地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 福島と戦争( 102 )

 模擬原爆にかかわってこの辺を散策していて気になったのが、先に「目標から逸れて、渡利の水沼に着弾する」という表現に失礼がなかったかということ。
 これは、アメリカ側の視点に立てばその通りだが、「渡利の水沼に着弾する」という部分に、市街地を外れてという意識が働いたとすれば、それは違う。半沢氏の「フィールドワーク地図」の情報を組み合わせたのはその意味を込めていたことを確認しておきたい。
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 渡利を散策してのイメージで整理すると、現在では、渡利地区の市街地は平地に広がっているが、元々の渡利地区の中心地は、山沿いの一本の道筋に沿って開けていたということだろうか。そして、当時は、やや広さが必要になる学校をその道筋の北側に建てたという状況だろうか。
 その学校がここだ。現在は学習センター、運動場かな。小学校がここから現在地に移転するのは昭和28年、中学校の移転が昭和50年ということだ。
 当時の渡利地区の方々の感覚では、ここから続く一本道が、渡利の町に続くのだが、その町のわずか数十m西に逸れた地点に5tの超大型爆弾が着弾したということだろうか。
 その割に、渡利地区の客観的な被害情報はある程度確認できるのだが、生の声が伴った情報が少ないので、その緊迫感が伝わらないと感じている。
 確かに、情報を確認していくと、水田或いは沼地に着弾したということと着弾した角度のかかわりで、「充分な殺傷」という点では軽減される条件下であったということはあるらしい。
 当時の新聞記事の中で、被害の小ささを示すのに、「『ナーニ、俺達は泥を被っただけですよ』と至って元気だった。」と表現するところがあるが、もし、この5t爆弾が着弾してさく裂した位置が建造物でなくとも、単に道路であったとしても、その被った泥というところは、瓦礫ということになるわけで、方向によってはその爆風でも、この方たちは即死するところ、ただ単に運がよかっただけということに過ぎないと思われる。

 実際の生死にかかわる被害は、さく裂した爆弾の破片が直接当たった方1名。今回確認作業をする中で、その被災された方にかかわる生の声に整理された記事が東京に向けて発信されているのを知った。原発事故とのかかわりらしい。「弟奪った「模擬原爆」に原発事故重ね 大事なこと知らされねぇ」と題した【東京新聞(2012/7/18)】という記事の中に、以下のようなその姉の証言部分があった。
 自宅から数百メートルの田で弟が命を落としたのは、一九四五年七月二十日の朝だった。
 「姉ちゃん、俺が行ぐから」。雲がたれ込め、今にも雨が降りだしそうな空模様。五つ年下の隆夫さんが蓑(みの)と笠(かさ)を身にまとって田の草取りに出掛けた。見送ったミチさんが弟の言葉を聞いた最後となった。「なぜか寂しげな目をしてたな」
 落雷のような炸裂(さくれつ)音と地響きがした。米軍の爆撃機が投下した一発の火薬爆弾。いろりの下座に腰掛けて地下足袋を履こうとしていたミチさんは、敷居まで吹き飛ばされた。母と二人で近くの山に逃げると、弟が除草をしていた田から黒煙が上がっていた。
 「かあちゃん、隆夫やられた」。山を駆け降りたミチさん。爆風で水がなくなった底土の上に、泥まみれで腹部をえぐられた遺体を見つけた。あまりの衝撃に泣くことすらできなかった。
 この爆弾は、人類初の原爆投下を成功させるために米軍が訓練として投下した模擬原爆だった。ただ、模擬原爆の存在や被害は、国民に長く知られることはなかった。
 隆夫さんの命を奪った爆弾の破片は、近くの瑞龍寺に保管されている。見つけたのは父親。爆死から十数年後、「息子の供養に」と寺に預けた。
 戦後、農業や看護の仕事をして嫁がずに家計を支えてきたミチさん。「隆夫をはじめ多くの人が亡くなったのに、戦時中のラジオは『わが方の損害軽微なり』と流してた」。そんな憤りの矛先は今、東電に向く。

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by shingen1948 | 2012-11-01 06:59 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 講演会の中では、「福島市渡利に投下された模擬原始爆弾の痕跡と思われる跡」が写る「昭和22年米軍撮影」の写真が提示された。
 この情報は、自分にとっては、着弾地点の推定がより確実さを増すかもしれないという興味と、被害状況の実感が深まるという意味を持つということ。

