地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 福島と戦争( 69 )

 渡利模擬原爆では一人の方が亡くなっているのだが、その事は、記事には登場しない。「被害極めて軽微なり」とし、極めて軽微な被害の一つに含まれているという構成だ。
 そのかわりに、着弾地点近くにいたにもかかわらず生き延びた方が紹介される。
 記事によると、その方は「『ナーニ、俺達は泥を被っただけですよ』と至って元気だった。」そうだ。ただ、もしもこの5t爆弾が着弾してさく裂した位置に建造物があったりすれば「被った泥」は、瓦礫ということになるはずだ。単なる道路であったとしても、その被った泥というところは、砂利や瓦礫ということになるはずであり、この方たちは即死するところだったということだ。生き延びたのは、着弾がたまたま田んぼだったので、泥を被って済んだということであり、単に運の良さだったに過ぎないということだ。
 実際の生死にかかわる被害は、さく裂した爆弾の破片が当たった方1名だったが、これが着地点が少しずれれば、それだけでは済まなかったはずなのだ。

 この時に福島で報じられることのなかった亡くなられた方の様子については、東京の地方新聞である「東京新聞(2012/7/18)」で知ることができた。
 このことは、先にも整理したが、再掲する。
 「弟奪った「模擬原爆」に原発事故重ね 大事なこと知らされねぇ」と題したの記事の中に、亡くなられた方の姉が次のように証言されたと紹介される部分があった。
 自宅から数百メートルの田で弟が命を落としたのは、一九四五年七月二十日の朝だった。
 「姉ちゃん、俺が行ぐから」。雲がたれ込め、今にも雨が降りだしそうな空模様。五つ年下の隆夫さんが蓑(みの)と笠(かさ)を身にまとって田の草取りに出掛けた。見送ったミチさんが弟の言葉を聞いた最後となった。「なぜか寂しげな目をしてたな」
 落雷のような炸裂(さくれつ)音と地響きがした。米軍の爆撃機が投下した一発の火薬爆弾。いろりの下座に腰掛けて地下足袋を履こうとしていたミチさんは、敷居まで吹き飛ばされた。母と二人で近くの山に逃げると、弟が除草をしていた田から黒煙が上がっていた。
 「かあちゃん、隆夫やられた」。山を駆け降りたミチさん。爆風で水がなくなった底土の上に、泥まみれで腹部をえぐられた遺体を見つけた。あまりの衝撃に泣くことすらできなかった。
 この爆弾は、人類初の原爆投下を成功させるために米軍が訓練として投下した模擬原爆だった。ただ、模擬原爆の存在や被害は、国民に長く知られることはなかった。
 隆夫さんの命を奪った爆弾の破片は、近くの瑞龍寺に保管されている。見つけたのは父親。爆死から十数年後、「息子の供養に」と寺に預けた。
 戦後、農業や看護の仕事をして嫁がずに家計を支えてきたミチさん。「隆夫をはじめ多くの人が亡くなったのに、戦時中のラジオは『わが方の損害軽微なり』と流してた」。そんな憤りの矛先は今、東電に向く。
 ここに「被害極めて軽微なり」としたことへの怒りは、表現されているが、今回の企画展に参加して分かったのが、もっと深い怒りだったのではないかということだ。

