地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 福島と戦争( 128 )

 西蓮寺の碑に刻まれる「兵戈無用」が恒久平和を祈る言葉であり、信氏が涙した祈りを忘れてはならないと建立されたということだ。
 その石碑の礎石に「学徒出陣された長谷川信氏(西蓮寺門徒)のこえ」として昭和19年4月20日の日記から「明日から食堂にいって食卓に坐る時、お念佛しようと思ふ。あのいやな目付きを自分もしてゐると思ったらゾーッとする。眼を閉って、お念佛をしようと思う。」が刻まれる。

 その日の日記の全文を確認する。
 急に梁川が読みたくなった。
 彌陀の誓願不可思議にたすけまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心。
 単純なるもの、は美しい
 素朴なるもの、は美しい
 純真なるもの、は美しい
 おおらかなるもの、は美しい
 編上靴の配給を受くる時、自分の飯をもらふ時、腹が減って飯を前にした時、人間の姿や表情は一変する。
 明日から食堂にいって食卓に坐る時、お念佛しようと思ふ。あのいやな目付きを自分もしてゐると思ったらゾーッとする。眼を閉って、お念佛をしようと思う。

 先に「学徒出陣された長谷川信氏(西蓮寺門徒)のこえ」として昭和20年1月18日の日記から抜粋した言葉も刻まれることを記したところだが、【朝日新聞】コラム「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅)」(2016/7/7)が、戦争を憎悪し、軍隊を嫌悪した言葉として紹介するのは、そのまた後半の次の部分だ。
 今次の戦争には最早正義云々の問題はなくただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。恐ろしき哉、浅ましき哉人類よ、猿の親類よ。

 その日の日記全文を確認する。
 歩兵将校で長らく中シナの作戦に転戦したかたの話を聞く。女の兵隊や、捕虜の殺し方、それはむごいとか残忍とかそんな言葉じゃ言い表わせないほどのものだ。
 俺は航空隊に転科したことに、ひとつのほっとした安堵を感じる。つまるところは同じかも知れないが、直接に手をかけてそれを行わなくてもよい、ということだ。
 人間の獣性というか、そんなものの深く深く人間性の中に根を張っていることをしみじみと思う。人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。敵対しあう民族は各々その滅亡まで戦をやめることはないであろう。
 怖ろしきかな、あさましきかな、人類よ、猿の親戚よ。
 「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅)」(2016/7/7)にこんな記載も残ると紹介される次の文については、まだ確認ができていない。
 「過去において身につけた筈のインテレクト(知性)は一体どこに影をひそめてしまったのであろうか。そこにあるものは喧騒と食べ物の話のみ」
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by shingen1948 | 2017-05-17 09:53 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 会津の人々が、会津の「わたつみのこえ」をどう聞いたかということで、御両親、親友、恩師について確認してきたが、それらは相互に影響し合っていることが分かる。
 その間に発行される週刊誌、新聞の記事、それに信氏の母校明治の百年史の発刊なども影響し合っている。
 その「明治学院百年史」が発刊については「会津の『わたつみのこえ』を聞く⑥」から「会津の『わたつみのこえ』を聞く⑨」に整理しているが、これが昭和52年(1977)だ。
 「明治学院大学の戦争責任への取り組みと平和教育をめぐって」によれば、これには「朝日新聞」夕刊が肯定的に反応しているとのこだ。

 その後の会津の人々が会津の「わたつみのこえ」をどう聞いたかということで確認できるのが、信氏の菩提寺だ。
 「朝日新聞」のザコラム「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅2016/7/7)」に、平成14年に、長谷川家の菩提寺である西蓮寺住職が「兵戈無用」の石碑を建てたことがふれられている。
 「Web東京荏原都市物語資料館」で、その石碑の概要が確認できる。
 その石碑の礎石に「学徒出陣された長谷川信氏(西蓮寺門徒)のこえ」とあって、「きけわだつみのこえ(日本戦没学生の手記から 東京大学出版会発行)」に収められている日記の一節が記される。
 [昭和19年4月20日]
  明日から食堂にいって
 食卓に坐る時、お念佛しようと思ふ。あのいや
 な目付きを自分もしてゐると思ったらゾーッとする。
 眼を閉って、お念佛をしよう
 と思う。
 [昭和20年1月18日]
  人間の獣性といふか、
 そんなものの深く深く
 人間性の中に根を張っ
 てゐることを沁々と思ふ。
 (人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ)
  今次の戦争には最早
 正義云々の問題はなく
 ただただ民族間の憎悪の
 爆発あるのみだ。
 敵対し合う民族は
 各々その滅亡まで戦を
 止めることはないであろう。
 恐ろしき哉、浅ましき哉
 人類よ、猿の親類よ。
      ―抜粋―
 氏は昭和20年4月、特攻隊員として沖縄沖にて戦死、享年23歳
 21世紀第1年12月西蓮寺20世利(?)之

