地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 米沢街道( 7 )

 泉福寺・愛宕堂・稲荷神社・検断家、そして、「野火止堤」など、興味深い事は、街道の西側にあるので、裡道にあたる道筋も西側を中心に散策していた。
a0087378_11332254.jpg ここは笹木野集会だが、その右手の細道が街道東側の裡道にあたる道筋だろうと想像する。
 道筋に入って分かるのは、街道側が微高になっていること。こちら側は水田が広がっていたという事なのだろうなと想像する。「野火止堤」に相当する分だけ、東側の裡道にあたる道筋は街道に近い。

 この道筋をたどっていくと、時々行き止まりになりながら、野田小学校校庭の中央付近とつながる。そこに水路筋のイメージを重ねると、仏母寺及びそれ以前の仏眼寺は、その北側の堰の南側で、街道に沿うあたりというイメージを持つ。

 この仏母寺及びそれ以前の仏眼寺は、笹木野宿よりも古い。「福島市史」では、その笹木野宿が開かれる以前の福島からの庭坂道について、次のように紹介する。
 (福島からは、)八島田の東端の字道添(現三河北町北端)から本庄町、桃木町の南を通り、鎌古屋・笹木野原をへて西進したとみられる。桃木町以西は後年も庭坂への捷路になっていた。
 つまりは、現五叉路から西に直進する道筋の原形なのだろう。この道筋が庭坂町道だった道筋とつながるのだろう。
 先に見つけた「ふくしま・せのうえ」道標のふくしま道は、この道筋を指していたようだ。ということで、五叉路交差点まで戻ってしまった。

 笹木野宿が開かれた後の旧米沢街道大森道と福島道の役割変遷も確認しておく。
 旧米沢街道が本格的に開かれるのは、天文18 年(1549)11 月に伊達晴宗がその居城を伊達郡桑折西山城から米沢城に移すことに起因する。
 その起点は、天正2 年(1574 年)以降、後の奥州道中八丁目宿(福島市松川町)とし、戦国時代を経て、近世幕藩時代(上杉藩)に至るまで、米沢街道は大森道で、八丁目―大森─庭坂─板谷峠─石仏(大沢)─米沢のルートであったという。
 それが、福島経由となるのは、寛文4 年(1664)以降だ。その事情は米沢藩が30 万石から15 万石に削封される。それに伴い、信夫郡と伊達郡は幕府領となって、八丁目宿から米沢に直通することを控えるようになったのだとか。
 旧米沢街道は、福島起点とする福島道となり、福島―八島田―笹木野を経て、庭坂─李平─板谷峠─大沢─米沢のルートになったという。
 「福島市史」では、文政2年(1819)の笹木野宿の規模が、庭坂といくらも違わないことを示すために、各宿の宿役定例と、米沢藩の参勤交代時の宿利用について以下のように記す。
 いつの頃のことか米沢藩は、参勤交代で江戸に登るときは、庭坂・八丁目とつぎ、帰る時は笹木野・板谷とついだ。
 そこには、上記の気遣いにもかかわっているように思える。
 なお、各宿の宿役定例は、次のように紹介される。
 福島駅は、夫83人・馬85疋(ひき)で断トツだが、李平駅の夫7人・馬7疋に比べ、笹木野駅は夫17人・馬17疋で、庭坂駅の夫20人・馬20疋と大差ないとする。
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by shingen1948 | 2014-06-04 11:37 | ◎ 米沢街道 | Comments(0)
a0087378_8263992.jpg 延宝3年4月8日が読める。ということで、こちらが2代目茂木助兵衛氏の墓だろう。
 「野田村郷土史」に「代々米沢家から信任篤く数々の賜り物や、系図書もあったが火災で焼け落ちた」とある。
 初代の業績は、宿場から遠い方部の人々が何時も割り損な荷物しか当たらないので物議が絶えなかったのだが、宿場に近い方部のみを笹木野村として分村したことだろうか(「野田村郷土史」では、万治元年とする)。
 これを受けた2代目茂木助兵衛氏が笹木野宿で肝煎・検断も勤め、その信任篤く数々の賜り物を頂戴しするようになるようで、この2代目茂木助兵衛氏の業績が大きいらしいことが「福島市史」に紹介されている。

