地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 福島と戦争( 128 )

 前回、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」から、地元ならではの情報として整理したものは、「明治学院百年史」にも同じ情報があることが分かった。
 その中で、読み取り間違いもあったので訂正しておく。
 それは、妹が満州医大進学希望と読み取ったのだが、満州医医科大学進学希望は信氏だった。

 当時の進学コースの複線型をよく理解していないための読み取り混乱がある。
 信氏の進学の迷いと実際の進学にかかわる経歴を年代順に箇条書きに確認しておく。
 大正11年4月12日会津若松市に生まれる
 昭和4年小学校入学
 昭和10年4月会津中学入学
 昭和13年4年生の途中で休学する
 昭和14年春復学する
 昭和15年春同志社大学入学するが、直ぐに帰郷。
 ※この頃の友人への便りに、満州医医科大学進学希望が。
 昭和16年春喜多方中学の5年生に編入
 ※この頃松江高校受験も。
 昭和17年喜多方中学卒、明治学院入学

 地元ならではの情報として整理したその情報源は「会高通史」であることが分かった。
 信氏の最後の帰省時、隊に戻る前夜に訪ねた会津中学校の恩師小林貞治氏が、昭和40年に刊行されたこの「会高通史」を執筆した際、「戸ノ口」にまつわる悲話一つ」として、信氏の思い出と湖畔の碑の由来を詳しく記しているという。それが原資料になっているようだ。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の参考文献にも、このローカルな「会高通史」がみえる。
 ということで、「明治学院百年史」にも同じ情報はあるのだが、地元ならではの情報だと感じたことまでは否定する必要はないかなとも思う。

 なお、恩師小林貞治氏の奥様であり、信氏の小学校の恩師でもある敏子さんの短歌「湖畔の碑」10首のうち3首は先に確認したが、気になったので残りの7首も確認した。

 湖(うみ)近き芒の中に君が碑を見出でて佇ちぬ霧深き中
 生と死に分かれてここに二十年碑(いしぶみ)に願つ君がおもかげ
 「わだつみの声」に載りたる君がことば彫りし碑面に雨横しぶく
 君が碑をかこみて高く繁り立つ芒穂群に風渡りゆく
 ゴム長とシャベルを持ちて訪ね来し君の碑の文字雪原に冴ゆ
 雪原に黒く小さく碑は浮かび湖畔の道を今は離りぬ
 駅に君を送ると背負ひし幼児も空に果てにし君が年となる
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by shingen1948 | 2017-04-23 09:30 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 昨日整理の進学先を変える情報は、どちらかと言えば建前の理由付けの部分だ。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、その他の理由も挙げている。
 その一つが、妹の事情との関りだ。
 妹は、満州医大進学希望だったようだ。しかし、諸般の事情で東京の叔父の養女となり、東京の学校に入学したのだとか。諸般の事情という配慮が、地元ならではの情報かもしれない。
 もう一つが、幼馴染の少女の動向との関りだ。
 小学校から同級だった女性Fさんへの思いについては友人達も周知の事とする。その彼女も東京の学校に進学したとのことだ。
 これ等は、地元ならではの情報であり、配慮なのだと思う。

 地元ならではの情報に満ちているは、「最後の帰省」の項だ。
 2月下旬に長野県松本に到着し、1月あまり浅間温泉富貴湯旅館で過ごすことになる経緯については、「Web東京荏原都市物語資料館」で確認しているが、この待機の期間に、当時の例にならって最後の帰省が許されているとのことだ。20年3月初旬とされる。

