地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前)( 167 )

 台畑の台地にこだわってみれば、冨塚前遺跡はその裾野が広がる南側の位置に相当するところだ。ここの古墳時代のムラの痕跡にこだわって確認すると、福島市の歴史に関わる資料ではその場所を「福島商業高校の西側に広がる遺跡です」と紹介される事が多い。その上、そのムラは以下のように洪水によって大きな被害を受けた事を想像される紹介をしている。

 古墳時代のムラでは「竪穴住居はすべて川砂に覆われて埋まっており、当時は洪水の被害が大きかったことをうかがわせます。また、当時流れていた小川の跡から、多数のつぶれた土器(甕や杯)がまとまって見つかりました。まつりや、おまじないをした跡かもしれません」
 その竪穴住居は、ここではおおよそ6m四方に堀りくぼめ、柱を立てて上屋を上げ、カマドは北側につくられていたとか。その住居が川砂に覆われて埋まっていただけでなく、そのカマドの天井はつぶれていて、カマドの基礎の部分と煙を家の外に逃がす煙道が残っていた状態だったとか。
 そして、そのカマドの中に土師器が置かれていたという状態で発見された事を解説する。
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 ちょっと拘っているのが、高低のイメージだ。散策を楽しんでいる者にとって、「福島商業高校の西側」という表現からは、字辰ノ尾や字北下河原の比較的低地をイメージする。その上で、「洪水によって大きな被害を受けた事」が紹介されると、さもありなんと思ってしまう。
 確かに、ここは台畑の台地の裾野という感じで広がった地形であり、台畑の台地からみれば低地ではあるのだが、南矢野目の字台と変わらぬ高さであり、字辰ノ尾や字北下河原から見れば、充分に台地が広がった地形になっている。
 堰の水路とのかかわりを意識すれば、この辺りは、丸子の字冨塚と字冨塚前の字界に沿って流れてきた堰が、南矢野目の字台の大字境を流れている。ただ、字冨塚と字冨塚前とはその高低差は大きくない。その高低差が大きいのは、字冨塚前と字辰ノ尾や字北下河原の字界だ。
 散策してのイメージを加えて確認すれば、冨塚前遺跡の古墳時代のムラは、台畑の高台の裾野から広がる台地に居住区を構えたが、それでもこのムラでは洪水によって大きな被害を受けたようであるという事かな。 ここが、松川の河岸段丘上というかかわりでもありそうだ。
 この後のこの台地にかかわる時代の変遷を意識すれば、奈良時代の初期には、台畑の台地東斜面に須恵器を焼く窯跡がつくられ、その後に奈良平安のムラが展開されるということかな。
 
 なお、この富塚前遺跡と重なって、屋敷の区画溝の遺構と青磁碗と白磁皿、それに茶色い瀬戸の陶器の大型壺と小型の千手観音の仏像の遺物が発掘され、鎌倉時代から室町時代の住居跡の屋敷跡がここに比定されるらしい。
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by shingen1948 | 2013-04-12 11:42 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 台畑(南矢野目)の弥生時代の水田の痕跡に関わる遺物として土器と石庖丁が、「ヘルシーランド福島」に展示されているのをみつけた。a0087378_5174872.jpg
 展示される土器は、「ふくしまの歴史」にある「出土した土器から、弥生時代中期のものと考えられています」とある時代比定にかかわった土器かな?
 展示される石庖丁にはその出土されたとする表示はなく、弥生時代に使われた石庖丁といった感じの表示。「ふくしまの歴史」ダイジェスト版に、縄文時代から弥生時代にかけてつかわれていた石器復元品の写真が載っているが、それかなとも思う。
 それでも、本文の方に「福島市内では台畑遺跡だけでなく勝口前畑遺跡でも石庖丁が発見されているので、弥生時代に水田で稲作が行われていたことが分かります」とある。この遺跡から石庖丁が発見されたことは確かなことなのだろうとは思う。
 遺物の現物を直接目にすることができるのは、貴重かな。
 ちょっと気になるのは、ダイジェスト版では勝口前畑遺跡の遺物と紹介される甕の写真があって、それとこの甕の差異は素人には分からないなぁということ。
 

