地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 奥州街道( 53 )

奥州街道浜田町付近④

 この浜田町付近を「信達ニ郡村誌」で確認すると、地図上の地域名と違っていて、読み取りにくい。
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 それで、「むら」の施設にかかわる記述と照らし合わせて、その小字名を確かめ、その近隣の小字名を「福島の小字」の腰浜村と照らし合わせて推定していく。
 社の項を確認すると、稲荷神社が「東宿」、明神神社が「西宿」。
 寺の項を確認すると、龍鳳寺が「上宿」、鼻取地蔵堂が「五老内」。
 「福島の小字」の腰浜村の項で、この前後関係の小字名を入れてみた。多少のずれはあるかもしれないが、何となく読み取れそうな事が出てくる。

 まず、「中部五反田村道十字又の側に元標を建てる」とするおおよその位置が確認できる。
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 それに、龍鳳寺に学校が置かれたということ、明神神社が邨社であることなどを合わせると、「むら」の重要な施設は奥州街道の東側に並んでいる事が確認できる。これが、西は曾根田から北は五十辺、小山荒井までの腰浜村の広い範囲の中心をなしている事が想像できる。
 「ふくしまの歴史」では、これ等の範囲の「○宿」とあることを、奥州街道の宿駅と部分的に杉妻城の役割を果たしていた名残ではないかと推定しているようだ。これが、福島城下の整備に伴って改変していったとみるらしい。

 次に気になるのが、半沢氏のフィールドワーク地図に「↑腰浜崖」という記載と、「古松川」、「沼之内」などの地名とのかかわりだ。何となく五十辺や小山荒井との間に湿地帯の存在がイメージされることだ。松川の南流が根拠のない事であるなら、松川と阿武隈川の合流氾濫に関わっての湿地ということだろうか。
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by shingen1948 | 2012-03-02 05:20 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)

奥州街道浜田町付近③

 「信達ニ郡村誌」には、「本尊を鼻取り地蔵と称す。慈覚大師の作と言伝ふ」とし、この地蔵堂が、腰浜村の元標から西へ2町40間の位置で、五郎内に在ることを記す。
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 その境内の広さも示すが、建物脇には確かに石塔群が並んでいる。
 案内板にこの地蔵堂の別当とある龍鳳寺、先に整理した仲間町の馬頭観音堂共に、腰浜村の寺の項に記されている。
 「ふくしま散歩」には、右脇の五郎内天満宮の御神体が、青銅の馬乗り天神で、五郎内町振興会が保存することが紹介される。
 更に、この堂内に、仏おろしに用いられた「おしらさま」も祀られている事も紹介される。
 「おしらさま」については、何となく養蚕とのかかわりという程度しか知らないので、その原形らしき形を確認する。

 おしらさまは、普段は厳重な箱の中か神棚の祠に収められているとか。
 年に一度、小正月の1月15日に、大人から子どもまでの女性が集まって「おしらさま」の顔に白粉を塗り、新しい布を被せる。これを「おせんだく」と言うらしい。この「おせんだく」は主に女児の役目とか。
 毎年新しい布が被せられるので、年月を経たおしらさまは、何重にも布を重ね着しているという。
 「おしらさま」を手にした巫女役の長老が、一年の吉凶や失くし物のありかを占う。

 冬の寒い時期に囲炉裏を囲み、雑煮や鍋などをつつきながら行われるこの小正月の行事は、「おしら遊び」と俗称され、当時の女子どもたちの年に一度の最大の楽しみだったという。
 その伝説は、名馬と姫が主役で、蚕がキーワードとなるとか。
 「おしらさま」は、「山の神」あるいは「田の神」に対して「家の神」である。また人と馬の恋慕譚や蚕の起源から「女の神」ともされるとも。

 「信達ニ郡村誌」里標には、中部五反田村道十字又の側に元標を建てることを記す。むらの施設にかかわる事項と腰浜村小字を照らし合わせてながめると、「むら」としての中心的な役割を担う道筋は、この街道筋の東側に存在するように感じられる。
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by shingen1948 | 2012-03-01 05:47 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)

奥州街道浜田町付近②

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 現在の情景としては、市街地の一区画でしかない。しかし、その原風景としては、福島城下から仙台方面の大木戸を過ぎたこの辺りの街道筋は田園風景が広がり、その左手にこの観音堂があったということだろうか。その頃、その手前の五老内地内の長者伝説が語られていたものかどうかは分からない。

