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by シン
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カテゴリ:大河「八重の桜」視聴記録( 154 )

 敗者の歴史を刻む北の地に住む者が、大河ドラマ視聴の延長線上に首相の靖国参拝の問題を見れば、関心事の一つは、火種になるA級戦犯合祀に踏み切るのは、あの松平春嶽氏の直系のお孫さんなのだということか。会津で見える春嶽氏は、福井の悲劇を回避する目的で、会津の悲劇に導いた智慧者のイメージかな。
 靖国神社それ自体も、本来、薩長の戦死者を祀る慰霊神社であった神社の歴史の上に、日清、日露戦争の戦死者を祀る慰霊神社という歴史を加え、更に、第ニ次世界大戦の戦没者を祀るという歴史を積み重ねたというイメージかな。
 首相の靖国参拝の問題は、その最後の歴史の積み重ね部分が、それまでの歴史と違って、敗者の歴史であるということもかかわるように見える。そこがまた、大河ドラマ視聴「八重の桜」の会津の歴史のイメージと重なって見えるということでもある。

 【毎日新聞余禄(2013/12/27)】では、A級戦犯合祀にかかわる以下の昭和天皇の危惧が紹介される。
 近年元宮内庁長官のメモから、昭和天皇が靖国参拝をやめたのは、A級戦犯合祀への不快感であったことが明らかになったのだとか。また、神社と折衝した側近は、「国を安らかにしようと奮戦した人を祭る神社に、国を危うきに至らしめたとされた人を合祀する」違和感も言い残しているのだとか。

 あくまでも大河ドラマ視聴後の感想だが、敗者のリーダーは、その心情的な善悪にとらわれるではなく、負の連鎖を断ち切ることが大切に思える。その感想と毎日新聞余禄とは調和する。
 首相の靖国参拝の問題は、現代の現実のリーダーとのかかわりになるのだろうか。
 現代のリーダーは、負けを知らないエリートであろうから、敗者のリーダーは存外難しい事なのかもしれないなとも思う。
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by shingen1948 | 2013-12-31 08:37 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 靖国神社には、明治維新直後に起きた戊辰戦争や日清、日露戦争、そして第ニ次世界大戦の戦没者が祀られている。今まで戊辰戦争での祭り方の問題意識が強くて、そこから先に進めていなかった。メディアが主として一義的に問題にする靖国神社に第ニ次世界大戦の「A級戦犯」が含まれていることまで進むことで、第49話「再び戦を学ばず」と重なるかな。
 しかし、現状の自分は、思考に耐えられる時間が極端に少ない。今回は、【毎日新聞(2013/10/27)】の「質問なるほドリ」に「首相の靖国参拝なぜ問題になるの?<東京裁判否定につながる>」という解説をみつけた。これは有難いということで、まずはこの記事の要約整理をしておく。

 「A級戦犯」とは、日本の敗戦後に連合国が開いた極東国際軍事裁判(東京裁判)で、高度の戦争責任があると認定された政治家や軍人たちをいうとの事。
 首相の靖国神社参拝の問題とかかわるのは、日本は昭和26年(1951)にサンフランシスコ講和条約を結んで独立を回復する際に、東京裁判の結果も受け入れている。そのため、首相がA級戦犯を祭った靖国を参拝する事は、内外で「東京裁判を否定し、過去の侵略戦争を正当化するもの」と受け止められる恐れがあるのだとか。
 これが、首相の靖国参拝を問題にする一義的な事かな。

 その火種になるA級戦犯が祭られるようになる経緯には、あの松平春嶽氏の直系の子息がかかわるらしい。
 靖国神社に祭られる戦没者は、旧厚生省援護局が神社側に届けた名簿に基づくという。
 A級戦犯として絞首刑になった東条英機元首相らについては、昭和41年(1966)に名簿が送られていたが、神社の最高意思決定機関である総代会は、長期間扱いを保留にしていた。それは、当時、靖国神社を国営化する法案をめぐって与野党が激しく対立していたことが影響していたのだろうというとのことだ。
 それが、昭和53年(1978)7月に就任した松平永芳(ひでよし)は、直後の同年10月にA級戦犯の合祀に踏み切る。
 その松平氏は、後にこの合祀について「東京裁判の根源をたたく意図」だったと語った記録が残っているという。神社の社報でもこのA級戦犯を「昭和殉難者」と呼んで犠牲者扱いをするなど、東京裁判への否定的な認識が表れているという。
 大河とのつながりでみれば、松平永芳氏というのが、本来的には福井の悲劇を回避して会津の悲劇するように智慧を働かせたあの松平春嶽氏の直系の孫なのだとか。

