地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 福島と戦争( 128 )

 猪苗代湖を百駄船で運ばれてきた猪苗代第一発電所送電線や資材、それに周辺各浜から採取されて達磨舟に積まれた砂利や砂は、戸ノ口港あるいはその近くで荷揚げされる。
 荷揚げされたそれらの資材は、工事専用軌道で工事現場まで運ばれたという。

 その工事軌道跡については、「街道Web」の「猪苗代第一発電所工事軌道(河東町)」に「戸ノ口専用鉄道」として、その詳細が記されている。
 http://kaido.the-orj.org/stop/dai1/dai1-04.htm

 ここまで確認作業を進めてきたのは、自分を「きけわだつみのこえ」に紹介される長谷川信氏の世界に導いて下さった木村健氏が、この「戸ノ口専用鉄道」廃道後の道筋を使って長谷川信氏の石碑を訪ねてきているらしいことが分かったからだ。
 その取材については「下北沢X新聞(1676) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて5~」に記されるが、この様子を確認するための下調べということでもあったのだ。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51704035.html 

 氏は、本当は長谷川信氏と同じように会津若松市から20㎞の道を歩くことも考えたようだが、無謀なので磐越西線磐梯町駅からの歩きとしたとのことだ。

 その描写から、まずは、現・磐越西線磐梯町駅(旧大寺駅)から、猪苗代第一発電所地内まで敷設されたとする工事専用軌道廃線後の道筋を歩いたことが分かる。
 そこで、一度不安になって駅まで戻り、その道筋でよいとの案内を受けて、その奥まで進み始める。発電所の奥の橋を渡って突き当たった道筋が、「街道Web」が紹介する「戸ノ口専用鉄道」廃道後の道筋なのだと思う。

 次に、その「戸ノ口専用鉄道」廃道後の道筋を東進したのだと思う。
 ゴルフ場を過ぎて「そのうちに大きな水路にぶつかった」というのが、現在の「戸ノ口堰取水口」辺りの風景なのだろうと思う。
 そこまでに見え隠れしていた水路についての描写はないが、それが発電所用の水路で、この水路の工事用資材と膳棚山から猪苗代第一発電所に落とし込む水路の資材が、この「戸ノ口専用鉄道」で運ばれていたのだろうと想像する。

 木村氏が「ナリ会津ゴルフ場」を過ぎたあたりで訪ねた数軒の集落は、戸の口原の集落とのことなので、別名大野原の集落だろうと想像する。(氏は、ここを戸ノ口集落の本村と勘違いしているように思う)
 そこから軽自動車に乗せられて「戸ノ口原古戦場」に向かい、二本松裏街道の道筋か、湖畔沿いの道筋にそって向戸ノ口を経由して十六橋に向かったのだと思う。
 そして、その十六橋を渡って地蔵堂を過ぎて「長谷川信碑」に辿り着いたということのようなのだ。

 木村健氏は児童文学作家とのことだが、自分が持つ児童文学作家という肩書からイメージする姿からは想像できない程の行動力に驚く。
 自分には地元意識があったのだが、その意識だけでは彼の行動の詳細を捉えることはできなかった。
 いろいろな確認を通して、ようやく彼の歩いた道筋とその背景が想像できたということだ。
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by shingen1948 | 2017-09-09 16:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑭:戸ノ口の風景とその変遷④」では、郡山―若松間に岩越鉄道が開通したことによって湖上運送は衰退するという前提で話を進めた。 それでも、明治32年(1899)に会津中学校端艇部戸ノ口艇庫が創設される頃までは、その湖上交通の賑わいの名残はあった筈だとした。

 しかし、確認を進めていくと、郡山―若松間に岩越鉄道の開通の影響で湖上運送が衰退したとする前提は、単純化し過ぎているということが分かった。
 長いスパンで見たり、会津全体の水上交通という巨視的な見方をしたりすれば、その通りなのだが、猪苗代湖の湖上運送のある時期という部分的な視点の当て方では、別な要素が入ってくるということのようだ。

