地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 福島と戦争( 102 )

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、長谷川信氏と浅野恒氏の関係を「予科士官学校の親友浅野恒」というふうに表現するが、長谷川信氏は予科士官学校の経歴はない。
 その紹介文の前後の脈絡から、長谷川信氏が、昭和14年春に会津中学休学から復帰し、喜多方中学編入にしようと悩んでいた時期に、浅野恒氏にその悩みを打ち明ける葉書を送ったのだが、その当時、浅野恒氏は予科士官学校に通っていたということのようだ。
 明治学院百年史を確認すると、その葉書が3月29日付のようだ。

 会津中学時代の友人だとすれば、そこから予科士官学校に進学し、職業軍人になられた方ということだろうか。
 「明治学院百年史」によれば、この日記を読んで受けた大きな衝撃が一つの契機となって、神への献身を決意し、軍隊で知り合った羽生慎牧師(明治学院昭和5年卒)の縁をたよって、日本聖書神学校に学び、牧師になられることになったということだ。
 その日本聖書神学校の神学生であった昭和23年に、戦没学徒兵の遺稿の募集を知り、信の日記を写しとって応募したとのことだ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、昭和23年に戦没学徒兵の遺稿を募集することになった経緯を、次のように解説する。
 まず、昭和22年に、東大出身戦没学生の手記集「はるかなる山河」が出版され大きな反響を呼んだということがあるようだ。
 その後、法政大学の小田切秀雄たちが、東大に限らず全国の声を集めようという運動を起こし、これが昭和24年10月出版の戦没学生の手記第一集「きけ わだつみのこえ【岩波書店】」に結実するのだとか。
 この作品募集に、浅野恒氏が信氏の日記を写しとって応募したということのようだ。

 この項では、最後に昭和34年「週刊現代」の特集「戦争に失われた学徒兵の青春」にも信のことが大きく取り上げられたと肯定的に紹介されてしめられている。
 しかし、今まで眺めた別資料では、このために貸し出された日記が戻されることがなかったというとんでもない負の結果を生んでいることを指摘する紹介も見かけている。
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by shingen1948 | 2017-05-10 09:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 世田谷区立東大原小学校同窓会報(平成24年度号)の「学童疎開のころ」の再疎開にかかわる情報で、気になったのはその期日だ。
 昭和19年3月には、浅間温泉も食糧難で再疎開することになり天竜川流域の伊那地方、飯田市の手前の村々へ移ったという情報だ。
 浅間温泉では10か所に分散していたようだが、伊那では5つの村に分かれたという。伊那では食料だけでなく、風呂でも苦労したという。当然普通のお風呂なので、1週間に1度くらいしか入れなくなったという。

 代沢国民学校と「武剋隊」とのかかわりも、東大原国民学校と「武揚隊」とのかかわりも、昭和20年3月頃らしいと思われるのに、この頃には再疎開されているという情報になってしまう。
 その証言内容をよく読んでみると、証言者は学校事務関係者になられた経緯のある方のようだ。ならば、年度で期間を捉えていたのではないかと推定すれば、辻褄があいそうだ。
 つまり、再疎開は、昭和19年3月ではなくて、昭和19年度の3月末という認識だったのではないかという推測だ。
 これなら、昭和20年3月に特攻隊員と交流した疎開児童たちは、その月末には再疎開という事になったということだろうと思うのだ。

 さて、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の返却期間が迫っている。
 こちらに紹介される事の確認を先にしたい。
 その一つは、「明治学院百年史」も、世田谷の疎開児童との交流にしても、と号第31飛行隊の長谷川信少尉が気にかけられるようになるのは、彼の日記が「きけわだつみのこえ」に掲載されているというのが一つの理由になっているのだが、そこに浅野恒という方がかかわっている事が紹介される。このことについて先に確認しておきたい。
 この方は長谷川信氏の親友で、職業軍人になって終戦を迎え、無事帰郷できたとのことだ。故郷に戻って、信氏の学徒出陣特攻死を知って大きな衝撃を受けたという。
 その浅野氏が、昭和23年戦没学徒兵の遺稿募集を知り、信氏の日記を写し取って応募して、「きけわだつみのこえ」に収められることになったということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-05-09 13:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 信氏の母親シゲさんが基地を訪ねたことについて、「会津の「わたつみのこえ」を聞く③」では次のように整理している。
 母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いて戻って来たという。