 安倍首相の靖国神社参拝にこだわる理由を、首相を応援する保守層の考えとして紹介される。
 その考えでは、占領時代につくられた体制を見直し、日本の「真の独立」を図ろうとする傾向があるのだとか。首相は、その期待に応え、憲法改正を含む「戦後レジューム」からの脱却を目指しているという。
 こういう政治姿勢は、米国を中心とする戦後の国際秩序に対する挑戦と受け取れられかねないとも指摘する。
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by shingen1948 | 2013-12-30 06:49 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 赤十字社の思想を日本に伝えたのは、佐賀藩出身の佐野常民という人物だといわれているのだとか。
 佐野は明治10年(1877年)の西南戦争の際、赤十字をモデルにした博愛社という組織を立ち上げる。その博愛社が10年後の明治20年(1887年)5月に、日本赤十字社と名を改めて、総裁に有栖川宮熾仁親王、社長に佐野が就任したのだとか。
 磐梯山噴火が翌年の明治21年(1888)で、医療救護班を派遣して救護活動を展開される。元々、赤十字社の目的は、戦時における傷病者や捕虜の保護だが、この救護活動が、平時救護活動の世界的先駆けとなるという。
 そして、八重の入社は、その2年後の明治23年(1890)。

 公式的な組織の話はそういう事のようだが、会津で語り継がれるナイチンケールは瓜生岩子さんで、八重さんの影は薄い。
 岩子さんは、戊辰戦争時、戦乱の若松城下に出かけて負傷者の看護をしている。その時に、実際の行動として傷病者を敵見方なく看護しているようだ。
 会津藩側からは「敵軍を看護している」といわれ、新政府軍側からは「誰の許可を得たのだ」と非難を浴びたという。しかし、「けがの手当てをするのに誰の許可もいりませぬ」「けがをした者は皆同じ、国のために戦っているのです」と話したというのだ。
 このことが、土佐藩の参謀板垣退助の耳に伝わり、後には、明治天皇の皇后さまにも岩子さんの行動が伝わって面会することになったのだとか。
 ただ、岩子さんの会津なまりが強く、面会の際には、大山捨松さんの姉である操さんが会津弁の通訳をするほどだったのだとも。(別の見え方をすれば、大山婦人としての捨松さんの力も見えるとも……)

 地域限定の評価は、商家の娘という身分的な事と、看護活動自体が重要視されていなかった事があるのだろう。そういう意味では、八重さんが看護活動をする者にスポットライトをあてさせたということは、会津のナイチンケールにとっても意義深い事の一つかな。

 岩子さんは、小田付村(現在の喜多方市字北町)の油商若狭屋当主渡辺利左ェ門氏の娘で、文政12年(1829)2月15日母りえさんの実家である熱塩温泉(現在の山形屋)で生まれているらしい。9歳の時には父が病死し、その直後に家が焼失して、岩子さんらは、りえさんの実家である熱塩温泉で暮らしていたという。
 天保13年(1842)年には、叔母の家である会津藩医の山内春瓏氏宅に医師の見習いとして住み込み、春瓏氏とともに鶴ケ城へ出入りしていたという。
 弘化2年(1845)には、会津高田の佐瀬茂助氏と結婚。呉服商松葉屋を開いて、一男三女をもうけた。しかし、茂助氏は病死し、手代に店の金を持ち逃げされたこともあって店は潰れた。それで、元冶元年(1864)に母の実家の熱塩温泉に戻っているらしい。戊辰戦争が起きたのはそんな時だ。
 ※瓜生岩子さんの経歴部分は、「会津の華は凛として」をもとにしている。
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by shingen1948 | 2013-12-23 06:25 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 先に、八重さんが赤十字社とかかわるきっかけは、磐梯山噴火情報がかかわるのかなと勝手な想像をしたが、「新島八重」の中で、野口氏も同じような想像をしている箇所を見つけた。
 自分の場合は、勝手な想像の範囲だが、こちらにはその根拠が記される。当方が読み取ったのは以下のような根拠。
 八重さんは明治23年(1890)に日本赤十字社の正会員になるが、日本赤十字社の正会員になるのは寄付行為である事とのかかわり。
 八重さんが日赤正会員になるのは、襄氏没年の明治23年(1890)4/26で、八重さん45歳の時だが、日赤の情報によると「正社員になる条件は、年に3円以上12円を納める者であること、或いは、一時又は数度に200円以上納める者」とある。
 また、八重さんは、明治28年(1895)には終身社員になるようだが、終身社員は、3円を10年以上納めるか、一度に200円以上納めるという情報もある。
 八重さんは常々寄付行為をしていることも確認できる。
 明治24年(1891)12月1日、襄氏が1889年8月に吉野郡での災害に対し、2円50銭寄付。これに対して八重が奈良県知事より感謝状を受け取る。
 この年、同志社ハリス 理化学校に北海道の植物標本23点を寄付し、感謝状を受け取る。
 兄覚馬氏が永眠した明治25年 (1892) 5月18日、京都府高等学校増築費3円を寄付し感謝状を受け取る等々。

