地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 福島と戦争( 102 )

 「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」は、自分にとっては衝撃的であり、状況を客観視できなくなっている。
 明治学院の戦時下の歴史を振り返り、個人名を挙げて負の歴史を清算することまでは、その状況についていける。
 戦後になって過去を振り返ってみれば、批判された方にとっても時代に流されてしまった行為について反省することも多々あるだろう。それを、明確にしておくべきだという主張は受け入れやすいだろうとも思う。

 自分にとって衝撃的だったのは、以下の戦後責任の告白部分のようだ。
 しかしながら、戦後においても反省と謝罪が公になされなかったばかりか、こうした侵略戦争で亡くなった日本の戦死者を「英霊」(ひいでた霊魂)としてまつろうとする「英霊」思想は明治学院からも消え去りはしませんでした。
 明治学院の理事者、明治学院の「建学の精神」を保持する主体者としての理事会の中の一人である田上穣治氏が、公権力の「英霊」参拝を積極的に推奨してきたのです。それは、戦時下に富田氏らが犯していた誤りと全く同種の罪―死者を神ととしてあがめる「偶像崇拝」という、「聖書」に自己啓示されている私どもの主なる神が最も忌み嫌うその罪―が、明治学院との関係において戦後も引き継がれてきていた証左の一つなのです。

 恐らく、批判される方は、戦争責任を告白し清算するその当時の指導者にとって、よく知る諸先輩に当たる方々であるはずで、その指導を直接的に受けていたかもしれない状況下での告白ということでもあると思うのだ。
 そこまでの決意を感じるのだ。

 そして、自分にとって衝撃的だったこの告白は、戦時下で出征せざるを得なかった長谷川信氏の苦悩と「天皇の国」からの内面的自立の気概を持った生き方との対峙から導き出されているように思われることだ。

 とりあえず、「明治学院百年史」の第6章だけでは感じなかったこの決意が背景にあることを理解したとして先に進むことにする。
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by shingen1948 | 2017-04-28 09:56 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院大学の戦争責任への取り組みと平和教育をめぐって」によれば、「明治学院百年史」は、95年に明治学院としての戦争協力について清算する試みの一つとして位置づけられたとのことだ。
 「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」という負の歴史の清算と共に、明治学院の中に別の志を貫いた学生がいた事を記憶にとどめるべきだということで、「明治学院百年史」の第6章で長谷川信氏が取り上げられたということのようだ。
 その趣旨の一つは、長谷川信氏の文章はいろんな人がいろんなところで引用するように、非常に はっきりした戦争や軍隊に対する批判というものが描かれていること。
 そしてもう一つが、その長谷川信という人は、明治学院の校風というものを非常に喜んでいたということだ。
 これを、明治学院側から見れば、こういう人を教育していた、あるいは生み出したという側面があるということになるということだ。
 その一方で、そういうすぐれた学生をむざむざ学徒兵として戦地に送らなければならなかったという明治学院の非常に痛ましい経験でもあるということでもある。
 この学徒兵を取り上げることによって、こういった事をある程度伝えられるのではないかと判断したということのようだ。

 負の歴史の清算である「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」の方を確かめる。
 こちらは、明治学院学院長中山弘正名で、戦争責任を個人名まで挙げて「悲惨をもたらした日本の国家的犯罪に組み込まれていた事実は否定すべくもありません」として告白する。かなり厳しい。
 そして、「そうした状況下で、侵略戦争に加担させられ、学徒兵として出陣していった多くの当時の学生たちのことを想うと、教師として、学院長として深い悲しみを覚えざるを得ないのです。また、朝鮮・台湾などからの学生たちをも含みつつ多くの若者を戦地に送った当時の教師たちの苦悩の深さに思いを馳せる次第です」と結ぶ。

 戦争責任の告白は、ここで終わらない。
 敗戦後の指導者たちの戦後責任についても、次のように告白され、謝罪される。ここでも、個人名と具体的な誤りが記される。
 少なくとも、「敗戦」という主の審判が下ったところで学院指導者たちのなされるべきだったのではないでしょうか。
 しかしながら、戦後においても反省と謝罪が公になされなかったばかりか、こうした侵略戦争で亡くなった日本の戦死者を「英霊」(ひいでた霊魂)としてまつろうとする「英霊」思想は明治学院からも消え去りはしませんでした。

