地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 福島と戦争( 103 )

 先に「会津の『わたつみのこえ』を聞く」として、資料をもとに長谷川信氏について確認している。この時に、会津に出かける時には、ぜひ長谷川信碑を訪ねてみたいものだと思っていた。

 今回、家族と一緒に会津若松市に出かけることになったので、向かう途中に立ち寄ろうと思った。家族には、出かける前にその概要を説明し、立ち寄りたい旨を話しておいた。

 碑のある位置は、「街道Web」がいう「二本松裏街道」筋の「戸の口村」を過ぎて十六橋より手前の右手にあたる。要は旧越後街道筋だ。
 その街道に沿っていくのには、天鏡閣、迎賓館を経由して九十九折れの五輪坂峠を経由して戸ノ口村に入るらしい。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ura/07.htm

 今回は街道筋の散策ではないので、国道49号線を進んで日橋川の金の橋手前から右手の道筋に入った。そこには、戸口集落を案内する標識も立っている。

 左手に日橋川の支流を感じながら林の中をしばらく進むと、右手に田園風景が開けてきて、その先に何かの記念碑が見える。
 そのまま進むと「二本松裏街道」にぶつかるが、この街道筋も結構整備されている。恐らく、現在は戸口集落へ向かう主要な道筋はこちらなのだろうと思われる。
 その道筋を右折してやや進むと「長谷川信碑」が左手に見える。
a0087378_6455478.jpg

 長谷川信 碑 
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事
 だろうだがたった一つ出来る涙を
 流して祈る事だそれが国泰かれか
 親安かれか知らない祈ることなのだ
  大正十一年      会津若松市に生まれ
       四月十二日
  昭和二十年       沖縄南方上空に散る

 先にも記したように、最後の日付の表記は、4月12日が彼の生まれた日であり、そして亡くなった日でもあることを表現している。
 家人は誕生日と亡くなった日が同じことを示す最後の碑文に驚いていた。

 この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 先の整理では、当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地らしいとしたが、そうではないらしい。当初から湖が見える所には建てることができなかったらしい。ただ、彼の思い出の地近くにこの碑を建てることができたということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-08-21 06:49 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 この「会津の『わたつみのこえ』を聞く」を整理しようと思ったのは、先に「山中選手の 訃報に接して」の整理中に、長谷川信氏を知ったことだ。
 とりあえず「きけわだつみのこえ」を借りて読んでみようと思って、県立図書館の図書検索をしたら、目的とした書籍と共に「歴史春秋【会津史学会編第78号】」が提示された。
a0087378_10112921.jpg とりあえず「歴史春秋【会津史学会編第78号】」と「きけわだつみのこえ」の両方を借りて確認したら、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」という8ページの長谷川信氏を紹介する小文に出会うことができた。
 その参考文献から、「明治学院百年史」・「会高通史(昭和40年)」・「オピニオン学徒出陣学徒動員【朝日新聞2003/7/23】を知り、そのうちの「明治学院百年史」の確認ができた。
 また、本文中に「明日への言葉【NHKラジオ深夜便】」の「疎開児童が見た特攻隊(木村健<童話作家>)」が紹介されていたことを確認する中で、「山中選手の訃報に接して」の整理中に長谷川信氏を知ることになった「Web東京荏原都市物語資料館」が、この方のWebであることを知った。
 それで、これらの資料の関連性を確認する中でとりあえず「会津の『わたつみのこえ』を聞く」を整理しておこうと思ったのだ。

 今回の整理を通して、「わたつみのこえ」を真摯に聞こうとする方々とこれを動機として別目的に利用しようとする方々がいらっしゃることが分かった。
 これを動機として別目的に利用しようとすることの一つは、物語性への着目があるようだ。感動性を高めるには、「特攻戦死」の遂行が成功なされた方が選考される。そこに、悲恋があればよりドラマ性が増す。
 長谷川信氏にはFとい恋人がいて、「静かな猪苗代湖湖畔を二人で歩いてみたい」との思いは確認できるが、特攻完遂でないので取り上げられることはないという木村氏の評価に納得する。
 逆に「わたつみのこえ」を真摯に聞こうとする方々にとって会津のわたつみ長谷川信氏の評価は高いようだ。

