地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:☆ その他の話題( 30 )

 早稲田大額のホームページを確認すると、山中選手が「早稲田大学スポーツ功労者表彰」を受けた時の挨拶で、競技人生について次のように述べた事が記されている。
 オリンピックに3度出場し、4個の銀メダルを獲得しましたが、金メダルは獲得できませんでした。いくら他の大会で優勝しても、オリンピックで優勝できなければ何の意味もありません。4年に1度のオリンピックで最高の状態に持っていくこと、それがアスリートの力です。

 先に記したように、山中選手は大学在学中に世界新記録の更新を積み重ねて、昭和35年(1960)のローマ五輪を迎えている。その結果としては2位の銀メダルではあるが、僅差の2位である。
 ぎりぎりのところで敗れた結果に感動し、賞賛を送ることに躊躇はない。しかし、当人としては4個の銀メダルよりも1個の金メダルが欲しかったということだ。

 実は、N先生もスポーツの世界では、過程でのどんなに素晴らしい努力があっても、1番にならなければ意味がないというようなことを話されていたことを思い出したのだ。結果として1番になることの重要性だ。
 自分には、大人になるにつれて競技スポーツに違和感を持つようになるのだが、その原点がここにあるように思う。
 一流選手側の話としては、結果としての1番かどうかの差が、その後の人生にまでかかわるという話は聞く。しかし、我々凡人の世界では、1番を目指し、ぎりぎりのところで敗れた結果に感動し、賞賛を送ることに躊躇しなくていいと思う。
 もし、我々が競技スポーツ者だったとしても、個人的には1番を目指して取り組んだ事を重視し、その結果にはこだわらないという態度を、基本的な姿勢として持ち続けたいものだと思っている。
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by shingen1948 | 2017-03-29 09:43 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 訃報に接し、田舎では、映像で一流選手を目にすることのない時代に、このローマ五輪の翌年に山中選手が目の前に現れたという少年の日の昂奮の記憶を整理した。

 その昂奮の記憶の接点には、N先生の存在がある。
 先にも記したように、そのN先生にかかわる情報は、殆どが漕艇競技の指導者としての情報なのだが、当方は漕艇競技に興味がないものだから、それらの情報が直接的に思いでに結びつかなかった。

 しかし、ひょんなことから思いでに結びつくかもしれない情報を見つけた。
 「三四郎(夏目漱石)」の研究にかかわる論文の参考資料にN先生と同姓同名の方がかかわる情報を見つけたのだ。「夏目漱石『三四郎』の比較文化的研究(土屋知子)」
 その参考文献として挙げられているのは、「『25秒74』と『紫の猿股』【福島県喜多方商業高等学校『図書館報(第26号1985年2月)』】」だが、論文の本文には、「この『紫の猿股』を穿いて『200メートルの競争』を『25秒74』で走り抜けた人物は実在した人物で、藤井実という帝国大学法科大学学生であることがわかっている」とする方の名が挙げられているのだが、この方がN先生と同姓同名なのだ。
 福島県喜多方商業高等学校にかかわりのあるN先生と想像した漕艇競技指導者の方なのではないかなと想像したということだ。

 これは、「三四郎(夏目漱石)」の作品で描かれる「東京帝国大学運動会」にかかわる考察なのだが、その論文によると、この明治37年(1904)11月12日に行われた東京帝国大学運動会でのこの記録は驚異的な記録なのだそうだ。
 その藤井実氏は、明治35年(1902)11月8日の東京帝国大学運動会では100メートル10秒24で走っていて、当時の世界新記録なのだという。更に、明治38年(1905)11月11日の運動会では棒高跳びで3メートル66の当時の世界新記録も出し、明治39年(1906)11月11日の運動会では、その記録を3メートル90に更新しているのだそうだ。
 これらの記録を、帝国大学浜尾新総長は、計測装置開発者で実測者である田中館愛橘博士証明文と共に、アメリカの主な大学に通知したのだとか。
 それで、明治40年(1907)AAU(アメリカ競技連合)のスポールディング社発行の年間「アスレチック・アルマナック」に藤井実の写真とそのレコードは掲載されたが、残念ながら公認には至らなかったとのことだ。

