地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 福島と戦争( 69 )

 渡利に落とされた爆弾は、高度3万フィート「約9千メートル」から原爆を投下する練習を目的とする「模擬爆弾」だと勝手に思っていた。人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練ならば、「模擬爆弾」で充分なはずという思い込みがあったようだ。
 しかし、そうではなさそうだ。殺傷能力の高い4.5tの大型爆弾だったようだ。その大型爆弾を、本当は福島市街地近くの北西隅の工場へ2発投下するはずだったということらしい。
 投下目標は、福島の北西隅に位置する福島製作所と福島高校南にあった品川製作所だった。ところが、7月20日テニアン島を1時20分に飛び立った2機のB29は、一機がエンジントラブルで引き返したというのだ。それで、1発だけの投下となったということらしい。
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 その一機も、福島まで来たところ、曇りで目視投下が出来なかったとのことだ。それで、上空9000mからレーダーで投下したところ、目標を逸れて、8時33分に渡利の水沼に落ちたということだ。
 投下地点は、展示された航空写真にプロットされているが、そこからその地点を読み取れない。わたり病院付近の「沼之町」ということと、半沢氏のフィールドワーク地図を頼りに推定する。
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 実際に出かけてみたが、現地は住宅地になっていて、その痕跡もなくよく分からない。カメラを、その地点と思われる方向に向けてみる。廻りをぐるりと回ってみたが、爆弾の落ちた地点が沼になっているという痕跡は見当たらない。

 ここでの整理のポイントは、殺傷能力の高い4.5tの大型爆弾の被害ということになる。
 爆撃で亡くなった斎藤隆夫さん(享年14)は、もし模擬爆弾なら亡くならなくても済んだはずだ。
 整理のポイントは、その状況だろうか。投下地点から約30m離れた自宅近くの田んぼで、爆風に襲われて亡くなったということだ。その爆風で2軒の家が焼けている火炎の状況のだろうか。
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 福島製作所と品川製作所については、展示された地図から読み取れる。福島製作所は、現在の工場の奥羽線寄りのあたり、品川製作所は、盲学校あたりと見当をつけて、目標地点と、投下地点の関係をプロットしてみる。
 なお、福島製作所は、軍需工場としては、戦車キャタピラ等を製造していたという。「福島市史」の中では、兵器(火砲)としている。民需生産としては、鉄道車両部品としている。品川製作所は、軍需工場としては、飛行機の精密機器を製造していたという。「福島市史」では、航空部品とし、疎開してきた工場としている。
 レーダーで狙われたのは、説明の文意から福島製作所が推定される。それが外れて渡利に落ちたということのようだ。

 予定通りに事が進めば、福島市街地の西端に2発の4.5tの爆弾が投下され、渡利の状況から、その被害は半径2㎞に及んだはずだということだ。

 模擬原爆投下は、「人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練」+「充分な殺傷」を目的としていたということのようだ。
 道義的な名目のために目標を軍事工場に置いているが、充分な殺傷を確実に実行できることも想定しているらしいということだ。

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by shingen1948 | 2010-09-03 06:38 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 今回の展覧会では、瑞竜寺に保存されている模擬原爆の爆弾の破片も展示されている。
 瑞竜寺の散策時に、原爆投下の練習のための『模擬原爆』が投下された話は聞いていた。
 昭和20年(1945)7.20朝投下され、1名が死亡し、農家2軒が火災に遭ったという。また、破片が村中に飛び散り、村では裸足での耕作が不可能になったとも聞いていた。
 そして、その爆弾の破片を寺が保存していること、更には、この渡利に投下された爆弾を素材に戦争を考える劇を上演しているということもニュースで知っていた。
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 その破片の実物が展示されたのだ。見た目にはそれ程の重量感は無い。しかし、実際にはかなりの重さだ。長さ約50㎝、幅約20㎝だが、これで重さは15㎏あるという。

 今回の展示会まで、「模擬爆弾」の<模擬>という言葉のイメージから、勝手に軽く見ていたという事が分かった。<模擬>というのは、原爆に対して模擬なのであって、原爆と同じ重さに調整されている通常の爆弾だ。当然、投下地点ではかなりの被害が出ているとのことだ。
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 渡利の模擬爆弾は、8月9日に長崎に落とされたプルとニューム型の原爆「ファットマン」を模して、ほぼ同じ形で、長さ3.5m、直径1.5m、重さ4.5tの爆弾とのことだ。ここに通常のTNT火薬1万ポンド(約4.5t)が充填されていたとのことだ。ずんぐり型の形状から、米軍内部では「パンプキン爆弾」と呼ばれていたという。
 展示の模型の「パンプキン爆弾」の色が、黄だいだいだが、実際にそうだったようで、別の資料を確認すると、この色も「パンプキン爆弾」と呼ばれた理由の一つになっているらしい。

