地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 福島と戦争( 96 )

 新聞報道は、これを軽微に扱いたかったことも伺える。
 「福島市業書」に、渡利に投下された新聞報道の記事が掲載されていた。
 「福島郊外に投弾 水田に大穴・盲爆に市民は奮起 <県警防課発表(正午)>」
 20日午前8時40分頃敵大型と判断せらるる少数機は県内に侵入、県下を行動したる後一部農村に無差別爆撃をしたる後9時33分頃東南部洋上に脱去せり、被害極めて軽微なり<注 被害地は渡利村沼ノ町地内>

 掲載されている記事によると、午前8時3分に大型機1機が現れたようだ。雲の上をしばらく旋回して北東に機首を向けた時に爆弾を1個投下したという。投下後、そのまま北東部から洋上に向かったということのようだ。
 ここでの爆弾の大きさは五百キロとし、その被害は水田約3反歩に大穴をあけた程度とする。
 大きさを五百キロとしているのは、恐らく大型爆弾という当時としての認識であって、故意に小さくしたという事ではなさそうに思う。ただ、その被害は、小さく見せようとする意図が感じられる。
 それは、記事はが「福島市の中心部から2㎞以上も外した」と続け、その被弾地を「山間の水田におちたものとみられ……」とすることからもうかがえる。その結論が、「敵の目的は『帰り際に、驚かせてやれという神経戦』」だ。
 更に、記事は、次のように忠告している。
 知ったかぶりをする人間が出たり 誇大に被害や爆弾の威力をお喋りする者が出やすいが、こんな者こそ敵の神経戦的爆撃に乗ぜられたと云うべきで、われわれはあくまでこの戦訓を好奇心を満足させる道具としてはならぬ。

 今自分がやっているようなことを、やってはいけないということのようだ。戦時中は、こういうことをしないというのが道徳だったという事のようだ。
 人的被害については、紹介されない。逆に、田圃を護るという農魂で、現場に伏せて助かった農民を紹介している。
 落下現場から僅かに3メートルぐらいしか離れない所で田の草を取っていた尾形金市さん(56)菅野文吉さん(40)等は『ナーニ、俺達は泥を被っただけですよ』と至って元気だった。

 記事の全体の意図は、空襲は恐れるに及ばないということだ。爆弾の落下音を聞いたら出来るだけ低く伏せて待避する覚悟があれば、空襲警報中でも田畑は護り通せるという。意図はゆがんでいるが、そこに事実らしきものが散りばめられている。それを拾う。
 ○ この朝、いちはやく警戒警報は発令されたようだ。そんな中で、罹災した地区では田の草取りに忙殺されていたということのようだ。
 ○ 作物の被害は2枚の水田が埋まり(記事の前半では約3反歩の大穴)、付近の10枚ほどの田に吹っ飛んで来た泥塊を被る。
 ○ 投下された瞬間、雨戸を7、8枚いっぺんに開けるような音がした。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-11 06:56 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 模擬原爆を投下した情報を収集する執念の活動に感じるものがあった。その情報を基に、福島の空襲罹災情報と照らし合わせて、福島の模擬原爆投下とその被災状況が確認できると思った。
 罹災した側からすれば、どんな目的であるということにかかわらず空襲による被害は被害でしかない。それは戦争体験者としての感覚として当然なことだと思う。この整理の仕方は、一歩引いたところの感覚を意味していると思う。その事は、体験者からすれば興味本位ととられるかもしれない。しかし、この一歩引いて整理することで見えてくることもある。その一つが、模擬原爆投下の判断の軽さであり、それが戦争の愚かさの思いを深めてくれた。
 もう一つは、地道に罹災記録を残そうとする活動の大切さだ。新しい情報で見方が変わった時に、見直す資料はそれらの資料しかないということだ。
 地道に罹災情報を記録に残そうとする地道に努力する組織や人の存在は、ペーパーで確認していく中で特に感じることができる。それらの活動は、その地域の独自性を持ったものになっている。
平の資料を確認して行く中で感じたのは、実際の被害状況とか被害者についてできるだけ具体的に記録に留めようとする意識だ。
 新しく戦争にかかわる手記を集める活動をしている「いわき地区学會出版部」という組織的な活動に出会ったり、各空爆で亡くなられた方のデータが市史というどちらかというと古くて公的な記録に発見したりする。
 それで、模擬原爆(パンプキン)投下による平第一国民学校の被弾状況も、具体的に描写されているだけでなく、亡くなった方の状況も詳しく知ることができる。

