地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:福島の鉱山( 50 )

 昨日整理の「大森鉱山」の続き。

a0087378_6121943.jpg 大森鉱山を意識すれば、この八幡神社のある睡眠山がその中心のようだ。確かに、鳥居の右奥を見れば、それらしい岩山であることが分かる。
 「福島の鉱山」では、「大森鉱山」の位置は次のように説明される。

 松川金山の北に近く、福島駅の西南5㎞、大森、平田、鳥川三村の界に跨がり、城山、八幡山、玉の森等の丘陵が福島盆地に半島状に突出した部分にあり、嘗て事務所を八幡山の北麓に、精錬所を城山の西側に置いた。
 案内板ではその事務所跡はプロットされていないが、ここでは「事務所が八幡山の北麓に」あったことが記される。
 ここでいう「八幡山」というのが、案内板にある「(大森城の)西方にある睡眠山(黄金八幡)」ということだ。案内図では、山の北側を中心に、周りにたくさんの鉱山関係の施設跡があったことは図示される。
 特に、神社の北側の道路の北側に広大な施設が広がるが、恐らく、鉱石の運搬や集積、砕石にかかわる施設だったのではないかと想像する。
 ここが鉱石の集積場なら、先に整理した丸山鉱山の鉱石はここに運び込まれたことを想像するところだ。
 案内板では「信夫山や大笹生地区の鉱石も精錬したと伝えられています」ともある。
 「福島の鉱山」ではこのことにふれていないが、信夫山(福島)鉱山休止は昭和18年であり、しかも下層では硫化物の混入の情報があった。大笹生地区の鉱石も「硫化物の分離」が必要だったような情報がある。ならば、その「硫化物の分離」とのかかわりで、ここでの精錬の可能性は想像できるのだが、確認はできていない。
( ※ ここを単純に大森の八幡神社と表記できないのは、大森の八幡神社といえば、街中の八幡神社を指すからだ。しいてその表記を使うとすれば、大森の竹ノ内の八幡神社といえばいいのかな)

 散歩という手段で鉱山を確認できることの一つに坑口があるのだが、「福島の鉱山」の情報では「露頭付近には旧坑多く、慶長年間採掘の跡と伝えられる」とし、慶長年間採掘の跡と結びつけられている。案内板の情報では、「大森城山と西方にある睡眠山(黄金八幡)とその西にある玉ノ森山に坑道の跡が残り往時を物語っています」とあり、近代の最盛期の坑道にかかわる坑口跡の存在をにおわせる。
 何度か図示された坑道と照らし合わせて、その坑口らしきところを探してみたが見つからなかった。ただ、城山公園の西トイレの崖がいつ行ってもがけ崩れの工事中で散策できないのだが、図と照らし合わせて、この辺りもその候補地の一つなのかなと想像はしている。
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by shingen1948 | 2016-06-26 09:11 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 昨日整理の「大森鉱山」の続き。
 
 昭和13年田村鉱業会社が買収してから、大森鉱山の最盛期を迎える。昨日整理の県内第3位の金の産出量の中には、先に整理した平野村の「丸山金山」の鉱石も含まれる。
 「丸山金山」はこの鉱山の支山で、そこからも原鉱が運ばれてきていて、この原鉱と本山から供給した原鉱を粉碎した後、ここで精錬されたようだ。

 最盛期を迎えることができるようになった一因に、最新の精練に変えた事が挙げられるようだ。
 それまでの混汞精錬から、硫化物を加へる全泥青化精錬に変えたとのひとだ。
 駐車場脇に建つ案内板では、その最新の全泥青化精錬場がこの右側の傾斜地にあったことが案内される。それは、「昭和14年(1939)近代的な精錬場が建設され、昭和21年(1946)まで精錬されました」とあることから分かる。
a0087378_917376.jpg その精練所跡がここのようだ。「大森金山精錬所跡地」の案内板が建つ。
 城山を意識すれば、大森城への西口が案内された道筋の突き当りの位置だ。この大森城を大森鉱山と意識すれば、「(大森鉱山)事務所の東方、城山の西斜面に設けた製錬所」という位置関係になるようだ。