 信氏は、結婚が決まっていた妹への土産を持って会津若松の実家に帰省するが、隊に戻る前夜に会津中学校の恩師小林貞治氏を訪ねているという。
 英語の先生でボート部顧問でもあったが、その奥さんの敏子さんは、信氏の小学校時代の先生でもあったという事で、親しい関係だったようだ。
 この時に、信氏から特攻隊員として出撃することを打ち明けられたという。両親には知らせないでくれと頼まれ、上官に取り上げられた「歎異抄」の代わりの本を所望されたとのことだ。
両親は何となくただならぬ雰囲気を感じていたようだ。
 父啓治は、この夜は枕を並べて寝たとか、母シゲさんは、信氏が去った後、小林夫妻にしつこく尋ね、口止めされている夫妻を困らせたのだとか。そして、母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いても戻って来たという。

 別の項で、この小林先生の奥様敏子さんが信氏を偲んで作った短歌集「湖畔の碑」10首が、短歌研究(昭和43年9月号)に佳作作品として掲載されたことが紹介されることにつながる。
 そのうちの2首が紹介されている。

 特攻隊にて飛び立つ前の乱れなき
          葉書の文字がわれを泣かしむ

 死ぬる為に君生まれ来しや戦死せる
          幼き面輪に香華はのぼる

 別の資料でもう一首の紹介を見たので、付け加えておく。

 特攻機にて基地発つ君がよこしたる
          最後の文字「シアワセデシタ」
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by shingen1948 | 2017-04-22 09:54 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 長谷川信氏の生家が、「小国屋」という藩時代からの御用達の菓子商であることは、「Web東京荏原都市物語資料館」で知っていた。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)【歴史春秋第78号】」では、「長谷川信のおいたちと進学経緯」で更に詳しく記される。地元情報の強さだ。

 長谷川信氏は、父啓治の後妻シゲには子供が二男二女いたが、その長子だったということだ。先妻ヨネには力、佑、レイの三人の子供がいたという。
 長谷川信氏を可愛がったのは、兄の佑氏だったという。信氏も読書好きで水戸高校から東大に進んだ兄と同じような道を歩きたいと思っていたようだとのこと。
 会津高等学校に入ると直ぐにボート部に入って練習に熱中したことについては先に記した通りだが、4年中途で病気と称して休学し、その後喜多方中学校に転学するらしい。「幾多の事情があって」が、その理由のようだ。
 そこからの進学先だが、明治学院から学徒出陣しているので、最初からそこに進学したと思っていたが、その前に同志社に進学しているらしい。
 キリスト教に基礎を置くリベラルな学校との評判に胸を膨らませての進学だったようだが、現実の学校はその期待に応えられなかったようで、見切りをつけて郷里に戻ってきたという。
 その後、先に整理したように、明治学院厚生科に進み、学徒動員、特攻隊への道を歩むことになることに繋がるようだ。
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by shingen1948 | 2017-04-20 09:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「きけわたつみのこえ」は、第二次世界大戦末期に戦没した、日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集である。
 ここで指す「わたつみ」は「学徒戦没者」であることは分かるのだが、本来の意味は「海の神霊」ということのようだ。
 「わたつみ」の「わた」は海の古語で、「み」は神霊の意とのことらしい。
 皇国史観による旧教育を受けた方は、この言葉にはこの二つの意味が重なってイメージされているらしい。

 今回「会津の『わたつみのこえ』を聞く」としたことだが、これは「きけわたつみのこえ」に福島県の「学徒戦没者」として登場する会津の長谷川信氏の声を、耳を澄まして聞いてみたいと思ったのだ。

 この会津の長谷川信氏を知ったのは、先に「山中 訃報に接して」の整理中だ。
 山中選手が母校にやって来るのは、N先生とのかかわりだったのだが、そのN先生が会津にやって来るのは、会津高校ボート部とかかわると想像した。また、自分の思い出の中には猪苗代の中田浜があるのだが、確認していくと、これも会津高校ボート部がかかわるようだった。
 その確認を進める中で、猪苗代湖に元々練習拠点にしていた場所があることが分かった。その確認を進める中で、そこが長谷川信氏の思い出の地であるという情報を得て、その地が特定できたということがあった。
 これを、「山中毅さんの訃報に接して⑥」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23730970/