 郡山の資料を確認していく中で感じたのは、各空襲の公式なデータを駆使して記録を構成していこうとする意識だ。後で分かったのだが、「近代福島と戦争(大内寛隆著)」によると、郡山には東北軍司令部陸軍直轄の「郡山防空監視隊」があって、中通り14ケ所に監視哨が設けられていたということだ。そこには青年の男子隊と未成年の女子隊が勤務し、来襲する敵機の監視と本部への通報を行ったという。
 これらの有利な状況を記録に残すということに上手に結び付けているのかなと勝手に思う。
 なお、情報元として1997年8月広報『こおりやま』としていたので、これを確認しようとしたら、広報『こおりやま』は、ここ2年分しか確認できない。現時点では孫引きの状態だ。
a0087378_5273516.jpg
 その中で、福島の空爆の記録の取り組みは、瑞龍寺の爆弾片の保存、そして、その寺を中心とした市民実行委員会の劇化ということのようだ。その出発点は、家族が被害者を供養する気持だったということのようだ。
 この爆弾片だが、ふれあい歴史館にも別の爆弾片が保存されていたようで、最近それも展示されるようになってきたようだ。ただし、こちらはガラスケースに入れられた資料としての展示だ。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-10 05:29 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 今まで確認してきた事を少し整理する。
 まず、福島の模擬原爆(パンプキン)投下は、新潟地区の原爆投下目標とかかわっているということだ。その具体的な投下目標として、次の10地点が選定されたことは、先に整理した。
 ○ 郡山地区:照準点参照保土谷化学工業①日本製錬会社(燐生産会社)②操車場郡山③軽工場郡  山
 ○ 福島:照準点参照市街地①軽工場福島②品川製作所
 ○ 長岡地区:①軽工場長岡②津上―安宅製作所
 ○ 富山地区:照準点参照市街地①不二越製鋼 東岩瀬工場②日満アルミニュウム会社富山③日本  曹達会社富山製鋼所

 次に、実施の段階になる。計画の段階では、福島が模擬原爆(パンプキン)投下とかかわりは福島と郡山の2地区だった。福島が2か所、郡山が3か所の具体目標だった。
 しかし、実際の投下になると、ここに平地区が加わる。それは、目標の変更があるからだ。それも実施している中で変更が決まるらしい。計画目標に投下できないと「第二目標」に投下し、突然登場する「臨機目標」などというものもあって、それで平にも投下されたということだ。

 新潟地区で福島の投下予定とかかわって実施段階で投下された地区も含めて模擬原爆(パンプキン)が投下されたところを整理すると、こんな感じだろうか。〇の中の数字は投下個数。
a0087378_634584.jpg 
 新潟地区の原爆投下目標地区内では、実施の段階で、其々の目標が計画の変更でつながる。
 そういう視点で見ると、福島地区、郡山地区、長岡地区への投下予定が、実施段階でそれぞれの目標が絡み合う。かかわりなく、突然の投下が、平・北茨城大津・保谷・八重洲への投下で、この事については、先にふれている。
 富山の投下と福島の投下はからまなかったようだ。

 確認を通して感じるのは、投下する側の計画の変更の決断の軽さだ。当たったかどうか判定が簡単なものが雲間から見えたら、それは目標になるという感じだ。そして、目標物に当たれば優秀、外れて被災が小さければ貧弱でしかない。
 被弾した側からすれば、重い決断であってほしいと思う。
 例えば、平第一国民学校へ被弾したのは、工場と見間違えたのではという考察を見る。
 ところが、実際は工業地帯の一角というのは、投下する名目でしかなさそうだ。あとは、命中を確認するための大きな建物であればいいということだったと思われる。それが学校だとか、近くに民家があるなどという意識はありそうもない。
 投下した側の感覚と被弾した側の感覚のずれのように思う。