 原鉱は、この精錬所に運ばれる前に粉碎作業があるようだ。その作業場は、案内板にあっ睡眠山の北側の鉱山施設なのではないのかなと想像する。
 この精錬所では、まずは、その粉砕された原鉱から「硫化物の分離」されるようだ。その分離された硫化物は、「小坂銅山に売鉱」されたという。その分離された残部が青化製錬されて金となるということのようだ。

 昨日整理の県内第3位の金の産出量の他に、銅精製の原料として売鉱される硫化物も精製されていたということらしい。
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by shingen1948 | 2016-06-25 09:16 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 余談のそのまた余談というふうに、どんどん話がそれてきたので、「福島の鉱山」まで話を戻す。

 「福島の鉱山」で、「福島鉱山(信夫山金山)」の手前に解説されているのは「大森鉱山」だ。この金山の歴史は古く、ここが城山であることもあって、ついそちらに話を持っていきたくなるのだが、そちらの情報は少ない。
 ここは、近世に入っても開発は続けられていたようで、その最盛期は、昭和13年田村鉱業会社が買収してからのようだ。今回は、そちらの話を中心に整理する。
 これ以前は、主として上部の酸化帯を稼行して混汞精錬をしていたとのことだが、田村鉱業になってからは竪抗で福島盆地の表面以下の部分まで採掘するようになったという。また、その精練も硫化物を加へる全泥青化精錬場を建設したということで、重要金山の一つになったということだ。
 昭和15年の算出精錬含金量は61764gで、昭和16年は69846gと報告されている。これは、県内第3位、東北諸金山中第10位の産出量だったということだ。重要金山であったという割には、あまり知られていないような気がする。

 城山の山頂近くの駐車場西手に案内板が設置される。
a0087378_9453047.jpg そこに採掘や金山施設の様子が図示されているが、これが最盛期の時代のもののようだ。
 「福島の鉱山」によれば、その近代の沿革は次のようだ。
 (慶長年間採掘後)、廃山中のところ、大正2年安孫子平三郎氏再開、大団幸之助氏に委譲、混汞精錬を開始し、大正6年山口嘉三氏により㈮205匁、銀714匁を産したが、大正8年休山、同14年山井景美氏再開、一日8~10屯の処理を続けたが昭和2年坑内陥没のため休山、同8年角田文平氏再興、混汞銅板採金を開始し、翌9年には金10418g、銀47626gを産した。

 その前に、「露頭付近には旧坑多く、慶長年間採掘の跡と伝えられる」と解説されるが、別資料では、ことについて次のように解説されている。
 本金山の起原はよく分からないが、鉱床露頭部には黄金八幡の旧祠があって、附近に石臼等を産していて、これが金鉱製錬の遺物と認められているということだ。また、鉱区の一部である玉の森には、珪化石英粗面岩質凝灰岩中數個の竪坑存在していて、探鉱跡だと考えられているとのことだ。
 その別資料によれば、大正時代の採掘については、大正末期まで年間1万円以上金銀を産し、その産出量は継続されていたとされる。それが、大正末期に衰退し昭和8年に再興されるのは、金価高騰による復活だったとの解説だ。
 ただ、この時代までの採掘は上部の酸化帯で、その精練は混汞精錬ということだった。その復活の流れで、田村鉱業会社が買収して最盛期をむかえたということのようだ。
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by shingen1948 | 2016-06-24 09:42 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 大滝銅山については、「わが大滝の記録」からその位置を確認し、中野銅山については、「わが大滝の記録」と< 街道Web >、それに「青葉学園」の資料からその位置を確認した。また、蛇体銅山については「青葉学園」の資料からその位置を確認した。
a0087378_1294723.png その中野銅山・大滝銅山・蛇体銅山と大笹生銅山との位置関係が分かるように地図にプロットしてみた。本当は「袖ケ澤鉱山」までカバーしてみたかったが入りきれなかった。

