地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 信夫の里(天地人の時)( 105 )

保原城

 梁川城を確認するためにいろい検索していたら、伊達市広報の「ふる里再発見」というコーナーに、「保原城跡の地籍図」が紹介されているのを見つけた。地籍図の水路と水田を染めて保原城の堀跡がイメージできるようになっている。
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 保原城は、かつては周囲を水堀に囲まれ、内部を土塁で曲輪に区切っていたと聞く。しかし、現況は、市街化によって遺構は消滅し、城ノ内などの地名に痕跡を残すものの、その面影をとどめない。
 他所者の散歩人にとっての手掛かりは、交差点横の中野病院の脇にある保原城跡の標柱と、公民館の位置が保原陣屋跡という情報ぐらいしかない。

 その情報で、この「保原城跡の地籍図」を見るが、位置関係が分からない。この解説から位置情報を拾うと「保原地区の旧保原町役場跡地周辺は、保原城という城跡」としかない。「ア」「イ」の地点から掘跡の痕跡が見つかったとあるが、これがどの辺りかは分からない。
 いろいろ確認してみると、他所者には無理だが、地元の方にとっては、これでイメージできる事が分かる。最近まで「元木溜井」という水田の灌漑溜池が残されていたらしいのだ。これが青で染められた堀に重なるのではないかと想像できるらしいのだ。
 更に、地元の方は、廃城後、本丸跡は畑地になり、堀跡の大半は水田になったという情報を持っている。

 他所者の散歩人は、そこに下保原村絵図の資料から情報を拾う。柵で囲まれているのが保原陣屋の北東隅から北に「溜井」が伸びていることをつかみ、公民館の位置が保原陣屋跡という情報を重ねる。そうすることで、青で染められた堀の南が、保原陣屋跡であり、現公民館だと想像することができる。
 この想像は、「保原地区の旧保原町役場跡地周辺は、保原城という城跡でした」ということと、中野病院の脇に保原城跡の標柱が建つことと矛盾がない。

 現公民館と村役場跡の境界線が保原陣屋の東側ラインと重なるらしい。また、「元木溜井」の「元木」の字名を地図で確認すると、その辺りが北側のラインかと思えてくる。そして、この辺りを歩いた感覚から、地籍図の南側の堀跡が現陣屋通りで、郭Ⅰと郭Ⅱの境界線が、現幼稚園付近か地図にみえる水路付近という想像を加えてイメージする。

 先の散歩で整理したイメージの誤りに気づく。
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by shingen1948 | 2011-12-26 05:43 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)
 大森城の南西周辺散歩の中で確認したのが、城裏口の石造供養塔(板碑)だ。その前には、城山縁で確認した城山供養塔の板碑、北舘供養塔を確認している。これらは、大森城が創設されたとされる天文11年(1542)より以前に建てられたものだ。
 複数の板碑群を確認することで、何となく厚みのある散策をしたような気分になっていたのだが、半沢氏のフィールドワーク地図を確認したら、この近所にはまだ中世の板碑群が建っているようだが、それらは見落としているようだ。
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 これは、大森城を西側から眺めている。右手の小高い山が、大森八幡神社の裏側だ。
 大森城の散歩を裏側から整理してくると、視野の広がりのようなものを感じる。
 その一つが、下鳥渡山王道から福島道にかけての道筋沿いの風景と大森城の散歩を重ね合わせてイメージしていることだ。


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 これは、散歩の中で撮った天神社だ。家に戻って「半沢氏のフィールドワーク地図」と見比べていたら、その隣の「龍音寺が別当だったが、明治期の神仏分離政策によって分離されたもの」とのメモがあるのを見つけた。散歩では、その龍音寺は見逃したなと思いながら、芋川氏の菩提寺が明治期に廃寺になったのも、この神仏分離政策だったことを思う。