 2代目茂木助兵衛は、笹木野宿で肝煎・検断も勤めている。国領半兵衛検地のあと、延宝3年(1675)4月に亡くなっている。その後、幕末までこの子孫が、ここで問屋・検断を務めていた。そして、米沢藩主の信任が特に厚かったと伝えられる。
 寛政6年(1794)の笹木野村差出明細では、「当村駅場、問屋壱軒、是ハ検断兼相勤申候、御免41高弐拾5石6斗9升、無諸役デ引申候」とある。この問屋は殿屋ともいわれ、米沢藩主の宿所にもなっていた。
 初めは、この宿でも屋代郷の城米を附送りしたが、宝暦11年(1761)の「庭坂村明細帳」でみると、庭坂から福島河岸に直送するように変わっていて、笹木野では城米の積替をやらなくなっていた。
 それで笹木野宿からも庭坂宿に人馬を出して、4分6分の割合で城米を福島河岸に輸送した。この慣行は幕末まで続いている。かくして、城米輸送を担当しているため、笹木野の村高の半高が無役になっていた。
文政2年(1819)の笹木野宿の規模は、次のごとくで庭坂といくらも違わなかった。
 米沢藩主の信任を得た2代目が、しっかりと笹木野宿の基礎固めをし、笹木野宿を開いた初代を院殿で弔ったということなのだろう。
 風景としては、「野田村郷土史」がいう「愛宕山泉福寺」、「愛宕神社御縁起」がいう「真淨院○泉福寺」、「福島市史」がいう「泉学院・泉福寺」とのつながりかなとも思うが、ここからは立ち入らない。
 ただ、市史の「泉学院」が気になるのは、「信達秩父三十六観音」の所在不明の31番札所が「泉覚院」とかかわるのかどうかということ。
 次の32番札所が波岡邸で、その次が33番札所圓光寺、そして、その次の34番札所が福島市南沢又中条の光徳寺ということだ。「泉学院」と「泉覚院」は一字違いだか読みが一緒。これを同じと仮定すれば、今度は笹木野宿に観音堂があったということか、この寺の旧地下野寺の薬師堂(または鶴巻)を指すものかと想像が膨らむということ。

 笹木野宿の規模をいうのに 「次のごとくで」と表記するのは、李平駅、庭坂駅、笹木野駅、福島駅の宿役定例表だ。福島駅が夫83・馬85疋で断トツだが、夫7・馬7疋の李平駅に比べ、笹木野駅は夫20・馬20疋で、夫20・馬20疋の庭坂駅にひけをとらないとする。更に、参勤交代で江戸に登るときは、庭坂・八丁目とぎ、帰るときは笹木野・板谷とづいだとするのは庭坂駅と変わらないことの強調。だが、この例で気になるのは、これって行きは大森道とし、帰りは福島道としたということになるのではというほうかな。
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by shingen1948 | 2014-06-03 08:54 | ◎ 米沢街道 | Comments(0)
 正確には笹木野宿が開かれた年は分からないらしい。「福島市史」では、その頃の確実な事実を掲げる。
 〇 寛永8年(1631)には茂木助兵衛氏の名はない。
 〇 正保2年(1645)の知行取が初出。
 〇 寛永の検地高を示す正保国絵図に笹木野村が明示されている。
 〇 上記から、万治の沢俣村給人帳の頃には既に宿場が開かれ、笹木野村が分立していたのであろうと推測される。