 「Web東京荏原都市物語資料館」では、それとなく18日とされる手記は、20日の手記の最末尾の部分であり、()部分が中略されていることを思わせる紹介になっている。
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by shingen1948 | 2017-05-15 09:56 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 会津の人々は、会津の「わたつみのこえ」をどう聞いたかということで、まずは御両親について整理したが、次に確認できるのが、親友の浅野恒氏。
 この方については、先に「会津の「わたつみのこえ」を聞く⑲」で整理している。

 ご自身が神への献身を決意して日本聖書神学校に学んで牧師になられるのも、この日記を読んで受けた大きな衝撃が一つの契機になっていたと思われるということだった。
 そして、この方が日本聖書神学校の神学生であった昭和23年の戦没学徒兵の遺稿の募集に、信の日記を写しとって応募したということだ。

 当然、長谷川家に頻繁に接触しているはずで、母シゲさんがひどく取り乱していることも、父敬治さんが、信が送って来た日記に読みふけっていたことも目にしていただろうと想像する。
 母親のシゲさんも、信氏の親友である彼に気を許し、松本の温泉で宿の方から聞いたお話も繰り返し繰り返しとめどなく話したのではないのだろうか。
 また、ご両親の念願でもあった湖畔戸ノ口のゆかりの場所に、日記の一節を刻み込んだ石碑を建立しようということにも協力しているだろうし、建立された石碑も訪ねているだろうと思う。
 
 そんな背景があって、彼は信氏の日記を写しとって応募したのだろうと想像する。
 その戦没学生の手記第一集「きけ わだつみのこえ【岩波書店】」が出版されるのが、昭和24年10月とのことだ。

 更に、「会津の「わたつみのこえ」を聞く⑤」で整理した信氏の会津高時の恩師小林貞治先生とその奥様が確認できる。
 信氏が会津中学に入学した昭和10年(1935)当時、小林先生は26歳。信氏が出撃前に訪ねて来たのが昭和20年(1945)で36歳。
 昭和40年(1965)に「会高通史」に、「『戸ノ口』にまつわる悲話一つ(小林貞治)」出筆するのが相馬高校校長時代。その夫人は、信氏の小学校の恩師とのことだが、この方が「湖畔の碑」が「短歌研究」に佳作入選するのが昭和43年(1968)。

 なお、親友の浅野恒氏が戦没学生の手記第一集「きけ わだつみのこえ【岩波書店】」に応募し、出版された後、この「会高通史」に恩師小林貞治先生が「『戸ノ口』にまつわる悲話一つ」を出筆する間の昭和34年には、特集「戦争に失われた学徒兵の青春」の記事が載った「週刊現代」が出版されている。
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by shingen1948 | 2017-05-14 06:43 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 これから、会津の人々は、会津の「わたつみのこえ」をどう聞いたかを整理していく。

 まずは、御両親。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」によると、長谷川信氏の戦死の公報が届き、年老いた両親は日記に書き残してあった「猪苗代湖畔に石碑を」を何としても実現しなくてはと思」ったとある。

 「明治学院百年史」では、その前に、信氏の戦死の公報が届いて、その思いに至るようになるまでの心情についても紹介する。
 母シゲはそれまでに人に見せたことのない程ひどく取り乱した、という。すでに70歳に近い老人になっていた父敬治は、信が送って来た日記に読みふけった。この両親の、信に対する愛惜の念は日とともにつのる一方だった。

 「猪苗代湖畔に石碑を」の遺言ともとれる記述は、5月16日の日記のようだ。
 「死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらはうと思う。」(S)