 そして、この謝罪すべきことと対比する形で長谷川信氏が、次のように紹介される。
 とはいえ、敗戦五〇周年の今日、明治学院の戦時下の歴史を振り返って、長谷川信氏のような良心的な学生がいたことに私どもは希望の光を見出します。出征せざるを得なかった長谷川氏の苦悩と、「天皇の国」から内面的自立の気概とは、イエス・キリストのみに土台を据えた明治学院の今後の歩みへの指針を示唆していると思われます。私は、彼のような生き方を貫こうとして悩んだ学生が少なくなかったのだと信じたいです。
 二十一世紀を展望し、建学の精神を再確認しつつ、前進しようとする明治学院は、富田・矢野両氏らのとった「広い路」ではなく、当時学生であった長谷川氏の「狭い路」をこそたどらねばならないでありましょう。

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by shingen1948 | 2017-04-26 18:41 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院百年史」は、第5章の「昭和前期の明治学院」までは、明治学院の創世記からの時代区分で整理されている。
 それが、第6章からは以下のように、社会状況と学校とのかかわりについて整理されるように構成されている。学校が戦争とどうかかわったかという視点で整理されていることが分かる。
 
 第6章「学徒出陣と明治学院」
 第7章「戦後の明治学院」
 第8章「高度成長期の明治学院」
 第9章「明治学院教育の現況」

 そして、その第6章「学徒出陣と明治学院」は、以下のように、40ページにわたって、全て学徒兵長谷川信氏個人にかかわる内容で構成されている。

 その第1節が、「学徒出陣―学徒兵・長谷川信」
 その第2節が、「長谷川信の精神的遍歴」
 その第3節が、「明治学院時代の長谷川信」
 その第4節が、「軍隊生活における長谷川信の日記」

 その第1節「学徒出陣―学徒兵・長谷川信」は、次のように締められる。

 戦争の時代に学院の門をくぐり、学業なかばにして銃をとり、特攻隊員となって戦死をとげた長谷川信の短い一生は、そのまま学院百年の歴史の中の最も痛ましい一ページをなすものである。以下、そのようなかれの人生の歩みの跡をやや詳しくたどってみることにする。


 そして、その第4節「軍隊生活における長谷川信の日記」を次のように締めくくる。

 みずから肯定することができなかった戦争のために、その命をすてざるをえなかった。それは、単に長谷川信ひとりの悲劇ではなく、学院に学び、そして戦場に臨み、死をよぎなくされたすべての者に共通の悲劇であった。この悲劇を二度と繰り返すべきでないことはいうまでもない。と同時に、この悲劇を抜きにして明治学院百年史を論ずることはできないのである。

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by shingen1948 | 2017-04-25 09:46 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 前回整理したように、地元ならではの情報の源は「会高通史」の「『戸ノ口』にまつわる悲話一つ(小林貞治)」であることが分かった。
 それが分かる前、隊に戻る前夜に訪ねたという会津中学校の恩師小林貞治氏の情報の確認を試みている。どんな方なのかという事と共に、何となくこの方が地元の情報とかかわっていそうな気がしたのだ。
 目的からすれば没情報だが、それも整理しておくことにしたのは、その経歴から長谷川信氏とかかわった時代の年代が分かり、その付き合い方の雰囲気が想像しやすいと思ったからだ。

「会津中学」、「英語教師」をキーワードに検索すると、自叙伝「風と雪と」という自叙伝の著者に「小林貞治」の名がみつかった。
 その経歴を確認すると、次のような経歴だ。

 明治42年(1909)栃木県生まれ
 中学卒まで群馬県で過ごす。
 在京3年。
 昭和5年(1930)秋会津中学校に奉職
 昭和32年~34年喜多方高校勤務
 昭和35年から棚倉、須賀川、相馬、会津女子高校長勤務
 昭和46年会津女子高等学校長退職
 杏林高校、専攻科講師、城南スクール講師
 昭和59年自叙伝発刊当時、専修学校城南スクール講師

