地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 会津への路(自由民権運動)( 9 )

 半沢氏のフィールとワーク地図の「福島の自由民権家」の項に、「鈴木周助顕彰碑」が達つところが、須南宮諏訪神社にプロットされ、以下のメモがある。
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 自由民権家 鈴木周助顕彰碑
 明治30年建立
 文政10年(1827)生まれ
 有志発起人森谷岩松丹治忠吉ら多数


 神社の鳥居左脇に達つこの鈴木翁顕彰碑が、それだろうと思う。
 先に自由民権運動に関わって福島市内を歩いたことを整理したが、その時点では、ここは抜けている。その具体的な顕彰内容も知らない。
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 この神社の奥には、明治32年2月建立「郷社須川南宮諏訪神社営繕及び御昇格願い寄付者碑」が建つが、その発起人の筆頭にも名を連ねるようだ。

 伏拝の坂を登った地点には、鈴木周次郎顕彰碑が建ち、大正2年共楽公園記の碑の建立者が貴族院議員鈴木周三郎とのことからの勝手な推測だが、これらをごく近しい姻戚関係者とみれば、議員職にかかわる地域の名士というアピールでもあるのだろうとも思う。

 奥州街道に沿った散歩ということで、カテゴリとしては「奥州街道」にしておくが、「自由民権運動」の整理ともかかわるので、タグは、奥州街道と自由民権運動の両方を表示しておく。
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by shingen1948 | 2012-02-02 05:38 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)

福島の民権壮士を訪ねる

半沢氏の「福島の自由民権家の事績を探るフィールドワーク」にも 「ふくしまの民権壮士」にも福島市の民権壮士として、名前があがっているが斎藤(阿倍)又郎と佐藤謙吉という運動家だ。
大森城跡を訪ねた時に、斎藤(阿倍)又郎の生家を訪ねてみようと思った。半沢氏の「福島の自由民権家の事績を探るフィールドワーク」によると、そこは、円通寺のむかいにある信夫支所跡が重なるようだった。行ってみると道路拡張工事に伴い整備されたために、そこは確認できなかった。
しかし、この円通寺も縁が合って、住職吉岡氏は、斎藤又郎の姉スミの孫というメモがあった。
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円通寺は大きな寺のようで、その沿革も気になった。大森城の案内板で円通寺が確認できるのは、明暦4年(1658)廃寺となっていた小倉陽林寺子院の円通庵が円通寺として館ノ内地内に再興されるとあることだけだ。再興される年代である明暦4年(1658)を確かめると、芋川氏の時代であることが分る。その頃の大森城の年表は以下のようだ。

慶長6年(1601)に芋川正親が、白河より大森城代として移ってくる。
慶長19年(1614)の大阪冬の陣には時の城代芋川元親が上杉方の武将として参加したりして活躍する。
  寛文4年(1664)に米沢城主上杉綱勝が急死して領地が半減されてしまうのだが、そのために、芋川高親は米沢家老として移っていく。この時、大森地方は幕領となり、大森城は完全に廃城となったということだ。

 小倉陽林寺子院ということなので、小倉陽林寺を確かめる。
すると、宮城県亘理町の大雄寺につながることがわかる。その沿革によると、芋川氏が大森城代なった年の3年後の慶長9(1604)年に亘理藩主となった安房守伊達成実が亘理郡へ移住する。その時に、父、実元の菩提寺である信夫郡小倉村陽林寺を亘理郡に移したのだ。移してから、萬松山雄山寺と号し、その後、藩主の法名を憚って、雄山寺を大雄寺と改める。伊達氏の菩提寺として280年の歴史を刻むが、元文元(1736)年夜に出火して本堂はじめ一切を焼失する。
境内には、成実廟・実元廟・実氏廟など、亘理伊達家13代の領主と夫人の御霊が眠っているという。
なお、実元の墓は、福島信夫郡小倉村の伊達岩菩提寺陽林寺にそのまま残されている。

  多分このことにかかわって、その子院であった円通庵が廃寺になっていたのだろうと想像がつく。
 真偽は確かめていないが、福島の凍み豆腐の由来は、この円通寺の住職が、高野豆腐を紹介したことによるとする記事も見つけた。
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by shingen1948 | 2007-11-16 04:30 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)

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  大町四つ角は、会津五街道の起点である。
  会津にいるころは、何となく主要地が放射状にあるような感覚があった。高田○○里、板下○○里、そして、高田と板下の間が○○里であって、その○の数値が凡そ同じという感覚だ。