 「明治学院百年史」では、「死との対決」として、その心情にかかわる前後の日記も紹介する。
 5月23日
 「母より送って来た梁川集とハルナックの「キリスト教の本質」(ともに岩波文庫)は〇〇〇〇により取り上げ。こんな所で何が深刻なる反省であり、何が修養であるか。」(K)
 5月24日
 「あと、死ぬまでに俺の心はどこまで荒らんでいくことか。日本民族は果たして。」(K)
 5月25日
 「猪苗代湖、戸ノ口の静かな夕方。薄く霞のかかった鏡面のような湖、あの静かな喜びを、Fと分かちあひたかった。」(S)

 長谷川信氏の遺言を実現したいと願うご両親の念願は、昭和21年5月に実現する。
 「明治学院百年史」には、「何もかも乏しい戦後の時代であったが、この両親の切ない心を理解する人々の協力もあって、湖畔戸ノ口のゆかりの場所に、日記の一節を刻み込んだ立派な石碑ができあがった。」と紹介される。

 碑文に刻まれるのは、館林での最後の日に日記に書いた一節。
 「俺は結局、いい加減に凡々と生きて、凡々と死ぬことだらう。だが、俺にもたった一つできる。涙を流して祈ることだ。それが国泰かれか、親安かれか、知らない。祈ることなのだ。」
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by shingen1948 | 2017-05-13 09:32 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会津の『わたつみのこえ』を聞く③」で、地元ならではの情報として妹の件での誤りは先に記した。
 確認しておくと、「妹が満州医大進学希望だった」というのは読み取りの誤りであり、満州医大進学希望は信氏自身だったことだ。このことについては、「会津の『わたつみのこえ』を聞く④」で訂正したところだ。

 もう一つ、地元ならではの情報としたのことがあった。
 幼馴染みの少女の動向だ。
 小学校から同級だった女性Fさんへの思いについては友人達も周知の事とする。その彼女も東京の学校に進学したとのことだ。
 これも地元ならではの情報としていたところだ。

 この部分の「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の紹介を確認しておく。
 前段で、なぜ明治学院を選んだかについては諸説あるとした上で、決定的な理由は彼のいう贖罪としての奉仕の場を明治学院高等部社会事業科に見出したことだとする。
 その上で、諸説について次のように解説する。
 諸説は満州医大を諸般の事情により断念、東京の叔父の養女となった妹が東京の学校に入学したこと、彼と小学校の同級だった女性Fへの思い(これは友人たちにも知られるほどになっていた)、この女性が東京の学校に進学していたことも理由の一つとして忘れてはなるまい。
 この中の「女性Fへの思い」というのが、いろいろ確認していくと、週刊誌ネタだったのではないのか思えて来たところだ。
 日記の原本がないので、その週刊誌の掲げる情報と照らし合わせ、それまでの東京での生活を嫌がっていた信氏が明治学院を選んだ理由の一つになっているとした「明治学院百年史」の記述の紹介だったのかもしれないと思えてきたところだ。
 少なくとも、地元ならではの情報というのは違う可能性が高いので、訂正しておく。

 「女性Fへの思い」についての情報の質についてだが、週刊誌ネタの視点ではあっても日記の表現を精査した上での事であり、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」がいうように、これも一つの成果と見るべきだろうと思う。

 それとの関りで、日記喪失の遺憾な事をもう一つ掲げたい。
 近年「Web東京荏原都市物語資料館」では、出陣の直前に松本の朝倉温泉で学童疎開の児童と武揚隊とが交流したことが分かったらしい。日記の原本、特に出陣近くの辺りの記述を確かめ、長谷川信氏の心情を考察したいところなのではないかと想像する。
 前回は日記喪失についての基本的な遺憾なことを二つ掲げたところだが、今後は事実が判明した時に、こういったことについて日記の記述を確かめるという精査ができなくなったということも遺憾な事だと思う。
 これを三つ目の遺憾な事として整理しておきたい。
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by shingen1948 | 2017-05-12 09:25 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院百年史」では、第4節「軍隊生活における長谷川信の日記」を中心に、その日記の記述の後ろに(S)と(K)のどちらかの記号が付されている。
 最初は気づかなかったのだが、これが「きけわだつみのこえ」で紹介された記述については(K)の符号を付し、「週刊現代」で紹介された記述については(S)の符号が付されて、それの再録であることが記される。それが分かるのは、この冊子の最後に付された各章別注の第6章注3の記載だ。
 いろいろな資料を元にして日記の全体を確認しているということと読み取ればそれまでだが、驚くべきは、原点となる日記に辿り着けないその理由だ。その注には以下のように記される。

