地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 芭蕉の足跡( 128 )

 春日神社の信夫渡碑は、「天明7年(1787)9月伊達熊阪定邦撰」で「金竜山人筆」ということになる。
 「ウィキペディア」で確認すると、筆の「金竜山人」は、為永春水【寛政2年(1790)~天保14年(1844)】という江戸時代後期の戯作者のようだ。本名が佐々木貞高、通称が長次郎とのこと。その筆名の一つに、「金竜山人」があるようだ。
 江戸の有名作家や権威者の名を借りることによって、内容の正しさを強調する手法なのだろうと思うが、年代が少し合わない。

 今回、確認しておこうと思ったのは、こちらの方ではなくて、この歌を選定した伊達熊阪定邦の方だ。
a0087378_1024420.jpg 熊阪定邦は、散歩資料の中では号の「台州」ということで知られた上保原村高子の儒学者だ。
 「熊坂墓地」に建つ案内板では、この「台州」の号で、父の号「覇陵」、子の号「盤谷」で、共に江戸中期から後期にかけての儒学者・篤農家として知られているとある。 
 詩人としても高名であったことも付加的に紹介される。

 今回確認する中で面白い紹介を見つけた。
 「福島県立図書館」の「江戸時代に『桃太郎』を漢文にした『熊坂台州』」という紹介だ。こちらは、付加的に紹介された漢詩人という側面が中心的に紹介されている。
 この紹介文の後半にある「天明3年からの洪水や冷害による大凶作が元で大飢饉が発生した。この時期を境に台州には思想上の変化が見られ、文学運動を停止して救貧事業に力を尽くすことになる」という方が中心的に紹介されているのが一般的な紹介のようなのだ。
 それが、「名は定邦または邦。字は子彦。通称は初め宇右衛門、後に(たまき)、号を台州という。上保原村高子生まれの漢詩人である。元文4年(1719)、豪農の家に生まれた。父の定昭(覇陵)は、江戸後期に保原を中心に漢詩文の文学活動を繰り広げ、自らの屋敷を「白雲館」と号した人である」と紹介される。
 漢詩人の文学活動の視点からの紹介だ。
 その後、台州は22歳の宝暦10年(1761)に江戸に出て入江南溟に師事するのだが、それ以降の経歴や著書が紹介される。
 翌年には、江戸から上方へ約3か月間の旅に出て見聞を広めたともある。

 肝心の桃太郎についての紹介の概要は次のようだ。
 安永年間末、台州40歳の頃に弟子に文章修練として、物語を語らせ漢文訳をさせる。その模範解答として取りまとめたものの一つが「桃奴事」(桃太郎)という事のようだ。
 寛政4年に出版された書物で、台州が主宰する正心塾の入門テキストとしても用いられたとのことだ。その中に納められたが「二翁事」(花咲爺)「蟹猿事」(猿蟹合戦)「桃奴事」(桃太郎)の三話とのことだ。
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by shingen1948 | 2016-10-12 10:32 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 都の奥州ブームにかかわって能因法師が「街道をゆく(33)」に紹介されていた。前回は、その中の白河の関にかかわる歌のエピソードにふれた。
 同書では、奥州へのあこがれ変化を、能因法師の生計とのかかわりで解説する。
 それによると、能因法師は、荘園を持つような身分ではなかったという。それで、その生計を奥州の馬とのかかわりで立てていたのではないかという。
a0087378_346319.jpg こちらの話が興味深いのは、地域散歩で確認した春日神社の「信夫渡し碑」=「能因法師の歌碑」とつながる話のように思うからだ。
 おおよそ次のような紹介だ。

 国司は、役得で馬を貰ったりすることがあるのだとか。それが都に運ばれた時には、一時的に飼っておく牧が必要になるということだ。能因は、このこととかかわって生計を立てていたのではないかというのだ。礼金を元に牧を商業的に運営していたという仮説話だ。
 40歳近い能因は、万寿2年(1025)以降に二度も奥州へ出かけるわけだが、これは馬の交易のための実務的な旅だったのではないのかというのだ。
 この事は、それまでの詩的なあこがれとしての奥州というイメージから、馬と産金という実利的なイメージに変質してきたという事を意味するともいうのだ。

