地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 信仰と文化( 134 )

先の「信夫の里から東屋沼を意識する」のまとめとして、田沢村の遺跡分布に、吾妻山信仰とかかわる遺跡として、「貝沼」・「大宮神社」・「兎田」・「長秀院」、それに「種まき兎伝説発祥の地碑」をプロットした。
a0087378_1645294.jpg 今回は、その地図に長秀寺の旧地でもあり、田澤村開拓の祖といわれるという丹治屋敷あったという「石内」と、近くの「内」のつく地名をプロットした。
 また、先のプロットで、公園の印のようなものを「兎田公園」ととらえて「兎田」をプロットしたが、ひょっとすると山頂のガス施設かもしれないと思い直して、確実に「兎田」である位置にプロットし直した。
 本当は、田沢川と「石内」近くの貯水池もこの地の水源として記してみたかった。しかし、昭和50年と昭和40年代の航空写真を見比べると、肝心の「兎田」付近では、山沿いを走っていた田沢川を改変しているらしい。混乱したイメージになるのでやめた。

 田澤遺跡分布の図にこだわるのは、蓬莱団地と田沢村を連続的に意識したかったからだ。
 現時点では、蓬莱団地の縁に田澤村にあたる集落があるようにみえる。しかし、その見え方は逆で、蓬莱団地は田沢村の山を削って開発されたものだ。
 その田澤村開拓の祖といわれるのは、長秀院開基のかかわりでふれた石内の丹治氏といわれているようだ。
 その田澤村開村にかかわっては、「田澤町内会」のホームページ「田澤の歴史(その3)」に簡潔に整理されている。
 http://www.tazawa.jp.net/rekisi03.htm
 「明治の『村誌』では、天正10年(西暦1582)の頃、丹治但馬・同丹後・同縫殿助<石内の丹治庄衛氏の祖なり>、山間を開拓して耕地と為す、故に田沢と称すと言ふと述べている」とある。 更に、「内」附きの中世地名から、当村の開発はそれ以前にさかのぼるともある。今回の散策にかかわる「内」つきの地名をプロットしてみたのは、このこととのかかわりだ。

 なお、昨日整理では、丹治縫殿介が長秀院を建立開基の情報を確認したのだが、「福島の寺院明細帳」では、「田澤山長秀院」は、元和3年(1617)丹治庄兵衛創建とある。また、開山も慶安4年正月8日常光寺14世機山長全大和尚とあり、情報に多少の違いがある。
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by shingen1948 | 2016-09-23 16:47 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 本堂左手に不動堂が建つ。
 位置的に離れているが、長秀院鎮守「大聖不動明王縁起」がその案内だろうと思う。
a0087378_9152270.jpg
 
長秀院鎮守
 大聖不動明王縁起
 元和元年(1615)田沢石内の地に丹治縫殿之介という類稀なる篤信家ありて長秀院を建立開基となる。同3年清明町常光寺4世大和尚を御開山にお迎えし、仏法興隆を誓願す。
 惟時(このとき)長秀院守護を念じ、持仏不動明王を奉請し御堂を建立す。
 爾来、二度の大火に相遇(遭遇)するも、不動明王の加持力により尊堂は焼失を免れる。後世、不可思議な加護力を賛仰し、誰言うとなく火伏不動明王とお呼びし、霊験あらたかなお不動様として、人々の信心を集めている。
 火災消除 家内安全 商売繁盛
 交通安全 学業成就 厄除(厄年)開運
 酉年生まれ一代守り本尊
 大祭礼3月28日
 ご縁日毎月28日
 大聖不動明王奉賛会
 長秀院ホームページと照らし合わせると、「田澤山長秀院」は、元和3年(1617)11月12日、常光寺4世機山長全大和尚を「開山」に請して、曹洞宗寺院として開創される。
 それ以前、丹治縫殿介という方が帰依して結んだという「長秀庵(異称・長松庵)」があったという。それを、丹治縫殿介「長秀院を建立開基」と表現しているようだ。
 丹治縫殿介氏とは、天正年間に、現田沢・清水町の旧「田澤」村に入ったと言われる田澤村開拓の祖の丹治三兄弟の末弟にあたる方のようだ。この方が、元和元年(1615)石内の丹治屋敷に庵を建立して開山したとのことだ。
 従って、「持仏不動明王を奉請し御堂を建立」したのは、丹治縫殿介氏なのだろうと思われる。