 この中の「烏川」「横川」「東横川」「西川」「菱川」という川の呼称、銅山別称および末松(おいまつ)銅山の位置推定等、主な位置情報は< 街道Web >の情報からお借りした。蛇体と首戸峠の中間に青葉峠があるようだが、プロット忘れ。

 地図にプロットされた川は、それぞれが街道沿いに流れる「小川」の支流ということになるようだ。その中の「西川」が、大滝集落でその「小川」と合流するのだが、その川沿いに蛇体に向かう道筋があり、青葉学園資料で「西川橋」とあるのは、大滝集落内の蛇体道へ向かう道筋に架けられたこの橋を指しているらしい。
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by shingen1948 | 2016-06-16 13:28 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 中野銅山跡の位置情報は、「わが大滝の記録」・< 街道Web >の情報と青葉学園の資料で微妙に違いがあるように感じるのだがそのまま記した。それは、経験上どちらも正しい事が起こりえると思うからだ。
 例えば、昭和21年に一度休止になる以前の位置と、昭和23年10月から操業が再開され昭和40年まで操業されるその位置が微妙に違うことは想像される。なお、この再開に伴って青葉学園は大平集落の俎山に移転することになるようだ。

 次は、蛇体鉱山についてだが、「わが大滝の記録」の「鉱山ブームと明治時代の教育」ではこの鉱山を次のように紹介する。
 操業していた時代は蛇体鉱山から胡桃平まで蛇体道を牛に牽(ひ)かせた土橇(どそり)で鉱石が運搬され、西川橋の袂(たもと)に鉱石の集積所が在ったとの伝聞が残っている。
 また、「おいまつ鉱山」の鉱石も同じ場所に集積されたとの伝聞も有るが、「おいまつ鉱山」の場所や詳細は定かでない。この蛇体鉱山は大滝銅山同様鉱床の薄さから大正時代に閉山に至っている。
<蛇体鉱山の正式名称は茂庭鉱山・蛇体鉱…公式文書「福島県鉱産誌」より >

 この蛇体鉱山の位置についてもふれていない。
 それで、「青葉学園」がこの蛇体鉱山の建物を活用して園舎としたのが始まりとのことなので、こちらの資料からその位置情報を頂いた。
a0087378_12411481.jpg 青葉学園の資料では、蛇体鉱山については次のように解説する。
 「蛇体に鉱山があった時代には、鉱石を詰めたかますを人の背で大滝まで運んだ。従ってその道はそれなりに良い状態に保守されていたと思われる。この道は、最初に右に、次には左に、二度ほど直角に曲がるのであるが、それらの曲がり角はまわりより高いので峠と呼ばれ、大滝に近い方がクビト峠で、次が青葉峠である。
 砂たちが移り住んだ蛇体というところは、ドイツ人某が銅の鉱脈を発見した銅山だった所で、その飯場があった」
 なお、青葉学園は、その飯場の中でしっかりしていた事務所の建物を教室と住まいに転用したようだ。また、この地は蛇体の名前通りマムシなどの蛇が多い所だったそうで、その名をきらって、ここを勝手に「青葉谷」と命名していたようだ。
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by shingen1948 | 2016-06-15 12:45 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「わが大滝の記録」の「鉱山ブームと明治時代の教育」の項では、「中野鉱山」については次のように紹介する。
 蛇体鉱山と大滝鉱山が鉱床の薄さから大正時代に閉山に至っているなか、中野鉱山は幾多の紆余曲折(経営者の交代や閉山・再開など)を経ながらも昭和42年頃まで操業が続いた。
 中野鉱山の職員や鉱夫の子供達は大滝分校で大滝集落の子供達と一緒に教育を受けており、現在(平成25年)でも大滝集落出身者との交流が継続している。 *(H25年6月 紺野文英 追記)
 ここでは、この中野銅山の位置についてはふれていないが、「大滝住民も創立に協力した私学校 『青葉学園』」の項では、その移転先とのかかわりで「現中野第二トンネル米沢側出口の小川沿いに在った中野鉱山である。 昭和21年10月当時、中野鉱山は丁度創業休止中であり、やはり休業中の鉱山宿舎を借りての移転だった」と紹介する。
a0087378_6184192.png その青葉学園側の資料を確認すると、次のような中野村大桁時代の学園の位置情報が読み取れる。
 万世大路は、現国道13号線中野第二トンネルの東口から北に向かい、山を巻いて左へ3の形に弧を描きトンネル西口に達する。その東口から400m程の所で、道路の右側に少しばかりの平地があって、ここにあった放棄された鉱山の建物を園舎としたとある。
 その園舎の平面図と校舎写真も確認できる。更に、当時を思い出して描いたとされる近景の様子も示される。
 その図を元に、地図と重ねればこんな感じかなと思う。ただ、「わが大滝の記録」の位置情報では、「現中野第二トンネル米沢側出口の小川沿いに在った中野鉱山」とあり、昭和41年の航空写真と重ねたりしてみると、もう一つ西側のカーブかもしれないとも思う。そこは曖昧なままだ。
 
