地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 松川事件を歩く( 13 )

a0087378_12162824.jpg 庭坂事件の中心話題は松川事件で、その松川事件の現場を歩いた時にも、庭坂事件は意識していた。
 また、この広域道路は、のりしろ散歩以外でも何度も通っていたのだ。しかも、その道筋には庭坂事件の「殉職の碑」への案内柱までも建っていた。
 それなのに、慰霊碑を見るまで全く気づかなかったというのはいかに鈍感だったかということかな。
 それでも、そこに導いてくれたのは、大堀川第二鉄道橋への興味だったということだ。

 その庭坂事件が、事故なのか事件なのかも不明のままで、諸説あるようだが、「庭坂事件を考える」では、それらの諸説を考察した上で「謀略事件説」に近づいたようだ。そのうえで、松川事件と庭坂事件の関連性について考察を深めているのだが、その論拠の一つで説得力があるのが、列車ダイヤの不自然な変更との関連。本来はあり得ない長時間の闇米一斉捜索が、庭坂事件を解くカギで、この仕掛けは占領軍の関与なしには不可能だとしていることだ。
 客観的な考察を意図し、冷静に確からしさも高めるためなのだろうか、まどろっこしい言い方になっている。
 素人の散歩人にとって欲しいのはその概要ということで、読み取った要点を箇条書きに整理しておく。

 ① 当時の列車時刻表によれば、福島発米沢行きの下り第463貨物列車は、庭坂駅を21時50分に発車し、2つ先の板谷駅で問題の上り第402旅客列車とすれ違うことになっていた。
 ② しかし、実際の第463貨物列車は、通常の闇米捜査が10~15分なのに、長時間の闇米一斉捜索となり、発車時刻が50分遅れている。
 ③ 予定通りの列車運行なら、現場付近での空白時間が20分間なのだが、このことで1時間ほどの空白時間が加わった。→線路破壊者にとって有利。
 ④ 闇米捜索のような警察による臨検は、各地のCIC(占領軍の対敵諜報部隊)の指揮下で警察が執行していた。
 ⑤ ダイヤ変更の権限はGHQ のCTS(民間輸送局)またはRTO(鉄道輸送事務所)だけが握っていた

 ∴(④と⑤ゆえに)、捜査当局が列車運行の不自然な乱れに疑いを挟むはずがない。

 線路破壊者は、この事を知っていたか、或いは知り得る立場だったとするのが自然で、もっと言えば関係者であったとも考えられるということで、「謀略事件説」に近づいていくようだ。
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by shingen1948 | 2014-07-08 12:27 | ◎ 松川事件を歩く | Comments(0)
a0087378_9592225.jpg 庭坂駅の北側に庭坂機関区の施設があったとの事なので、駅の北側に回ってみた。北側からは跨線橋(こせんきょう)に自由に入れるようになっているのは、北側の住宅地への配慮なのだろうと思う。
 その跨線橋から東側を眺めてみたところだが、フェンスまでが庭坂駅構内であり、この駅が奥羽線の中心的な駅だったのであろう面影が残る。

 「庭坂事件を考える」では、松川事件と庭坂事件の関連性について考察を深めているが、自分も松川事件の現場歩きの「現場には、3人の犠牲者の慰霊碑が建っている」の中で、以下のようにふれていた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/5900905/
 この松川事件の起こった前年の昭和23年4月の夜中に、奥羽線の赤岩駅と庭坂駅の間で、上り列車が脱線、高さ10mの土堤下に転落するという事件があったという。この時も、機関士、助士の2名が死亡したとのことである。現場付近はカーブで、付近の犬釘と非常継ぎ目板が抜き取られていたという。これも迷宮入りで、松川事件との関連性を疑う人もいるらしい。