  長谷川の日記が、現在行方不明となっていることは遺憾なことである。日記は、戦後彼の両親の 手許にあり、両親の没後は長兄が保管していたが、週刊現代誌に貸し出したあと所在がわからない とのことである。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」に、昭和34年「週刊現代」の特集「戦争に失われた学徒兵の青春」にも信のことが大きく取り上げられたと肯定的に紹介されている。この時に日記は、週刊現代誌に貸し出したままになっているという風に読み取れるということだ。

 「明治学院百年史」によれば、「松本を発進した「武揚隊」の特攻隊は、空襲を避けながら本土各地の基地づたいに移動し、桜の満開の新田原飛行場(宮崎県)に到着、ここで全員最後の身辺整理をすることになった」とある。
 信氏もこの時にこれまで肌身離さずにいた日記を最後の手紙とともに、故郷の両親宛てに投函したという。
 つまりは、遺憾なことは「明治学院百年史」がいうように借りたものが返されていないにとどまらないということだ。この日記は、信氏の両親に宛てた遺書の意味も含まれているということだ。
 ところが、「週刊現代」誌側にとっては、その重みはなく、単なる取材の材料でしかなかったという感覚だったと想像できるということも遺憾なことだと思うのだ。

 自分とはかかわりない事であり、関係者は大人の対応でそのことにはふれないようにしていることではあるようだが、本当にそれでいいのかなという思いもある。
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by shingen1948 | 2017-05-11 09:22 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、長谷川信氏と浅野恒氏の関係を「予科士官学校の親友浅野恒」というふうに表現するが、長谷川信氏は予科士官学校の経歴はない。
 その紹介文の前後の脈絡から、長谷川信氏が、昭和14年春に会津中学休学から復帰し、喜多方中学編入にしようと悩んでいた時期に、浅野恒氏にその悩みを打ち明ける葉書を送ったのだが、その当時、浅野恒氏は予科士官学校に通っていたということのようだ。
 明治学院百年史を確認すると、その葉書が3月29日付のようだ。

 会津中学時代の友人だとすれば、そこから予科士官学校に進学し、職業軍人になられた方ということだろうか。
 「明治学院百年史」によれば、この日記を読んで受けた大きな衝撃が一つの契機となって、神への献身を決意し、軍隊で知り合った羽生慎牧師(明治学院昭和5年卒)の縁をたよって、日本聖書神学校に学び、牧師になられることになったということだ。
 その日本聖書神学校の神学生であった昭和23年に、戦没学徒兵の遺稿の募集を知り、信の日記を写しとって応募したとのことだ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、昭和23年に戦没学徒兵の遺稿を募集することになった経緯を、次のように解説する。
 まず、昭和22年に、東大出身戦没学生の手記集「はるかなる山河」が出版され大きな反響を呼んだということがあるようだ。
 その後、法政大学の小田切秀雄たちが、東大に限らず全国の声を集めようという運動を起こし、これが昭和24年10月出版の戦没学生の手記第一集「きけ わだつみのこえ【岩波書店】」に結実するのだとか。
 この作品募集に、浅野恒氏が信氏の日記を写しとって応募したということのようだ。

 この項では、最後に昭和34年「週刊現代」の特集「戦争に失われた学徒兵の青春」にも信のことが大きく取り上げられたと肯定的に紹介されてしめられている。
 しかし、今まで眺めた別資料では、このために貸し出された日記が戻されることがなかったというとんでもない負の結果を生んでいることを指摘する紹介も見かけている。
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by shingen1948 | 2017-05-10 09:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 世田谷区立東大原小学校同窓会報(平成24年度号)の「学童疎開のころ」の再疎開にかかわる情報で、気になったのはその期日だ。
 昭和19年3月には、浅間温泉も食糧難で再疎開することになり天竜川流域の伊那地方、飯田市の手前の村々へ移ったという情報だ。
 浅間温泉では10か所に分散していたようだが、伊那では5つの村に分かれたという。伊那では食料だけでなく、風呂でも苦労したという。当然普通のお風呂なので、1週間に1度くらいしか入れなくなったという。