 最後に蛇足。
 国のリーダーは当然真摯に耳を傾ける方であるはずという思いはあるが、整理していく途中で聞こえてくる最近のニュースから、本当はどちらの方々なのかなと迷うことがあるのが残念だ。
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by shingen1948 | 2017-06-01 10:12 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 熊谷飛行学校館林教育隊で訓練を受けた後、満州二渡り、新京で編成された陸軍特別攻撃隊武揚隊(誠31飛行隊)の一員となるという大筋の経歴は同じだが、微妙な違いはあるようだ。
 長谷川氏は、「明治学院百年史」によれば、次のような経緯だ。
 昭和19年2月熊谷飛行学校館林教育隊で訓練を受ける。ここで6か月過ごした後、同年7月付で満州の第101教育飛行団第32教育飛行隊に移されて、更に訓練を重ねる。
 その後、20年2月に特別攻撃隊員の命令を受け、2月10日に少尉任官する。
 同日に、新京で編成された陸軍特別攻撃隊武揚隊(誠31飛行隊)の一員となる。この隊が、台湾第8飛行師団配属になる。

 一方、「Web東京荏原都市物語資料館」によると、長谷部氏は、彼は、東航から熊谷飛行学校で訓練を受けた後、山梨県玉幡飛行場で更に訓練を受けて、ここから満州に渡ったようだ。
 この更に訓練を受けるというのが、軽爆訓練とあるが、九九式襲撃機操縦だろうと想像しているようだ。
 そして、昭和19年年8月に、満州に渡った。軽爆が多く残っていたのが平台飛行場だとある。

 次に別れだが、「Web東京荏原都市物語資料館」によると、長谷部氏は武揚隊でただ一人知覧飛行場を飛び立って特攻戦死しているとのことだ。
 その経緯は、次のようだ。
 武揚隊が新田原に向けて飛び立つとき、各務原で彼の機だけが不調で出発できなくて、やむなくとどまったということだ。
 彼の家は高山線、上麻生にあり、彼は一泊の外泊を申し出て故郷に帰った経緯が「白い雲のかなたに 陸軍特別攻撃隊」(島原落穂著 童心社)に掲載されているという。

 機の不調から遅れをとってしまった長谷部氏は、そこから知覧に行き、誠隊から振武隊に転属し、4月22日に「第31振武隊」として単機で出撃したとのことだ。
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by shingen1948 | 2017-05-31 16:47 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 次の会話は、深い意味はなく、単に名前が似た方がお二人いらっしゃったということの確認だと思う。
 「武揚隊には長谷川信という人と、長谷部良平という人がいましたが、長谷部さんのことではないですよね?」
 前に秋元佳子さんに確かめたところ、長谷川さんに間違いないとのことだった。ところが、この長谷部良平伍長の行方が分かった。一人武揚隊として四月二十二日に知覧飛行場を飛び立って特攻戦死していた。

 とりあえず、「Web東京荏原都市物語資料館」から長谷部良平伍長の出身とか戦死とかにかかわる基本的な情報を拾っておこうと思った。
 まずは出身から武揚隊に所属するあたりの情報を拾う。
 故郷は高山線、上麻生にあるとのこと。そこから東航に進んだ東京陸軍少年飛行学校出身者とのことだ。
 その東航から熊谷飛行学校へ進み、それから山梨県玉幡飛行場に向かったとある。ここは軽爆訓練のためとあるが、木村氏は、ここで九九式襲撃機に乗ったのかなと想定しているようだ。
 そして、昭和19年8月に、ここから満州に渡ったということだ。

