地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 信仰と文化( 148 )

 今までの散策で宇都宮の信仰とのかかわりを感じたのは、今回の浅川村示現(慈現)太郎神社が初めてだ。しかし、柳田国男ワールドでは、この神の勢力は福島県の大部分を支配していたという見え方なようだ。
 この見え方での資料が「神を助けた話(柳田国男)」で、ここには宇都宮の信仰の福島県の大部分を支配していたことが述べられているということらしい。
 その目次を確認すると、その内容は次のようなことだが、今回はここまでにしておく。
 
 「猿丸太夫・会津の猿丸太夫・日光山の猿丸・宇都宮の小野氏・阿津賀志山・山立由来記・磐次磐三郎・卍字と錫杖・蛇と蜈蚣(むかで)・田原藤太・竜太と竜次・三井寺の釣鐘・蒲生氏の盛衰・猿丸と小野氏・朝日長者」

 散策を柳田国男ワールドとのかかわりで整理したことがあるのは、以下の「鎌倉権五郎影政伝説と片目清水」の話だ。
 〇 撮り溜めた写真から⑦~鎌倉権五郎影政と家臣の墓
 http://kazenoshin.exblog.jp/237092610/
 〇 撮り溜めた写真から⑦~鎌倉権五郎影政伝説と片目清水
 http://kazenoshin.exblog.jp/237094585/
 〇 撮り溜めた写真から⑧~鎌倉権五郎影政と片目清水②
 http://kazenoshin.exblog.jp/237099109/
 〇 撮り溜めた写真から⑨~鎌倉権五郎影政公のその後
 http://kazenoshin.exblog.jp/237096825/

 この時に主資料としたのは「日本の伝説(柳田國男)」の「片目の魚」だが、この話の中に、昨日整理途中でふれた「土湯の太子堂」も紹介されていたのだ。今思えば、この時にこの話にふれて整理しておけばよかったなと思う。

 その話は、戦に出て目を射られた勇士の話、その目の疵を洗った清水の話、山鳥の羽の箭をきらう話の後に、村の住民が神様のおつき合に片目になるという話の例として以下のように紹介される。
a0087378_462768.jpg
「福島県の土湯は、吾妻山の麓にあるよい温泉で、弘法大師が杖を立てそうな所ですが、村には太子堂があって、若き太子様の木像を祀っております。昔この村の狩人が、鹿を追い掛けて沢の奥にはいって行くと、ふいに草むらの間から、負って行け負って行けという声がしましたので、たずねて見るとこのお像でありました。驚いてさっそく背に負うて帰って来ようとして、途中でささげの蔓にからまって倒れ、自分は怪我をせずに、太子様の目を胡麻稈(わら)で突いたということで、今見ても木像の片目から、血が流れたようなあとがあるそうです。そうしてこの村に生れた人は、誰でも少しばかり片目が細いという話がありましたが、この頃はどうなったか私はまだきいていません。(「信達一統誌」福島県信夫郡土湯村)」

 なお、「土湯の太子堂」については、「土湯の太子堂へ行ってみる」として整理しているが、この時点では、この視点は持ち合わせていなかった。
 〇 土湯の太子堂へ行ってみる
 http://kazenoshin.exblog.jp/6153775/
 〇 土湯の太子堂へ行ってみて②は
 http://kazenoshin.exblog.jp/6158585/
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by shingen1948 | 2017-10-08 09:01 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「一つ目小僧その他(柳田国男)」の「目ひとつ五郎考」の中に、この浅川の示現(慈現)太郎神社が天安2年(858)寅3月頃下野国二荒神社に飛んだというということについてふれている箇所がある。

 その「人丸大明神」との項は、神職が目を傷く話で始まる。
 その例として東国に下って病のために一目を損じて都に帰れずに此の地に留まる話があるのだが、ここには次のように土湯の太子堂の話がふれられる。
 「此の話と前に挙げた信夫の土湯の太子堂の太子像の、胡麻の稈で眼を突かれたとふ伝説とは、完全に脈絡を辿(たど)ることができる」
 この確認はよそ道。

