地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:福島の鉱山( 48 )

 先に岡島字瀬戸沢の位置情報が見つけられずに、山口村の瀬戸沢を富保金山位置と推定しまったのだが、しっくりいかない所があったので確認をしていて次のような位置情報を得た。
 「福島県富保金山産蛍石及び数種の硫化亜鉛鉱の産状(渡邉満次郎)」に、その位置が「富保金鉱床は福島県信夫郡岡山村及び同鎌田村と伊達郡上保原村及び同富成村との界に存す」とあったのだ。

 富保金山所在地を情報通り、岡島村中心に推定することにする。その上で、保原との境界線近くの岡山村の信夫郡鎌田村との境界付近を確認して図示する。
a0087378_9224679.png 鎌田村境界付近の小字を「福島の小字」を活用して確かめ、地図上の地名と見比べて図示する。「菖蒲田」→「天神平」→「天神平山」→「大戌ケ山」と紫の文字で示したのがそれだ。
 「大戌ケ山」と示した付近は、現在の地図表記では「中森山」と表記されるようなので、それを緑文字で示した。

 岡山村の保原との境界線近くの小字名も紫の文字で示した。「鬼返り」→「問答山」がそれだ。

 現伊達市側だが、この辺りの伊達郡上保原村及び同富成村との界は「現保原町上保原」と「保原町高成田」との界辺りだと思われる。そこを道筋が通るので、ここがおおよその村界と推定した。

 「福島県富保金山産蛍石及び数種の硫化亜鉛鉱の産状(渡邉満次郎)」の本文には、「岡山坑の北方延長線上に近き福島脳病院前等には玄武岩の烈しく分解して、白色粘土状に変化せる部分に多量の黄鉄鉱を有するものあり、(以下略)」とある。病院の種類は分からないが、「福島松ケ丘病院」をそれと想定してみると、病院の南方が「岡山坑」の位置ということになる。
 また、本文中の資料として「山神坑」と「岡山坑」が図示されているのだが、その図を頭に入れて、昭和50年の航空写真を眺めると、月の輪台団地の国道を挟んだ向かい側の高まりに人工的な作業跡が見えるのだが、これが「山神坑口」とかかわるのではないかと勝手に想像する。その高まりの東側に断層線らしき地形の特徴も見えるような気がする。
 そこから、東に池のある方向に「山神坑」が延びていると推定し、それとクロスして南北に「岡山坑」が延びていると推定すると、先の病院との位置関係も矛盾ない。
 また、航空写真では、その池の北西側に人工的な作業跡らしきものが見える気がするが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2016-07-22 09:25 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 今まで信夫地方の西側を中心に南側の金山・銀山・銅山の鉱山を整理してきたつもりだが、「福島の鉱山」の手持ち資料の部分で、説明の途中に「土湯鉱山」の名称があったのが気になっていた。
 ネットでの確認では、「山師入門」のページに、この「土湯鉱山」について次のようにふれているのをみた。解説内容追加ページらしいが、そのおおよその位置が分かる。
 「土湯温泉の西4.5kmの荒川上流にある。変朽安山岩に入った石英脈にある低品位の金を掘った。高山(1804m)から下山の際に立ち寄るには離れすぎている。土湯から歩いてゆくしかなさそう」
 http://yamasinariya3.jimdo.com/%E5%86%85%E5%AE%B9%E8%BF%BD%E5%8A%A0/

 信夫地方の東側沿い、保原との境界線上にもう少し整理を続ける。
 「岡島宮沢」までそのおおよその位置を概観してきたところだが、「福島の鉱山」の手持ち資料では大笹生鉱山の次に、高子鉱山が紹介される。
 次のような位置情報だ。
 伊達郡上保原村の西南端に近く、福島、保原街道に沿って高子沼の南岸にあり、玄武岩質凝灰岩に被覆された片状花崗閃緑岩を南北に貫く石英脈で数条あるが、その巾0.5m前後に過ぎない。
(中略)
 昭和の始め産金奨励の波に乗じ、日本鉱業の手によって一時探鉱されたが、発展を見ずに休山した。尚この南を明治30年頃上保原鉱山の名で探鉱した。
a0087378_1552915.png まずは、「福島、保原街道に沿って高子沼の南岸にあり」との情報確認だ。
 次に、「鉱山情報・鉱物産地情報 福島県近郊」の「富保金山」紹介にかかわって、「高子金山」について、次のように紹介される。
 「(近くに)高子沼があり、羽山の北西には高子金山の跡があるが、現在はソーラー発電所になっているようだ」
 二つの情報を合わせると、「高子鉱山」は、保原街道に沿った高子沼の南側で、羽山の北西側という位置が推定される。