  「三方道路」も、この大町四つ角を起点とする。会津三方道路は、次の三つを結ぶ道路だ。
① 若松~米沢~山形
② 若松~大田原~東京
③ 若松~新潟
この道路は、会津の道路に大変革をもたらすと共に、自由民権運動ともかかわってくる。

自由民権運動については、福島の県議会との兼ね合いで、福島を探索しながら確かめてきた。その自由民権運動の高まりと、三島県令が強引に推し進める三方道路の建設が相対峙する。

この道路を造る三島県令の大義は、会津活性化のためだろう。しかし、建設を急いだ背景は、天皇行幸と、大国ロシアとの戦いといわれる。文明には人と物資の流通が不可欠であることと、治安維持には迅速な兵力移動が求められることによると思われる。

これを造るために、三島県令は、会津の住民に以下の義務を課そうとした。その強引な計画のごり押しが、自由民権運動の火がつき、福島事件が起きる原因の一つになる。

会津6郡に住む15歳以上60歳までの男女は貧富の差なく毎月1日ずつ、2年間夫役(無賃労働)に出る。夫役に出られぬ者には、男は1日15銭、女は1日10銭の代夫賃を出す。それも出せない者は家財道具を押収する。

 これが、自由民権運動の高まりと絡み合って、県民との対立が深まっていく。その経過も一応確認しておく。

 明治15年(1882)の2月に三島通庸が、山形県から福島県に着任する。
 3月には、三島県令は、会津6郡の郡長を召集し、会津三方道路の開設を命じている。
県令三島通庸は、着任して以来福島県会には一度も出席しなかった。そこで、議長の河野広中は、三島通庸を弾劾するのだが、県議会も、5月6日に三島通庸が提案した議案(道路工事や地方税議案)を23対22で否決してしまうのだ。
  6月には、三島通庸は、内務卿から予算執行権を与えてもらい、8月には、会津三方道路の工事を強行してしまう。
 そして、その反対者を容赦なく弾圧する。
  福島本部から応援に来ていた自由党員とか、地元の自由党員幹部が泊まっている旅館を、会津帝政党員に襲撃させる。裁判官の人事まで使って弾劾する。そして、代夫賃を出さない農民からは、家財道具や種籾などを押収して競売にかけるという強硬手段を徹底していくのだ。
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by shingen1948 | 2007-10-05 04:03 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)

福島の演説会

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「尾上座」は、長楽寺近くの劇場で、自由民権運動の演説会にもなったところだが、このあたりと想像している所は、今は、民家が建っていてその面影はない。先にも触れたが、この劇場の経営者は、客自軒の経営者である井上康五郎であったとの事である。

 「ふくしまの民権壮士」が、明治15年4月16日夜尾上座で斉藤又郎(自由党員)が演説した様子を4月20日付け「福島自由新聞」が報じたものを紹介している。
 
 本月16日、政談演説会を15丁目尾上座に開きしに、聴衆無慮1200余人、満場立錘の地なく、ために場外に佇立するものその数を知らず。出席員は河野氏をはじめ10にんとす。第9席阿部又郎氏の演説は……警部中止解散せり。阿部氏は官吏を侮辱したるものなりとして告発せられたり」

 更に、演説会の様子を以下のように描写して紹介している。
 ざんぎり髪に紋付羽織姿の民権壮士が激しく藩閥政府や三島県令を攻撃すると、民衆はヒヤヒヤと歓声ををあげる。臨席していた巡査が演説の中止を命じると、聴衆は手をたたき、口笛を鳴らして警官を野次るのだ。当時の記録をみると300人、400人と多数の聴衆があって、時には尾上座の場外にはみ出すほどの盛況であった。

 
  半沢氏のフィールドワーク地図には、「尾上座」での演説会(1882.4~6)のメモがある。
明治15年4. 5 阿部又郎(中止解散)
明治15年4.15 平島松尾・阿部又郎(中止解散)
明治15年5. 3 平島松尾
明治15年5.14 平島松尾・示野潤等(中止解散)
明治15年6.15 平島松尾・徳永与志吉等(中止解散)
明治15年6.16 自由演説会(中止解散)700名参加。参加者武子庄二郎逮捕など
            会   主: 酒井文雄
            演説弁士: 愛沢寧堅・酒井文雄・花香恭二郎・示野潤(高知県) 
                    その他吉田茂準・徳永与士吉
 

 二つの資料で福島地方の中で共通に福島の民権壮士として認めているのは、斉藤又郎と、佐藤謙吉である。その活躍の具他的姿を想像するのは、現地では難しい。
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by shingen1948 | 2007-08-31 06:06 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)
 福島人は、時代の動きには敏感ではないのに、置かれた環境によって、時代の先端にならされてしまう運命にあったようで、今もそんな雰囲気があるのではないかと感じている。