 報じられたのは、待避の姿勢を正しくとれば、どんな時でも生き延びるということだ。それが、今でも語り継がれているということは、ここで培われた価値観は、今でも健在だということだ。
 ということは、この時に亡くなられた方に浴びせる世間の目には、この待避姿勢が取れなかったのではないかという耐え難い批判の価値感が込められていたのではないかということだ。「爆風で水がなくなった底土の上に、泥まみれで腹部をえぐられた遺体」の状況から、客観的に見ればそんな問題ではないはずだが、ここで形成された価値観で見る世間にも嫌気がさしていなかったかとも思う。
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by shingen1948 | 2015-11-13 08:23 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 この記事の内容を確認していて気になるのは、被害を最小に見せたい意図が感じられることだ。このことに関しては先に整理している。
a0087378_635369.jpg 今回は、「語りつぐ『戦争の記憶』」にも参加してお話をお伺いした。その中心的な話題ではないのだが、どなたもふれられたのが、空襲にあった時の待避の姿勢だ。爆風で目や内臓が飛び出さないように、口と目を手で押さえ、地面に伏せるのだそうだ。
 これを懐疑的に説明されるのではなく、その正しい姿勢をとることができたことが、生きのびることができたこととかかわるというような感じで説明されていたことだ。
 ということは、先に被害を最小に見せたい意図が感じられることとした次の記事の精神は、この時代を体験された方にとっては、今でも否定される価値観ではなさそうだと感じられた。
 否定的に、被害を最小に見せたい意図が感じられるとしたこの記事の別の読み取りがあるようだということを確認しておく。
 現場に伏せて助る 圃場護る烈々の農魂 
 畜生!敵機は遂に福島市郊外を襲って遁走して行ったが、昨日廿日朝いきなり落したのはたった一発、全くの盲爆振を発揮して水田に大穴を開け、徒に県民の物笑ひの種をまいたに過ぎなかった、この朝、逸早く警戒警報は発令されたが、流石に東北の農村魂は田の草取りに忙殺されてゐた『この田が俺達の戦場なのだ』―この気構へがいきなり爆弾の落下音が耳に入った瞬間、皆を畦の陰に伏せさせた、作物の被害は二枚の水田が埋った位で、あと附近の十枚ほどの田が吹っ飛んで来た泥塊を取り除けばこの秋の穫り入れには差支へない程度である、今までやゝ空襲騒ぎにおびえ過ぎてゐた感じのこの農村も、却って拍子抜けのした様な表情をしてゐた、落下現場から僅かに卅米位しか離れない所で田の草を取ってゐた尾形金市さん(五六)菅野文吉さん(四十)等は『ナーニ、俺等は泥を被っただけですよ』と至って元気だった

 この朝、逸早く警戒警報は発令されたが、流石に東北の農村魂は田の草取りに忙殺されてゐた『この田が俺達の戦場なのだ』―この気構へがいきなり爆弾の落下音が耳に入った瞬間、皆を畦の陰に伏せさせた、作物の被害は二枚の水田が埋った位で、あと附近の十枚ほどの田が吹っ飛んで来た泥塊を取り除けばこの秋の穫り入れには差支へない程度である、今までやゝ空襲騒ぎにおびえ過ぎてゐた感じのこの農村も、却って拍子抜けのした様な表情をしてゐた、落下現場から僅かに卅米位しか離れない所で田の草を取ってゐた尾形金市さん(五六)菅野文吉さん(四十)等は『ナーニ、俺等は泥を被っただけですよ』と至って元気だった

 『山の陰からいきなり爆音が聞えたと思ったら大きい音がしました、今考へるとあれが落下音だったんですね、雨戸を七、八枚一ぺんに開ける様な音がしたので、いきなり土の中にもぐる様に突伏したんですが―此れで助ったんです、田畑は俺等の死場所だから、あくまでも護り抜く覚悟ですが、ぼんやり立ったまゝでゐたりすると危険だと云ふことがハッキリ判りました 畔の蔭でも何でも物陰があったら素早く退避すれば恐しいとは思へない、素掘りでもいゝから穴を掘ることにします
 ―これ等の人達の話を現場の状況から判断すると、田畑の様に軟泥の土地に落ちたときの爆風は非常に死角が大きいといふことである 吹き上った泥はほとんどもとの落下現場に落ちて堆く積まれてゐることから見ても、待避の姿勢は出来るだけ低く伏せるのがよく『落下音を聞いたら伏せる』覚悟さへ常にできてゐれば、警報下と雖も田畑は護り通せるのだ、各被害地共通の敵愾心はこゝでも噴き上って、敵機はたった一発の爆弾で却って戦ふ農魂を振起した結果となってゐた、近くの国民学校の加藤校長も『思ったほどではありませんでした』と次のように語ってゐる