 被災にかかわっては、体験談や実際の調査記録より公式記録や報道記録は小さいとのことだ。具体的には、郡山の軽工場と渡利の被害は微細とされているが、郡山の軽工場で15名、渡利では1名死亡者が出ている。これは新聞報道も同じようだ。
 こういうことが、表には現れない戦争の一側面なのだろうと思う。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-09 06:24 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 空襲のイメージは、何百機もの飛行機が編隊を組んでやってきて、焼夷弾の雨を降らせていく中で、いくつもの爆弾を投下するというものだ。これに対して、模擬原爆(パンプキン)投下の空爆は、単機あるいは少数機のB-29がやってきて、1個の巨弾を投下して去っていくという独特のものであったようだということは、先に確認した。
 この形の違いは、目的の違いでもあることを確認したい。この第二の空襲は、アメリカが正確に原爆を落とす練習のためであり、戦争に勝つための空襲とはその目的が違うということだ。

 郡山では数回の空襲があり、そのどちらの目的の空襲も受けているということだ。その中で、多く語られる郡山空襲は1945年4月12日の初空襲のようだ。確かに罹災状況は悲惨なようだ。
 この初空襲の罹災は、死者だけとってみても460人といわれている。遺体は、戸板に乗せて運ばれたといわれている。
 その内訳は、保土ヶ谷化学工場(204人)、日東紡績富久山工場(92人)、東北振興アルミ工場(47人)、浜津鉄工場(4人)、郡山駅(11人)、方八町(7人)、横塚(22人)、市内(5人)、航空隊(5人)、不明(33人)とのことだ。不明者のうち、勤労動員で保土ヶ谷化学工場で働いていた白河高等女学校(現在の白河旭高校14人、郡山商業学校(郡山商業高校)6人、安積中学校(安積高校)5人名、安積高等女学校(安積黎明高校)1人の計26人が死亡したという。住宅焼失・倒壊500戸以上。
 別情報で、11時15分から1時間に渡り保土ヶ谷化学工場と日東紡績富久山工場二つの工場を襲撃。全体で死者504名、負傷者1000名というのもみるが、多くは上記のような被害状況を記録する。
 この空爆では、投下されるのは爆弾だけでない。焼夷弾なども落とされていて、郡山駅前は焼野原だったというような別の被害描写も見る。生々しい悲惨な情景描写もみる。
 富久山工場では、ヘルメットをかぶっていた首が飛んだり、軍靴を履いたままの足が飛んでいたりしたとか、爆風で飛ばされた死体がごろごろと散らばっていたとか、……。

 郡山市史の「郡山空襲の記録」では、次のように記録する。
  
 昭和20年4月12日 午前9時5分警戒警報あり。
   情報「関東東北より進入せる敵機は福島県南方洋上北進中なり」。
   二報「敵機は福島県東方洋上旋回中なり」
   三報「敵機は東方へ脱去せり」
   午前9時55分警戒警報解除せり。
   午前11時20分警戒警報発令。
   同11時25分空襲警報、同時に敵機北方より9機郡山上空に進入、爆弾数発。
   保土ヶ谷工場へ投下せり。
    約5分後、東方より11機、13機、9機、13機、9機、13機、11機と7回に
    わたる、梯団式5分置き進入。富久山工場、アルミ工場、保土ヶ谷工場を爆撃、
    及び北町付近、方八町、横塚を爆撃焦土と化し、戸数約150戸以内。
    敵機延べ数百三十六機なり。
    郡山市への初空襲のため市民多数の被害あり。
    軍隊及び付近の警防団、須賀川、三春、本宮、福島より応援を受け、午後四時
    頃鎮火せり。郡山上空進入合計十三回なり。鉄道貨物ホームにも被害あり。
    記載者・小川知次(郡山自動車学校・故小川欽一氏(元郡山消防団団長)の厳父)

 先に見た二つの分団記録は以下のように記録する。
 第一分団
 △ 4月12日の空襲=豊田村から借り入れ中のポンプ車で延焼中の保土ヶ谷工場へ出動したが、途中東橋付近が通行不能の状態で後退。東橋下で延焼中の民家の消火活動に取り掛かったが、B29の再襲来で待避。
 第ニ分団
 △ 4月12日の空襲=駅前一帯が爆撃により火災。この消火に当たる。
 空襲の最後まで班長が交代で火の見櫓(現在の駅前部詰所)の上で警鐘を乱打し続けた。