 会津の凄惨な戦争のきっかけともいうべき、列藩同盟のきっかけになった、世良修造の暗殺にしても、積極的に関わりたかったわけではなかった。自由民権運動も似たような状況らしい。積極的に関わりたいわけではない。県庁があるので、環境的に運動が盛んであるのだが、地元に壮士がいるわけでもシンパがいるわけでもない。それでも、自由民権のスタートに係わってしまうということのようだ。
 活発な演説会も、新聞発行なども、福島という地を借りて、他の地区の人々が活躍しているということだ。

 「風雲・ふくしまの民権壮士」によると、自由民権運動の実務的な関わりで重要な役割を果たしたのは、二本松の平島松男とのことだ。
a0087378_5304194.jpg 自由党福島部の結成、福島自由新聞の発刊、本部無名館の設置など実務的な者に係わっていたとのことである。福島事件では河野とともに最高の責任を負わされて、仙台集治監に6年入獄したという。福島の自由党本部無名館に常駐し、県下の自由党員を指導していたという。無名館には、他県人の花香恭次郎、佐藤清等論客がいて、専従の形で政断演説会で熱弁をふるっていたという。
 この自由党本部無名館は、半沢氏のフィールドワーク地図によれば、現在の水道局辺りだろうと推定できる。

 福島自由新聞の記者として活躍した沢田清之助も二本松出身とのことだ。彼は、7歳の時、戊辰戦争で父を失い、生活の辛酸をなめたことが、薩長藩閥を憎み、その手先である三島県令に抵抗したという動機を推定している。彼も、新聞の編集、平島の党務の実務手伝い、尾上座で弁士に立つ活躍だったという。
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 この福島自由新聞の印刷所は、半沢氏の地図によれば、現在の第一生命ビルのあたりだという。ここは、福島初の印刷所であり、「福島自由新聞」の印刷に協力したのは竹内専蔵という地元の印刷屋だ。彼は、運動に関わりの少ない福島人の中で、写真家の田村鉄三、客自軒の主人で、尾上座の主人である井上康五郎とともに、自由党に味方したとして、警察に捕らえられ会津に護送されている中の一人である。
 ただ、田村鉄三は、福島人とはいっても、出身は三春である。三春藩士田村喜平の三男として安政6年に生まれている。その後上京して写真業を学んだ。福島で写真業を開業したのは、明治12~13年に姉が稲荷神社神官丹治経雄に嫁いだのを縁にしたとのことである。
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by shingen1948 | 2007-08-30 05:34 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)
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 昨日、浅草宇一郎戸の関係で、自由民権運動家の井上康五郎を浅草屋である現明治病院にプロットした。しかし、話はもっと単純で、井上康五郎は、紅葉館の主人であり、現紅葉ガレージにプロットすべきだったようだ。

 井上康五郎の経歴について、「風雲・ふくしまの民権壮士」では、以下のように紹介している。


 
 井上嘉兵衛の長男で当時28歳。彼の住んだ北町58番地は福島の遊里街で、彼の義父浅草宇一郎は、十手を預かる仁侠人で有名な遊郭兼料理屋の主だった。明治15年の秋、福島事件が起こると無名館に出入りしていたため、田村鉄三郎と井上康五郎は三春の僧侶岡大救らと福島警察署に逮捕され、厳しい取り調べを受けて若松送りとなった。
a0087378_605936.jpg(※ 福島警察署は、元エンドーチェーン跡地の所にあったようだ)

 いくつかの資料を読んでいくと、井上嘉兵衛というのは、「客自軒」の主人であることがわかる。そして、井上喜兵衛の妻であるかねが浅草宇一郎の娘ということだが、養女であったらしい。この夫婦とも、宇一郎は養子縁組をしている。井上康五郎は、その夫婦の長男であるとのことだが、これも養子であるらしい。彼は、「金沢屋」の主人であった斎藤浅之助の妹であるシウと恋仲になるようだ。
 金沢屋では、仁侠人でしかも世良修造の殺害にかかわった浅草宇一郎とのかかわりから、結婚には反対だったらしい。

 つまり、康五郎は、客自軒の若旦那であり、よく自由民権の演説会場として使われていた「尾上座」の小屋も経営していたことになる。

 だから、田村鉄三郎という写真家は、確かに無名館に出入りしていたことが逮捕の理由だろが、康五郎が逮捕されたのは、自由民権シンパとして、料理屋を提供し、演説会場を都合してやったと考えた方が自然であると思う。