 ならばということで気になるのは、この爆弾で亡くなられた方をどう見ているのかということだ。 
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by shingen1948 | 2015-11-12 08:57 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「福島民報」は、翌日の昭和20年7月21日、「福島郊外に投弾~水田に大穴・盲爆に市民は奮起」と題して渡利模擬原爆投下を伝えている。福島市史編纂室企画展では、その全文が明確にわかる展示だったので、昨日はそのことを整理した。

 この記事の内容を確認していて気になるのは、被害を最小に見せたい意図が感じられることだが、もう一つ気になることがあった。それが、報じられる爆弾と投下された渡利模擬原爆の実際の大きさとのギャップだ。
 投下された渡利模擬原爆の大きさが、実際には原爆と同じ重さの4.5tであることについては先に整理した。しかし、報道記事では「置き土産に五百キロ爆弾1個を福島市郊外の水田に投弾する」とある。1/10の大きさの500キロで報道されているのだ。
a0087378_594453.jpg 先の整理で、「500キロ爆弾破片 福島市教育委員会蔵」とされる爆弾片を福島市歴史資料館」に展示されていることについてふれたが、このことともかかわるような気がする。
 写真を整理していたら、その表示が見つかったので、ここに貼り付けておく。

 今回の展示会にも「渡利模擬原爆片」は展示されるが、今回の案内表示は「渡利模擬原爆片」となっている。これが、福島民友新聞社論説委員紺野滋氏の講演会の時に示された模擬原爆片と同じものである。瑞龍寺の破片に比べて、やや焼けただれているような気がする。
 これが、先に「昭和20年福島市渡利に降下(投下)セルモノ」と紹介され、裏に「米軍500キロ爆弾破片」として整理されているものなのかどうかは、ケースに入っていて確認できなかった。

 何故1/10に縮小されているかということだが、いろいろ確認していくと、当時の日本で考えられる爆弾の最大の大きさが500kgであったことが分かる。でかい爆弾=500kg爆弾というのが、当時の常識だったらしいということだ。
 それで、大きい爆弾を「500キロ爆弾」と固有名詞化されているような感じだ。
 実際の普通の空襲のイメージは、何百機もの飛行機が編隊を組んでやってきて、焼夷弾の雨を降らせていく中で、いくつもの爆弾を投下するということのようだ。その中のでかい爆弾が、「500キロ爆弾」というものだったということのようだ。