 「ふくしまの歴史」では、台畑(南矢野目)遺跡の弥生時代の水田の痕跡については、次のように説明される。
 
福島市で一番古い約2000年前の水田が発見されています。福島市内でも、弥生時代に米作りが行われていたのです。石や木の道具で水田を作り、農作業をしていたため、現在の水田から比べると小さな水田です。水田を作った人が生活をしたむらはみつかっていません。
 そこには、発見された弥生時代の水田の写真が掲げられる。その解説では、畦で囲まれた処で稲作を作るらしいが、その一枚の水田の面積は、大きいものでも11.3㎡、小さなものでは1.93㎡と紹介される。
 自分の感覚に近づけるのに勝手に畳で換算すれば、1畳~3畳の広さかな。

 散歩人としては、その位置が気になるところだが、本調査の遺構配置図と見比べれば、「台畑遺跡」遠景の写真にみえる調査区の南端近くのような気もするが、よくは分からない。
 台畑遺跡推定範囲内の調査は、宅地造成計画に伴う記録保存の必要とされるところが実施されたということだ。従って、遺跡としては破壊されることを前提としている。せめて、その位置が現況の地図でも確認できる情報としてほしいものだと思うが、一散歩人の勝手な思いでしかないかもしれない。
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by shingen1948 | 2013-04-10 05:23 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
a0087378_1842113.jpg 「散策での感触」と「『台畑遺跡』遠景の写真」と「現況の地図」と「本調査の遺構配置図」とを見比べて、これらのおおよその重なりをイメージしてみて、平安時代の住居区域である台地と水田跡の境目附近を想像してみた。
 こんな感じかなと思うのだが、各報告を確認していないので曖昧な状態だが、散策を楽しむだけなので、概括的にイメージしたいだけだ。

 ここに、次の「ふくしまの歴史」の「台畑遺跡で発見された平安時代の水田跡の写真解説」情報と重ねてイメージしたいのだ。本文に「台畑遺跡(南矢野目)では水田の西の水路から墨書のある土器が数多く出土しています」とする部分だ。
 弥生時代から古墳時代にかけてのような小区画水田ではなく、1枚の田(1辺が約5~10m)は大きくなっている。水田の近くの溝からはまつりに使われたと思われる墨書土器が出土している。
 墨書のある土器が数多く出土した水路が水田の西という表現から、水田と居住地の道筋付近の水路らしきものを探せば、確かにそれらしきものは分かるが、それと関わるのかどうかは、今のところ分からない。
 ただ、水路らしきもの附近に水田と居住地の境の祭りの場を想定し、それに伴う墨書土器と勝手に想像させてもらってもいいのかなとも思う。

 古墳時代のムラとされる勝口前畑遺跡では、石製模造品と土器を並べた、祭りの場が水田と居住地の境で発見されたことに関わって、豊作を祈ってムラでまつりが行われていたのではとの推測が記されるが、ここでは「まつりに使われたと思われる墨書土器」という表現しかないわけで、勝手な類推のし過ぎかなとも思うが、どうなのだろうか?
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by shingen1948 | 2013-04-09 18:11 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 遺跡紹介でよく見かける写真は、平安時代の住居跡があるとれる台地とその時代の水田跡とされる低地の様子がよく分かるとされる「台畑遺跡」遠景の写真。確かにそうなのだろうが、この風景に見慣れていない他所者にとっては、これが実際の風景となかなか重ならない。 
 それで、いろんな事を試す。
a0087378_5171682.jpg まずは、とりあえず南から見た風景と東側から見た風景の想定で風景を見る。ただ台地の東側が低地になっていて、ここに平安時代の水田跡との情報があるので、東側から見た風景の可能性が高いとは思っている。
 次に、本調査の遺構配置図の形と見比べる。その形状からも台地を東側から見ているのだろうとは思う。その発掘されている部分は、その形状から、高台の南側辺りだろうかとは思うのだが、この時点では自信がない。というのは、低地とされる部分は、確かに台地よりは低地ではあるのだが、散策した感じでは、周りの水田地帯に比べれば、結構高いというのではという感覚的なズレのようなものがあるのだ。