 被害状況の実感が深まるというのは、以下のグランド0地点についての表現に視覚化された情報が加わったということだ。a0087378_3254343.jpg
 これは、その部分を拡大して示されたもの。
 当時の新聞記事では、グランド0地点を「約3反歩の大穴」と表現していた。いろいろ説明される中では、「爆弾の落ちた地点の穴は約90mで、暫くは沼になっていたため、その辺一帯(現在のわたり病院○付近)を「沼之町」と呼ぶようになった」と表現される。
 上空から撮影されたこの写真自体からその大穴が鮮明に実感できるという事ではなく、今までの情報と組み合わせると、この大穴の実感を得たような気にさせてくれるということだ。

 もう一つが、着弾地点の推定にかかわる情報として。
 着弾地点については、先にいろいろな情報を組み合わせて「グランド0」地点を想像しているが、まだ曖昧なところがある。
 この写真をもとにして確認していけば、「グランド0地点」が確実に特定できるかもしれないと思ったのだが、実際に歩いてみると、この辺りの風景は激変しているようで、ここだと言いきれるほど確実性が増したという事にはならなかった。
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 現況の風景の中で、写真の地点が比較的分かりやすいのは、集落の北西隅付近のこの風景だろうか。この風景の左側に写るお宅に沿って西に延びる道筋が写真に写っていると思うのだが、この道筋は今も健在で、これが先に整理した「グランド0地点は、この一角と推定する」とした写真に写る道筋につながっている。
 その道筋より寧ろ集落の北側を東西に走る道筋に近い付近が、その地点なのだろうという程度の想像はつく。 
 なお、ここに半沢氏の「フィールドワーク地図」の情報を組み合わせれば、ここに写る道筋が古くからの中心地だったところらしいということが分かる。その情報によると、この集落が「もと渡利村字町(渡利の中心地)このあたりはまわりの土地より1段高くなっている」ということであり、これが写真に写る集落でもあるということなのだろうと想像される。この道を挟んだ北東側に、渡利村役場があったり、初めて小学校があったりしたところだとことになるのだろうか。

 講演会の中で得られた着弾地点情報としては、着弾点は岩 郵便局から南に約100m以内付近ということやGPSで確認すると民家の駐車場と一致したというような情報、渡利病院との南側という位置関係など等々あったが、先に整理した時に確認した情報を越えるものではなかった。
 これらと地図との照らし合わせをしたことを持ってしても、確実にここがその地点という情報にはならなかった。ただ、今回、情報を得るたびに、自分の予想するグランド0地点より西に引っ張られる感じがしていたのだが、このズレが示す意味の想像がついた。
 それは、模擬原爆は、西から放物線を描いて着弾するということとかかわる。模擬原爆はその着弾の衝撃で炸裂するのだが、その爆弾の破片は、その反作用の力が加わってその西方に散らばって被害が拡大するという事になっていたのだろうという想像だ。その拡大した被害地が、渡利病院との南側ということなのではないかということだ。
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by shingen1948 | 2012-10-31 05:24 | ◎ 福島と戦争 | Comments(2)
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 「福島の戦争展」の位置を示すために掲げられた地図の№14が、模擬原爆の渡利着弾地点だ。この地図、今は福島駅南側から№14地点にかけた範囲が、模擬原爆とかかわる地点に見える。
 そういう見方に変えると、先に確認した模擬原爆のもう一つの目的が見えてくる。

 模擬原爆投下は、「人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練」+「充分な殺傷」を目的としていたということのようだだった。
 その「充分な殺傷」だ。
 渡利着弾地点だけでは見えなかったのだが、これが見えてきているのではないかなと思うのだ。計画で、福島の目標地点に二つの工場が示されるが、それは道義的な名目のために目標を軍事工場に置いているだけ。
 この模擬原爆のもう一つの本来の目的に、充分な殺傷を確実に実行できることも想定しているらしいということだった。
 この事を頭に置いて地図と見比べる。