 ところが、実際の模擬原爆(パンプキン)投下の空爆は、単機あるいは少数機のB-29がやってきて、1個の巨弾を投下して去っていくという独特のスタイルのようだ。
 これが、どうも500キロのでかい爆弾よりももっと大きいぞということで、超大型爆弾のイメージで、「1トン爆弾」という情報もある。半沢氏の「歴史地図」のメモでは、「1トンか?」と表記されていて、こちらが採用されている。
 実際に渡利に落とされた模擬原爆は4.5tで、日本で考える超大型爆弾のイメージと比べても、更に4~5倍の大きさだったということだ。
 これは、意図的に小さく見せようとしたのではないと思う。日本で最大の爆弾とイメージする爆弾の約10倍の大きさの爆弾が投下されたとみるべきなのだろう。B29は、その想像を絶する大きさの爆弾を運ぶことができる飛行機だったということでもある。
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by shingen1948 | 2015-11-11 08:08 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 昨日は、渡利模擬原爆投弾と着弾の関係を、「福島郊外に投弾~水田に大穴・盲爆に市民は奮起」と題した「福島民報」の記事をもとに整理してみた。
 今回展示されるその「福島民報」の記事のコピーは持っているが、この手持ちの資料は図書館のマイクロフィルムでこの部分を印刷させていただいたものなので、不鮮明なところがある。
 今回の企画展で展示される資料は鮮明である上に、清書解説されたものまで添付展示されている。 記事内容をより明確にとらえることができるようになったということも、今回の展示会に出かけてきた成果の一つだ。
 添付展示された清書解説される記事は次のようだ。
 福島郊外に投弾 水田に大穴・盲爆に市民は奮起
 県警防課発表(正午)二十日午前八時四十分頃大型と判断せらるゝ少数機は県内に侵入県下を行動したる後一部農村に無差別爆撃をしたる後九時三丗分頃東南部洋上に脱去せり、被害極めて軽微なり
廿日午前八時卅分頃突如福島市上空に爆音を響かせた敵大型機一機は雲上を旋回し北東に機首を向けた際置土産に五百キロ爆弾一個を福島市郊外の水田に投弾するやそのまゝ北東部から洋上に逃げ去った、被害は水田約三反歩に大穴を明けた程度だった、敵機は『この辺が福島市だらう一発落して驚かせてやれ』と雲上から盲滅法に投弾したのが福島市の中心部から二キロ以上も離れた山間の水田に落ちたものとみられ帰り際に驚かせてやれと云ふ神経戦には福島市民や信夫郡民は決して驚かぬ、初の投弾だけにやゝもすると知ったかぶりをする人間が出たり誇大に被害や爆弾の威力をお喋りする者が出やすいが、こんな者にこそ敵の神経戦的爆撃に乗ぜられたと云ふべきで、われわれはあくまでこの戦訓を好奇心を満足させる道具としてはならぬ
 現場に伏せて助る 圃場護る烈々の農魂 
 畜生!敵機は遂に福島市郊外を襲って遁走して行ったが、昨日廿日朝いきなり落したのはたった一発、全くの盲爆振を発揮して水田に大穴を開け、徒に県民の物笑ひの種をまいたに過ぎなかった、この朝、逸早く警戒警報は発令されたが、流石に東北の農村魂は田の草取りに忙殺されてゐた『この田が俺達の戦場なのだ』―この気構へがいきなり爆弾の落下音が耳に入った瞬間、皆を畦の陰に伏せさせた、作物の被害は二枚の水田が埋った位で、あと附近の十枚ほどの田が吹っ飛んで来た泥塊を取り除けばこの秋の穫り入れには差支へない程度である、今までやゝ空襲騒ぎにおびえ過ぎてゐた感じのこの農村も、却って拍子抜けのした様な表情をしてゐた、落下現場から僅かに卅米位しか離れない所で田の草を取ってゐた尾形金市さん(五六)菅野文吉さん(四十)等は『ナーニ、俺等は泥を被っただけですよ』と至って元気だった
