地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 福島と戦争( 69 )

模擬原爆と福島

 先に「福島の模擬原爆」を整理したが、14日に「模擬原爆と福島」という似たようなテーマでの講演会があるという事で出懸けてみた。
 講師は、福島民友新聞社論説委員紺野滋氏。講演内容は、「太平洋戦争時、福島市渡利に落とされた模擬原爆の正体をさぐる。併せて、この度の原発事故とかかわりについて」とのことで、後半の「この度の原発事故とかかわりについて」について付加されるのは、講師が、福島民友新聞社論説委員という肩書と時節からだろうか。
 それでも、興味は前半で、先に整理した「福島の模擬原爆」内容の整合性の確認。勿論、その内容に誤りがないかどうか確認したいという事もある。もし、新たな情報があれば付け加えたいということもある。

 この問題を確認していて感じるのは、落とした側には驚くほどの正確な情報が存在するのだが、落とされた側の情報は曖昧なものがあるということ。中には、落とした記録があるのに、落とされた側に記録がないというものまである。そこまではいかなくても、落とされた側の被害情報は記録されているが、これがその模擬原爆と意識されていないというものもある。更に気になったのが、落とされた側の記録も存在するが、正確な記録のみで、被害証言などの情報として生々しさに欠けるというものもあった。
 これらに、付加する情報が得られるかという興味だ。

 その情報の元が同じらしいということもあるのかもしれないが、自分が整理したものの少なくとも落とした側の情報を読み違えたものはなさそうだ。その内容において、とりあえず正確であったということのようだ。ただ、渡利の模擬原爆投下地点に想像との違いを確認できた。
 氏は、模擬原爆を投下した方から直接でその地点を訊ねたらしい。そこは、矢張り職業人だなと感心する。
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 さて、その投下地点だが、駅の南側を狙って投下しているらしいのだ。想像では、目標の二つの工場のどちらか、あるいは両方をイメージしていたので、少なくとも駅の北側をイメージしていたので、想像とは大きくずれたと感じた。
 7月20日午前8時13分ごろ、最初の一発が、新潟県長岡市の信濃川近くの畑に投下される。そして、午前8時34分に二発目が、福島市に投下されるのだが、その投下地点が福島駅の南側で、渡利沼ノ町に着弾する。位置関係は、左図のようだ。
 これが、今回得た情報で修正したいことの一つ。
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by shingen1948 | 2012-10-28 05:20 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 裏磐梯湖沼群の水利と東京電力㈱のかかわりを視点に「秋元発電所」を整理した。しかし、散策の中でここにたどり着くのは、「中国人殉難烈士慰霊碑」に出逢ったことが出発点だった。気になったのは、この頃に「福島と戦争」にかかわって整理していたことがかかわるのかもしれない。
 整理がまだだったのは、その確認も中途のままだったからだ。その状況は変わらないのだが、今回「秋元発電所」を整理したこととのかかわりで、「中国人殉難烈士慰霊碑」を整理しておく。
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 この碑は、半沢氏の「歴史地図」の「猪苗代周辺」のメモと案内板によれば、次のようなことのようだ。

 先の第2次大戦末期には、全国的には4万人の中国人がむりやり連れてこられて働かされている。 福島県でも中国人労働者が、主として会津地方の水力発電所建設現場で働かされ、飢えや寒さによる病気などのため25名が亡くなられている。全国合わせると6805名の中国人の方が亡くなられているという。

 この碑は、この事実を知る福島県内の日中友好関係が、戦後の1965年に広く民間に呼びかけ、1970年に建立されたその追悼のための碑ということのようだ。

 この慰霊碑が建つのは、沼の倉発電所建設工事に携わった方の飯場だった所らしい。この県道を挟んだところには、この発電所の建設に関わる1947年建立の慰霊碑があるという。
 メモによれば、1944年、15年戦争の時、1000人以上の朝鮮人と712人の中国人が、無理やり連れてこられて、発電所を造るための水路工事をさせられたとのこと。ろくな食べ物も無く、着るものも無くひどい寒さの中で、朝鮮人32人、中国人11人が死んだという。