 その情報源は「Web東京荏原都市物語資料館」だ。
 学徒出陣した特攻兵士長谷川信氏の故郷である会津若松を訪ねたその「下北沢X新聞(1676) 〜武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて5〜」の記事に、この戸ノ口艇庫についてふれた箇所があったのだ。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51703392.html
 ここで、「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」を孫引きさせていただいたのだが、その部分を再掲する。
 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 この時の整理では、その「会津高校ボート部での練習の思い出の地」の位置が分かればそれでよかったのだが、この時にも「長谷川信 碑」についてふれている。
 整理を始めるにあたって、ここも再掲しておきたい。
a0087378_938834.png 死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらおうと思う。

 この「長谷川信 碑」については、次の「下北沢X新聞(1677) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて6~」に詳しく記される。
 
 長谷川信 碑
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事だろう 
 だがたった一つ出来る涙を流して祈る事だが
 それが国泰かれか親安かれか知らない
 祈ることなのだ
  大正十一年会津若松市に生まれ
  四月十日
  昭和二十年 沖縄南方上空に散る

 石碑に刻まれた4月10日は、彼が生まれた日であり、亡くなった日でもあるとのこと。この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地とのことだ。
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by shingen1948 | 2017-04-19 09:39 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 前回までの整理で、客観的な被害情報は確認できても、生の声が伴った情報に接するのはなかなか難しいと感じた。戦争体験者に接することはあるが、話を聞き出すことは難しい。
 今回の企画展では、「語りつぐ『戦争の記憶』」という、体験者の生の声をお聞きすることができる企画もあった。
 そのテーマは、「学徒動員」、「福島に投下された模擬爆弾」、「日本で初めて空襲があった日福島に投下された模擬」、「爆弾女学生の勤労動員」、「少国民の役割」とのことだった。
 体験者だからこそ伝わる重みを十分に味わわせていただいた。

 体験者談に接する体験の重みについての感想は、前回整理の講演会に出かけて小学生で伝令係だった方の話が聞けた時に整理したことと変わらないので、ここに再掲し、今回の整理を締めくくる。
 それは、聞いている方の中に、当時、小学生で伝令係だったという方がいらっしゃって、その方のお話がお話するのを聞けた事。その方の話から、地域の方が感じたであろう着弾した時の緊迫感のようなものが伝わった。直接の被害に遭われたということではなくても、その証言は貴重なのだとあらためて思う。
 まず、空襲警報があったようだ。その方は、学校近くまで行っていたので学校に急いだが、家に近い場合は家に戻るという約束があったとか。
 学校では、2階にラジオが一つ置いてあって、それを聞いた女の先生の指示に従って、伝令係が皆を防空壕に入るように指示を伝えるというという事になっていたという。
 ところが、なかなかいう事を聞いてくれなかった。
 次に、炸裂音なのか爆風なのかはわからないのだが、機銃掃射の射撃のような音を聞く。これで、自分が肝を冷やして、振り返った時には、全ての小学生が防空壕に入っていたとのことだ。
 これが、5t爆弾の着弾音なのか、着弾で破裂した赤く焼けた鉄片が飛び散る音なのかは分からないが、その緊迫感は充分に伝わった。
「北に200mほど離れた学校のガラスも全部吹っ飛んだ」という情報にも重なる。

 また、この話からは、前に整理した平一小に着弾した時と同じような状況が、渡利小学校でもあったという事が分かる。こちらの証言は多く集められているので、その情報と重ねると緊迫感の確からしさのようなものが増すという効果もあった。

 更に、この話と渡利の2件の火災、数件の崩壊という物件被害情報を重ねれば、その火災や崩壊の前にその緊迫感が加わっていただろう事が想像できるようになる。
 約3反歩の大穴、或いは約90m沼になってしまうほどの穴ができるほどの5tの超大型爆弾の着弾音や地響きがあったはず。そして、無数の赤い炎を上げながら飛び散る鉄の塊が飛び散る機銃掃射の射撃のような音があって、更にその幾つかが自らの家の屋根に突き刺さり火災、或いは崩壊という事事になったはず。
 これらは、その被害に遭われた方でなければ主観的な情報としては伝わらない。そういった物的な被害に遭われた方の生の声は、まだ聞いた事がない。