 次に神自身が植物で眼を突いた話が続くのだが、その神の名が野州(下野国)に於て特に柿本人丸であったとする。そして、その原因として想像できることは、宇都宮二荒神社の古い祭式の言い伝え以外に一つもないとする。
 ここで、宇都宮二荒神社の祭神の人丸説にふれる。それで、前回、宇都宮二荒神社が小野猿丸と柿本人麻呂にまつわる話も絡んでいることについて整理しておいたのだ。

 更に、ここから人丸社の中で神霊の出現するといった奇瑞は、社の名を示現神社と称し、所謂示現太郎の神話を伝えたもの多いとし、那須郡小木杉の示現神社の例が紹介される。
 ここに浅川の示現(慈現)太郎神社の話がふれられるのだ。
 次のような紹介だ。

 那須郡小木杉の同名の社などは、文治4年に二荒山神社を奉還すと伝へて、しかも公簿の祭神は柿本人麿朝臣、社の名も元は柿本慈眼大明神と唱えて居た。さうして此神の勢力の奥州の地にも及んだことは、恰(あたか)も此人の末なる佐藤一族と同じであった。例へは信夫郡浅川村の自現太郎社の如きは、海道の東、阿武隈川の岸に鎮座して、神此地に誕生なされ後に宇都宮に移し奉るとさへ言って居る。神を助けて神敵を射たといふ小野猿丸大夫が、会津人は会津に生まれたといひ、信夫では信夫の英雄とし、しかも日光でもその神伝を固守したのと、軌道を一にした分立現象であって、独り此二種の口伝は相相関するのみならず、自分などは信州諏訪の甲賀三郎さへ、尚一目神の成長したものと考へて居るのである。

 この後も人丸神の考察は続くが、ここまでにする。

 なお、「此神の勢力の奥州の地にも及んだことは、恰(あたか)も此人の末なる佐藤一族と同じであった」という件には、「『神を助けた話(柳田国男)』には、宇都宮の信仰の福島県の大部分を支配して居たことを述べている」との脚注がついている。
 また、「例へは信夫郡浅川村の自現太郎社の如きは、海道の東、阿武隈川の岸に鎮座して、神此地に誕生なされ後に宇都宮に移し奉るとさへ言って居る」という件には「民族1巻56頁及び其注参照」との脚注がついている。
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by shingen1948 | 2017-10-07 09:16 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 柳田国男が「示現太郎の神話」と称するのは「甲賀三郎」らしいとして、以下が紹介される。
 昔甲賀権守諏胤が子に、甲賀太郎諏敏甲賀二郎諏任甲賀三郎諏方と云う三人の子があった。三郎は信州蓼科獄の人穴に入り数年の間怪しき国を巡り居る間に兄二人して三郎が所領を犯し奪ったが、二郎なほ悪逆あるに由つて太郎は之を避け、所領下野宇都宮へ下り、後に神となって示現太郎大明神と云ふ

 この話を元に勝手な想像をすれば、浅川の示現(慈現)太郎神社が飛んだとするのは、この「示現太郎大明神」だろうか。ならば、数年の間怪しき国を巡り居る最後の地が浅川だったという事になる。

 しかし、そんな単純な話ではなさそうだ。
 宇都宮二荒神社の話には、ここに小野猿丸と柿本人麻呂にまつわる話が絡んでくるようだ。
 小野猿丸が絡む話の出どころは、日光の二荒神社のようだ。
 「栃木県における柿本人麻呂解釈の展開―宇都宮大明神と人丸神社(佐藤智敬)」では、詳しくは柳田国男が「神を助けた話」で詳しく紹介するとして、「神道集」の記述について紹介する。
 「神道集」では、「オンサラマ」という人物が赤城と日光の戦いに関与し日光側に勝利させたという記述だが、これが後世に「小野猿麿(猿丸)」と記載されるようになったとのことだ。
 