 『山の陰からいきなり爆音が聞えたと思ったら大きい音がしました、今考へるとあれが落下音だったんですね、雨戸を七、八枚一ぺんに開ける様な音がしたので、いきなり土の中にもぐる様に突伏したんですが―此れで助ったんです、田畑は俺等の死場所だから、あくまでも護り抜く覚悟ですが、ぼんやり立ったまゝでゐたりすると危険だと云ふことがハッキリ判りました 畔の蔭でも何でも物陰があったら素早く退避すれば恐しいとは思へない、素掘りでもいゝから穴を掘ることにします
 ―これ等の人達の話を現場の状況から判断すると、田畑の様に軟泥の土地に落ちたときの爆風は非常に死角が大きいといふことである 吹き上った泥はほとんどもとの落下現場に落ちて堆く積まれてゐることから見ても、待避の姿勢は出来るだけ低く伏せるのがよく『落下音を聞いたら伏せる』覚悟さへ常にできてゐれば、警報下と雖も田畑は護り通せるのだ、各被害地共通の敵愾心はこゝでも噴き上って、敵機はたった一発の爆弾で却って戦ふ農魂を振起した結果となってゐた、近くの国民学校の加藤校長も『思ったほどではありませんでした』と次のように語ってゐる
 『昨日の朝は警報が登校時だったので児童は三分の一位しか登校してゐませんでしたが、全部防空壕に待避させてゐたので一人の被害者もありませんでした、校舎の硝子が半分ほど壊れた程度でした、敵機が退去した後、児童達も割に落ちついてゐるのも責任者として安心しました』
 どこの例を見ても同じだが、空襲騒ぎは常に害が誇大に喧伝されてゐるが、これは皆が注意しなければならないことである、たゞ昨日の朝の遺憾だった点は、敵機が退去した後、不注意にも爆弾の破片が藁屋根に突きさゝり、そこから小火騒ぎを惹起したことである、これなど三、四分間ほど白煙が昇った程度なのだから、極く一寸した注意を忘れずに附近の者が見廻りさへすれば防げたことなのだ
 火災にも注意 警報下硝子の処置を忘るな 
 今回の爆弾は比較的大型とされてゐるもので現場附近の家屋に爆風のいたづらがそちこちに見られることと爆弾投下後数十分を経てから弾片による小火の発生をみた事は農村に多い茅葺家屋に住むものにとっていくつかの戦訓を与へた、この戦訓を今後活かして益々鉄壁の防空態勢を控へ醜○撃滅に県民は挙って邁進しよう、爆風に対して一番危険なのはガラス類で特に屋内のガラス戸、窓等であるガラス戸、窓は空襲警報発令と同時に取り除く事になってゐるが現在の如く少数機の来襲には空襲警報は発令されないので警戒警報発令とともに実際は空襲態勢に移らねばならぬのだが今回の被害状況は視るに単機空襲だったので一般は『また少数機か――』と云った甘い考へ方から殆どこの空襲に対する準備行動を起してゐなかった点が大きく目立つ、建具を全部ガラス戸とした其家は雨戸も閉めずにゐた為ガラス戸は木端微塵になり棚の品物は落下した、幸ひに人には損害はなかったが現場をみると廊下にぼやっとしてゐた十歳の子供と室内にゐた妻君も怪我一つしなかった事はむしろ奇跡である、今後はガラスに対しては全部紙を貼るとか、取りはづして置く事が必要だ、例へば戸、襖などを取りはずして置けば爆風は窓から窓へ抜けて被害も僅かで済む、特に学校などの如く全部ガラス窓を使用している処は紙を貼る事実施しなければならないのに同所の国民学校は何んの準備もしてなかった、今一つの戦訓は普通の破壊用爆弾の破片でも火災が起るといふ事である、落下現場から約五十米は慣れた農家の屋根から数十分後に火が発生した、これなどは屋根が茅葺きのため非常に引火しやすい点もあったが炸裂した瞬間の弾片は灼熱してゐるもので、この破片が燃焼物についた場合忽ち火を発するのは当然だから爆弾だからといふので安心してゐてはならぬことを教へてくれた、焼夷弾の場合だけでなく爆弾の時でも附近の人達は一応自分の家の周囲を調べる事を忘れてはならない、茅葺屋根の場合その破片は相当深くまで突きさゝるからよく調査する事と暫く経って再び異状なきかをみる事が肝要だ、今回の場合は現場附近の火災のため人員の応援も多かったし、防自動車も来てゐたので大事に至らず消し止めたがこの際痛切に感じた事は水の不足だ、水の必要性は幾度となく叫ばれてゐるが未だその用意のないのは農村ばかりであらうか県民は今ぞ防空態勢を詳細に再検討せねばならぬ
 