 福島での投下目標地点は、道義的な名目のための目標として、福島の北西隅に位置する福島製作所と福島高校南にあった品川製作所だ。
 福島投下予定機B29の2機は、7月20日テニアン島を1時20分に飛び立っている。そのうちの1機が、エンジントラブルで引き返す。それで、福島投下予定機B29の1機だけになる。
 これが、福島上空に現れるのだが、福島まで来たところで、曇りで目視投下が出来なかったとのことだ。それで、上空9000m【高度3万フィート】からレーダーで投下したということだった。
 その投下地点が、投下目標地点に近い福島駅の北側ではなく、南側だったということだ。
 
 目視ができない状態で、レーダーでの投下なのだから、そのセットは福島駅の北側にもできたはずだが、道義的な名目より本来の目的である「充分な殺傷」が頭にあれば、これはどちらでもよいことだったのだろう。
 もっと勘ぐれば、「充分な殺傷」を試すには福島駅の南側の方がよかったという判断も無かっただろうかとも思う。そういう視点で地図を見れば、ずれがなければ駅があり、多少のずれなら県庁付近がある。ここに着弾なら大成功だったのかなとも、……。

 実際には、目標から逸れて、渡利の水沼に着弾する。これが、先の確認の情報では、8時33分。これがどちら側の情報だったか記憶にはない。
 経過とかかわる情報を新聞報道からも拾えば、「午前8時3分に大型機1機が現れ、雲の上をしばらく旋回して北東に機首を向けた時に爆弾を1個投下した。」ということであり、「投下後、そのまま北東部から洋上に向かった。」という情報につながるのかな。
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by shingen1948 | 2012-10-30 05:20 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)

模擬原爆と福島

 先に「福島の模擬原爆」を整理したが、14日に「模擬原爆と福島」という似たようなテーマでの講演会があるという事で出懸けてみた。
 講師は、福島民友新聞社論説委員紺野滋氏。講演内容は、「太平洋戦争時、福島市渡利に落とされた模擬原爆の正体をさぐる。併せて、この度の原発事故とかかわりについて」とのことで、後半の「この度の原発事故とかかわりについて」について付加されるのは、講師が、福島民友新聞社論説委員という肩書と時節からだろうか。
 それでも、興味は前半で、先に整理した「福島の模擬原爆」内容の整合性の確認。勿論、その内容に誤りがないかどうか確認したいという事もある。もし、新たな情報があれば付け加えたいということもある。

 この問題を確認していて感じるのは、落とした側には驚くほどの正確な情報が存在するのだが、落とされた側の情報は曖昧なものがあるということ。中には、落とした記録があるのに、落とされた側に記録がないというものまである。そこまではいかなくても、落とされた側の被害情報は記録されているが、これがその模擬原爆と意識されていないというものもある。更に気になったのが、落とされた側の記録も存在するが、正確な記録のみで、被害証言などの情報として生々しさに欠けるというものもあった。
 これらに、付加する情報が得られるかという興味だ。

 その情報の元が同じらしいということもあるのかもしれないが、自分が整理したものの少なくとも落とした側の情報を読み違えたものはなさそうだ。その内容において、とりあえず正確であったということのようだ。ただ、渡利の模擬原爆投下地点に想像との違いを確認できた。
 氏は、模擬原爆を投下した方から直接でその地点を訊ねたらしい。そこは、矢張り職業人だなと感心する。
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 さて、その投下地点だが、駅の南側を狙って投下しているらしいのだ。想像では、目標の二つの工場のどちらか、あるいは両方をイメージしていたので、少なくとも駅の北側をイメージしていたので、想像とは大きくずれたと感じた。
 7月20日午前8時13分ごろ、最初の一発が、新潟県長岡市の信濃川近くの畑に投下される。そして、午前8時34分に二発目が、福島市に投下されるのだが、その投下地点が福島駅の南側で、渡利沼ノ町に着弾する。位置関係は、左図のようだ。
 これが、今回得た情報で修正したいことの一つ。
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by shingen1948 | 2012-10-28 05:20 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 裏磐梯湖沼群の水利と東京電力㈱のかかわりを視点に「秋元発電所」を整理した。しかし、散策の中でここにたどり着くのは、「中国人殉難烈士慰霊碑」に出逢ったことが出発点だった。気になったのは、この頃に「福島と戦争」にかかわって整理していたことがかかわるのかもしれない。
 整理がまだだったのは、その確認も中途のままだったからだ。その状況は変わらないのだが、今回「秋元発電所」を整理したこととのかかわりで、「中国人殉難烈士慰霊碑」を整理しておく。
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 この碑は、半沢氏の「歴史地図」の「猪苗代周辺」のメモと案内板によれば、次のようなことのようだ。