 会津に来る機会に、これら「沼の倉発電所」そして、これらの碑をゆっくりと確認してその視野を広げていきたいと思っている。これらの感覚の延長に、ぼんやり眺めている裏磐梯湖沼群の風景があるのだと思えている。

 電力供給の恩恵を受ける関東圏の方々にとっては、単なるその供給源でしかないのだろうが、これらの経緯があり、その延長に、会津を代表する風景の一つ裏磐梯湖沼群の風景とかかわっている。
 東京電力の発電所を主体とした水管理が、この風景全体を考慮している成果が、裏磐梯湖沼群の風景であるということにも実感を持ちたいと思っている。
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by shingen1948 | 2011-11-28 05:35 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 福島が模擬原爆(パンプキン)を投下された一つの地点であることは分かっていた。しかし、その模擬原爆は、模擬の爆弾ではないということは知らなかった。ここで亡くなられた方は、投下された爆弾に当たってしまわれた方というイメージだった。ところが、戦争展で、この爆弾は4.5tもの火薬を詰めた超大型爆弾であったということを知った。
 練習というイメージと超大型爆弾というイメージが不釣り合いに感じて、気軽に確認しようとしても、なかなか資料が見つからなかった。確認に長引いてしまった。

 この模擬原爆(パンプキン)の投下は、広島・長崎につながっていく。
 自分にとっては、思いもかけない所でその長崎に出会う。古関裕二記念館だ。
 「長崎の鐘」が、古関裕二氏の作品であることは知っていた。しかし、古関裕二氏と戦争ということで自分が持つイメージは、行進曲そして軍歌だった。その時代に合わせた生き方を賛美することに違和感を持っていたところがあった。それで、この記念館に入ることに躊躇するところがあった。
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 立ち寄ったのは、近くに用事があって、そこから歩かなくてはならないはめになったことだ。たまたま入ってみたということだった。
 そこに、永井博士から送られたという展示物が飾られているのを見た。
 記念館全体は自分の持つイメージのままなのだが、そのごく一部の空間に「福島の『そして、長崎』」を感じてしまった。

 飾られた永井博士からの手紙を読み、視写してみる。博士が病床で編んで送ったというロザリオを見る。永井隆記念館から送られたという浦上天主堂「アンジェラスの鐘」の鐘拓に、博士の言葉が入る色紙を読む。
 飾られた年表の経歴を確かめると、慰問と軍歌が並ぶ中、昭和24年40歳「長崎の鐘」。

 そこで、「長崎の鐘」を聞く。氏の音楽性と結びつけて考えようとしていた。
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by shingen1948 | 2010-10-12 05:12 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 新聞報道は、これを軽微に扱いたかったことも伺える。
 「福島市業書」に、渡利に投下された新聞報道の記事が掲載されていた。
 「福島郊外に投弾 水田に大穴・盲爆に市民は奮起 <県警防課発表(正午)>」
 20日午前8時40分頃敵大型と判断せらるる少数機は県内に侵入、県下を行動したる後一部農村に無差別爆撃をしたる後9時33分頃東南部洋上に脱去せり、被害極めて軽微なり<注 被害地は渡利村沼ノ町地内>

 掲載されている記事によると、午前8時3分に大型機1機が現れたようだ。雲の上をしばらく旋回して北東に機首を向けた時に爆弾を1個投下したという。投下後、そのまま北東部から洋上に向かったということのようだ。
 ここでの爆弾の大きさは五百キロとし、その被害は水田約3反歩に大穴をあけた程度とする。
 大きさを五百キロとしているのは、恐らく大型爆弾という当時としての認識であって、故意に小さくしたという事ではなさそうに思う。ただ、その被害は、小さく見せようとする意図が感じられる。
 それは、記事はが「福島市の中心部から2㎞以上も外した」と続け、その被弾地を「山間の水田におちたものとみられ……」とすることからもうかがえる。その結論が、「敵の目的は『帰り際に、驚かせてやれという神経戦』」だ。
 更に、記事は、次のように忠告している。
 知ったかぶりをする人間が出たり 誇大に被害や爆弾の威力をお喋りする者が出やすいが、こんな者こそ敵の神経戦的爆撃に乗ぜられたと云うべきで、われわれはあくまでこの戦訓を好奇心を満足させる道具としてはならぬ。