 更に、「MASAの道中日記」のブログで、「高子二十境(松浦丹次郎)」に紹介される金鉱山の坑口の写真を元に、箱崎の愛宕山との位置関係を考察しているものを見つけた。
 こちらを「高子鉱山」の方向補正資料として活用させていただいて、その位置を推定させていただいたが、どんなものだろうか。
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by shingen1948 | 2016-07-20 15:01 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「ふくしまの歴史(近世)」では、「信夫地方の鉱山業」として、大笹生鉱山を中心に、「小池鉱山」、山口村の金山、御山(信夫山)、椿舘(渡利)、湯野、平沢(桑折町)の鉱山にもふれる。
 このうち、「大笹生鉱山」と「小池鉱山」については整理したが、他は整理していない。
 今まで信夫地方の西側を中心に南側の金山・銀山・銅山の鉱山を整理してきたが、信夫地方の東側と北側の鉱山については確認できていないことが分かる。

 まずは、確認できていない情報を拾う。
 山口村の金山情報資料として、堀田氏の時代の元禄3年(1690)の日記に記されたものがあるという。願い出たのは粉又の渡辺又郎だとのこと。福島商人がかかわるようだ。「ふくしまの歴史(近世)」では、その位置を文知摺観音東方の字金山付近とする。
 その解説には、岡島宮沢金山跡とする写真が掲げられ、山口、岡島から保原町にかけて金山があり採掘され、他にも小規模な鉱山が散在したと解説する。
 御山(信夫山)、椿舘(渡利)について、享保15年(1730)試堀で銀が産出したとの情報もある。
 湯野、平沢(桑折町)の鉱山については、金山があったと言われているという推定程度の紹介だ。

 「山口、岡島から保原町にかけての金山」の位置情報をプロットしてみる。
a0087378_17451378.png まずは、「文知摺観音東方の字金山」は、ヤフーの地図から拾う。
 「岡島宮沢金山跡」は、この図の枠には入らなかったが、この北側で、宮前遺跡の南側の山裾を想像する。上保原宮沢もあるが、「岡島宮沢」とのことなのでこちらだろうと思う。

 「鉱山情報・鉱物産地情報 福島県近郊」というページで、次のように紹介される「富保金山」があるが、所在地が岡島字瀬戸内とのことなので、この近くのはず。
 富保金山は福島市岡島と伊達市保原町上保原との境にあり昭和4年に発見され山神坑と岡山坑の2脈で一時盛んに採掘されていたが昭和14年火災により中断、 その後再開し岡山坑北側延長下部を掘進したが状況悪くすぐに休山となった
 ただ、確認したら、地図上では山口字瀬戸沢しか見つからない。それで、とりあえずそこをプロットするが、矛盾はなさそうに思う。
 近くに「山神」の地区名を見つける。紹介文中の「山神坑と岡山坑」とかかわるのかどうか分からないが、とりあえずプロット。
 このページでは、高子金山を紹介した後、「保原町側には多くの金山があったが現在は分らなくなっている」とある。逆に読み取れば、保原町側には、どこにも紹介はされない多くの金山があつたということになる。ということで、保原との境界線を意識して、全体を見渡す。
 ここで、素人目線で気になりだすのが「鹿島神社」の存在かな。
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by shingen1948 | 2016-07-18 17:47 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 昨日の整理で、当時ラジオはなかなか手が出ない高級品だったはずだとし、我々でもそのラジオの世界に手が出せる接点として鉱石ラジオがあったはずだとしたが、ちょっと心配になった。というのは、この前提の話は自分の経験によるもので、もし自分の経験が特殊なら、この前提は崩れるからだ。

 自分が小学校の時代、会津若松には「若松ラジオセンター」という電気屋さんがあって、当時、ここではラジオを組み立てて販売していた。注文を受けると、〇〇スーパーなる高級ラジオを組み立ててくれるのだ。
 我が家でも、その高級ラジオを組み立ててもらったのだが、その音の良さや安定感に感激したものだった。
 近所には、この組み立て技術者が下宿されていたのだが、この高級ラジオを組み立てられた方ということで、小学生だった自分にはあこがれがあった。