 この観音堂脇に案内板が建ち、別当寺という腰浜町の寺と町内会が「鼻取地蔵」の伝説を紹介する。
 鼻取地蔵
 むかしむかし、ある農夫がひとり、汗水を流し、田んぼを耕していたところ、どこからともなく男の子がやってきて、馬の鼻綱を引きながら農夫の手伝いをしてくれた。その甲斐あって仕事が一段落。農夫は男の子にお礼を言おうと辺りを見回してみたが、どこにも男の子の姿が見えない。「あれ、おかしいぞ」と思った農夫は辺りをくまなくさがし回った。しかし、見つけることが出来ないまま、気づけばお地蔵堂にまで来ていた。ふとお地蔵様を見てみると、ずぶ濡れの上に足元は泥だらけ。顔を見るとどことなく先程の男の子に似ているではないか。農夫はこのお地蔵様が男の子になってお手伝いしてくださったのだと悟り、大いに感謝し、その後毎日のように参拝に通ったという。
浜辺村五良内にあったというそのお地蔵様は、その後「鼻取地蔵菩薩」として子どもたちをお守りくださり、苦しみから救ってくださるお地蔵様として皆の信仰を集め、やがて地蔵堂が再建され、貞享2年(1685)龍鳳寺5世超山祖全和尚以来4代に亘って地蔵堂に隠居され、引き続き龍鳳寺の別当として現在に至っています。
(後半略)
 平成21年11月吉日
 腰浜町 龍鳳寺
 五老内町内会
 当時町名は、この辺り、「浜辺村五良内」かな。
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by shingen1948 | 2012-02-29 05:20 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)

奥州街道浜田町付近

 散歩資料を確認すると、奥州街道浜田町付近は、スポッと抜ける。
 福島城下の散歩資料では、旧奥州街道の仙台口の大木戸とされる現マーケット付近までが紹介される。また、この北側の付近は、信夫山とのかかわだったり、瀬上宿とのかかわりだったりしながら紹介される。

 確かにこの付近、これといったものは無さそう。ただ、個人的には懐かしい。
 現マーケット付近は、元明治末年からの青果市場だったはずで、昭和47年に矢野目に移転したという状況。
 学校群あたりは、福大学芸学部(教育学部)。その向かいには、その学生を見込んだ飲食店等々が並んでいたその名残りの風景。その北側と東側には、その学生を見込んだ下宿屋、アパートが並んでいた。そんな風景を思う。a0087378_571621.jpg
 北五郎内遺跡で税務署とされた地点には、自分の記憶では済生会病院が建っていたはず。これが、最近移転して、競馬場の駐車場になっている。

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 その福島競馬場も、昨年は開かれなかったはず。これが、地震被害なのか、原発被害なのかは分からない。
 
 そして、この道路にチンチン電車が走っていた。その駅は、市場前、福大前、桜木町?だったかかな。
 そこに、今回は西に信夫郡家の正倉院跡を、学校群の東に腰浜廃寺をイメージしたということ。

a0087378_592462.jpg その間の鼻取り地蔵尊と天満宮が鎮座するのにあれっと気づいたのは、最近だ。
 「ふくしま散歩」にこの伝説が、紹介される。伝説の類は、その整理を避けてきたところではあるが、そちらも整理してみるか。
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by shingen1948 | 2012-02-28 05:23 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 まずは、杉妻村道路元標。
a0087378_510572.jpg 案内柱には、旧杉妻村役場跡とある。

 ということは、ここが旧杉妻村役場ということのようだ。


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 ここを中途に知っていたので、ここから濁り川を挟んだ北側の旧杉妻支所があった所が、旧役場だとの思い込みがあった。


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 こちらが、共楽公園の几号水準点が彫られている拝石に上る階段脇の自然石とのこと。几号水準点は、今まで自分で見つけられたことはない。街道筋の概要を確認するのにお世話になっている「街道web」に紹介されている情報の確認。


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 これが「几号水準点」らしい。「街道web」では、この「几号水準点」について、以下のように解説する。
 「明治8年(1875)、政府は内務省に命じて東京~塩釜間の測量を実施した。
測量と標識設置は、イギリスから招いたマクヴィン技師の指導で行われたためイギリス式となった。
すなわち、旧奥州街道に面した所にある既存の鳥居、石碑、石灯篭など不動の構造物に「不」に似た記号を刻み、この横棒の位置を標高としたもの。」

