地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 福島の建築( 170 )

 前回は、他の情報から亀岡邸の情報を見つめ直した、単なる遊びの部分にふれたが、今回は、ちょっと真面目に、亀岡邸の完成時期にかかわる部分。

 「伊達市ホームページ」の資料では、亀岡家住宅の建築開始は明治16年とあり、20年という歳月をかけていると解説される。亀岡家住宅の完成というのは付属建物も含めての期間を指すようだが、亀岡家居住棟自体の完成も、一応明治28年とする。
 それを、新しい案内板では、この建物の建築年代を「明治37年頃」と精査している。そのことについて確認してみる。

 エピソードでは、飯坂の「なかむらや旅館」をみて大工棟梁を小笠原国太郎氏と決めたことになっている。その新館完成は明治29年だ。という事は、亀岡家居住棟の建設開始は、それ以降ということになる。しかも、小笠原国太郎氏は、明治30年まで天皇を迎える「花水館奥の間(御殿)」の建設に携わっているということもある。
 更に、エピソードでは、「手始めに倉座敷の造作を依頼し、その完成みて、すっかり技量にほれ込んで、亀岡家居住棟の建設を依頼した」ことになっているという。
a0087378_10264391.jpg また、「旧亀岡家住宅(大邸宅建設の推進)」によると、木造高層三階建ての建物に耐える土台にするのに、深さ3m巾1.8mの溝に玉石をいれて土搗きをしたという。その上に、4段重ねの御影石で基礎を固めたということだ。この工事に3年を要したという。

 ここに、江川氏が設計したということの年代的に見た条件を加える。氏が福島県の建築技師になるのは明治20年(1887)で、それから明治35年(1902)に岡山県に転任になるまでの15年間が福島県での勤務ということだ。
 このことも加味すると、亀岡家居住棟の設計と建設開始時期は、明治30年以降、明治35年より前というのが自然だろうと思う。後半は、会津での仕事が多かったということを考慮すればもう少し幅は狭まるかもしれない。

 他の情報と見比べると、完成が「明治37年頃」という精査は、かなり妥当性のある絞り込みのような気がする。
 今回の展覧会で、写真掲載された「明治35年大木材木店の領収書」・「旧亀岡家住宅設計図」とともに、「明治36年大工棟梁小笠原国太郎からの領収書・末尾」は、材木仕入れの支払いが明治35年、明治36年の大工への支払いが為されるということだ。その整合性も自然だと思う。

 「明治の擬洋風建築(草野)」では、主棟建立について明治16年焼失後、明治28年の再建という口伝を元にして、「ランタンやポーチを飾っている手法は本県では比較的早期に属するものといえる」として、「豪農住宅」として見た時の特異性を考察している。
 10年違ってもその考察に影響はなさそうに思うが、どうだろうか。 
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by shingen1948 | 2016-12-09 10:27 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 前回は、亀岡邸の情報から他の情報をながめたが、今回は、逆に他の情報から亀岡邸の情報を見つめ直す。

 まずは、単なる遊びの部分。
 「信夫の里の旧家を訪ねて(島貫 倫)【歴史春秋出版】」の「なかむらや旅館明治館」について、「棟梁の目~ココがみどころ」という専門家から見た具体的な職人の技が二つ紹介されていた。
 その一つが、明治館の廻り階段を支える丸柱が上から吊っていることで、もう一つが、床の間の紫檀・黒檀・鉄刀木の三銘木配置と欅の床板に埋め込まれた黒柿の亀の埋木だった。
 その「欅の床板に埋め込まれた黒柿の亀の埋木」だが、旧亀岡住宅でも特徴の一つのようなのだ。
 これが、小笠原國太郎氏の得意技手もあり、遊び心でもあるのだろうと想像する。