 渡利地区への投下は、昭和20年(1945)7月20日午前8時34分で、ここでは当時14歳だった1人の少年が命を落としている。その状況は、投下地点から約30m離れた自宅近くの田んぼで草とりをしていたところを、爆風に襲われたということだ。これに、農家2軒が焼けた事、破片が村中に飛び散ったことで、裸足で耕作できなくなったという情報と結びつく。
 更に、今回の資料説明から被害を拾う。
 爆弾の落ちた地点の穴は約90mで、暫くは沼になっていたため、その辺一帯(現在のわたり病院○付近)を「沼之町」と呼ぶようになったとある。
 また、北に200mほど離れた学校のガラスも全部吹っ飛んだとあるのは、現在の渡利公民館だろうか。爆音は福島まで轟き、福島駅近くの事務所のガラスも割れ、被害は半径2㎞に及んだなどの状況が説明される。

 この爆弾の破片が瑞竜寺に残されたのは、亡くなった少年の父親が拾って、「息子のかたき」と寺に預けたものとのことだ。
 まだ実際の記事は確認していないが、新聞報道は、報道管制の元で「被害極めて軽微なり」とのことだったという。
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by shingen1948 | 2010-09-02 05:31 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)

「福島と戦争」⑦

 展示会では、当時の航空写真に、福島の戦争にかかわる位置をプロットされたパネルも掲げられている。その中で、信夫山の地下工場にかかわるプロットは次の点だ。
○ 信夫山地下工場山根第一工場
○ 信夫山地下工場山根第二工場
○ 信夫山地下工場金龍工場
 そして、
○ 信夫山地下工場本部である福島経専(後福大経済学部校舎、現県立美術館)
○ 地下工場掘削作業員の飯場の一つである旧福島中学校校舎(現福島高校)
 このパネルにプロットされていないが、信夫山地下工場本部は、証言集等から拾ってみると、現竹屋旅館から移ってきたようだ。もう一点、気になっているのが、中島飛行機の日東紡半地下工場だ。 証言集の地図を確認すると、日東紡球場の南側だ。気になる理由は個人的なことで、この近くに住んだことがあるのに、その景色が思い浮かばないということだ。ここらあたりは、子どもとよく散歩したはずなのだ。
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 展示会をみたのを機会に、確認してみることにした。
 証言集の地図を確認すると、現在は、工場の水道施設になっているところらしい。橋のたもとからそちらの方向を確認する。


 とりあえず、土手の道を進んでみる。日東紡球場に曲がってみると、何となく見覚えがある。
 そう、散歩で通った道は、球場からアパートの方に延びる道だ。そちらに向かって進んでみると思い出した。
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 確かにこの水槽の脇を通ったことがある。
 この水槽あたりが、中島飛行機の日東紡半地下工場ということのようだ。その半地下だったことを利用した設備なのかなと勝手な想像をする。

 来たついでに、昔住んでいたあたりを探してみた。大きく様変わりしていたが、ぐるぐる回っていると当時の景色が蘇ってきた。

 信夫山の地下工場を整理しながら思い出した事がある。十数年前の話だ。
 中島飛行機のプロペラを設計したという方が、自分が寄贈したプロペラがどうなったか知らないかとの問い合わせに応対したことがあるのだ。その時点では、その話が信夫山の地下工場と結びつかずに、遠い処の話だと思っていたのだ。
 最近になって、あれはここ信夫の里の話だったのだと分かったというお粗末な話だ。少なくとも、無知のため、そこで働いていた方の話を聞くチャンスを逃したという事だ。
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by shingen1948 | 2010-09-01 05:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)

「福島と戦争」⑥

 信夫山の地下工場を探った感覚が、整理していく中で知った強い主張とずれている。
 散策した感覚では、頼まれてもいないのに、情報となる可能性も勝手に考えて、安全上位置的に曖昧に整理したところがあった。しかし、発信力の強い方々は、ここを遺産としたいという主張をお持ちの方が多いように感じる。
 福島と戦争展をみて、その感覚のずれを確認しながら、信夫山の散策の中に紛れ込ませておいた「信夫山の地下工場」にかかわる散策を振り返っている。
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 南側の金龍抗と北側の坑道がつながっていることが、展示の中で示されていた。その北側の坑口に向かったことを、「信夫三山23 ~ 再び羽山」で整理している。
 
 信夫山の北側を目視した経験と福島駅に置いてある地図のプロットで、そこにたどり着けるものかどうか試したものだ。
信夫山の北側を目視した経験というのにかかわって、「信夫三山⑯ ~ 羽山⑫」で整理している。これが、調査された方の使った道筋と重なり、また、地下工場へ向かったと思われる道筋と重なる。
 「信夫三山24 ~ 再び羽山②」として、そのことを探りながら降りてきた事を整理している。
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 山根工場の北側を意識して、射撃場の南側から観察したのはこの時だ。整理されたものを読み返すと、最初からうまく観察されたようになってしまっている。実際には、見逃してしまったことを後で追加したり、見誤りを修正しながら整理している。