 ここでは整理していないのだが、実感としては、バールのインパクトが強い。
 小心者なので、不断に松川事件資料館を訪れることはかったので、福大で松川事件にかかわる集会があった機会に、参加者の一人のように紛れ込んで資料館を見学させていただいたことがあったのだ。その時に写真記録をしておいたものが、カードの故障で消滅してしまっていたこともあって、そのままになっていたという事もあるのだが、この時に展示されていたバールの存在のインパクトが、陰謀説の実感と結びついているのだ。
 「庭坂事件を考える」では、庭坂事件のバールについては以下のように記す。
 線路破壊の道具については、発見されず仕舞いであった。ただし、翌年8月17日に松川事件が発生生した時、いち早く現場に現れた玉川(松川事件でも警察側の捜査主任)が犯行道具はバール、スパナに違いないと予言し、程なくして現場脇の水田のへりからバール(145センチ)1本と自在スパナ(24センチ)1挺が見つかるという不思議な出来事があった。
 そして、この予言の根拠について、玉川は前年の庭坂事件の経験をあげていた。玉川がこの庭坂事件の警察側捜査主任でもあったことを考えれば、玉川のこの言動は、彼が庭坂事件の犯行道具や真犯人について具体的な情報をあらかじめ得ていた可能性を示唆するものかも知れない。これとは別に、近年になって、福島市大笹生地区で発見されたという大型のバール(長さ150センチ弱)が松川資料室に届けられた。発見場所は庭坂事件現場から10キロほどの北に当たり、飯坂温泉との中間点付近に位置する。この新たに届けられたバールのツメの下には、ヒシ型の中にNT をあしらったマークがついている。もしもこれが国鉄の備品であれば、NT は新潟鉄道局のイニシャルを連想させるが、確かに新潟鉄道局は、当時の庭坂駅を管轄区域にしていた。また、温泉地が実行犯の前進基地として利用されていた可能性については、その後の松川事件などについても指摘されている。

 筆者は具体的な大きさを記すのみに留めるが、松川事件のバールとされるものを実際に見た者にとっては、ちょっと大胆とも思えるこの推論にも結構説得力があると感じるものなのだ。
 その上に、捜査では無視されたという「当日の早朝に現場方面から庭坂駅の方向に足早に向かう不審な一団と遭遇して声を掛けたが返事がなかった」という地元民の話とか、「事件当夜には多数の警官隊が非常警戒態勢を敷いていたという確かな情報」から「警察隊の出動と線路破壊の決行は対の関係」との想像に導いている。
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by shingen1948 | 2014-07-07 10:01 | ◎ 松川事件を歩く | Comments(0)
 庭坂駅にふれて整理するのは、「福島の建築 ⑬」で、煉瓦製油庫の建物への興味で立ち寄った時だ。駅舎全体としてどこか懐かしい雰囲気が漂っているとした。この時点では、福島を中心とした視点で、福島駅を中心駅とした見え方をしていることが分かる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9828468/
 しかし、奥羽本線の管轄は、東北本線とは別の新潟鉄道局管轄のようで、その機関区が庭坂になっていたとのことであり、当時は庭坂駅もまた奥羽本線の中心的な役割を担った駅だったということのようなのだ。
 「庭坂事件を考える」では、この事について以下のように解説する。
 敗戦後1946年から1950年夏までの間、全国の国鉄は同じ名称の9つの鉄道局(東京・名古屋・大阪・広島・四国・門司・新潟・仙台・札幌)によって管理され、その下に管理部と工機部(1949.6.1現在では49管理部、27工機部)が置かれていた。東北地方では、奥羽山脈の東側(東北線側)が仙台鉄道局(仙鉄局)、西側(奥羽線側)が新潟鉄道局(新鉄局)であったが、例外的に奥羽本線の南端部分(福島県内)だけは新鉄局管内になっていた。このため、奥羽山脈横断の西口にあたる米沢と東口にあたる庭坂には、それぞれ新鉄局山形管理部の機関区(機関車・乗務員を管理)が置かれていた。このことが、わずかに7キロ(福島~庭坂間)を挟んで、福島機関区(仙鉄局管内)とは別の庭坂機関区(新鉄局管内)が置かれた理由である。
a0087378_8585584.jpg この庭坂機関区が駅の北側とのことなので、煉瓦製油庫の建物のあたりから北側付近なのだろうということだ。それで、今回も油庫を撮っているのだが、そこから駅の北側付近の広い敷地が少し写っている部分を切り取って張り付けて見た。