 笹木野宿を開く茂木助兵衛氏の登場が、正保2年(1645)ということで、少なくともそれ以前にやってきているが、寛永8年(1631)以前ではないということだろう。ということで、寛永8年(1631)~正保2年(1645)の間に、茂木助兵衛氏がやってきたということだろう。
 そして、「万治の沢俣村給人帳の頃」には笹木野村が分立し宿場が開かれていたということなので、笹木野宿は、万治2年(1658)には既に開かれていたということだ。そのぐらいのアバウトさで笹木野宿が開かれた年代が特定されるということ。
 その有力な根拠が、「正保国絵図」に笹木野村が明示されることということのようだ。
 この絵図の笹木野宿部分が福島市史に抜き書きされたているのだが、その図で「のりしろ散歩~米沢街道⑩~笹木野宿」で、感じた裡道にあたる道筋と街道筋との距離感についての違和感が解決だ。
 「正保国絵図」の笹木野宿の西側に「野火止堤」が描かれていたのだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/19688030/
 違和感は以下のようなことだった。
 (小字界の道筋は)、笹木野宿の街道筋を意識すれば、その裡道にあたる道筋で、現況では小字界の道筋になっている。この細い道筋の痕跡は、稲荷神社までたどる事ができる。笹木野宿の街道筋との距離は、イメージ的には二軒分の幅だが、所によっては一軒分の境にも細い道筋が走る。
a0087378_918844.jpg これは、屋敷林群をイメージした稲荷神社付近の風景との境目附近の街道筋沿いの民家の裏側だが、ここに境界の道筋が走るのだが、その左側が微高になっている。ここから裡道をイメージした道筋との間を、その「野火止堤」とイメージすれば、屋敷林群をイメージした稲荷神社付近の風景ともスムーズにつながるのだ。


           ◇      ◇     ◇     ◇     ◇      ◇
〇 5/30は「中堰の道筋にバラ園」に立ち寄った。
 この日、高気圧から暖かい風が入ったとのことで、県内各地、最高気温が30℃を超える真夏日となったとのこと。県内最高は、梁川町の33℃とのことだが、福島市も、32.3℃を記録し、平年より8.1℃高かったのだとか。
〇 5/31は、駅に用事があって出かけたら、駅前が賑わっていた。交通規制もあって何かなと思ったら、山車フェスタだったらしい。
 この日も一日暑かった。福島市は最高気温33.7℃で、今年最高を記録とか。最高を記録は、伊達市33.5℃白河市31.5℃飯舘村30.7℃田村市29.8℃。田村市の記録は、統計を取り始めて以降、5月としての最も高い気温とのこと。
〇 のりしろ散歩の記録整理はしているが、6/1は近所に出かけたのみ。
 このも県内各地は真夏日。福島市は最高気温34.6℃で、また今年最高を記録だろうか。2日も気温が高い状態が続く見込みとのこと。
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by shingen1948 | 2014-06-02 09:20 | ◎ 米沢街道 | Comments(0)
 笹木野宿の西側から水路沿いの道筋を進むと、目の前に墓地が現れる。稲荷神社で見えた墓地である。
 この稲荷神社の周りや裏側に大きな切り株が見えていた。その時は、これを屋敷林(いぐね)とみていた。そして、その西側に街道裡道に相当する小字界の細道が走っているというイメージだった。
 その風景の外側に、墓地が見えていた。今回は、堰沿いの道筋を確かめている中でこの墓地に出会ったということ。
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 ここまでなら気にも留めなかったのだと思う。ここで目についたのが、墓碑に刻まれた「院殿」の文字だ。
 そこで思い出したのが「笹木野宿」を開いた茂木某が、「院殿」になっているという「野田村郷土史」の情報だった。それで、その墓碑を写真におさめ、家に戻って確かめたということだ。
 「のりしろ散歩~米沢街道⑩~笹木野宿」で、その「野田村郷土史」の「笹木野宿」を開いた方についての解説を引用しているが、再掲する。
 http://kazenoshin.exblog.jp/19688030/
 「笹木野宿場は、大阪落城の後、豊臣の重臣、茂木某一族と共に当地に下り、原野であった笹木野に宿場(駅)を開いたのが初めてで、今尚問屋と呼ばれる本家が残っている」とある。
 その茂木某一族については、以下のように解説する。
 笹木野町の名付け親である。
代々米沢家から信任篤く数々の賜り物や、系図書もあったが火災で焼け落ちた。
 清光院殿夏山淨雪大禅定門(承応3甲午年4月29日卒)当町開基
 ※「雪」は、「雲」にも見える。また、「承応」が「羗(きょう) 應」に見えたが、應が応の旧字体としても、「羗 應」の年号はないので、矢張り「承応」かなとは思う。