 その「半沢氏のフィールドワーク地図」の「好国寺」に、「再興 山田意休夫妻墓碑 宝永元年(1704没)(長尾久右衛門もと米沢藩上杉氏家臣山田の開拓者)。長尾久右衛門大学の開拓として「寛永7年(1630)頃上杉氏の新田開発奨励政策により帰農したという。猪鹿防除のため鉄砲役免除」とあるのを見つけたことで思うこと。
 それは、大森城は漠然と伊達氏とのかかわりをイメージしていたのだが、少なくともこの城の南西付近は、上杉家臣団とのかかわりのイメージが強くなったということ。

 考えてみれば、大森城も最終的に芋川氏の時代に廃城になるので、少なくとも大森城下の痕跡も、上杉家臣団とのかかわりで大きな変革はストップしているはずなのだ。
 「大森城の構成」でも、慶長5年(1600)の栗田氏以降に山麓の整備が大きく展開したのではないかとみているらしい。山麓部の発掘調査が行われていないので慎重なものいいだが、計画的な街区画割りの特色は、織豊期の特色を示し、この時代に日常的な諸機能は山麓部に移動してきたとみているようだ。
 それで、大森城は近世当初まで使用されたが、天文期の基本プランの雰囲気を留めていることになったと見ているようだということとかかわりながら、「天地人の時」のカテゴリーを意識している。
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by shingen1948 | 2011-11-12 06:25 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)
 「安江繁家24」で大森城に出かけたのは、芋川氏が大笹生の東禅寺の4世とかかわって、菩提寺として常栄寺を開基したとする情報を得たからだった。
 
 しかし、この時点で肝心の常栄寺の旧地が分かっていない。案内板の説明から、観音堂脇の大森城主として初代正親・二代元親・三代綱親の墓碑が、昭和36年9月に左手下の椿館の墓地から移転改葬されているということが分かったに過ぎなかった。
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 その常栄寺の旧地が、「信夫之府城:大森城フィールドワーク」の地図にプロットされている。

 先の散歩でその北側の風景はイメージできている。城山供養塔をみつけ、それとイメージした北側の風景の中で、常栄寺の旧地が分かるかもしれないと思った。


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 城山供養塔は、北の道筋の次の道筋にあった。

 その脇に建つ案内板では、常栄寺跡供養塔となっていて、そこが、常栄寺境内であることが解説されていた。この案内板の解説で、常栄寺旧地はここであることが分かった。
 ふるさとの良さを見つけよう
 <旧跡>常栄寺跡供養塔
 このあたりは、城山に居住した芋川氏の建立と伝える常栄寺の境内である。
 この碑は、その寺の境内の一部に建てられた板石の塔婆で「板碑」といわれる供養塔である。中央には正嘉2年大歳戊午9月3日と読まれ向って右下方には右志者為慈父也とあって、なき父の供養のために建てられたものであることがわかる。碑の高さは112㎝である。正嘉2年(1258)は、国々に盗賊がはびこって、心の落ち着かない不安な年であったという。そのためか同年(正嘉2年)記銘の板碑は上鳥渡地区に2基も残っている。
 ディスカバー・マイカントリー
 福島信夫ライオンズクラブ
 ただ、この解説でこの供養塔と常栄寺は関わるという誤解を与えないかと気になった。

 この供養塔は、常栄寺建立前にあったはずで、常栄寺とは関わらない。常栄寺の開基は、解説にあるように芋川氏とのかかわりだ。
 廃城になっていた大森城が、慶長3年(1598)上杉氏が会津に入った時に復活する。この城代は栗田氏で、芋川氏はこの時点ではまだ白河城代だ。
 その芋川氏がこの大森城の城代となるのはその後で、常栄寺は、その芋川氏が大笹生の東禅寺の4世とかかわって、菩提寺として開基されるということだ。
 従って、この供養塔建立が建立された正嘉2年(1258)には、常栄寺はまだ存在しない。
 それどころか、この時代は鎌倉中期で、将軍宗尊親王、執権北条長時の時代だ。この大森城が創建されたとする天文11年(1542)よりも古い話だ。
 なお、案内板に解説される国々に盗賊がはびこる時代とあるが、その背景に、建久元年(1190)あたりから、飢饉・大洪水が続き、慢性的な飢饉に悩まされた時代ということがあるらしい。
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by shingen1948 | 2011-10-27 05:20 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(4)

