地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:福島の鉱山( 50 )

 「福島の鉱山⑳~「松川鉱山」②」の後半で、近郊の鉱山の別称について想像を加えながらふれた。
 「鉱山情報・鉱物産地情報 福島県近郊」というページで「松川鉱山」の近郊の鉱山として、「金谷川鉱山」・「松川北鉱山」・「松川南鉱山」・「小池鉱山」・「信夫鉱山」が紹介されていたのが情報源だが、「福島県鉱山誌」でも同様な分類をしているのをみつけた。

 まずは、「信夫鉱山」についての訂正をする。
 「信夫鉱山」は硫黄鉱だとして確認を除外したところだった。しかし、ここでいう「信夫鉱山」は、小池鉱山の西隣にあった鉱山らしい。所在地は水原になっている。
 地図を確認すると、小池の西に金山の地名が載っていて、その道筋が小池の西の山を回り込んでいる。そこが水原村との境界らしいので、その辺りを想像し直す。
 大正2年に探鉱されたが、詳細は不明とのことだ。

 次に、「松川北鉱山」と「松川南鉱山」の位置についての訂正をする。
 「松川鉱山」と「小池鉱山」との間に「松川北鉱山」を想像し、「松川南鉱山」を「松川鉱山」と安達郡吉倉との間の板山あたりに想像したところだが、「松川南鉱山」の位置が違うようだ。どちらも所在地は水原(関根)とのことだ。
 「松川北鉱山」は「松川鉱山から沖積原を隔てて北方に接し、片状花崗岩をN45°Eに貫く鉱脈で、松川鉱山の鉱脈群の一端と認められる」とあるので、想像した通りだと思う。
 「松川南鉱山」は、その南側に位置するようで、しかも、大正元年に清化精錬によって鉱石を処理した記録があるということだ。付近には旧坑が多いとある。
 気になるのは、具体的な位置は分からないが、ここに精錬所があったという情報だ。
 「松川のあゆみ」の解説では、大正の初め橋本組によって「松川鉱山」が再開されたばかりの時代の精錬所は古天神地内にあったとされるのだが、同じころこの「松川南鉱山」にも精錬所があったということになる。
a0087378_18303792.jpg 村界付近の話なので、大まかな位置関係を確認するのに、「松川のあゆみ」から松川町の字切図をお借りし、これを眺めながら整理する。「松川北鉱山」と「松川南鉱山」の所在地を水原(関根)とするのは、この図の「金山」の「小池」寄り辺りと想像する。

 この「松川北鉱山」と「松川南鉱山」の情報を得て納得できることがある。
 「福島圖幅地質説明書(山下傳吉)」の「本鉱山は岩代国信夫郡松川駅の西10丁強下水原村にありて鉱脈は本村を通ずる渓流の沿岸なる字熊ノ田及字小池の二か所に現出せり……」とあるその位置表示が水原村であること。
 この辺りの現地図上の位置表記が、水原地区と微妙に違って松川町水原という表記があることとかかわって、松川町と結びついた水原の小字範囲なのではないのかなと勝手に納得する。

 「福島県鉱山誌」の情報と「福島圖幅地質説明書(山下傳吉)」の情報の違いで気になるのが、小池鉱山についてだ。
 「福島県鉱山誌」の情報では、片状花崗岩及びそれを被う流紋岩質凝灰岩中を東西に貫く4条の石英脈で、探鉱されたが成功を見なかったとある。
 しかし、「福島圖幅地質説明書(山下傳吉)」の情報では、本地の産にかかわる本課分析係に於いて分析したる成績を示すとして「百分中、字小池金0.010、銀0.014、字熊ノ田金0.006.銀0.108」とあり、素人目には小池鉱山の成績も見劣りしないように見えるのだが、……。

