地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 奥州侵略の路( 108 )

 今回、阿武隈川沿いの示現(慈現)太郎神社から浅川沿いに、浅川黒沼神社を経由して、船橋観音堂から宇佐八幡社まで整理してきた。
 途中、小さなかかわりから脱線しながら整理してきたが、大きく脱線したのは宇都宮の信仰とのかかわりで、柳田国男ワールドの「神を助けた話(柳田国男)」の入り口まで飛んでしまった。

 この散策とかかわらせたいことが、もう一つある。
 それは、小林氏が紀行された地元誌に寄稿された説をもとに散策した奥大道と奥州合戦石那坂防御ラインとのかかわりだ。
 この小林氏の奥州合戦石那坂防御ラインは郷土史の主流ではなさそうだが、興味を持ったのは、「平泉藤原氏と南奥武士団の成立(入間田宣夫)」<歴史春秋社>を読んだのが、そのきっかけだ。 ここでは、この小林氏の説に合理性があるとみているようだったのだ。
a0087378_922436.jpg これは、小林氏が地元の歴史愛好会の雑誌に自説を寄稿した時の資料として示された石那坂合戦防御ライン部分に、今回の浅川沿いの散策を重ねてみた図だ。
 浅川は、鏡渕から舟橋観音堂と舟橋集落の高まりの間を通って、散策してきた道を超えて北東に流れて行く。
 今回、黒沼神社からその浅川沿いの道筋から、浅川を用水路として開発された耕地を意識しながら散策してきた。
 石那坂合戦防御ラインは、その後方の集落のある高まりに沿っているという事だ。
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by shingen1948 | 2017-10-29 09:23 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 「鳥渡山王社付近散歩の振り返り」で、次のような信夫の里の勢力関係の時代があったことを意識したのは、二階堂氏を意識したからだ。

 頼朝の東北侵略が、この時代のこの地域の大きな転換点の一つだったろう。
 それ以前の支配勢力は信夫佐藤氏だが、信夫庄の北部「北郷」を中心に支配していたとのことだ。 頼朝の東北侵略後は、信夫庄の北部「北郷」に佐藤氏の影響を残しながら、信夫鳥和田には鎌倉幕府評定衆二階堂氏の一族庶子が派遣され、この二階堂氏が、南西隅の地域を治めるようになっていたらしいということだった。
 この時点の伊達氏の勢力の中心は、伊達の里だったということのようだった。その後、伊達氏が信夫の里まで侵略してきて、勢力のバランスが崩れるというイメージで整理してきた。

 【歴史と出会う(網野善彦著)洋泉社】の「『もののけ姫』と中世の魅力」という宮崎駿氏vs網野善彦氏の対談の項で、中世の時代区分について、次のように発言しているのを見つけた。
 「常識的な時代区分では、鎌倉幕府から中世が始まり、江戸幕府からが近世となっております。しかし、京都の歴史家たちは、早くから南北朝期を時代区分上の画期だといっています。」とある。しかも、こちらは「日本の社会構造、「民族的体質」にかかわる大きな転換期だった」とのことだ。
 巨視的見方では質の違う転換期のようだが、信夫の里は、鎌倉幕府とかかわる「頼朝の東北侵略」から「南北朝期」にかけての混乱と大きくかかわっているわけで、その間に挟まれた時代の勢力分布イメージの話だ。
 先の整理では、その後の伊達氏の勢力拡大に伴う時代が展開されることと市史等で紹介される散歩資料につなげた。
 この整理はその続きで、鳥川散歩で気になった事で整理し残したことを確認しておきたいのだ。
 それは、頼朝の東北侵略後も、信夫佐藤氏が信夫庄の北部「北郷」を中心に支配していたことについてのイメージの確認だ。
 ズバリ言えば、佐藤氏は文治5年奥州合戦後、信夫庄の北部「北郷」に旧来の領土が安堵されているということだが、これって、紛れもなく鎌倉側についたことを表しているということだ。それは、佐藤氏だけではなかったはずだと思うのだ。
 近くの郷野目周辺の地域史を概観した半沢氏の資料の中世部分の解説に、「石那坂合戦」の項で次のように焦点化しているのだが、この方々はどうしたのかなと思いを馳せる。
 