舘③

 この舘を石栗勘解由の居城としての興味で見てきたが、「福島市の中世城舘」では飯坂重房の二男豊房の居館という説も紹介する。
 応永23年(1416)に「上杉禅秀の乱」が勃発した。将軍足利義持は持氏(関東公方)を助けて、関東・奥州の豪族たちに参戦を指示した。この時、飯坂重房の二男豊房は、伊達持宗を助けて参戦、その功によって「信夫郡余目荘下飯坂・佐葉野・宮代等数邑」を宛がわれ、下飯坂村に移った。 下飯坂村の祖となり、居館を下飯坂舘屋敷に定めた。(福島の町と村)

 その館が、慶長年間に、石栗勘解由の居城となったとしても矛盾ないと思う。

 館の痕跡だが、「福島市の中世城舘」では、「現在は、字舘屋敷の西端部に水路に沿って土塁の残存と推定される土盛りが北西隅及び南に約50mほど確認されるのみである。」とする。
 たったそれだけという感じだが、散歩人にとっては、ここに土塁をイメージ出来ることで、舘の範囲がイメージできたような満足感を得ることができる。
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 その土塁の痕跡は、先の散歩の道筋から北に向かう道筋の奥に見える林付近だ。この道筋自体が、舘の西のラインだろうと思われる。


 この道筋を進んでくると、右手に林が見えてくる。
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 これが、土塁の残存と推定される土盛りとされるものだと思われる。


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 そのまま少し進むと、この林が切れている所がある。恐らく、ここが館の北西隅とされる地点なのだろうと思われる。

 その奥を覗きこむ。それが舘の北側のラインなのだろうが、そのラインは明確には分からない。


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 北西方向から、西のラインを見るとこんな感じだ。

 この舘、石栗勘解由の居城ということで、「天地人の時」のカテゴリーで整理してきたが、飯坂氏の居館と見直すと、伊達氏とかかわるカテゴリーになってしまう。今回は、とりあえず「天地人の時」のカテゴリーのままで整理しておく。
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by shingen1948 | 2011-09-21 07:40 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(2)

舘②

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 字舘屋敷地内も歩いるのに整理していないのは、館という実感が得られなかったからのようだ。
 「福島市の中世城舘」では、「地籍図においても字屋敷内及びその周辺においても館の痕跡は読み取ることができない。」とある。
 しかし、地籍図をなぞり舘位置図と重ね合わせた図と、先に自分があるいた道筋を見比べながら確認すると、気分的に実感を得るヒントがもらえそうな気分になる。


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 字屋敷内には、一番太い道筋を入ったのだが、これは舘の南端に近い新しい道筋だったようだ。


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 館に入って、最初に舘の西端近くと思われる地点を写真におさめている。そこに何かを感じたようだが、そのラインを確かめずに、そのまま西に進んでしまっている。
 ここから、右に折れれば土塁の一部と思われる土盛りが確認できたはずなのだ。
 そんな風にいえるのは、確認した経験も入っているからということであり、地籍図をなぞり舘位置図と重ね合わせた図に経験を付け加える。


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 西側に回り込んで、寺を目印に館の位置図を実感しようとしているらしいことが分かる。この時には、寺が舘よりも西側に突き出ていることを意識していない。
 先に整理したように宝聚山金源寺が区柳屋敷地内に建立したとのことだ。図で確認すると、寺ができる前は、現在字寺屋敷と字柳屋敷を合わせた地域が、字柳屋敷地内だったと想像できる。