 実は、参考にした「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」も「明治学院百年史」も、宿の人の話は、次のようだったとの紹介になっている。
 結局会うことは叶わず、泊まった宿の人から「他の飛行隊員が酒と女で楽しんでいる間も、彼は静かにひとり近所の子供たちを相手に遊んでやっていた」という話を聞いたとのことである。
 まだ確認はしていないが、その情報源は「会高通史」であろうと思われる。
 昭和40年に刊行されたこの冊子に、信氏の恩師小林貞治氏が、「戸ノ口」にまつわる悲話一つ」という一文があって、信氏の思い出と湖畔の碑の由来が記されているということだ。

 今までの「Web東京荏原都市物語資料館」の情報確認から見えてくるのは、信氏が疎開児童と優しく接していたらしいということだ。
 この情報と照らし合わせると、「彼は静かにひとり近所の子供たちを相手に遊んでやっていた」という部分から、母親にはそのことが伝わっていたらしいことが分かる。
 遊び相手が近所の子になっているのは、ここに疎開児童がいることを知らない会津の方々の聞き違いと想像する。

 この話の引用に抵抗があるのは、「他の飛行隊員が酒と女で楽しんでいる間も」という前ふりの部分だ。
 次の記事の疎開児童秋元佳子さんの証言部分と照らし合わせてみる。

 「ヤマモトさんという方が隊長でした。下の学年の子が、遊んでくれるものと思って、『勉強なんかしないで遊ぼうよ』と寄って行ったら、『こんな非常時にとんでもないことを言う』といってその子に平手打ちを食わせたことがありましたね。」
 武揚隊の山本薫中尉である。子どもたちに情が移るからあまり親しくするなと長谷川少尉には言っていたようだ。
 「山本さんは、隊長らしく武骨な人で、ごつごつした身体つきをしていました。長谷川さんには、優しい雰囲気がありましたね。なまりがなかったですね。海老根さんは、ズーズー弁でした」

 疎開児童の証言からは他の隊員の前ふりの部分が事実とは思えない。
 想像するに、これは会津の地域を意識する表現者が、信氏が疎開児童と優しく接していたという部分と対比した強調の効果を狙ったものではないのかなと想像する。
 地域の狭い範囲での情報としては、地域にとって中心となる事柄にだけ目が行くだけなので問題はないが、他の地域の情報と照らし合わせる場合は、それでは済まされない場合もあるのではないのかなと思うのだ。
 少なくとも、そうであったのかどうかの確認をとる必要はありそうに思えたということだ。

 ただ、母親は実際に宿で話を聞いているのだから、他の隊員の様子も含めてその生き様をきちんと感じとっていたのだろうことは想像に難くない。

 以下は、疎開児童秋元佳子さんの次の証言部分だ。

 「この写真を見て思い出したことがあるんですよ。ほら、飛行機の操縦士というのは首に白いマフラーを巻いているでしょう。いつでしたか、長谷川さんが部屋に来られたときにそれを巻いているんですよ。その隅っこの方に赤い糸が見えたので見せてもらうと、『長谷川』と刺繍がしてあったんですよ。『母親が縫ってくれたんだ』と恥ずかしそうに言っていましたね……長谷川さんがわたしたちの部屋にこられるときはどてら姿でしたね。それでも一度ですが、飛行服を着たままで来られたときがありましたね。いつもとは違って見違えるようでした。」

 このマフラーの隅に赤い糸で「長谷川」と刺繍してもらったのは、最後の帰省の時だったのだろうかなどと勝手に想像する。

 不思議なもので、写真を見ていると、だんだんに思い出されくるものがあります。よく遊んでもらいましたよ。桜ヶ丘の川が凍っているところへ行って、スケートをしました。わたしたちはゲタを履いて、長谷川さんは軍靴を掃いておられましたね。ああ、そういえば、そうそう、こんなことがありました……

 母親は宿の人の話から、こんな疎開児童の証言に近い雰囲気を正しく感じ取っていたのではないのかなと想像する。
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by shingen1948 | 2017-05-07 10:09 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 極秘の部分もあって松本飛行場と浅間温泉が特攻の出撃基地となっていたことは、あまり知られていないという。
 しかし、ここは沖縄決戦に備えた後方支援基地となっていたようで、昭和20年3月を中心に児童の疎開先の旅館には数多くの航空兵がいたという状況が読み取れる。
 そして、ここ浅間温泉では、その疎開児童と特攻隊員の間には、哀しくも温かい人間の交流があった事ということのようだ。当然、こちらもあまり知られていなかったということだ。
 地域を散策する者としては、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記にあるように、心に刻んでおきたい事である。