 当方には、恥ずかしながら知識不足から確認しなければならないことがいくつかあって、手間取っている。
 その一つが「東航」。
 「ウイキペディア」などから情報を拾うと、これは、東京陸軍航空学校の略なそうだ。
 ここは、航空兵科現役下士官となる少年飛行兵を志願した10代の生徒(14~17歳)に基本教育を行う学校とのことだ。
 昭和12年(1937)12月に設立、本校は東京府北多摩郡(現武蔵村山市)に置いたとある。
 約64ヘクタールの土地に校舎や校庭、グライダー用滑走路などを整備し、毎年入学する約1400人の10代の少年に1年で軍用機の操縦、整備、通信に当たる航空兵としての基礎教育を施した。
 昭和18年(1943)4月、東京陸軍少年飛行兵学校と改称。

 「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」は現武蔵村山市指定旧跡になっているとのことで、次のような説明板が建っているとのこと。その説明から、学校の概要をとらえる。
 この「揺籃之地」石碑の建っている場所には,かつて東京陸軍少年飛行兵学校本部校舎がありました。
 東京陸軍少年飛行兵学校に入学するには小学校高等科卒業以上の学力を有する満14歳から17歳までの者とされていました。授業の科目は、午前中が国語・数学や兵器学など、午後は軍事教練等の術科と体操でした。また、学校北側の練兵場では、グライダーによる滑空訓練も行われていました。これら一年間の課程が終了すると、適性検査の後、操縦・整備・通信の各分野に分れた二年間の上級学校に進み、その後全国の飛行隊に配属となりました。
 当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが、かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。
 武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
     平成21年3月
         武蔵村山市教育委員会

 受験資格の年齢だが、「ウイキペディア」では、操縦生徒は満17歳以上19歳未満、技術生徒は満15歳以上18歳未満としている。
 また、在校中は兵籍にある軍人ではなく、卒業後に上等兵の階級を与えられて部隊に配属されるとある。そこで、およそ1年の訓練と下士官候補者勤務を経て現役航空兵伍長に任官するという。

 これで、長谷部良平氏が伍長という役職であることも納得。
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by shingen1948 | 2017-05-30 11:38 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「Web東京荏原都市物語資料館」の「下北沢X物語(3285)」の副題になっている「今度会ふときは九段の花の下」は、 飯沼芳雄伍長の言葉なそうだ。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52045908.html
 飯沼芳雄伍長は松本出身とのことで、松本では同級生の慰問を受けることになったそうだ。その同級生に書き残したのが、この言葉だとの事だ。
 この方は、7月19日に八塊から出撃に向かった4機の中の1機で、この時に戦死なされたそうだが、特攻特攻突撃と評価されていたなそうだ。この時に評価されたのは藤井清美少尉のみとのことだった。
 墜落か交戦死ということだったのだろうと想像されるという。

 この言葉に接した時に直ぐに思ったのは、会津を故郷とする信氏にはこの戦死観はなかっただろうということだ。
 会津での戦死観は全国共通ではない。もっとも、ことを知ったのは故郷を離れてからだが、……。
先に「忠霊塔」で整理したように、会津の戦死観は戊辰戦争とかかわる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/14086402/ 

 若松では、戊辰戦争西軍従軍戦死者の御霊は西軍墓地に祀られている。
 会津で過ごす頃は、当然ながら「若松の東軍」の視点でみている。更には東軍の遺体を埋葬することすらかなわなかったという話を聞く中で、東軍墓地を眺めている。
 この御遺体のある戦死者の弔い方についての思いがベースにある。
a0087378_18515274.jpg その上で、若松では、日清戦争からの対外国との戦争の戦没者が祀られるのは小田山の「忠霊塔」だ。
 こちらは御遺体が存在せず魂の拠り所ということでもあるだろうか。

 会津での戦没者の慰霊の原風景は、この戊辰戦争の「西軍墓地」と「東軍墓地」、そして、この近世戦争の「忠霊塔」ということだ。

 この原風景との比較のなかで、「九段の花の下」につながる福島縣護國神社に祀られる魂の第一号が世良氏で、それに続く西軍墓地に祀られた戊辰戦争西軍従軍戦死者の方々の御霊が祀られるということだ。組織的な遺族会がどういう構成になっているかは知らないが、会津に生活していた時点での感覚的でいえば、「忠霊塔」に祀られる対外国の近代戦戦没者も、第一号の世良氏に続く戊辰戦争西軍従軍戦死者の御霊と共に祀られ、そこで会おうという感覚はありえない。