 専門的には、資料の確定などが必要なのだろうが、状況だけでそう想像できるのが素人のよさだ。また、生身の人間として活躍する人々やその子孫の方々と直接接していれば、個人の人格の尊厳を考慮し、安易に踏み込めないこともあるだろう。知っているための躊躇である。
 しかし、私にとっては、歴史上の人物としての感覚に近い。

※ 投稿時点で客自軒と無名館の名称混乱があり、修正する。
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by shingen1948 | 2007-08-29 06:15 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)
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  日曜日に福島市内を散策した時、世良修三の墓は囲む柵の鍵は開けられていた。誰かがきちんと管理している。
先に、世良を暗殺したことを浅草屋宇一郎は後悔し、世良の位牌を大切にしていたということについて考えた。その時は、河野広中を中心とした自由民権運動の人々との付き合いの影響と見ていた。
  しかし、風雲・ふくしまの民権壮士を読んで、修正したほうがいいと思った。
もちろん、世良の使命を理解できなかったことへの後悔という説はとらないのは変わりない。

  修正したほうがいいかもしれないと思ったのは、次の事実が書かれている部分だ。
  民権壮士というほどの派手な人物ではないが、福島では、井上康五郎も若松に護送されている。彼の釈放に関して、浅草宇一郎の名前が登場している。
  井上康五郎が、16年1月に若松で釈放になることになった時、福島署は、検事に宛てて釈放反対の申し入れをしたのだが、翌日には、至急免訴の執行相成度と反対の申し入れをしたという。その警察が至急免訴の願いをすることになった背景が、康五郎の義父浅草宇一郎の嘆願書によるということのようなのだ。
  その嘆願書の中に、自由党などに決して加入いたさざるよう堅く教訓を加へとある。自由民権運動を必ずしも肯定していないことが分かる。しかも、 高橋氏は、十手持ちの侠客による「もらい下げ」の見解を示している。

  フィールドワーク地図の半沢光夫氏も彼を「旅籠と十手持ち」の二つの仕事と紹介していたのだが、そこを充分読みこなしていなかった。

  三島県令は、藩閥政府から自由党弾圧につかわされた。その三島県令は、管理しやすいように、警察署長の大部分を忠誠心の熱い薩摩県人で固めていた。そして、自由民権弾圧が始まるのだが、十手持ちは、その警察のための仕事である。
  浅草宇一郎は、藩閥政府による職を得ていたのだ。そして、世良は、その藩閥政府をつくる仕事をしていた。その世良を暗殺する仕事をしてしまっていた自分との自己矛盾を感じたと考えるのが自然だ。だから、世良の位牌を手厚く扱うことになったのだ。
  自由民権の影響を受けたのは、子どもたちで、それに手を焼いていたらしいことが想像できる。
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半沢氏は、自由民権運動のフィールドワーク地図に、井上康五郎をプロットしていなかった。浅草宇一郎と世良修三の関係について半沢氏は詳しく記載しているのに、遊郭主人の井上康五郎と浅草宇一郎とのかかわりを見落としたのだろうか。
逆に、「風雲・ふくしまの民権壮士」では、浅草宇一郎と世良修三とのかかわりについては言及していない。

  二つの資料を照らし合わせることで、想像が少し深まったと自己満足する。そして、とりあえず、半沢氏の「自由民権フィールドワーク」のページの現在の明治病院に井上康五郎をプロットする。遊郭は浅草屋であろうとの推定だ。
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by shingen1948 | 2007-08-28 04:52 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)
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 民権壮士の斉藤又郎の墓がここにあるとの事だったので、昨日の散歩は、本法寺からスタートした。この寺、先に記事にしたのは、飯坂古道のスタート地点としてだった。
  今回は、墓を確かめる興味もあって、裏にも回ってみたが、お墓には行けそうにもなかったのであきらめた。裏の細道を南に進む。奥州街道で、民権壮士とのかかわりで旅籠の位置を確かる。そのまま進んだら稲荷公園の裏に着いた。世良修三の墓の鍵はあけられていた。その後、自由民権新聞発行所跡、無名館跡を地図と照らして確かめて、県庁まで進んで散歩を終了した。