 いずれにしても、館という実感が得られなかったのは、現在唯一土塁の現存と推定される北西隅及び南に約50m確認されるという土盛りを見逃したからだということが分かる。
 その土塁をもとにすると想像は深まる。
 その寺屋敷と舘屋敷境界線付近を流れる水路が、舘の南端に近いというイメージできるのではないかと勝手に思う。舘の東端は、北南に延びる道筋なのではないかと勝手に思う。

 なお、「福島市の中世城舘」では、学問的に「『信達一統志』によれば、慶長年間に上杉家臣石栗勘解由の居城であったと伝える」とする。素人としては、石栗勘解由の居城ならば、仙道から信夫代官として下飯坂舘にやってくる慶長6年(1601)と想像する。
 気になるのは、「……、又平林内蔵人と云ふ人住給へるよし(信達一統志)」の部分だろうか。
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by shingen1948 | 2011-09-20 06:30 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)

 「福島市の中世城舘」では、下飯坂のこの「舘」について以下のように整理し、飯坂氏とかかわる説についても紹介する。
 立 地:自然堤防
 築城者:石栗勘解由の居城(信達一統志)
 時 期: 慶長年間(信達一統志)

 この舘に立ち寄ったのは、大笹生の安江五郎左衛門氏についての興味だった。
 上杉氏の会津移封で、安江五郎左衛門氏と石栗勘解由氏は、共に500石で、情報として曖昧だが、同心馬上30騎、足軽100人で仙道へ。それが、寛永8年分限帳200石の信夫の役人ということで、似ている立場だ。
 安江五郎左衛門氏と似た立場の下飯坂の石栗勘解由氏ということだった。
 ただ、訪ねてはみたが整理はしていなかった。
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 どちらかというとこの舘の南に建つ石栗氏が創建したという「金源寺」に関心があった。その「金源寺」については、「安江繁家⑬」に、「福島市寺院名鑑」で確かめたことを以下のように整理している。
 「金源寺の由緒沿革の中に、次のような説明がみつかる。
 延享3年(1746)寺社奉行に提出した『開基由緒書上書』によると、『当山開基上杉景勝之家臣石栗勘解由、慶長2年(1597)越後国岩船郡小川村金源寺を当村に移造立候。右勘解由来孫只今羽州米沢上杉殿ニ候』とある。」

 この金源寺は、石栗将監氏の菩提を弔うために、その跡を嗣いだ勘解由長次が同地区柳屋敷地内に宝聚山金源寺を建立したということらしい。なお、石栗家の現況にもふれ、「今も米沢に在住、曹洞宗東源寺の檀家総代を勤める」ともある。

 安江繁家氏の菩提寺である大笹生の「安楽寺」創建が、根津監物氏とすることと比べているのは、大笹生の根津氏が安江氏の嗣子に入るという状況で見えなくなった意図を確認したかったからだ。その事については、「安江繁家29」で整理している。

 金源寺を訪ねてみたことも整理していないのは、史跡として整理するには石栗氏への弔いの意識がまだ生々しいと感じたからだ。
 なお、石栗将監氏については、次のように整理している。
 慶長3年(1598)上杉家臣の石栗将監長広は、二本松の芦立城の城主となり500石を領した。
 慶長6年(1601)200石に減らされ、信夫代官となって、下飯坂舘に居住し寛永2年(1625)に没した。

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by shingen1948 | 2011-09-19 05:20 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)
 大笹生舘を回り込むように走る山沿いの道を北に進む。
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 その大笹生舘を回り込んだあたりに沢があり、その沢沿いの道にぶつかる。こちら側が、安江繁家氏とかかわる安楽寺のある風景が広がる。

 「信夫の里札所めぐり(梅宮茂著)信楽社」・「心の文化財~ふるさと福島を歩く(ふくしま盆地を歩く会)」・「大笹生100年史」などでは、「家臣根津八左衛門監物、大笹生金山奉行として舘し、」とか、「上杉家臣の根津賢物なる者が根津舘に居舘を構えていて、」とかと前置きがあって、「安楽寺建立」について表記する。
 少なくとも、ここには上杉家臣根津氏の舘があって、居舘していた風景ということでもあるらしい。
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 そういう目で、改めてこの風景をみると、まずは豊かな水のある風景であることに気がつく。
 その「杉沢」という地名に相応しい沢の風景。