 これにかかわって、伊達市広報誌「地域の魅力ふる里再発見」の「旧亀岡家住宅(隠れた縁起物)」に次のように紹介される。
 欅の間と隣の居間には、亀や鶴の彫り物を見つけることができます。これらの彫り物は黒柿の材を使い彫られたもので床板などに埋め込まれています
 また、「旧亀岡家住宅((銘木の数々②)」では、次のように紹介される。
 主人の間の続きの「茶の間」(家族居間)を見てみましょう。…中略… 床の間の床板や付け書院の棚板には、銘木の黒柿材を亀の彫り物にして欅材に埋め込んでおり、7匹の亀と1羽の鶴があしらわれています。
 出窓の欅の脇板にはブドウと木ネズミ(リス)が彫刻されています。

a0087378_10513652.jpg これは、「旧亀岡家住宅((銘木の数々②)」でいう「主人の間」から、続きの「茶の間」(家族居間)」をのぞいた写真だ。見学では気づいていないのだが、床の間部分にある細工が写りこんでいる。恐らく、これが欅の床の間にあるという黒柿の鶴と亀の彫り物が写り込んでいるものなのだろう。
 次回見学の機会には確認してみたいものだ。その時が、楽しみだ。

 なお、「旧亀岡家住宅(隠れた縁起物)」でいう「隣の居間」というのが、「主人の間」のことで、「続きの「茶の間」(家族居間)」のことを「欅の間」と表現しているようだ。
 また、柿材は、隠れた縁起物という観点からすると、「財をかき集める」という縁起物なのだそうだ。恐らく、先にふれた3階へと続く階段の傷の部分の柿の彫りものにも、床の間の黒柿の板にも、その意が込められているのだろう。
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by shingen1948 | 2016-12-08 10:52 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
a0087378_11291761.jpg 今回、家族と亀岡邸に出かけ、偶然にもその無料開放で、内部を自由に見せていただけただけでなく、詳しい資料をいただくことができた。
 それで、亀岡邸を詳しく見せていただくだけでなく、その設計者や棟梁の仕事まで確認させていただいた。
 特に、設計者である江川三郎八氏については、岡山の情報を元に、福島での仕事を確認したいものだとずっと思っていたところだった。
 棟梁の小笠原国太郎氏については、全く手持ち情報がなかったが、氏の仕事とされる建物については散策したことがあったので、視点を変えてみるきっかけとなった。

 今回、頂いた資料の情報を確認するのに、いろいろな情報に接したのだが、気になった事がいくつかあった。散策するのにいつもお世話になっているので、気になりながらそのままにするのは、かえって失礼かなということで記させていただく。あくまでも自分の備忘録として。

 「ふくしまの文化財を見る(明治~現代)」の「亀岡住宅」解説文の「伊達町から移築されました」とあるのは、明らかに「伊達崎村(現桑折町伊達崎)から移築」の誤りだろうと思われる。なお、「性格」の項の「豪農の住宅 ※県指定重要文化財」は、今年度からは「国指定重要文化財」となるはず。

 「福島県 近代化遺産 市町村別一覧表」の福島市の15「なかむらや旅館新館」、17「花水館奥の間(御殿)」の「施工者」欄は、空欄になっているが、ここが「小笠原国太郎」氏の可能性が高いということだろうか。
 特に、「なかむらや旅館新館」は、その確からしさの確率が高いように思う。

 郡山市の2「金透記念館(旧金透小学校)」は、明治8年建築で、設計者が増子義三郎氏・ 宗形彦八氏、施工者が今泉久三郎氏で、明治8年の創建のデータとしては、その通りなのだろう。しかし、「福島県土木史(平2.3.31/県土木部)」の建設年表では、明治27年(1894)の金透小学校の建設設計を県技手江川三郎八としている。現金透記念館は、明治27年(1894)以降の建物をモデルとしているはずだと思う。
 素人の散策ではどうでもいいことだが、時代の流れとの関係を捉えようとする場合は、明治27年モデルを考慮することが必要なのかもしれないとも、……。
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by shingen1948 | 2016-12-07 11:32 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 「明治の擬洋風建築(草野)」に、「旧亀岡家住宅」の項に、各階ごとの「天井伏」という全体の天井構成が分かる図が載っていた。時々眺めていた冊子だが、その事に気づいていなかった。これを見ると、全体的なバランスを考慮し上で、それぞれの天井が造作されているということのようだ。

 今回の見学では、建物の天井についてしっかり見てきていない。次回見学の視点のために整理しておく。
 先にいくつかの天井部についてふれている。
 パンフレットの紹介に基づいて、江川三郎八氏の仕事としてのかかわりで整理していたものだ。
 しかし、この部分は設計者と大工が阿吽の呼吸で造作を進めるものかもしれないと思えてきた。当時の設計者と施工者の関係はそういうものだとの解説も見たが、この建物の設計者も施工者も共に宮大工であるということもある。
 それで、先に施工者である大工の小笠原國太郎氏の仕事を確認してから、残りは整理していくことにしようと思ったのだ。