 「Web東京荏原都市物語資料館」から、信氏の所属する「武揚隊」の浅間温泉での情報を探す。 「会津の「わたつみのこえ」を聞く③」で整理したように、昭和20年3月初旬、両親は何となくただならぬ雰囲気を感じて、母母シゲさんは、基地まで後を追っている。結局、会うことはできずに宿の方から生活の様子の話を聞いても戻って来たということだった。
 その時に宿の方が話されたことや母親が感じた宿の空気感のようなものを探りたい気がするのだ。

 「下北沢X新聞(1668)~武揚隊、一特攻兵士の行方再び4~」という明治学院を訪ねる記事の中に、疎開児童から聞いた「ハセガワ」と「きけわだつみのこえの武揚隊長谷川信少尉が同じ方かを確かめる部分がある。この辺りの記事に、浅間温泉での武揚隊の特攻隊員と疎開児童との交流が分かる情報がちりばめられる。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51700705.html

 まず、「松本浅間温泉の富貴の湯に特攻隊、武揚隊は宿泊していた。往事、ここには東大原国民学校の学童が疎開している。その一人から「ハセガワ」という隊員のことを聞いていた。彼は子どもたちには深い印象を残していた」とある。
 次に、この疎開児童に「わだつみのこえ記念館」の長谷川信氏の写真を送って確かめることが記されるが、その疎開児童を「疎開学童だった秋元さん」と表現しいる。

 秋元さんの話はメモに基づいてまとめたものであると断りながら、次のように記される。

 「わたしたちは、旅館の二階の小部屋にいました。みなとても懐いていました。当時、国民学校五年生、みんな子どもですよね。だけど人によってませていたり、そうでなかったりってあるでしょう。この写真が来てから思い出すことがあったのですよ。Sさんという方で確かこの長谷川さんの写真を持っていたはずですよ。それで電話をかけたんですよ。経堂に住んでおられて前に行ったこともあります。そしたら、今取り込み中だと言われたんですよ。病院に入っていて危ないみたいなことを言っておられましたね…」
 「このSさんという人、長谷川さんを好きだったんですよ。前に言っておられましたね。長谷川さんが初恋の人だっていうことを……」

 次の記事では、疎開児童は秋元佳子さんになっている。
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by shingen1948 | 2017-05-06 09:21 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 地域資料では、参考の資料を眺める時に、確認したい事を視点に眺めるものだから、紹介された時にはあたかもそれが中心的に描かれていたというふうな表記になりがちだ。
 多分、自分の表記もそうなのだろうが、なかなか他人の視点を持ち込めないので気づきにくい。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記で、疎開児童とのふれあいについて紹介する部分で気になったのが、以下の学童の疎開先の紹介部分だ。
 学童は東京世田谷の代沢国民学校5.6年の生徒、疎開先は信州松本の浅間温泉旅館「富貴の湯」。この浅間温泉富貴の湯に特攻隊「武剋隊」と「武揚隊」が宿泊していた。

 確かに信氏の所属する「武揚隊」の宿泊先は、「明治学院百年史」に浅間温泉「富貴湯」旅館と表記されている事と一致する。しかし、もう一方の「武剋隊」の宿泊先は、「Web東京荏原都市物語資料館」サイトの情報と照らし合わせると浅間温泉「千代の湯」と読み取れるような気がするのだ。
 しかも、代沢国民学校5.6年の生徒の疎開先は浅間温泉のいろいろな旅館に分宿していたという状況があるのだが、この交流があきらかになるきっかけとなる柳内先生の宿泊先は浅間温泉「千代の湯」だと読み取れるのだ。
 つまりは、「鉛筆部隊と特攻隊」で紹介される子供達と特攻隊員の交流の話の中心は、恐らく「武剋隊」の方が主なのではないかと想像されるのだ。
 両隊とも同じような状況なので、そこで描かれる状況自体は信氏の所属する「武揚隊」にも当てはまるという事なのだとは思うが、「鉛筆部隊と特攻隊」で描かれる中心素材としては、「武剋隊」なのだと思われるという事だ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記には「戦争の平和展『特攻隊が飛び立つとき~松本から知覧へ』【松本市立博物館主催】」も紹介される。
 ここでは、「武揚隊」の遺墨、最後の言葉、証言や遺品などが展示され、長谷川信の遺墨遺品も展示されたことが記される。