 この日、近くの本宮町でも、製糸工場のグンゼが爆撃を受けている。爆死したのが、約500名という情報もある。

 確かに第一の目的の空襲は悲惨だ。
 そのために、比較的軽微な被害である第二の目的の空襲は、その陰に隠れている。けれども、たかが練習の為に何故殺されなければならなかったのかという無念さが残るという別質の被害だ。第一の空襲と同等に着目していくべきではないということを確認したかった。勿論、命の重さは同じだということもある。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-08 05:04 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「日本の空襲1~北海道・東北(日本の空襲編集委員会)」は、平の空襲とのかかわりで見たいと思った資料だが、ここには郡山の空襲の記述もある。ただ、郡山でも空襲は数回あり、紹介される郡山空襲の中心は1945年4月12日の初空襲だ。
 その中に紹介される7月29日の記述を確認する。これが、郡山模擬原爆投下にかかわる記述という事になる。

 郡山の7月29日の空襲は、爆死者を中心に紹介される。
 この日の空爆の爆死者を39名とする。その内訳も紹介されている。郡山市関係者12名、県内者3名、県外者20名、身元不明者4名とのことだ。
 駅と工場の2カ所に模擬原爆が投下されたわけだが、その内訳も示される。扶桑第130工場15名死亡で、全員県外人とのことだ。駅では23名死亡で郡山市関係者が11名とする。
 「扶桑第130工場」というのが、先に整理した工場名では「日東紡郡山第三工場」であり、この「扶―」というのが、中島飛行機の信夫山の地下工場にも符号をつけられて呼ばれていたように、「中島飛行機の秘密工場」を意味するのだろうか。「日東紡郡山第三工場」が当時は「中島飛行機の工場」であったということは、先に整理した。
 この日の空爆の爆死者を39名ということなので、1名合わないような気がするが、読み違いなのか、他所での死者かは分からない。

 今までの整理では、投下した北緯と東経のデータも記録していた。それは、情報を整理した後で、確認したい事が出た時に、この事が役に立つことがあるかもしれないという漠然とした思いがあったからだ。
 実際にこのデータを地図で確認してみたら、役立ちそうにもないことが分かった。
 福島製作所辺りに一点プロットし、そのデータを確認すると北緯37.76°東経140.45°だった。同じように、品川製作所を確認すると、これが北緯37.76°東経140.46°だ。渡利の被弾地は、おおよそ北緯37.75°東経140.46°となる。
 そして、そこに期待を込めて、投下データ37°45′25秒東経140°27′30″の地点を地図上で探ってみた。ところが、これが熱海町長橋の後庵と舘下の間辺りで、あり得ない位置を示した。
 ここは、投下目標を外したデータだからかもしれないと、気を取り直して郡山駅で確認してみる。
 駅あたりにプロットした所が北緯37.40°東経140.39°を示す。そして、投下地点北緯37°24′東経140°24′を探ってみる。すると、これが鏡石辺りだ。これもあり得ない。
 投下した北緯と東経のデータで何か情報が得られるかもしれないという予測は、外れだった。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-07 05:17 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 昨日、いわき市の小名浜港海底で、爆弾が見つかったというニュースがあった。それらの報道の概要は、次のようだ。
 爆弾の大きさは、長さ約1.15m、直径約20㎝で、100㎏爆弾の可能性が高いとのこと。全体が錆びている為、国籍や型、いつの時代の爆弾かは今のところ不明とのことだ。
 見つかった地点は、「アクアマリンふくしま」から800mの距離にある第一西防波堤の灯台から南に約60mの海底で、水深約7・5mとのことだ。ここで航路拡張工事の調査をしていた建設会社が発見したということだ。

 ニュースとしては、その安全性だろうか。爆弾はアンカーなどで強い衝撃を与えない限り爆発の危険性はないということだった。早い時期に水中爆破処分する予定とのことだ。

 このニュースに注目してしまったのは、平では、20年7月20日に投下された模擬爆弾が2発不明という意識があったからだ。しかし、大きさが全然違う。
 模擬爆弾なら、大きさは長さ3.5m、直径1.5mで、重量は4.5~5tのはずだ。