 「二度の大火に相遇(遭遇)するも、不動明王の加持力により尊堂は焼失を免れる」とのことだが、長秀院ホームページで、そのうちの一度は弘化2年(1845年)の石内屋敷の大火であることが分かる。この時、不動堂を残してほぼ全焼したということだ。「火に包まれた鐘楼から、赤く灼熱した梵鐘がゴロゴロと下の田圃まで転がり落ちた」との古老口伝もあるのだとか。
 それで、先に記した嘉永元年(1848年)の現在地移転となるようだが、不動尊・不動堂は、その後も石内の旧境内地にあったようだ。それが、また火災にあい、明治33年(1900年)に現在地に移転されたという経緯のように読み取った。

 ここからは、「田澤山長秀院」の旧地石内は、田澤村開拓の祖丹治屋敷だったとの読み取りもできる。ここを中心に田澤村のイメージを広げるという見え方のヒントになっている。
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by shingen1948 | 2016-09-22 09:19 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「長秀院」は、「信夫三十三観音」14番札所だ。
 御近所では、順に12番札所が鳥谷野舘の「永京寺」で、十三番札所が黒岩上ノ町の「満願寺」だ。そして、14番札所の「長秀院」の次は、清水町の「仲興寺」だ。
a0087378_4323272.jpg 札所巡りでこの寺を訪れれば、この観音堂がこの寺の観音堂と思うのではないだろうか。
 しかし、案内を子細に読めば、「信夫三十三観音」14番札所「長秀院」の観音様は、十一面観世音菩薩で、寺の本尊ということのようだ。ならば、その定位置は本堂だ。

 ということは、こちらは案内にある当院別当の「田沢貝沼観世音菩薩」の観音堂と見た方が、辻褄が合いそうに思う。
 田澤山長秀院のホームページによると、この寺は、元々は川を挟んだ石内地内にあったという。それが、弘化2年(1845)に石内屋敷の大火で罹災したというのだ。
 それで嘉永元年(1848)に現在地に移転したということのようなのだが、その旧地からみた現在地を「東向かいの観音山に伽藍を移す」と表現している。
 ここからは勝手な想像なのだが、この観音堂は、その観音山に元々あったお堂なのではないのかなと思うのだ。
 しかも、ここは田沢貝沼の地名ではないはずなので、田沢貝沼にかかわりのある観音堂という見え方でいいのだと思う。
 稲荷社は分からないが、貝沼にかかわる観音堂は見つけたということにならないかということ。

 ここが「旧信夫三十三観音」2番札所で、御近所では、次の3番札所が渡利の「瑞龍寺」になるようだが、一番札所の「観音寺」が、信夫山の「観音寺」なのか鳥渡の「観音寺」なのかが分からない。今のところ、信夫山の「観音寺」なのかなと思っている。
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by shingen1948 | 2016-09-21 09:30 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 までは、散策は徒歩かママチャリが原則と勝手に決めているところがあった。それに、何かのついでに立ち寄るという、そこを通る必然性があるという条件を自分に課している。
 そんなこともあって、前回の田沢散策では、長秀院に立ち寄らなかった。
 そのことでちょっと落ち着かなかったのだが、最近、これまた勝手に車を使っての移動を許容とした。機動性が増したこともあって、今回は長秀院まで進んでみた。
a0087378_641592.jpg 今回の散策とのかかわりでは、「信達一統誌」に、長秀寺境内の稲荷社について「當邨里社七神の內 にもこの神(=倉稲魂命)おはす されば双方とも東尾沼神社を移せしならむ」とあることについての確認だった。
 しかし、実際には境内に稲荷社は見つからなかった。