 「笹木野宿」を開いた方だが、「野田村郷土史」では「茂木某」氏とされ、地元の資料では大概そのようにされている。これを「福島市史」では、この「茂木某」氏は茂木助兵衛だとしている。この事を確認しておく。
 問屋検断の茂木家は明治初年まで代々助兵衛を襲名した人が多いとのこと。「福島市史」では、その中の「慶安1.2年(1648~49)の分限帳」の「左崎野助兵衛」氏と「万治2年(1658)の沢俣村給人帳」の「笹木野助兵衛」氏がその人だとしている。
 その理由として、墓碑による茂木某の没年の確認、問屋検断の茂木家の襲名、分限帳に記載される人命と茂木家との照合、2代目助兵衛の特定と墓碑による照合等々、緻密な考察を掲げる。これが、専門家好みでなく、素人にも納得できる説得力のあるものだと思っている。それで、表題は「宿を開いた茂木助兵衛氏」とした。
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by shingen1948 | 2014-06-01 05:35 | ◎ 米沢街道 | Comments(0)
 米沢街道と呼称される街道はいろいろあるようだが、のりしろ散歩で米沢街道と表現しているのは福島での呼称で、別称は板谷街道。その道筋も、大森道と福島道の二つの道筋がある。ただ、旧道として意識して歩いていたのは大森道の方で、福島道の方は、明治になって開発された道筋を意識して歩くことが多かった。
 今回は、こちらも旧道の方を意識して歩いてみている。

 その米沢街道の大森道でも一里塚情報に接したことはなかった。それが、「天保国絵図」の中に一里塚位置情報が入っていることに気付いたということ。
 この事について「のりしろ散歩~上野寺散策の散策に米沢街道(大森道)の散策を重ねる②一里塚」でこの大森道の米沢街道の一里塚についてふれた。
 ここは、米沢街道(大森道)と二子塚が分かれる直ぐの地点ということで、比較的その位置が特定しやすかった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/19776408/
 「のりしろ散歩~請(清)合内附近の米沢街道情報④」の中では、福島道の米沢街道の一里塚についてふれた。ただ、この付近の米沢街道福島道の道筋自体が曖昧だ。その上に、位置情報としても飯坂古道と米沢街道の分岐点から笹木野宿の間のほぼ中心付近という曖昧なものでしかなかった。それで、ここはおおよそこの辺りでないかなぁという程度の想像でしかない。
 http://kazenoshin.exblog.jp/19564998/
 「天保国絵図」には、もう一カ所の一里塚位置情報がある。
 その位置情報として読み取れたのは、福島道の庭坂宿と笹木野宿の間という程度だった。この道筋は比較的読み取り易いのだが、距離感がつかめなかった。
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 それで、当初はこの塚を自分なりにその候補地の一つではないかと仮定していたところがあったのだが、結果的には違っていた。
 その違うなと思ったのは、今回大森道の米沢街道の一里塚を確認したこととかかわる。
 大森道の一里塚付近から庭坂宿までの街道はほぼ直線に近いのだが、福島道の方も、笹木野宿から庭坂宿の間も直線に近いのだ。
  それに、「天保国絵図」の絵図もアバウトな描き方のように見えて、比較的距離が正確らしいということがあって、その絵図に描かれる一里塚の位置情報が、庭坂宿からの距離がほぼ同じ辺りと読みとれたのだ。
 その事を考慮して地図と見比べると、山神神社よりもやや庭坂宿に寄った付近と読みとれる。この辺りの米沢街道福島路は、奥羽本線に分断されるのだが、その位置は、その奥羽本線を越えたあたりなのではないかなと想像している。
 したがって、ここが一里塚の候補地の一つとの仮定は崩れ去ったという事。
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by shingen1948 | 2014-05-23 06:10 | ◎ 米沢街道 | Comments(0)
 この城の変遷にかかわって、14世紀後半から15世紀前半に「宿」的な機能を有する集落様相を変えたとする考察も面白い。
 その前提として、近世の米沢街道が、ここを走っていることも考察の材料の一つになっている。
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 昨日の最初の写真中央の道、この写真では右端の道が、旧米沢街道らしい。