 ここに新潟鉄道局の庭坂機関区があったことのプライドが、「殉職之碑」を建てた発起人や実務者が庭坂機関区であることや庭坂村長さんも名を連ねていることとがかかわっているのだろうと思う。

 「殉職之碑誌」では、「事故の原因は今だに解明されておりません」とするのだが、事故の原因は「現場ではカーブ外(右)側のレールの継目板が外され、犬釘が抜かれ、レールが内側にずらされていた」ためであることまでは客観的な事実のようだ。分からないのは、その事件性だろう。ただ、この事故を「庭坂事件」と呼称される事自体、単なる事故でない事(つまりは事件性)を暗黙に了解している事を示しているのだと思う。
 「庭坂事件を考える」では、副題が-翌年の松川事件に繋がる謀略事件―とあるように、庭坂事件と松川事件の動機的な関連性を考察する。
 その労働運動つながりで推論する根拠の一つとして庭坂機関区(新鉄局管内)が以下のようにかかわるという事でもあるようだ。
 1946.3庭坂機関区従業員労働組合が結成され、当局に要求書を提出して団体交渉を行うなど、山形管理部内での主導権を強めていった。彼らがともかくも労働組合らしい道に進み得たのは、福島県における労働運動の全県的な結集を目指す左右の対抗的潮流の動きに直接触れる中で、自らが進むべき進路を選択する機会を得たことの結果であった。このように、極めて穏健といわれた新鉄局の労働組合の中で、庭坂機関区の労働組合は確かに最も実質を備えていた。そして、この力を押さえ込もうとしたのが庭坂事件であったのかも知れない。

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by shingen1948 | 2014-07-05 09:02 | ◎ 松川事件を歩く | Comments(0)
a0087378_1110417.jpg これは、庭坂の大カーブを通過する新しいデザインの新幹線でしかないかもしれないが、庭坂事件の現場を意識して撮った積り。
 右手の小屋にかかって写っている木の付近が殉職碑が建つあたりで、新幹線の先端が、大堀川鉄道橋付近だ。
 「庭坂事件を考える」で以下のように解説される「庭坂事件」は、この辺りで起きたというこのようだ。
 1948年4月27日午前0時4分ごろ、いまだ単線であった奥羽本線赤岩~庭坂間(福島起点8キロ777メートル、庭坂村上戸表、通称:高堤防)で、青森発奥羽本線回り上り上野行き第402急行旅客列車(先頭機関車・郵便車・小荷物車に続いて、客車7両には定員の2倍を超える1250人が乗車)が脱線転覆し、機関士・機関助士・技工(闇米捜索を逃れるためにたまたま機関車に便乗していた)の3人が死亡し、荷物車掌が負傷した。
 庭坂事件では、転覆した列車が「青森発奥羽本線回り上り上野行き第402急行旅客列車」ということだが、現在はこの運行は不可能であり、イメージが持ちにくい。

 現在は、この辺りの奥羽本線は山形線というイメージが強い。加えて、ここを山形新幹線が走るため従来の狭軌から標準軌に改軌されたのだが、それに伴ってこの山形線の普通列車は標準軌専用の車両が使用されるようになったとのことだ。
 したがって、奥羽本線の新庄駅以北に乗り入れることはできない。また、東北本線や仙山線などの他線の列車や貨物列車が山形線に乗り入れることもできないという状況だ。