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 この写真を整理に使っていないのは、何もなかったこともあるが、山根工場を整理して随分時間がたっていたこともある。
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by shingen1948 | 2010-08-31 06:11 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)

「福島と戦争」⑤

 金龍抗工場は、信夫山金山の坑道が活用されていると聞く。管理的にはこの金龍抗が難しそうだ。開いているような坑口に出会う可能性がある。
 塞がれた二つの金龍抗の坑口に出会ってから、北の坑口を見つけ、何度か南北に真っ直ぐ上り下りして雰囲気をつかんだところで、報告されたものを読み返すと、内部がイメージできる。
 「信夫三山⑰ ~ 羽山⑬」として整理した時は、ぼんやりと概要が見えかけたところではあったが、南北に縦確認するよりも前の段階だったと思う。
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 金龍抗では3本の坑道が縦に並んでいるようだ。証言の中に、ここにはエレベータ設置も想定していたらしいことを伺わせるものもある。
 こちらにも入抗したらしいことは、今回の展示会で知った。中ほどの坑道に入抗した様子らしい。恐らく、その上下の坑道は、縦坑でつながるわけだから同じような位置に想定されるのだろう。


a0087378_626306.jpg 現地では、北側にこの抗と関わると思われる坑口が、烏ケ崎より西側に開いていたという。そのことを基にすれば、坑道は南東から烏ケ崎を挟んで北西に向けて走っていると勝手に想像する。それだけではなく、カメラを穴に入れて撮影すると、真っ直ぐな道筋が確認できるので、本当はある程度の確からしさを感じている。
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by shingen1948 | 2010-08-30 06:29 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)

「福島と戦争」④

a0087378_591842.jpg 山根第二工場は、先に「信夫三山⑯ ~ 羽山⑫」として整理している。この工場を現地で実感しようとするのは、更に難しい。
 とりあえずは、調査で入抗したと思われる点からイメージをふくらます。調査では、この第一工場の南端の坑道から、第二工場の第一坑道へ入場したらしい。
 その情報を元に、寺あたりから25m間隔で3本南北に走る坑道をイメージする。
 烏ケ崎に向かってこの上を歩った感覚を思い出したり、北側から警察射撃場を観察したりしたイメージを組み合わせたりして、およそこのあたりかという見当をつけたものだ。
 そのイメージをもとに、寺の方向からも一応確認して、第二工場と表示する場所としては、ここがいいかなという確からしさでしかない。そういう意味では、やや弱い。
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 ここに、報告にある第一工場から入場した描写を重ねてイメージする。
 その両抗の間の下部に、敷居か土台らしいものがあったこと。坑道の大きさは、約230mの長さ、幅5m、高さ3mと第一工場に比べ大規模だったということ。そこには、湧水を流す溝跡が走っていたということ。
 そして、その坑道に直角に、変則間隔で坑道が10本走っていて、旋盤機械が設置されていたらしいこと。

 しかし、イメージが落ち着くのは、現地を後にしてからだ。多分、思いめぐらすことによって、不確実なイメージが消去されて、イメージしようとするものだけが固まったのだと思う。
 
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by shingen1948 | 2010-08-29 05:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(2)

「福島と戦争」③

 山根第一工場は、先に「信夫三山⑰ ~ 羽山⑬」として整理しているが、この工場を実感するのには、確実な2点が必要だ。その確実な2点間を、調査資料などから得られる寸法から、頭の中で刻んでいくと、その規模がイメージできる。
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 先の整理では、その一点を曖昧にしている。
 調査で入抗したと思われる点で、調査資料などから読み取って推定したが、ほぼ間違いないだろうと思ったのは、地下からの通風の気配だ。現場では、その点ともう一点をもとにイメージを広げている。したがって、実際には、東西に走る坑道をイメージしている。2点間を4等分すれば、その地下を走る坑道の位置がイメージできて、そこから等間隔に北側に伸ばしたところに、もっとも北側の坑道をイメージするのだ。
 それから、眼の前の坑道をイメージする。
 124mの長さで、入口から25mまでの間は、幅1.8m、高さ2mの狭い坑道。25m進んだ地点からは、幅5m、高さが3mの広い坑道になっている。
 この連絡坑に直角に、14m間隔で、6本の幅5~6m高さ3mの坑道が掘られているという。そこに、旋盤等の機械が設置されていたと想像しているらしい。
 この時には、先に西側から烏ケ崎に散策していることもこのイメージには役だっているかもしれない。さらに、北側のイメージの広がりは、射撃練習場から西の景色と重ねるといった具合だ。
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 その坑道の中に、トロの軌道用枕木が敷設されていたらしい。
 落盤防止用の支柱はなく、高さ2mの岩石には、掘削中に明りとりとして使った跡らしい油壺が数か所あるのを確認したということだった。
 この模型は、その北側2本の坑道を、そんなイメージを持って作られたものなのだろう。そのイメージまで伝わるのはなかなか難しい。この模型の左側が、警察射撃場につながるあたりだろうか。