 これは、春日神社の信夫渡碑で紹介される能因法師の歌だ。
 浅茅原荒れたる宿はむかし見し人を信夫の渡なりにけり 能因法師
 この歌は次のように解釈されているようだ。
 「能因法師が二度目の奥州の旅の時、常陸から久慈川をさかのぼって奥州信夫の里に着き、旧知の友を訪ねてこの地に来たのだが、その人はもう亡くなったと聞き惜別追悼の情から歌った歌」。
 注目は、この地に旧知の友がいて、そこを訪ねたということだ。
 能因が陸奥から戻った国司がもらった馬を一時預かる牧場経営で収入を得ていたということなら、陸奥のこの地に友がいても自然であり、イメージ的に納得がいくということだ。

 今回、春日神社の信夫渡碑を確認していて、もう一つ気づいたことがある。
 前段の漢文の部分を見ていたら、「天明丁未秋九月伊達熊阪定邦撰」とあることに気づいたのだ。天明丁未は、天明7年だ。
 この歌碑は「天明7年(1787)9月伊達熊阪定邦撰」で「金竜山人筆」ということになる。
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by shingen1948 | 2016-10-11 09:30 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 今回は「芭蕉の足跡」とのかかわりで「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」の整理がメインで、西行の信夫の里の立ち寄りについて確認はその余談だ。しかも、文学作品の中では確認できなかったということだ。
 地域資料側からは、願望も込めて、西行は信夫荘佐藤氏と親戚関係なのだから立ち寄ったに違いないという。信夫の里を散策している者にとっては、その通りだと思う。
 しかし、ちょっと巨視的に見ればというか、西行側の立場に立ってみればというか、平泉藤原氏とも姻戚関係にあるのだ。
 2度目の奥州の旅の目的達成に、信夫の里の佐藤氏を介す必要などないはずだ。直接頼んだ方が確実に達成できると考えるはずなのだ。信夫荘に立ち寄るとすれば、それは平泉に行く途中の休憩ということでしかないだろうなと思う。

 余談のついでに、もう一つの余談を確認する。
a0087378_13421541.jpg 先に「春日神社②~信夫渡碑」で、春日神社の「信夫渡し碑」について整理したことがあった。そこには、能因・重之・光俊の三人の歌が紹介されているのだが、この碑を「能因法師の歌碑」だと紹介する人が多いとのことだった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9007085/
 というのは、源重之の「袖の渡」と光俊の「いなばの渡」は、宮城県亘理町の阿武隈川だとか、「袖の渡」は石巻市だとかという説もあるようではっきりしないようなのだ。
 その中で、熊因法師の「信夫の渡」は、この信夫の里の渡利の渡しだろうという以外の説はないということのようだ。
 その能因法師についての話だ。

 今回、「街道をゆく(33)」を整理の補助資料として活用させていただいたところだが、その都の奥州ブームにかかわって、この能因法師が紹介されていたのだ。
 「(都の)源融から発した奥州ブームは、実方を経て能因の時代になると、いよいよ盛んだった」という。その能因法師について、次のようなエピソードが紹介されている。
 その一つが、白河の関にかかわる歌のエピソードだ。
 都をば霞とともに立ちしかど、秋風を吹く、白河の関      能因法師
 この歌、机上で詠んだ歌だと思われたくないので、数か月外出せず、色をくろく日にあたりなして後、人前に出てちょっと陸奥へ行きましたといって歌を披露したのだとか。
 こちらは有名な話らしいことは、確認していく中で分かったことだ。

 そして、もう一つが、荘園を持つような身分ではなかった能因の生計は奥州の馬を買っていたという仮説だ。こちらが、春日神社の「信夫渡し碑」=「能因法師の歌碑」とつながる話のようなのだ。
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by shingen1948 | 2016-10-10 13:45 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 地域資料では、西行法師信夫の里立ち寄りを2回目の奥州旅路と想定か?
 西行の奥州への旅は2度想定されているようだ。
 西行は23歳で出家し、それから3年後の26歳の時に、一度目の奥州の旅に出たとされる。このあたりは、大河ドラマ「平清盛」視聴とかかわってイメージしやかすった。これが西暦で1143年頃とのことだ。ただ、その目的ははっきりわからず、能因法師などの歌枕を訪ねる旅だとも、単なる漂泊の旅だとも言われているとのことだ。
 それに対し、2度目の奥州の旅は東大寺大仏建立勧進のための旅で、その目的がはっきりしているという。文治2年(1186)西行69歳の時で、旅の途中、鎌倉で源頼朝と会談するのは、この奥州平泉の旅が東大寺大仏建立にかかわる砂金勧進の為であるというという事を了解してもらうためだったともいわれているという。
 この事と地域資料の案内を見比べると、西行法師信夫の里立ち寄りを2回目の奥州旅路と想定しているように思うのだ。