 その一つの要素は、鉄道網の整備に伴う会津全体の物流変化の考慮らしい。
 それまの越後経由で会津に入る物流の会津全体の物流に占める割合は、結構大きかったとのことだ。それが、東北本線の開通に伴い東側からの物流が徐々に増えてくるということも起きていたようだ。そんな中で、明治24年に東北本線の東京・青森間が開通したことで、本宮・郡山経由で若松に供給する流れが強化されたという見方があるようだ。

 更に、明治31年には郡山―山潟(上戸)間の途中開通があり、若松・新潟方面への貨物が山潟駅に集積されるようになったという。
 この集積された貨物を山潟港から汽船・和船に積んで戸ノ口港や笹山港まで運搬するようになるわけで、この間の湖上運送は衰えるどころか、俄然活気を呈するようになっていたということだ。

 この時点で、鉄道開通によって猪苗代湖湖上運送に与えていた影響というのは、会津全体の物流変化に伴い栄えていた湖南―会津間の物流が徐々に寂れていき、山潟―会津間の物流が増大していったということになるようなのだ。

 明治32年に岩越鉄道は会津若松まで延伸されるが、直ぐに全面的に鉄道に頼ったわけではないという。
 例えば、明治45年に着工された猪苗代第一発電所や戸ノ口発電所の送電線や戸ノ口発電所の資材などは百駄船で運ばれたとのことだ。更に、電力会社では二隻の汽船(会津丸・猪苗代丸)を新造し、十数隻の達磨舟を引航して砂利・砂などを湖の周辺各浜から採取して、湖上を発電所建設現場に運んだとのことだ。
 鉄道開通後の戸ノ口の港は、物流やそれにかかわる人夫だけでなく、いろいろな用足しの人々も集まって、益々活況を呈していたということになるようなのだ。

 その猪苗代第一発電所完成は大正3年のようだ。
 明治45年に着工された猪苗代第一発電所や戸ノ口発電所の送電線や戸ノ口発電所の資材などは百駄船で運ばれたとのことなので、当然戸ノ口船問屋がかかわっている。

 という事で、明治32年(1899)に会津中学校端艇部戸ノ口艇庫が創設される頃は勿論、しばらくの間は、湖上交通の賑わいの名残りなどというものではなく、賑わいそのもので活気にあふれていた時期だったということになるようだ。
 戸ノ口船問屋が、地元高校の舟にかかわる部活創設の相談に乗るゆとりは、充分に持ち合わせていただろうと想像できそうだ。
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by shingen1948 | 2017-09-08 09:11 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「福島県民百科」では、猪苗代湖の湖上運送にかかわる江戸時代の港として、戸ノ口と共に、会津領の港として篠山、関脇、秋山の港があんないされるが、若松口は戸ノ口港と篠山港で、関脇港は仙道 (中通り) 口で、秋山港が白河口ということのようだ。

 その戸ノ口港と共に会津口である篠山港が、戦後の昭和24年に復活したとされる水上運動会の本部が設置される小石ケ浜付近らしい。
 ここを他所者が確認するのには、地元の方々にとっては当然の事である「篠山=笹山」という関係を頭に置く必要がある。同じ処を示すのに、篠山の地名を使うこともあれば、笹山の地名を使うことがあるということだ。
a0087378_4581461.png これは、「湊町案内Map」の「小石が浜」付近について案内された部分だが、ここでは「笹山港跡」としてプロットされている。
 地元湊公民館だよりの「湊のくに」に「篠山港」として解説されているのはこの港のことだ。

 「 篠山は元和3年 1617 年)に埼川村の肝煎渡部伊勢の子掃部之助 (かもんのすけ)なる者が新田を開き、その後元和8年(1622年)に篠山村と村名を立て原組の1村となり、同9年掃部之助が肝煎に任命された。その頃から着船の諸荷物運送のことに従事してい る。
 「新編会津風土記」によると家7軒、かまど 8 、男26人、女20人、 馬8匹、この村の営みの多くは住還運送の駄賃をとると述べているが、着船の荷物が多いときは近くの白河街道に沿う赤井村で運送を助けている。
 寛文年間から領内の出荷物も取り扱って湖上運送しているが、 延宝8年( 1680 年)掃部之助の子孫に不届きのことがあって肝煎の役を召し上げられ、滝沢組 長原の肝煎に転ぜられた。しかし、荷物運送は1日も休まれないので、一時地首が問屋仮役となって運送に従事していた。
 翌延宝9年(元和元年)になって、赤井村の問屋で酒造業を営んでいた田中新左エ門が篠山村の肝煎兼問屋を仰せつかり、その子孫が長くこれを継承した。
 篠山にどれくらいの大きさの船が何艘あったのか、問屋の火災で記録はほとんど残っていない」