 曖昧な記憶の中では、思いでとつながるN先生もこの「東京帝国大学運動会」に詳しかったと思うのだ。この運動会は、運動会というイメージとは違って、世界的に通用する計測で実施される記録競技会であったというような話をN先生から聞いているような気がしているのだ。
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by shingen1948 | 2017-03-27 17:05 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 山中選手の活躍に昂奮した記憶は、昭和35年(1960)のローマ五輪なのだと思う。連日現地の速報が新聞やラジオで流されていたはずだ。
 あの時代の実況の記憶に、映像はない。音声の記憶だ。

 録音なのか実況中継なのかは分からないが、音声が遠のいたり、鮮明になったりする中、での中継アナウンサーの声が、その思い出を支えている。
 セリフは、「現在、山中、トップッ」だったり、「トップはローズ、山中が続いています」だったりしたはず。接戦のはずなのだ。

 あの時の昂奮を支えた情報を確認する。
 先に経歴で、昭和31年(1956)に、輪島高3年でメルボルン五輪に出場し、金メダルを取ったオーストラリアのマレー・ローズと激闘を演じ、400m、1500m自由形で銀メダルを獲得したことについてはふれている。
 山中選手は、その後、早稲田大学に進学すると、世界新の記録を樹立する。

 「朝日スポーツ賞」のページで、その活躍を確認する。
 昭和33年度(1958)に200m自由形で2分3秒0の世界新を樹立する。(8/22大阪)
 その翌年の昭和34年度(1959)には、400m自由形で4分16秒6の世界新を樹立する。(7/26大阪)
 また、「梅本利三・藤本達夫・福井誠・田中毅」の800mリレーでも、8分21秒6の世界新を樹立し(7/22神宮プール)、「田中毅・福井誠・見上勝紀・藤本達夫」の800mリレーでは、先のレコードを更新し、8分18秒7の世界新を樹立する(7/26大阪)。
 このように、田中選手がかかわる競技では次々に世界新を樹立して、その期待感が高まった中で迎えたのが、昭和35年(1960)のローマ五輪だ。
 なお、この年、田中聡子も女子200m背泳で2分37秒1の世界新を樹立している。(7/12神宮プール)

 山中毅選手が世界新記録を出した勢いのままローマ五輪を迎えていたのだ。
 再び、オーストラリアのマレー・ローズとの激闘になるのだが、この勢いに乗って、メルボルンの雪辱を果たすのではないかという期待感もあって、日本中がローズとの再度の激闘に注目したはずなのだ。

 訃報に接し、田舎では、映像で一流選手を目にすることのない時代に、このローマ五輪の翌年にその山中選手が目の前に現れたという少年の日の昂奮の記憶を整理してみた。
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by shingen1948 | 2017-03-24 09:15 | ☆ その他の話題 | Comments(0)

山中選手が会津若松にやって来たのは、昭和36年(1961) に会津若松で行われた国体に参加するためだ。

この大会の様子は、先に記したように「ふくしま教育情報データベース」というサイトの「県民ニュース」で見ることができる。しかし、会津若松市のホームページに掲げられる「会津若松市の歩み」には、その第16回国民体育大会が実施されたことは記されていない。

多分、この大会は開催地が秋田県であり、水泳競技だけが会津若松市の水泳場で行われたからなのだろうと思う。

ちなみに、先に整理したボート競技で福島県も会津高等学校も優勝した昭和27年(1952)の第7回大会については、柔道と軟式庭球が会津若松市で実施されたことが記される。(ボート競技は会津地区である「福島県営荻野漕艇場」で行われてはいるが、確かに会津若松市での実施ではなかったので記されない)。

また、平成7年(1995)の第50回大会では、6人制バレーボール・ソフトテニス・柔道・なぎなたスポーツが実施されたことが記されている。これらのことから、記載の基準は、開催県とのかかわりなのだろうと想像する。

昭和27年(1952)の第7回大会は、福島県、宮城県、山形県の共同開催で、平成7年(1995)の第50回大会は、開催県が福島県だったが、第16回国民体育大会の開催県は秋田県だった。