 そんな時代に、高校生の従弟に自分で組み立てたというゲルマニュームラジオを聴かせてもらったのだ。この感激も強烈だった。しかも、このゲルマニュームラジオなら小学生の小遣いでも簡単に手に入れることができるというのだ。
 それで、その従弟に頼んで部品を買ってもらい、その工作を教えてもらいながら自分で組み立てたのが、最初に手に入れたラジオだったのだ。
 思い出したのは、これを肌身離さず持ち歩いていたことだ。長い金属部を見つけては、それをアンテナに試してみていたのだが、河川沿いの通信線にアンテナ部分を接触させた時に、ラジオ以外の音声も聞こえたという秘密も思い出した。
 これが、昭和の半ばの会津の小学生の体験だ。

 そこからの想像で、大正時代のラジオはもっと高級感があっただろう。また、「鉱石ラジオ」は、「ゲルマニューム」検波部分が、まだ「鉱石」で、この鉱石へ金属針を接触させて適切な整流作用のある位置を探るものだったという想像の広げ方をしてみていたのだ。
 発明クラブの講師の方の話からは、少なくとも松川地区という狭い範囲なら、似たような感動体験があったとの想像はそれほど間違ってはいないようにも思うが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2016-07-16 11:46 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「松川のあゆみ」の中で「大正時代の鉱業所長の松尾良三氏が、松川町に鉱石検波ラジオを設置した最初のひとり」との紹介がある。紹介はこれだけなのだが、当時ラジオはなかなか手が出ない高級品だったはずだ。我々でもそのラジオの世界に手が出せる接点として鉱石ラジオがあったはずなのだ。
 しかも、その材料の一部に「松川鉱山」の鉱石が使われるという状況を考えれば興味深い紹介ではないのかなと思うのだ。

 ネットで「鉱石ラジオ」について検索していたら、「郡山市少年少女発明クラブ」の「鉱石ラジオを作ろう」という活動報告のページがあった。
 その紹介に、講師の方が小学生の時代に、近くの旧松川金山から鉱石を収集して、家にあった「針金」やいろいろな材料を使って鉱石ラジオを初めて作った時のお話があって感動したというのがあった。
 http://www.space-park.jp/hatsumei/2015/07/report.html
 「松川のあゆみ」が紹介する鉱業所長の松尾良三氏が設置した鉱石検波ラジオには、当然「松川金山」の鉱石が使われていたことが想像される。

 その原理を「鉱石ラジオ」の解説から引用する。
 「AMラジオの電波は、波の大きさ(信号の大きさ)によって音声信号を表現する振幅変調を使用しているという。
 その振幅変調から音声信号を取り出すことを検波と言う。その検波を担当する部品を検波器と言うのだが、この部品の検波回路に鉱石を用いたものが鉱石ラジオという」ということだ。
 その電波から音声信号を取り出すという検波には、電流を一方向だけ流す整流作用を持つ鉱石に電気信号を通すことになるという。その整流作用を持つ鉱石には、方鉛鉱・黄鉄鉱・紅亜鉛鉱・斑銅鉱・黄銅鉱・輝水鉛鉱 等があるという。
 考えられるのは、「松川鉱山」から採れる鉱石の中に、それらしき鉱石があるらしいということだ。

 「松川鉱山」から採れる鉱石について、先に紹介した「鉱山情報・鉱物産地情報 福島県近郊」というページでは、「この近辺の鉱脈は輝銀鉱が多く、銀の割合が多く金の含有率は比較的少ない。肉眼だと花崗岩の黒雲母に見間違えられそうだがルーペで観察すると輝銀鉱だ」との情報がある。
 http://www.ja7fyg.sakura.ne.jp/kouzan/matukawa/matukawa.html 
 この「輝銀鉱」がかかわるのだろうか。
 鉱物マニアの方のページには、松川鉱山の「濃紅銀鉱」の紹介をみる。そのページで、「松川鉱山」は「鎌倉時代に発見されたという程の古い鉱山で終戦直前の金山整備令の中でも生き残った金銀鉱山」と紹介される。
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by shingen1948 | 2016-07-15 09:34 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「松川のあゆみ」では、近年の「松川鉱山」繁栄のなごりの遺跡として、製錬所の廃墟の跡、六本松と仲の内変電所、山神社を挙げる。
 念頭操作の段階だが、「製錬所の廃墟の跡」については確認できたが、変電所と山神社については、まだ確認できていない。今回は、山神社の確認をする。