 なお、白河口の問屋半沢授八の秋山港は湖南七浜秋山港の西端に確認できる。ただ、崎川浜の南で赤崎の手前に村共同の問屋の「東田面港」があったとする別資料も見るが、今のところその詳細が記されるものは見つけられないでいる。

 仙道(中通り)口の問屋六角久平の関脇港は、二本松街道と二本松裏街道の分岐点の関脇宿に位置する。
 その南に問屋土屋十郎・土屋一郎の壺下港がみえるが、こちらは二本松街道と二本松裏街道の分岐点手前の二本松街道壺下宿とかかわる港で、ここには口留番所があったようだ。
 ここには、更にその南に中山峠の道筋とのかかわりで後に栄える山潟港の三つの港が並んでいるのが確認できる。

 詳しく確認したのは「会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑩」で、ただ一度無断で遠漕に出かけて心配した次のようなエピソードも記したこことの関りだ。
 再掲する。
 「上戸まで行ってしまって、その帰途につこうとした時に波が高くて戻れなくなったようなのだ。とりあえず小学校へ泊めてもらうことにしたのだが、食事の都合がつかない。
 それで、キャプテンが大目玉覚悟で、自転車で指導者の待つ宿に向かうことに……。」
 http://kazenoshin.exblog.jp/237703895/

 キャプテンが大目玉覚悟で、自転車で指導者の待つ宿に向かい、頼んでもらったモンタのおにぎりをつけて戻った道筋が、二本松裏街道の街道関脇宿から向戸ノ口の間に近い道筋ということでもある。
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by shingen1948 | 2017-09-07 09:56 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会津戸ノ口十六石橋之全図」から、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の創設とのかかわりが想像できる情報を拾ってみる。
 その一つが、「向戸ノ口船問屋」だ。ここは「戸ノ口村が赤井村の岸辺に設けた船宿」なそうだ。「『新編会津風土記」には「赤井村の境内湖浜に家二軒を営み船宿とす、江戸に米を運送する為に設く」とすると解説される。
 解説にもあるように、湖中の岸辺には数艘の帆線が帆を降ろして留まっている。

 「福島県民百科」で、猪苗代湖の「湖上運送」を確認すると、「江戸時代、一枚帆の六丁櫓の百駄船が浮かび、会津領の篠山、戸ノ口、関脇、秋山、二本松領の浜路、船津が賑わっていた」とある。
 「百駄船」は直接確認できなかったが、駄船の駄は負わせるの意と解釈すれば、荷物を運ぶ船であると想像した。また、ここは、すでに日橋川の河川であることを考慮して、とりあえず「平駄船」に近いことを想像した。
 平駄船は、内水面を航行する和船の一種で、高瀬舟より大きく五大力船より小さいという。「百」は大きいという意味かもしれないので、「五大力船」も確認してみた。
 「江戸時代、主として関東・東北で、比較的近距離の海運に用いた百石ないし三百石の荷船」とある。
 この百石の荷船あたりが近そうだなということで、とりあえず、この「五大力船」をイメージする。

 会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の創設情報を重ねる。
 会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の創設は、明治32年(1899)だ。ここは、この時点まで湖上運送の賑わいの名残があったと想像される。