 「松本市立博物館ニュース(№187 2013/7/1)」を確かめると、松本に滞在した特攻隊の紹介と松本で学んだ特攻隊員を紹介するとし、更に、学徒動員によって製作された兵器の紹介もあるとする。
 その中の1コーナーに「武揚隊」の展示物もあり、その中には長谷川信氏の遺墨遺品も展示されるということのようだ。
 また、「特攻隊の最後」では、知覧特攻平和会館の協力で沖縄戦が中心となるため、武剋隊の全体像は紹介されるのだが、武揚隊については長谷部良平伍長が知覧飛行場から出撃したことは紹介されるが、他は「4月22日に、山本薫隊長以下6名は5月13日から19日にかけて台湾の八塊飛行場から出撃し、沖縄周辺の洋上で亡くなっています」としか紹介されていない。

 その中から、長谷川信氏とかかわりの強い情報を抜き取って紹介されているということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-05-05 10:59 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記の項に「長野県松本に到着、以降約40日をそこで過ごす」事情部分が次のように紹介される。
 松本に来た特攻隊は、満州の新京(現吉林省長春)で編成された隊で武剋隊と武揚隊で、特攻機の爆装改修のためだった。特攻機というのは、戦闘機に250キロの爆弾を吊り下げるための機体の改造を要した。この爆装改造を空襲を避けて山間の松本飛行場で行った。

 長谷川信氏が所属する誠31飛行隊(武揚隊)は、ここで「武揚隊」と紹介される。情報を確認していくと「と号三十一飛行隊」と紹介される場合もある。

 「ラジオ深夜便(2013年7月号)」は目にすることができないでいるので、この紹介部分も「疎開児童の見た特攻隊(きむらけん)」からの引用なのかどうかは分からない。
 「Web東京荏原都市物語資料館」サイトの情報と照らし合わせてみる。

 「大本営が師団に配置した特攻は11隊で、昭和20年2月10日に満州新京で第2航空軍のもとで編成された特攻はそのうちの4隊とのことだ。
 信氏が所属した「と号」第三十一飛行隊が武揚隊、「と号」第三十二飛行隊が武剋隊、「と号」第三十九飛行隊が蒼龍隊、「と号」第四十一飛行隊が扶揺隊で、これ等は中央指令の直轄隊とのことだ。
 配属され際に、扶揺隊は奉天飛行場で特攻機用の爆装に改造したが、他の3隊は岐阜の航空廠で実施しようとしたが、岐阜ではできなかったという。それで陸軍松本飛行場に飛来してきたということだ。
 先に整理した満州国皇帝溥儀にも謁見し、華々しい見送りを受けて飛び立ってきたというのは、この日本への飛来の時ということになるようだ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記の項には、「空襲を避けて山間の松本飛行場で爆装改造」とあるが、こちらの資料によると、昭和20年3月を中心に児童の疎開先の旅館には数多くの航空兵がいたという。というのは、ここが、沖縄決戦に備えて後方支援基地となっていたためだとのことだ。
 ただ、普通は10日前後で出撃してしまうので、滞在が短く児童達の記憶には記憶に残りづらかったという。ところが、武剋隊と武揚隊は、長く当地に滞在したので交流も深くなり児童達の記憶に残ったのだろうという事のようだ。

 武剋隊と武揚隊が、長く当地に滞在することになった理由を探すと、この沖縄決戦の切迫に伴う爆装の増強計画がかかわるように読み取れる。
 爆装増強の為に、その分だけ機体を軽くすることになり、部品を取り去ったり、削ったりする。当然運動特性が変わるので、そのつど操縦士は試運転をするという事を繰り返していたのではないかとの想像のようだ。
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by shingen1948 | 2017-05-04 09:55 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、「きけわだつみのこえ」の長谷川信氏を紹介した後、付記の項を加え「ラジオ深夜便(2013年7月号)」の「疎開児童の見た特攻隊(きむらけん)」と松本市立博物館の戦争と平和展「特攻隊が飛び立つとき~松本から知覧へ」にふれる。

