 尺八修理工房幻海>」
〇 大河視聴で参考にしていた「< 坂の上のサインボード>」
〇 会津の地域情報「会津暮らし」
 リンクを外すのが、「oygd's blog」・「南奥州戦国記」のページ。その理由は以下のようなこと。リンクを外すが痕跡は残す。
〇 「oygd's blog」さんは、サロン化なされたのかな。つながらなくなった。
〇 福島商工会議所青年部によるサイト「南奥州戦国記」さんは、ポイント的に福島県・宮城県・山形県の戦国時代の史跡が紹介されていたが、今は商業的なサイトにつながるだけになった。
〇 「福島ふれあい歴史館」は、ブログは先に閉じられた時点でリンクを外しだか、昨年は、館自体の公開も閉じた模様。田舎でありながら、新しさや観光に未来を求める市民性のようなものは、震災後も健在。
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by shingen1948 | 2014-05-04 06:06 | ブロクとわたし | Comments(0)
 最近、項を起したのが、「福島の建築」と「福島と戦争」だ。
 最初から、何でもありという広い範囲を想定していた。建物に限らず、橋とか道も含める。建物も、建物そのものに限定せず、その建物が建つ背景も含めること、更には建物の材料も含めてアバウトに思いつくまま整理すると思っていた。
 新しい建物ができれば、必ず古い物が解体される。その古い物を記憶に留めようと意識したのは、この時だった。市役所や曾根田駅を撮っておこうとしたのは、そのためだ。
 整理していく中で、衝撃的だったのが東北電力の旧舎が解体される現場に出会ったことだ。写真に納めておこうと思って出掛けたタイミングでこの解体シーンを整理することになった。
 福島と戦争では、今のところ戦争遺跡とかかわる事柄を意識して整理している。

 「芭蕉の足跡」は、初めは「奥の細道」をたどる散歩だったが、散策していくうちに、神聖化された芭蕉像とは違うイメージが浮かんできた。そんな中、「坂の上の雲」の放映をみて、子規に興味を持った。暗くて近寄りがたい子規像が、人懐こく病の中で前向きに生きようとするイメージに変わった。それは演じる方の力によるものなのなのだろうが、改めて「坂の上の雲」の原作に当たってみても、そのイメージは崩れなかった。それで、「はて知らずの記」を参考に、子規の歩いた道をここに重ねて整理し始めている。この比較が、神聖化された芭蕉像批判と重なる。

 話題への興味は、大きく変化している。
 教育話題、環境話題は、ほとんど更新が無い。最近、抽象論としての話題には興味が無く、考えるのは身近な地域とかかわることだ。「地域・自治話題」で間にあう。「自治話題」を「地域・自治話題」に変更しここに入れて、それ以外を「その他の話題」で扱えばいいと思っている。

 自分としては、同じ事を繰り返していると思っているのだが、やっていることも考えていることも少しずつ変化しているという事を実感する。このカテゴリーをいじることで、そんな自分の変化が確かめられた。
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by shingen1948 | 2011-01-31 05:17 | ブロクとわたし | Comments(0)
 最近、実際に整理していることと、カテゴリーがずれてきていることを感じていた。それでも、自分の頭を整理するだけなので支障はないということで、そのままにしてきたところだ。しかし、年が変わったことなので、これを機に少しいじることにした。

 「会津からの路(信仰と文化)」の項目は、「会津からの路」を外し、「信仰と文化」と変更した。
 スタートの時点では、会津の恵日寺を意識していた。散策の範囲も、仙道地域の徳一の影響を受けた事を誇りにしている範囲だったので、この題がぴったりだった。ところが、散策の範囲が霊山寺まで広がってくると、もう一つの文化という対立的なイメージが強くなった。
 散歩のイメージでいうと、法相宗に同化するというよりは、対峙する天台宗というようなイメージだろうか。これらを、包括的に整理していくには、「会津からの路」という限定を外す方が整理しやすいと思ったのだ。
 そうすると、「地域の散策と心の故郷」の「心の故郷」との重なることが多くなるが、こちらは修正せずに、自分の気分の変化の様子を見ていくことにする。

 「会津への路(伊達政宗)」は、伊達氏の旧地である信達地域の散策から、伊達政宗が会津をめざす辺りを散策していたことを整理していた。その中では、伊達氏と対峙する方々とかかわる散策も含めて整理していた。これには、山岡氏の「伊達政宗」を、現地のイメージを持ちながら読むという、もう一つの楽しみがある。今のところ、1~3は、そうなっていると思っている。
 ここに、「信夫の里(天地人の時)」の散策がかかわると、伊達氏が会津を後にした時代になるのだが、そのまま伊達氏は伊達氏として整理したいので、そのままのカテゴリーの中に入れている。

 「埋蔵文化財(古墳・それ以前)」というのは、最初「安達太良山麓埋蔵文化財」というカテゴリーに整理していた。それは、高橋丑く太郎氏の古代史の研究の足跡をたどっていたからだ。氏の範囲が、大玉村、本宮村を中心とした古墳時代以前の埋蔵文化財の研究を中心としていたので、その題にした。
 しかし、そのうちに安達太良山麓だけでなく、信達地域や会津地域の散策の中の古代史とかかわるものもこの中に整理していくようになった。題はそのままにしていたが、これも「埋蔵文化財(古墳・それ以前)」というカテゴリーに変更した。

 これ等は、自分の置かれている環境の変化に伴う活動の変化でもある。そのことで、視野が変わる。そこに散歩の経験の積み重ねが加わって考え方も変わるという変化でもあると思う。
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by shingen1948 | 2011-01-30 05:03 | ブロクとわたし | Comments(0)