 しかし、当時は奥羽本線回り青森~上野間には2本の直通列車(急行1・普通1)が運航されていたということだ。
 「庭坂事件を考える―翌年の松川事件に繋がる謀略事件―【福島大学名誉教授伊部正之】」では、このことと当時の食糧難という社会情勢を加えてその状況を以下のように説明する。
 (この奥羽本線が通過する)山形や秋田が、有数の闇米供給地であり、食糧管理法の統制を逃れて闇米を確保すべく、多くの人たちがこの直通(乗り換えなしで東京に行ける)の闇米列車(買出列車)に殺到していた。
 碑文の「買出人等1200余名を乗せて走行」ともかかわるようだ。更には、「脱線転覆の為職に殉ず」の「技工山岸孝19歳」ともかかわるらしい。以下のように説明される。
 顔見知りの乗務員に頼んでトラの子の闇米を運転室に預かってもらう国鉄職員もいた。この事件で犠牲となった技工の山岸孝はもちろん乗務員ではなく、非番(勤務なし)を利用して米の買出しに行き、摘発を逃れるために運転室に潜り込むことに成功していたが故の悲劇であった。
 この事件では運転室にいらっしゃった方々が亡くなるのだが、「庭坂事件を考える」は、逆行運転が禍したのではないかと推測している。
 トンネルの多い山脈越え用に特別に作られたSL4110型機関車の場合、機関車の煤煙が運転室を襲うのを避けるために、機関車を後向き(煙突が後になる)にした逆行運転が行われ、そのため先頭になった運転室が真っ先に湿田に突っ込む形になった。現場ではカーブ外(右)側のレールの継目板が外され、犬釘が抜かれ、レールが内側にずらされていた。このため、機関車と郵便車が右側の築堤下に脱線転覆し、小荷物車は築堤の横腹に線路と直角に脱線停止し、客車1両は左側に45度傾きながらも、たまたま電化工事のために立てたばかりの電柱に引っ掛かる形で転覆を免れ、これに続く1両も左に脱線していた。
 ここに描かれる事故の状況の詳細部分は、庭坂の大カーブであることが庭坂事件の起きる要因でもあったということも意味しているように思う。
 
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by shingen1948 | 2014-07-04 11:18 | ◎ 松川事件を歩く | Comments(0)
 この大堀川鉄道橋辺りが「庭坂事件」現場であることを知ったのは、「殉職之碑」が建っていたからだ。
a0087378_1455630.jpg  「庭坂事件」を知ってはいたが、その現場はよく分かっていなかった。松川事件現場と見比べれば大カーブ付近というのは納得できるのだが、イメージ的には、もっと赤岩寄りなのだと勝手に思っていたところがあったのだ。驚きはかなり庭坂寄りだなということだけだ。

 この碑、「庭坂事件を考える―翌年の松川事件に繋がる謀略事件―【福島大学名誉教授伊部正之】」によれば、発起人は千秋信雄庭坂機関区長、実務は紺野健一郎・佐藤雄若・後藤久男の3機関士が担当したとのこと。そのこだわりについても詳細に紹介される。
 殉職碑に使用した御影石の原石は、地元(庭塚)の石工茂木金兵衛の情報によって赤岩~板谷間のはるか下を流れる松川から見つけて運び上げたものであり、原石の研磨は(経費節減の意味も込めて)乗務員たちが担当し、加工(彫り込み)は茂木が行った。また、土台石は事故現場の水田で機関車が激突した大石を掘り出して整えたものであった。建立の費用は庭坂機関区が全額支払い、除幕式は1948年夏ごろ(月日不詳)に執り行われた。

 碑文を確認しようと写真におさめてはきたが、こちらの紹介を引用させていただく。
 昭和23年4月27日午前0時4分第402列車運転中脱線転覆の為職に殉ず
 機関士管野弘道行年27歳
 機関助士三浦忠男21歳
 技工山岸孝19歳
 庭坂村長菅野聖瑞謹書