 「小平泉を呈し賑わいをみせていた」頃を確かめる。
 大鳥城址案内板では、「親族の西行法師が陸奥を旅し、この地に安らぎを求めた頃は、小平泉を呈し賑わいをみせていたといわれている」とある。
 図説「福島市史」では、「小平泉を呈し賑わいをみせていた」という部分についてやや詳しく「庄司一族は、飯坂を中心に医王寺・天王寺・飯坂寺・西原廃寺など壮麗な寺社を有し、小平泉の観を呈していたという」と解説する。
 その「小平泉を呈し賑わいをみせていた」頃というのが、文治2年(1186)西行69歳の時に近いように思うが、どうだろうか。
a0087378_8574977.jpg これは、図説「福島市史」に紹介される佐藤系図だ。
 先に「大河ドラマ「平清盛」視聴⑩~西行に視点をあてて地域の散策とつなぐ⑥」で整理しているが、再掲する。
 http://kazenoshin.exblog.jp/15079921/ 
 1が、平泉藤原氏の初代~3代の部分で、2が湯の庄佐藤氏の代の部分、3が忠信継信のかかわるその子の代、そして、4が西行法師の部分だ。
 「平泉藤原氏と南奥武士団の成立(入間田宜夫)」の情報と照らし合わせて、時代の重なりを確認する。

 「信夫佐藤氏が歴史上に姿をあらわしたのは、平泉藤原氏2代基衡の時代、西暦にすれば1140年代のあたりであった」とする。それが物語に登場する「大庄司李春」の時代という。
 この事と「藤原氏系譜」の突合せで、この時代が「藤原氏系譜」の「師信(佐藤軍監)―師治(押領使)」のあたりとかかわるという。(「師信」は、系図では「師治」の一つ上の世代の〇にあたる方)
 確実な事は「元治」が3代「秀衡」とかかわるということで、そこから「師治」の時代を推定すれば、平泉藤原氏2代「基衡」の時代と重なるという推定が成り立つという事のようだ。
 「福島県史」では、これに佐藤氏独特の固有のネーミングや大庄司李春の「子息舎弟」まで斬首されている中で生き残れる方ということ条件を加えて、この「師治」氏を「李春」の従兄弟などの血筋にあたる方と想定をしているようだ。
 その世代を一つ遡った「師信」が、この系図では〇印になっているように、この方そのものの情報は乏しいようだ。ただ、状況的に奥州における佐藤氏の始まりと位置付けられているということらしい。この「師信」からの系譜が「代々伝わる後見なる上に、乳母子なり」と物語にあるように、平泉藤原家と緊密な信頼関係が築かれていたということだ。
 ということで、信夫の里で佐藤氏が飯坂を中心に定着するのが、平泉藤原氏は2代基衡の頃、おおよそ西行が最初の旅の頃だ。ここが、いわば開発期とすれば、小平泉の観を呈す時期と西行2度目の奥州への旅が重なるように思うがどうだろうか。
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by shingen1948 | 2016-10-09 09:06 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 大河視聴と地域散策を結び付ける
 今回は、「芭蕉の足跡」とのかかわりで「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」について整理してきた。
 しかし、「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」についての確認のきっかけそれ自体は、大河ドラマ「平清盛」視聴だ。大河ドラマ「平清盛」視聴で得たイメージを生かして、これと地域の散策とを結び付けたいと思ったことだった。
 「『新平家物語(吉川英治)』が描写する「信夫の里」⑨~「大鳥城誌」碑」でも記したように、自分は奥州の庶民文化を知らない。だからといって、今更古典を学習したり、古典芸能に浸ったりするという事を継続的に学習するという気力もない。
 それで、そのハンディーを、大河ドラマ「平清盛」視聴で補おうということだった。
 大河のドラマの中で生きて動く人物が、我故郷の地とかかわるという視点で資料を探し、この「新平家物語(吉川英治)」の物語が見つかったという事だ。
 これは、うまくいった話だ。