 「福島圖幅地質説明書(山下傳吉)」が明治31年(1898)発行である事とのかかわりか、調査分析と実際の採掘とのかかわりなのかは分からない。
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by shingen1948 | 2016-07-09 18:31 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「鉱山情報・鉱物産地情報 福島県近郊」というページに「松川鉱山」の製錬所跡が掲載され、これが現存するとある。それで、「松川のあゆみ」の附録資料として添付される「松川町全図」でプロットされる「松川鉱山」付近の航空写真を確かめたら、昭和50年の航空写真にその施設が写っている事が確認できた。
 ヤフーの地図でその確認できた地点を探してみたが、それらしきものは見当たらなかった。念のため、グーグルの地図で探してみたら、なんと、こちらにはそれらしきものが写っていた。この辺り落葉樹で覆われているらしく、その影響らしいのだ。ヤフーの航空写真では、そこが緑に覆われてしまっていたのだが、グーグルの航空写真は落葉の季節に撮影されたのだろうと思われる。
 この施設、今も現存することが確認できたということだ。

 もし、これが「鉱山情報・鉱物産地情報 福島県近郊」が解説するように、「松川鉱山」の製錬所跡だとすれば、最新の設備だろう。ならば、その沿革から、昭和3年から昭和18年まで瑞宝鉱業(株)の経営で最盛期を迎えたという時代の精錬所だろうか、これが、昨日プロットした「松川鉱山」の位置にあったということが分かったということだ。

 「松川のあゆみ」で中心的に解説された「松川鉱山」の精錬所は「古天神地区」にあったとのことだったが、ここで精製されたというのは、瑞宝鉱業(株)の経営に移る以前の話らしいことが想像できる。
 この「古天神地区」にあった精錬所の描写で気になるのは、「人々はこの工場を搗工場と呼んでいた。松川鉱山から古天神の搗工場までは、通路南側に12ポンドのレールを敷き、1トン積の鉱車を馬に引かせて運搬した。ここから松川駅までは荷馬車、荷馬車で運んだものである」とあること。
 「松川鉱山」の製錬所跡の北側の道筋が、松川鉱山にかかわる道筋だと仮定すれば、小金塚を北に回り込む道筋が想定される。ただ、ここを東西に走る道筋のメインは奥州八丁目天満宮の南側を走る道筋であることだ。鉱車が通るレールが敷かれた道筋をイメージすれば、宿地付近で、斜めに小金塚を北に回り込んだ道筋に向かう道筋があることも気になる。
 はっきりするには「古天神の搗工場」地点を知りたいところだが、今のところ手掛かりがない。
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by shingen1948 | 2016-07-07 09:10 | 福島の鉱山 | Comments(2)
 前回は、目にした「松川鉱山」の一番広い範囲を示す位置情報を元にして整理した。この鉱山は、いろいろな位置情報が混在している。歴史的に古く、その沿革とのかかわりやその規模とのかかわりで、「松川鉱山」とされる範囲が違うということのようだが、よそ者にとっては混乱するところでもある。

 前回の「松川鉱山」の位置は、「松川のあゆみ」の附録資料として添付される「町川町全図」では、熊田の高まりと不動院のある日向山とのあいだの谷地の不動院側奥地に「「松川鉱山」」を示している。また、それとは別に赤貝森の高まりと小池の山との間の谷地の小池の山裾に「小池鉱山」をプロットしている。
a0087378_9514633.png 昨日プロットした図に、それを付け加えるとこんな感じだ。

 「鉱山情報・鉱物産地情報 福島県近郊」というページの【鉱山情報・鉱物産地情報】に、この「松川鉱山」が紹介される。
 http://www.ja7fyg.sakura.ne.jp/kouzan/matukawa/matukawa.html
 製錬所跡の写真が掲載され、次のような紹介文が記される。
「 福島市近郊には金山跡が多くあり、松川鉱山は鎌倉時代の発見と伝えられ戦国時代は会津の蒲生氏によって経営された。
 大正の初めに再開され、昭和3年瑞宝鉱業(株)の経営に移り昭和9年青化製錬場を設けたが昭和18年の金山整備令により設備を撤去し、 休山となった。現在は製錬所跡が残っている」
 この写真の製錬所跡は、昭和3年から昭和18年まで経営していた瑞宝鉱業(株)経営時代の設備であることが分かる。
 その位置については記されていないが、今回の図で「松川鉱山」の位置としたこととかかわるのだろうことが推測できるのは、次の注釈があるからだ。
 「東北自動車道の近くにあり、坑道の上部の松林であちこちが陥没しており坑道の多くは落盤している。近くには金谷川鉱山・松川北鉱山・松川南鉱山・小池鉱山・信夫鉱山など金や銀の鉱山跡が多数ある」