 唐突な話の転換に戸惑ったのは、当方が最近の話題に疎かったからだ。
 福島地区では原発事故で奪われた日常で心に余裕がなかった時期、会津地区では「疎開児童の見た特攻隊(きむらけん)」の話に信氏の所属する特攻隊誠31飛行隊(武揚隊)がかかわっていることが話題になっていたらしいのだ。

 今回は、そこを繋いでおきたい。

 前回は、信氏の所属する特攻隊誠31飛行隊(武揚隊)は、昭和20年2月10日に第5航空師団司令部の所在する新京において編成されたことについて整理した。
 「明治学院百年史」を確認すると、この隊のその後の動向が次のように記される。
 誠31飛行隊(武揚隊)は、新京で身辺整理などに1週間を過ごした後、待命のために一度本土に戻ることになり、2月下旬には長野県松本に到着、以降約40日をそこで過ごした。信たちが宿泊したのは浅間温泉「富貴湯」旅館であった。
 先に記した信氏の最後の帰郷は、この待機の期間中の事だったが、今回の話題は、この「長野県松本で約40日過ごした」時期に、疎開児童達との交流があったことが最近知られるようになった事とのかかわりのようなのだ。
 それは、ここでいう「疎開児童の見た特攻隊」のきむらけんさんが丹念に調べて分かったということのようなのだ。
 実は、今回会津の「わたつみのこえ」を聞いてみようと思ったきっかけの一つは「Web東京荏原都市物語資料館」サイトにふれた事なのだが、確認していったらこのサイトがそのきむらけんさんがその運営にかかわっているということが分かったのだ。
 この話題は、詳しくは「鉛筆隊と特攻隊(きむらけん)」に整理されているようだが、とりあえずはこのサイトからその情報を拾わせていただくことにする。
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by shingen1948 | 2017-05-02 09:11 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 先に略歴で示したように、信氏は昭和19年7月31日付けで「満州」の第101教育飛行団第23教育飛行隊に移されて訓練を重ね、昭和20年2月初旬特別攻撃隊の命令を受けることになる。
 その時に編成された隊が、陸軍特別攻撃隊武揚隊(誠31飛行隊)ということだ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、「明治学院百年史」を資料として、陸軍特別攻撃隊武揚隊(誠31飛行隊)の編成について次のように紹介する。
 昭和20年2月1日付、中村敏男を含め将校2人、30人の特操見習士官の中から力石、長谷川の2人、教育飛行隊長山本薫中尉、少年飛行兵4人、整備担当伍長1人の計10人が特攻隊員としての命令を受けた。
 10日第5航空師団司令部の所在する新京において別に選ばれた6人と合流、山本中尉を隊長とする誠31飛行隊(武揚隊)が編成された。
 長谷川信は力石と共に同日付で少尉に昇進した。
 「明治学院百年史」では、この昭和20年2月1日付で10人が特攻隊員としての命令を受ける時に、現場の指揮官が特攻志願者の意志を尊重してそれを活用するという便法使用の実際が紹介されている。
 その前提には、先にも示したように第23教育飛行隊は、地上の目標を急降下爆撃する軽爆撃機の操縦者を養成するためのものものであり、特攻隊員の補給源とされるのは必然であったということがある。
 (そういう状況下で、)昭和20年1月末に、漸く一人前の操縦者としての技倆を身につけた隊員たちが集められ、「栄誉ある」特攻隊員を募る旨の示達があり、志願者は〇印、志願しないものは×印を記した紙を提出するように命じられた。
 信を含めて全員が〇印を記入したことは、おそらく間違いあるまい。


 その後、選に洩れた者が上官に自分に代えてほしいと詰め寄る雰囲気だったことや力石氏の証言も挙げる。しかし、それがなくても、実際には全員が志願せざるを得ない強い心理的な圧力が作用していたことを想像するのに難くない。

 力石氏と長谷川氏の2人は、その希望する30人の特操見習士官の中から選ばれて特攻隊員となったという形式で、特別攻撃隊の命令を受けたということだ。
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by shingen1948 | 2017-05-01 09:50 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「Web東京荏原都市物語資料館」によれば、本土では、(特攻という) 人の命の犠牲を前提とした作戦を天皇の名において実施するのはまずいと考え、現場の指揮官が特攻志願者の意志を尊重してそれを活用するという便法を使ったという。
 従って日本本土では皇室は関わらせなかったとのことだ。