 隣の「殉職之碑誌」は、1997.7.27関係有志によって犠牲者の50回忌法要が営まれた時に建立されたのだとか。
 昭和23年西暦1948年4月27日青森発上野行急行旅客列車が買出人等1200余名を乗せて走行中右の電柱附近で脱線し機関車は転覆して道路の上から約30米滑り落ち巨大な岩石に激突して大破しその破片が執務中の3名の全身を直撃したため生命を断たれて殉職しました
事故の原因は今だに解明されておりません
 発起人9名(氏名略)
 平成9年9月紺野健一郎謹書

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by shingen1948 | 2014-07-03 14:16 | ◎ 松川事件を歩く | Comments(0)
松川事件のかかわりで歩いてみたことを整理しながら記録したが、書き落としたことを加えておく。
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 確かな情報ではないが、ここは松川駅前の「松楽座」という芝居小屋の跡だと思う。
松川事件とのかかわりでは、事件の起こる数時間前に、レビュー団の公演があったとか。その一座の公演は、突然決まったという。しかも、この劇団はCICの承認を得て、旧特高警察関係者数人が、団のボスの下に参加していたという噂が……。
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今回は、松川事件のかかわりで歩いてみたが、途中、奥州街道としての興味も加わって南福島駅まで歩いた。カメラを持ち歩かなかったので、携帯での撮影だが、日が暮れて写りが悪くなってしまった。
  この南福島駅は、事件当時は駅ではなく永井川信号所だったと聞く。


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旧国道4号線(奥州街道)から、この南福島に入る少し手前に、虚空蔵菩薩の参道入り口の門があった。当時は、虚空蔵菩薩のお寺である満願寺のお祭で、その警戒のテントが出ていたという。
この満願寺、今では国道バイパスから直ぐ近くだが、当時は、ここから寺に向かって歩きたどり着く寺だったようだ。阿武隈川沿いの羅漢のいる寺だが、今よりももっと奥深さを感じる寺だったようだということが分かった。

小さい頃にインパクトのある記憶であった松川事件を思いながら、漠然と歩いてみた。カテゴリーを独立させて「松川事件を歩く」としてまとめることにした。
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by shingen1948 | 2007-07-27 04:53 | ◎ 松川事件を歩く | Comments(0)
 線路沿いの細道を、浅川まで歩く。
 事故現場を過ぎて暫く行くと右にそれていく。そして、上り線側の丘に沿って小道は続く。上り線は丘の北側を走るのでここからは見えない。下り線路と小道の間は水田である。下り線に沿ってもう一本の道路が走っているのが見える。
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 二人の泥棒が夜中に歩いた道は、こちらの道だと思う。向こう側の道路なら、事件現場を丘の南側に回り込んでしまうので見えなくなる。
 そんなことを考えながら歩く。
  途中、この細道は、丘に少し登って、また回り込むという所はあるが、ほぼ平坦な道である。

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 浅川踏切に近づくと、丘側に沿って集落が表れる。
 浅川踏切を右折すると、奥州街道に入る。この道はそれなりに奥州街道の雰囲気を残しているように思う。





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 旧4号国道に交わる少し手前で、右側にマンションが左側が竹藪になる。一度旧4号線に交わり、東北本線の上り線の高架橋が目の前を横切るころに、旧国道4号線から外れて奥州街道が走るところがあるが、再び国道と重なる。

 事件当時は単線だったので、この高架橋はなかったはずである。

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 ここを過ぎると、二人の泥棒が盗みにしくじった洋品店であろうと思われる店が見えてくる。

ここ浅川からは、旧4号国道線と奥州街道はほぼ重なっている。ここからは旧国道4号線を南福島駅まで歩く。
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by shingen1948 | 2007-07-26 04:32 | ◎ 松川事件を歩く | Comments(0)
ゆっくりと歩きながら見回すのと、観察地点をスポット的におとづれていくのでは、見え方がぜんぜん違う。
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 松川事件の現場に行くのには、「石合踏切」の左手にある線路沿いの小道を入るのだが、そこには、大きな石がある。これは自然石のようだが、道祖神である。何故か女泣き石というそうだ。