 今自分がやっているようなことを、やってはいけないということのようだ。戦時中は、こういうことをしないというのが道徳だったという事のようだ。
 人的被害については、紹介されない。逆に、田圃を護るという農魂で、現場に伏せて助かった農民を紹介している。
 落下現場から僅かに3メートルぐらいしか離れない所で田の草を取っていた尾形金市さん(56)菅野文吉さん(40)等は『ナーニ、俺達は泥を被っただけですよ』と至って元気だった。

 記事の全体の意図は、空襲は恐れるに及ばないということだ。爆弾の落下音を聞いたら出来るだけ低く伏せて待避する覚悟があれば、空襲警報中でも田畑は護り通せるという。意図はゆがんでいるが、そこに事実らしきものが散りばめられている。それを拾う。
 ○ この朝、いちはやく警戒警報は発令されたようだ。そんな中で、罹災した地区では田の草取りに忙殺されていたということのようだ。
 ○ 作物の被害は2枚の水田が埋まり(記事の前半では約3反歩の大穴)、付近の10枚ほどの田に吹っ飛んで来た泥塊を被る。
 ○ 投下された瞬間、雨戸を7、8枚いっぺんに開けるような音がした。
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by shingen1948 | 2010-10-11 06:56 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 模擬原爆を投下した情報を収集する執念の活動に感じるものがあった。その情報を基に、福島の空襲罹災情報と照らし合わせて、福島の模擬原爆投下とその被災状況が確認できると思った。
 罹災した側からすれば、どんな目的であるということにかかわらず空襲による被害は被害でしかない。それは戦争体験者としての感覚として当然なことだと思う。この整理の仕方は、一歩引いたところの感覚を意味していると思う。その事は、体験者からすれば興味本位ととられるかもしれない。しかし、この一歩引いて整理することで見えてくることもある。その一つが、模擬原爆投下の判断の軽さであり、それが戦争の愚かさの思いを深めてくれた。
 もう一つは、地道に罹災記録を残そうとする活動の大切さだ。新しい情報で見方が変わった時に、見直す資料はそれらの資料しかないということだ。
 地道に罹災情報を記録に残そうとする地道に努力する組織や人の存在は、ペーパーで確認していく中で特に感じることができる。それらの活動は、その地域の独自性を持ったものになっている。
平の資料を確認して行く中で感じたのは、実際の被害状況とか被害者についてできるだけ具体的に記録に留めようとする意識だ。
 新しく戦争にかかわる手記を集める活動をしている「いわき地区学會出版部」という組織的な活動に出会ったり、各空爆で亡くなられた方のデータが市史というどちらかというと古くて公的な記録に発見したりする。
 それで、模擬原爆(パンプキン)投下による平第一国民学校の被弾状況も、具体的に描写されているだけでなく、亡くなった方の状況も詳しく知ることができる。