 磐梯山噴火は、八重さんが正社員になる2年前の明治21年(1888)だ。
 この時に、赤十字社は、医療救護班を派遣して救護活動を展開している。この救護活動は、平時救護活動の世界的先駆けとされ、当方はまだ確認していないが、五色沼に「平時救護発祥の地」の記念碑が建つという。
 これも動機の一つでないのかなと思えるのは、八重さんの遺品には、八重さんの遺品には磐梯山の噴火写真もあるということだ。更には、八重さんの胸に輝く小さな会員章は明治21年(1888)が刻まれているのだとか。
 磐梯山噴火という関心事と赤十字社が結びつき、それが常々寄付行為しているという心持と結びついた可能性が想像できるというのが指摘される根拠かな。

 八重さんが、赤十字社との直接の行動としてかかわるのは、明治26年(1893)に日本赤十字社京都支部に篤志看護婦会が設立されると同時に入会したことだろうか。ドラマでは、こちらのかかわりを中心に描かれる。
 明治27年(1894)日清戦争の折、40人の看護婦の取締役として、広島の陸軍予備病院で4ヶ月間篤志看護婦として従軍する。八重さんは、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めたとされる。
 日本赤十字社終身社員となった1895(明治28)年の11月18日に日清戦争の従軍記章を受け取っている。

 社会的にはこちらの側面が認められ、彼女の名誉に結びつく。
 この年には、これらの功績が認められ勲七等宝冠章が授与されるのだが、その「これらの功績」= 「日清戦争の折、40人の看護婦の取締役として、広島の陸軍予備病院で4ヶ月間篤志看護婦として従軍した」なのだろう。

 前話の「再び戦を学ばず」の視点でみれば、ドラマで描かれた日本赤十字社とのかかわりは、世間の「戦争推進」とつながる行為でもあるのではないかな。「再び戦を学ばず」の心持とつながるとすれば、自らは苦しい時期にも、他者のために寄付行為を行っていることとつながる日本赤十字社とのかかわりの方ではないかなと思えるがどうだろうか。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第50話「いつの日も花は咲く」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/nextsynopsis.html
 「いつの日も花は咲く」
 明治27年、八重(綾瀬はるか)は篤志従軍看護婦として広島陸軍予備病院で日清戦争の負傷兵たちを看護していた。院内ではコレラや赤痢などが発生し危険な状況だったが、八重は感染にひるむことなく勇敢に看護に従事、若い看護婦たちを見事に統率。その功績が讃えられ皇族以外の女性では初となる宝冠章を叙勲した。しかし、戦争がきっかけとなった叙勲を八重は素直に喜ぶことができずにいた。そして、晴れない気持ちを抱いたまま帰郷した会津で八重は、思いがけない人物と再会する。(60分拡大版)
 その功績がたたえられ、皇族以外の女性では初となる宝冠章を受章した。このことは新聞にも取り上げられ、二葉(市川実日子)や時尾(貫地谷しほり)は自分のことのように喜ぶ。そんななか、再び日本はロシアとの戦に向け動き出す。戦が起こらない世を願う八重の胸中は複雑だった。そして、晴れない気持ちを抱いたまま帰郷した会津で、八重は頼母(西田敏行)と久しぶりの再会をする。頼母に励まされ元気を取り戻した八重は、また新たな道に向かって歩み続けていくのだった。
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by shingen1948 | 2013-12-21 16:56 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 最終話をむかえた大河「八重の桜」のその前話が「再び戦を学ばず」。その視点で見れば、正史の歴史観が、まだ300年の平和持続の歴史にかなっていない。
 それをかなえるために、敗者の側の歴史観で大切な事の一つは、負の連鎖を断ち切ることなのだろうと思う。その事については、最終話を整理した後に考えたい。
 もう一つ気になっているのが、「京都守護職始末(山川浩)」以前から、白虎隊は正史の歴史観の中に取り込まれていたということだ。それが愛国心という観点だ。
 その愛国心自体は肯定すべきものであって、誰も否定することなどできない観点だ。しかも、その具体例として登場するわけで、敗者の側にとっては誇りにもなる事柄だ。
 故郷を離れて見えることは、その誰もが否定することなどできないという事が利用されたという側面だ。