 先の第2次大戦末期には、全国的には4万人の中国人がむりやり連れてこられて働かされている。 福島県でも中国人労働者が、主として会津地方の水力発電所建設現場で働かされ、飢えや寒さによる病気などのため25名が亡くなられている。全国合わせると6805名の中国人の方が亡くなられているという。

 この碑は、この事実を知る福島県内の日中友好関係が、戦後の1965年に広く民間に呼びかけ、1970年に建立されたその追悼のための碑ということのようだ。

 この慰霊碑が建つのは、沼の倉発電所建設工事に携わった方の飯場だった所らしい。この県道を挟んだところには、この発電所の建設に関わる1947年建立の慰霊碑があるという。
 メモによれば、1944年、15年戦争の時、1000人以上の朝鮮人と712人の中国人が、無理やり連れてこられて、発電所を造るための水路工事をさせられたとのこと。ろくな食べ物も無く、着るものも無くひどい寒さの中で、朝鮮人32人、中国人11人が死んだという。

 会津に来る機会に、これら「沼の倉発電所」そして、これらの碑をゆっくりと確認してその視野を広げていきたいと思っている。これらの感覚の延長に、ぼんやり眺めている裏磐梯湖沼群の風景があるのだと思えている。

 電力供給の恩恵を受ける関東圏の方々にとっては、単なるその供給源でしかないのだろうが、これらの経緯があり、その延長に、会津を代表する風景の一つ裏磐梯湖沼群の風景とかかわっている。
 東京電力の発電所を主体とした水管理が、この風景全体を考慮している成果が、裏磐梯湖沼群の風景であるということにも実感を持ちたいと思っている。
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by shingen1948 | 2011-11-28 05:35 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 福島が模擬原爆(パンプキン)を投下された一つの地点であることは分かっていた。しかし、その模擬原爆は、模擬の爆弾ではないということは知らなかった。ここで亡くなられた方は、投下された爆弾に当たってしまわれた方というイメージだった。ところが、戦争展で、この爆弾は4.5tもの火薬を詰めた超大型爆弾であったということを知った。
 練習というイメージと超大型爆弾というイメージが不釣り合いに感じて、気軽に確認しようとしても、なかなか資料が見つからなかった。確認に長引いてしまった。

 この模擬原爆(パンプキン)の投下は、広島・長崎につながっていく。
 自分にとっては、思いもかけない所でその長崎に出会う。古関裕二記念館だ。
 「長崎の鐘」が、古関裕二氏の作品であることは知っていた。しかし、古関裕二氏と戦争ということで自分が持つイメージは、行進曲そして軍歌だった。その時代に合わせた生き方を賛美することに違和感を持っていたところがあった。それで、この記念館に入ることに躊躇するところがあった。
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 立ち寄ったのは、近くに用事があって、そこから歩かなくてはならないはめになったことだ。たまたま入ってみたということだった。
 そこに、永井博士から送られたという展示物が飾られているのを見た。
 記念館全体は自分の持つイメージのままなのだが、そのごく一部の空間に「福島の『そして、長崎』」を感じてしまった。

 飾られた永井博士からの手紙を読み、視写してみる。博士が病床で編んで送ったというロザリオを見る。永井隆記念館から送られたという浦上天主堂「アンジェラスの鐘」の鐘拓に、博士の言葉が入る色紙を読む。
 飾られた年表の経歴を確かめると、慰問と軍歌が並ぶ中、昭和24年40歳「長崎の鐘」。

 そこで、「長崎の鐘」を聞く。氏の音楽性と結びつけて考えようとしていた。
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by shingen1948 | 2010-10-12 05:12 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 新聞報道は、これを軽微に扱いたかったことも伺える。
 「福島市業書」に、渡利に投下された新聞報道の記事が掲載されていた。
 「福島郊外に投弾 水田に大穴・盲爆に市民は奮起 <県警防課発表(正午)>」
 20日午前8時40分頃敵大型と判断せらるる少数機は県内に侵入、県下を行動したる後一部農村に無差別爆撃をしたる後9時33分頃東南部洋上に脱去せり、被害極めて軽微なり<注 被害地は渡利村沼ノ町地内>