 実は、何度かこのあたりを歩いたのは、旧米沢街道の道筋を探していたのだ。それが、荒川を渡ったあたりで見失っていた。
 この報告書から「城の宿的機能を有する集落的様相」という見方と共に、散策で見失っていた旧米沢街道の道筋も教わったのだ。


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 まず、近世の米沢街道について整理しておく。
 ここから米沢へは、この道を荒川に向かい、川を渡って現在の米沢道の東側の田の中の道を進む。そこからは、先に整理したように、須川にかかる舘ノ下橋を渡って、左にそれて西に進み、西公民館辺りから庭坂に抜けることになる。
 この街道は、天文11年(1542)から天文17年(1535)の伊達氏天文の乱以降、伊達晴宗が西山城から米沢に移転した後整備されたという。その後、上杉氏も江戸への道としてこの街道を整備したという。
 この米沢街道が、古くはこの舘あたりでは、舘の中を走るという想定らしい。


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 この写真は、現在の旧街道に近い街道を舘の東側から見ているが、舘の中央を走った街道は、薬師堂の辺りを過ぎてそのまま南下し、字切りの境界線沿いの道を通って、この道に出て、「宿」の地名の道へつながるという道筋になるのだろうか。


 米沢街道は、ここから大森へ抜け八丁目宿で奥州街道につながる。
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by shingen1948 | 2009-04-10 05:23 | ◎ 米沢街道 | Comments(0)

舘下橋と米沢街道大森道

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 福島市の民家園に再現された橋銭小屋のモデルは、確かこの舘下橋であったはずだ。この橋は、米沢街道大森道が、天戸川、須川、白津川、鍛冶屋川が合流し、荒川に注ぐ手前にある川を渡る橋で、半沢氏のメモによると、明治32年から10年間有料橋だったとのことだ。
橋銭小屋という表現だが、半沢氏のメモでは、五厘橋とその番小屋という言い方をしている。渡り賃が、1人5厘であったことから、そういう言い方をしているらしい。牛と馬が1銭で、馬車や人力車は2銭をとっていたという。これで、この橋の工賃700円をまかなったとのことだ。その旧橋は、今の橋の西側にあったような気がする。
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 米沢街道大森道が、この川を渡るのは、現在の橋の位置より東側の「舘下」あたりだろうと思われる。ここから、大森方向の米沢街道は、消えているのだが、ここを想像をふくらませながら歩くと、昔の景色に出会えることがある。

 10年ほど前の話だが、この辺りを散策しているとき、西工業団地入り口の角に、道標が転がっているのを見つけ、時々直してあげていた。何故そこに道標が転がっているのかが不思議に思っていた。
ある時、その訳が分かった。親切な方がいて、廃道になった旧道には道標はいらないということで、現在の道に置くのが正しいと思って移されたということだった。
 その道標の昔の位置を確かめたいと思って近所の方に聞いたことがあったが、その時にはすでに分からなくなってしまっていた。

 そして、現在は、その角に転がっていた道標すらも無くなっていて、ちょっと寂しいなと勝手に思っている。
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by shingen1948 | 2008-07-10 20:06 | ◎ 米沢街道 | Comments(0)