 空振りだったかなと思って、案内板を見たら気になる案内があった。
 「山内特衹の菩薩・明王」の項に、「大聖不動明王尊・子安子育観世音菩薩」「貝沼観世音菩薩・出世観世音菩薩(当院別当)」とある。また、「札所」の項に、「信夫新西国三十三観音第14番札所長秀院本尊十一面観世音菩薩」と「信夫西国三十三観音第2番札所当院別当田沢貝沼出世観世音菩薩」の案内があったのだ。
 気になるのは、「田沢貝沼観世音菩薩」の中の「田沢貝沼」とある部分だ。稲荷社は見つからなかったが「田沢貝沼」が自分を導いたかなと、これまた勝手に思う。
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by shingen1948 | 2016-09-20 08:39 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「種まき兎伝承発祥の地」の石碑脇に「種まき兎」原話の案内板が建つ。
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 先に確認した「浄土平ビジターセンター」紹介の「種まき兎」原話と照らし合わせると、「採者」が「話者」となり、一部漢字部分がひらがなになったり、漢字に語りの読みのルビを振っていたりするが、ほぼ同じ表現だ。
 残念だなと思うのは、「種まき兎」原話にこだわりすぎている事だ。「種まき兎」にスポットを当て過ぎると、この話の中に詰まっている信夫の里の人々の吾妻山の見え方が薄らいでしまうように思えるのだ。
 例えば、以下の部分は、図説「福島市史」で解説された「信達盆地には、山上の五色沼と底が通じている貝沼・吾妻沼の伝説地には必ず吾妻信仰がある」ということと重なる部分だ。
 村人は、田沢の貝沼(皆沼)は西山の雷沼(東屋沼)の底とつながっていて、吾妻権現がまつられていたので、ここで雨乞いしたが、さっぱりききめがなかった。そこで、村人は山伏の先達(あんない)で大ぜい雨笠・みの着て、吾妻山さ登って雷沼に「雨たんもれ龍王やーイ」といったが、一つぶの雨も降らなかった。
 「田沢の貝沼(皆沼)は西山の雷沼(東屋沼)の底とつながっていて、吾妻権現がまつられていた」とある「田沢の貝沼(皆沼)」が、「信夫の里から東屋沼を意識する③」で整理した「田沢の貝沼(皆沼)」だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20582422/
 ここで「吾妻権現がまつられていた」というのが、「信夫の里から東屋沼を意識する④」で整理した「信達一統誌」が「是則東尾沼神社なり」とした「大宮神社」を指すのかどうかは分からない。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20588985/
 この田沢での雨乞いにききめがなかったので、山伏の先達で、村人総勢で雨笠・蓑着て、吾妻山に登って、雷沼に「雨たんもれ龍王やーイ」と雨ごいしたという話だが、この雷沼が、吾妻山の一切経山の先の五色沼のことだ。
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by shingen1948 | 2016-09-19 16:16 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 先に、「信夫の里から東屋沼を意識する」として、東屋沼神社や東屋国神社と吾妻信仰とのかかわりについて整理した。
 図説「福島市史」では、「信達盆地には、山上の五色沼と底が通じている貝沼・吾妻沼の伝説地には必ず吾妻信仰がある」と解説される。
 東屋沼神社は、吾妻岳山上にある湖沼が農耕神として崇拝されたものであり、東屋国神社は吾妻の山霊を祀ったのであろうということである。従って、こちらは吾妻信仰ということであり、貝沼・吾妻沼の伝説地とセットである可能性が高いということだ。
 しかし、実際に散策してみると、セットで確認できるところは少なかった。
 「信達一統誌」の「本内邨」の項で紹介される貝沼のように、その貝沼自体確認できないというところさえもあった。