 掲載されている記事によると、午前8時3分に大型機1機が現れたようだ。雲の上をしばらく旋回して北東に機首を向けた時に爆弾を1個投下したという。投下後、そのまま北東部から洋上に向かったということのようだ。
 ここでの爆弾の大きさは五百キロとし、その被害は水田約3反歩に大穴をあけた程度とする。
 大きさを五百キロとしているのは、恐らく大型爆弾という当時としての認識であって、故意に小さくしたという事ではなさそうに思う。ただ、その被害は、小さく見せようとする意図が感じられる。
 それは、記事はが「福島市の中心部から2㎞以上も外した」と続け、その被弾地を「山間の水田におちたものとみられ……」とすることからもうかがえる。その結論が、「敵の目的は『帰り際に、驚かせてやれという神経戦』」だ。
 更に、記事は、次のように忠告している。
 知ったかぶりをする人間が出たり 誇大に被害や爆弾の威力をお喋りする者が出やすいが、こんな者こそ敵の神経戦的爆撃に乗ぜられたと云うべきで、われわれはあくまでこの戦訓を好奇心を満足させる道具としてはならぬ。

 今自分がやっているようなことを、やってはいけないということのようだ。戦時中は、こういうことをしないというのが道徳だったという事のようだ。
 人的被害については、紹介されない。逆に、田圃を護るという農魂で、現場に伏せて助かった農民を紹介している。
 落下現場から僅かに3メートルぐらいしか離れない所で田の草を取っていた尾形金市さん(56)菅野文吉さん(40)等は『ナーニ、俺達は泥を被っただけですよ』と至って元気だった。

 記事の全体の意図は、空襲は恐れるに及ばないということだ。爆弾の落下音を聞いたら出来るだけ低く伏せて待避する覚悟があれば、空襲警報中でも田畑は護り通せるという。意図はゆがんでいるが、そこに事実らしきものが散りばめられている。それを拾う。
 ○ この朝、いちはやく警戒警報は発令されたようだ。そんな中で、罹災した地区では田の草取りに忙殺されていたということのようだ。
 ○ 作物の被害は2枚の水田が埋まり(記事の前半では約3反歩の大穴)、付近の10枚ほどの田に吹っ飛んで来た泥塊を被る。
 ○ 投下された瞬間、雨戸を7、8枚いっぺんに開けるような音がした。
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by shingen1948 | 2010-10-11 06:56 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 模擬原爆を投下した情報を収集する執念の活動に感じるものがあった。その情報を基に、福島の空襲罹災情報と照らし合わせて、福島の模擬原爆投下とその被災状況が確認できると思った。
 罹災した側からすれば、どんな目的であるということにかかわらず空襲による被害は被害でしかない。それは戦争体験者としての感覚として当然なことだと思う。この整理の仕方は、一歩引いたところの感覚を意味していると思う。その事は、体験者からすれば興味本位ととられるかもしれない。しかし、この一歩引いて整理することで見えてくることもある。その一つが、模擬原爆投下の判断の軽さであり、それが戦争の愚かさの思いを深めてくれた。
 もう一つは、地道に罹災記録を残そうとする活動の大切さだ。新しい情報で見方が変わった時に、見直す資料はそれらの資料しかないということだ。
 地道に罹災情報を記録に残そうとする地道に努力する組織や人の存在は、ペーパーで確認していく中で特に感じることができる。それらの活動は、その地域の独自性を持ったものになっている。
平の資料を確認して行く中で感じたのは、実際の被害状況とか被害者についてできるだけ具体的に記録に留めようとする意識だ。
 新しく戦争にかかわる手記を集める活動をしている「いわき地区学會出版部」という組織的な活動に出会ったり、各空爆で亡くなられた方のデータが市史というどちらかというと古くて公的な記録に発見したりする。
 それで、模擬原爆(パンプキン)投下による平第一国民学校の被弾状況も、具体的に描写されているだけでなく、亡くなった方の状況も詳しく知ることができる。