 湖上運送が衰退するのは、明治30年(1897)の郡山―若松間に岩越鉄道の開通の影響だが、
岩越鉄道が開通して湖上運送が衰退までには時間差があるはずだ。創設時点では十分に賑わいの名残りはあった筈なのだ。
 ここからは大胆な想像だが、恐らく小林先生がお世話になった艇庫向かいの定宿「〇コ」五十嵐宅が、この図の「向戸ノ口船問屋」とかかわるのではないのかなと思うのだ。そして、ボート部の宿泊の世話をしてくれた艇庫の南西に位置する「モンタ婆さん」の「モンタ」が、「家二軒を営み」と解説される船宿だったのではないのかなと思うのだ。
 そして、舟を出すのに「向戸ノ口船問屋」の桟橋をお借りしていたと勝手な想像を膨らませるが、どんなものだろうか。
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by shingen1948 | 2017-09-06 09:15 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「福島県史料情報第10号」に、「会津戸ノ口十六石橋之全図」が紹介される。
 
 http://www.history.fcp.or.jp/shiryojoho/shiryojoho10.html##10-1
 この橋は、天明8年(1788)二十三の橋脚からなる石橋に改修されたという2代目のようだ。「新編会津風土記」には長さ48間で、凡そ23断の石橋で、左右の勾欄まで皆石づくりと紹介されるようだが、図中では「橋長56間・幅9尺」と記される。

 この橋は、会津戦争の物語では、西軍の会津侵入を防御する要の橋として登場する。
 会津兵が、この橋の破壊に戸惑いと堅固な石橋の破壊の困難さに手間取る間に、敵の西軍が突入してきたとされる。

 湊公民館だよりの「湊のくに」には、次のような西軍薩摩藩の「維新戦役実歴談」の描写を元にしたこの橋の紹介がある。

 十六橋は石橋で、幅三尺(90.9 センチ)で長さ一間半(272.7 センチ)位な石が三枚渡してあるという位な極めて危険な橋だった。それで、戸ノ口の家屋を壊して、その柱を渡して、それを藤でからげて、畳をおいて渡れるようにした。

 この談から、幕末の十六橋の橋脚は石を積んだものだが、狭くて人がすれ違うことはできず、橋板はすべてが石ではなかったと想像されると紹介する。

 勝手かもしれないが、両方の説に矛盾なく、会津ビイキも満足できる勝手な解釈をしたい。
 
 会津軍は手間取りながらも、渡るには手間取りそうな程度までには破壊工作が進んでいたというのは、どうだろうか。
 それで、西軍は戸ノ口集落の家屋を破壊して、それを材料に修復して渡ったとすれば、つじつまが合うと思うのだが、……。

 いづれにしても、そういう橋の状態なら、明治13年にこの橋を取り払って架け替えられたということは、それだけでも地元には歓迎されたことだろうと思うのだが、どうだろうか。

 この「会津戸ノ口十六石橋之全図」に描かれるのは、この橋にかかわる情報だけでない。
 その橋の下を流れる日橋川と両側の堰の様子、この橋を通る街道とその付近の風景、そして、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫が創設されたこととかかわりそうな、その先の舟問屋の様子などの情報も含まれる。
 それらも読み取ってみたい。
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by shingen1948 | 2017-09-05 17:17 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 会津中学校端艇部戸ノ口艇庫跡を案内する石碑には、ここにその艇庫があったのは明治32年(1899)~昭和26年(1951)であることが示される。従って、先の「会高通史」座談会で話されていた会津中学校端艇部創設時代の十六橋は、現在の状況ではない。

 「国立国会図書館デジタルコレクション」の「写真の中の明治大正」に「仁山智水帖【光村写真部(明治35年6月)」が紹介され、その中に当時の十六橋が紹介されている。
a0087378_928192.jpg この橋が、明治13年に江戸期の橋を取り払って架け替えられただと思う。猪苗代湖の水深を調整するための水門と兼用の石橋であることがよく分かる。

 この水門の西端は戸ノ口堰の取水にかかわる水門で、東端の水門は布藤堰の取水にかかわる水門で、その他の水門が猪苗代湖の水深を調整するために日橋川本流の水量を調整するためのものということだろうと思う。

 この猪苗代湖の水深を調整する水門が必要になったのは、基本的にはここと反対側に流す安積疏水用の水を確保するためだ。
 しかし、実際には、猪苗代湖の水位を保持しつつ、戸ノ口堰・布藤堰の取水量の確保も改善するため日橋川の河床を下げる工夫もしているとのことだ。