 気がつくまで時間がかかったが、虫眼鏡で拡大してみれば直ぐに解決。奥に新幹線の高架橋が写っていたのだ。台地を東側から見みた風景に間違いない。
 本調査の遺構配置図と見比べ直せば、解説がいう低地とされる発掘部分の右端が公園付近で、発掘されている台地部分は、現況のアパートが建つ前の道筋から南側だろうか。 
 ここは、台地の南端部分で、台地の大部分は当時の原形のままの状態と見える。台地と耕地との境界が、現況の福島商業からの道筋と重なって見える。
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by shingen1948 | 2013-04-08 05:30 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 散策で得た台畑(南矢野目)周辺の感覚と、手持ち情報を重ねて見る。
 情報の一つとして、「台畑遺跡3」の報告書をみつけた。中心となるのは、平成13年度の報告だが、ここに、それまでの本調査と試掘調査の遺構配置図が載っていた。
 直ぐに目がいくのが、掘立柱跡とそれを点線で結んだ地点。それを目安に、ここから台地のムラの痕跡の広がりを想像してイメージを広げることができる。
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 この道沿いに台畑遺跡を確認すれば、ビニールハウスのある辺りから、つまりは台畑八幡の鳥居前辺りからこの遺跡の範囲とされるらしい。ただ、報告書をみると、その本調査が行われたのは、ここから東側の台地らしいことが分かる。
 その西端の地点から台地を眺めればこんな感じだ。掘立柱跡の多くの痕跡は、この左手かな。

 更に、「ふくしまの歴史」から「台畑遺跡」のムラの住居の情報を重ねる。
 「台畑遺跡」では奈良時代の終わりに、住居として使われたと思われる掘立柱跡が発見されています。竪穴住居と掘立柱建物とがムラの中にありました。ムラの中では竪穴住居と掘立柱建物とが同じ時期にあった事になります。
 掘立柱建物の使用目的が不明としながらも、有力者の存在を匂わせる。
 そのダイジェスト版からは、この時代のムラのでき方とかかわりが、以下のように読み取る。
 ここでは、奈良時代に台地近くの低地や台地上の開発がおこなわれ、台地にムラがつくられ、それが平安時代まで連続的に発展したとするのだが、その平安時代の痕跡としては、水田跡とのかかわりの中でのムラの推定を含むようだということ。
 台畑遺跡の台地上の住居跡痕跡という視点で、その連続性にかかわって整理すると、奈良時代の初期にはその痕跡はなく、その後期から平安時代にかけての住居痕跡とみるのだろうか。
 この事は、福島の他のムラの痕跡の紹介と照らし合わせると、その時代の連続性に特徴があるらしいことが伺える。
 例えば、同じ平安時代のムラの痕跡地であっても、五十辺・鎧塚・勝口前畑遺跡などは、古墳時代のムラの痕跡後、奈良時代のムラの痕跡はないのだが、平安時代には、またムラの痕跡が登場するということになるらしい。
 これ等と比較すると、「奈良時代~平安時代」の連続した時代のムラの痕跡ということも、この台地のムラの特徴ということかな。
 もう一つ、時代の連続性という意味では、弥生時代の水田の痕跡は残すが、古墳時代、奈良時代初期のムラの痕跡はなく、その後、奈良時代~平安時代の連続した時代のムラの痕跡を残すということでもあるかな。

