桑折一里塚

 長岡あたりを確かめ始めたきっかけは、「信達大一揆」の義民齋藤彦内の確認だった。
 最初に確かめたのが、義民齋藤彦内の墓のある福源寺を訪ねたことだ。それを中心に散歩を計画すれば、長岡辺りを確かめら、奥州街道を産ケ沢川あたりまで進むことになるはずだ。ここに寛延百姓一揆の首謀者三人がその責を負って処刑され、三義民の顕彰碑があるということだ。

 ところが、福源寺を訪ねて整理したのが6月初めで、それから先に進んでいない。
 今回は、瀬上宿から長岡辺りを確かめた後、奥州街道を産ケ沢川あたりまで進むことをめざしてみた。
 実際はスムーズに進んだのだが、その途中で一里塚の標識をみつけたので、まずそれを整理しておく。

 一里塚の案内は桑折町となっていた。先に越した川が町堺だったようだ。
 家に戻って確認すると、その越した川が潤野川という川で、ここを少し超えたあたりから桑折町になっている。地名が、境・堀切端というのが見える。この辺りの窯跡が気になっている所だが、奥州街道のこの境あたりの西側が、川沿いに地名が瀬戸になっているのが興味をそそる。



 赤坂を越した辺りに一里壇の地名がみえている。この一里塚とかかわっているのだろうか。

 この社があるところが一里塚の痕跡なのだろう。



 向かい側にはその痕跡はみえないが、両側に塚があったことをイメージする。

 奥州街道沿いで、一里塚の痕跡を見つけたのは、信夫橋あたり。そのことについて、「信夫橋6」で整理している。そこにあった一塚跡の案内は、ここでも生きる。

 一塚跡(旧奥州街道)
 慶長8年(1603)徳川家康が江戸日本橋を起点とし、一里(約4㎞)ごとに道の両側に塚を築き街道の距離を示した。


 この信夫橋付近の一里塚の次を地図で探すと、瀬上宿に入る手前に「一里塚」の地名が見える。このあたりだろうか。そして、その次の一里塚が、この桑折の一里塚ということなのだろう。

 産ケ沢の川が見えてきた。

# by shingen1948 | 2009-08-07 06:03 | ◎ 奥州街道 | Trackback | Comments(0)

信夫橋6

 信夫橋は、奥州街道の福島宿の玄関口となる。
 

 川幅は広いのだが、実際の流れはそれほどではない。古くは、「須川の渡し」と呼ばれて、舟・馬・川にん測で川を渡ったという。(「ふれあい歴史館」擬宝珠展示説明より)
 信夫橋の原型は、江戸時代までは、流れに板を渡しただけという板橋だったという。通称ガンタラ橋といわれていたという。
 対岸まで木橋が架設されるのは、明治7年とのことだ。
 したがって、半沢氏によれば、案内板にある枡形跡は、ここよりも川に入った位置にあって、稲荷は枡形の中央あたりにあったと推定されているようだ。



 この橋に使われた板は、水が増えると外して、小屋にしまったという。
 その外した板を置いた小屋が、みどり湯の手前ということなので、多分この辺りだと思われる。
 この西側は学校になっているが、以前はただの川原だったということだ。


 今回、信夫橋のやや南側にある大森川にかかる橋の袂に、平成12年10月に杉妻地区歴史保存会と郷野目町内有志の方が設置した奥州街道一里塚跡の碑があるのをみつけた。
一塚跡(旧奥州街道)
 慶長8年(1603)徳川家康が江戸日本橋を起点とし、一里(約4㎞)ごとに道の両側に塚を築き街道の距離を示した。

 一里塚は、実物をいくつか見たことがある。
 「二本松下街道八田野一里塚」「二本松街道御上覧場一里塚」については、先に整理しているが、こんな塚だったのかなとイメージするのに参考にすることはできる。
 ただ、どちらも江戸幕府が築いたものではなく、会津藩がこれにならって、寛文7年(1667)に若松札の辻(大町四つ角)を起点として一里塚を築くことになったものだ。


 一里塚のイメージ補助として、この二つの写真を張り付ける。

 八田野一里塚は、寛文10年(1670)に8日間を費やし延べ570人の代田組配下の農民の人側によって築かれたものとの案内があった。



 御上覧場一里塚もこの時代の会津藩によるもので、塚の上に榎を植えたので榎壇というところもあるとの案内があった。
 ここの案内では、一里塚の誕生は、豊臣秀吉が朝鮮役中に山陽道備中河辺から北九州肥前名護屋の間に一里ごとに設けたのが始まりとし、一般には慶長9年(1604)徳川家康が秀忠に命じて江戸日本橋を起点に東海・東山・北陸の三街道を整備させたものとしている。