 代沢国民学校と「武剋隊」とのかかわりも、東大原国民学校と「武揚隊」とのかかわりも、昭和20年3月頃らしいと思われるのに、この頃には再疎開されているという情報になってしまう。
 その証言内容をよく読んでみると、証言者は学校事務関係者になられた経緯のある方のようだ。ならば、年度で期間を捉えていたのではないかと推定すれば、辻褄があいそうだ。
 つまり、再疎開は、昭和19年3月ではなくて、昭和19年度の3月末という認識だったのではないかという推測だ。
 これなら、昭和20年3月に特攻隊員と交流した疎開児童たちは、その月末には再疎開という事になったということだろうと思うのだ。

 さて、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の返却期間が迫っている。
 こちらに紹介される事の確認を先にしたい。
 その一つは、「明治学院百年史」も、世田谷の疎開児童との交流にしても、と号第31飛行隊の長谷川信少尉が気にかけられるようになるのは、彼の日記が「きけわだつみのこえ」に掲載されているというのが一つの理由になっているのだが、そこに浅野恒という方がかかわっている事が紹介される。このことについて先に確認しておきたい。
 この方は長谷川信氏の親友で、職業軍人になって終戦を迎え、無事帰郷できたとのことだ。故郷に戻って、信氏の学徒出陣特攻死を知って大きな衝撃を受けたという。
 その浅野氏が、昭和23年戦没学徒兵の遺稿募集を知り、信氏の日記を写し取って応募して、「きけわだつみのこえ」に収められることになったということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-05-09 13:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 信氏の母親シゲさんが基地を訪ねたことについて、「会津の「わたつみのこえ」を聞く③」では次のように整理している。
 母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いて戻って来たという。

 実は、参考にした「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」も「明治学院百年史」も、宿の人の話は、次のようだったとの紹介になっている。
 結局会うことは叶わず、泊まった宿の人から「他の飛行隊員が酒と女で楽しんでいる間も、彼は静かにひとり近所の子供たちを相手に遊んでやっていた」という話を聞いたとのことである。
 まだ確認はしていないが、その情報源は「会高通史」であろうと思われる。
 昭和40年に刊行されたこの冊子に、信氏の恩師小林貞治氏が、「戸ノ口」にまつわる悲話一つ」という一文があって、信氏の思い出と湖畔の碑の由来が記されているということだ。

 今までの「Web東京荏原都市物語資料館」の情報確認から見えてくるのは、信氏が疎開児童と優しく接していたらしいということだ。
 この情報と照らし合わせると、「彼は静かにひとり近所の子供たちを相手に遊んでやっていた」という部分から、母親にはそのことが伝わっていたらしいことが分かる。
 遊び相手が近所の子になっているのは、ここに疎開児童がいることを知らない会津の方々の聞き違いと想像する。

 この話の引用に抵抗があるのは、「他の飛行隊員が酒と女で楽しんでいる間も」という前ふりの部分だ。
 次の記事の疎開児童秋元佳子さんの証言部分と照らし合わせてみる。

 「ヤマモトさんという方が隊長でした。下の学年の子が、遊んでくれるものと思って、『勉強なんかしないで遊ぼうよ』と寄って行ったら、『こんな非常時にとんでもないことを言う』といってその子に平手打ちを食わせたことがありましたね。」
 武揚隊の山本薫中尉である。子どもたちに情が移るからあまり親しくするなと長谷川少尉には言っていたようだ。
 「山本さんは、隊長らしく武骨な人で、ごつごつした身体つきをしていました。長谷川さんには、優しい雰囲気がありましたね。なまりがなかったですね。海老根さんは、ズーズー弁でした」

 疎開児童の証言からは他の隊員の前ふりの部分が事実とは思えない。
 想像するに、これは会津の地域を意識する表現者が、信氏が疎開児童と優しく接していたという部分と対比した強調の効果を狙ったものではないのかなと想像する。
 地域の狭い範囲での情報としては、地域にとって中心となる事柄にだけ目が行くだけなので問題はないが、他の地域の情報と照らし合わせる場合は、それでは済まされない場合もあるのではないのかなと思うのだ。
 少なくとも、そうであったのかどうかの確認をとる必要はありそうに思えたということだ。