 「日光山縁起」での解説概要についてはウィキペディア「猿丸大夫」の「日光山にまつわる伝説」でその概要を確認する。
 小野猿丸(=猿丸大夫)は、弓の名手で小野に住んでいたそうだ。
 日光権現と赤城神が神域について争った時、鹿島明神の勧めで、この小野猿丸(=猿丸大夫)を呼び寄せ、その加勢によって勝利したという。
 これによって、猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったという。
 日光二荒山神社の神職小野氏は、この「猿丸」を祖とすると伝わり、宇都宮明神は、かつて猿丸社とも呼ばれ、奥州に二荒信仰を浸透させたといわれているとのこと。

 浅川の示現(慈現)太郎神社が飛んだとすることとかかわりで気になるのは「奥州に二荒信仰を浸透させた」とあることだが、この小野猿丸在住が陸奥国小野郷=田村郡小野町らしいとの情報も気になる。
 「福島の歴史物語」には、「小野猿丸大夫」のこの気になることについて紹介されていた。
 https://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/201607110000/
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by shingen1948 | 2017-10-06 09:47 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 先に宇都宮を散策した時に、宇都宮二荒山神社にも立ち寄って、「宇都宮城⑤」・「宇都宮城⑥」として整理している。ただ、浅川の示現(慈現)太郎神社がここに飛んだなどという言い伝えがあるなど全く知らなかった。
 〇 宇都宮城⑤
 http://kazenoshin.exblog.jp/8181100/
 〇 宇都宮城⑥
 http://kazenoshin.exblog.jp/8184231/
a0087378_6321294.jpg 浅川の示現(慈現)太郎神社がここに飛んだとするならば、最低限ここも示現(慈現)太郎神社でなければいけないと思ったので確認してみると、それらしいとするものに行き当たる。
 「栃木県における柿本人麻呂解釈の展開―宇都宮大明神と人丸神社(佐藤智敬)」に宇都宮大明神麻呂祭神説とかかわって、ここが示現神社であることの解説があるのを見つけた。

 「この宇都宮の二荒神社は宇都宮市街の中心に鎮座している著名な延喜式内社である。そしておそらくは「示現神社」と柿本人麻呂をつなぐ鍵となる神社である。この神社は日光二荒山神社とともに下野の名社として信仰されてきた。現在この神社は豊城入彦命を祭神としているが、かつてこの社は示現太郎を祀るとされていた時期がある」

 その時期とは、南北朝時代とのことだ。
 ここでは、その時期に作られた「神道集」の記述をもとに解説される。
 諏訪大社の縁起である「諏訪縁起事」には「甲賀の太郎殿は自本下野国宇津の宮に御在は示現太郎大明神と顕給御父の甲賀の権守は赤山大明神顕給御母は日光権現顕給、皆御本地弥陀薬師普賢千手地蔵等なり」との記述があるのだそうだ。
 また、「宇都宮大明神神事」で甲賀の三兄弟については微妙な差があるものの、宇都宮が示現太郎大明神を祀るという内容では一致しているとのことだ。

 この論文では、この後、示現神社=祭神人麻呂ではないことを証明するのにいろいろな資料を提示してくどい言い回しになっている。言いたいのは、栃木には他にも示現神社はあるが、その祭神はすべて示現太郎大明神であるということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-10-05 09:30 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 言い伝えが言う大岩を抜き切り黒沼と赤沼の水を大熊川に流れ落とすのは、実際の風景では「浅川」だろう。
 先の整理でふれたように、その「浅川」が阿武隈川に流れ落ちるあたりは「阿武隈峡」として福島県指定の名勝天然記念物に指定されているようだ。
a0087378_7424867.jpg これは、震災前の散策で「渡利地区の阿武隈川沿いの風景⑧」で、村上薬師堂からその「阿武隈峡」を覗き込んで撮った蓬莱岩あたりの風景だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9160407/