 現在アクセスできない状態だが、< 街道Web >の情報も重ねる。
 中野銅山は、中野第二トンネル西口付近の小川左岸で、その鉱石は索道で対岸まで搬出され、川には作業員用の小さな橋が架けられていたとの情報。ここには鉱山住宅があって、15世帯(約80名)が住んでいたとのことだ。
 その鉱山住宅街は、この地図の万太郎家とした辺りを想像していることが伺える。

 なお、青葉学園の資料では、ここが中野大桁とあるだけで、どこにも中野銅山跡であるという記述はない。しかし、「わが大滝の記録」と< 街道Web >の情報を重ね合わせてみると、ここが中野銅山跡であることに間違いはなさそうだ。
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by shingen1948 | 2016-06-14 08:16 | 福島の鉱山 | Comments(2)
 「福島の鉱山」で、「大笹生鉱山」が紹介され、その近郊の鉱山として大正2年に富田要之助氏が着手した「袖ケ澤鉱山」という金銀銅山が紹介される。
 板谷大橋が架かる沢の上流部にあるダム付近が袖ケ沢とのことなので、この辺りにあった鉱山らしいと想像した。ここは、沢を挟んだ北側が大笹生で、その沢の南側は山形県米沢市板谷という県境の沢だ。

 「福島の鉱山」では、この次に高子鉱山を紹介されていて、この御近所の鉱山から離れてしまう。しかし、この近辺にはもう少し鉱山があるという。幸いにも、その鉱山が「わが大滝の記録」の明治時代の「第4. 鉱山ブームと明治時代の教育」という項で、古老の話として紹介されるのをみつけた。今回は、そちらの資料の確認をすすめたい。

 その資料によると、中野鉱山・蛇体鉱山・大滝鉱山(葭沢)などが相次いで採掘操業されるのは明治30年の終わりから大正の始めにかけてだという。
 大滝鉱山の位置は、集落の吉田富三郎宅の川向いで、銅鉱石が露出し、純度も非常に高い上に発掘、運搬にも便利だったため大きな利益を上げたそうだが、鉱床は極めて浅く埋蔵量は少なかったのでそう長くは続かなかったということだ。
 集落図と照らし合わせてみると、葭沢橋前の道筋の右手に二軒のお宅があるのだが、その集落に入って直ぐのお宅が吉田宅のようだ。そのお宅の裏手に小川という川が流れるのだが、鉱山はその川向ということになるようだ。
 この吉田氏宅では、鉱山労務者相手に饅頭を売っていたので、後まで通称饅頭屋と言われていたということだ。
 この鉱山の発見者は、光石三平という方で、この方は浮浪の身から一獲千金を勝ち得て話題をさらったという。大滝山神神社の社屋は、この時代にこの成金の光石三平氏が造営寄進されたものなのだとか。