 今回、この根津八左衛門監物氏が、安江繁家の養子として入られた方という確からしさの高い情報を頂いたので、これは、安江繁家氏の居舘もあった風景という事でもある。
 これは、単なる想像だが、その安江繁家氏は米沢に去られる時に、根津氏の本家に後を頼んだとすれば、根津氏と安江繁家氏とかかわりのある風景ということになる。

 あらためて安楽寺に向かってみる。
 飯坂古道をたどって来た時とは違った風景に感じている。先に飯坂古道をたどってきたここを訪ねた事については、「大笹生③安楽寺と宿縁寺観音あたり」と「大笹生②」に整理している。
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 安楽寺の右側の道の突き当たりが、信達三十三観音 10番札所 宿縁寺観音だ。安楽寺は、その前の宿縁寺の中興ということらしいが、この観音様はその宿縁寺の名を付す。


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 その雰囲気のある風景のその奥に、根津氏、安江繁家氏とその奥方が眠る。


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 この地が、より高台になっているにも関わらず、豊かな水をたたえる風景であったことに気づく。
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by shingen1948 | 2010-12-31 05:26 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)
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 この古碑は、この季節から春までの間に、枯れ草の中で蔓に巻きつかれながら、その姿を現すということを長い間繰り返してきたのだろうと思う。ただ、誰もその意味することが読み取れず、「大笹生館にある古碑」とも「安江君碑」ともいわれているということのようだ。
 地元の方にとっては、この碑の建っている地名が舘ノ下ということで、大笹生館地内とのかかわりを強くイメージするのだろうかと思う。


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 何か読み取れないかと、蔓を払ってみる。
 宗教的な事とこの碑のかかわりはよく分からないが、多分、この上部の〇には、梵字とかいわれるものが刻まれていたのであろうと想像する。


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 そして、この石碑全体が線で囲われて、その中に文字が刻まれるという全体イメージのデザインだろうか。
 その中央に大きめの文字が刻まれていたのではないかと思う。

 何か判読できそうなところはないかと探してみると、右端に傷んでいないところがある。


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 そこに「月」の字が見えるような気がする。無理に読めばその下には、十の字が読めそうな感じがしないでもない。

 全体的な雰囲気的としては、墓碑のような気がするがどうだろうか。「根津監物の墓」と似ている感じとのことだが、確かにそんな感じだと納得する。
 勝手に、このデザインが教派とか時代とかとの共通項とはなりえないものかとも思ってしまうところがある。斜めから透かすと何かが見えるかもしれないと思ったが、今の処は、それ以上の判読もできそうにない。
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by shingen1948 | 2010-12-30 05:04 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(2)
 今年の夏(7月23日~8月25日にかけて)、安江繁家氏を追って整理してきた。その時に、「安江君碑」にかかわる情報があって探していたが、見つけることが出来ないでいた。
 直ぐに探すのを諦めたわけではなかった。何度か試みた。
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 その障害になったのは、その辺り一面、草に覆われていたことだ。Masa氏からの情報を頂いて、位置的には見当がついていたのだが、探し出せなかった。
 こういう時には、待つ姿勢が大切だ。要は草がなくなればいいことで、散歩人としては枯れの時期を待てばいいと思っていた。


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 先日出かけてみたら、その碑は直ぐにみつけることができた。奥のガードレールが見えるその奥が、大笹生城とされるところという位置関係だ。

 この斜面にポツンと建つ碑を「安江君碑」とするのは、「心の文化財(福島盆地を歩く会)」だ。 安江繁家氏を追っていたので、確かにそのかかわりで見たいとは思う。しかし、必ずしもそういう見方だけではなさそうでもあるようだ。これを「福島の町と村Ⅰ」では、「大笹生館にある古碑」とする。