 なお、この台地の奈良時代の初期の痕跡として、須恵器を焼いた窯跡の発見も紹介されるが、位置的な情報は今のところない。
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by shingen1948 | 2013-04-07 06:58 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
a0087378_4492973.jpg 字富塚の雷神から大字丸子の冨塚と大字南矢野目の竹ノ内を分ける道筋をたどってくると、二手に分かれる道筋がある。
 そこを、その滑らかな道筋に沿って進むと、この名号の石塔が目に入る。その細道に入ってみると、そこが台畑八幡の裏手だった。その時に、台畑の高台にスムーズに入れたと実感。後で確認すると、二手に分かれた道筋も、その台畑八幡から抜ける道筋と重なっていた。
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 この台畑八幡の鳥居から東側にみえる辺りから、奈良.平安時代とされる台畑遺跡が広がっているらしい。
 遺跡の紹介文を確認すると、8世紀中葉から10世紀の集落跡および弥生時代中期と平安時代の水田跡、9世紀代の居住の場と生産の場が調査されたとか。

 ここまでは、台畑の高台にスムーズに入れたことを視点に整理してきたが、その前の散策では、逆にこの辺りの高低差をイメージして散策している。そのイメージと今回の散策がつながって、ようやくこの辺りが実感できたということになるのだろうと思う。

 この台地に東側から進入すると、その高低差が実感できる。
 福島では最古の弥生時代の水田跡が発見された処というイメージにこだわると、高台を求めながらも、どこかで低地のイメージも求めているという複雑な感覚で歩いている。
a0087378_456243.jpg それで、堰沿いの道筋にこだわって歩いてみたりもしている。そこから、その堰の奥に足を踏み入れてみるという感覚で登ってみたのが、福島商業からの道筋だ。
 登って直ぐに「台畑」のアパート名を見つけ、地図で散策する前に「台畑」の地に入り込めたという感じがあったようにも思う。それで、その奥の道筋まで意識が進み、この道筋をたどって、今回の道筋の逆コースをたどって冨塚まで抜けている。
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 今回の散策と先の散策が結びついたなと実感したのは、東に進んでやや下り道になった付近に公園を見つけた時だ。先の散策では意識していなかったのだが、ここから各方面に道筋が走っている。

 「ふくしまの歴史」に「ムラが発見された台地の東には低地があり、平安時代の水田跡が発見されました。平安時代には子の低地で稲をつくった事は間違いありませんが、奈良時代の水田跡は発見されていません」という記載がある。
a0087378_521346.jpg この公園から高台をみれば、こんな感じだ。高台から降りてくれば、ここから東側の道筋が下りの道筋となるということと、「ふくしまの歴史」がいう「台地の東には低地があり」とあるその境界線が、この公園あたりなのではないかなというイメージだ。
 詳細は知らないが、少なくともこの公園が散策の目印にはなりそうだなと思う。
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by shingen1948 | 2013-04-06 05:30 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 13号線から4号線に抜ける道筋は、基本的には「歴史地図」にある「昭和初年農民救済道路」なのかなと想像する。現在は改良が進んでほぼ直線の道路だが、自分の感覚では、旧道と思っている道筋がそれに当たるのかと思う。
 その道筋を地元の方の感覚を想像しながらたどれば、向原から冨塚までは、大字丸子と大字南矢野目の境界に沿った道筋になっていて、大字丸子の冨塚と大字南矢野目の台を真っ直ぐ道筋を通して、そこからまた大字の境界に沿って道筋が引かれているというイメージだろうか。a0087378_6425665.jpg ただ、自分も含め、ここを通る者にとっては、現在では改良された真っ直ぐに4号線に抜ける道筋という感覚だ。地元の方にとっては自然な感覚かも知れないのだが、この感覚で進む他所者にとっては、この雷神の石塔が何かを主張しているように見えて気になる。
a0087378_6433877.jpg それで、この石塔から風景を眺めれば、ここから北に大字丸子と大字南矢野目の境界に沿った道筋の延長線らしき道筋が見えてくる。
 この大字丸子の冨塚と大字南矢野目の竹ノ内を分ける道筋をたどってみると、これが高低差の少ない道筋で、そのまま台畑の高台に導かれる。