 郡山の資料を確認していく中で感じたのは、各空襲の公式なデータを駆使して記録を構成していこうとする意識だ。後で分かったのだが、「近代福島と戦争(大内寛隆著)」によると、郡山には東北軍司令部陸軍直轄の「郡山防空監視隊」があって、中通り14ケ所に監視哨が設けられていたということだ。そこには青年の男子隊と未成年の女子隊が勤務し、来襲する敵機の監視と本部への通報を行ったという。
 これらの有利な状況を記録に残すということに上手に結び付けているのかなと勝手に思う。
 なお、情報元として1997年8月広報『こおりやま』としていたので、これを確認しようとしたら、広報『こおりやま』は、ここ2年分しか確認できない。現時点では孫引きの状態だ。
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 その中で、福島の空爆の記録の取り組みは、瑞龍寺の爆弾片の保存、そして、その寺を中心とした市民実行委員会の劇化ということのようだ。その出発点は、家族が被害者を供養する気持だったということのようだ。
 この爆弾片だが、ふれあい歴史館にも別の爆弾片が保存されていたようで、最近それも展示されるようになってきたようだ。ただし、こちらはガラスケースに入れられた資料としての展示だ。
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by shingen1948 | 2010-10-10 05:29 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 今まで確認してきた事を少し整理する。
 まず、福島の模擬原爆(パンプキン)投下は、新潟地区の原爆投下目標とかかわっているということだ。その具体的な投下目標として、次の10地点が選定されたことは、先に整理した。
 ○ 郡山地区:照準点参照保土谷化学工業①日本製錬会社(燐生産会社)②操車場郡山③軽工場郡  山
 ○ 福島:照準点参照市街地①軽工場福島②品川製作所
 ○ 長岡地区:①軽工場長岡②津上―安宅製作所
 ○ 富山地区:照準点参照市街地①不二越製鋼 東岩瀬工場②日満アルミニュウム会社富山③日本  曹達会社富山製鋼所

 次に、実施の段階になる。計画の段階では、福島が模擬原爆(パンプキン)投下とかかわりは福島と郡山の2地区だった。福島が2か所、郡山が3か所の具体目標だった。
 しかし、実際の投下になると、ここに平地区が加わる。それは、目標の変更があるからだ。それも実施している中で変更が決まるらしい。計画目標に投下できないと「第二目標」に投下し、突然登場する「臨機目標」などというものもあって、それで平にも投下されたということだ。

 新潟地区で福島の投下予定とかかわって実施段階で投下された地区も含めて模擬原爆(パンプキン)が投下されたところを整理すると、こんな感じだろうか。〇の中の数字は投下個数。
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 新潟地区の原爆投下目標地区内では、実施の段階で、其々の目標が計画の変更でつながる。
 そういう視点で見ると、福島地区、郡山地区、長岡地区への投下予定が、実施段階でそれぞれの目標が絡み合う。かかわりなく、突然の投下が、平・北茨城大津・保谷・八重洲への投下で、この事については、先にふれている。
 富山の投下と福島の投下はからまなかったようだ。

 確認を通して感じるのは、投下する側の計画の変更の決断の軽さだ。当たったかどうか判定が簡単なものが雲間から見えたら、それは目標になるという感じだ。そして、目標物に当たれば優秀、外れて被災が小さければ貧弱でしかない。
 被弾した側からすれば、重い決断であってほしいと思う。
 例えば、平第一国民学校へ被弾したのは、工場と見間違えたのではという考察を見る。
 ところが、実際は工業地帯の一角というのは、投下する名目でしかなさそうだ。あとは、命中を確認するための大きな建物であればいいということだったと思われる。それが学校だとか、近くに民家があるなどという意識はありそうもない。
 投下した側の感覚と被弾した側の感覚のずれのように思う。

 被災にかかわっては、体験談や実際の調査記録より公式記録や報道記録は小さいとのことだ。具体的には、郡山の軽工場と渡利の被害は微細とされているが、郡山の軽工場で15名、渡利では1名死亡者が出ている。これは新聞報道も同じようだ。
 こういうことが、表には現れない戦争の一側面なのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2010-10-09 06:24 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 空襲のイメージは、何百機もの飛行機が編隊を組んでやってきて、焼夷弾の雨を降らせていく中で、いくつもの爆弾を投下するというものだ。これに対して、模擬原爆(パンプキン)投下の空爆は、単機あるいは少数機のB-29がやってきて、1個の巨弾を投下して去っていくという独特のものであったようだということは、先に確認した。
 この形の違いは、目的の違いでもあることを確認したい。この第二の空襲は、アメリカが正確に原爆を落とす練習のためであり、戦争に勝つための空襲とはその目的が違うということだ。