会津若松市の水泳場は、昭和26年に開設されているが、昭和27年(1952)の第7回大会では水泳競技は行われていない。この時は、宇都宮市の市運動場プールで行われているようだ。

昭和36年(1961)の国体開催までの間に行われたプール改修工事の様子はおぼろげながら記憶にある。
 印象深いのは高飛び込みプールの新設だ。

この施設使用については、自分とは無縁だ。ただ、その高飛び込みの練習については自分の思い出と重なるところがある。
 というのは、この高飛び込みの空中姿勢制御の感覚を養うのには、トランポリンを使っての練習が主になるのだ。この練習は、普段学校の体育館内で行っているのだが、これが結構楽しめそうに見えるのだ。

それで、自分は、本当は陸上部に所属していたのだが、時々、このトランポリンの練習をさせてもらっていたのだ。縄張り意識も無く、大らかに接してもらっていた。 
 今思えば、この部活は創設間もない頃だ。興味を持ちそうな部員を引き入れたいという意図があったのではないのかなとも想像する。



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by shingen1948 | 2017-03-22 08:29 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 母校がボート競技の伝統校であることは、自分には全く関わりの無い事だと思っていた。
 しかし、N先生を介することによって少年の日に山中選手の胸の厚さに感動する体験を得たのだ。今回、自分の記憶を探りながら猪苗代湖の艇庫を確認する中で、そのN先生が会津にやってくること
が、母校がボート競技の伝統校であることがかかわっていたらしいことが分かった。

 今度は、現在の拠点らしい「福島県営荻野漕艇場」の沿革を確認してみる。
 ここは、阿賀川のダム湖を利用して作られた全長1,000メートルの6コースで(社)日本ボート協会公認B級コースなそうだ。昭和27年の第7回国体が福島県で開催されるのを契機に、昭和25年に開設されたそうだ。
「高郷村勢要覧」では、その後の主な全国大会として昭和34年(1959)と昭和53年(1978)の高校総体、昭和57年(1982)と平成3年(1991)の社会人・実業団大会、平成7年(1997)福島国体を挙げている。他に、多くの東北大会も開催されているという。

 ここに、昨日整理の戦前の練習拠点に建つ「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫跡」の年代情報<明治32年(1899)~昭和26年(1951)>を重ねると、次の練習拠点は、国体に向けて開設された「福島県営荻野漕艇場」ではなかったかと推定される。
 昨日は、「昭和27年に艇庫を中田浜に新築し、そこに昭和31年に「学而会館」が建築され、昭和32年6月8日に開館した」と推定したが、その間に「福島県営荻野漕艇場」の練習拠点が挟まるようだ。
 中田浜の「学而会館」建設は「昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設され」たとのことだが、その国体というのが「福島県営荻野漕艇場」で行われた福島国体だったということなのだろう。

 昭和36年(1961)の会津若松で国体水泳の記憶と、その後の訳も分からずに陸上競技市場でマスゲームのダンスをさせられた記憶があって、高校総体の記憶だろうと思っていたが、そうでもなさそうだ。
 こちらの記憶は曖昧なままだ。
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by shingen1948 | 2017-03-21 09:13 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 「ウィキペディア」で「会津高等学校」のボート部について次のように解説されている。
 戦前はボート部が強豪として知られ、全盛期には10年間で、全国優勝2回、準優勝、3位各1回、4位3回の成績を収め、戦後も全国優勝の経験がある。

a0087378_6311873.png 今回の確認で、その戦前の練習拠点は中田浜ではなく、旧道の十六橋手前付近であることが分かる。その位置を記す。
 ここには、「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫跡<明治32年(1899)~昭和26年(1951)>」の案内柱が建っているとのことだ。

 「学而会館」の案内にある「昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設されました」との解説と照らし合わせると、昭和27年に艇庫を中田浜に新築し、そこに昭和31年に「学而会館」が建築され、昭和32年6月8日に開館したという事なのだろうと思う。