 記者が話を聞いて整理した記事でも、そこから腹部をえぐられた弟の姿をみた姉の衝撃は、こちらの想像を超えるものではあろうが伝わる。渡利の生の声が伴った情報が欲しいものだなと思う。

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by shingen1948 | 2015-11-18 08:37 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 ここまでの整理では、模擬原爆投下の目的が「人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練」であることと重なる。それはそれで非道だとは思うのだが、前回の整理で分かったことは、その目的に+して「充分な殺傷」も目的としていたということだ。
 渡利模擬原爆投下による被害状況を確認したところで、先に確認した模擬原爆のもう一つの目的「充分な殺傷」ということもはっきり見えてきているのだと思う。
 当時の報道は被害が軽微だたとするのは、戦勝国アメリカにとってもこの目的が見えにくくなり、都合のいいことだったということでもあるのだと思う。だからこそ、整理し直すたびに繰り返しておかなければならないと思っている。
 確認すると、計画で示される福島の目標地点は、二つの工場だ。福島での投下目標地点は、福島の北西隅に位置する福島製作所と福島高校南にあった品川製作所である。それは道義的な名目のために目標を軍事工場に置いているという事でもあった。

 以下は、先の整理でアメリカ側の資料を基に確認したことだ。
 実際の渡利模擬原爆投下にかかわる福島投下予定機B29の2機は、7月20日テニアン島を1時20分に飛び立っている。そのうちの1機が、エンジントラブルで引き返す。
 だから、福島投下予定機B29は1機だけになったということだ。これが、福島上空に現れるのだが、福島まで来たところで、曇りで目視投下が出来なかったとのことだ。それで、上空9000m【高度3万フィート】からレーダーで投下したということだった。

 ここに、前回講演会で分かったことを再度記せば、その投下目的地点が、投下目標地点だった福島駅の北側ではなかったということだ。講演者が、実際のパイロットに投下目標地点を、地図に示してもらったとのことで確実な情報なのだが、これが駅の南側だったということだ。
 軍事工場目的なら駅の北側だろうが、彼らにとっては南側だろうが北側だろうがどうでもいいことだったのだ。
 このことは、目標は軍事工場に置いていたが、それは単に道義的な名目のためでしかないということで理解できる。本来の目的は「充分な殺傷」であり、駅の南側だろうが北側だろうがどうでもよかったと理解できる。
 どちらでも、この模擬原爆のもう一つの目的充分な殺傷を確実に実行できるということだ。
 実際は、目視ができない状態でレーダーでの投下だ。そのセットは福島駅の北側にもできたはずなのだ。もっと勘ぐれば「充分な殺傷」を試すには福島駅の南側の方がよかったという判断も無かっただろうかという事だ。
 そういう視点で地図を見れば、命中なら福島駅であり、多少別なずれなら県庁付近がある。緯度のずれだったら北に工場地帯かあり、南に商店街がある。こちらに着弾なら「充分な殺傷」の目的は十分に果たせたということだったのかもと、……。