 鎌倉時代の初頭にはこの地では歴史上名高い佐藤庄司らの石那坂合戦(吾妻鏡)があるが、奥州藤原氏の武士団の一員として河辺の太郎(高経)がおったがこれは郷野目太郎だという説もある。このころ信夫の庄の地名には保木田(ほうきだ=方木田)というのも見えている。
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by shingen1948 | 2015-11-19 09:14 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 旧道諸説とのかかわりで、この付近はどう見えるのかを確認したかった。「季刊地理学」の「福島市(金谷川~東湯野)の古代道(鈴木貞夫)」が、それにふれているらしいのだが、この冊子そのものの確認はできなかった。
 ただ、その概要についての解説文を目にする事ができたので、とりあえずそこから読み取れることを確認しておく。なお、信夫山とかかわる部分では東周りで越して、東湯野村も通過するというのが、信達盆地の基本的な通り方という見方らしい。
 解説文では、福島側から伊達側の順に解説される。その福島から信夫山にかけては次のように解説される。
 荒川を渡ると福島の城下町になる。直進すると信夫山になるので、 北東に向きを変える。古代には阿武隈川は右岸の渡利小学校が流路で、 福島の大仏城(現県庁)本丸が半分に浸食されている。従って, 道の大半は阿武隈川の河床を陸路で通過して、 上浜町まで来る。県立福島東高から1km北に、 上・ 東・ 南・ 西・ 北の宿のつく字名が並ぶ腰浜を直線で通過する。小山荒井村の字道通で信夫山を避けるために北東に200m進み、 旧五十辺村を条里西端の信夫山の東麓を600mほど北進する。東麓の字名に立石がある。
 そして、台畑(南矢野目)の東側の周辺とかかわる部分が、次のような解説になる。「東麓の字名に立石がある」という部分を重ねる。
 東麓の字名に立石がある。松川から摺上川までの6kmは洪積段丘と沖積面が非連続で存在する。従って、 条里は存在するが連続はしない。条里の余剰帯の調査もしたが、 単位が小さいために確認は出来なかつたので、 直線の連続を問題とした。その結果五十辺から連続して、 本内村では館の西側に凹んだ道型があり、 鎌田の条里の線、 石森山の東からは字の境界はないが住宅地にも直線の道型が連続して、 日枝神社の境内には「笠卒塔婆」まである。その北の字孫六橋から摺上川までも道型が直線で連続する。
 この中の「東麓の字名に立石がある」から「本内村では館の西側に凹んだ道型があり、 鎌田の条里の線、 石森山の東からは字の境界はないが住宅地にも直線の道型が連続して」というあたりが、散策中の台畑(南矢野目)の東側の周辺とかかわる部分だ。
 実際に、館の西側に凹んだ道型を素人目には確認出来ない。ただ、「石森山の東」→「鎌田の条里」→「本内舘の西」→「信夫山東の立石」を地図上で眺めれば、旧奥州街道の直線部分を延長した鎌田の条里は鎌田小学校の校庭西端が本内舘の西を通り、信夫山東の立石の稜線近くと重なるような気がするといった程度だ。
 なお、以下のようにこの後の道筋は、東湯野を経由していく道筋として紹介される。
 日枝神社の境内には「笠卒塔婆」まである。その北の字孫六橋から摺上川までも道型が直線で連続する。東湯野村では川の左岸には字馬場, 馬洗, 馬繋があり, 条里水田の字名に東山道の駅名の「琴越」があり, 北東に曲がる村境には字山道がある。この北の西原には鹿島神社が在る。平田の発掘調査が必要である。
 伊達国見の信達平野を抜ける側から見える道筋と、金谷川の信達平野への入り口側から見える道筋での折り合いをどうつけるかという事かな。
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by shingen1948 | 2013-05-02 05:44 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 「台畑(南矢野目)周辺を歩く⑱」で、この田園風景の中に古代道にかかわるイメージについてふれた。その時に、専門的な方はこの田園風景の中に古代道にかかわるイメージは語らないとした。しかし、間接的に、あるいは決定的な語りではないがこの田園風景とかかわる風景の中にぼんやりと古代道をイメージする事にふれることはある。
 最近みつけた伊達郡の駅路と伝路「古代東山道はどこか(鈴木啓)」は、伊達郡の古代道について述べられたものだが、そのイメージを延長線すれば、この田園風景の中に古代道のイメージにつながるもの。
 そのイメージを確認すれば、信達盆地と白石盆地をつなぐ越河峠付近は、通過できるポイントは限られている。それで、ここを通る道筋は現在でも国道4号線、東北縦貫自動車道・JR東北本線が相接して通過する。  そこから、弁天山の丘陵が西へ張り出す梁川・国見町境、厚樫山の裾が東へ延びる付近を直線で通せる道筋の候補は限られる。その延長線を南に延ばせば、伊達橋の附近で阿武隈川の堤防をかすめて南進するという。そして、信達盆地内は、奥羽山脈から派生する丘陵と阿武隈川の制約で駅路と伝路は共通であった可能性があると仮定して、この台畑台地東に広がる田園地帯付近を次のように表現する。
 信夫山の裏山麓に沿ってトンネル入り口に達する。ここには、信夫山の鞍分があり、越えると信夫郡家北五老内遺跡である。
 この道筋は、その手前で、旧国道4号線と台畑の台地の東側に広がる田園風景の中であり、ここに古代道を想像しているということではある。
 ぼんやりとした道筋ではあるが、専門的な方はこの田園風景の中に古代道にかかわるイメージは語らないとした事を修正するとともに、旧道諸説の一つとして整理したい。