 「松川鉱山」が活況を呈していたころ、山神社の祭りには花火が打ち上げられ、出店が並び、多くの人たちで賑わったということだ。
a0087378_11205291.png その山神社の位置が地図では確認できない。とりあえず国土地理院の地図上で「松川鉱山」近くにプロットされる神社が3つ確認できる。それを赤〇印で示す。
 ヤフー地図では下不動近くの神社近くの建物を「下不動」とするのをみる。また、グーグル地図では、「上不動堂」を示す建物が読める。その近くの山を不動山とするものと板山とするものをみる。

 この図で、「関根」と「小金塚」を示してみたのは、「松川のあゆみ」に、「もともと山神社は、小金塚から関根に越える山道のそばに祀ってあった。高さ約80㎝ぐらいの凝灰岩質の石の祠であった」との位置情報をみたからだ。
 この神社は、瑞宝鉱業時代、平石氏が山腹に立派な山神社を新築し、道端にあった石の祠を遷宮してお祭りしたのが、現在残っている山神社であるともある・

 少なくとも、その道沿いにプロットされる神社が、その候補の一つとみる。航空写真を見ると、それ自体の確認はできないが、その道を挟んだ南側の山肌が、人工的で大規模な掘削痕と思われるものが見える。
 山頂の神社も航空写真での確認はできないが、昭和50年の写真ではよく分からなかったが、昭和22年の航空写真ではこの東側山肌に人工的で大規模な掘削痕と思われるものが写るような気がする。
 なお、小金塚から関根に越える山道のそばに祀ってあった石の祠建立時代は不明なようだが、「松川のあゆみ」では、破風に下り藤の紋が刻まれることから、蒲生氏経営時代の建立に想像を膨らませているようだ。

 「松川のあゆみ」が、鉱山繁栄のなごりの遺跡として挙げる六本松と仲の内変電所については、今も確認ができていない。この山頂近くを高圧線が北西から南東に向けて走るのは確認できるし、この辺りが「仲の内」であることも確認できるが変電所が確認できない。
 ここからは、実際の確認しかないのだが、今のところは出かけるつもりはない。
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by shingen1948 | 2016-07-14 11:22 | 福島の鉱山 | Comments(2)
 「ふくしまの歴史(近世)」では、信夫地方の鉱山業として大笹生鉱山を中心に解説し、この鉱山近くの小池鉱山についてその他の鉱山としてふれるに過ぎない。
 しかし、明治以降という時代に限れば、この「松川鉱山」の方が栄えていたということのように思える。
 「松川のあゆみ」によれば、その最盛期は昭和9年から昭和14年頃で、従業員数500余人、社宅も設立されたという。その職種をひろうと坑内夫、製錬夫、雑役夫、選鉱婦が主なものか。
 「福島の鉱山21~「松川鉱山」③」でふれた昭和9年に完成した製錬場だが、1500屯の処理能力のある青化製錬場で、ここには分析所も併設されていて、化学的に純金と純銀とに分析することが可能になっていたということだ。
 毎月金が20㎏、銀が400㎏産出されていたといい、国内でも重要な鉱山になっていたという。
 当時の採鉱設備は、手掘りからコンプレッサーによる削岩機に移り、掘削作業が一段と発展していたという。坑内採掘は、排水ポンプ等の設備導入で水準以下の採掘が可能となり、山神竪坑では地下200mに達したという。

 「松川のあゆみ」では、その繁栄のなごりの遺跡として、製錬所の廃墟の跡、六本松と仲の内変電所、山神社を挙げる。
 「製錬所の廃墟の跡」については「福島の鉱山21~「松川鉱山」③」でふれたが、変電所と山神社については、まだ確認していなかった。とりあえず、今は山神社確認中だ。
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by shingen1948 | 2016-07-13 18:04 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「松川鉱山」の沿革を確かめる。
 「松川のあゆみ」によれば、言い伝えでは鎌倉時代の発見と言われているという。
炭焼藤太とか、その子吉次と結び付けた伝説や「宿地千軒」と結び付けた想像等を交えて解説される。
 文書的に確認できるのは、天正年間だとする。ただ、文書で確認できる桑折町の半田銀山が栄えた時代や大森金山が開坑された時代にはここも採掘されていたはずという推定を含んでいるような気もする。それはともかく、松川鉱山の産金も会津藩主蒲生氏の経営によって盛んに採鉱されたことが想像されるという。
 直接的には、幕末に近づいたころ、特に天明以降、各藩は藩財政上金山開発に入るのだが、この頃に八町目銀山が開坑されたという記録が残るのだとか。