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 「石合踏切」を渡って右角に、石合南無阿弥陀仏道標が建っている。半沢光夫氏の歴史地図によれば、宝暦12年(1762年)に作られた東二本松道・北金沢を案内する名号道標である。立ち止まって眺めながら、事件後、乗客はここから松川駅に向かって歩って行ったのだろうか。それとも、線路の上を歩いて行ったのだろうかと想像する。

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 松川の塔公園も、ゆっくりと見た。ずっと天候不順で、この公園に行く道がぬかるんでいて、ゆっくり観察しようという気分になれなかったのだが、この日は、田の脇の草が刈り取られていた。あぜ道を使って公園に入り、ゆっくり眺め回せた。

ここから、この道を浅川の踏切まで進んでみる。松川事件とのかかわりでいえば、呉服屋に入った泥棒が通った道である。

事件前夜、金谷川にある呉服店に2人組みの泥棒に入ろうとして失敗し、翌日にも試みて失敗した。そのうちの一人が、この道を歩いている。9人の大きな男たちに出会い、その直後、事件が起きたという。

農作業の軽トラックが通っていった。普段ここを通るのは知り合いしかいないはず。不審な男が歩いていると思われたに違いない。
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by shingen1948 | 2007-07-25 04:48 | ◎ 松川事件を歩く | Comments(0)

松川を歩って確かめる

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22日は、雨が上がったので、松川駅から、八丁目宿や奥州街道、そして、松川事件などの関わる所を歩って体感的に確認することにした。
松川駅周辺を確認した後、八丁目宿から奥州街道に抜ける道まで旧道らしい所を歩く。陸羽街道の入り口を確認して、奥州街道をたどるが、今回は、松川事件とのつながりを確認することに重点を置く。
松川事件の現場付近を確かめた後は、淺川の踏切から奥州街道に抜けて、国道四号線と奥州街道が重なる所をたどり、伏拝から奥州街道をとおり、南福島駅までを歩いて確かめることにした。
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まず、駅周辺では、元の東芝松川工場を確かめる。今は別の会社になっているようだが、原型は当時のままだと思う。線路脇に建っているのは、引込み線を使って鉄道輸送をしていた名残なのだろうか。
  小さな駅の割には、線路が多い。これは、昔、この駅から絹の里である川俣に鉄道がつながっていた名残だろうか。
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  この工場は、以下の二つの視点から事件とかかわっている。

捜査当局は、国鉄労組と共に首切りに反対する東芝松川工場労組の共産党員らのしわざとみて20名を逮捕し、一審では死刑5名を含む全員に有罪の判決だったが、1963年には全員の無罪が確定する。

  東芝工場の事務課長補佐の諏訪メモは、被告のアリバイを証明するものだが、これは、東芝松川工場の団体交渉について記録された管理メモ。
被告佐藤一が、列車転覆謀略とされる時刻に、その場から10km離れたところで、クビ切り反対の団体交渉に出席していることを証明し、無罪を勝ち取ることになる。
このメモは、警察が東芝の押収品の中にあって、ある検事宅に保管されていたが、隠されていた。それが、倉島記者の地方版のスクープ記事によって、メモの存在が明らかになり、裁判に提出されたとのことだ。
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by shingen1948 | 2007-07-24 04:54 | ◎ 松川事件を歩く | Comments(0)
記憶の中にある松川事件のキーワードは、「階級闘争」、「冤罪」、「弾圧」といったものであり、無罪を主張する街頭のアジ演説である。
慰霊観音と殉職碑が建っているその脇に、松川事件から50年立ったことを記念して東日本鉄道労働組合の「謀略わすれまじ」の碑も建てられている。