 城南スクールのページを確認すると、その創業者の「会津高時の恩師で英語の小林貞治先生に三顧の礼でおいでいただきました」という言葉が見つかる。これで、会津高校の英語の先生であった方であることの確認ができた。
 この方が、長谷川信氏が訪ねた方と重なるのだろうと想像する。

 昭和5年会津中学奉職は21歳かな。これを基準に長谷川信氏の経歴と重ねてみる。
 
 信氏が会津中学に入学した昭和10年(1935)4月は、小林先生は26歳だ。長谷川信氏が会津中学在籍中は20代後半の若さだったということが分かる。
 信氏が訪ねて来たのが昭和20年(1945)だから、36歳の頃だ。
 「会高通史」の「『戸ノ口』にまつわる悲話一つ(小林貞治)」が昭和40年(1965)だから、56歳で相馬高校校長時代だろうか。
 夫人の「湖畔の碑」が「短歌研究」に佳作入選するのが、昭和43年(1968)だから59歳頃で、会津女子高等学校校長時代かな。

 なお、この自叙伝「風と雪と」は、会津図書館に所蔵されていることは確認できたが、目次の検索の限りでは、長谷川信氏とのかかわりが記載された様子はなさそうに思う。
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by shingen1948 | 2017-04-24 09:41 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 前回、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」から、地元ならではの情報として整理したものは、「明治学院百年史」にも同じ情報があることが分かった。
 その中で、読み取り間違いもあったので訂正しておく。
 それは、妹が満州医大進学希望と読み取ったのだが、満州医医科大学進学希望は信氏だった。

 当時の進学コースの複線型をよく理解していないための読み取り混乱がある。
 信氏の進学の迷いと実際の進学にかかわる経歴を年代順に箇条書きに確認しておく。
 大正11年4月12日会津若松市に生まれる
 昭和4年小学校入学
 昭和10年4月会津中学入学
 昭和13年4年生の途中で休学する
 昭和14年春復学する
 昭和15年春同志社大学入学するが、直ぐに帰郷。
 ※この頃の友人への便りに、満州医医科大学進学希望が。
 昭和16年春喜多方中学の5年生に編入
 ※この頃松江高校受験も。
 昭和17年喜多方中学卒、明治学院入学

 地元ならではの情報として整理したその情報源は「会高通史」であることが分かった。
 信氏の最後の帰省時、隊に戻る前夜に訪ねた会津中学校の恩師小林貞治氏が、昭和40年に刊行されたこの「会高通史」を執筆した際、「戸ノ口」にまつわる悲話一つ」として、信氏の思い出と湖畔の碑の由来を詳しく記しているという。それが原資料になっているようだ。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の参考文献にも、このローカルな「会高通史」がみえる。
 ということで、「明治学院百年史」にも同じ情報はあるのだが、地元ならではの情報だと感じたことまでは否定する必要はないかなとも思う。

 なお、恩師小林貞治氏の奥様であり、信氏の小学校の恩師でもある敏子さんの短歌「湖畔の碑」10首のうち3首は先に確認したが、気になったので残りの7首も確認した。

 湖(うみ)近き芒の中に君が碑を見出でて佇ちぬ霧深き中
 生と死に分かれてここに二十年碑(いしぶみ)に願つ君がおもかげ
 「わだつみの声」に載りたる君がことば彫りし碑面に雨横しぶく
 君が碑をかこみて高く繁り立つ芒穂群に風渡りゆく
 ゴム長とシャベルを持ちて訪ね来し君の碑の文字雪原に冴ゆ
 雪原に黒く小さく碑は浮かび湖畔の道を今は離りぬ
 駅に君を送ると背負ひし幼児も空に果てにし君が年となる
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by shingen1948 | 2017-04-23 09:30 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 昨日整理の進学先を変える情報は、どちらかと言えば建前の理由付けの部分だ。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、その他の理由も挙げている。
 その一つが、妹の事情との関りだ。
 妹は、満州医大進学希望だったようだ。しかし、諸般の事情で東京の叔父の養女となり、東京の学校に入学したのだとか。諸般の事情という配慮が、地元ならではの情報かもしれない。
 もう一つが、幼馴染の少女の動向との関りだ。
 小学校から同級だった女性Fさんへの思いについては友人達も周知の事とする。その彼女も東京の学校に進学したとのことだ。
 これ等は、地元ならではの情報であり、配慮なのだと思う。