 既に、設計者の江川三郎八氏の仕事として整理したものは、以下のようだ。
 「亀岡邸の設計に江川三郎八がかかわる⑲:福島の建築(12の2)」で、八角形の尖塔内部全体を設計者の仕事としているが、その天井部。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23385023/
 「亀岡邸の設計に江川三郎八がかかわる⑳:福島の建築(12の2)」では、洋間の中央折り上げ傘板張り天井とかという天井。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23397356/
 「亀岡邸の設計に江川三郎八がかかわる21:福島の建築(12の2)」では、廊下と便所、それに居間の「折上額縁格天井」とかいう天井。「明治の擬洋風建築(草野)」の「天井伏」図を見ると、主人居間も同様の天井のようだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23400166/
a0087378_1753405.jpg パンフレットの紹介の残りの天井を確認したら、一階正座敷天井の折上竿縁格天井と二階東座敷の床の間の天井だけだった。
 その内、床の間の天井は、特に設計者とのかかわりを記すゴシック体ではなかった。
 また、「明治の擬洋風建築(草野)」の「天井伏」図を見ると、折上竿縁格天井とされるのは、正座敷だけでなく、脇座敷と次の間も同様の天井のようだ。

 なお、パンフレットの紹介にはないので想像でしかないが、階段の螺旋状の工夫もこの天井の工夫とかかわった空間を確保するための工夫なのではないのかなとの素人の見方をしている。
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by shingen1948 | 2016-12-06 17:55 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 結局、医王寺の建設工事と小笠原國太郎氏とのかかわりは確認できなかった。
a0087378_644086.jpg ただ、その確認の中で自分の視点が薬師堂に向けられた時、医王寺についての自分の偏った見え方に気づいた。それは、「奥の院薬師堂」についての思い入れを感じながら、理解できていないこととかかわる。
 (手持ちの写真は家族が写りこんでいるので、この「奥の院薬師堂」の写真は、福島市の観光のページからお借りした)

 医王寺と言えば、中世初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺だとか、境内には佐藤基治とその子佐藤継信と佐藤忠信の墓とされる板碑が残るとか、後年、奥の細道の松尾芭蕉が訪れたというイメージしか持ち合わせていないということにかかわる見え方しかなかった。
 多分、解説する人にとっては常識的な見え方なのであえて説明しなかった知識を、自分には持ち合わせていなかったということなのだと思う。

 そもそも医王寺の「医王」というのは、辞書的には、医師が病人を救うように、仏法を説いて人の悩みをいやすところから、仏・菩薩のことを意味するとのこと。薬師如来の異称という意味もあるようだ。(デジタル大辞泉)

 その「薬師如来」を確認すると、その正式名は「薬師瑠璃光如来」といい、また「医王善逝」・「大医王仏」とも呼ばれ、きわめて現世的な病気を治す功徳のある仏としているようだ。

 これらの予備知識を頭において、改めて「医王寺」を確認すると、「真言宗の寺院で、山号は瑠璃光山。中世初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺」とある。
 その山号までも瑠璃光山ということで、薬師如来にかかわっているということだ。
 つまり、この「瑠璃光山」という山号と、「大鳥城記」がいう「奥の院薬師堂」、「平野の伝承とくらし」がいう「鯖野薬師堂」の薬師瑠璃光如来が鎮座する地とかかわるということなのではないのだろうか。