 その脇に展示された遺物には、確かに電灯用のガイシがあって、これがそこに転がっていたものだろうと想像しながらみている。
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by shingen1948 | 2010-08-28 06:02 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)

「福島と戦争」②

 戦争展をみたことと散策を重ね合わせて整理する。
 信夫山地下工場の散策は、大きくは「山根工場」と「金竜抗工場」に分かれる。実際には、山根工場は、更に第一工場と第二工場に分けて散策し、金竜抗工場は、北側と南側に分けて散策した。
 今までは、できるだけ正確に整理することに心がけていたのだが、今回はそこに躊躇するものがあった。それは、とりあえず入口はコンクリートで固められてはいるのだが、実際に散策してみると、完全な危険防止は不可能なのではないかと思ってしまったからだ。
 そんな迷いの中で、とりあえず羽山散歩の一場面として「信夫三山⑬ ~ 羽山⑨」として整理を始めている。ここではコンクリートで固められた入口の写真だけ載せている。曖昧な説明で、金竜抗工場の南側1.2階入り口の周辺写真と山根工場第一工場の写真が一枚紛れ込んでいるのは、この時点での意図的なものもある。
 社説では、信夫山そのものを遺産としてはどうかという提案をしていた。多分、理念だけの話なのだとは思うが、真剣な提案ならハードルの高い課題が多くありそうな気がする。
 実際に散策をしていくと、危険防止の問題のほかに、民地とのかかわりもある。入り込まないように注意はするが、それでも実際にはいつのまにか間違って入り込んでしまって、慌てたりもしている。
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 今回の戦争展では、信夫山全体の模型が展示している。散歩したことをいろいろ思い出しながら散歩の全体のイメージ整理をさせてもらった。
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 更に、並べられていた冊子の中に地下工場の全体計画図があったので、これと重ね合わせてみた。 
 驚いたのは、北側は更なる開発の計画があったようだということ。特に東側の金竜抗工場の北側は、北口めざして散策したその道下あたりまで計画されていたらしいということだ。
 思い出してみると、荷物を持ち上げる設備に使ったのだろうと想像した溝があった辺りなのだろうかと勝手に思う。
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by shingen1948 | 2010-08-27 05:35 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)

福島と戦争

 8月15日付「福島民友」社説は、「終戦の日/『戦争遺跡』を平和の象徴に」と題し、戦争を伝える「戦争遺跡」に着目していた。
 これら遺跡はすべての国民が戦争のために動員され、爆弾や機銃掃射にも見舞われた事実を物語る物証としての意義を説く。県内の遺跡として紹介される中の「信夫山地下工場」と「旧ノートルダム修道院」は、今年散策したところだった。
 8月24日からは、「ふくしま平和のための戦争展」が、コラッセふくしまで開かれている。
 日中友好協会記念企画漫画展と「福島と戦争」にかかわる展示のようだ。
 「中国からの引き揚げ~少年たちの記憶」という漫画家たちのみた日中戦争の漫画展が中心で、そこに「福島と戦争」にかかわる展示をするということのようだった。
 しかし、散歩とのかかわりで「福島と戦争」の展示を中心に見る。
 こちらは二つのブースで、前半が、戦争時の現物として、軍服・千人針、それに戦争時の新聞や教科書などの展示。後半が、信夫山地下工場模型・模擬原爆模型と原爆にかかわる展示だ。

 民友社説とこの展示会で共通に取り上げているのが、「信夫山地下工場」にかかわる展示だ。
 散歩中も感じていたが、この展示会でも根本の出典はどれも、福島東高の歴史研究会資料らしい。 同高の2種の冊子も一緒に展示されている。
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 散歩の中では捉えることができない展示を中心に見させてもらう。
 まずは、信夫山地下工場の中で回収した遺物に目がいく。

 展示されているものはただのがらくたでしかないが、信夫山地下工場をイメージして散歩をした者にとっては、そこで人が働いていた息吹を感じることができるという貴重品だ。
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 そして、これを手にできるのは、中に入って散策できた者の御褒美としての宝物のはずで、うらやましいという気持ちもある。

 「信夫山地下工場」自体を戦争遺産とすることは、安全上の理由から難しい。入り口はコンクリートでふさがれて坑内に入れない。展示会の開催には、その次善の策としての意義を感じる。
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by shingen1948 | 2010-08-26 10:12 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)