 それでも、漁業の方の発言には注目してしまう。
 「海底を網でさらうと爆弾の中に入っている火薬がよく網にかかると聞いた。他にももっとあるのではないか」というのだ。模擬爆弾に限らず、今になっても爆弾が発見される可能性を秘めているということだ。

 昨日は、この空襲にかかわることが、もう一つあった。「日本の空襲1~北海道・東北(日本の空襲編集委員会)」を偶然見つけたのだ。「平市史通史」にここから引いた資料があって、いつか確認したいと思っていたところだった。
 とりあえず、平の7月26日の空襲の罹災の概要を確認する。

 「午前10時頃、平市東南方鹿島灘方面より進入して、高度8000mぐらいの上空より平市を中心に付近を旋回飛行していて、12時になって、平一小に500キロ弾を投下。児童は完全に避難していたため、被害は校長他職員の死傷者が続出し、目を覆うような惨状となった。罹災区域は平市揚土平一小を中心とする一帯」

 今までの情報に加え、空爆前のB29の偵察の動きが見えてくる感じがする。爆弾は500キロとあるのは気になるところだ。繰り返すが、本当は5tだ。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-06 05:42 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 戦時中を経験を通して知らない者にとっての空襲のイメージは、何百機もの飛行機が編隊を組んでやってきて、焼夷弾の雨を降らせていく中で、いくつもの爆弾を投下するというものだ。
 ところが、この模擬原爆(パンプキン)投下の空爆は、単機あるいは少数機のB-29がやってきて、1個の巨弾を投下して去っていくという独特のもののようだ。
 茨城具大津の調査報道で、この空爆の被弾状況が今でも不明なものもある事を知った。平でも、20.7.20に2個の模擬原爆が投下されているはずだが、その被弾情報は確実ではないようだ。

 調査しても不明なのは、空爆の特徴と共に投下された爆弾のイメージのずれも関係しているのではないかとも思う。
 調査したい方では、この爆弾は当然5tという巨弾のイメージを持っている。しかし、調査を受ける側では、巨弾というのは500キロをイメージするのが普通で、それでも中には最大1tをイメージする人もいるかも知れないという状況のようだ。
 空襲というイメージのずれ、巨弾のイメージのずれが重なって、概念的なズレがあるのかも知れないと思う。
 平では普通にイメージする空爆も受けていて、語り継がれるのはこちらが中心のようだ。そのこともかわるかもしれない。7月26日の模擬原爆の投下については語られているが、それは学校に投下されたという特殊性があったからではないかとも思う。当然、その周りには民家が多かったということもあったろうか。20.7.20の空襲が消えているは、その被害が少なかったということもその一因かもしれないと思う。