 地形にかかわる感覚は、開発された風景で見失っていたのだが、その感覚を少し取り戻したように感じる。
 その感覚で概括的にこの地形を見直してみると、台畑の高台は、西側から舌状にはみ出している大地であるらしいということだ。この大字丸子と大字南矢野目の境界に沿った道筋は、その高台の尾根に相当するところを走っていたと思われる。

 高台に平安時代の住居跡とされる遺跡があるという情報は、頭では既に納得しているのだが、そこを歩いて、その高台に自然に導かれたことで、平安時代の住居跡のある台畑ということが、感覚的にも納得できたように感じているということのようなのだ。
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by shingen1948 | 2013-04-05 06:58 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 この辺りは、何度も散策しているのだが、整理していない。その一つの理由が、手持ちの情報と自分の持ち合わせの感覚とのずれのようなものだ。違和感とまではいかないが、今まで散策してきた感覚との間のギャップのようなものだ。今回、素直にその感覚と情報のギャップを視点にしてもいいかなと思ったので、整理してみることにした。

 中心的な違和感は、土地の高さに関わるもののような気がする。
 ここは、松川が形成した下位砂礫の段丘だといわれ、少なくとも丸子よりも高台の位置にある。従って、平安時代の住居跡とされる遺跡のあるところという情報には素直に納得できる。ところが、ここは福島では最古の弥生時代の水田跡が発見された処とか、住居跡の東側には平安時代の水田跡も見つかっているという水田跡の情報があるのだ。その水田のイメージにここが似つかわしくないという違和感だ。a0087378_58989.jpg
 ここは、商業高校前の信号付近から高台を眺めているところだが、その高台の縁に沿って水路が顔を出す。多分、矢野目堰の支流にかかわるのだろうと思う。
 水路に着目するのは、その高さにかかわる高低それ自体の目印であるとともに、感覚的に高低差を見失った地点の等高線の目安になるとも思うからだ。
 地図でこの流れを確認すると、字富塚あたりから顔を出している。そして、その水路沿いに道筋が見える。福島の小字で確認すると、冨塚を過ぎて字台付近からは、これが大字丸子と大字南矢野目の境界になっているような気もする。ここを境に、大字南矢野目の字名が字台で、字台畑は更にその上になる。台畑は、近世の時代の水路よりも高い位置ということで、これが水田というイメージが結びつきにくかったのだ。

 なお、この辺りの高低差を見失いがちなのは、開発が進んだことで、主要な道筋が改善されたこともある。道筋の改善にとどまらず、クロスした道筋では、一方の道筋を跨ぐように改良されたりしていることもある。また、優先順位によって、一方の道筋を閉じてしまった処があるのも、連続的に風景を感じられなくなった要因の一つにある。
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by shingen1948 | 2013-04-04 05:30 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)

上条古墳群付近②

 先に上条古墳群付近を散歩した事については、整理していると思っていた。
 本宮市庚申壇古墳の現地説明会に出かけたのは、2007年頃だったろうか。この古墳は、古墳時代中期以降における福島県中通り地域中部の有力首長墓群である七ツ壇古墳群の中の一つの古墳で、墳長約40mの前方後円墳とのことだった。
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 この発掘調査の前に、上条1号墳の発掘調査をしていたとのことで、その報告書を確認して散歩した。現況では1号墳しかないが、報告書では、他の消滅した古墳群の位置も示されていたので、イメージを膨らませながらその辺りを散歩した。
 現在、震災の影響で図書館が完全復旧しないので、気軽に資料確認ができないが、その時の記憶では、この付近から115号線国道付近にかけての範囲に分布していたということだったはず。
 「ふくしまの歴史」によれば、その2号墳(円墳15m)の横穴式石室から金銅製圭頭太刀の柄頭(6世紀後半~7世紀前半)・八窓倒卵型鐸・鐸の金具・ガラス製小玉が出土したとあるが、今はその2号墳の位置記憶はあいまいだが、それらの遺物を念頭でイメージと結び付けて散歩したはず。
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 上条1号墳は、見た目は、二つの丘陵があって、その北側の丘陵の石積みの上に祠があるというような状態だが、これが「6世紀後半に築造された墳長46mの前方後円墳」とのことだ。