 最近道徳が教科化されたと聞く。
 教科化というのは、教師による評価の対象となるということだ。もっと単純化した言い方をすれば、子供の考えを、あるいは心を〇か×かで判断できるようになったという事でもある。
 各種報道からもう一つ気になる動きもあって、それが、教育委員会の独立性より、為政者がかかわれるというシステムへの変更の動きがあるようにも感じられることだ。直接的な理由は、最近流行のいじめ対応などの理由がけられていて批判しにくいが、大きな流れとしては、為政者の介入だろうと思う。
 そんな状況を感じていたところに、東京新聞の「国家安保戦略 なぜ書き込む『愛国心』」という社説を見た。 東京新聞を確認していたのは、「フクシマは東京の出来事」とのかかわりだ。

 つなげてみる。
 子供の愛国心を教師が監視できる→為政者は今までよりも教育内容に立ち入り評価を強めることができるという状況を感じていて、「国家安保戦略に『愛国心』が書き込まれる」という情報を得たということだ。
 すとんと入るのは、そこに「再び戦を学ばず」の視点を考えているからかな。敗者の歴史を感じる者の役割が問われているのかも……。
 国家安保戦略 なぜ書き込む「愛国心」【東京新聞社説(2013/12/12)】
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013121202000175.html
 安倍内閣が来週決定する国家安全保障戦略に「愛国心」を盛り込む方針だという。なぜ心の問題にまで踏み込む必要があるのか、理解に苦しむ。「戦争できる国」への序章なら、容認できない。
 十七日に閣議決定予定の国家安保戦略は、外交・防衛の中長期的な基本方針となるもので、初めて策定される。安倍晋三首相はきのうの有識者懇談会で国家安保戦略を新しい防衛大綱と合わせて「今後のわが国の安全保障のありようを決定する歴史的な文書になる」と胸を張った。
 中国の軍事的台頭と北朝鮮の核・ミサイル開発などにより、アジア・太平洋の地域情勢が不安定化していることは否定できない。
 「国家」と銘打つ仰々しさは別にして、国民の生命と財産を守る責任を有する日本政府として、どう地域の安定を維持し、世界の平和に貢献するのか、情勢を的確に分析し、適切に備えるための文書をまとめる意義は認める。
 しかし、文書になぜ「愛国心」まで書き込む必要があるのか。最終的な文言は調整中だが、安全保障を支える国内の社会的基盤を強化するために「国を愛する心を育む」ことが必要だという。
 生まれ育った国や故郷を嫌う人がいるのだろうか。心の問題に踏み込み、もし政策として愛国的であることを強制するのなら、恐ろしさを感じざるを得ない。
 そもそも、周辺国の愛国教育に懸念を持ちながら、自らも愛国教育を進めるのは矛盾ではないか。ナショナリズムをあおり、地域の不安定化に拍車をかけてしまわないか、慎重さも必要だろう。
 同戦略は平和国家、専守防衛、非軍事大国、非核三原則などの基本方針を「堅持」するといいながら、日米同盟を強化し、日本の軍事的貢献を拡大する方向性も鮮明にした。武器輸出三原則の見直し検討も盛り込まれる見通しだ。
 すでに国家安保会議と特定秘密保護法が実現し、来年には集団的自衛権行使の容認、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)見直しも予定される。
 安倍首相が主導する安全保障政策の一連の見直しは、先の大戦の反省から戦後日本が歩んできた平和国家という「国のかたち」を根底から変えてしまいかねない。
 衆参で多数を得たからといって何でも強引に進めていいわけではあるまい。「再び戦争ができる国にしてはいけない」という国民の痛切な叫びに、首相はじめ政権幹部は謙虚に耳を傾けるべきである。

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by shingen1948 | 2013-12-18 06:24 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 今回の大河は、新しい日本を目指すことにおける正義の対立軸にある敗軍となった会津藩を中心に描かれてきた。残り少なくなった今話のテーマが「二度と再び戦うことを学ばない」であることがいい。
 敗者の歴史は語られてこなかったとのことだが、会津で育った者にとっては断片的ではあるが、その敗者の歴史の視点は持っていた。気になっていのは語られないことではなく、資料を確認していくと、賊軍ではないというこだわりが最終的にファシズムに利用された歴史と結びつく事だった。
 正史の歴史観が300年の平和持続の歴史にかなわなかったが、敗軍の歴史観でも同じようなのだ。それなら、ファシズムに利用された歴史観を反省していく捉え方があってもよさそうにずっと思っていたところがあったのだ。
 それで、覚馬氏を登場させた今回の大河では、「二度と再び戦うことを学ばない」で結ぼうとしていることがいいなと思うのだ。しかも、会津の歴史に詳しいとされる方をその時代考証に据えたままだ。