 医王寺本堂には本尊として大日如来が祀られているそうだが、確認していくと、この「薬師瑠璃光如来」が重要な仏様らしいということだ。
 そういう視点を加えることで、明治37年(1904)に焼失した「奥の院薬師堂」を、大正4年(1915)12月に竜和和尚が大勧進となり再建されるという事業が、本来的な意味を持つ見え方で眺められるようになったのだと思ってる。
 次の機会には、この「奥の院薬師堂」をよく見てきたいなと思っている。
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by shingen1948 | 2016-12-05 09:43 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 飯坂温泉の「なかむらや旅館」「旧花水館奥御殿」が、小笠原國太郎氏の仕事らしいという事で整理してきた。
 他に「医王寺本堂」の建築も氏の仕事との紹介がある。しかし、手持ちの散歩資料からは本堂の明治時代改修が読み取れないでいる。
a0087378_851511.jpg 「大鳥城記」では、確かにこの寺は何度も火災に遭っているようで、そのたびに再建を繰り返していることは読み取れる。元禄7年、享和3年、文化2年等の本堂や客殿の建立は、古文書で確認できるという。これらは、火災による焼失だろうと想像されるようだ。
 ただ、現在の本堂や庫裏は、文化2年に建てられたものと推定されているようだ。この建物の改修が明治時代に行われたということなのだろうか。

 この寺の明治から大正にかけての気になる改修がある。
 大正4年(1915)に行われたといわれる薬師堂の改修だ。
 明治37年(1904)に「奥の院薬師堂」が焼失し、大正4年(1915)12月に再建されたことが記される。しかも、「竜和和尚が大勧進となり再建した」との表現で、大きな仕事であったことが想像される。
 こちらなら、年代的にはあいそうに思う。

「平野の伝承とくらし」では、「大鳥城記」で「奥の院薬師堂」と紹介される薬師堂を「鯖野薬師堂」と称して、次のように解説される。
 この薬師堂は、佐藤基治がいたく薬師仏を信仰して、弘法大師の御作といわれる薬師仏の尊像と、玄心僧都の献上した薬師仏の尊像とを鯖野の里に御堂を建て併安し、これを鯖野薬師と称したのである。医王寺の門を入ると老杉が立ち並ぶ古い参道をまっすぐに進むと、杉森の中にこの御堂がある。 基治が建てた御堂は結構の贅美をつくした実に立派な御堂であったが、明治36年火災に罹り、さしも壮麗な御堂が烏有に帰してしまったのである。それから久しく再建できないでいたが、大正4年12月竜譲和尚が大勧進となり、非常な苦心努力を払って再建したのが今の御堂である。
 
 今のところ、福島側からの散歩情報では曖昧なままで、確認がとれていない。
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by shingen1948 | 2016-12-04 08:52 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 街づくりの変革のスタートの方が、明治21年(1888)「飯坂大火」より早いのが分かるのは、花水館の屋号変更や「なかむらや旅館」への売却委譲、それに飯坂大火の時間経過だ。その事については、先の「ふくしまの建築42~花水館②「不易と流行」」の後半に記している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11420930/
 中村屋が土湯から飯坂に移るのは明治22年だが、「花菱館」の屋号を「花水館」に改めたのは、明治20年だ。
 花水館は、明治20年に土湯から移転する計画のあった中村屋に旧建物を売却する見通しで、現在地に移転しているのだ。この時に、再出発するという意味で「花水館」と屋号を変えたということだ。
 そして、飯坂大火が起きるのは明治21年だが、この時、幸い売却予定の建物が残っていて、鯖湖湯再建も順調に進んでいたということだ。
 この大火の時には、計画通りに事が進んでいて、その滝の湯が発展したという経緯のようなのだ。

 明治時代の飯坂大火は、大概この明治21年(1888)の飯坂大火とするが、鯖湖地区では明治13年(1880)にも大きな火災があった事は、「堀切邸」のパンフレットの「堀切家年表」で分かる。
a0087378_10304233.jpg その火災で「堀切邸」の母屋が焼失し、翌年に再建しているということだ。
 その年表の明治16年(1883)に、堀切良平上飯坂村ほか5村の任命戸長になるとある。これが、先に「この時期の飯坂の変革とも取れるうねりに堀切良平氏がかかわり、大火の焼け跡整備に私財を投げうって奔走したようだ」としたこととかかわるのだろうと想像する。
 その変革に伴う建築に、小笠原國太郎氏がかかわっていたという関係性だろうと思われる。

 なお、この堀切邸については、「飯坂散歩② ~ 堀切邸」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11853378/
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by shingen1948 | 2016-12-03 10:28 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 「旧花水館奥御殿」は、現在「ホテル聚楽」の管理下にあるようだが、そうなる経緯については「ふくしまの建築42~花水館」の整理で記した。
a0087378_5465852.jpg この時点では、まだ老舗名門旅館「花水館」の取り壊された昭和和37年以降に建てられた旅館部分の建物もあった。古い絵ハガキなどから、ここに花水館が新築移転してきた当時からの面影を残していた思われる門のアーチの部分が残ればいいなという期待があったが、こちらも取り除かれようだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11416155/