 地元ならではの情報に満ちているは、「最後の帰省」の項だ。
 2月下旬に長野県松本に到着し、1月あまり浅間温泉富貴湯旅館で過ごすことになる経緯については、「Web東京荏原都市物語資料館」で確認しているが、この待機の期間に、当時の例にならって最後の帰省が許されているとのことだ。20年3月初旬とされる。

 信氏は、結婚が決まっていた妹への土産を持って会津若松の実家に帰省するが、隊に戻る前夜に会津中学校の恩師小林貞治氏を訪ねているという。
 英語の先生でボート部顧問でもあったが、その奥さんの敏子さんは、信氏の小学校時代の先生でもあったという事で、親しい関係だったようだ。
 この時に、信氏から特攻隊員として出撃することを打ち明けられたという。両親には知らせないでくれと頼まれ、上官に取り上げられた「歎異抄」の代わりの本を所望されたとのことだ。
両親は何となくただならぬ雰囲気を感じていたようだ。
 父啓治は、この夜は枕を並べて寝たとか、母シゲさんは、信氏が去った後、小林夫妻にしつこく尋ね、口止めされている夫妻を困らせたのだとか。そして、母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いても戻って来たという。

 別の項で、この小林先生の奥様敏子さんが信氏を偲んで作った短歌集「湖畔の碑」10首が、短歌研究(昭和43年9月号)に佳作作品として掲載されたことが紹介されることにつながる。
 そのうちの2首が紹介されている。

 特攻隊にて飛び立つ前の乱れなき
          葉書の文字がわれを泣かしむ

 死ぬる為に君生まれ来しや戦死せる
          幼き面輪に香華はのぼる

 別の資料でもう一首の紹介を見たので、付け加えておく。

 特攻機にて基地発つ君がよこしたる
          最後の文字「シアワセデシタ」
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by shingen1948 | 2017-04-22 09:54 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 長谷川信氏の生家が、「小国屋」という藩時代からの御用達の菓子商であることは、「Web東京荏原都市物語資料館」で知っていた。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)【歴史春秋第78号】」では、「長谷川信のおいたちと進学経緯」で更に詳しく記される。地元情報の強さだ。

 長谷川信氏は、父啓治の後妻シゲには子供が二男二女いたが、その長子だったということだ。先妻ヨネには力、佑、レイの三人の子供がいたという。
 長谷川信氏を可愛がったのは、兄の佑氏だったという。信氏も読書好きで水戸高校から東大に進んだ兄と同じような道を歩きたいと思っていたようだとのこと。
 会津高等学校に入ると直ぐにボート部に入って練習に熱中したことについては先に記した通りだが、4年中途で病気と称して休学し、その後喜多方中学校に転学するらしい。「幾多の事情があって」が、その理由のようだ。
 そこからの進学先だが、明治学院から学徒出陣しているので、最初からそこに進学したと思っていたが、その前に同志社に進学しているらしい。
 キリスト教に基礎を置くリベラルな学校との評判に胸を膨らませての進学だったようだが、現実の学校はその期待に応えられなかったようで、見切りをつけて郷里に戻ってきたという。
 その後、先に整理したように、明治学院厚生科に進み、学徒動員、特攻隊への道を歩むことになることに繋がるようだ。
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by shingen1948 | 2017-04-20 09:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「きけわたつみのこえ」は、第二次世界大戦末期に戦没した、日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集である。
 ここで指す「わたつみ」は「学徒戦没者」であることは分かるのだが、本来の意味は「海の神霊」ということのようだ。
 「わたつみ」の「わた」は海の古語で、「み」は神霊の意とのことらしい。
 皇国史観による旧教育を受けた方は、この言葉にはこの二つの意味が重なってイメージされているらしい。

 今回「会津の『わたつみのこえ』を聞く」としたことだが、これは「きけわたつみのこえ」に福島県の「学徒戦没者」として登場する会津の長谷川信氏の声を、耳を澄まして聞いてみたいと思ったのだ。