 模擬原爆は郡山と平にも投下されているのだが、他の空襲もあってこの模擬原爆の特性はつかみにくいということも確認しておきたい。渡利模擬原爆投下は、福島で唯一の空爆であることから、その特性が見えやすいということでもあるのだ。
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by shingen1948 | 2015-11-17 18:31 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 重点を置いた物的被害防止対策の記事と最近得た物的被害の状況を見比べて、物的被害の実情を想像してみたい。
 まずは、記事の確認。
 ガラス類で特に屋内のガラス戸、窓等であるガラス戸、窓は空襲警報発令と同時に取り除く事の徹底を挙げた。記事では、この被害に遭われた方については、その対策不足例として否定的に報じられるので、被害を見逃してしまいそうになる。
 その被害例1が、「建具を全部ガラス戸とした其家は雨戸も閉めずにゐた為ガラス戸は木端微塵になり棚の品物は落下した。幸ひに人には損害はなかったが現場をみると廊下にぼやっとしてゐた十歳の子供と室内にゐた妻君も怪我一つしなかった事はむしろ奇跡である。」そのぐらい大変な被害を被っているということだ。多分、この被害に遭われた方もこの記事を読んで後ろめたさを感じてしまったのではないかなと想像する。
 その被害例2が、「学校などの如く全部ガラス窓を使用している処は紙を貼る事実施しなければならないのに同所の国民学校は何んの準備もしてなかった。」
 被害に遭った学校は、窓ガラスが割れてしまったのは紙を貼る事をしなかったからだと叱られている。それはともかく、少なくとも民家と学校において、ガラスがほとんど割れてしまったという物的被害があったことは分かる。
 次に、この被害とかかわりそうな前回整理の講演会で得た情報を確認する。以下は、前回の整理の再掲だ。
 北に200mほど離れた学校のガラスも全部吹っ飛んだとあるのは、現在の渡利公民館だろうか。爆音は福島まで轟き、福島駅近くの事務所のガラスも割れ、被害は半径2㎞に及んだなどの状況が説明される。
 今回の企画展と一緒に開催された「語りつぐ『戦争の記憶』」の語り部達の模擬原爆着弾時の体験談を重ねる。その体験場所は「もちづり橋」、「福島旧市内」、「福島駅」とのことだが、かなりの爆風と異変を感じたように語られていた。情報としては、「爆音は福島まで轟き、福島駅近くの事務所のガラスも割れ、被害は半径2㎞に及んだとの状況」ということと重なる体験談だ。

 更に、今回の展示会では、物的被害にかかわる別情報があった。
 「爆風で午前八時三十四分を指して止まっていた柱時計」に添えられた「忘れられない7月20日…」という解説の中に「四方の稲は、カミソリででも切られたように削りとられていて、わが家の屋根瓦も壊され、のちに三千七百枚ほど取り替えました。」とある。
 要は、爆風で屋根瓦は、ほぼ全壊に近い状態にということだ。午前八時三十四分を指して止まっていた柱時計自体も、爆風の強さによる物的被害の一つかな。

 報道内容からは、別の物的被害も読み取れる。
 「爆弾投下後数十分を経てから弾片による小火の発生をみた」とある。爆弾の破片で火災が起きたということだ。被害件数は明らかではないが、多くの破壊用爆弾の破片は、火の玉となって飛んで、火災を起こしたということだ。
 最近得た情報に、「農家2軒が焼け、村中に飛び散った破片で、裸足で耕作ができなくなった」ということがある。この情報と重なる。
 これに、爆弾沼と呼ばれる沼を作るほどの破壊力であったことに加えて実際の被害をイメージすれば、記事から受ける被害のイメージりかなり大きかったように思う。
 逆の見方をすれば、この記事は「被害極めて軽微なり」のイメージ作りに成功しているともいえるかな。
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by shingen1948 | 2015-11-16 08:15 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 前回、市民ミュージカル「人類の破片」にかかわる近況を知らせる【朝日新聞(2015/8/20)】の特集「『戦後70年 福島から』~模擬原爆 伝え続ける」の記事を見つけたことを付け加えた。その記事によれば、「人類の破片」は、2011年の原発事故のためにミュウジカル上演を断念しているということのようだ。渡利の放射線量が福島市内でも比較的高く、子どもたちを集めることができなかったということのようだ。朗読という形でその精神はつないではいるようだが、残念なことだ。
 原爆にかかわるイベントが原発事故のために中止になるということで思い出すのは、原爆批判の美術品が、原発事故によって福島では見ることができなくなったということだ。
 東京の文化発展のために背負う福島の文化にかかわる代償は大き過ぎる。