 元禄元年(1688)創業の老舗旅館「花菱屋」だった花水館の建物を買い取った現「なかむらや旅館」が、新たに建てた三階建ての「明治館」とその花水館「奥御殿」の両方のが、亀岡邸の大工棟梁小笠原國太郎氏の仕事であることを頭におくと、妻子を呼寄せ、福島市飯坂町に居を構える略歴部分に納得がいく。
 この時代、飯坂町が誕生するための町づくりの大きなうねりがあって、多くの建物建設がなされたこととのかかわりが想像できるからだ。
 街の整備にかかわる出来事を再掲する。

 明治21年(1888)4月5日「飯坂大火」
 湯町から出火した火災は西風にあおられて、湯沢、十綱町に延焼し、178戸が灰になる。この時、鯖湖湯も焼失する。
 明治22年(1889)鯖湖湯が再建される。飯坂町が誕生する。
 明治24年(1891)鯖湖神社が建立される。
 
 この時期の飯坂の変革のうねりには、堀切良平氏もかかわり、大火の焼け跡整備に私財を投げうって奔走したようだ。
 焼け跡の旧道を広げ、土地の高低をならし、古戸、東滝ノ町、湯沢の畑に新しい道を造り、新町(しんちょう)(錦町、古戸町、旭町、鯖湖町、若葉町)を設置し、摺上川沿いの若葉町に遊郭を移転したという。
 この時に新たに整備される「滝の湯」を中心とする旅館群のかかわりの中に、花水館の移転があったのだろうと想像する。
 そして、その変革に伴う建築に、小笠原國太郎氏がかかわっていたのだろうと思われる。
 
 そう考えると、今回頂いた資料で、正元氏の姉と娘が堀切家に嫁いでいて、その堀切家を媒介に、亀岡邸の大工棟梁に小笠原國太郎氏を依頼したという想像に合点がいく。そのモデルハウスの役割を担ったのが「なかむらや旅館明治館」だったというイメージだ。
 なお、先の整理では「飯坂の歴史」を元に、明治21年(1888)「飯坂大火」を街づくりの変革のきっかけに想像したが、街づくりの変革のスタートの方がそれより早いようなので、訂正したい。
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by shingen1948 | 2016-12-02 08:45 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 今回、「なかむらや旅館」を確認していて気付いたのが、先の整理では、視点の大部分が本館に向けられているということ。
 この旅館は、本館も新館も国指定の重要文化財なのだが、本館が江戸時代創業時の旅館で、新館は明治期の建物。そうなると、素人は、つい本館の方に目が向いてしまう。
 それが、今回、亀岡邸との比較を意識したことで、明治の新館に視点を移して眺めることになった結果、こちら側の整理がおろそかになっていることに気が付いた。
 あらためて、新館を中心に整理し直す。
 「文化遺産オンライン」サイトの「なかむらや旅館新館」に基本的なデータが示される。
 http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/165822

 「信夫の里の旧家を訪ねて(島貫 倫)【歴史春秋出版】」の「なかむらや旅館」の解説から、明治館にかかわる部分を拾う。
 「明治館は、総ケヤキ造りで、部屋ごとにそれぞれ特色があり、床の間、書院、そして建具や床に至るまで、職人の技が見受けられます」とある。
 「棟梁の目~ココがみどころ」として、専門家から見た具体的な職人の技が解説される。

 その一つに、明治館の廻り階段を支える丸柱が上から吊っていることを挙げている。
 一階のスペースを確保するための工夫なそうだ。
 2階と3階の間にある丸柱の造作についての解説のようだ。
 材質と手すりの構造に旧亀岡邸との共通点をみたが、差異点はなかむらや明治館では、ここを踊り場として折り返す構造になっているようだ。
 旧亀岡邸ではアール状の構造だ。素人考えでは、これも一階のスペース確保とかかわっているような気がする。踊り場分の空間と共に、階段の底辺もアールになっていることで、一階客間の天井の工夫分を確保しているのではないのかなと勝手に想像する。
 