 「ふくしまの歴史(近世)」の信夫地方の鉱山業の項に「幕府の老中から上杉藩主上杉綱勝に届いたキリシタン探索の指令状には、小池金山のことが書いてあります。松川町の字小池がそれでしょう。近くに字金山という地名もあります」と紹介される。
 上杉綱勝が上杉藩主だった時代を確認すると、正保2年(1645)~寛文4年(1664)の時代で、領内のキリシタン弾圧強化は明暦3年(1657)頃とのことなので、少なくとも八町目鉱山の「小池鉱」は、この頃は稼働していたということなのだろう。
 こちらも直接的な開坑の記録ではないのだが、この頃採鉱されていたという確からしさの確率は高いと考えられる。この鉱山の記録への初出をこの時代まで遡ってもよいのではないのかなと素人は思うのだが、どんなものだろうか。

 明治に入って再び採鉱されることについての「松川のあゆみ」の解説は、具体的で詳しい。
 まずは、明治末に三角氏による採鉱があるようだが、これは成功しなかったという。
 次の採鉱は、大正の始めの橋本組による再開のようだが、ここから軌道に乗るようだ。
 大正3年には、約2400屯の精鉱を産出し、日立製錬場に売鉱したという。先に整理した古天神地内の精錬所ということだ。
 ここで、水力を利用した石臼に良質鉱を入れ、スタンプで鉱石を搗(つ)き砕き、水銀アマルガムによる方法を用いたとある。
 「松川南鉱山」にも精錬所があったらしいという情報も、この時代辺りのようだ。

 この鉱山が最盛期を迎えるのは、昭和3年瑞宝鉱業(株)に経営が移ってからのようで、現在も残るという精錬所は、昭和9年に完成したもののようだ。
 その後、昭和14年には東北鉱業が継承するが拡張するには至らず、昭和16年には、精錬所操業を中止し、鉱石はすべて日立精錬所に送られたという。
 そして、昭和18年政府の金山整備政策のため、精錬施設が撤去され、終戦とともに休山したということだ。
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by shingen1948 | 2016-07-10 18:17 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「福島の鉱山⑳~「松川鉱山」②」の後半で、近郊の鉱山の別称について想像を加えながらふれた。
 「鉱山情報・鉱物産地情報 福島県近郊」というページで「松川鉱山」の近郊の鉱山として、「金谷川鉱山」・「松川北鉱山」・「松川南鉱山」・「小池鉱山」・「信夫鉱山」が紹介されていたのが情報源だが、「福島県鉱山誌」でも同様な分類をしているのをみつけた。

 まずは、「信夫鉱山」についての訂正をする。
 「信夫鉱山」は硫黄鉱だとして確認を除外したところだった。しかし、ここでいう「信夫鉱山」は、小池鉱山の西隣にあった鉱山らしい。所在地は水原になっている。
 地図を確認すると、小池の西に金山の地名が載っていて、その道筋が小池の西の山を回り込んでいる。そこが水原村との境界らしいので、その辺りを想像し直す。
 大正2年に探鉱されたが、詳細は不明とのことだ。

 次に、「松川北鉱山」と「松川南鉱山」の位置についての訂正をする。
 「松川鉱山」と「小池鉱山」との間に「松川北鉱山」を想像し、「松川南鉱山」を「松川鉱山」と安達郡吉倉との間の板山あたりに想像したところだが、「松川南鉱山」の位置が違うようだ。どちらも所在地は水原(関根)とのことだ。
 「松川北鉱山」は「松川鉱山から沖積原を隔てて北方に接し、片状花崗岩をN45°Eに貫く鉱脈で、松川鉱山の鉱脈群の一端と認められる」とあるので、想像した通りだと思う。
 「松川南鉱山」は、その南側に位置するようで、しかも、大正元年に清化精錬によって鉱石を処理した記録があるということだ。付近には旧坑が多いとある。
 気になるのは、具体的な位置は分からないが、ここに精錬所があったという情報だ。
 「松川のあゆみ」の解説では、大正の初め橋本組によって「松川鉱山」が再開されたばかりの時代の精錬所は古天神地内にあったとされるのだが、同じころこの「松川南鉱山」にも精錬所があったということになる。
a0087378_18303792.jpg 村界付近の話なので、大まかな位置関係を確認するのに、「松川のあゆみ」から松川町の字切図をお借りし、これを眺めながら整理する。「松川北鉱山」と「松川南鉱山」の所在地を水原(関根)とするのは、この図の「金山」の「小池」寄り辺りと想像する。

