2009年 08月 07日
桑折一里塚
長岡あたりを確かめ始めたきっかけは、「信達大一揆」の義民齋藤彦内の確認だった。
最初に確かめたのが、義民齋藤彦内の墓のある福源寺を訪ねたことだ。それを中心に散歩を計画すれば、長岡辺りを確かめら、奥州街道を産ケ沢川あたりまで進むことになるはずだ。ここに寛延百姓一揆の首謀者三人がその責を負って処刑され、三義民の顕彰碑があるということだ。
ところが、福源寺を訪ねて整理したのが6月初めで、それから先に進んでいない。
今回は、瀬上宿から長岡辺りを確かめた後、奥州街道を産ケ沢川あたりまで進むことをめざしてみた。
実際はスムーズに進んだのだが、その途中で一里塚の標識をみつけたので、まずそれを整理しておく。

一里塚の案内は桑折町となっていた。先に越した川が町堺だったようだ。
家に戻って確認すると、その越した川が潤野川という川で、ここを少し超えたあたりから桑折町になっている。地名が、境・堀切端というのが見える。この辺りの窯跡が気になっている所だが、奥州街道のこの境あたりの西側が、川沿いに地名が瀬戸になっているのが興味をそそる。
赤坂を越した辺りに一里壇の地名がみえている。この一里塚とかかわっているのだろうか。

この社があるところが一里塚の痕跡なのだろう。

向かい側にはその痕跡はみえないが、両側に塚があったことをイメージする。
奥州街道沿いで、一里塚の痕跡を見つけたのは、信夫橋あたり。そのことについて、「信夫橋6」で整理している。そこにあった一塚跡の案内は、ここでも生きる。
この信夫橋付近の一里塚の次を地図で探すと、瀬上宿に入る手前に「一里塚」の地名が見える。このあたりだろうか。そして、その次の一里塚が、この桑折の一里塚ということなのだろう。
産ケ沢の川が見えてきた。
最初に確かめたのが、義民齋藤彦内の墓のある福源寺を訪ねたことだ。それを中心に散歩を計画すれば、長岡辺りを確かめら、奥州街道を産ケ沢川あたりまで進むことになるはずだ。ここに寛延百姓一揆の首謀者三人がその責を負って処刑され、三義民の顕彰碑があるということだ。
ところが、福源寺を訪ねて整理したのが6月初めで、それから先に進んでいない。
今回は、瀬上宿から長岡辺りを確かめた後、奥州街道を産ケ沢川あたりまで進むことをめざしてみた。
実際はスムーズに進んだのだが、その途中で一里塚の標識をみつけたので、まずそれを整理しておく。

一里塚の案内は桑折町となっていた。先に越した川が町堺だったようだ。
家に戻って確認すると、その越した川が潤野川という川で、ここを少し超えたあたりから桑折町になっている。地名が、境・堀切端というのが見える。この辺りの窯跡が気になっている所だが、奥州街道のこの境あたりの西側が、川沿いに地名が瀬戸になっているのが興味をそそる。
赤坂を越した辺りに一里壇の地名がみえている。この一里塚とかかわっているのだろうか。

この社があるところが一里塚の痕跡なのだろう。

向かい側にはその痕跡はみえないが、両側に塚があったことをイメージする。
奥州街道沿いで、一里塚の痕跡を見つけたのは、信夫橋あたり。そのことについて、「信夫橋6」で整理している。そこにあった一塚跡の案内は、ここでも生きる。
一塚跡(旧奥州街道)
慶長8年(1603)徳川家康が江戸日本橋を起点とし、一里(約4㎞)ごとに道の両側に塚を築き街道の距離を示した。
この信夫橋付近の一里塚の次を地図で探すと、瀬上宿に入る手前に「一里塚」の地名が見える。このあたりだろうか。そして、その次の一里塚が、この桑折の一里塚ということなのだろう。
産ケ沢の川が見えてきた。
# by shingen1948 | 2009-08-07 06:03 | ◎ 奥州街道 | Trackback | Comments(0)
