 奥州街道の一里塚跡は、ここでの案内ではじめて見たが、その根拠となる資料については分からない。

 この両側に塚があったことをイメージする。それから、信夫橋に向かうと少しだけ古い時代の雰囲気に出会ったような気分にはなる。

# by shingen1948 | 2009-07-07 05:30 | ◎ 奥州街道 | Trackback | Comments(0)

信夫橋5~名橋「メガネ橋」④

 信夫橋については、先に何度か整理しているが、今回改めて名橋「メガネ橋」の親柱を確かめる。

 現在の信夫橋の北側には、漢字の「信夫橋」とある親柱ある。先に整理したときには、別のデジカメだったので、改めて撮影する。



 後ろに、欄干等のための傷があり、明らかに外側の親柱であったことが分かる。



 なお、幼稚園にあったひらがなの「志のふはし」の擬宝珠をかぶった姿は、ふれあい歴史館では白黒写真だったが、「ふくしま散歩」の新しい版にカラー写真が掲載されていた。



 現在の信夫橋もアーチにこだわるのは、この名橋「メガネ橋」の影響だろう。


 「信夫橋②」として整理した時に、この名橋「メガネ橋」の影響を確認しているが、それを再掲する。



 半沢氏のメモをもとに、明治30年竣工の橋脚に現在の橋脚が残っているということで、河原に降りて確認している。



 その時に、橋の南側に、現在の構造とは関係のない構造物が残っているのを見つけた。恐らく何代かの橋の構造物なのだろうと思う。


 橋の南側に、名橋「メガネ橋」を中心に信夫橋と荒川運動公園を説明する案内板が建っている。
 それによると、信夫橋といわれるのは、明治7年(1874)対岸までの木橋が架設されてからという。
 その中で、2代目信夫橋は明治18年から24年(1884~1890)までに架けられていた石造りで「13眼鏡橋」の名で親しまれていたというとして、この名橋「メガネ橋」を説明して、写真を掲げている。

 その後、木鉄混交橋等何度か架け替えられたようだが、その橋については「ふれあい歴史館のブログ」で確認できたのだが、そのブログは閉じられたようだ。土木学会図書館戦前絵葉書→橋→福島で見れるのは、木鉄混交橋だ。


 信夫橋と荒川運動公園
 この橋は、明治7年(1874)、浅瀬に渡した板橋(通称ガンダラ橋)に変わって、対岸までの木橋が架設されてから「信夫橋」と命名されました。
 現在の信夫橋がかかる所は、かつて須川と称されましたが、昭和39年(1964)の河川法改正で、荒川と変更されました。須川の河原といわれたこの地は、福島藩の処刑場になったり、百姓一揆の集合場所ともなったりしました。信夫橋から上流側は現在荒川運動公園として整備されています。

 下の写真は、明治18年から24年(1884~1890)まで架けられていた石造りの信夫橋で「13眼鏡橋」の名で親しまれていましたが、2年続きの洪水で崩壊してしまいました。その後、木鉄混交橋や永久橋と、何度か掛け替えられて現在に至っています。
 福島市

# by shingen1948 | 2009-07-06 05:22 | ◎ 奥州街道 | Trackback | Comments(4)

信夫橋3~名橋「メガネ橋」②

 Tukaさんが、市内に残る名橋「メガネ橋」の親柱の配置位置を特定されている。
 自分は、その中の少なくとも一番外側の親柱を見ていないということが気になって、確認しに出かけた。

 一度目は、外側をぐるりと回ったが見つけられなかった。
 Tukaさんのホームページで確認して、再度訪ねた。
 
 他に移動したかなと思いもあったが、……。
 あった。
 完全に信夫橋の親柱をイメージできる本物だ。
 迫力がある。

 この柱、マイナス面を拾えば、次のようなことはある。
 ○ 擬宝珠の上部の一部が欠損している。
 ○ そこに、銅の擬宝珠は付けられてはいない。
 ○ 銘を刻んだ方の親柱ではない。

 しかし、擬宝珠をきちんとつけている名橋「メガネ橋」の外側の親柱の本物はこれしかない。それが目の前にあるということで充分満足だ。


 内側の親柱の擬宝珠をつけない完全な形の本物は、県庁の公園にあるものだが、Tukaさんによると、ここに、内側の親柱が同じように擬宝珠をつけた形であり、残りは加工されているということだった。

 その加工品の一つが、この野口英世像の台座ということのようだ。

 とりあえずはここまでで満足しておく。



 もう一つの加工品、逆さにして二宮像の台座にしたものというものが現在もあることを確かめる。


 あと追いで確かめるのでさえなかなかみつけられなかったし、もう一本の確認は宿題のままだ。それをよく調べ上げたものだなと感心する。

# by shingen1948 | 2009-07-05 05:03 | ◎ 奥州街道 | Trackback | Comments(0)

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