 人的被害の報じ方を確認してきたところだが、今度は物的被害についての報じ方を確認する。
 記事を確認すると、物的被害については、実情を報じるというのではなく、ここでの被害の反省を生かして、次の空襲に対応する観点でその対策が報じられている。
 記事では、実際の被害については概観的に「現場附近の家屋に爆風のいたづらがそちこちに見られることと爆弾投下後数十分を経てから弾片による小火の発生をみた」ことに集約する。 
 「そちこちに見られ爆風のいたづら」が、具体的にどんなものだったのかについてはふれないで、以下の対策に報道の重点を置いている。
 〇 ガラス類で特に屋内のガラス戸、窓等であるガラス戸、窓は空襲警報発令と同時に取り除く事の徹底
 〇 建具を全部ガラス戸とした場合は、「全部紙を貼るとか、取りはづして置く事が必要だ、例へば戸、襖などを取りはずして置けば爆風は窓から窓へ抜けて被害も僅かで済む」とのこと。
 〇 今一つの戦訓は、普通の破壊用爆弾の破片でも火災が起るといふ事である。

 対策を報じるためにふれた実情から、被害の実態を想像し、他の資料から知りえた被害情報を見比べ、実際の被害を推定してみたい。
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by shingen1948 | 2015-11-15 08:21 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 今回の企画展で、この記事に含まれる価値観で見る世間にも嫌気がさしていなかったかとも思ったわけだが、そのこととかかわるのかなと思える情報を見つけていた。
 昨日整理は、東京の地方新聞である「東京新聞(2012/7/18)」で見た「渡利模擬原爆投下で亡くなられた方にかかわる記事」だが、この記事のきっかけになったであろう事がある。 
 それは、2005年から毎年、市民ミュージカル「人類の破片」が瑞龍寺で上演され続けてきたということだ。
 このミュージカルは、米軍が落とした「模擬原爆」と呼ばれる爆弾で命を失った福島市の少年に光を当てたミュージカルで、2005年に初上演されたものだ。そのモデルである少年=斎藤隆夫さんの命日に、瑞龍寺で上演され続けてきたという。
 この市民ミュージカルの原作と脚本は、当時、帝国データバンク福島支店長を務めていた赤間裕弥氏とのことだ。
 以下は、この初上演にかかわる資料でみた取材時の情報をメモしたことだ。

 原作脚本の赤間裕弥氏が、福島の「模擬原爆」を知るきっかけになったのは、昔爆弾沼というのがあったという話を聞いたことだった。この福島の「模擬原爆」は、広島、長崎へとつながる戦時中の悲しい物語が詰まっていることが、脚本の動機に深く結びついていたとのことだ。
 模擬原爆と福島への投下の事実を突き止めて、その御遺族を探し出したとのことだが、そのお姉さんと弟は口をつぐんでなかなか話したがらなかったとのこと。
 ようやく重い口を開いて訥々と話してくれた弟兄たるタカオ少年にまわる話を聞き出したとのこと。
 その情報では、お葬式もひっそりと、隠すようにして執り行われたとのことだが、その理由を「戦地ではない場所で死んでいった子どものことを、声高に嘆き悼むことができる時代ではなく、歳の少年の死は、歴史から葬り去られたのです」としていた。
 しかし、ここに昨日整理の世間の価値観を加えれば、近年まで、家族の胸の内にだけ秘されていたというその無念さがもっと深かったということが分かる。