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by shingen1948 | 2015-11-10 08:42 | ◎ 福島と戦争 | Comments(2)
 「福島民報」は、翌日の昭和20年7月21日、「福島郊外に投弾~水田に大穴・盲爆に市民は奮起」と題して、この渡利模擬原爆投下を伝えている。前回の整理時には、図書館のマイクロフィルムでこの部分を印刷させていただいたものを手持ちの資料としたが、部分的に読み取り切れていないところがあった。
 この展示では、鮮明な資料である上に、この記事の内容を清書したもので解説されている。

 この記事の中で、渡利模擬原爆投下にかかわる部分を確認すれば、次のようだ。
 「20日午前8時3分頃 突如福島市上空に爆音を響かせた敵大型機1機は 雲上を旋回し北東に機首を向けた際 置き土産に五百キロ爆弾1個を福島市郊外の水田に投弾するや そのまま北東部から洋上に逃げ去った。」

 ここでいう「敵大型機1機」は、B29のことだろうことは明らかだ。
 記事によれば、このB29が午前8時3分頃に雲上を旋回していたということのようだ。そのB29が北東に機首を向けた際、置き土産に五百キロ爆弾1個を福島市郊外の水田に投弾するのだが、ここに前の整理時の情報と重ねれば、それが午前8時34分ということになる。模擬原爆投下後、そのまま北東部から洋上に逃げ去ったと読める。

 前回まで投弾が着弾地点の南西とみていたのは、「北東に機首を向けた際」に投弾ならば、飛行機は南西方向からの侵入になるはずだと思ったからだ。ここが違えば、目標地点福島駅と実際の投弾の関係は曖昧になる。

 ここに、昨日整理の「東南の方」から侵入してきたという地元の情報を重ねてみる。
 この記事の前半に「雲上を旋回していた」とあることも考慮すれば、「東南の方」から侵入してきて、「雲上を旋回した」B29が、「旋回して北東に機首を向けた際に、渡利模擬原爆を投下して、そのまま北東方向に消えていった」ということになりそうに思う。
 これもありそうな気がする。
 そうならば、力のベクトルをも考慮して渡利模擬原爆を投弾地点が推定できそうに思う。
 着弾地点のやや南西地点という想像だ。このイメージも成り立つようにも思うが、どうだろうか。

 この想像と前回整理のパイロットの投弾目標証言を重ねれば、、「盲爆」などではなさそうだということが分かる。やや経度がずれただけなのだ。
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by shingen1948 | 2015-11-09 08:26 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
a0087378_3205411.jpg 「8時34分を指して止まった柱時計(福島市 羽田穂一氏蔵)」は、福島民友新聞社論説委員紺野滋氏の講演会の中で、スライドで紹介されたものの実物だ。
 この時計については、先に「模擬原爆と福島⑨~渡利の模擬原爆にかかわる遺物情報②」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/16747904/
 この時計は、福島市のホームページの「原爆にまつわる福島の悲劇」でも紹介それている。なお、このページで紹介される模擬原発の破片は、福島市渡利の瑞龍寺に保管される破片だが、この企画展では、福島市歴史博物館が所蔵する方の破片が紹介される。
 http://www.city.fukushima.fukushima.jp/soshiki/1/15.html
 今回整理の模擬原爆投下地点の想像とかかわるのは、ここに添えられた羽田徳治氏の「忘れられない7月20日…」の以下の部分。
 昭和二十年七月二十日その日はどんよりと曇った日でした。朝、私は庭で鎌を研いでいました。突然、重々しいエンジン音が聞こえ、シューと物が落ちてくるような音がした瞬間、キ―ンという耳なりがして何も聞こえなくなったことを覚えています。爆弾が落とされたのは、渡利字四反田(現沼ノ町)というところで、私の家の田んぼでした。飛行機は見えませんでしたが、東南の方から飛んできたように思います

 展示された「忘れられない7月20日…(羽田徳治氏)」全文は以下の通り。
 忘れられない7月20日…
 羽田徳治さん(渡利69才)
 (時計を膝に抱えた写真)
 昭和二十年七月二十日その日はどんよりと曇った日でした。朝、私は庭で鎌を研いでいました。突然、重々しいエンジン音が聞こえ、シューと物が落ちてくるような音がした瞬間、キ―ンという耳なりがして何も聞こえなくなったことを覚えています。
 爆弾が落とされたのは、渡利字四反田(現沼ノ町)というところで、私の家の田んぼでした。飛行機は見えませんでしたが、東南の方から飛んできたように思います。四方の稲はカミソリでても切られたように削りとられていました。
 わが家の屋根瓦も壊され、のちに三千七百枚ほど取り替えました。爆風で午前八時三十四分指して止まっていた柱時計を、今も大切に保管しています。
恒久の平祈念して 福島市戦後50年記念事業」より

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by shingen1948 | 2015-11-08 08:18 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 前回は自分の興味から「渡利村警防団日誌」を見てみたが、今回は展示会の趣旨からも整理しておく。