 この資料では鉱山発掘で一獲千金を夢見た山師が登場するのがいい。半田銀山のような完全な成功者だけでなく、プチ成功例もあれば、失敗で脱落していった方もいらっしゃるだろうという影の存在が少し見えた気がする。
 確認していて、もう一つ気づいたのが、ところどころに街道を散策するのにお世話になっている< 街道Web >のTUKA氏が登場すること。
 それで、そちらを確認すると< 寄り道Web >→脇道Webに、「山深い鉱山跡に創設された私立学校」で、中野鉱山、蛇体鉱山が紹介されていた。こちらの鉱山については、こちらも併せて資料にさせていただきながら確認作業をすすめることにする。
 http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/waki/aoba.htm
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by shingen1948 | 2016-06-13 08:40 | 福島の鉱山 | Comments(0)
a0087378_8422028.jpg 昨日張り付けた写真は、この岩にあいていた人工的に作られた坑道入り口と思われる穴だ。そういう意味では、この写真の岩場は金山坑道にかかわる岩場全体の風景だ。この岩場の前には、大笹生笹谷文化財保存会が設置した案内標柱が建っていて、「獅子の頭岩(別名 神楽岩)」と案内される。
 ダム建設以前は約35メートルの高さであり、見上げれば広大な崖が崩れ突出た岩が獅子の頭に似た形なりて、親獅子を中心に左右に子獅子が並ぶ奇岩で昔から山仕事の行き帰り、この下を通る人是を見て誰言うとはなしに獅子の頭の名で呼ばれるようになった。(今はその内の子獅子が残っている)

 今回、大笹生金山について整理しようとしたこととかかわって、2010年の夏に撮った大山祇神社の写真も張り付けてみようと思った。そう思ったのは、次のようなネットで検索情報をみつけたからだ。
 静岡の日陰沢金山の山神様は流浪の金彫師安田八右衛門氏が施主無そうで、その山神様の祭神は大山偽名で、その祠には「元禄6蔵(1693)2月吉日羽州福嶋郡大笹生村施主安田八右衛門」と刻まれているとのことだった。
 この情報を見て、大笹生ダム近くの大山祇神社も、水神かもしれないが、鉱山にかかわる山神でもあったとしてもおかしくはないと勝手に思ったのだ。
 ただ、今のところこの写真が見つからない。

 2010年の夏の散策は、大笹生金山にかかわる散策ではなかった。大笹生ダムを八反田川の源流と見立ててどこをどう散策するかの計画を立てるための準備の散策だった。
 ところが、ここに来るたびに何度も職務質問に会い、それから嫌になってずっと散策を断念していたのだ。何度も職務質問に会う羽目になったのは、こんな山道にママチャリを引いて入りこんでいるのも一因だろうとは思うが、それだけではなかった。その時に聞いた話では、大笹生ダム付近で衣服や帽子が見つかったのだが、その持ち主が分からないので最悪を想定して探索していたということだった。タイミングも悪かったのだ。
 パトカーがひっきりなしに往来し、大山祇神社付近から大笹生ダムにかけては、生い茂った草を二・三人の警察官が刈っているという状態で、ダムや通行止めになっている八反田川の上流に入り込むことができる雰囲気ではなかったのだ。
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by shingen1948 | 2016-06-12 08:46 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「福島の鉱山」では、信夫山の鉱山である「福島鉱山」の次に「丸山鉱山」が紹介される。その中で、「台山鉱山」とその北麓や小川の北岸数か所掘削される「福中鉱山」も紹介された。
 その次に紹介される鉱山が大笹生鉱山だ。
 散歩資料では、この鉱山は江戸時代の鉱山として紹介されることが多いのだが、ここで紹介されるのは昭和の時代の話だ。