さて、福島では、三島通庸が鬼県令として有名だが、福島では全国的に見て自由民権運動が盛んであったとこととの対比であるようだ。「風雲・ふくしま民権壮士」によると、抑圧があって、自由民権運動が盛り上がったというよりは、全国に先駆けた自由民権運動があって、藩閥政府は、それを抑圧しようとしたのが、対立の始まりのようだ。
選挙の実施や県会の開催も全国での動きよりも早かったようだ。
福島では、明治6年には、常光寺を仮県庁にし、明治10年には模擬県会が行なわれている。そして、明治11年(1878)には、県会が開かれている。全国に先駆けて開催された最初の県会は、長井山「西蓮寺」で開かれたらしい。
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長井山「西蓮寺」は、慶長19年(1614)創建で、浄土真宗(一向宗)の寺である。
奥州街道本町の米沢街道口から北に入って直ぐ右手の寺である。昭和30年に防災道路のため、強制疎開され、墓地の半分は、岩谷に移転し、戊辰の役で戦死した官軍の筑藩西島新蔵の墓も岩谷墓地に移転したという。昔はこの辺りは、寺が並んでいたところであるようだ。

半沢氏のフィールドワーク地図には、「西蓮寺と自由民権運動」として、以下のメモがある。
福島県は全国各県より半年も早く「県民会規則」を公布、これをもとに明治11年6月1日ここ西蓮寺を会場にして県会を開会。(全国各県の最初の県会開会は翌12年の6月であった。福島県は1年も早くさきがけて開かれた。) 三新法、府県会規則による第一回県会も西蓮寺で開かれた。

また、この時に話し合われた内容について、半沢氏の「福島の自由民権家の事績を探る」フィールドワークのページに、それと関わる記載でわかる。
伏拝から蓬莱団地に抜ける旧4号国道に矢印をつけ、以下の記載がある。
1878年(明治11年)6月1日全国より1年早く先駆けた県議会での県提出議案第1号「国道線築造ニ付議件」伏拝~杉田間の国道建設案に対して住民負担を軽くするための修正案提出など官民一体で協議(於西蓮寺)

 福島では、昔の風景や町並みが残っていないので、フィールドワークを楽しむのには、資料を元に下調べしないと想像しにくい状況であるのは残念だ。
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by shingen1948 | 2007-08-26 10:54 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)

奥州街道、西裏通り

  福島市は、あまり特色を持つ市でないが、県庁所在地であるというのも一つの特徴だろう。県庁・県議会などをキーワードに、探索を整理してみる。

自由民権運動の探索は、豊田町界隈だろうか。県庁のスタートは、常光寺らしいし、県会のスタートは、西蓮寺らしい。そして、現在の県庁は、福島城跡といったところだろうか。
田町界隈と自由民権運動については、先に探索したことをもとに書いた。今日は、信夫橋から、西裏通りにかけての探索から、常光寺を拾う。
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信夫橋から奥州街道の西裏通りは、寺町通りである。その中に、常光寺という大きな寺がある。その寺の前には「福島の城下まちづくり協議会」が案内板を掲げている。
その説明によると、譜代大名板倉家の菩提寺とのことだが、仮県庁であったことや、模擬県会が開かれたことも案内されている。

先に書いた豊田町辺りの自由民権運動の雰囲気を伝える本を探していたのだが、演説会の様子が書いてある本を見つけて読んでいるのだが、その中に、福島の自由民権運動は全国に先駆けた運動だったらしいことが書かれていた。歴春ふくしま文庫64「風雲・ふくしまの民権壮士」髙橋 哲夫著である。

この本によると、明治8年(1875)から10年(1877)にかけて、県内では民権運動が芽生え、石川の石陽社、三春の三師社、喜多方の愛身社が立ち上がっている。これは、全国的には政治結社ができて、国会開設の運動が起き、10年後に国会開設を約束するのは、明治12から13年にかけてである。また、全国的には、明治12年から選挙の実施と県会が開かれることになるのに対して、福島県は、明治11年(1878)に実施されているということらしい。

  常光寺の案内板にあった「明治6年に仮県庁にされ、明治10年に模擬県会が行なわれる」という内容と照らし合わせ、事実をつないで想像すると、模擬県会のギトギトとした熱意が伝わってくる。

自由民権運動が本格的に活発になり、自由党や改進党が結成されるのは、明治14年である。この時にも福島県は速い対応をしているようだ。先の河野広中は、福島県議長の地位を確保している。板垣退助総裁が自由党を結成すると直ぐに、無名館という自由党の福島部が創設されると、河野広中らは、そこに常駐しているという。

あまり話題にならないが、福島は、戊辰戦争のスタートを切った地であることは先に書いたとおりだが、藩閥政治との戦いのスタートの地でもあるらしいということのようだ。そして、これも会津への路につながっているようだ。

常光寺の案内板説明
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by shingen1948 | 2007-08-25 05:44 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)