 大河視聴と地域散策を結び付けがうまくいかなかった事
 当然、うまくいかなかったこともある。
 今までは、うまくいかなかったものにはふれなかった。しかし、最近は失敗したことも楽しい経験として残るということも大切にしたいとの思いが強くなっている。
 今回は、そちらも整理しておこうと思ったのだ。

 それが、西行法師の動向
 大河ドラマ「平清盛」視聴で気になったのが、西行法師の動向だ。それで、奥州を旅する西行法師を描く作品を探したのだ。そこで見つけた作品の一つが、「西行花伝(辻邦生)」だ。この作品は、西行法師の動向を具体的に描写している作品の一つだ。
 ただ、自分には、この作品自体を一気に読み通せるほどの気力の充実はない。それで、ドラマの進行に合わせ、そのかかわり部分を部分的に読んで楽しんでいたのだ。
 これを地域の散策と結びつかないかと眺めた時、可能性のある部分は次の二つの帖だ。
 〇 十一の帖
 西行が語る陸奥の旅の大略、並びに氷見三郎追討に及ぶ条々
 〇 十九の帖
 西行の独語する重源来訪のこと、ならびに陸奥の旅に及ぶ条々
 この二つの帖に目星をつけて部分読みをしてみたが、結果的にはうまくいかなかった。
 十一の帖に白川の描写があって期待して読み進めたが、直ぐに場面転換で名取に飛んでしまったのだ。

 散歩資料の中の西行法師
 地域の散歩資料の中には、いくつか西行法師の動向を見つけたので、その事については先に整理してきたところだ。
a0087378_1230281.jpg これは山上の大鳥城址を案内する図だが、この山上の大鳥城址に建つ福島飯坂ライオンズクラブの案内板の信夫荘の荘司佐藤氏の居館であることの解説の後に、西行法師にふれて説明している箇所がある。
 「親族の西行法師が陸奥を旅しこの地に安らぎを求めた頃は小平泉を呈し賑わいをみせていたといわれている」とある。
 このことについては、「大鳥城跡を訪ねる」でも整理しているが、図説「福島市史」では、この「親族の西行法師」についてやや詳しく解説している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7851807/
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by shingen1948 | 2016-10-06 12:36 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 義経が逗留し、正月の接待を受けた館は、?
 「新平家物語(吉川英治)」では、義経は、佐藤継信、忠信の住居である大鳥城で逗留し、正月の接待を受ける。その館は、佐場野の医王寺の隣する一城郭だとする。
 それは「奥の細道」の場面設定のままだ。
 散策と結びつける情報を探ると、平安期の佐藤氏の居城は字舘付近ではないかという情報が見つかる。
 「大鳥城についての文献的考察(東北学院大学教授小林清治)」という資料だ。

 まずは「大鳥城誌」碑が建つ大鳥城が佐藤庄司の居城とする説は、歴史的な事実として差し支えないだろうとする。その上で、平安期の信夫佐藤庄司の居館は、この大鳥城の山上の地ではなく、字舘のあたりだとするのだ。
 字舘の辺りというのは、現大鳥中学校からその東側の堀切跡から西の付近までの広がりだ。
a0087378_8501796.jpg
 ならば、散策の中で「新平家物語(吉川英治)」が描写する信夫佐藤庄司の居館は、ここをイメージしたい。
 この事については、「高舘周辺散歩②~大鳥城についての情報を意識して」でも整理している。ただ、その時には「(大鳥城の)東側の上位砂礫段丘上には、舘、赤舘、中赤舘の地名が残るが、これは根子屋郭とされる。」としたこととの関連だろうと想像して整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/13610911/
 しかし、今は根子屋郭の情報と関連付けず、平安期の信夫佐藤庄司の居館が大鳥中学校の校地およびその東、堀切の跡から西のあたりにあったというふうに読み取っている。
 その上で、その後の大鳥城が山上の地に築城された頃には、居住地としての根子屋郭があったということなのだろう。