 大笹生鉱山の位置は、「福島市の西方約10㎞信夫郡大笹生村折戸の西方」と紹介される。昨日整理の台山鉱山の南西方向だ。その鉱床は第三期砂岩、頁岩、凝灰岩中を貫き、巾0.6~0.9m、南に傾斜する鉱脈なそうなので、鉱脈的にかかわっているということではなさそうだ。
a0087378_791449.jpg ここには、往時の旧坑内及び露天掘の跡があるとの紹介だが、これがその跡の一部なのだろうと思われる。
 ここは、昭和の始め採掘精錬されたとのことで、近年も精錬所の施設が稼働していたことを伺わせる。ただ、この鉱脈の下部は硫化物に富んで銅鉱となっていたということだが、散歩人としては、そこから別なことを読み取っている。
 金山・銀山・銅山を不連続的なものと受け取っているところがあるのだが、取れる鉱石は、その状態の変化であり、連続的に捉えるべきものということのようだということだ。

 なお、この大笹生鉱山との関係は不明だが、大笹生の袖ケ沢には大正2年富田要之助氏が着手した「袖ケ澤鉱山」という金銀銅山もあったのだとか。国道13号線の板谷大橋が架かるのはこの袖ケ沢を超えるための橋だ。「袖ケ澤鉱山」は、その上流部にあるダム付近かなと勝手に想像する。ここは沢を挟んだ北側は大笹生だが、南側は山形県米沢市板谷ということになる。地図を眺めてみると、山形県側の近くにカネヨ石鹸という工場が見える。白土利用のクレンザーかなと勝手な想像?
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by shingen1948 | 2016-06-11 08:56 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 信夫山の金山を確認するのに「福島の鉱山」を確認したところだが、その資料に今まで散歩で歩いてはいたが、鉱山としてはみていなかったところがいくつか紹介されていた。
 わき道にそれて、そちらを整理しておこうと思う。

 福島鉱山と紹介される信夫山金山の次に紹介されるのが、「丸山鉱山」だ。
 ここは「小川の南岸平野村字森」にある小岳を貫く石英脈とのことなので、平野の北部給食センターの裏山だろうと思われる。ここは明治25年に小池正一氏がこれを復活したと紹介されるので、それ以前から鉱山としての歴史が刻まれていたのだろうと想像される。
 明治43年には細谷儀作氏が稼行して、更に、昭和13年に田村鉱業大森鉱山の支山として発展したという。昭和16年の産金量は13999gあったようだが、昭和18年に金山整備によって中止されたとのことだ。
 この山が採掘されるのも、信夫山金山と同様「昭和産金奨励」という国の政策とのかかわりのようで、昭和18年の金山整備で終結するという流れは信夫山金山と同じだ。
 ここの鉱石はトラックで大森に送ったとのことなので、後で整理しようと思う大森鉱山には、精錬所の施設があったことが想像される。
 ここに立ち寄ったことはなかったが、この付近はこの東の三角山散歩、井野目堰散歩で歩いている。

 自分の散歩と直接的にかかわるのは、この鉱山の説明の中に登場する「臺山鉱山」だ。
a0087378_12121645.jpg この台山は、「吾妻沼神社」とのかかわりで眺めていたのだが、解説によれば、ここを鉱山とみれば、石英粗面岩中の石英脈が注目なのだとか。昭和産金奨励時代に日本鉱業によって数か所で採鉱され、昭和26年には白石正明氏によって再び探鉱されという。
 また、北麓小川の北岸数か所では、石英粗英面岩の変質帯を福中鉱山の名で光石三平氏が探鉱したそうだが、何れも成功はしなかったとある。「臺山鉱山」も成功はしていないのかなと思う。
 その後、これらの母岩は加里資源として注目されたことがあったのだとか。
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by shingen1948 | 2016-06-10 12:14 | 福島の鉱山 | Comments(2)