 この会津の長谷川信氏を知ったのは、先に「山中 訃報に接して」の整理中だ。
 山中選手が母校にやって来るのは、N先生とのかかわりだったのだが、そのN先生が会津にやって来るのは、会津高校ボート部とかかわると想像した。また、自分の思い出の中には猪苗代の中田浜があるのだが、確認していくと、これも会津高校ボート部がかかわるようだった。
 その確認を進める中で、猪苗代湖に元々練習拠点にしていた場所があることが分かった。その確認を進める中で、そこが長谷川信氏の思い出の地であるという情報を得て、その地が特定できたということがあった。
 これを、「山中毅さんの訃報に接して⑥」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23730970/

 その情報源は「Web東京荏原都市物語資料館」だ。
 学徒出陣した特攻兵士長谷川信氏の故郷である会津若松を訪ねたその「下北沢X新聞(1676) 〜武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて5〜」の記事に、この戸ノ口艇庫についてふれた箇所があったのだ。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51703392.html
 ここで、「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」を孫引きさせていただいたのだが、その部分を再掲する。
 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 この時の整理では、その「会津高校ボート部での練習の思い出の地」の位置が分かればそれでよかったのだが、この時にも「長谷川信 碑」についてふれている。
 整理を始めるにあたって、ここも再掲しておきたい。
a0087378_938834.png 死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらおうと思う。

 この「長谷川信 碑」については、次の「下北沢X新聞(1677) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて6~」に詳しく記される。
 
 長谷川信 碑
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事だろう 
 だがたった一つ出来る涙を流して祈る事だが
 それが国泰かれか親安かれか知らない
 祈ることなのだ
  大正十一年会津若松市に生まれ
  四月十日
  昭和二十年 沖縄南方上空に散る

 石碑に刻まれた4月10日は、彼が生まれた日であり、亡くなった日でもあるとのこと。この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地とのことだ。
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by shingen1948 | 2017-04-19 09:39 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 前回までの整理で、客観的な被害情報は確認できても、生の声が伴った情報に接するのはなかなか難しいと感じた。戦争体験者に接することはあるが、話を聞き出すことは難しい。
 今回の企画展では、「語りつぐ『戦争の記憶』」という、体験者の生の声をお聞きすることができる企画もあった。
 そのテーマは、「学徒動員」、「福島に投下された模擬爆弾」、「日本で初めて空襲があった日福島に投下された模擬」、「爆弾女学生の勤労動員」、「少国民の役割」とのことだった。
 体験者だからこそ伝わる重みを十分に味わわせていただいた。

 体験者談に接する体験の重みについての感想は、前回整理の講演会に出かけて小学生で伝令係だった方の話が聞けた時に整理したことと変わらないので、ここに再掲し、今回の整理を締めくくる。
 それは、聞いている方の中に、当時、小学生で伝令係だったという方がいらっしゃって、その方のお話がお話するのを聞けた事。その方の話から、地域の方が感じたであろう着弾した時の緊迫感のようなものが伝わった。直接の被害に遭われたということではなくても、その証言は貴重なのだとあらためて思う。
 まず、空襲警報があったようだ。その方は、学校近くまで行っていたので学校に急いだが、家に近い場合は家に戻るという約束があったとか。
 学校では、2階にラジオが一つ置いてあって、それを聞いた女の先生の指示に従って、伝令係が皆を防空壕に入るように指示を伝えるというという事になっていたという。
 ところが、なかなかいう事を聞いてくれなかった。
 次に、炸裂音なのか爆風なのかはわからないのだが、機銃掃射の射撃のような音を聞く。これで、自分が肝を冷やして、振り返った時には、全ての小学生が防空壕に入っていたとのことだ。
 これが、5t爆弾の着弾音なのか、着弾で破裂した赤く焼けた鉄片が飛び散る音なのかは分からないが、その緊迫感は充分に伝わった。
「北に200mほど離れた学校のガラスも全部吹っ飛んだ」という情報にも重なる。

 また、この話からは、前に整理した平一小に着弾した時と同じような状況が、渡利小学校でもあったという事が分かる。こちらの証言は多く集められているので、その情報と重ねると緊迫感の確からしさのようなものが増すという効果もあった。