 郡山の資料を確認していく中で感じたのは、各空襲の公式なデータを駆使して記録を構成していこうとする意識だ。後で分かったのだが、「近代福島と戦争(大内寛隆著)」によると、郡山には東北軍司令部陸軍直轄の「郡山防空監視隊」があって、中通り14ケ所に監視哨が設けられていたということだ。そこには青年の男子隊と未成年の女子隊が勤務し、来襲する敵機の監視と本部への通報を行ったという。
 これらの有利な状況を記録に残すということに上手に結び付けているのかなと勝手に思う。
 なお、情報元として1997年8月広報『こおりやま』としていたので、これを確認しようとしたら、広報『こおりやま』は、ここ2年分しか確認できない。現時点では孫引きの状態だ。
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 その中で、福島の空爆の記録の取り組みは、瑞龍寺の爆弾片の保存、そして、その寺を中心とした市民実行委員会の劇化ということのようだ。その出発点は、家族が被害者を供養する気持だったということのようだ。
 この爆弾片だが、ふれあい歴史館にも別の爆弾片が保存されていたようで、最近それも展示されるようになってきたようだ。ただし、こちらはガラスケースに入れられた資料としての展示だ。
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by shingen1948 | 2010-10-10 05:29 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 今まで確認してきた事を少し整理する。
 まず、福島の模擬原爆(パンプキン)投下は、新潟地区の原爆投下目標とかかわっているということだ。その具体的な投下目標として、次の10地点が選定されたことは、先に整理した。
 ○ 郡山地区:照準点参照保土谷化学工業①日本製錬会社(燐生産会社)②操車場郡山③軽工場郡  山
 ○ 福島:照準点参照市街地①軽工場福島②品川製作所
 ○ 長岡地区:①軽工場長岡②津上―安宅製作所
 ○ 富山地区:照準点参照市街地①不二越製鋼 東岩瀬工場②日満アルミニュウム会社富山③日本  曹達会社富山製鋼所

 次に、実施の段階になる。計画の段階では、福島が模擬原爆(パンプキン)投下とかかわりは福島と郡山の2地区だった。福島が2か所、郡山が3か所の具体目標だった。
 しかし、実際の投下になると、ここに平地区が加わる。それは、目標の変更があるからだ。それも実施している中で変更が決まるらしい。計画目標に投下できないと「第二目標」に投下し、突然登場する「臨機目標」などというものもあって、それで平にも投下されたということだ。

 新潟地区で福島の投下予定とかかわって実施段階で投下された地区も含めて模擬原爆(パンプキン)が投下されたところを整理すると、こんな感じだろうか。〇の中の数字は投下個数。
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 新潟地区の原爆投下目標地区内では、実施の段階で、其々の目標が計画の変更でつながる。
 そういう視点で見ると、福島地区、郡山地区、長岡地区への投下予定が、実施段階でそれぞれの目標が絡み合う。かかわりなく、突然の投下が、平・北茨城大津・保谷・八重洲への投下で、この事については、先にふれている。
 富山の投下と福島の投下はからまなかったようだ。

 確認を通して感じるのは、投下する側の計画の変更の決断の軽さだ。当たったかどうか判定が簡単なものが雲間から見えたら、それは目標になるという感じだ。そして、目標物に当たれば優秀、外れて被災が小さければ貧弱でしかない。
 被弾した側からすれば、重い決断であってほしいと思う。
 例えば、平第一国民学校へ被弾したのは、工場と見間違えたのではという考察を見る。
 ところが、実際は工業地帯の一角というのは、投下する名目でしかなさそうだ。あとは、命中を確認するための大きな建物であればいいということだったと思われる。それが学校だとか、近くに民家があるなどという意識はありそうもない。
 投下した側の感覚と被弾した側の感覚のずれのように思う。

 被災にかかわっては、体験談や実際の調査記録より公式記録や報道記録は小さいとのことだ。具体的には、郡山の軽工場と渡利の被害は微細とされているが、郡山の軽工場で15名、渡利では1名死亡者が出ている。これは新聞報道も同じようだ。
 こういうことが、表には現れない戦争の一側面なのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2010-10-09 06:24 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 空襲のイメージは、何百機もの飛行機が編隊を組んでやってきて、焼夷弾の雨を降らせていく中で、いくつもの爆弾を投下するというものだ。これに対して、模擬原爆(パンプキン)投下の空爆は、単機あるいは少数機のB-29がやってきて、1個の巨弾を投下して去っていくという独特のものであったようだということは、先に確認した。
 この形の違いは、目的の違いでもあることを確認したい。この第二の空襲は、アメリカが正確に原爆を落とす練習のためであり、戦争に勝つための空襲とはその目的が違うということだ。