 覚馬氏だが、新島襄の死後同志社臨時総長を務めている。その同志社卒業式訓示の実際は、「弱を助け強を挫き、貧を救ひ富を抑ゆるものは誰れぞ、諸子乞う吾が言を常に心に服膺して忘るゝ勿れ」だとか。その覚馬も、明治25年(1892年)12月28日にこの世を去る。享年64歳。

 松平容保公は、賊軍ではないという証である孝明天皇から下賜された「宸翰」を小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放さなかったのだとか。その容保公も明治26年(1893年)12月5日にこの世を去る。享年59歳。
 その思いは、明治44年(1911年)「京都守護職始末(山川浩)」で公表される。大河確認で、その「京都守護職始末」の昭和5年6月20日発行版が、国立国会図書館デジタル化資料で目にする事ができることが分かる。
 そのこだわりが、以下の図版になっていることからも感じる事ができる。
 孝明天皇御宸翰(ごしんかん)玻璃(はり)版
 孝明天皇御宸翰写真版
 孝明天皇御製写真版
 孝明天皇恩賜の太刀写真版
 会津藩主松平容保公真影玻璃(はり)版
 会津藩主松平容保公真影写真版
 会津藩松平家家訓写真版
 著者男爵山川浩肖像写真版
 元治6年京都守護職時代の京都古地図玻璃(はり)版
 ※ 玻璃版=コロタイプ=写真製版の一つ、ガラスセルロイドなどを版木とする平版で、直接刷り。精巧な仕上がりを要する名画の複製、記念写真アルバムなどに用いる。(デジタル大辞泉)

 更に、国立国会図書館デジタル化資料で確認できたのが、山川健次郎監修「会津戊辰戦争史(会津戊辰戦史編纂会)」の昭和8年版、「会津戊辰戦争(平石弁蔵)」の大正6年版。
 今回の大河に関わって、他に「山本覚馬(青山霞村)」【昭和3年同志社】・「東北遊日記(吉田松陰他)」【 慶応4河内屋吉兵衛】も確認できた。
 なお、各種証言を網羅する「会津戊辰戦争(平石弁蔵)」の最新版は県立図書館で読む事ができた。この最新版が、ファシズムに利用された歴史と結びつく資料ともなるように感じる。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第49話「再び戦を学ばず」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_49.html
 「再び戦を学ばず」
 明治23年に教育勅語が発表されると、覚馬(西島秀俊)は天皇への忠義を課す一節に懸念を抱いていた。そんな覚馬のもとに東京から健次郎(勝地涼)が訪ねてきた。兄・浩(玉山鉄二)に代わって幕末の戦記を仕上げるために、京都でどのように薩長と戦っていたかを詳しく取材するためだ。しかし、覚馬が薩長にも勤王の志はあったと語ったことに、健次郎も八重(綾瀬はるか)も激しく反論する。その後、覚馬は同志社の卒業生たちに不戦の精神を説くと、病に倒れ息を引き取る。

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by shingen1948 | 2013-12-14 09:41 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 今年の大河も今話で襄氏も亡くなり、もう残りわずか。今話主題の「グッバイ、また合わん」は、八重さんに頭を抱えられて、襄氏が亡くなる際言い残しとされる言葉らしい。
 新島襄氏が息を引き取ったのは、明治23年(1890)1月23日の午後2時20分、享年46歳とのこと。その時に、「狼狽するなかれ。グッドバイ、また会わん」と言い残して目を閉じたのだとか。
 襄氏はずっと心臓が悪くて、いつ絶命するか予断ならなかったはずだが、この時の直接の死因は、東京から駆けつけた医師樫村清徳の診断によると、急性腹膜炎症であったようだ。