 なお、国見の古代道の道筋とされる情報の地点と、信夫の里に入る有力な古代道の道筋の候補と新幹線のトンネルの出入り口に重なる地点を実際に直線で結んでみたら、信夫山の東麓をかすめた東周りの道筋に近く、更に岡部付近から阿武隈川筋と重なってしまう。何の配慮も無くただ直線で突き抜けるとしながら、意識のどこかで「古代東山道はどこか(鈴木啓)」の道筋の修正をしていたらしいという事もあるようだった。これも修正する。

 「台畑(南矢野目)周辺を歩く⑰~大地鎮神社」の記事に以下を付加して修正する。
 <※ 2013/5/2付加>
 案内では、宝暦5年(1755)に大覚院を守護する地主神として創建したことになった経緯が記されるが、その大覚院は信夫山修験のイメージと重なるらしい。「歴史地図」の「東地区の歴史上の人物」の項で、「大地鎮神社(地鎮社)」の北に、「大覚院」がプロットされ、そこに以下のメモが記されるのを見つけた。
 阿部清光
 信夫山の修験
 三條院の後裔
 三條院や大開を開拓後、慶安2年(1649)に愛宕社の傍らに大覚院を創設
 「三條院」は、先に確認したが、「大開」は松川の手前の地域だが、ここと信夫山修験とのかかわりはまだ確認していない。
 
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by shingen1948 | 2013-05-01 07:01 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 専門的な方は、台地の東に広がるこの田園風景の中に古代道にかかわるイメージは語らない。しかし、単なる散歩者の感覚では、どこかでこのイメージを引きずっていることにふれてみたくなる。
 一般的には、信夫の里に入る有力な古代道の道筋の候補は、新幹線のトンネルの出入り口に重なっているとされる。ここから信夫の里に入った道筋は、信夫山の西周りと東周りの候補を想定することになって、信夫山を避ける見方らしい。
 そして、先に整理したように、国見の大木戸を抜ける森山地区で見つかったのが古代道の道筋だとされる情報がある。この道筋も、専門的な方の見え方では東湯野に回り込んでいるということになるらしい。

 気になるのは、何も考えずにそのほぼ定説とされるその地点を直線で結んでみると、その線は新幹線と旧奥州街道の間に挟まれたこの田園風景を通って、信夫山を越えて行くということ。この勝手な見え方で、「ふくしまの歴史」を眺めれば、丸子条理遺跡では、平安時代の水田が確認されたが、条理制を示す土地の地割は確かめられなかったとした後のこんな記述が気になる。
 東湯野の増田条理制遺構は、条理遺構とかかわる地割りの方向に一致する水路が確認され、条理の跡が存在していることは認められるが、丸子条理遺跡と同じように、その地割の整えられた時期は明らかでない。