 郡山では数回の空襲があり、そのどちらの目的の空襲も受けているということだ。その中で、多く語られる郡山空襲は1945年4月12日の初空襲のようだ。確かに罹災状況は悲惨なようだ。
 この初空襲の罹災は、死者だけとってみても460人といわれている。遺体は、戸板に乗せて運ばれたといわれている。
 その内訳は、保土ヶ谷化学工場(204人)、日東紡績富久山工場(92人)、東北振興アルミ工場(47人)、浜津鉄工場(4人)、郡山駅(11人)、方八町(7人)、横塚(22人)、市内(5人)、航空隊(5人)、不明(33人)とのことだ。不明者のうち、勤労動員で保土ヶ谷化学工場で働いていた白河高等女学校(現在の白河旭高校14人、郡山商業学校(郡山商業高校)6人、安積中学校(安積高校)5人名、安積高等女学校(安積黎明高校)1人の計26人が死亡したという。住宅焼失・倒壊500戸以上。
 別情報で、11時15分から1時間に渡り保土ヶ谷化学工場と日東紡績富久山工場二つの工場を襲撃。全体で死者504名、負傷者1000名というのもみるが、多くは上記のような被害状況を記録する。
 この空爆では、投下されるのは爆弾だけでない。焼夷弾なども落とされていて、郡山駅前は焼野原だったというような別の被害描写も見る。生々しい悲惨な情景描写もみる。
 富久山工場では、ヘルメットをかぶっていた首が飛んだり、軍靴を履いたままの足が飛んでいたりしたとか、爆風で飛ばされた死体がごろごろと散らばっていたとか、……。

 郡山市史の「郡山空襲の記録」では、次のように記録する。
  
 昭和20年4月12日 午前9時5分警戒警報あり。
   情報「関東東北より進入せる敵機は福島県南方洋上北進中なり」。
   二報「敵機は福島県東方洋上旋回中なり」
   三報「敵機は東方へ脱去せり」
   午前9時55分警戒警報解除せり。
   午前11時20分警戒警報発令。
   同11時25分空襲警報、同時に敵機北方より9機郡山上空に進入、爆弾数発。
   保土ヶ谷工場へ投下せり。
    約5分後、東方より11機、13機、9機、13機、9機、13機、11機と7回に
    わたる、梯団式5分置き進入。富久山工場、アルミ工場、保土ヶ谷工場を爆撃、
    及び北町付近、方八町、横塚を爆撃焦土と化し、戸数約150戸以内。
    敵機延べ数百三十六機なり。
    郡山市への初空襲のため市民多数の被害あり。
    軍隊及び付近の警防団、須賀川、三春、本宮、福島より応援を受け、午後四時
    頃鎮火せり。郡山上空進入合計十三回なり。鉄道貨物ホームにも被害あり。
    記載者・小川知次(郡山自動車学校・故小川欽一氏(元郡山消防団団長)の厳父)

 先に見た二つの分団記録は以下のように記録する。
 第一分団
 △ 4月12日の空襲=豊田村から借り入れ中のポンプ車で延焼中の保土ヶ谷工場へ出動したが、途中東橋付近が通行不能の状態で後退。東橋下で延焼中の民家の消火活動に取り掛かったが、B29の再襲来で待避。
 第ニ分団
 △ 4月12日の空襲=駅前一帯が爆撃により火災。この消火に当たる。
 空襲の最後まで班長が交代で火の見櫓(現在の駅前部詰所)の上で警鐘を乱打し続けた。