 後に整理することともかかわるので記しておきたいのは、この水門の実際の管理を地元の水深にかかわる舟問屋とかかわりのある方に委託しているようだということ。
 共存を目指した関係者の気持ちの調整もなされていたということでもあるような気もする。

 なお、街道にかかわる散策でお世話になっている「街道Web」では、「秋元橋(北塩原)」の項にこの十六橋の遺物の所在が整理されている。
 http://kaido.the-orj.org/hasi/aki.htm
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by shingen1948 | 2017-09-04 09:30 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
a0087378_9172092.jpg 猪苗代湖面の水深やこの水門の役割・機能などの変化はあるが、外見上の風景としては、現在のこの風景は長谷川信氏が猪苗代の戸ノ口に通っていた頃の原風景に近いということだろうと思う。

 具体的に照合してみる。
 長谷川信氏がこの猪苗代の戸ノ口にかかわる時期は、昭和10年から昭和15年辺りだと思われる。
 
 氏の会津中学入学が昭和10年だ。
 昭和13年の途中で休学するが、昭和14年春には復学している。
 また、昭和15年春には同志社大学入学するのだが、直ぐに帰郷してしまう。この時にも氏の猪苗代通いは続けていたらしいということだ。

 風景の変化だが、現在のように道路と水門が分離され、現在の風景に近い状況になるのは大正3年(191)のようだ。猪苗代水力電気株式会社の水力発電所建設に伴い、水利調整に電動式の引き上げ式ケートに改築されたこととのかかわりらしい。十六橋は、この時に別に架けられることになったということのようだ。

 ファン・ドールンの銅像だが、こちらは昭和6年(1931)10月建立とのことだ。猪苗代水力電気株式会社の創設者である工学博士の千石貢氏の提唱により建立されのだという。信氏の戸ノ口通いの頃は、この像も建っていたということになる。

 金の橋・銀の橋だが、こちらは昭和34年(1954)完成とのことだ。それまでは、国道は長浜付近から丘陵地や十六橋を経由していたとある。詳細な確認はしていないが、長谷川信氏が戸ノ口にかかわる時期には、長浜からこの辺りにかけて、旧二本松裏街道の道筋が旧国道でもあった可能性があるということかな。
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by shingen1948 | 2017-09-03 09:18 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 今思えば、ここまでの物語に接触するチャンスは何度もあった。それを逃しているのだ。
 まずは、高校時代、中田浜の艇庫と「学而 (がくじ) 会館」を折り返し点に行われている「中田浜強歩大会」には当然参加している。その事自体が一つのチャンスだった。
 しかし、自分はN先生とのかかわりで、小学校6年生の時分、中田浜の合宿所に連れていてもらった記憶があるのだ。それはボート仕舞とのかかりの筈なのだ。つまり、中田浜の艇庫にボート仕舞の行事にも参加した上で「中田浜強歩大会」に参加しているのだ。多分、他の人にはないこの経験があったのだが、この事については「山中毅さんの訃報に接して④」でふれている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23720067/

 他に、もう一つのチャンスもあったのだ。
 この「会高通史」の表紙を見て思い出したのが、この冊子、自分にも配布されているのだ。
 この冊子は、昭和40年に会津高校の火災からの復興期成の記念誌として発刊されたものだったのだ。発行者は会津高等学校復興期成同盟会で、会津高校の全生徒にも配布されていたのだ。
 目は通しているはずだが、心に留まらなかったということだ。
 ちなみに、N先生、「落成祝賀運営役割名簿」の会場係の一員として名前が挙がっていた。

 その「会高通史」から、「魅力に惹かれて、性懲りもなく戸ノ口通いをする」若者の様子の描写も拾ってみる。

 〇 生徒の幹部はモンタの二階に泊まり、それ以外は艇庫の二階に雑魚寝。飯は自分達で炊いて、味噌汁と漬物はモンタに頼んだのだとか(後には完全自炊だが味噌汁はなく、おかずは生味噌だったとも)。
 〇 食事は一斉に食べ始めるが、スピード8杯の猛者がいたので、後にはアルミの食器に均等に盛ることになった。
 〇 洗面入浴は湖水で、便所なし。
 〇 着る者にも頓着なしで、フンドシだけは皆しているが、シャツも着ない者、シャツだけ着る者。裸足の者、鉢巻の者、首にてぬぐいを巻いている者等々……。