 芭蕉一行の大鳥城を訪ねたイメージは、?
 山上に大鳥城が築城され、根子屋郭とされたその位置も現大鳥中学校を想定しているという重なりだ。その読み取りの方が自然かもしれないと思えてきたということだ。時代的に、芭蕉一行の大鳥城を訪ねたイメージがこのことと重なる。
 芭蕉は、大鳥城を訪ねたとするが、ひょっとすると横目で見ながら温泉に向かったのではないのかなとも思う。天候も体調もすぐれなかったはずだからだ。
 少なくとも、大鳥城址といわれる山に向かったかどうは怪しいのではないのかなと思うのだが、どうだろう。
 ただ、山上の大鳥城を眺めながら、根子屋郭である大鳥中学校の校地およびその東、堀切の跡から西のあたりを経由して温泉に向かうということなら、納得しやすいかなと、これも勝手な想像に遊ぶ。
 なお、堀切跡の東側の大手門碑が建つ辺りについては、「高舘周辺散歩③~大鳥城についての情報を意識して②」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/13620447/
 芭蕉を追って飯坂まで来た子規は、間違いなく、飯坂温泉で夏の暑さに体調を崩してここすらも尋ねることができなかったということだ。
 大鳥城は、文人の来訪を結構拒否しているなというイメージがある。
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by shingen1948 | 2016-10-05 08:51 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 自分は奥州の庶民文化を知らないことが多い。
 散歩したことを整理していく中でいつも感じるのは、自分は知らない昔の奥州の庶民が常識として持っていたという文化を知らないことが多いということだ。
 若い頃を振り返ると、田舎に暮らす私達世代者は、高度成長期の東京の文化に目を奪われていたように思う。その結果として、自らの生活基盤である地に足着く文化のよさに気づくことがなかったのではないのかなと思う。
 それで奥州の庶民文化が自分達世代で途絶えているものが多いということなのではないのかなと思う。ただ、これは今思えばということであって、その当時は気づいていないことだというのがいいわけだ。

「大鳥城誌」の冒頭に、その奥州の庶民が持ち合わせていた文化にかかわることが記される。
a0087378_6312062.jpg 源平時代に、奥州平泉の藤原三代の文化陸奥に花開いたが、佐藤氏は世々その藤原一族としてこの地方を治めた事は有名で、古くから謡曲、演劇、平家琵琶などにも語り継がれているとする。
 「大鳥城誌」では、佐藤継信、忠信兄弟は、その佐藤氏の湯ノ庄司佐藤元治の子であるというのは、誰もが持ち合わせた常識であることを前提に書き出されているように思う。
 その常識は、自分も散歩の中で確認はしている。ただ、自分は例に挙げられた謡曲や演劇や平家琵琶などでの語りを聞いていない。単なる知識として持ち合わせているに過ぎないということだ。

 「街道をゆく(33)」でも、この奥州の庶民文化にふれる。
 奥州人は、あふれるほどに義経好きなのである。
 むかし琵琶法師が奥州にくだって弾き語りをするとき、義経のくだりになると、特に力を入れた。
 その義経に、奥州からつき従ってきた郎党に、佐藤庄司の息子の継信(嗣信)・忠信の兄弟がいた。琵琶法師は、この二人の物語になると、とくに悲愴の調子をあげた。
 その理由として、以下の三つの話を紹介し、「室町以降の奥州人にとって『平家物語』や『義経記』は、継信・忠信物語だった」としている。
 〇 継信が、屋島の合戦で義経をかばうべく矢面に立ってい抜かれて、身代わりになって死んだ話。
 〇 その後、義経は暗転し、16人の郎党と共に雪深い吉野山に落ちるが、ここも包囲されて脱出せざるを得なくなるのだが、この時に忠信は義経の身代わりになって引き際を防ごうとする話。
 〇 室町時代に成立した「義経記」によると、忠信が奥州から連れてきた若党は54人だったが、吉野山の段階では5.6人しかいなくなった。それでも峰一つを守って奮戦し、義経の落去を見届け、京で発覚し自害した話。