 「死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらおうと思う」という信氏の思いは、会津で生活した事のある者には素直に受け取れるということだ。
 ただ、「分骨してもらおうと思う」という部分には、せつなさも感じるが、……。
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by shingen1948 | 2017-05-28 18:53 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会津の『わたつみのこえ』を聞く33」で、生き残った仲間として、「明治学院百年史」の情報から力石丈夫氏と中村敏男氏を確認し、「Web東京荏原都市物語資料館」の情報から吉原薫氏を確認した。
 この時、力石丈夫氏は神奈川県在住、中村敏男氏は大分県在住との出身地が確認できるが、吉原薫氏の出身地は不明とした。

 しかし、「下北沢X物語(3132)~武揚隊:波瀾万丈のと号第31飛行隊Ⅲ~」で、吉原香軍曹は茨城県出身であるとの情報が見える。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52029538.html#more
 ここを、吉原香軍曹中心に情報整理をすると、古河地方航空機乗員養成所で同期だった扶揺隊の生き残り久貫兼資氏が、茨城県古河市まで会いに来たことがあるらしいという情報になる。
 また、八紘荘の海老根軍曹の言からは、三十一飛行隊の海老根氏、柄沢氏、五来氏、吉原氏は、同期生であり、他に4名が朝鮮、上海経由で台湾に行く事になったとある「他に4名」の中に、長谷川信氏も含まれていると思われるということになる。

 「会津の『わたつみのこえ』を聞く33」の整理に戻る。
 ここでは、「『生き残った仲間の人の奥さんが前に、うちに訪ねてきたことがありましたよ。確かね、茨城の人だと言っていました』との住職の話とのかかわりで整理している。
 ここを整理した時点では、訪ねて来た方は不明だが、今回の確認で訪ねて来た方はこの吉原香氏の可能性が高そうだなという想像の膨らませ方になるように思う。
 とりあえず修正しておきたい。
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by shingen1948 | 2017-05-27 12:32 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 住職が、石碑が建てられたときに明治学院大の学長がお参りに見えられたことを話されたとある。今は、その石碑は湖畔戸ノ口のゆかりの場所に建った石碑の事だろうと思っている。
 結論としてはそうなのだが、今回整理する途中で分かったのが、明治学院の場合、学長と学院長の役職があるということ。住職の言葉では学長だが、今回は、とりあえず学院長であることを想定して整理している。
 整理過程の中で、もう一つ想定して考えてみたのがこの石碑が「兵戈無用」の碑を指している場合のことだ。以下のようなことになる。

 この石碑が「兵戈無用」の碑であることを想定すれば、その建立は2002年。この時の学院長を確認すると、第11代久世了氏(1998年 - 2012年)ということになる。
 この久世了氏なら、「明治学院百年史」の第6章で学徒兵である長谷川信氏について実際に調査に当たられ、まとめ上げられた方のようだ。実際に会津へもおいでになったというし、 生き残った周辺の人々にインタビューもなさったとのことだ。

 一人の学徒兵の個人的な記録を以って学校史を構成するという事について、久世了氏は次のような思いを抱いていたようだ。座談会の発言資料から要約する。
 この長谷川信という学徒兵を取り上げることによって、明治学院の二つの側面がある程度伝えられるのではないかと考えたとのことだ。
 その一つの側面が、明治学院の校風がこういう人(長谷川信氏)を生み出したということ。
 もう一つの側面が、その反面として、そういうすぐれた学生をむざむざ学徒兵として戦地に送らなければならなかったという学院の非常に痛ましい経験があるということだ。

 この方の前の学院長が、第10代中山弘正氏(1994年 - 1998年)だ。
 この方は、1995年に学院としての戦争責任の清算、和解の試みをなされているのだが、「明治学院百年史」の第6章を学徒兵である長谷川信氏個人の記録で編集する試みは、その流れの一環でもあったということのようだ。
 また、この中山弘正氏の戦争責任の清算、和解の試みの前史ともいえる89年の昭和天皇の死去に伴う大学の対応というものもあって、この時の中心になられたのは森井眞元学長とのことだが、この久世氏も教員としてかかわっておられたという。