 ところが、実際に編成を請け負った第二航空師団というのは、関東軍傘下にあった。
 それで、昭和20年2月10日に、「関東軍、第二航空軍主催の編成及出陣式並びに特攻四隊の全員が出席して盛大な壮行会を開催」された際に、関東軍の采配によって満州国皇帝謁見も行われたのではないかということだ。
 その謁見のときの印象の記録として、「憧れた空の果てに(菅井薫)【鳥影社】」からの引用として以下の事が紹介される。
 一際長身の体躯を軍礼装に包んだ満州国皇帝の溥儀皇帝閣下に拝謁の光栄を賜る。すでに委細承知の上での拝謁、陛下の御目に潤いのあるのを認められた。感激も新たに宮内府を後にした。
 
 その謁見の裏付けとなるのが「恩賜の煙草を包んだ黄色い布」とその証言で、これが最近見つかったとのことだ。
 新京で特攻隊四隊の編成及集結完了時に満州国皇帝に拝謁をして記帳した時に、恩賜品として下賜されたのが恩賜の煙草で、それを包んでいたのがその黄色い布ということのようだ。

 現場の指揮官が特攻志願者の意志を尊重してそれを活用するという便法の実際については、「明治学院百年史」に詳しく記される。
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by shingen1948 | 2017-04-30 09:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 長谷川信氏は、「会津の『わたつみのこえ』を聞く⑥」で示したように、明治学院から学業なかばにして「学徒出陣」し、「特攻隊員」となって戦死をとげる。
 その「学徒出陣」と「特攻隊員」については、何となく分かっているような気になっているところもあるが、その概略を確認する。そして、そこに「学徒出陣」後の略歴情報を重ねてみる。

 まずは学徒出陣だが、第二次世界大戦終盤の昭和18年(1943)に兵力不足を補うため、それまで兵役免除とされていた高騰教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生を在学途中で徴兵し出征させたこととのことだ。
 その年の10月21日に、明治神宮外苑競技場で文部省主催、陸海軍省等の後援「出陣学徒壮行会」が実施される。
 その壮行会が終えると、学生は徴兵検査を受けて12月に陸海軍へ入営することになる。その入営時に、幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったという。

 次に特攻隊だが、こちらは、生還の見込みが低い決死の攻撃、もしくは戦死を前提とする攻撃を行う攻撃隊のこと。
 その特攻隊員は、主に現役士官/将校と予備役士官(将校)と准士官、下士官で構成されていたとのことだ。
 信氏が所属した陸軍の場合、陸軍士官学校・陸軍航空士官学校の卒業生と下士官からの昇進者(少尉候補者)で構成されていたとのこと。
 また、予備役士官は、主に特別操縦見習士官出身者から構成されていたという。
 下士官は陸軍少年飛行兵出身であり、特攻出撃人数は圧倒的に多く、特攻隊編成上の主軸となったとのことだ。

 「明治学院百年史」では、長谷川信氏の陸軍入隊後の動向について、その岐路での選択判断について考察しているが、そこから略歴情報を拾ってみる。
 
 学徒出陣することになった信氏は、10月27日に故郷で徴兵検査を受けて、甲種合格となり、12月1日に陸軍へ入隊する。
 陸軍に入った信氏は、幹部候補生試験を経て特別操縦見習士官(第2期)に合格する。そして、昭和19年2月から熊谷飛行学校館林教育隊で訓練を受ける(約六か月)。

 昭和19年7月31日付けで「満州」の第101教育飛行団第23教育飛行隊に移される。
 この隊は、地上の目標を急降下爆撃する軽爆撃機の操縦者を養成するためのものものであり、特攻隊員の補給源とされたとのことだ。

 ここで訓練を重ねて、昭和20年2月初旬特別攻撃隊の命令を受けることになる。
 2月10日少尉任官し、その日に編成された陸軍特別攻撃隊武揚隊(誠31飛行隊)の一員となる。
 この隊は、台湾の第8飛行師団に配属されることになるのだが、信氏は、4月12日早朝、その台湾への移動中に戦死を遂げる。

 この略歴を眺めるだけでも、信氏が「特攻隊員」となって戦死をとげることになる道筋が見えているような気がする。
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by shingen1948 | 2017-04-29 09:26 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)