 なお、市民ミュージカル「人類の破片」にかかわる近況を知らせる【朝日新聞(2015/8/20)】の特集「『戦後70年 福島から』~模擬原爆 伝え続ける」の記事を見つけた。
 http://www.asahi.com/area/fukushima/articles/MTW20150820071380001.html 
 パソコンが壊れている間に、いろいろな「戦後70年 福島から」の情報が発信されていたようだ。
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by shingen1948 | 2015-11-14 08:28 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 渡利模擬原爆では一人の方が亡くなっているのだが、その事は、記事には登場しない。「被害極めて軽微なり」とし、極めて軽微な被害の一つに含まれているという構成だ。
 そのかわりに、着弾地点近くにいたにもかかわらず生き延びた方が紹介される。
 記事によると、その方は「『ナーニ、俺達は泥を被っただけですよ』と至って元気だった。」そうだ。ただ、もしもこの5t爆弾が着弾してさく裂した位置に建造物があったりすれば「被った泥」は、瓦礫ということになるはずだ。単なる道路であったとしても、その被った泥というところは、砂利や瓦礫ということになるはずであり、この方たちは即死するところだったということだ。生き延びたのは、着弾がたまたま田んぼだったので、泥を被って済んだということであり、単に運の良さだったに過ぎないということだ。
 実際の生死にかかわる被害は、さく裂した爆弾の破片が当たった方1名だったが、これが着地点が少しずれれば、それだけでは済まなかったはずなのだ。

 この時に福島で報じられることのなかった亡くなられた方の様子については、東京の地方新聞である「東京新聞(2012/7/18)」で知ることができた。
 このことは、先にも整理したが、再掲する。
 「弟奪った「模擬原爆」に原発事故重ね 大事なこと知らされねぇ」と題したの記事の中に、亡くなられた方の姉が次のように証言されたと紹介される部分があった。
 自宅から数百メートルの田で弟が命を落としたのは、一九四五年七月二十日の朝だった。
 「姉ちゃん、俺が行ぐから」。雲がたれ込め、今にも雨が降りだしそうな空模様。五つ年下の隆夫さんが蓑(みの)と笠(かさ)を身にまとって田の草取りに出掛けた。見送ったミチさんが弟の言葉を聞いた最後となった。「なぜか寂しげな目をしてたな」
 落雷のような炸裂(さくれつ)音と地響きがした。米軍の爆撃機が投下した一発の火薬爆弾。いろりの下座に腰掛けて地下足袋を履こうとしていたミチさんは、敷居まで吹き飛ばされた。母と二人で近くの山に逃げると、弟が除草をしていた田から黒煙が上がっていた。
 「かあちゃん、隆夫やられた」。山を駆け降りたミチさん。爆風で水がなくなった底土の上に、泥まみれで腹部をえぐられた遺体を見つけた。あまりの衝撃に泣くことすらできなかった。
 この爆弾は、人類初の原爆投下を成功させるために米軍が訓練として投下した模擬原爆だった。ただ、模擬原爆の存在や被害は、国民に長く知られることはなかった。
 隆夫さんの命を奪った爆弾の破片は、近くの瑞龍寺に保管されている。見つけたのは父親。爆死から十数年後、「息子の供養に」と寺に預けた。
 戦後、農業や看護の仕事をして嫁がずに家計を支えてきたミチさん。「隆夫をはじめ多くの人が亡くなったのに、戦時中のラジオは『わが方の損害軽微なり』と流してた」。そんな憤りの矛先は今、東電に向く。
 ここに「被害極めて軽微なり」としたことへの怒りは、表現されているが、今回の企画展に参加して分かったのが、もっと深い怒りだったのではないかということだ。

 報じられたのは、待避の姿勢を正しくとれば、どんな時でも生き延びるということだ。それが、今でも語り継がれているということは、ここで培われた価値観は、今でも健在だということだ。
 ということは、この時に亡くなられた方に浴びせる世間の目には、この待避姿勢が取れなかったのではないかという耐え難い批判の価値感が込められていたのではないかということだ。「爆風で水がなくなった底土の上に、泥まみれで腹部をえぐられた遺体」の状況から、客観的に見ればそんな問題ではないはずだが、ここで形成された価値観で見る世間にも嫌気がさしていなかったかとも思う。
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by shingen1948 | 2015-11-13 08:23 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)