 確認していると、平の空爆にはもう一つの特徴があることが分かる。それは、いつも第一目標ではなさそうだということだ。
 第1回目の平空襲は、昭和20年3月10日東京大空襲帰りのB-29から焼夷弾が落とされ、平市街の材木町、鍛治町、研町、紺屋町、梅本一帯が焼かれたようだ。これで、死者12人、家屋500戸以上が炎上するという被災を受けている。
 そして、第2回目の平空襲とされているのが、今回整理した7月26日平第一国民学校(現平一小)に被弾した模擬原爆による空爆だ。これも、第一目標は長岡地区だった。
 これで、死者教員3名。家屋1500個以上が破壊という被災を受けたといわれている。
 第3回目とされるのは、昭和20年空襲のようだ。これに昭和20年7月26日の2機が模擬原爆を投下した空爆を合わせると、平では計4回の空爆にあっていることになる。
 この26日の空爆も、第一目標は1つが郡山で、もう1つが長岡の工場だったということだ。
 こちらは、投下する側の意識の軽さを物語っているのではないかと勝手に想像してしまう。余った爆弾とか、軽くした方が着陸時に危険が少ないなどの理由が想像される。
 それを市街地に軽々しく投下されたのなら、戦勝国が語る人道という概念とはほど遠いものを、勝手に想像してしまう。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-05 05:49 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 最近、平第一国民学校(市立平第一小学校)が被弾した時の体験談を読んだ。その手記は「市民が書いたいわきの戦争の記録~戦中・戦後を中心に(いわき地区学會出版部編集委員吉田隆治編)」<歴史春秋社>の中にあった。
 資料からは読み取れなかったことを、その手記で確かめる。
a0087378_6104236.jpg
 通史によると平空襲は3回あったとのことだ。その罹災範囲を図に示している。その図を基に地図と重ねてみる。その第二回目の平空襲罹災が、模擬原爆(パンプキン)被弾による罹災地ということになる。(平の土地勘がないので、うまく読み取っているかどうか分からないところがある)
 今までの資料では、高等科の児童が全員無事に避難したことは読み取れたが、それ以外の児童の動きは読み取れないでいた。
 手記によると、この日は、初等科の児童は臨時休業にして登校していなかったようだ。高等科の児童は登校していたが、始業前に空襲警報があった時点で、全員帰宅させたようだ。それから、職員達が避難行動に入り、その直ぐ後に被弾するという事態になったということのようだ。
 手記を書かれた方は、一徳坂の一番下の防空壕に逃げ込んだとある。地図で確認すると、この学校は高台にあるようだ。坂を下った所にある避難防空壕は、神社のある側だろうか。
 避難している中で、大きな爆音、崩れた瓦礫が飛んできた描写など生々しい。
 手記では、防空壕から戻ると校舎がなくなっていたとある。別のページにある被弾直後の学校の写真をみると、校舎は完全に吹き飛んでいるようだった。校舎直撃だったらしい事が分かる。
 その建物の位置関係を描写から拾う。
 校舎は道路に沿ってあったといい、吹き飛んだ残骸が、女学校の校庭にあったという。
 また、防空壕から戻る途中、教頭先生が、校庭で誰だか分からない状態で負傷している描写があり、校舎がなくなって女学校が見えたということだ。これらから、この校舎は西側に建っていたのかなと想像する。
 その建物の玄関で、校長先生と瓜田先生が被弾して倒れていたという状況のようだ。この手記で、市史の中の渡邉氏が、この学校の校長先生で、玄関で即死の状態だったことが分かる。周りが慌ただしくいろいろな処理に走る中、この手記を書かれた方が、中心になって校長先生を校庭の端に運ばれて見守られていたという状況であったようだ。瓜田先生は、息があったので病院に運ばれたが、ここで亡くなられたようだ。
 市史の中では、このお二人の方は、氏名が明記されている。もう一人の方は佐藤氏とあるだけだが、この方が三義先生とのことだ。併設された平盲学校の委託職員の方で、緊急に公務整理中に被弾されたという状況だったということのようだ。
 その他、山田先生が負傷で病院に運ばれ、大平先生が暫く行方不明だった等々の混乱も生々しい。
 手記では、これら混乱の中、授業再開に向けた動きも記録されている。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-04 06:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 7月26日の空襲にかかわる情報を、平地区の資料で確かめる。
 「平市史通史」では、昭和20年3月10日の平空襲に続いて、第2回目の空襲として以下のように記録される。
 昭和20年7月26日午前9時ころ、平第一国民学校(市立平第一小学校)が、B29爆撃機1機の投下した1発の爆弾(いわき市史第11巻上は1t、建設省編「戦災復興誌」は500キログラム)で完全に倒壊してしまった。校長、教師の3人が死亡、負傷者60人を出した。
 登校した高等科の生徒は避難して全員無事だった。

 そこに掲げられる「石城郡戦災史年表」では、この空襲について、「500㎏爆弾により1517戸被災、3人死亡、53人負傷」を記録する。
 更に「いわき市史第11巻」を確認すると、「揚上爆弾1屯」とあり、26日の空襲分として、この空襲による死亡者の氏名と住所が記録されている。
 ここで記録される死亡者は、渡邉寿重、佐藤―、瓜田 寿氏。(別資料で、渡邉氏が平第一国民学校の校長先生で、佐藤氏は、佐藤三義氏でこの学校の付属盲学校委託職員の先生、瓜田氏が平第一国民学校の先生らしいことが分かる。)
 空襲の記録を見直す動きの中に、犠牲者の氏名をきちんと確認する動きがあるようだ。この市史は古そうだが、そういう意味では新しい。