 服装は罹災者のようであり、乱暴者のように見えるが、漕艇は計画的で厳しかったという。自然をナメてかかるような事はなく、慎重だったともある。
 それでも、ただ一度無断で遠漕に出かけて心配した次のようなエピソードも記される。
 上戸まで行ってしまって、その帰途につこうとした時に波が高くて戻れなくなったようなのだ。とりあえず小学校へ泊めてもらうことにしたのだが、食事の都合がつかない。
 それで、キャプテンが大目玉覚悟で、自転車で指導者の待つ宿に向かうことに……。

 宿に来たのは夜9時頃だったとか。
 心配していた先生方に大喝を食らいながらも、モンタに飯炊きを頼んでもらったとか。
 キャップテンは、バツとして一人でその飯を運ばされたということだ。
 小林先生は、自転車にご飯をつけて暗い湖畔道ぐるっと廻ったのだから、夕飯は夜中だったろうと想像している。
 この大目玉覚悟で指導者の前で背を丸めて小さくなりながらも夕飯を頼むキャプテンと上記のような指導者の対応の信頼関係を元にした絶妙なやり取りがほほえましく描かれる。

 現在の会津高校端艇部は、全国的な活躍を中心に紹介される。優秀な競技スポーツとしてのボート部としての紹介だ。
 中田浜の「学而 (がくじ) 会館」についても、「昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設されました」と競技成績の結果とのかかわりで紹介される。
 自分が、会津高校端艇部が昭和26年に荻野ダム県営漕艇場に乗り出したことと中田浜の「学而 (がくじ) 会館」とのかかわりがよくつかめなかったのは、そのためだ。
 小林先生いわく、こちらは「全国的なスポーツ熱に促され」たことであり、この競技スポーツと長谷川信氏が熱中した会津高校端艇部の戸ノ口伝統とは別物ととらえているようだ。
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by shingen1948 | 2017-09-02 09:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 戸の口艇庫からの帰りは、徒歩で下駄を踏み鳴らしながら滝沢峠を徒歩で下って家路につくのだが、その途中に強清水の茶屋で一休みするというのが楽しみだったようだ。

 その戸の口艇庫跡には立ち寄らなかったが、強清水の茶屋での一休みはしている。
 ただ、「戸ノ口艇庫から徒歩で家路につく途中に一休みする強清水の茶屋」というイメージを持って意図的に立ち寄ったということではない。
 昼時でもあったので、何時もそうするように、ここで蕎麦を食べたというだけだ。
 昔は饅頭の揚げ物もおいしく食べたが、最近はニシンの天ぷらとイカの天ぷらが付いてくる蕎麦のセットで注文することが多い。ここのイカの天ぷらというのは、実際にはスルメの天ぷらだ。昔は、このセットメニューに饅頭の天ぷらも入っていたような気がする。
a0087378_9472974.jpg これはその茶屋から撮った強清水だ。蕎麦を食べていたら、何かの撮影隊がここを取材していた様子を何となく撮った写真だ。

 言い方をかえれば、強清水の茶屋での一休みはいつもの日常的なことでしかないのだが、今回は、そこに隠れていた今まで知らない物語を感じているということだ。しかも、自分にはその物語に接触するチャンスは多々あったのに、である。

 さて、「伝統の戸ノ口精神」とかかわる小林先生の描写を拾ってみる。
 氏は「伝統の戸ノ口精神」を培うのは、猪苗代湖の感化力だろうとする。
 「先輩諸兄が、戸ノ口の教育力を口にされるが、ボートを漕いだことと共に、それ以上にあの風景景観に大きな感化を受けたのだろう」とする。
 その風景景観感化力にかかわる描写を拾う。
 「オールを揃えて漕ぎ出せば(自分では漕げないので威張って乗せてもらって)翁島を横に見過ごし、長浜の上空に聳える磐梯山を仰ぐ時のあの壮大神厳な感激。暁の霧をついてガボッガボッと朝漕ぎに出れば、文字通り鏡の如き湖面を伝わって遥か遠い船上の声が手近に聞こえ、胡麻粒のように見える鴨の群れがパタパタと姿を大きくして森に向かって虚空を横切るあの静寂。空と山と水の織り成す大いなるものに包まれて営まれるいと些かな人間同志の信頼親睦協同の業の魅力に惹かれて、性懲りもなく戸ノ口通いをするのだろう」