 丘陵の石積みに見えるのが、「後円部の横穴式石室が一部露出」した状態ということだ。
 その埋葬施設の横穴式石室は、一枚石の奥壁を持っていて、その床面に礫が敷かれていたということだったらしい。
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 その内部の様子が見える写真が、2008「福大考古学室所蔵資料特別展示」案内ポスターにあった。

 「ふくしまの歴史」の発行を確認すると平成17年(2005)だ。僅か数年の間の記述される内容に変化があることを実感する散歩でもあった。 

 なお、この近くの「日向古墳群」を散歩したことについても整理していないのかなと思ったら、こちらは、「忘れ去られる古墳群」①~「日向古墳群」 として、整理してあった。
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by shingen1948 | 2012-02-27 05:20 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 確認していくと、昭和27年の上岡遺跡の発掘は、地域の力が一つに結集されたことが、その特色の一つと感じている。しかも、ごく自然な形で進行したようにみえる。

 まず、地主の方が興味を持ち、新聞記事が言う「地元の民間考古学者」の方に相談する。
 その「地元の民間考古学者」の方は、中学校に出向く。その相談相手の鈴木氏は、社会科を担当される方だったのだろうか。確実ではないが、出身校の大学に相談されたのではないかと思われる形跡を感じる。
 それらの経緯があって、本格調査の必要性を確認するようだが、その調査依頼の中心が、地元学校の校長先生らしい。
 ここまでの確認でも、学校が地域文化の発信機能を持っていたように感じる。
 それで、東湯野中学校を確認したところだ。
 地元の力が、地域文化の相談発信機能を持っていた学校などを通して結集し、本格調査につながったとみる。

 この本格的調査で、立案全面的指導は、県の梅宮氏が行うが、この地域の調査をしたり、考察をしたりするという具体的な調査は、信夫高等学校の教諭であった秋山氏が担当するようだ。
 氏が地元に詳しい方ということもあったろうが、学校もまた地元と結びつきが深かったのではないかと想像する。
 恐らく信夫高等学校には、信夫郡地域の中心高等学校という意識があったように想像する。その誇りは、福島高校に対抗するということより、信夫郡のオンリーワンの高等教育拠点というイメージではなかったろうかと勝手に想像する。
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 確認していくと、これが福島県立福島工業学校の前身ということのようだ。
 この学校前を通りかかった日、元信夫高等学校は除染中だった。
 現在は、福島工業学校で、この学校のある地域は美しい町づくり指定を受けているらしいことが、看板から分かる。その隣には、市議会立候補者のポスターが掲示され、ごく普通に市議会選挙が行われた。その中で、学校は除染作業中というのは、個人的には日常の普通の生活と思わない。

 それはさておいて、福島市と合併後、オンリーワンという意識が、工業学校という選択肢にたどり着いたのではないかと、勝手に想像する。

 東湯野地域の地元高校という意識では、飯坂の高等学校だろうが、昭和27年当時は、ここは、信夫高等学校の分校だったようだ。先にもふれたが、独立して飯坂高等学校に独立し、暮坪山にされるのが昭和35年のようだ。
 それが、北高等学校となって現在地に移転するという経緯のようだ。

 今は、高等学校は、広域化し、その価値が大学進学率に大きく傾いている。今の高等学校は、学校の範囲で自己完結している組織だが、当時は地元意識とのつながりの中にあったらしい。
 そういう意味で、信夫郡の消滅も確認しておく。
 昭和43年(1968)10月1日 吾妻町が福島市に編入され、信夫郡が消滅する。
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by shingen1948 | 2011-08-12 06:53 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)