 もう一つ、床の間の紫檀・黒檀・鉄刀木の三銘木配置と欅の床板に埋め込まれた黒柿の亀の埋木が紹介される。欅の年輪を波紋に見立てているという。
a0087378_552726.jpg 旧亀岡家住宅にも、様々な彫り物が随所にあるようだが、撮った写真に写りこんでいたのは、3階へと続く階段の傷の部分。
 ここに柿が彫られていて、その傷が背景として生かされる見事さに通じるのかな。
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by shingen1948 | 2016-11-30 09:46 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 「亀岡邸」と「なかむらや旅館」建築にかかわるつながりの象徴を、階段部の欅材を削った部材手すり子細工と勝手な見方をしている。
 これもまた素人の勝手な見方だが、その手すり子細工に木地師の技術を感じている。
 直ぐに「なかむらや旅館」と「飯坂こけし」のかかわりを感じてしまったのは、先に土湯から飯坂に進出した「なかむらや旅館」と土湯系飯坂こけしのかかわりについてふれたことがあったからだ。こけしの地域散策資料を元に土湯散策をしたその延長に飯坂を散策する中で整理したものだ。
 まずは、その「飯坂こけし」について再整理する。

 地域散策資料としては、つい最近まで「木人子室」というこけしにかかわるホームページが開かれていたのだが、そこに紹介されていたことを元にした散策だった。今回そのページを確認したら、運営会社の都合で消えていた。
 覚えている範囲での整理とする。

 「飯坂こけし」については、二つの系統が紹介されていた。
 その一つは、「木地屋八幡屋」で、八幡神社付近にあった弥治郎系のこけしなそうだ。
 明治23年(1890)に、弥治郎出身の毛利栄治氏が、八幡神社門前の佐藤応助氏の三女クラさんに婿養子に入って「木地屋八幡屋」を開業したということだった。
 佐藤応助氏という人は、義太夫に長じ、踊りの師匠までやった人だとの情報も……。
 この事にかかわる散策については、「飯坂温泉:飯坂こけし②」でふれているが、結局は散策の中では何の手掛かりも得ていない。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6227840/

 もう一つが、「木地業山根屋」で、鯖湖付近にあった土湯系のこけしなそうだ。
 明治32年(1899)に、土湯の工人である渡辺作蔵氏の二男角治氏(明治10年~大正11年)が飯坂に移ってきて、キンさん(明治14年~昭和16年)と結婚し、明治37年(1904)頃から「木地業山根屋」を開業したということだ。
 この土湯温泉から飯坂温泉に移るのに、「なかむらや旅館」の主人阿部与右衛門氏の口利きがあったということだった。これには、この「なかむらや旅館」も土湯温泉から移ってきたということが絡んでいる。
a0087378_6191227.jpg この事にかかわる散策については、「飯坂温泉と土湯温泉:飯坂こけし」でふれているが、この時には、この飯坂こけしは探し当てられなかった。というか、この時は、まだこちらのこけしは休止状態だった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6222693/
 ここでの後半に、なかむらや旅館が、飯坂に進出することになった事情も、当時の旅館のホームページに掲げられていた沿革を引いて整理していた。
 初代阿部與右衛門は、明治のはじめ現在の福島市外土湯温泉からこの地飯坂に出て参りました。当時土湯村において旅籠を営んでおりましたが、たび重なる洪水に悩まされ、このまま土湯に留まっては家運が衰えると判断し、飯坂に進出することを考え、当時の花菱屋、(現在の花水館の前身)を買受け営業したのであります。その後旧館(江戸館)に新館(明治館)を増築し、100年が過ぎました。

 更に、「飯坂こけし③」で、この「木地業山根屋」の弟子と思われる原の町こけし工人の高橋忠蔵氏について整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6235113/
 今回の震災と原発事故でどうなったのか、現在の消息は分からない。

 「なかむらや旅館」は、これらの散策も含めた視点で、「福島の建築 30」として整理したが、その内部について見学する機会はなかった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10112983/

 それから4年後だった。
 堀切邸の見学で、偶然「飯坂鯖湖こけし」に出会ったのだ。そのことを整理したのが、
飯坂散歩③ ~ 「飯坂鯖湖こけし」」だった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11860596/
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by shingen1948 | 2016-11-29 09:15 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)