謀略わすれまじa0087378_3525987.jpg

  時代の色に染まらない。時の流れに流されない。それは理性に導かれた民衆の抵抗を意味する。権力者は民衆の犠牲の上に君臨し「国家・国民のため」と大うその御託宣をくだす。法律を支配者のために作り、都合よく解釈し、国家の暴力装置としての軍隊・警察等を使い、公然たる弾圧、抑圧をくりかえす。
さらに非公然の不法の攻撃をしかける。
権力側に与しない者は、それを謀略と規定する。権力の広報部になり下がったマスコミは「過激派のしわざ」と煽り立てる。
この松川で何者かが列車を転覆させた。
三人の機関車乗務員が尊い生命を奪われた。敗戦をへた日本の夜明けは、暗黒の道へ引きもどされた。この1949年、共産党の「9月革命説」は、権力側に利用された。
松川謀略から50年、日本は新たな戦前史を形成した。平和憲法は瀕死の状態にある。でっち上げられ、死刑判決まで受けながら15年間の不屈の闘いを勝ち抜いた先輩達に最大の経緯を捧げ、犠牲者の冥福を祈り、平和の近いも新たに50年碑を建立する。
                        1999年3月8日
                        東日本鉄道労働組合
                       会長 松崎   明

  ここには、二つの怨念がある。
一つは、犯人が誰であれ、松川で何者かが列車を転覆させ、三人の機関車乗務員が尊い生命を奪われたことである。生命を奪われた方には謀略があったかどうかもかかわりなく、ただ生命を奪われたのである。線路を向いて建っている地蔵と墓は、それを象徴している。
もう一つは、無実の罪で捕まえられた冤罪の恨みであり、弾圧の可能性も高いということである。しかも、迷宮入りで、真犯人は何のとがもなく、平和に生き延びたと言うことである。
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上り列車側に建つ「松川の搭」と共に、階級闘争の時代が、ここにはまだ残っていた。
  この「松川の搭」は、松川事件の原告団、弁護団と支持者によって建てられた。碑文は作家で松川事件被告の冤罪を広く社会に呼びかけた広津和郎によるものである。


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「1945年 8月17日午前3時9分、この西方200米の地点で、突如、旅客列車が脱線顛覆し、乗務員3名が殉職した事件が起った。何者かが人為的にひき起した事故であることが明瞭であった。どうしてかかる事件が起ったか。朝鮮戦争がはじめられようとしていたとき、この国はアメリカの占領下にあって吉田内閣は、二次に亘って合計9万7千名という国鉄労働者の大量馘首を強行した。かかる大量馘首に対して、国鉄労組は反対闘争に立上った。その機先を制するように、何者かの陰謀か、下山事件、三鷹事件及びこの松川列車顛覆事件が相次いで起り、それらが皆労働組合の犯行であるかのように巧みに新聞、ラジオで宣伝されたため、労働者は出ばなを挫かれ、労働組合は終に遺憾ながら十分なる反対闘争を展開することが出来なかった。この列車顛覆の真犯人を、官憲は捜査しないのみが、国労福島支部の労組員10名、当時同じく馘首反対闘争中であった東芝松川工場の労働員10名、合せて20名の労働者を逮捕し、裁判にかけ、彼等を犯人にしたて、死刑無期を含む重刑を宣告した。この官憲の理不尽な暴圧に対して、俄然人民は怒りを勃発し、階層を越え、思想を越え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援運動に立上ったのである。この人民結束の規模の大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史に未曾有のことであった。救援は海外からも寄せられた。かくして14年の闘争と5回の裁判とを経て、終に1963年9月12日全員無罪の完全勝利をかちとったのである。人民が力を結集すると如何に強力になるかということの、これは人民勝利の記念塔である。」
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by shingen1948 | 2007-07-23 04:32 | ◎ 松川事件を歩く | Comments(0)