 「浅川」が阿武隈川に流れ落ちる地点は、この上流の鮎滝観音と鮎滝の渡跡の間辺りだ。阿武隈峡散歩道を南から入ると、この「浅川」を渡る橋から示現(慈現)太郎神社は見えるとのことだ。

 慈現大明神の伝承では、神が鎮座していたのは滝下の大石にあいた1間四方の岩穴だとのことだ。その滝は高さ1丈余の滝とのことだ。
 そこは、晴天であれば五色の御光がさし、山間の谷間に繁る神杉は昼なお暗くごうごうたる滝の音は耳を聾して、行者参篭の霊場の名に恥じぬ境地になると伝えられているとのことだ。(金谷川のむかしと今)
 これらは、阿武隈峡が醸し出す雰囲気とのかかわりだろうと思うのだ。

 気になったのは、その神が天安2年(858)寅3月頃下野国二荒神社に飛んだということだが、今のところ、地元の散策資料ではそのあたりの事情を説明するものを確認できないということだ。
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by shingen1948 | 2017-10-04 09:41 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 浅川黒沼神社と示現(慈現)太郎神社とがかかわる言い伝えをたどってみた。そこから浅川村の起こりのようなものが見えてきた感じになる。
 「福島市史」が紹介する「浅川村」と比べてみる。

 「浅川村の起こりは5軒在家で古浅川村と呼ばれ、沢の深い中沢屋敷・黒沼神社を勧進した宮屋敷・尾形和和泉の中屋敷・黒沼に船橋を架けて通行したという舟橋屋敷(尾形若狭)と古浅川屋敷からなっていたという」

 言い伝えの読み取りだけでは曖昧だったところで解消したところがある。
 まずは、内屋敷=中屋敷らしいということ。
 「内屋敷は昔者神職尾形和泉と云者の屋敷也」が「尾形和泉の中屋敷」と表現される。これが「黒沼神社を勧進した宮屋敷」と別記されている。
 次に、このこととかかわって浅川小学校の創立は黒沼神社を勧進した宮屋敷だったらしいということも分かる。
 「信達二郡村誌」の学校情報では元標の西字木戸前にありとある。
 これとは別に金谷川小学校の情報では、八丁目支校浅川小学校は、明治6年(1873)5月浅川字宮本、黒沼神社神官宅を借り受けて創立しているとの事だ。
 その地は、黒沼神社を勧進した宮屋敷ということになる。

 今まで確認した事を、示現(慈現)太郎神社を視点に整理し直す。

 所在地:浅川字壷根滝
 祭 神:事代主命
 浅川最古の神社と伝える。天安2年(858)寅3月頃下野国二荒神社に飛んだ。
 黒沼大明神、石姫命が黒沼に身を捨て神去りしとき、御供奉4人の夢に慈現大明神の『ここ大岩を抜き切れば、沼中の命のご尊体は現れるであろう』とのお告げがあった。
 その通りに切り開いたら、赤沼・黒沼の水は大熊川に流れ落ちご尊体が現れるとともに、浅川の地は広大肥沃な田地となった。

 細かい事だが、この「お告げ」があったということと事代主命が祭神であることがかかわっているらしい。
 ちょっとマニアックな情報によると、「事代主命」はその名が示す通り、神の託宣を代行する憑坐(よりまし=神霊が憑依する霊能者)を意味し、本来の性格が託宣神と考えられているのだそうだ。
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by shingen1948 | 2017-10-03 09:42 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 現「船橋」付近を黒沼とみてよさそうだとの確認を進める。
 
 「信達二郡村誌」に、尾形若狭の碑が船橋観音堂の前に在ると紹介される。その「若狭は和泉の兄にして本村を開きたるものなり故に本村尾形氏多しといふ」とある。
 その弟とされる和泉については、黒沼神社の享保6年(1721)3月の火災後の還座にかかわって「内屋敷は昔者神職尾形和泉と云者の屋敷也」と紹介されている。