 そんな中にあって、田沢邑には貝沼(皆沼)と吾妻沼神社に相当する「大宮神社」が確認できたということで、「信夫の里から東屋沼を意識する」の田沢邑編を以下の③~⑦までに整理していた。今回は、その⑥の採取された「吾妻信仰にかかわる伝承」の石碑とその④の長秀寺境内を確認したので整理する。

 「信夫の里から東屋沼を意識する③」では、「田沢の貝沼(皆沼)」について確認した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20582422/
 「信夫の里から東屋沼を意識する④」では、東屋沼神社に相当する「大宮神社」を確認した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20588985/
 「信夫の里から東屋沼を意識する⑤」では、「大宮神社」の現況確認とした。更に、「信達一統誌」では、長秀寺境内の稲荷社について「當邨里社七神の內 にもこの神(=倉稲魂命)おはす されば双方とも東尾沼神社を移せしならむ」とあることを示したが長秀寺の確認は次の機会の課題とした。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20593695/
 「信夫の里から東屋沼を意識する⑥」では、田沢邨の吾妻信仰にかかわる伝承が採取されていることを確認した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20602163/
 「信夫の里から東屋沼を意識する⑦」では、マホロンの検索で拾った田沢邨付近の遺跡分布地図に、「信達盆地には、山上の五色沼と底が通じている貝沼・吾妻沼の伝説地には必ず吾妻信仰がある」という視点からのかかわりある史跡の位置を確認した。
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by shingen1948 | 2016-09-17 09:32 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 羽黒宮の建築にかかわって「2代目金子周助建立伝の神社~羽黒神社にかかわることの誇りから」を整理した際、羽黒神社は次のような神社とした。
 http://kazenoshin.exblog.jp/19334775/
 信夫山は、古代から神が宿る神聖な山と崇められてきたという。中世には、神仏混合し修験僧修験の場として発展したそうだ。
 その信夫三山の一つである羽黒山と称される一角に、羽黒神社は鎮座し、信夫の里の中心的な信仰的の拠点の一つとなっている。歴史代領主からも崇敬の対象となっていたという。
 それが明治初頭の神仏分離令によって別当寺院と分離し、現在は麓にある黒沼神社の摂社となっているらしい。この事とかかわって仁王門は撤去されたのだろうと思われる。更に、その御神体だった渟中倉太珠敷命の聖観音像は、別当寺を引き継いだとされる真浄院に移されたという。
 今回の表題を羽黒権現としたこととかかわって気になっているのが、この中の「御神体」の部分だ。
 この整理では、言い伝えに沿って真上院に引き継がれたとするご神体は「渟中倉太珠敷命の聖観音像」としている。
 その「聖観音像」の部分は、羽黒権現の本地仏は聖観音なのですんなりと理解できる。ただ、「渟中倉太珠敷命の聖観音像」だという「「渟中倉太珠敷命」の部分は、本当はよく分かっていないような気がしている。
 今のところは、よく羽黒神社の創建にかかわって次のような言い伝えが紹介されるのだが、この事とかかわるのだろうと勝手に想像している。
 欽明天皇の代に王位継承の内乱が起こり、后である石姫命が皇子 渟中太命を伴いこの地に逃れてきました。2人共この地で亡くなった事から石姫命を黒沼大神、渟中太命を羽黒神として後世まで祀ったと伝えられています。
 現在、この羽黒神社は黒沼神社の摂社となっているとの事なので、その事との関連付けた創建話なのではないのかなと思うのだが、どうだろうか。

 「別当寺を引き継いだとされる真浄院」とした部分だが、言い伝えでは、伊達政宗公と共に、寂光寺に伴って羽黒権現も仙台城下町に移るのだが、この時に分霊を勧請し、新たに羽黒神社を建立したのだそうだ。この時に、その別当寺になったのが真浄院だったとされるようなのだ。