 ここでいう「金谷川鉱山」は、先に整理した鉱山で、「小池鉱山」が今回プロットした鉱山であり、今回整理の「松川鉱山」と「小池鉱山」との間に「松川北鉱山」を想像し、今回整理の「松川鉱山」と昨日整理の安達郡吉倉との間の板山あたりに「松川南鉱山」を想像できそうに思えたということだ。
 なお、ここでいう「信夫鉱山」というのは、高湯の硫黄鉱山を指すように思うので、今回の確認は省略する。
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by shingen1948 | 2016-07-06 09:54 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「金谷川鉱山」は、「福島の鉱山」を主資料とし、「松川のあゆみ」の「松川鉱山」解説でこの鉱山にふれる部分を補助資料に整理してきた。
 「福島の鉱山」の「松川鉱山」についてふれる部分を持ち合わせていないが、「松川のあゆみ」では、こちらの鉱山を主に解説される。それで、こちらを主資料として「松川鉱山」を整理しておく。

 「松川鉱山」の位置情報はいくつかあるのだが、昭和3年に瑞宝鉱業の手で本格的に着手するための探鉱地質調査5か年計画の鉱区が一番広い範囲を示す。
 ここに、「その鉱区は松川町西郷、小池の一部と水原関根、板山、安達郡吉倉の一部に跨る。鉱脈は松川の沖積原上80mの小丘に露出し、大部分は片状花崗岩からなる」とある。
a0087378_175333.png 地図でその地区名を拾ってプロットした。近くに「金山」の地名もあったので、こちらもプロットしておいた。そこに、先日整理の「金谷川鉱山」にかかわる地区のプロットしたものも付け加えた。

 この図をみると、その鉱床は南北に走るようにイメージされるが、そうではないらしい。鉱脈は主として東西に走っているらしく、これが30本あまりあるという。他に熊田地区附近には北西から南東に走る鉱脈もあるのだそうだ。これが5本程度なのだとか。
 その熊田地区というのは地図上で「熊ノ田」とある地区と思われるので、こちらもプロットしておいた。

 この解説の中では、大正の初めの精錬所情報が古天神地内にあったことが解説される。こちらは、橋本組によって「松川鉱山」が再開されたばかりの時代の話だが、それとかかわる「古天神地区」もプロットしておいた。この時代、日立精錬所に売鉱されるとともに、ここに精錬所があったことが解説される。
 ここで、水力を利用した石臼に良質鉱を入れ、スタンプで鉱石を搗(つ)き砕き、水銀アマルガムによる方法を用いたとある。水路近くらしいことは分かるが、正確な位置は分からない。
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by shingen1948 | 2016-07-05 17:54 | 福島の鉱山 | Comments(0)
a0087378_1225050.jpg 本当は、大玉村にある本宮のため池に流れ込む沢でとれた水晶の写真を使いたかった。ところが、これが見つからない。探している時に、この「玉の井」から出てきたという水晶玉の写真が出てきたので、同じ水晶の写真ということで、その写真を張り付けた。ただ、こちらの玉は実話の範疇なのか、伝説の範疇なのかは分からない。

 水晶の写真がほしかったのは、「金谷川鉱山」と水晶がかかわっているらしい情報をみたからだ。
 「福島の鉱山」ではふれていないが、「松川のあゆみ」では、大正時代までこの鉱山の旧坑口付近に多くの紫水晶が転がっていたことにふれる。これは、昔、金・銀鉱を採掘したときに、鉱石と共に搬出されたものであろうとの推測が解説されていたのだ。
 それで、玉井金山の堀跡は高玉金山の北裏に位置し、その沢からは水晶が採れるという類似点を感じたのだ。
 「金谷川鉱山」の「水晶沢」の地名も関係しているのだろうと想像するが、どうだろうか。