 その「船橋観音堂」が、「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」で紹介される「船橋十一面正観世音」だと思う。その紹介に「正保4年(1647)尾形若狭創建と伝えられています」とある。
 ただ、「松川の文化財」では、この「船橋観音堂」前にある碑は定信法師の石碑だとする。また、情報によっては「船橋観音堂」の創建が正保4年(1647)というのには根拠がないとするものもみる。
 情報に微妙な揺らぎはあるのだが、この「船橋観音堂」が建つあたりを黒沼とみてよさそうだというのは確かなこと。

 この「船橋観音堂」の位置情報を得た「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」には、黒沼神社に奉納された「浅川村見立八景」が紹介される。そして、その風景画を使って浅川村の4か所の名所旧跡が紹介されている。
 ピンボケで部分しか写っていないが、この左手に掲げられているのが、その「浅川村見立八景」の絵図だと思う。
a0087378_76144.jpg この絵図では、ここ黒沼神社は「 黒沼晴嵐(くろぬませいらん)」ということらしい。
 「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」情報からは、絵図の「以後田落雁(いこうだらくがん)」というのが富士浅間神社で、「平石晩鐘(ひらしいばんしょう)」というのが浅川正観音であり、そして、「比丘尼石名月(びくにいしめいげつ)」というのが薬師堂にある比丘尼石ということらしいことが読み取れる。
 この比丘尼石という巨大な花崗岩が二つに割れているので別名「われめの女石」とのことだが、先に整理した松川の眼鏡橋に使われた石材だということらしい。

 この情報から読み取れなかったのが「古川帰漁(ふるかわきりょう)」「大竹森暮雪(おおたけもりぼせつ)」「笠松夜雨(かさまつよさめ)」「台橋夕照(だいばしせきしょう)」という4つの風景だ。
 ただ、「大竹森暮雪(おおたけもりぼせつ)」は、別情報から「大竹森明神」らしいことは分かった。ここには二つの行人壇にまつわる話があり、そこからの石を御神体として水雲神社を祭ったとある。
 そして、この話が「示現(慈現)太郎神社」への道筋に使った「古浅川」集落とつながるようなのだ。というのは、何故か知らないが、この集落の水雲神社にそのご神体が飛んだのだとか。
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by shingen1948 | 2017-10-02 09:01 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 本当はどうでもいいことなのだろうが、干潟になった黒沼・赤沼の実際が気になってしまう。

 地図上に赤沼の地名は見つかる。
 地形的には、この浅川黒沼神社が建つ羽山岳と現在医大の建つ光が丘とされる高まりのの間に、4号国道バイパスに沿って堰が描かれるのだが、その上流付近だ。

 「信達二郡村誌」を確認する。
 「赤沼渠」がこれにあたると思われる。
 「町の西入より起こり(沢水を源とす)東流し赤沼に至り大堰に入る長6町30間巾2尺8寸田4町9段2畝3歩に灌く」とある。
 「大堰に入る」とするその大堰が、神社手前の道沿いに走るこの堰だと思う。
a0087378_830216.jpg 「信達二郡村誌」を確認する。
 「大渠」がこれにあたると思われる。
 中部川端に起こり東流し仏明内に至る長11町23間巾2尺8寸田3町1段9畝11歩に灌く」とある。
境内にはその改修記念碑が建つ。
 ただ、確認はしていないが、現状は国道バイパスを超えた仏明内までつながってはいないような気がする。
 国道バイパスの東側は、改めて「赤沼渠」を源流とした水が旧大堰筋を満たしているのではないのかなと思う。

 地図上に黒沼は見つからない。
 しかし、「信達二郡村誌」には「「黒沼は大なる沼にして舩橋を架し通行せし故 其地を今舩橋屋敷と称す云伝ふ」とある。
 つまり、現「船橋」付近を黒沼とみて、物語をイメージすればよいのかなと思う。
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by shingen1948 | 2017-10-01 08:31 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 浅川にはこんな言い伝えがあるのだそうだ。