 散歩を楽しむ者にとっては、几号水準点が残ることは、奥州街道時代のままであることの証とのことが、大切な情報でもある。
 埋め戻した跡がある。これがしきたりなのかどうかは分からないが、自分もその通りに埋め戻しておく。
 出雲大神宮にも、この几号水準点があったらしいが、今回、こちらは確認しなかった。
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 几号があるのは右側の常夜灯の台座の下から二番目、道路側の面とのことだ。それなら、確認したこの水準点の右手に写り込む常夜灯ということらしい。
 ここは、旧国道四号拡幅工事があったはずだが、こちら側は奥州街道時代のままということか。
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by shingen1948 | 2012-02-06 05:20 | ◎ 奥州街道 | Comments(2)
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 拝み石のある山が羽山とのことだ。それなら、須南宮諏訪神社は、その羽山の際に鎮座する神社ということになる。
 半沢氏のフィールドワーク地図のメモに、「諏訪神社 須南一の宮として幕末まで栄えた。51社の総社」とある。
 須南宮というのは心地よい言葉の響きを感じるが、これは須川(現荒川に近い)の南という意。半沢氏のメモも加えると、その「一の宮」で、51社の総社ということだ。
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 階段を登ると、西方に本殿を配して参拝するように配置される。

 ここに社務所は見当たらない。
 実は、昨日さいで地蔵の旧地を整理したが、その中の粟島神社が鎮座するところが、須南宮諏訪神社社務所らしい。近視眼的には、神社近くでないことや複数の神社の社務所ということに違和感があったが、51社の総社であるということなら、これも合点がいく。
 また、黒岩春日神社というと、別神社のイメージだが、諏訪山際の神社であることと諏訪山と諏訪神社の言い伝えを合わせてみれば、自然なことと見られなくもないとも思う。
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 羽山を意識すれば、境内の南側が気になるが、こちらにも、祠が配される。
 崩れているのは、今回の震災の被害だろうか。


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 錦の目明神
 大蔵寺村(現黒岩)と伏拝の境に鎮座していたが、諏訪神社の由緒に関係があるので現在地に遷座した。
 諏訪神社の由緒とのかかわりは解説されないが、「大蔵寺村(現黒岩)と伏拝の境に鎮座」という位置関係から、伏拝地名伝説にかかわる半沢氏のメモ「諏訪神社(西方)を諏訪山から」というその諏訪山とのかかわりを勝手に想像する。
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 「修験者供養碑」
 森永乳業跡地にあったものをここに移すとある。
 森永乳業西方なら、「息栖(いきす)神社(住吉神社)古墳・大カヤ文化8年(1811)の大火の焼け跡が残る」とある半沢氏のメモとのかかわりが気になる。また、羽山際でもある。
 古い地図を見ると、虚空蔵様参道付近にも森永乳業にかかわる所があったようだ。こちらかもしれないとも思うが、地元の方にしか分からないことか。
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by shingen1948 | 2012-02-01 05:25 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 奥州街道清水宿の散歩のきっかけは、共楽公園までの散歩だった。共楽公園までの散歩のつもりが、道案内に誘われて、清水町仲興寺まで散歩した。その清水町仲興寺までの道筋の石那坂からの道筋と交差する地点から仲興寺までは、既に清水町宿の一部になっていたということだ。
 伏し拝みの地名と時期的に「気を感じて伏し拝みたい」という季節感の中で、金沢黒沼神社を車で訪ねたが、その時に、清水宿の残りの部分を通る。
 中途半端になっているという気分と、そこを通ったという事との偶然の重なりの中で、歩いてみたくなったという事だった。
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 そもそも、その共楽公園まで足を運んだのは、さいで地蔵様との出会いだった。さいで地蔵様は、羽山石塔群とされる中の左手にいらっしゃった。この時に気になったのは、お舟がはっきりしないことだった。
 自分が訪ねた伏拝以外のさいで地蔵様は、どなたもお舟に乗っていらっしゃるのだが、ここだけが、そのお舟がはっきりしなかったのだ。
 伏拝舟繋ぎ石を訪ねたのも、ひょっとして、これが伏拝のさいで地蔵様の忘れものかなと思ったからだが、そうでもなさそうだった。