 「Web東京荏原都市物語資料館」に、学徒出陣した特攻兵士長谷川信氏の故郷である会津若松を訪ねたその「下北沢X新聞(1676) 〜武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて5〜」の記事に、この戸ノ口艇庫についてふれた箇所がある。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51703392.html
 「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」に、彼の思いとして次のように記されているという。孫引きさせていただく。
 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 なお、このページでは、長谷川信少尉の次のような遺言を元に建てられた石碑を訪ねているのだが、その「長谷川信 碑」の現在の位置もプロットしておいた。
 死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらおうと思う。
 この「長谷川信 碑」については、次の「下北沢X新聞(1677) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて6~」に詳しく記される。
 
 長谷川信 碑
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事だろう 
 だがたった一つ出来る涙を流して祈る事だが
 それが国泰かれか親安かれか知らない
 祈ることなのだ
  大正十一年会津若松市に生まれ
  四月十日
  昭和二十年 沖縄南方上空に散る

 石碑に刻まれた4月10日は、彼が生まれた日であり、亡くなった日でもあるとのこと。この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地とのことだ。
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by shingen1948 | 2017-03-20 09:28 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 リタイヤされているはずなので、見つかる筈はないと思いつつ、N先生情報をネットで検索してみた。
 すると、「会津楽水会」なる会にその名が見えた。

 この会は、昭和56年(1981)に設立された地域ボートクラブのようだが、その設立者に見える喜多方商業高、早稲田大OBの方と、N先生は同じ方なのだろうと思われる。
 自分の中では、N先生は日本史の先生なのだが、確かに高校の先生になってからは周りの方々はボート部顧問という見方をしていた。
 早稲田大OBの情報と写真の面影からみて、多分違いないと思う。

 中田浜に連れて行ってもらった記憶も、このボートがかかわっていることは確かだ。
 会津高等学校のホームページを確認すると、「学而 (がくじ) 会館」について、次のような解説が見える。
 風光明媚な猪苗代湖中田浜にある合宿施設です。昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設されました。
 その後、平成2年「百周年記念事業」として改築され、現在は、在校生のレクリエーション合宿や部活動合宿の他、子供会やゼミの合宿など青少年の人材育成のため地域の方々にもご利用頂いております。伝統の中田浜強歩大会の折返し地点でもあります。

 同ぺージの「会津高等学校あゆみ」では、「猪苗代湖畔中田浜に「学而会館」落成は、昭和32年とある。また、「中田浜」の情報では、昭和32年 (1957)6月8日に 「学而会館」会館とあって、建設年代は微妙に揺らぐ情報になっている。

 記憶の中では、中田浜に連れて行ってもらったのは、昭和35年頃だ。また、高校に入って中田浜強歩大会に参加したのも数年後だ。建設されて直ぐの頃だったということではあるようだ。
 端艇部は、高郷の荻野に移ったとのことだが、写真を見ると会館は新しくなったようだが、艇庫はそのまま残っているように見える。
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by shingen1948 | 2017-03-18 09:37 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 記憶がはっきりしないのだが、N先生はS.Y一郎君の家の離れに部屋住んで居たはずだ。部屋を借りていたという事なのか下宿だったのかは、分からない。これは、N先生が学校に赴任する前の話だと思うのだ。
 N先生は、東京の方で、会津に縁もゆかりもない方であり、憧れで会津やって来たという風な思い込みの記憶もある。この事とS.Y一郎君のお父さんは会津高校の先生だったはずとの記憶を合わせて想像すると、N先生の教育実習の時期だったのかもしれないとも思う。あるいは、赴任のための数か月前にやって来たということの記憶なのかもしれない。

 S.Y一郎君は、ご近所の幼馴染なのだ。幼い日の記憶の中に、休みの日には、よく会津高校の体育館で遊んでいたという記憶があるのは、このS.Y一郎君との関りだと思う。
 S.Y一郎君のお父さんは会津高校の野球部とかかわっていたことは確かで、ひょっとすると管理職だったのかもしれないが、その辺のことはよくわからない。

 多分、それらの事とかかわるのだろうと思うのだが、休みの日に、N先生に中田浜にある会津高校の合宿所に連れていてもらった記憶があるのだ。ボート終いとかかわった筈だとの記憶がある。
 その行程は覚えていない。
 バスで湖畔を回り込んだものか、当時、背炙山にケーブルカーがあった筈なので、そちらを利用して山頂に行き、そこから徒歩で下ったものか。
 ただ、印象にあるのは、途中、N先生が「矢じりかな?」とつぶやいて、畑に入って行って、何かを拾い上げたという記憶だ。
 N先生には、中学校と高等学校の6年間、日本史をお習いするはずだが、その事の記憶より、この時の記憶が強烈だ。