 郡山では数回の空襲があり、そのどちらの目的の空襲も受けているということだ。その中で、多く語られる郡山空襲は1945年4月12日の初空襲のようだ。確かに罹災状況は悲惨なようだ。
 この初空襲の罹災は、死者だけとってみても460人といわれている。遺体は、戸板に乗せて運ばれたといわれている。
 その内訳は、保土ヶ谷化学工場(204人)、日東紡績富久山工場(92人)、東北振興アルミ工場(47人)、浜津鉄工場(4人)、郡山駅(11人)、方八町(7人)、横塚(22人)、市内(5人)、航空隊(5人)、不明(33人)とのことだ。不明者のうち、勤労動員で保土ヶ谷化学工場で働いていた白河高等女学校(現在の白河旭高校14人、郡山商業学校(郡山商業高校)6人、安積中学校(安積高校)5人名、安積高等女学校(安積黎明高校)1人の計26人が死亡したという。住宅焼失・倒壊500戸以上。
 別情報で、11時15分から1時間に渡り保土ヶ谷化学工場と日東紡績富久山工場二つの工場を襲撃。全体で死者504名、負傷者1000名というのもみるが、多くは上記のような被害状況を記録する。
 この空爆では、投下されるのは爆弾だけでない。焼夷弾なども落とされていて、郡山駅前は焼野原だったというような別の被害描写も見る。生々しい悲惨な情景描写もみる。
 富久山工場では、ヘルメットをかぶっていた首が飛んだり、軍靴を履いたままの足が飛んでいたりしたとか、爆風で飛ばされた死体がごろごろと散らばっていたとか、……。

 郡山市史の「郡山空襲の記録」では、次のように記録する。
  
 昭和20年4月12日 午前9時5分警戒警報あり。
   情報「関東東北より進入せる敵機は福島県南方洋上北進中なり」。
   二報「敵機は福島県東方洋上旋回中なり」
   三報「敵機は東方へ脱去せり」
   午前9時55分警戒警報解除せり。
   午前11時20分警戒警報発令。
   同11時25分空襲警報、同時に敵機北方より9機郡山上空に進入、爆弾数発。
   保土ヶ谷工場へ投下せり。
    約5分後、東方より11機、13機、9機、13機、9機、13機、11機と7回に
    わたる、梯団式5分置き進入。富久山工場、アルミ工場、保土ヶ谷工場を爆撃、
    及び北町付近、方八町、横塚を爆撃焦土と化し、戸数約150戸以内。
    敵機延べ数百三十六機なり。
    郡山市への初空襲のため市民多数の被害あり。
    軍隊及び付近の警防団、須賀川、三春、本宮、福島より応援を受け、午後四時
    頃鎮火せり。郡山上空進入合計十三回なり。鉄道貨物ホームにも被害あり。
    記載者・小川知次(郡山自動車学校・故小川欽一氏(元郡山消防団団長)の厳父)

 先に見た二つの分団記録は以下のように記録する。
 第一分団
 △ 4月12日の空襲=豊田村から借り入れ中のポンプ車で延焼中の保土ヶ谷工場へ出動したが、途中東橋付近が通行不能の状態で後退。東橋下で延焼中の民家の消火活動に取り掛かったが、B29の再襲来で待避。
 第ニ分団
 △ 4月12日の空襲=駅前一帯が爆撃により火災。この消火に当たる。
 空襲の最後まで班長が交代で火の見櫓(現在の駅前部詰所)の上で警鐘を乱打し続けた。

 この日、近くの本宮町でも、製糸工場のグンゼが爆撃を受けている。爆死したのが、約500名という情報もある。

 確かに第一の目的の空襲は悲惨だ。
 そのために、比較的軽微な被害である第二の目的の空襲は、その陰に隠れている。けれども、たかが練習の為に何故殺されなければならなかったのかという無念さが残るという別質の被害だ。第一の空襲と同等に着目していくべきではないということを確認したかった。勿論、命の重さは同じだということもある。
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by shingen1948 | 2010-10-08 05:04 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)