 この「松川北鉱山」と「松川南鉱山」の情報を得て納得できることがある。
 「福島圖幅地質説明書(山下傳吉)」の「本鉱山は岩代国信夫郡松川駅の西10丁強下水原村にありて鉱脈は本村を通ずる渓流の沿岸なる字熊ノ田及字小池の二か所に現出せり……」とあるその位置表示が水原村であること。
 この辺りの現地図上の位置表記が、水原地区と微妙に違って松川町水原という表記があることとかかわって、松川町と結びついた水原の小字範囲なのではないのかなと勝手に納得する。

 「福島県鉱山誌」の情報と「福島圖幅地質説明書(山下傳吉)」の情報の違いで気になるのが、小池鉱山についてだ。
 「福島県鉱山誌」の情報では、片状花崗岩及びそれを被う流紋岩質凝灰岩中を東西に貫く4条の石英脈で、探鉱されたが成功を見なかったとある。
 しかし、「福島圖幅地質説明書(山下傳吉)」の情報では、本地の産にかかわる本課分析係に於いて分析したる成績を示すとして「百分中、字小池金0.010、銀0.014、字熊ノ田金0.006.銀0.108」とあり、素人目には小池鉱山の成績も見劣りしないように見えるのだが、……。

 「福島圖幅地質説明書(山下傳吉)」が明治31年(1898)発行である事とのかかわりか、調査分析と実際の採掘とのかかわりなのかは分からない。
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by shingen1948 | 2016-07-09 18:31 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「鉱山情報・鉱物産地情報 福島県近郊」というページに「松川鉱山」の製錬所跡が掲載され、これが現存するとある。それで、「松川のあゆみ」の附録資料として添付される「松川町全図」でプロットされる「松川鉱山」付近の航空写真を確かめたら、昭和50年の航空写真にその施設が写っている事が確認できた。
 ヤフーの地図でその確認できた地点を探してみたが、それらしきものは見当たらなかった。念のため、グーグルの地図で探してみたら、なんと、こちらにはそれらしきものが写っていた。この辺り落葉樹で覆われているらしく、その影響らしいのだ。ヤフーの航空写真では、そこが緑に覆われてしまっていたのだが、グーグルの航空写真は落葉の季節に撮影されたのだろうと思われる。
 この施設、今も現存することが確認できたということだ。

 もし、これが「鉱山情報・鉱物産地情報 福島県近郊」が解説するように、「松川鉱山」の製錬所跡だとすれば、最新の設備だろう。ならば、その沿革から、昭和3年から昭和18年まで瑞宝鉱業(株)の経営で最盛期を迎えたという時代の精錬所だろうか、これが、昨日プロットした「松川鉱山」の位置にあったということが分かったということだ。

 「松川のあゆみ」で中心的に解説された「松川鉱山」の精錬所は「古天神地区」にあったとのことだったが、ここで精製されたというのは、瑞宝鉱業(株)の経営に移る以前の話らしいことが想像できる。
 この「古天神地区」にあった精錬所の描写で気になるのは、「人々はこの工場を搗工場と呼んでいた。松川鉱山から古天神の搗工場までは、通路南側に12ポンドのレールを敷き、1トン積の鉱車を馬に引かせて運搬した。ここから松川駅までは荷馬車、荷馬車で運んだものである」とあること。
 「松川鉱山」の製錬所跡の北側の道筋が、松川鉱山にかかわる道筋だと仮定すれば、小金塚を北に回り込む道筋が想定される。ただ、ここを東西に走る道筋のメインは奥州八丁目天満宮の南側を走る道筋であることだ。鉱車が通るレールが敷かれた道筋をイメージすれば、宿地付近で、斜めに小金塚を北に回り込んだ道筋に向かう道筋があることも気になる。
 はっきりするには「古天神の搗工場」地点を知りたいところだが、今のところ手掛かりがない。
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by shingen1948 | 2016-07-07 09:10 | 福島の鉱山 | Comments(2)