 さて、前回は「金谷川鉱山」の位置を確認したところだが、今回は沿革について確認したい。伝承としては、ここも鎌倉時代頃の発見とされているようだが、明治以前の沿革は不明のようだ。
 「福島の鉱山」によれば、明治の初めには既に上部は採掘し去られていたという。
 そこを大正年間には、長南長六氏の経営に帰していたという。昭和8年になって、三菱鉱業の手によって通洞準以下30m毎に一番坑及び二番坑を堀進して、一時月産60屯、Au10g/t、Ag50g/t平均の精鉱を細倉に送ったが、やがて休山したという。その後、一時帝国鉱発に属した後、長南氏によって稼行されたのだが、遂に休山に陥ったということだ。
 先に、金谷川鉱山の事務所を水晶沢に置いたことにふれたが、それは昭和8年に三菱鉱業の手に移った時のことのようだ。

 ここで、「精鉱は細倉に送った」とあるが、その細倉というのは宮城県の細倉鉱山精錬所のことのようだ。ここで行われていたのは採掘のみで、精錬所はなかったということのようだ。
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by shingen1948 | 2016-07-03 12:27 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「福島の鉱山」で、「大森鉱山」と同じページに解説されるのは「金谷川鉱山」だが、補助の手持ち資料では「松川鉱山」とのかかわりでこの「金谷川鉱山」が解説される。
 今のところ、資料中心の確認で次の散策に備えるという整理になりそうだ。

 「金谷川鉱山」の位置について、「福島の鉱山」では、金谷川駅の南方3㎞、信夫郡金谷川村にあり松川村との境に近く、西から順に「一の沢」「水晶沢」「一の坂」「一の坂向」「羽山」の各坑があり、殆ど東西に配列する。付近は主として片状花崗岩からなり、一部第三紀凝灰岩に被われ、東端羽山は細粒花崗岩からなる。
 鉱床の解説では、その厚さが著しいのは「水晶沢7号・8号・10号・7号脈」と解説される部分を見る。
 このことに、手持ち資料の「松川のあゆみ」の情報を加えて、「金谷川鉱山」の鉱床は、旧金谷川村市ノ沢―水晶沢―松川石合町の青麻山を貫くラインと想像した。
a0087378_6391355.png 「福島の鉱山」では「鉱床の厚さが著しいのは、水晶沢7号・8号・10号・7号脈」とあるが、手持ち資料の「松川のあゆみ」では、「数条の鉱床は、旧金谷川村市の沢から、松川町石合の羽山の方向におよそ東西に走っており、金の含有量は6g/t程度の部分が多かったが、富鉱部は200~500/tの金を含有していた」と解説する。
 その富鉱部の情報と、鉱床の厚さが著しいのが水晶沢であったらしい情報を重ね合わせ、更に「金谷川鉱山の事務所は、水晶沢に置く」との情報を重ね合わせて、その中心は「水晶沢」だったのだろうと想像する。
 なお、ここでは「福島の鉱山」の「一の沢」は、「松川のあゆみ」の「旧金谷川村市の沢」を指しているものとの推測を加え、両資料の「松川町石合の羽山」を「石合の青麻山」を指しているのではないかなとの想像を加えている。
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by shingen1948 | 2016-07-02 09:36 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 昨日整理の「大森鉱山」の続き。

 「玉の森」周辺の散歩では、大森金山をまったく意識していなかった。
 その山中で探したのは、山王道の道筋だった。うまい具合に配水槽が目印となって見当をつけることができた。
 この配水槽の東側を回り込む道筋に沿っていけば、山頂も目指せそうだということも分かった。ただ、山頂に行ってみたいとも思わなかったので、そのままになっていた。
 また、この「玉の森」は、観音寺の「古佛塔由来」によれば、観音寺開祖の地なのだそうだ。ここで観音寺が焼失したことで、現在地に移ったということらしかった。
 この南側の山が、好国寺であり、その西側の山々には、先に散策した下鳥渡の寺々があって、宗教的な雰囲気の中での散策に、新たな情報が一つ加わったということだった。

 今回の散策で大森金山を意識したので、それに似合う写真を探してみた。
a0087378_1985910.jpg この石子地区から「玉の森」の配水槽を眺めた写真はどうだろうか。
 「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」の東西に延びる坑道の西端が、この石子地区に描かれている。坑道は、ここから「玉の森」山頂付近を経由して黄金八幡社―城山の観音堂辺りまで伸びている風に読み取れる。
 案内板では、「大森城山と西方睡眠山(黄金八幡)とその西にある玉の森山に坑道の跡が残り往時を物語っています」と解説され、「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」の沿革にも「鉱区の一部玉の森には珪化石英粗面岩質凝灰岩中数個の竪抗存在し、往時探鉱の跡の如し」と解説される。地表から読み取れることなのかどうかは分からない。