ブログに書くということ

  ブログをやる理由を経験的に確かめている。
  今のところ、「書くことは、書くことを見つけることであり、日常の生活を見つめることである。」ということを理由にしておきたいと思っている。
 まず、書いていて分かるのは、書くことそれ自体は、考えを整理することであるということだ。
 次に思いつくのが、書くためには、書くことを見つけなければならないということだ。この見つけるという作業こそが、今のところ大きな仕事になっている。それは、日々の生活を見つめるという仕事である。今までは、聞き流し見流しだった(見流しは造語かな)。立ち止まって考えることは少なかった。立ち止まってみると、いろんなものが見えてくる。見えてくるものは、小さいけれども真実に近い感じがする。真の美しさであり、真の醜さである。包んでいたオブラートを透かして、ものの原型が見えてくるといった感じだ。
 更に、真の姿が見えてくると、そのかかわりが気になりだす。今まで見えていた世界が、虚構だったのではないかと思えることがでる。たいしたことではないのだけれど、自分にとっては大発見なのである。

 
最近の発見は安達太良山である。「安達太良山」から思いつくイメージは、「観光」であり、「温泉」である。智恵子が言う「本当の空」などという明るいイメージも浮かぶ。これを見つめ続けていると、それだけでないことまで見ることになる。
  まず、何の意識も無く、安達太良山の防災計画を見つけた。これは、今にして思えば、このことは、負のイメージを見つめていくことになっていたのだ。「荒々しい山」、「噴火」、そして、「災害」、「避難」といったことについて考えることになる。
  次に起きる意識の変化は、負のイメージを受けることのない地域の発見である。具体的には、玉井地区は、負のイメージの影響を受ける事がないという発見である。それは、日々の生活では、水のよさとしては気づいているのだが、安達太良山と関連付けては考えていない。
 更には、関係に思い至るのだ。水質を確認していくと、和尚山が、安達太良山の荒々しさをストップしていることに気づかされる。それは、堤防のようにそそり立つことだけでなく、木々がうっそうと茂り、足を踏み入れることまでも拒否することによることのすばらしさに気づくことになるのだ。登山のルートとしての解説の中では、「二度と通りたくない」などの記述を見つける。これは、負の記述になっているのだが、この人を踏み入れることを拒否する自然があることが、豊かな水系が保たれている原因なのだということを知るといった具合である。
  イメージの広がりは、これだけにとどまらない。行政の区切りは自然の区切りではないという当たり前のことを改めて思い知ることにもなるのだ。
  安達太良山の荒々しさの影響は、荒川まで影響しいることに気づく。そうすると、荒川の荒々しさと付き合う人々や、吾妻の水系が気になるといった具合に新たな広がりを意識することになるのである。
 今まで、点として見つめていたことが、線になり面になるという実感がおきはじめたところである。

 更には、書いたことを整理する必要が起きる。記事の量が増えてくると、分類をしなおすことが必要になってくるからだ。カテゴリーを整理していると、自分の頭の中が整理されてくる自分を感じる。上記のことも、やっている時点では、漠然としたものなのだ。漠然と何を感じていたのかが、この整理を通すことによって明確になっていくといった感じである。

 書く習慣を維持するために、ブロクを続けているというのが、今の段階での理由である。
 なお、最近のカテゴリーの整理状況だが、地域の散策を分類し、項目に分けている。未分類で書き溜めていくのは、そのまま「地域の散策」に書き溜める。それをふりわけるという感じであった。ところが、それだけで済まなくなった。「治水と親水」について小項目にしようとしたのだが、ちょっと大きなカテゴリーになっているという感覚が起きたのだ。そこで、「治水と親水」については、大きなカテゴリーとして独立させた。
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by shingen1948 | 2006-12-23 07:23 | ブロクとわたし | Comments(0)

すごい時代がやってきた

  学生時代、同人誌を仲間とやっていたとき、あきれた友人がいて、合評会では、「自分の作品は、言い訳しない。書いてしまった以上作品が話をするので、作者がああでもないこうでもないと言うものではない。」というのだ。これでは、合評会にならない。いつも分裂。そして、しばらくすると、もう一度組みなおして、新たな同人として再スタートする。そんなことでした。
 「売れるかどうかは、気にすべきでない。」編集を任され、印刷屋さんのアドバイスを受けて、同人仲間に言われた回答である。印刷屋さんが言うには、「内容の良し悪しは、手にとって貰ってからの話だ。まずは、本屋さんに置いてもらったとき、手にとってもらえることが大切であり、それは、表紙で決まる。」といわれたのだ。本音は、金が無い。金をかけるなら中身にかけたいという事だろうが。
 読んでもらうのに宣伝はいらない。コンクールに出すなどというのも邪道である。いい作品かどうかは、自分が一番わかる。

 ご説御尤もだが、どう見たって思い上がりでしかない意見である。こんなことで、同人誌を運営していけるわけが無い。だから、其の後も、仲間としては付き合っていたが、同人誌としては解散した。今思うと、当たり前なことである。若さとは、恐ろしいもので、これが正しい論理と思っていた。

 ところがである。このとてつもない思い上がりが、可能なのである。言い訳しない。手にとって貰うために手立てを講じなくてもいい。いいか悪いかは、自分がわかる。こんな無茶苦茶な論法が通用するのだ。
 ブログをはじめてようやく2月である。その間、何もしなくてもアクセス数が700を超えている。
  知人には、このブログについては話をしていない。ただ、書きたいことをつづっているだけである。何もしていない。それでも、ブロクの世界は成立してしまう。これが、ブログをはじめて二ヶ月目の感想である。
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by shingen1948 | 2006-11-18 08:32 | ブロクとわたし | Comments(0)