 信夫の里の新幹線の軌跡だが、何の配慮も無くただ直線で突き抜けているように見える。土地が低ければそこは高架橋で、その地が高ければそこはトンネルで、ただ直線で突き進むというイメージだ。ところが、そこに微妙な配慮があるのかなとも感じる。
 それは、福島駅と接して通過するために、やや西側に寄っているということだ。そう思って見れば、古代道の信夫の里の入り口が、新幹線と重なり、信夫の里の国見の古代道の道筋とされる情報が、この新幹線の軌跡の東側を通るということに、結構説得力を感じるのだが、これも勝手な見え方かな。
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by shingen1948 | 2013-04-26 17:37 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 出かけた時には、できるだけ近くを散歩したり、よそ見をしたりするようにしているのだが、今回は説明会参加の行き帰りに、東山道を意識してみるということにした。
 この辺の東山道については諸説あったようだが、森山地区の阿津賀志山防塁を越える地点に東山道の痕跡が見つかったということがあった。それを考慮すれば、旧道諸説の中からこの地点を通るとする道筋に限定してもよいのかな。
 歴史地理の専門とされる方の説は、細かい部分ではいろいろなずれがあるものの、おおよそ奥州街道に沿い、宿場で道筋が卍になっているところを直線で結ぶような道筋のイメージに集約できそうな気がする。
 一番概括的な説は、森山地区の大木戸と長坂、そして、ほぼ諸説がそこを通るとする貝田地区の直線路を結んだ直線の延長線上というのだが、結果的には、これもほぼ同じような道筋になるような気がする。
 
 例えば、藤田宿付近の道筋では、藤田の鹿島神社付近まではほぼ奥州街道に近い道筋をたどり、街道筋としては藤田宿に入るために卍に道筋をとって進むのだが、そこを直線で藤田宿を越えて、南側の奥州街の道筋に結ぶというような感じ。このことについては、「大木戸付近通過を想定する東山道の道筋~旧道諸説⑤」で、その事にふれたが、これは地図上のこと。
 http://kazenoshin.exblog.jp/16480038/
 今回その道筋を頭に置いて現地説明会に向かい、帰りには、その近所と目標物の確認等をしながら戻ったのだが、頼朝方の本陣は藤田舘に置いたのではないかとの想像は、実感として説得力があるなと思えてきたというのがメインだ。
 その「藤田城」については、「藤田城」、「藤田城へ②」として整理している。
 〇 「藤田城」http://kazenoshin.exblog.jp/7247462/
 〇 藤田城へ②  http://kazenoshin.exblog.jp/7250404/
 以下は、それからもみても、更によそ見のよそ見になるかな。

 この付近、何度も散策しているのだが、この奥州街道谷地一里塚跡の標柱が立っていることを整理していなかった。そう思ったのは説明会に向かう時だったが、実際に撮ったのは帰り道。
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 ここに水準点があるのに気づいたのは、帰り道。これも東山道とのかかわりではないが、よそ見して見つけたものとしてここに張り付けておく。ここは、もう桑折町に入って、久保八幡集会所を越した付近。
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 帰りに、道筋と目標物の確認をしながらきたが、「藤田駅」もその目標物の一つ。道筋とのかかわりでみれば、かなり西側に。
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by shingen1948 | 2012-12-27 18:00 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 今回の阿津賀志山防塁調査について報じられたのは内堀についてのようだ。
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 その意義を「同町教委は『ここまで岩山を深く掘った大規模な防塁は全国的にあまり見られない』としている。」とし、「土塁などが見つかった部分の元々の地形は分からないものの、堀は凝灰岩の岩山を約1メートル70センチくり抜いて造られているという。」と紹介されている。
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 その底部に、人工的に削られた痕跡かな。
a0087378_429579.jpg 説明資料では、「内掘は、中土塁・内土塁の積み土すそ部分で計測した上幅が約9m、深さが約2.2mで、底面が平坦な「箱薬研(はこやけん)」の逆台形状を呈する。」と説明される。報じられる「凝灰岩の岩山約1.70m」は、岩盤をくり抜く作業部分までの計測かな。
 説明資料では、現況の積み土部だけで60㎝計測なので、現況でも堀の深さは約3mといったところかな。
 今回は、見学者が説明を堀に入っている状況や説明者の人間の大きさと比べて見えている。その実感は、客観的な数値で表せる状況よりもでかいというイメージだ。