 この事は「大鳥城誌」にも記されている。
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by shingen1948 | 2016-10-04 08:23 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 大鳥城址に吉川英治氏撰文「大鳥城誌」碑が建つ
 「新平家物語」の作者吉川英治氏は、地元の求めに応じて「大鳥城誌」の撰文を寄せているようだ。その撰文が、大鳥城址に「大鳥城誌」碑として建っているのだ。
a0087378_5323268.jpg 求めに応じた理由に(佐藤)兄弟の事跡を書いたことを挙げる
 「大鳥城誌」の後半で、氏が求めに応じて郷土の郷土愛に呈したことについて、二つの理由を挙げている。そのうちの一つが「下って、私も迂著の新平家物語では、兄弟の事跡をそれに書きましたので、いわば無縁の徒でもありません」ということだ。
 今回は「新平家物語(吉川英治)」が描く「信夫の里」について整理してきたところだが、その描写の中で、義経が二人の兄弟と出会う場面を提示している。この事を指しているのだろうと思う。
 求めに応じたもう一つの理由に飯坂温泉とのかかわりを挙げる
 「芭蕉翁の真似びには及びませんが」と謙遜しながらも、「近くの飯坂温泉へは、若年しばしば稿を携えてゆかりなどある儘」とする。
 先に、飯坂温泉とかかわる文人を整理したことはあったが、そこに氏を意識したことはなかったし、資料もみた事がないと思う。今のところ、確認整理の手立ては持っていない。

 「大鳥城誌」全文を再掲する
 先に吉川英治撰『大鳥城誌』碑~大河ドラマと地域を結ぶ糸の整理でこの全文を記したことがあるが、整理したことと見比べながら確認したいので、ここに再掲する。
 http://kazenoshin.exblog.jp/15361621/
 大鳥城誌
 この地は源平時代の歴史に、また古くから謡曲、演劇、平家琵琶などにも語り継がれて、有名な湯ノ庄司佐藤元治の子、佐藤継信、忠信兄弟の生まれたところです。ふるさとの城です。その頃奥州平泉の藤原三代の文化もまたみちのくの花でした。佐藤氏は世々平泉の藤原一族として善くこの地方を治め、湯ノ庄司元治が、ここ丸山の頂きに祈願の白鳥を埋めたのを由来として、大鳥城と呼ぶようになったのです。
 治承4年、源頼朝の旗揚げを知ると、九郎義経は奥州の遠くからただちに平家追討の陣へ馳せつけました。途中、佐藤継信・忠信の兄弟もこの地で義経と主従の魡に結ばれたのです。そして屋島の浜合において戦い、兄の継信は主の矢盾になって討死をとげ、弟の忠信もやがてまた義経が不遇に落ちて吉野の奥に隠れ入った後、主に代わってむらがる敵中に消え去りました。
 次いで文治5年8月、義経の奥州落ちを追って鎌倉の大軍が差し向けられるや、二児を失ってもまだこの地に拠って古武士の気骨を持していた兄弟の父湯ノ庄司元治は、一族をひきいて石那坂に頼朝の大軍をはばみ、目覚ましい戦死をとげました。このことは吾妻鏡にも記録されています。
 旅すがら昔の人の心ばえやらもののふのあわれを感じては、よく夏草の跡へ句など手向けて歩いた俳聖芭蕉も、またこの地へきた折り、湯ノ庄司佐藤父子の跡を訪ねて弔ろうたと奥の細道に誌しております。下って、私も迂著の新平家物語では、兄弟の事跡をそれに書きましたので、いわば無縁の徒でもありません。
 それに近くの飯坂温泉へは、若年しばしば稿を携えてゆかりなどある儘、芭蕉翁の真似びには及びませんが、ここに拙文を草して郷土の郷土愛に呈したわけです。
 今日に立って昨日を見れば、すべて歴史は生々流転の音楽です。もしこの石の語るものが途上の遊子の胸を吹く旅情の一弦にてもなれば幸せです。ここの山河も諸子と共に奏でを合わせてやみます。
 吉川英治先生撰