 「魅力に惹かれて、性懲りもなく戸ノ口通いをする」若者の様子の描写も拾ってみる。
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by shingen1948 | 2017-09-01 09:48 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 信氏はボートに夢中になるのだが、それは小林先生が「伝統の戸ノ口精神」と称したこととかかわるのだろうと思う。

 その「伝統の戸ノ口精神」を引き継いでいるとされる会津高校の学校行事は3年に一度行われる伝統の中田浜強歩大会だ。
 全校生徒参加で、学校から背炙山を経由して昭和32年 (1957)に「中田浜」にできた 「学而会館」会館を折返してまた学校に戻るというコースを歩くことになっている。実際には走り通す強者もいる。

 先に「山中毅さんの訃報に接して⑤」で記したように、この行事に参加しているのだが、正直に言えば、これがどんな「伝統」と繋がっているのかは分かっていなかったように思う。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23726418/

 まずは、「会高通史」から、猪苗代湖の戸ノ口で行われていたという学校行事を拾う。

 昭和16年の夏から戦争が激しくなるまで、毎年3年生が組ごとに1泊2日の海洋訓練を行っていたとある。
 また、戦後の昭和24年には、小石ケ浜の水上運動会復活し、部員がまた通うようになったともある。

 この「小石ケ浜の水上運動会」が、中田浜強歩大会の原点のような気がする。
 この大会は、明治の頃から行われていたようなのだ。「明治のころ」の「水上大会の思い出」として、その様子が次のような事が記される。美文調の表現から、その概要を読み取ってみる。

 会場となるのは、小石浜の岸辺のようだ。
 「あの縹渺(ひょうびょう)とした小石浜の岸辺に卓が据えられる」とのことで、ここに大会本部設置かな。
 午前中は2年生、3年生の競艇で、午後から呼び物の上級生5年生、4年生の選手競艇になるらしい。
 その競艇は、満舩飾りを施された2つの艇で行われるようだ。タイム係がいるようなので、タイムレースでもあるようだ。
 応援の艇も出るようだ。
 二つの艇とは別に、これまた満舩飾りを施した艤装艇が出て、ここに音楽隊が乗るのだとか。この音楽隊が、応援の雰囲気を盛り上げるようなのだ。

 そのコースはここでは解説されないが、長浜での折り返しだろうかと想像する。
 というのは、「昭和のころ」の日常の練習時の普通のコースが長浜辺りまでとあり、翁島を横に見過ごし、長浜の上空に聳える磐梯山仰ぐ壮大な感激が描かれている。練習ではたまに小平潟から上戸まで遠漕することもあったようだが、お決まりのコースは長浜なのだろうと思われる。

 競艇が終わると、戸の口艇庫で選手の慰労会が行われ、夜道を家路につくのだとか。
 その帰りの途中に、強清水の茶屋で一休みして、ニシンの天ぷらと饅頭の揚げ物などを食って英気を養い、下駄を踏み鳴らしながら滝沢峠を下るというのが思い出なのだとか。

 その小石ケ浜の水上運動会は復活したものの、先に記したように、昭和18年、十六橋反対側に新水路が出来た頃から湖面低下の為、桟橋まで水が届かず、幾度か桟橋を切り下げたが底の石が露出してきて船を外洋に出せなくなっていたということだ。
 これが、会津高等学校が、猪苗代湖とかかわるのは、中田浜に艇庫と「学而 (がくじ) 会館」が建てられるようになるきっかけでもある。

 現在の「中田浜強歩大会」がこの「水上運動会」の伝統を受け継いでいるのだとすると、「水上運動会」そのものが抜けてしまっているわけで、餡を抜いてしまった強清水饅頭のようだなとも思わないわけでもない。時代だろうし、進学校だもの、そうも言ってられないかというふうにも思う。
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by shingen1948 | 2017-08-31 09:27 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)