a0087378_4315672.jpg 報じられてはいないが、指定範囲外側の部分で、外土塁、内土塁の端の痕跡の特定と計測が、継続的に実施されていたようだ。説明資料によると、実際の阿津賀志山防塁は、指定範囲より外土塁3.8m、内土塁4m広いということのようだ。
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by shingen1948 | 2012-12-25 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
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 東北本線と高速道路に挟まれた石母田地区阿津賀志山防塁の内土塁の全体はこんな感じ。
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 その中土塁の発掘調査された部分を北側から眺めている。奥に見えているのは、中土塁。
 全体的に凝灰岩の基礎部分があって、その上に土塁が積まれている様子は、中土塁に同じ。削りとられた部分は、その土塁の積み上げ状態を確認するためのもの。
 なお、手前の凝灰岩礫群は、山裾の崩れ岩とか。
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 その削り取られた部分の詳細。
 基礎となる凝灰岩の上に、防塁築造時の表土が残った状態があって、その上に凝灰岩粒混じりの軟質橙褐色土(頂いた資料に表記される表現)が積まれている様子は、中土塁に同じ。
 頂いた資料によれば、基底部の幅は約4.5m、高さ60㎝の積み土。
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 内土塁の調査部分の境目=現況の表土と土塁が積まれた当時の表土の境目でいいのかな?

 詳細の整理ににこだわるのは、外土塁が消滅しているということはあるものの、内土塁と中土塁及びその間の堀で、この防塁の原型や大きさ等が実感させられるからだ。
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by shingen1948 | 2012-12-24 06:18 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 
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 東北本線と高速道路に挟まれた石母田地区阿津賀志山防塁の中土塁の全体はこんな感じ。
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 その中土塁の発掘調査された部分。
 全体的に凝灰岩の基礎部分があって、その上に土塁が積まれている様子が分かる。削りとられた部分は、その土塁の積み上げ状態を確認するためのものらしい。
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 その削り取られた部分の詳細。
 基礎となる凝灰岩の上に、防塁築造時の表土が残った状態があって、その上に凝灰岩粒混じりの軟質橙褐色土(頂いた資料に表記される表現)が積まれている様子がよく分かる。
 頂いた資料によれば、積み土の高さ60㎝、積み土がされている幅1.3m。

 内土塁の調査も同様な調査らしい。
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by shingen1948 | 2012-12-23 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
a0087378_45345.jpg この地点の阿津賀志山防塁の元々の姿と比べると、土塁の外土塁の部分と中土塁との間の堀が消滅しているようだった。
 そういう意味では、ここはなかなか足を踏み入れられない地点であり、原形が残されているのではないかという期待は裏切られる。ただ、内側の土塁と中土塁、及びその間の堀の保存状態はよさそう。

 ここは、普段は東北本線を挟んで東側から眺めることになる。
 まずは、その逆の東北本線と国道4号線バイパスに挟まれた阿津賀志山防塁へ続く風景を整理しておく。
 ① 中土塁から。
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 ②  内側の土塁を通して。
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 次に、普段東北本線を挟んで東側から眺めている風景として、今回の調査地点を整理しておく。
 「史跡 阿津賀志山空掘跡」の石碑は、内土塁上に建っている。
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 明確に残り、今回調査された土塁と堀は、その内側の土塁と中土塁、及びその間の堀ということのようだ。
 その堀を通して厚樫山を眺めると、こんな感じ。
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この南側には、もう一つの堀と外側土塁があったということなのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2012-12-21 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)