 「玉の森」と「黄金八幡社」の間も散策しているが、この時に意識していたのは、城裏口の石造供養塔とか、福島市民家園に移築復元された旧奈良輪家(福島市指定有形文化財)の旧地だ。
 城裏口の石造供養塔整理は、城山供養塔の板碑、北舘供養塔について整理したので、その延長で城裏口の石造供養塔(板碑)を整理した。旧奈良輪家は、その板碑の道を挟んだ北側という位置関係だ。
 この時の散歩は、旧山田村を意識していて、好国寺はこちら側を正面としている。「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」の地質図で見れば、旧平田村の意識だったということだ。
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by shingen1948 | 2016-07-01 19:09 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 昨日整理の「大森鉱山」の続き。

 案内板の「大森鉱山坑内外相互図」には坑道が描かれるのだが、その解説はない。
 「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」の解説と照らし合わせると、昭和13年(1939)に田村鉱業に経営が移り、最盛期を迎えた頃の坑道の様子と想像される。
 「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」は、昭和16年4月1日の発行だ。ここで鉱石を解説するのに、その採取場所として坑道が登場するのだが、この坑道が案内板の図の坑道と重なっているものと想像することができる。
 その表現から、坑道を拾う。
 「城山東北山腹、熊ノ山坑内」、「35m坑」、「45m坑」、「玉ノ森坑」、「15m坑」「東110m竪坑」の名称が読み取れる。
 坑口にかかわりそうな表現を拾うと、「35m坑南大(金+盾)入の入り口」・「玉ノ森坑入り口並びに同斜坑付近には礫岩の間に砂岩を挟む厚い層を見出せる」というのが読み取れる。

 結果的には見つけられなかったのだが、案内図をたよりに「黄金八幡」の南側を探ったということ自体は、「35m坑南大(金+盾)入の入り口」とのかかわりで、それ程間違ってはいなかったのかなと思う。

 次に、手持ち資料からこの鉱山の沿革にかかわる表現を拾ってみる。
a0087378_17474349.jpg 「福島の鉱山」では、「露頭付近には旧坑多く、慶長年間採掘の跡と伝えられる」とある。
 はっきりわかってはいないのだが、その鉱床露頭部というのは、黄金八幡社の北側のこの岩辺りをいうのかなと、勝手に想像している。
 案内板では、沿革にかかわって、次の3項目の表現で解説される。
〇 大森鉱山の沿革は、永禄年間(1558-1569)から天正年間(1573-1591)の開坑といわれています。
〇 慶長年間(1596-1614)徳川幕府時代には、盛んに採掘されたと伝えられています。
〇 大森城山と西方睡眠山(黄金八幡)とその西にある玉の森山に坑道の跡が残り往時を物語っています。

 「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」の沿革解説では、「鉱床露頭部には黄金八幡の旧祠あり、付近に石臼等を産して、金鉱精錬の遺物と認められ、鉱区の一部玉の森には珪化石英粗面岩質凝灰岩中数個の竪抗存在し、往時探鉱の跡の如し」とある。

 これらの中から「鉱床露頭部」にかかわる表現を拾うと、「福島の鉱山」の「露頭付近には旧坑多く、慶長年間採掘の跡と伝えられる」とあり、案内板に「西方睡眠山(黄金八幡)に坑道の跡が残る」という表現がある。これ等を「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」では、「鉱床露頭部には黄金八幡の旧祠あり、付近に石臼等を産して、金鉱精錬の遺物と認められる」と表現しているのだろうと思われる。
 その前に、大森鉱山の金鉱床は熱水性鉱床だという情報がある。鉱物については全く分からないのだが、資料からは黄金八幡の旧祠あるあたりが鉱床露頭部と読み取れる。
 それで、現黄金八幡社近くの岩場を鉱床露頭部と想像したということだ。この付近から石臼等が見つかったということと、近くに坑道跡が存在するということを想像してみたが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2016-06-29 17:49 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 昨日整理の「大森鉱山」の続き。