 「信夫湖の大蛇は日本武尊によって退治されたが、欽明天皇の時代に、この湖には水熊というものが住み籠って人民を悩ましていた。
 渟仲倉太珠敷命がこの事を聞いて、猿跳という処を切り開いて、湖の水を抜いて干潟にし、大熊川の川筋を攻め上った。そして、水の浅い所に寄せて大水熊を退治したので「浅川」と名付けた」
a0087378_520191.jpg 浅川黒沼神社の由来で、渟仲倉太珠敷命が退治したのは「大熊」で、狛熊も奉納されているようだ。
 伝承では「大水熊」とされるので、微妙な違いがあるようだ。
 しかし、渟仲倉太珠敷命が退治したという大熊も信夫湖に住むとのことなので、この伝承とかかわるのだろうと想像する。

 石姫命にかかわる部分については、パンフレットにある浅川黒沼神社由来では「石姫命は、息子の亡くなられたとの報を聞き、嘆きのあまり黒沼に身を投じられた」とされるだけだ。
 そこを、言い伝えの方は次のように続くようだ。

 「供奉の健・夜・依・米等四人はこれを悲しみ、黒沼・赤沼を巡見したところ、古浅川の慈現明神のお告げに、「彼の地の大岩を切り開けば、黒沼・赤沼の水は大熊川へ流れ込み、たちまち干潟になるであろう」とあったのでその通りにした。
 湖は干潟となり、姫の尊体が現れ、この地は広大肥沃な用地と仮し、ここに人を移して村を作った」

 ネットで紹介される浅川黒沼神社の由来は、この言い伝えも加えたということなのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2017-09-30 05:22 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「松川の今昔」以外に示現(慈現)太郎神社が紹介される地元の散歩資料を見かけない。
 ただ、「浅川黒沼神社」の紹介の中に、この示現(慈現)太郎神社にふれた箇所があるのを見た事がある。

 その「浅川黒沼神社」が鎮座するのは、上蓬莱橋から古浅川の前の通りが、4号国道バイパスをくぐって少し西に進んだ右手辺りだ。その道筋の北側を走るこの道の旧道らしい雰囲気の道筋があるのだが、その道筋に面して神社への階段がある。
a0087378_8584672.jpg この神社、「信達二郡村誌」では「中部木戸前羽山の腰に鎮座す」「石比売命・渟中倉太玉敷命を祭る」と紹介されている。

 この「浅川黒沼神社」は、信夫山の黒沼神社や金沢の黒沼神社と共に、「延喜式神名帳」にある「黒沼神社(陸奥国・信夫郡)」に比定される式内社だとする。
 黒沼神社にかかわる伝承の大筋は、欽明天皇の皇后である石姫命が、皇子である渟倉太命の後を追って陸奥国に下向するが、当地で崩御するという設定だが、ネットで紹介されているのは次のようだ。
(【神社と古事記「福島県の神社」】http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1037860714.html)
 「欽明天皇の皇子・渟仲倉太珠敷命が東国の不穏を鎮めるため、当地へ行幸し、信夫湖に住む大熊を退治したが、疲労困憊し崩御したと噂が流れ、それを聞いた母・石姫は嘆きのあまり黒沼に身を投げた。

 供奉の健夜依米主従の四人は嘆いて黒沼赤沼を巡見。古浅川の自現明神のお告げにより、大岩を切り開き、黒沼赤沼の水を大熊川に抜き、干潟となして石姫を埋めたという。後、欽明天皇の奉聞および地名にちなんで黒沼大明神として祀ったという。」

 その情報の出どころは知らないが、今回の散策とかかわるのは、後半の話だ。
 「大岩を切り開き、黒沼赤沼の水を大熊川に抜き、干潟となして石姫を埋めた」のは、古浅川の自現明神のお告げによっているということだ。
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by shingen1948 | 2017-09-29 09:01 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)