 そこまでは、自分なりの解釈で分かった気もするのだが、よく分からないのが、明治初頭の神仏分離令で「渟中倉太珠敷命の聖観音像」が真上院に移されてしまった後、参拝者はどなた或は何に祈っているのかなということ。これは、ちょっと不謹慎かな。
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by shingen1948 | 2016-03-07 08:39 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)

山田村の障神

 「山田村の障神」は、集会所の裏の林の中だった。a0087378_110139.jpg この位置は、山王道と高台を回り込む道の交点で、ここに「山田村の障神」があって、その前に山田村の集会所があるという風景だ。
 障神の性格を確かめれば、これが基本的な集落と障神の関係性を物語る風景なのだろうと思う。

 「さえのかみ」は、塞神・幸神・障神・妻神・才神・性神など、多様な漢字を当てはめられるようだが、その当てはめられた漢字によって、その性格も微妙に違うようだが、どれも道祖神の一種とのことだ。
 山田村の障神社のように「障神」や「塞神」と表記された「さえのかみ」は、村や地域の境界とか、道の辻にあって、禍の侵入を防ぐ神という性格が強いとのことだ。ここでは、山王道の北側の集落に禍の侵入を防ぐ神という性格とみればよいのかな。

 ただ、これは基本的な性格であって、意味が混同されているのが普通であって、その場その場で便利に使い分けているようなのだ。
 他の用法も確認しておく。
 「歳神」や「才神」と表記された「さえのかみ」は、年々の収穫を祈念する神としての性格が強いとのことだ。
 「幸神」や「妻神」や「性神」と表記された「さえのかみ」は、性病治癒、夫婦和合、子宝の神としての性格が強いとのことだ。
 また、本当は「幸神」としての性格が強い神なのに、「障神」と表記されているなどといった場合もあるらしいとのことだ。

 道祖神の一種との事なので、「道祖神」を確かめると、悪疫防除の塞神・障神と中国の道祖(道の神)との習合で、道陸神(どうろくじん)ともいわれ、村境や峠、辻の路傍に立ち、村人や旅人の守護、交通安全の神とされるとのこと。
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by shingen1948 | 2015-06-01 11:01 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
a0087378_10372853.jpg ここは、笹谷原町ではないが、その近くの観音堂だ。旧信夫三十三観音18番札所の原町観音堂なのかどうかは分からない。
 気になるのは、その前に並ぶ石塔群の左端と左から5番目に名号塔だ。本当の所は分からないのだが、左端の名号塔に刻まれる符号と、左から5番目の名号塔の字体が、勇猛和尚の影響力を感じるべきなのかもしれないなと思っているところだ。

 蓮光寺も、古くは「来迎山 称名庵」のような草庵だったようだ。
 その事について、案内板では次のように説明されている。
 当寺は昔は「摂受庵」と呼ばれ、古い草庵であったが、寛保元年(1741)3月15日創建、当村の佐藤良庵(俗名吉右衛門)の開山である。下大笹生村(現笹谷)の郷士佐藤吉右衛門英在、吉三郎英政父子は当寺の建立に尽くした。
 寺西の佐藤氏の墓所を確かめると、北西隅に側面に佐藤吉右衛門享年八拾有四英在が刻まれた墓石があり、その6番目の墓石から俗名吉三郎英政のかかわりが刻まれた墓石が並ぶ。元々、その方々がかかわる草庵であったところに、今回整理した「勇猛和尚」がかかわって、寺としての体裁が整ったということなのだろうか。