 更に、この話と渡利の2件の火災、数件の崩壊という物件被害情報を重ねれば、その火災や崩壊の前にその緊迫感が加わっていただろう事が想像できるようになる。
 約3反歩の大穴、或いは約90m沼になってしまうほどの穴ができるほどの5tの超大型爆弾の着弾音や地響きがあったはず。そして、無数の赤い炎を上げながら飛び散る鉄の塊が飛び散る機銃掃射の射撃のような音があって、更にその幾つかが自らの家の屋根に突き刺さり火災、或いは崩壊という事事になったはず。
 これらは、その被害に遭われた方でなければ主観的な情報としては伝わらない。そういった物的な被害に遭われた方の生の声は、まだ聞いた事がない。

 記者が話を聞いて整理した記事でも、そこから腹部をえぐられた弟の姿をみた姉の衝撃は、こちらの想像を超えるものではあろうが伝わる。渡利の生の声が伴った情報が欲しいものだなと思う。

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by shingen1948 | 2015-11-18 08:37 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 ここまでの整理では、模擬原爆投下の目的が「人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練」であることと重なる。それはそれで非道だとは思うのだが、前回の整理で分かったことは、その目的に+して「充分な殺傷」も目的としていたということだ。
 渡利模擬原爆投下による被害状況を確認したところで、先に確認した模擬原爆のもう一つの目的「充分な殺傷」ということもはっきり見えてきているのだと思う。
 当時の報道は被害が軽微だたとするのは、戦勝国アメリカにとってもこの目的が見えにくくなり、都合のいいことだったということでもあるのだと思う。だからこそ、整理し直すたびに繰り返しておかなければならないと思っている。
 確認すると、計画で示される福島の目標地点は、二つの工場だ。福島での投下目標地点は、福島の北西隅に位置する福島製作所と福島高校南にあった品川製作所である。それは道義的な名目のために目標を軍事工場に置いているという事でもあった。

 以下は、先の整理でアメリカ側の資料を基に確認したことだ。
 実際の渡利模擬原爆投下にかかわる福島投下予定機B29の2機は、7月20日テニアン島を1時20分に飛び立っている。そのうちの1機が、エンジントラブルで引き返す。
 だから、福島投下予定機B29は1機だけになったということだ。これが、福島上空に現れるのだが、福島まで来たところで、曇りで目視投下が出来なかったとのことだ。それで、上空9000m【高度3万フィート】からレーダーで投下したということだった。

 ここに、前回講演会で分かったことを再度記せば、その投下目的地点が、投下目標地点だった福島駅の北側ではなかったということだ。講演者が、実際のパイロットに投下目標地点を、地図に示してもらったとのことで確実な情報なのだが、これが駅の南側だったということだ。
 軍事工場目的なら駅の北側だろうが、彼らにとっては南側だろうが北側だろうがどうでもいいことだったのだ。
 このことは、目標は軍事工場に置いていたが、それは単に道義的な名目のためでしかないということで理解できる。本来の目的は「充分な殺傷」であり、駅の南側だろうが北側だろうがどうでもよかったと理解できる。
 どちらでも、この模擬原爆のもう一つの目的充分な殺傷を確実に実行できるということだ。
 実際は、目視ができない状態でレーダーでの投下だ。そのセットは福島駅の北側にもできたはずなのだ。もっと勘ぐれば「充分な殺傷」を試すには福島駅の南側の方がよかったという判断も無かっただろうかという事だ。
 そういう視点で地図を見れば、命中なら福島駅であり、多少別なずれなら県庁付近がある。緯度のずれだったら北に工場地帯かあり、南に商店街がある。こちらに着弾なら「充分な殺傷」の目的は十分に果たせたということだったのかもと、……。

 模擬原爆は郡山と平にも投下されているのだが、他の空襲もあってこの模擬原爆の特性はつかみにくいということも確認しておきたい。渡利模擬原爆投下は、福島で唯一の空爆であることから、その特性が見えやすいということでもあるのだ。
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by shingen1948 | 2015-11-17 18:31 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)