 山中選手の講演会の記憶は、自分の学校に当時注目される世界に通用する方がおいでになったということに加え、このN先生を山中選手が訪ねて来たということでの印象が強く結びついているのだと思う。
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by shingen1948 | 2017-03-15 10:34 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 この講演会の記憶は、自分の学校に当時注目される世界に通用する方がおいでになったということだけでも、充分思い出深い出来事だ。
 
 もっと印象深いのが、その講演会設定にかかわることだ。
 この講演会は、この学校に赴任した新採用教員を山中選手が訪ねて来たことから設定されたというのが、自分の記憶だ。
 その新採用教員というのを、仮にN先生としておく。
 自分の記憶の中では、そのN先生が山中選手の友人で、そのN先生が赴任した職場に山中選手が訪ねて来たということになっている。

 山中選手の経歴を確認する。
 山中選手は、昭和31年(1956)のメルボルン五輪に高校3年生で出場している。という事は、昭和35年(1960)のローマ五輪は、大学4年生という事になる。
 そして、会津若松の国体が翌年の昭和36年(1961)だから、大学卒業の翌年だ。
 山中選手の経歴には「輪島高から、早大、大洋漁業と進む」という表現も見える。ということは、この時期、早稲田大学から大洋漁業へ進んだあたりということが推定される。

 この時に、赴任したてのN先生の職場に訪ねて来たという事なので、N先生とは早稲田大学の同級生だったということになるようだ。このN先生は、後に会津高校のボート部を指導するようになることから、スポーツにかかわる知り合いだったのかなと想像する。

 自分の記憶に、矛盾はなさそうだ。
 それにしても、大人になて考えれば、学校としてもかなり柔軟性のある対応だったのだと思う。
 有名人が訪ねて来た事を理由に、急遽、全校生を招集した集会が設定されたというのは考えにくい。その段取りや手続きがあったのだろうと思うが、これがスムーズにクリアーされたのだろうと想像する。
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by shingen1948 | 2017-03-11 09:55 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 少年の頃お話を伺う機会を得た事を思い出した。
 学校の体育館での講演で、みんなの質問に答えるという形式だったことは覚えているが、その内容は覚えていない。
 覚えているのは、自分とはかけ離れた世界の方が自分目の前で対話されているという空気感だ。
 もっと強烈な印象は、胸板の厚さに圧倒されたことだ。お話をお聞きしている時にはそれほど感じなかったのだが、体育館から教室に戻った後、控室である校長室に入られる山中選手を見に行ったのだが、この時に強烈に自分の記憶にインプットされたのだ。

 随分古い話で、記憶が曖昧だったので、少し確認してみた。
 記憶では、会津若松で水泳の国体があったこととかかわるはずなのだ。
 しかし、昭和30~40年代の福島での国体をイメージして検索してみたが、なかなか見つからない。それで、会津若松市に絞った国体を検索してみみたらありました。
 昭和36年(1961)の秋田国体だ。この時、水泳競技だけ会津若松で行われたようなのだ。

 会津若松市の年表で確かめ直すと、9月14日に「第16 回国民体育大会水泳競技、市営プールで開催」が記されていた。また、「ふくしま教育情報データベース」の「県民ニュース95」には、その時の国体の様子が確認できた。
 http://www.db.fks.ed.jp/
 記憶と照らし合わせても矛盾がない。この時の記憶だったということだ。

 山中選手の経歴と照らし合わせてみた。
 すると、前年の昭和35年(1960)は、ローマ五輪だ。この時に、山中選手は、400メートル自由形、800メートルリレーで銀メダルを獲得している。
 その世界に通用する旬の山中選手が、自分のフィールドである学校にやって来たという思い出の記憶がよみがえったということだ。
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by shingen1948 | 2017-03-09 06:21 | ☆ その他の話題 | Comments(0)