 このことにもふれておきたかったのは、「会津の『わたつみのこえ』を聞く27」でふれた会津人である第2代目学長井深梶之助氏とのかかわりだ。
 井深氏は、あの時代に天皇に殉じて自決した乃木希典大将夫妻を批判したという。
 その日記に「大ナル心得違ナリ。其ノ不健全ナル思想ノ表現ナリ」と書き、学生には「基督教倫理ノ立場ヨリ判断スレバソノ非ナルコト勿論ナレトモ真ノ武士道ヨリ見テモ心得違ト云フベキナリ」と全否定したとことについては先に整理した。
 この事を、井深学長は「天皇のためなら死ぬのが当然という殉死の思想に潜む危険性を心底嫌った」ととらえたとするのが学院の基本姿勢として脈々として流れていると捉えれば、久世氏が「兵戈無用」の碑建立に共鳴されても自然ではある。

 ただ、久世氏なら信氏の具体的な戦死情報をお持ちのはずだと思うので、住職がおっしゃる方とは違う気がする。
 今は、これは別々に会津の「わたつみのこえ」を聞いたお二人が、結果として同じような思いに至ったという事なのだろうと思っている。
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by shingen1948 | 2017-05-26 09:28 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 木村氏が長谷川家の菩提寺を訪ねた時に、住職が、石碑が建てられたときに明治学院大の学長がお参りに見えられたことを話されたとある。
 「石碑が建てられたとき」というのが、湖畔戸ノ口のゆかりの場所に建った石碑の事なら、この石碑建立は昭和21年(1946)5月なので、第4代の矢野貫城氏(1939年 - 1948年)ということになる。

 「明治学院百年史」によれば、この方は価値観が大きく変わる戦中から戦後にかけての院長だが、「今日内外之情勢は到底菲才不徳の私の是以上任に留まるべき時にあらざるを痛感」という昭和22年8月7日付の文書で、辞任の意思を明らかにしたとのことだ。

 教育にかかわる変換点を確認すれば、昭和20年12月21日に文部次官通牒で「御真影」奉還が、昭和21年6月29日には「御真影奉安室」の撤去が指示されたとのことだ。その間の昭和21年1月1日には、天皇の人間宣言。
 石碑建立の時期である昭和21年5月頃に強力に推し進められたのは、教職員適格審査の名のもとに教職員不適格者を摘発して教育界から追放する処置だという。
 矢野氏は、その前の昭和21年2月7日に発足した「日本教育家の委員会」の日本側の委員会の一員として加わっているという。

 矢野氏の信氏の石碑建立にかかわるかかわり方は、辞任前のけじめのつけ方の一つだったのかなと思う。
 矢野氏のこの辞任は、11月に迫った創立70周年記念式を前にしての辞任であり、住宅難からしばらく学園内にとどまっていたこともあって、同情の声もあったのだとか。

 住職がおっしゃる明治学院長が、この第4代の矢野貫城氏ならば、長谷川信氏の戦死についての情報は公式記録「4月12日与那国島北方洋上戦死」以外ないだろうと思う。住職が紹介する「長谷川君は飛行機の燃料がなくなるまでずっと飛んでいったんだとおっしゃっていましたよ」というのは、矢野氏の思いだったのだろうと想像する。
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by shingen1948 | 2017-05-25 09:42 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院百年史」の中村メモでは、4月12日の出発の遅れを、山本隊長機の接触事故とするが、「Web東京荏原都市物語資料館」の情報を加えるとそうなる理由まで想像が膨らむ。
 4月5日9時、山本隊は新田原を離陸して韓国済州島に向かう。そして、そこから7日には、杭州(現中国浙江省)に前進したとある。
 そして、11日を迎えるのだが、午後4時に杭州の筧橋基地を出発していることについては、中村メモの情報と同じだが、この時に「山本機は整備不良により引き返し、翌12日午前6時、再度出発する」とある。
 その12日の再出発の際にも、山本隊長機が接触事故を起こして、予定より遅れての出発となったという状況が想像できる。
 それ程、どの機体もぼろぼろの状態だったということが分かる。