 時々、先に活躍した登場人物のその後が挟み込まれるのも、ドラマの〆に入ったという事かな。
 ちらりと、秋月悌次郎氏が訪ねてくる場面が挿入されたが、それが、先に先に整理した悌次郎氏のその後の時期と重なる。
 〇 大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅳの2~関連資料展と散歩情報③
 http://kazenoshin.exblog.jp/17794937/ 
 〇 大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅳの2~関連資料展と散歩情報④
 http://kazenoshin.exblog.jp/17824052/
 〇 大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編Ⅳの2~関連資料展と散歩情報⑤
 http://kazenoshin.exblog.jp/17835109/
 なお、襄氏が亡くなる2年前の明治21年(1888)に、磐梯山噴火があり、猪苗代・裏磐梯地域は大きな被害を受けている。「松平容保の義捐金【福島県資料情報第22号(平20/10/25)】」によれば、この時に松平容保は現地に急行し被災者を見舞っていたことが、2010年に確認できたとのこと。
 http://www.history-archives.fks.ed.jp/con7/shiryo-22.html
 八重さんも磐梯山噴火情報は入っていたろうが、身の回りで大変な事が起きている時期と重なっているようだな。ただ、ドラマでは、明治23年(1890)の時点で、篤志看護婦の仕事を描くが、この時は、八重さんはに日本赤十字社の正会員になる時期であり、その資格は寄付行為なのだと思う。その2年前に、日本赤十字社は、この噴火の時に医療救護班を派遣して救護活動を展開しているらしい。どこかで結びつく要因になっていなかったなと思うのは勘ぐりすぎかな。
 なお、赤十字社の活動は、ドラマにあったように戦時想定が中心のようで、こちらの救護活動は、平時救護活動であり、見方を変えれば世界的先駆けた平時救護だとし、五色沼に「平時救護発祥の地」の記念碑が建つのだとか。確認はしていない。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第48話「グッバイ、また合わん」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_48.html
 「グッバイ、また会わん」
 関東に向かった襄(オダギリジョー)は、同志社大学を設立するための募金活動をしていたが、体調を崩して大磯の旅館で療養していた。見舞いに訪れた蘇峰(中村蒼)は、八重(綾瀬はるか)に病状を伝えるべきだと言うが、襄は断固としてそれを拒む。
一方、京都では、八重が襄からのはがきの文字で、夫の体調に異変があったことを察知する。すでに襄の病状を知っていた覚馬(西島秀俊)から事情を聞き、予感が真実だったことを知った八重は急ぎ大磯へ向かい、襄と最後の言葉を交わす。
襄の死後、なかなか前に進めずにいた八重だったが、覚馬の勧めで日本赤十字社の篤志看護婦の仕事をしていく決意をする。

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by shingen1948 | 2013-12-07 17:06 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 今話では、大学設立の明るい兆しがようやく見え始める頃が描かれる。この頃、親戚の御不幸が重なり、襄氏自信も身体が衰弱して行くようだ。
 年表を確認すると、ドラマでは蘇峰氏の協力で「同志社大学設立の旨意」が大評判となり、同志社大学設立の気運が高まるのだが、その徳富蘇峰氏が「国民之友」を創刊するのが、明治20年(1887)。この年にみねさんが永眠している。
 みねさんは、結婚2年後の明治16年(1883年)に長女悦子を産んでいるようだが、その4年後の明治20年(1887)に長男平馬を産んで、その産後の肥立ちが悪くて亡くなったのだとか。享年27歳。
 この年に、襄氏の父民治氏も亡くなっている。洗礼を受けて、襄氏が住んでいた京都に身を寄せたのが、明治10年(1877)。それから10年後の事。

 襄氏の魅力は、常に誠実に努力する姿であって、その成果は、効率という視点で見ればとても小さく、その小さな成果を地道に積み重ねていくということかな。
 先に整理した明治19年(1886)襄氏の2回目の会津訪問だが、この時に会津若松教会で最初の信徒14名に洗礼を授けたとされる。ドラマでは、八重さん中心に第42話「襄と行く会津」として描かれたが、この時にも襄氏は東北伝道を意識していて、これは、その成果の一つなのだろうと思う。
 これが、明治24年(1891)に東北へキリスト教を伝道する拠点となる会津若松教会が設立されるという成果に結びつくようだ。
 更に、この時に足を延ばした仙台市に明治19年(1886)に同志社の東北進出の拠点となる学校「宮城英学校」が開校する。これが「仙台東華学校」となって、その初代校長に襄氏が就任するようだ。ドラマでは、北海道で静養の時にユキさんとの出会いが描写されたが、それは、この開校に伴う業務遂行の後に、北海道に足を延ばして静養したという事情のようだ。

 表面には出ないが、ドラマに描かれた背景には、地道に伝道する姿勢があるようだ。
 ドラマでは、この第42話「襄と行く会津」に先駆けて、みねさん夫婦を誘うため新島襄氏の父祖の地である安中を訪れるように描かれる。この時、襄氏は中山道を徒歩で、八重は船に乗り横浜経由で安中に向かい、安中で合流して会津へ向かう。この時も、会津への出発前に、襄氏は安中で演説などをこなしているようだ。 襄氏にとっては、それ以前に、この地の造士館(安中小)・龍昌寺・便覧社・自宅等で、講演会を開いていて、その成果として、安中教会が設立されていたという状況下でもあるようなのだ。