 蓮光寺について、「吾妻山地名伝承」と「地域の人々が伝える祈る心」の視点から「浄土宗 光明山 摂取院 蓮光寺の由来」の案内板の説明と照らし合わせて整理してきた。
 その「浄土宗 光明山 摂取院 蓮光寺の由来」の全文は以下の通り。
 「浄土宗 光明山 摂取院 蓮光寺の由来」
 当山は、浄土宗光明山と呼ばれ、総本山は知恩院(京都市東山区)大本山は増上寺(東京都港区)である。
当寺は昔は「摂取庵」と呼ばれ、古い草庵であったが、寛保元年(1741)3月15日創建、当村の佐藤良庵(俗名吉右衛門)の開山である。下大笹生村(現笹谷)の郷士佐藤吉右衛門英在、吉三郎 英政父子は当山の建立に尽くした。
 本堂中央正面に本尊阿弥陀如来座像、右に高祖光明善導太子立像、左に元祖大師法然上人立像を両脇侍とし、又、右に開基勇猛上人座像、左に延命地蔵座像が安置される。
 経蔵には一切経(2068冊)が残っており、板壁の仏画、聖人像(70体)がある。
 信達観音笹谷新町蓮光寺観世音御詠歌
 「あらたなるまちのおてらのかんぜおんだんのうてなにむらさきのくも」
 経蔵、観音堂の建立は明和3年(1766)でここの床下から一字一石の経石も発見されている。江戸時代信達ニ郡で一切経を所蔵している寺は当寺の外一寺にすぎなかった。太子堂は「15世報上良瑞天保7年霜月建立とあり、当地方には数少ない層塔で昭和57年修復完成した。
 勇猛和尚は願主中興開基で、宝暦5年(1755)大本山増上寺から寺号を、安永6年(1777)芝の増上寺から(霊應大増正)山号を総本山知恩院から(教應大増正)院号を許され「光明山摂取院蓮光寺」と称した。扁額は増上寺大増霊應の書である。
 勇猛和尚は天侯不順の年、吾妻山に登り1字1石の経塚を築き祈祷して法力を示し「一切経山」「浄土平」地名発祥のもとになったと伝えられる。又、信達霊場を巡遊してその土を集め「土大仏」を作り、更に6尺の青銅大仏を造立し、種々奇特をあらわし、人々はその功徳を尊信し近世の名僧といわれ大本山増上寺の席次に連なり良弘上人と称し帰郷して蓮光寺中興開基となった。
 天明2年(1782)7月28日66歳で還化されている。
 墓碑「開基汯蓮社良広上人不輟勇猛和尚」

 当山の御利益は「火災除け」。境内に「半日地蔵」があり、これを拝めば働き過ぎから起きる「そら手」「腕のいたみ」はとれるという。
 「一切経山」・「一切経目録輪蔵」供養塔・「奉納大乗妙典日本廻国」は貴重な文化財として福島市文化財誌に載せられている。
 福島市笹谷字寺町17番地

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by shingen1948 | 2015-05-31 10:40 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「地域の人々が伝える祈る心」の視点で整理したのは、この辺りでは笹谷の熊野神社境内の「来迎山 称名庵」だ。その影響を感じたのはここだけではなかったが、曖昧な事が多くて整理できなかった。蓮光寺についても、今回の整理で「信達一統志」の「光明山蓮光寺」の項を確かめるまでは、的外れかもしれないと思うところがあったのだ。
 今回の整理で、それが的外れでもなさそうだということが分かったのだが、勘違いがあったことにも気づいた。
a0087378_539711.jpg 例えばこの符号だが、先の散歩の時点では、漠然と無能上人の影響力と結びつけていたような感じがするのだ。しかし、今回の散歩で、これが勇猛和尚と結びつけるべきかもしれないという可能性を感じたのだ。
a0087378_5403816.jpg 「蓮光寺への立ち寄り③~吾妻山地名伝承にかかわって③」で、願主「勇猛和尚」とある名号塔を見つけたことについてふれたが、その隣のこの二つの名号塔も右側の名号塔の字体と符号と左側の字体及び、その左側面の名号と符号から願主「勇猛和尚」と読むべきなのかもしれないように思えている。

 この寺近くの観音堂に建つ名号塔の字体と符号も、これに似ている。
 こちらも同じように「勇猛和尚」の影響力を感じるべきなのかもしれないなと思えてきている。
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by shingen1948 | 2015-05-30 05:41 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)