 このさいで地蔵様の事情にかかわるヒントを見つけたのは、清水町宿の整理のために見た資料の中だった。このさいで地蔵様の旧地は杉妻診療所という記述だ。そこから一度近くの民地に異動になるようなのだが、その時の事情にかかわっての記述だ。それなら、移動にともなってこのお舟の部分が分かりにくくなったという推測ができる。
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 そのさいで地蔵様の旧地である杉妻診療所を確認した。多分、ここだと思う。
 ここから、一度、道路近くの民地に移動されて、それから、伏拝に移動されたという経緯のようだ。したがって、伏拝のさいで地蔵様は、元々は杉妻のさいで地蔵様だったということのようだ。

 現在この杉妻診療所はない。この無いものにたどり着いたという散歩の喜びもある。しかし、それよりは、移動のたびに、仏像としての地蔵様から、だんだん魂が抜けていき文化財になっていく経緯があるはずだ。旧地を訪ねることは、仏像としての地蔵様を想像しやすいということの思いの方が強い。
 たどり着くヒントだが、これは杉妻小学校前のマラソンコースの説明図だった。ここに、杉妻診療所の位置が示されていた。
 ここに来る途中、「粟島大明神」をみつけた。案内柱が建つ。
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 「粟島大明神」
 この小祠は、粟島大明神と称して医薬を授けた御神徳があって、病み患う人々の信仰する神社であります。安政3年(1856)6月勧進し、昭和29年社屋を黒岩、伏拝200余の信心古方により再建した。尚、酒造の守護神でもある。
 さいで地蔵様旧地と同じ道筋だ。昔の地域の方々の病み患うことにかかわる信仰心というようなものにふれたような気分だ。

 この旧地を訪ねたことは、目的とするものよりも寄り道、道草、わき道に目を向けることの積み重ねで、散歩の基本の実感でもある。最も、この事自体が「寄り道、道草、わき道」でもあるが、……。
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by shingen1948 | 2012-01-31 05:32 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
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 奥州街道清水宿の出雲神社の案内板説明にある吉次伝説について、「ふくしまの歴史」では、吉次は、義経の道案内人をした「金売り吉次」の話として伝わるとある。
 その解説では、古金山・山発田・吉次森・長者屋敷・両日森(宝を隠した場所)など、黄金伝説とかかわりそうな地名を紹介する。

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 ここで、紹介される吉次の石宮は、新幹線北口上であり、これが、小林氏が石那坂の戦いとのかかわりで描く石那坂付近であり、奥大道とのかかわりでも、この吉次伝説がつながる。

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 東北本線上り線は、この山から東に抜けて谷を橋で共楽公園のある丘陵縁側に渡り、鉄道マニアの間では有名な通称石那坂トンネルの方向に回り込む。東北本線上り線下り線は、新幹線の西側を通る。その道筋の多様さの風景は、この峠越えも難所の一つであろうとの想像を膨らませる。

 この奥大道は、源義経や頼朝、あるいは西行など奥州に下った多くの人々が通った道だと想像すれば、「奥の細道を歩く」散歩人が清水町宿をとばし、こちらの道筋を探ろうとした意図は分かる。ただ、石那坂古戦将士碑からそのまま共楽公園に抜けたようだ。
 それならば、回り込んだ東北本線上り線の通称石那坂トンネルの北側出口上部から丘陵上の道筋に向かったということで、この奥大道とされる道筋も奥州街道清水宿もかすらなかったということになるのが残念なことだろうか。

 自分の散歩とのかかわりでは、「気を感じて伏し拝む」の金沢黒沼神社物語に解説される東山道とこの奥大道をどう折り合いをつけるかということだ。
 このことについては、「ふくしまの歴史」で以下のように調整するのを見つけた。
 今の松川町あたりで奥大道から東に分かれて、金沢・古浅川を通って田沢村を抜け、黒岩村の学壇に上り、上ノ町から黒岩宮ノ下に下り、八郎内・鳥谷野をへて郷野目に入る道筋もありました。

 なお、先に出雲神社の旧地にかかわって、「平石神社が近くの神々を合祠したはずだが、ここに出雲神社が入るかどうかは分からない」とした。半沢氏のフィールドワーク地図に、このことにかかわる以下のメモを見つけた。
大正13年
出雲・熊野・天神・香取・稲荷を合祠
 出雲神社も入っているらしい。その旧地はここかもしれないし、吉次の石宮かもしれないなどと想像は膨らむが、分からない。
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by shingen1948 | 2012-01-30 07:30 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 散歩のために清水町宿についての資料を見たいと思うと、とりあえず行政区の単位を頭に置いて探す。この清水町宿は、現在蓬莱地区の西端に位置することになり、その少し前の時代は、杉妻地区の南の端に位置し、更にその前が、田沢地区の西側というイメージだろうか。いずれも、その西側が境界線となる。
 確かに、地形的に南側から張り出した舌状に張り出した丘陵によって遮断される。現在は、国道4号線バイパスによって、更に西側との交流は見えにくい。