 展示会の解説では、この「渡利村警防団日誌」の資料価値については次のように示される。
 日々の活動や警戒警報・空襲警報の発令・解除の時刻、空襲の状況などを克明に記載されており、リアルタイムに記録された貴重な資料となっています
 その上で、今回の展示で読み取ってほしい意図を、次のように伝えている。
 福島市は空襲もなく、のどかだったという声を聞くことがありますが、昭和20年の七月は毎日、日によっては一日に数回、警戒警報・空襲警報のサイレンが鳴っています。警報がなった時刻などに注目しながらお読みください。
a0087378_5515971.jpg そういった意図のもとに「渡利村警防団日誌」が展示されるので、七月二十日の記載部分のコピーも展示され、その内容の清書も示される。
 昨日は、この部分から自分の興味につなげた読み取りを整理したが、展示は、それに加えて「昭和20年7月の渡利村の警戒警報・空襲警報の発令と解除」表も示される。
 更に、その発令回数が多くなったので5月1日から発令の種類によってサイレンの鳴らし方を変えるようになったことを地域住民への周知した部分も展示される。
 これらは、銃後の日常生活が、今考える日常生活度は大きく違っていることを感じてほしかったのだろうと想像する。

 こういった銃後の日常生活を背景に背負った中で、昨日整理の模擬爆弾が投下されたという経緯になるというふうに受けとめる。

 その銃後の日常生活の資料補強として、「塩通帳」や「軍隊手帳」・「徴兵適齢届」・「村葬」にかかわる資料などが展示されていた。
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by shingen1948 | 2015-11-07 08:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 今回示された「グランド0地点」は、こんな風景だ。
a0087378_4484514.jpg 前回、模擬原爆は西から放物線を描いてここに着弾して炸裂したとのイメージを持った。それで、その着弾の反作用によって、爆弾の破片は着弾地点から西方に散らばって被害を拡大したとすれば、渡利病院の南側が被害地だったとする情報と辻褄が合うと思ったのだ。

 しかし、今回の展示会で示された現地情報では、「東南の方から飛んできた」との証言が主流のようだ。展示される「渡利村警防団日誌」を模擬原爆資料として眺めれば、気になるのは、七月二十日の記載内容だ。
 渡利村警防団日誌
 七月二十日午前七時三十六分警報発令 一、同九時三十六分警報解除
一、同十二時十二分警報発令 一、同一時二十三分警報解除
一、二十日午前八時三十分頃東南方面ヨリB29大型一機雲上ヨリ
投弾五百キロ爆弾一個渡利字町屋敷約百閒西ノ
畑ノ中丹治石松、羽田徳之助所有ニ大穴をアケタ被害
ハ拾間四方深サ二丈ノ大穴ソレガ為水田約一町歩ノ被害
死者一名 火災五ヶ所カラ発火セルモ最小ニシテ処理セリ
字町部落家建物ハ相当ニ被害アルモ警防団員全員
出動シテ当日手伝ヲ行フ又国民学校モ相当ノ
被害アリ(爆弾ノ落ちた被害ハ穴ノ幅十二間深さ二十尺アリ)
 模擬原爆着弾とかかわるのは、次の部分だ。
 一、二十日午前八時三十分頃東南方面ヨリB29大型一機雲上ヨリ
 投弾五百キロ爆弾一個渡利字町屋敷約百閒西ノ畑ノ中丹治石松、羽田徳之助所有
 また、模擬原爆投弾とかかわるのは、「東南方面ヨリB29大型一機雲上ヨリ投弾」と記される部分だ。ここでは、福島駅南側を投下目標としていたのだが、東南方面から渡利の地点に差し掛かった時点で、見誤って投弾したという経緯とみているということだろう。
 なお、目視の投弾ではなく、計測による投弾だったことについては、先のアメリカ側の資料で確認している。ここで「雲上ヨリ投弾」とあるのは、目視の投弾ではなく、計測による投弾にした理由にもなっている。
 「8時34分を指して止まった柱時計」という別展示に添えられた羽田徳治氏の「忘れられない7月20日…」という文章でも、「東南の方から飛んできたように思います」とある。
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by shingen1948 | 2015-11-06 08:43 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
a0087378_220421.jpg これは、福島民友新聞社論説委員紺野滋氏の講演会で示された模擬原爆着弾による地形が変形した地点の航空写真だ。この航空写真に写る模擬原爆着弾による地形変形地点と現在の地図を見比べて「グランド0地点」を推定したのが、前回「模擬原爆落下位置予想地点」としたところだ。
 ただ、この辺りは開発が進んでいて、すんなりと確定できる状況にはなかった。読み取れたのは、当時の渡利の中心的な集落のあった地域の北西隅付近であるということだ。その集落隅から西に延びる道筋と航空写真に写る道筋の重なりは、ある程度の推定はできたが、自信はなかった。