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by shingen1948 | 2016-10-03 05:48 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 「新平家物語(吉川英治)」の「信夫の里」の描写では、
 「奥の細道」のイメージを大切にしつつ、物語の時代の風景に調整しているように思う。
 その意図は、義経と佐藤兄弟との出会いの場面の自然さを醸し出したかったからなのではないのかなと想像している。
 物語では、兄弟の母である尼と大鳥城で対面するのだが、これは初対面だ。しかし、出会うと直ぐに、その尼に導かれて隣の医王寺の御堂に籠ることになる。
 読者に義経を思う気持ちを自然なこととことととらえられるように、この尼の出自が頼朝とかかわる設定にされている。義経の母常盤も、頼朝とかかわる。この時代、このこの尼が義経を思うのには充分な繋がりであるとする。
 その尼に我が子の佐藤兄弟の何れかを従者するように依頼されるのだが、その場所が医王寺の御堂という設定だ。
 「奇縁と奇なる日」では、佐藤兄弟は「十綱の渡し」である「あけび綱の『籠渡し(かごわたし)』」で、義経一行を見送るのだが、この時点でほとんどの読者は、やがて、佐藤兄弟の何れもが義経の従者となるイメージを持っている。

 「奥の細道」では、
 義経と佐藤兄弟のかかわりを医王寺の場面に集約している。
 その事については、先に「医王寺と奥の細道」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/5553321/
 この中の現代の文に直した「奥の細道」の場面を再掲する。
 月の輪の渡しを越えて、瀬上という宿場町に出ました。佐藤庄治の旧跡は、左の山際1里半ばかりのところにあります。
 そこには飯塚の里、鯖野と聞いていたので、道を訪ね訪ね行くと、丸山の跡などがあり、地元の人の話すことを聞いて涙を流しました。
 また、直ぐそばの古寺には、佐藤庄治一族の石碑が残っていました。中でも二人の嫁(継信・忠信の妻)のしるしはあわれな話です。女ではあるが、かいがいしいふるまいにまた涙を流しました。
 寺に入ってお茶を飲むとここに義経の太刀・弁慶の背負った笈があり、寺の宝としています。
 笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)
 この中の「二人の嫁(継信・忠信の妻)のしるし」のイメージは、実際には斉川宿の甲冑堂でないのかなと想像したことについては「斉川宿③~甲冑堂」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8341623/

 「信夫の里」の描写を「奥の細道」が描く風景を重ねるように描くのは
 「十綱の渡し」で義経一行を見送った佐藤兄弟の将来の姿が「奥の細道」を通してイメージされるという構成になっているのではないのかなと思うのだが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2016-10-02 09:13 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 「新平家物語(吉川英治)」では、どのような意図で「あけび綱の『籠渡し(かごわたし)』」を創作しているのだろうか。
 「十綱の渡し」と十綱橋の名の由来である藤綱十条を曳いたイメージを組み合わせているのだろうと、想像する。

 物語としては平安の頃である。橋の由来と照らし合わせれば、藤綱十条を曳いた「十綱橋」なのだろうと思う。
 しかし、風景のイメージを借りていた「奥の細道」の時代には、両岸に綱をはり、舟をたぐる「とつなの渡し」だったのだろうと想像する。
a0087378_431130.jpg これは、飯坂温泉駅の待合室に掲示される絵の十綱の渡しあたりの部分だ。こんな感じだったのかなと想像する。
 ただ、「奥の細道」では、「短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。」と出立して、「猶、夜の余波心すゝまず、馬かりて桑折の駅に出る」というだけで、「十綱の渡し」そのものにはふれていない。
 「曽良日記」も、3日に、「雨降ル。巳ノ上尅止。飯坂ヲ立。桑折(ダテ郡之内)ヘ二リ。折々小雨降ル」と記すだけだ。
 しかし、飯坂から桑折に向かうには、この十綱を経由するしかない。橋の由来と照らし合わせれば、それは「十綱の渡し」ということになるだろうということだ。

 「奥の細道」のイメージを大切にしつつ、物語の時代の藤綱十条を曳いた「十綱橋」イメージも重ねて、「あけび綱の『籠渡し(かごわたし)』」は創作されたのではないかなという想像だ。
 「渡し」という語感も大切にしたかったのかもしれない。
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by shingen1948 | 2016-10-01 09:01 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)