 「Web東京荏原都市物語資料館」の「下北沢X新聞(1674) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて3~」の記事で、木村氏が長谷川家の菩提寺である西蓮寺前住職秋月亨観氏と会っていることが分かる。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51703204.html
 昨日、ひっよとすると記事の意図に反しているかもしれないと思いつつ想像を交えて整理したのは、この会話内容について深読みしたかったからだ。

 まず、気になったのが、「『生き残った仲間の人の奥さんが前に、うちに訪ねてきたことがありましたよ。確かね、茨城の人だと言っていました』住職の話である。仲間といえば武揚隊ではないだろうか」とある部分だ。
 昨日整理の生き残った仲間に該当するのは、力石丈夫氏と中村敏男氏で、「仲間」との表現からは力石丈夫氏かなとも思ったが、「明治学院百年史」では、この方は神奈川県在住とある。また、中村敏男氏は大分県在住とのことだ。
 「Web東京荏原都市物語資料館」にも該当するかもしれない方の情報がある。
 済州島へ飛来した時点で吉原薫機が不調を起こし不時着したが、この時に怪我を負ったのか、特攻には行っていないという情報だ。
 この方の出身地の情報はない。結局は分からないままではある。

 次に気になるのが、「石碑が建てられたときに明治学院大の学長がお参りに見えました」との話。
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by shingen1948 | 2017-05-24 09:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院百年史」がいう「信と同じ第一次「学徒出陣」組で特捜2期生だった力石丈夫(神奈川県在住)」氏と「下北沢X物語(3137)~終章:悲運のと号第31飛行隊~」が消息不明者として挙げる「力石文夫少尉 見習士官(特操2期)」は、同じ方ではないだろうか。
 一字違いで、しかも誤ってもおかしくない感じの違いなので、可能性は高いと思う。

 この方の情報を「明治学院百年史」から拾ってみる。
 まずは、「明治学院百年史」が発行された時点で生存者として紹介されている。
 次に、本土から台湾に向かう時に、無事に台湾についたことの記述が見える。
 4月12日信氏を含む第2陣が敵機と遭遇するのだが、その第1陣4機は、4月11日夕刻に出発していてる。その第一陣が「力石少尉を含む第1陣4機」と紹介されてる。従って、氏は無事台湾に着いている。戦後生存からは、出撃して不時着か、出撃それ自体ができなかったかは不明なのだろうと思う。

 もう一方、「明治学院百年史」の中村メモの「中村敏男(大分県在住)」氏は、信氏の上官で、台湾に向かう時の交戦で、右肩撃ち抜かれ左腕に盲貫、顔面に破片による裂創を負い戦闘不能となり、低空飛行で与那国島に向かい不時着された方だが、この方もこの冊子が発行された当時健在だったとされる方がいらっしゃる。
 この方が、「下北沢X物語(3137)~終章:悲運のと号第31飛行隊~」が消息不明者として挙げる「中村欣男少尉 幹部候補生」とは別人なのだろうか。
 この方も一字違いだが、力石のように誤ってもおかしくない感じとも言い難いところはあるが、可能性としてはあるなと思う。

 実は「Web東京荏原都市物語資料館」では、別の意図があって敢えて消息不明者を挙げているのではないのかなと思うところがある。
 例えば、「明治学院百年史」では台湾へ渡った機の数を13機としているのだが、武揚隊の出発前の宮崎神社祈願参拝者が13名である事まで確認している記事がある。他にも記事の隅々にからは「明治学院百年史」を十分に確認していることが読み取れるのだ。
 ということは、敢えて消息不明者を掲げることで、別の情報を得たいという意図があるように感じられなくもない。
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by shingen1948 | 2017-05-23 13:44 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)