 位置的にも、いろいろな見方が出来そうだ。
 確かに、大笹生館とかかわる位置とも見える。しかし、ここを鳳台寺という字名の地域の北西の丘とも見れるような気もする。
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 鳳台寺というのは、例の明治初期の宗教政策で東禅寺に統合されて廃寺になったといわれる。この鳳台寺は、その開基も分からない寺だが、その寺とかかわる位置とみれないこともない。
 その統合された東禅寺も、この鳳台寺から遠くない。
 古碑からそれらの寺の方をみるとこんな感じだ。奥に見えるのが東禅寺で、手前が鳳台寺という地名辺り。

 この東禅寺が、瀬上康秀氏が明応7年(1498)に菩提寺として建てたられたともいわれているらしい。しかも、この瀬上康秀氏が大笹生塁主だったのではないかとの説もあって複雑だ。
 「福島の町と村Ⅰ」が「大笹生館にある古碑」と写真を掲げるページには、瀬上氏と大笹生の解説が載っている。「古碑」とはしているが、それとかかわる碑だといわんばかりだ。
 瀬上氏が大笹生とかかわることは確からしさが大きいようだが、その塁の主であるというのは推定の域を出ないらしい。
 瀬上氏が大笹生とかかわった年代と「瀬上家譜」と照らし合わせて、かかわった人を康秀の代と特定している。そう特定すればということで、大笹生とかかわる時代の瀬上氏が紹介される。
 この方は、その後猪苗代氏三男(宗康)を養子に迎えて跡を継がせる。 
 永正13年(1516)に飯坂但馬氏の讒言によって陥れられたりするのは、その宗康の代という。 天文の乱では、宗康の子信康が晴宗方について、天文22年(1553)、羽州置賜郡野谷地を宛がわれるようになるとのこと。
 瀬上氏は、この時期に大笹生を引き上げて、各地を転戦することになったのではないかと解説する。
 
 カテゴリーも、「安江君碑」なら「天地人の時」だが、瀬上氏とのかかわりなら「伊達氏」となる。 
 
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by shingen1948 | 2010-12-29 06:00 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(2)

安江繁家33

 安江氏と上泉氏とのかかわりから、上泉氏の御家族を引き取りお世話していく経緯と最終的には、その上泉氏の次女と監物氏がかかわるという物語は、大笹生を舞台に展開された可能性があるということだ。そして、その経緯とかわって寛永元年に、信夫山に碑が建てられたということだ。
 この辺りを概観しておく。
 
 元和4年(1618)に安江氏が再勤する。ここから寛永13年(1636)まで福島奉行と郡代を兼務し、その後郡代となる。
 繁家氏の奥様が、寛永11年(1634)年8月23日に亡くなるのだが、その前の寛永元年(1624)には、繁家氏の碑を建てる関係になっている。従って、寺の創建の関係では、名目を誰にするかは別にして、実質的には監物氏がかかわっていることになる。
 この頃には、根津監物氏と上泉秀綱氏次女との縁が整っていると見るべきで、少なくとも既に大笹生とは深くかかわっていたという事ではないだろうか。
 監物氏は、元和2年(1616)に繁家氏が200石福島代官を辞し、嫡子繁国に家督を相続して隠居する事情を理解する立場であり、安江氏が、元和4年(1618)に再勤する時には、監物氏が視野に入っていると見るが、どうだろうか。

 根津監物氏と安江繁家氏、そして安江氏と上泉氏の物語が、大笹生を舞台にして展開していた。このことが、天地人の時と深くかかわった昨年のうちに整理できていれば、もっと楽しかっただろうなと思う。簡単な検索で、安江氏とかかわる上泉氏が、この信夫の里でも輝いて活躍している姿がイメージできたはずなのだ。
 時期を逃した整理になったかもしれない。
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by shingen1948 | 2010-08-25 05:31 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(2)