 その地道な伝道活動が、常に成果と結びつくという事でもないようだ。
 第42話「襄と行く会津」では、会津に残った八重さんとみねさんが中心に描かれたが、この時、襄氏と伊勢時雄氏は、山形県へ向かっている。
 その8月21日に甘粕三郎氏の自宅を訪問する。明治19年(1886年)にも、甘粕三郎氏に合っているらしい。しかし、結果的にこの山形県訪問では成果として実りはなかったらしい。ただ、この時に八重さんの養女甘粕初子との出会いのきっかけにはなっているという別の成果はあるようだ。
 甘粕初子の母方の祖父は、会津藩士の手代木直右衛門氏とのこと。この方、あの戊申戦争時に秋月悌次郎氏とともに米沢藩を訪れ、会津藩の降伏の仲介を依頼した人物だ。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第47話「限りある命」の粗筋をお借りする。
 ※エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページでは第47話は「限りある命」として整理される。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/nextsynopsis.html
 「限りある命」
 同志社の大学設立に奔走する襄(オダギリジョー)だが、心臓病を患い体調の思わしくない日が続いていた。八重(綾瀬はるか)は、資金集めのために動き回ろうとする襄を必死になって制止するが、襄は一向に聞き入れない。そしてついに、主治医が八重に襄の余命が長くないことを告げる。そんな中、徳富蘇峰(=猪一郎・中村蒼)の計らいで、同志社の募金広告が全国誌に掲載され寄進者が集まり出すと、襄は再び不調な体にむちを打って仕事に向かおうとする。そして、八重が心配する中、募金活動のため単身、東京へと向かうのだった。

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by shingen1948 | 2013-11-30 06:42 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 弟45話「不義の噂」第46話「駆(か)け落ち」の話は、徳富健次郎(蘆花)の自伝小説『黒い眼と茶色の目』に記される話がベースのようだ。
 久栄さんは明治26年(1893)結婚することなく23歳で病没している。この小説が書かれたのは、久栄さんが亡くなって29年目の大正10年(1920)の時点。
 この小説自体は、簡単に岩波文庫(1943)版と新橋堂(1914)版の作品が近代デジタルライブラリーの検索で読めるのだが、読んでみたいという興味はない。
 私小説としての内容として、過去の恋愛の感情を断ち切る思いだとしながら、その思いが成就しなかったのは、周りの人々の制止によるものとするふがいなさ。しかも、それでも断ち切れないにもかかわらず、久栄さんの魅力への言及は無く、蘆花の一方的な追憶に終始するあたりかな。
 この作品の制作経緯も常人には理解不能な世界。
 「蘆花の作品【晃文社(斎藤弔花 著1943)】」によれば、その作品の清書を自分の妻にさせるらしいのだ。確かに、その小説の「まえがき」をみれば、その清書をさせたという妻にささげるという体裁をとっている。
 更に、その小説の8年目には、妻と二人連れ沿ってその久栄さんの墓に詣でて、香を焚き、花を供え、冥福を祈ったのだとか。
 その心は当方としては理解不能の世界だが、「時は熟させます。判ちます。朽つるものを朽ちさせます。唯真実のみ、愛のみ、要するに生命のみが生くるのです。私は「黒い眼と茶色の眼」を書いた事を悔ひません。その中に一道の生命が黒潮の如く流れて居るのですから」なのだそうだ。

 蘆花(健次郎)が久栄の幻をすっかり消滅させた頃の徳冨健次郎宛ての「新島襄の手紙」があるらしい。
 そこでは、いったん破談と決めたのであれば、それ以上ぐじぐじと過去に囚われないで前進することを強く奨める内容なのだとか。

 弟45話「不義の噂」の時栄とのかかわる部分は、数ページなので部分読みする。
 「(五)山下家」の項に、山本覚馬氏は、山下勝馬さんとして、時栄さんは、時代さんとして登場する。その概要は、以下のような事。
 明治18年(1885)妻の山本時栄の体調が悪いため、山本覚馬は医師ジョン・カッティング・ベリーに往診を頼む。その診察を終えた医師ジョン・カッティング・ベリーは、帰りがけに玄関の上がりかまちから、奥に向かって「おめでとう。もう5ヶ月です」と告げる。
 しかし、奥でこれを聞いた山本覚馬が「身に覚えが無い」と言い出したため、妻・山本時栄の不倫が発覚し、山本一族の間で騒ぎになる。
 聞きただしたところ、どうも相手は山本家が将来養子にと思い会津から呼び寄せ同志社へ入学させ山本家にも出入りしていた青年らしいということに。
 覚馬氏は、いわば不具者の身で負い目があり、クリスチャンとして洗礼も受けていたこともあって、時栄を許すことにする。しかし、八重さんは、「臭い物に蓋をしては行けない。全てを明らかにする」と妥協を許さず、時栄さんを問い詰め、家から追い出す。
 ここの部分読みだけではよく分からないが、この小説では、時栄さんのお相手は、会津出身で同志社英学校に通っていた望月興三朗の弟だとされるということらしい。この方は、山本家が養子に迎えるため、会津から呼び寄せ、同志社英学校で学ばせていた18歳の青年とのこと。
 あくまでも小説の世界だが、事実としては、山本家に起きた一寸むつかしい事のために、山本覚馬氏は明治19年(1886)2月19日に時栄さんと離縁したということ。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第46話「駆(か)け落ち」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_46.html
 「駆(か)け落ち」
 母・時栄(谷村美月)が山本家を出て行って以来ふさぎ込む久栄(門脇麦)。八重(綾瀬はるか)は、母親代わりになって久栄を気遣うが、なかなか心を開いてくれない。そんな中、久栄が唯一人、心を許せたのが徳富猪一郎(中村蒼)の弟・健次郎(太賀)だった。優秀な兄といつも比較され肩身の狭い思いをしている健次郎。二人は悩みを打ち明け合う内に結婚を意識し合うようになる。しかし、その展開に八重が猛然と待ったをかける。