 ただ、母親は実際に宿で話を聞いているのだから、他の隊員の様子も含めてその生き様をきちんと感じとっていたのだろうことは想像に難くない。

 以下は、疎開児童秋元佳子さんの次の証言部分だ。

 「この写真を見て思い出したことがあるんですよ。ほら、飛行機の操縦士というのは首に白いマフラーを巻いているでしょう。いつでしたか、長谷川さんが部屋に来られたときにそれを巻いているんですよ。その隅っこの方に赤い糸が見えたので見せてもらうと、『長谷川』と刺繍がしてあったんですよ。『母親が縫ってくれたんだ』と恥ずかしそうに言っていましたね……長谷川さんがわたしたちの部屋にこられるときはどてら姿でしたね。それでも一度ですが、飛行服を着たままで来られたときがありましたね。いつもとは違って見違えるようでした。」

 このマフラーの隅に赤い糸で「長谷川」と刺繍してもらったのは、最後の帰省の時だったのだろうかなどと勝手に想像する。

 不思議なもので、写真を見ていると、だんだんに思い出されくるものがあります。よく遊んでもらいましたよ。桜ヶ丘の川が凍っているところへ行って、スケートをしました。わたしたちはゲタを履いて、長谷川さんは軍靴を掃いておられましたね。ああ、そういえば、そうそう、こんなことがありました……

 母親は宿の人の話から、こんな疎開児童の証言に近い雰囲気を正しく感じ取っていたのではないのかなと想像する。
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by shingen1948 | 2017-05-07 10:09 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 極秘の部分もあって松本飛行場と浅間温泉が特攻の出撃基地となっていたことは、あまり知られていないという。
 しかし、ここは沖縄決戦に備えた後方支援基地となっていたようで、昭和20年3月を中心に児童の疎開先の旅館には数多くの航空兵がいたという状況が読み取れる。
 そして、ここ浅間温泉では、その疎開児童と特攻隊員の間には、哀しくも温かい人間の交流があった事ということのようだ。当然、こちらもあまり知られていなかったということだ。
 地域を散策する者としては、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記にあるように、心に刻んでおきたい事である。

 「Web東京荏原都市物語資料館」から、信氏の所属する「武揚隊」の浅間温泉での情報を探す。 「会津の「わたつみのこえ」を聞く③」で整理したように、昭和20年3月初旬、両親は何となくただならぬ雰囲気を感じて、母母シゲさんは、基地まで後を追っている。結局、会うことはできずに宿の方から生活の様子の話を聞いても戻って来たということだった。
 その時に宿の方が話されたことや母親が感じた宿の空気感のようなものを探りたい気がするのだ。

 「下北沢X新聞(1668)~武揚隊、一特攻兵士の行方再び4~」という明治学院を訪ねる記事の中に、疎開児童から聞いた「ハセガワ」と「きけわだつみのこえの武揚隊長谷川信少尉が同じ方かを確かめる部分がある。この辺りの記事に、浅間温泉での武揚隊の特攻隊員と疎開児童との交流が分かる情報がちりばめられる。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51700705.html

 まず、「松本浅間温泉の富貴の湯に特攻隊、武揚隊は宿泊していた。往事、ここには東大原国民学校の学童が疎開している。その一人から「ハセガワ」という隊員のことを聞いていた。彼は子どもたちには深い印象を残していた」とある。
 次に、この疎開児童に「わだつみのこえ記念館」の長谷川信氏の写真を送って確かめることが記されるが、その疎開児童を「疎開学童だった秋元さん」と表現しいる。

 秋元さんの話はメモに基づいてまとめたものであると断りながら、次のように記される。

 「わたしたちは、旅館の二階の小部屋にいました。みなとても懐いていました。当時、国民学校五年生、みんな子どもですよね。だけど人によってませていたり、そうでなかったりってあるでしょう。この写真が来てから思い出すことがあったのですよ。Sさんという方で確かこの長谷川さんの写真を持っていたはずですよ。それで電話をかけたんですよ。経堂に住んでおられて前に行ったこともあります。そしたら、今取り込み中だと言われたんですよ。病院に入っていて危ないみたいなことを言っておられましたね…」
 「このSさんという人、長谷川さんを好きだったんですよ。前に言っておられましたね。長谷川さんが初恋の人だっていうことを……」

 次の記事では、疎開児童は秋元佳子さんになっている。
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by shingen1948 | 2017-05-06 09:21 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)