 「福島の鉱山」の解説と「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」の地質図を照らし合わせながら確認しているのだが、分かりづらいのが、ここを断層群が走っていることと坑道とのかかわり部分だ。その断層群について、「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」で確かめる。
 著しい断層群は、ここをほぼ東西に貫いているようだ。その南側は北側に比べて地体の沈下が著しいとする。
 その具体例として、東110m竪抗付近には、この断層の北側においては疎水坑道水準以下15m内外で基底の片状花崗閃緑岩に会するが、南側ではその水準以下60mにおいても、その上位の角礫凝灰岩を見るだけだとする。その断層を子細に見ると、いくつかの断層群が重なっているのだが、巨視的に見れば、それらの多くが交互に東西に連なって、その北側の花崗閃緑岩と南側の第三期岩類と界する場合が多いのだとか。

 ただ、これらのことは、坑道開削によって明らかになる事なそうだ。そんな中、注目は単に地表を散策している者でも分かる部分があることも紹介されていることだ。
 その一つが、城山を貫く断層線だ。
 城山北端における崩崖面上、その北西側はその頂上付近まで片状花崗閃緑岩を露出しているという。しかし、東南側は礫岩、角礫凝灰岩、頁岩等の互層を露出しているというのだ。そして、その中間に崩崖部があって、ここが明らかに断層線にあたるというのだ。
 もう一つか、黄金八幡登路の中段とのことだ。

 この中の城山の断層線について思い当たることがある。
a0087378_9504439.jpg それが、ここだ。
 しかし、この写真はその断層線を意識して撮っていない。この時に意識していたのは、空堀跡としての窪みだ。
 その事については、「大森城③」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/13824293/
 ここで「南舘」として整理している部分が、今回の鉱山地質図では「熊ノ山」と紹介されている部分で、「本丸」と整理している部分が、今回の鉱山地質図では「城山」と紹介されている部分だ。その間が窪んでいて、「熊ノ山」側が若干低いということだ。
 その窪みを、前回は「伊達市文化講演会」の資料として頂いた「大森城跡複合図」解説に従って「堀跡」としみていたが、今回は同じ窪みを断層線とみているということだ。その延長線上に黄金八幡登路の中段の位置が確認できる。
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by shingen1948 | 2016-06-28 09:52 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 昨日整理の「大森鉱山」の続き。

 城山付近を「大森鉱山」と見た場合、その中心は八幡山のようだが、その全体は城山、八幡山、玉の森等の丘陵が福島盆地に半島状に突出した大森、平田、鳥川三村の界に跨がる広い範囲のようだ。

 「福島の鉱山」では、この辺りの地質と鉱脈との関係を解説するのだが、解説だけでは理解できないので、「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」の地質図を見ながら確認させていただく。
 「福島の鉱山」では、次のように解説される。
a0087378_11381886.jpg
 
 これらの丘陵(城山、八幡山、玉の森)は、いずれも主として凝灰岩、砂岩、頁岩からなるが、その基底には片状花崗岩を露出し、その大礫を主とする礫岩を挟む。これらの地層と規定岩との間は断層群で界され、それらは大体東西に走って南側に落ちるが、それを東にN60°wに貫く断層に切られ、西側の部分ほど順に南に転移する。
 鉱床はこの二組の断層を交互に辿って、総延長500m上下100mに達する。そのうち採掘に耐える部分は、東部富鉱帯100m西部富鉱帯80mの2ケ所で、一部は縞状石英脈を主とするが、多くは断層角礫帯を充填並に鉱染した部分で石英、玉髄、氷長石、閃亜鉛鉱、黄鉄鉱等と共に金銀を伴い、厚さ1~3mに達する部分もあった。品位は大低Au10g/t、Ag40g/t内外で上部は酸化して高品位であったが、下部は硫化物に富んで品位は低下した。
 この地質と金銀鉱脈とのかかわりだが、要はこれらは基岩が変質した姿であり、そうさせた多量の熱水溶液の作用が働いたという事のようだ。この作用で金銀鉱脈ができることがあるというふうに読み取った。これらの岩質が、金銀鉱脈を見つけるための指標となるということなのかなと思うが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2016-06-27 11:39 | 福島の鉱山 | Comments(0)