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by shingen1948 | 2013-11-23 10:30 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 ドラマでは、山本家にかかわるトラブルを2話の主題として展開されるようだ。
 この時期の襄氏は、教育者として精力的に同志社の発展・充実に取り組みながら、もう一方で、牧師として教会建設や説教活動を展開するという精力的な活動を展開する大切な時期でもあるようだ。八重さんの故郷である会津を基盤に、仙台に「東華学校」を開講するという動きも、その一環の動きだったのだろうと推測する。
 最近気付いたのが、その襄氏の行動を追う裏付け資料として手紙が多いということだ。襄氏は、書簡の人だったといわれるとのことで、現存するものだけでも600数10通を越えているらしい。最近、書店で「新島襄の手紙【岩波文庫】」を目にしたが、これは、それ等の中から96通をセレクトして編集されたものなのだとか。

 福島県内では今年の4月に、襄氏が浪江町出身の県議で自由民権運動家だった苅宿仲衛に宛てた手紙が、福島県立歴史資料館で発見されて、それが展示されるという報があったが、聞き流していた。
 しかし、その内容を改めて確認すれば、同志社大設立への賛同して知人に広く紹介してほしいという協力依頼の直筆の手紙ということらしいのだ。同様の手紙は、二本松出身の自由民権運動家安部井磐根にも出しているのだとか。その日付も明治22年(1889)2月6日付。
 ドラマでは、八重さんも襄氏の留守中に、同志社女学校の廃校の危機を救う行動が描かれるが、襄氏の「同志社大学の設立趣旨」が大きな反響を呼んで、同志社大学設立に最大のチャンスが訪れるのは、明治21年(1888)とのこと。
 それまでに国内の寄付金だけで6万円に達していたが、大学の設立にはまだ、多額の寄付が必要だったらしい事情が今なら分かる。
 ドラマ視聴とかかわれば、特別な意義のある資料というよりは、襄氏が少しでも知りあった方々に、誰それと選択しているゆとりはなく、必死に頼み込んでいる必死さが伝わるという意義の手紙だったのだろうな。
 無知だったな。
 「新島襄の手紙を公開 本県の自由民権運動家と交流【福島民友(2013/4/20)】」a0087378_9372996.jpg
 同志社の創設者で、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公新島八重の夫新島襄が本県の自由民権運動家に同志社大設立への賛同と協力を求めて書いた直筆の手紙が19日までに、福島市の県歴史資料館で発見された。新島が自由民権運動家と深い交流があったことを裏付ける史料として注目されるという。直筆の手紙は20日から、同館で初公開される。
 新島直筆の手紙は1889(明治22)年2月6日付で、浪江町出身の県議で自由民権運動家だった苅宿仲衛に宛てた手紙。同館の渡辺智裕専門学芸員(47)が昨年秋、収蔵資料の整理中に発見した。文中には「大学之計画御賛趣被成且広ク御知人中ニモ御誘」とあり、大学設立への趣旨に賛同してもらい、広く知り合いにも紹介してほしいと書かれていた。
 渡辺学芸員は「新島襄が弾圧されていた自由民権運動家と、当時の状況に関係なく、交流していたことを証明する史料」と話している。
 手紙の公開は7月15日まで開かれる展示会「八重の時代の人々」で行われる。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、弟45話「不義の噂」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/nextsynopsis.html
 「不義の噂」
 襄(オダギリジョー)が米国から5万ドルの巨額の資金援助をたずさえて1年8か月ぶりに帰国した。無事の帰国を喜ぶ八重(綾瀬はるか)。しかし、襄の留守中に深まっていた時栄(谷村美月)と青木(永瀬匡)の不倫関係が、スキャンダルとして街に知れわたり、同志社の宣教師たちからも不協和音が噴出する事態に。収拾のため、覚馬(西島秀俊)は商議所会頭を辞職するが、責任の重さを悟った時栄は離縁を申し出る。

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by shingen1948 | 2013-11-16 09:40 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)