 それで、半沢氏の「フィールドワーク地図」の情報と、講演会の中で得られた着弾地点情報を加味して、「グランド0地点」を推理していた。
 主として講演会の中で得られた着弾地点情報は、着弾点が渡利病院の南側ということと岩崎郵便局から南に約100m以内付近という位置関係にかかわることだ。それに、GPSで確認すると民家の駐車場と一致したということだ。その民家の特定には至らなかった。
a0087378_2232415.jpg もう一つ加味したのは、別の展覧会で示されたこの模擬原爆投下地点の写真解説だ。その写真に写る民家の駐車場が、GPSで確認したという民家の駐車場と一致するのだろうという推測だ。
a0087378_2291288.jpg
 これらの情報と散歩で見た風景とを照らし合わせ、地図を眺めまわしてこの辺りだろうと予想して青色で〇印をした地点が、前回の「模擬原爆落下位置予想地点」だ。その図に、今回示された地点を赤色〇で示したてみた。
 前回予測のやや南側の地点だ。
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by shingen1948 | 2015-11-05 08:19 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 今年は、例年行われている戦争展に加え、「まちなかふくしまの歴史情報発信『戦後70年~戦争をみつめる平和に感謝する~』」という戦争展が福島市史編纂室によって企画された。戦後70年という節目の年ということもあるのかもしれない。
 時期外れではあるが、8月20日にチェンバおおまちで開催された「ギヤラリートーク&語りつぐ『戦争の記憶』」に出かけた事を整理しておきたい。
 展示会の方は、1開戦、2銃後の生活、3村葬、4模擬原爆、5終戦、6エピローグの観点に新聞報道資料を中心に構成し、その中に、福島にかかわる資料を展示するという感じの展示だった。
 一通り目を通して、「4の模擬原爆」にかかわる展示を中心に確認した。
 これは、太平洋戦争時に福島市渡利に落とされた模擬原爆についての展示だが、このことについては何回か整理している。前回の整理は、福島民友新聞社論説委員紺野滋氏の講演会にでかけた時だったが、新たな情報が得られるかもしれないという期待感だ。

 前回の整理で感じたことは、落とした側には驚くほどの正確な情報が存在するのだが、落とされた側の情報は曖昧なものがあるということだった。中には、落とした記録があるのに、落とされた側に記録がないというものまである。そこまではいかなくても、落とされた側の被害情報は記録されているが、これがその模擬原爆と意識されていないというものもある。更に気になったのが、落とされた側の記録も存在するが、正確な記録のみで、被害証言などの情報として生々しさに欠けるというものもあった。
 これらに、付加する情報が得られるかという興味だ。
a0087378_6483924.jpg 最初に気になったのが、グランド0地点の表示だ。
 前回は、航空写真に写る模擬原爆着弾による地形変形地点と現在の地図を見比べてグランド0を推定したところだった。ただ、この辺りは開発が進んでいて、間違いなくここというイメージにまでいたっていなかった。
 ここで示された「グランド0地点」と推定したそれとを見比べて、確からしさを高めたいと思った。
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by shingen1948 | 2015-11-04 06:51 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)