 この日、近くの本宮町でも、製糸工場のグンゼが爆撃を受けている。爆死したのが、約500名という情報もある。

 確かに第一の目的の空襲は悲惨だ。
 そのために、比較的軽微な被害である第二の目的の空襲は、その陰に隠れている。けれども、たかが練習の為に何故殺されなければならなかったのかという無念さが残るという別質の被害だ。第一の空襲と同等に着目していくべきではないということを確認したかった。勿論、命の重さは同じだということもある。
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by shingen1948 | 2010-10-08 05:04 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「日本の空襲1~北海道・東北(日本の空襲編集委員会)」は、平の空襲とのかかわりで見たいと思った資料だが、ここには郡山の空襲の記述もある。ただ、郡山でも空襲は数回あり、紹介される郡山空襲の中心は1945年4月12日の初空襲だ。
 その中に紹介される7月29日の記述を確認する。これが、郡山模擬原爆投下にかかわる記述という事になる。

 郡山の7月29日の空襲は、爆死者を中心に紹介される。
 この日の空爆の爆死者を39名とする。その内訳も紹介されている。郡山市関係者12名、県内者3名、県外者20名、身元不明者4名とのことだ。
 駅と工場の2カ所に模擬原爆が投下されたわけだが、その内訳も示される。扶桑第130工場15名死亡で、全員県外人とのことだ。駅では23名死亡で郡山市関係者が11名とする。
 「扶桑第130工場」というのが、先に整理した工場名では「日東紡郡山第三工場」であり、この「扶―」というのが、中島飛行機の信夫山の地下工場にも符号をつけられて呼ばれていたように、「中島飛行機の秘密工場」を意味するのだろうか。「日東紡郡山第三工場」が当時は「中島飛行機の工場」であったということは、先に整理した。
 この日の空爆の爆死者を39名ということなので、1名合わないような気がするが、読み違いなのか、他所での死者かは分からない。

 今までの整理では、投下した北緯と東経のデータも記録していた。それは、情報を整理した後で、確認したい事が出た時に、この事が役に立つことがあるかもしれないという漠然とした思いがあったからだ。
 実際にこのデータを地図で確認してみたら、役立ちそうにもないことが分かった。
 福島製作所辺りに一点プロットし、そのデータを確認すると北緯37.76°東経140.45°だった。同じように、品川製作所を確認すると、これが北緯37.76°東経140.46°だ。渡利の被弾地は、おおよそ北緯37.75°東経140.46°となる。
 そして、そこに期待を込めて、投下データ37°45′25秒東経140°27′30″の地点を地図上で探ってみた。ところが、これが熱海町長橋の後庵と舘下の間辺りで、あり得ない位置を示した。
 ここは、投下目標を外したデータだからかもしれないと、気を取り直して郡山駅で確認してみる。
 駅あたりにプロットした所が北緯37.40°東経140.39°を示す。そして、投下地点北緯37°24′東経140°24′を探ってみる。すると、これが鏡石辺りだ。これもあり得ない。
 投下した北緯と東経のデータで何か情報が得られるかもしれないという予測は、外れだった。
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by shingen1948 | 2010-10-07 05:17 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 昨日、いわき市の小名浜港海底で、爆弾が見つかったというニュースがあった。それらの報道の概要は、次のようだ。
 爆弾の大きさは、長さ約1.15m、直径約20㎝で、100㎏爆弾の可能性が高いとのこと。全体が錆びている為、国籍や型、いつの時代の爆弾かは今のところ不明とのことだ。
 見つかった地点は、「アクアマリンふくしま」から800mの距離にある第一西防波堤の灯台から南に約60mの海底で、水深約7・5mとのことだ。ここで航路拡張工事の調査をしていた建設会社が発見したということだ。

 ニュースとしては、その安全性だろうか。爆弾はアンカーなどで強い衝撃を与えない限り爆発の危険性はないということだった。早い時期に水中爆破処分する予定とのことだ。

 このニュースに注目してしまったのは、平では、20年7月20日に投下された模擬爆弾が2発不明という意識があったからだ。しかし、大きさが全然違う。
 模擬爆弾なら、大きさは長さ3.5m、直径1.5mで、重量は4.5~5tのはずだ。