 この市史の別項目のところに、この時とかかわる資料があった。
 昭和23年に発効した戦争保険受領の為の「罹災証明書」だ。そこに、「1屯爆風による六間門所在住宅2棟と土蔵1棟の損害証明」との記載があった。
 地図で確認すると、六間門は平第一国民学校(市立平第一小学校)の北側だ。ここに投下された爆風によって崩れた民家が、戦争保険を受領するために「罹災証明」を受けたということだ。この資料から、直撃を受けた学校だけでなく、広範囲に渡って爆風の影響を受けた民家が崩壊していることが想像できる。
 地図を確認していると、平一小と平一中が隣り合っている。この平一中が、郡山の警報当番日誌にある女学校があったところのようだ。

 なお、平の初回空襲は、東京大空襲帰りのB-29から焼夷弾が落とされ、平市街の材木町、鍛治町、研町、紺屋町、梅本一帯が焼かれたという。死者12人、家屋500戸以上が炎上したとのことだ。平に投下された模擬原爆は、いずれも他所に落とす予定だったものだが、これもまた東京大空襲帰りの投下とのことだ。落とす方にとっては単なる変更だが、落とされる方にとってはたまったものではないと思う。
 そういう意味で切ないことがもう一つある。平第一国民学校に被弾した模擬原爆は、工業地帯に投下されたことになっていることだ。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-03 05:26 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 7月20日の模擬原爆(パンプキン)投下とかかわる平の空爆記録は曖昧だが、昭和20年7月26日の投下とかかわる被弾は、第2回目の平空襲として記録される事が多いようだ。
 ネット上の情報では、5トン爆弾が平第一国民学校(現平一小)に被弾し、お城山一帯が破壊されたとある。死者教員3名、家屋1500以上が破壊との情報となる。
 これが、任務№8の攻撃した目標が長岡地区照準点2箇所で、その臨機目標として、平工業地域(北緯37°04′―東経140°52′)に投下されたとするものだ。これも10/10の雲で、予定変更による投下のようだ。

 先の郡山の警報当番日誌では、次のように記録されているようだ。
 7月26日
 近頃2、3日快晴続く。敵機の行動愈々激しく、
 午前8時7分警戒警報発令を見る。
 今日も鹿島灘より本土へ進入、茨城県四目標行動中、暫くして本県南部より中部へ西部へ東部へ変転するも爆音なく9時41分解除される。
 11時44分、またまた警戒警報発令、
 今度はB24洋上を行動中との報あり。20分にして12時4分解除さるるも、
 平第一国民学校、女学校の中間へ500キロ爆弾1ケ投下され、30名からの死傷者出る。B241機小数たりとてあなどらず、B29100機たりとて恐れず、待避の時機に注意せられたし。
 27日0時6分新潟方面より侵入の敵機に警戒警報発令を見、当市北空を通過、東南方沖へ退去。0時29分解除。

 この日は、模擬原爆(パンプキン)投下にかかわって、この平に投下した攻撃目標が長岡の任務で4機、攻撃した目標が富山地区で6機が広範囲に行動している。だから、どれが、郡山上空ので描写される機と結びつくのかは分からない。
 ただ、郡山ではこの日の平第一国民学校の被弾が、その日のうちに伝わっているということが分かる。「B24が、500キロ爆弾1ケ投下し、被弾被害は30名からの死傷者出る」というもののようだ。その内容が多少違うのは、今だから言えること。感じるのは、郡山の情報把握の速さだ。
 伝達された内容で明らかに違うのは、B24が、500キロ爆弾1ケ投下ということで、これはB29が、5t爆弾1個投下ということだろうか。
 ただ、現在でもこの爆弾の重さは、権威ある資料でも、ペーパーの記録では500キロと1tの情報が混在する。
 先に整理した福島渡利に被弾したものも、ふれあい歴史館では500キロ爆弾としている。これによって、当時はこれ等を500キロと認識する共通した訳があるというヒントを得ることができる。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-02 09:23 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)