 それでも、「奥州街道清水宿略図」には、2本の石那坂へのつながりが表記されている。
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 石那坂から坂道を登ってくると、奥州街道と交わる付近の左側に熊野神社が建つ。
 その熊野神社から眺めると、国道4号線バイパスに沿って、西裏通りに相当する道筋が走る。その道筋から国道4号線バイパスを跨ぎ越し石那坂へ抜ける道筋は橋梁によっても確保されていることが分かる。


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 一つは、石那坂へのつながりの深さが見える風景に見える。もう一つは、この国道4号線バイパスの建設では、地元民の意識との共存を考えたことを表す風景とも見える。
 それは、今回の震災で感じた、国の東京で考え、東京の価値観の中で思考を整理した対策を地元に伝えるという姿勢との対比だ。
 この道筋は、地元の方々の生活路というイメージだ。国道4号線バイパスの効率性と地元の生活との調和を図った風景と見えてくる。
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 その石那坂のイメージだが、これが曖昧だ。同じ「石那坂」という言葉でも、石那坂村、石那坂トンネル、石那坂の戦いという時に微妙な違いがある。
 地図上の石那坂は、共楽公園のある丘陵の西側にプロットされ、東北本線石那坂トンネルは、その南西のその丘陵の際にある。

 これらは、明治の時代に、現在は古墳とされる位置が石那坂の戦いの本陣とされたことにかかわるのだろうか。
 先に整理した小林氏は、石那坂の戦いにかかわる石那坂を、東山道が北側へ下る道と想定する。
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by shingen1948 | 2012-01-29 05:38 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 共楽公園への登り口に案内板が建つ案内板には、旧奥州道(陸羽街道)として清水町仲興寺前まで通じると案内する。
 ここは、その共楽公園への道筋で歩いた道筋と重なる。
 その中で、清水町の旅籠仙台屋について、「共楽公園への道筋⑦~根子町人形と仙台屋」としてふれた記事に誤りがある。
 奥州街道清水宿略図と照らし合わせてみると、仙台屋らしいとした位置は、「穀や」あるいは「かみや」さん付近のようなのだ。
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 この写真は、石那坂からの道筋と奥州街道が交わる地点から清水宿を見ている。
 消火栓が見えるが、これが奥州街道清水宿略図にある消井戸と重なると思っている。
 従って、新しい蔵造り付近が、扇屋(問屋)さん付近だと思う。その奥に写るのが、先に仙台屋さんらしいとした「穀や」あるいは「かみや」さん付近だと思う。

 情報の多くが、そのように解説することで、鵜呑みにしてしまった。みんながそういうものだからという言い訳でしかない。
 皆をそういう導いたと思われる権威のありそうな資料がみつかった。
 「奥州街道『歴史探訪全宿場ガイド』<無明舎出版遍>」だ。
 「(江戸側から向かって)左手にかつての仙台屋という旅籠があった」として、奥州街道清水宿略図で、「穀や」あるいは「かみや」とする付近の土壁の建物を写真で紹介し、今もその面影が残ると結んでいる。

 権威に立ちむかつもりはなく、一応、こちらを誤りとしておくのは、奥州街道清水宿略図とのかかわりとしておく。現在の地図でも仙台屋さんはプロットされていること、その位置は、奥州街道清水宿略図に示される位置と重なることも、その理由に挙げておく。更に、道筋から、ちょっと覗かせていただいたら個人名と共に、仙台屋の郵便受けがあったことで、理由づけを補強しておく。
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 「根っ子町人形」にかかわる「旅籠仙台屋」さんは、こちらだと思う。個人宅のようだが、地図上にも郵便受けにも仙台屋を公表していることで、写真を掲げさせていただいた。
 なお、明治9年の明治天皇がこの旅籠で小休止なされて、野立ての場所に移動された情報や、ここに根子町土人形の型が多数現存する主旨の情報も見たが、確認はしていない。
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by shingen1948 | 2012-01-28 06:00 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)