 それでも、漁業の方の発言には注目してしまう。
 「海底を網でさらうと爆弾の中に入っている火薬がよく網にかかると聞いた。他にももっとあるのではないか」というのだ。模擬爆弾に限らず、今になっても爆弾が発見される可能性を秘めているということだ。

 昨日は、この空襲にかかわることが、もう一つあった。「日本の空襲1~北海道・東北(日本の空襲編集委員会)」を偶然見つけたのだ。「平市史通史」にここから引いた資料があって、いつか確認したいと思っていたところだった。
 とりあえず、平の7月26日の空襲の罹災の概要を確認する。

 「午前10時頃、平市東南方鹿島灘方面より進入して、高度8000mぐらいの上空より平市を中心に付近を旋回飛行していて、12時になって、平一小に500キロ弾を投下。児童は完全に避難していたため、被害は校長他職員の死傷者が続出し、目を覆うような惨状となった。罹災区域は平市揚土平一小を中心とする一帯」

 今までの情報に加え、空爆前のB29の偵察の動きが見えてくる感じがする。爆弾は500キロとあるのは気になるところだ。繰り返すが、本当は5tだ。
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by shingen1948 | 2010-10-06 05:42 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 戦時中を経験を通して知らない者にとっての空襲のイメージは、何百機もの飛行機が編隊を組んでやってきて、焼夷弾の雨を降らせていく中で、いくつもの爆弾を投下するというものだ。
 ところが、この模擬原爆(パンプキン)投下の空爆は、単機あるいは少数機のB-29がやってきて、1個の巨弾を投下して去っていくという独特のもののようだ。
 茨城具大津の調査報道で、この空爆の被弾状況が今でも不明なものもある事を知った。平でも、20.7.20に2個の模擬原爆が投下されているはずだが、その被弾情報は確実ではないようだ。

 調査しても不明なのは、空爆の特徴と共に投下された爆弾のイメージのずれも関係しているのではないかとも思う。
 調査したい方では、この爆弾は当然5tという巨弾のイメージを持っている。しかし、調査を受ける側では、巨弾というのは500キロをイメージするのが普通で、それでも中には最大1tをイメージする人もいるかも知れないという状況のようだ。
 空襲というイメージのずれ、巨弾のイメージのずれが重なって、概念的なズレがあるのかも知れないと思う。
 平では普通にイメージする空爆も受けていて、語り継がれるのはこちらが中心のようだ。そのこともかわるかもしれない。7月26日の模擬原爆の投下については語られているが、それは学校に投下されたという特殊性があったからではないかとも思う。当然、その周りには民家が多かったということもあったろうか。20.7.20の空襲が消えているは、その被害が少なかったということもその一因かもしれないと思う。

 確認していると、平の空爆にはもう一つの特徴があることが分かる。それは、いつも第一目標ではなさそうだということだ。
 第1回目の平空襲は、昭和20年3月10日東京大空襲帰りのB-29から焼夷弾が落とされ、平市街の材木町、鍛治町、研町、紺屋町、梅本一帯が焼かれたようだ。これで、死者12人、家屋500戸以上が炎上するという被災を受けている。
 そして、第2回目の平空襲とされているのが、今回整理した7月26日平第一国民学校(現平一小)に被弾した模擬原爆による空爆だ。これも、第一目標は長岡地区だった。
 これで、死者教員3名。家屋1500個以上が破壊という被災を受けたといわれている。
 第3回目とされるのは、昭和20年空襲のようだ。これに昭和20年7月26日の2機が模擬原爆を投下した空爆を合わせると、平では計4回の空爆にあっていることになる。
 この26日の空爆も、第一目標は1つが郡山で、もう1つが長岡の工場だったということだ。
 こちらは、投下する側の意識の軽さを物語っているのではないかと勝手に想像してしまう。余った爆弾とか、軽くした方が着陸時に危険が少ないなどの理由が想像される。
 それを市街地に軽々しく投下されたのなら、戦勝国が語る人道という概念とはほど遠いものを、勝手に想像してしまう。
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by shingen1948 | 2010-10-05 05:49 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)