地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 飯坂街道・古道( 53 )

 台山はその特徴的な形状から、位置確認のための指標とさせていただいていたが、信仰の山という意識ではなかったように思う。
a0087378_6554561.jpg
 「大笹生城跡へ向かう道」で整理した道筋は、神明神社前の道筋だ。この時に、この道筋が何となくいい雰囲気の道筋だとは感じているようだが、ここが台山を背にしていることにはふれていない。
 多分、台山を信仰の山として意識することが弱かったのだろうと思う。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8225114/
 神明神社の後ろにその台山を意識してみれば、こんな感じかな。

 この時点で、この道筋が「西海道」であることは分かっているはずだが、「飯坂古道」のカテゴリーに分類していないのは、いい雰囲気の道筋ということを大切にしたかったのだろうと思う。
 ただ、見直していくのに不便なので、「飯坂古道」のカテゴリーに変更しておく。
 今回、ここで「阿保原地蔵尊」を見つけてしまったことについてはどうするかな。

 とりあえず、ここに「ゆの村~祖先の足跡をさがして」(秋山政一著)で解説される神明の地名について解説部分を再掲しておく。a0087378_657642.jpg 「一般に『お神明さま』は信仰者が御神体(木製の神体に天照大神とか伊弉冉尊などと墨で書き、色つきの布を下げたもの)を捧げて、家々を廻って、祝言を述べて祈りながら歩いたのですが……」
 この地区で、どのような風習と結びついているのかの確認はしていない。
[PR]
by shingen1948 | 2014-11-10 06:58 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(0)
 今回「字夜の星」が気になったのは、古くからここに沼があったという事が想像できるという事だ。
 「字夜の星」の周りには、街道との関係にかかわる字名と地形に関わることが想像できる字名がある。その地形に関わることが想像できる字名を拾えば、北側に「字南原」があり、その東側に「字小金塚」がある。そして、その東側にも原の付く字名が並んでいる。
 井野目村はその西南に広がるのだが、井野目堰ができる前まではただの原っぱで、大笹生村・佐場野村・入江野村の村界の共有地であったということだ。
 つまりは、「字夜の星」の沼は、各村界の原っぱの風景の中にあった沼だったということだ。風景的に西側の山々からの伏流水が供給されるのであろうことが想像でき、佐場野村の水源としての役割だったことが想像できる。

 井野目堰物語の中で、佐場野村はその開発にそれ程熱心ではなかったように描かれているのをみたことがある。
 それは、この貴重な「字夜の星」の沼の水源を佐場野村が保有していたこととかかわるのではないかなとの勝手な想像と結びつく。
a0087378_1117673.jpg ここが、夜の星伝説の地点だが、字夜の星と沼地が重なるとすれば、湿地帯はそこから南東に広がっていたということか。


 先の整理でも、夜の星伝説それ自体にふれてなかった。
 「平野の伝承とくらし」では以下のように紹介される。

 昔、このへんに小さな池がありました。池のほとりに赤松の古木がありました。背丈はそれ程たかくなく、笠松のようになって池にかぶさっていたといいます。今から(平成8年)30~40年前までは確かにありました。松がたおれ、今では池もなくなってしまいました。
 ここにあった池を「夜の星」と呼んでいました。その由来は医王寺の山門を入った所、左手南側の案内板に記されています。南殿の桜の小枝を折ってその池にかざせば、昼でも池の水面に星がキラキラ光って見えたと言うことです。
 この南殿の桜とは、案内板の立っている所にある太い桜であるといわれています。

 そもそも南殿の桜というのは、京都御所紫殿の前に植えられてあります。「左近の桜 右近の橘」というのがありますが、左近の桜が南殿の桜のことで、医王寺の太い桜も同じ種類の桜だそうです。
 この桜は、栽培される桜の一種で、枝は暗灰褐色で、葉・葉柄・花柄などに毛があり、花弁は12枚のなかば八重咲きで、里桜とチョウジ桜の雑種とされ山には自生していません。

[PR]
by shingen1948 | 2014-10-24 11:20 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(0)
 前回、気になった飯坂古道の井野目村と入江野村の村界道を経由して大笹生に抜けて行く辺りの道筋について整理したが、気になる個所がもう一カ所ある。
 佐場野村と井野目村の村界道付近から字界道を進んで「字夜の星」を経由するあたりだ。

 先の村界を書き入れた字限図を拡大し、字名を頼りに道筋を書き入れ、それに飯坂古道「西海道」を書き入れて見る。
 すると、「字池の北」と「字夜の星」と「字街道端」の関係が微妙に違っている。
a0087378_6534865.jpg 二つの事が考えられる。
 その一つが、この字源図の間違い。それなら、現在の字名を優先させて、緑の点線で示した「西海道筋」と別の道筋との交点付近が「字夜の星」付近とみれる。
 もう一つが、「字夜の星」の位置変更を行ったこと。
 それなら、「飯坂古道」の「字柳の下」と「字南原」界から「池の北」に抜ける前で交差する道筋を右に折れて、次の角を左折して直ぐの付近が、「字夜の星」ということになる。

 先の「飯坂古道―大笹生~平野⑤」での整理では、「西海道筋」と別の道筋との交点付近が「字夜の星」付近と見ている。
  http://kazenoshin.exblog.jp/11002426/ 
 地域の人が、昭和30年代頃までは、確かに、この夜ノ星には小さな池があったといい、その風景を覚えていることから、その可能性が高いと思ったからだ。

 それで、「福島の小字【福島市史資料叢書】」の「岩代国信夫郡井佐野村全図」を確かめると、こちらでは、紫線で囲ったところが「字夜の星」としている。こちらは、※の部分もこの「字夜の星」としている。ご案内頂いたことや現況の道筋などを考慮すれば、こちらが風景に近いように感じるので、こちらをもとに「飯坂古道」の道筋を引いてみた。それが水色線で示した道筋だ。
[PR]
by shingen1948 | 2014-10-22 07:00 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(0)
 今回の三角山の散歩で、気になっていた事の一つに西海道がある。
 特に、佐場野村と井野目村の村界道付近から「字夜の星」を経由して字界道を進んで、井野目村と入江野村の村界道を経由して大笹生に抜けて行く辺りの道筋。
 その中でも、井野目村と入江野村の村界道を経由して大笹生に抜ける辺りの道筋が気になる。
a0087378_1695971.jpg 先の村界を書き入れた字限図に、井野目村を中心とした集落界を書き入れて見た。更に、気になる井野目村付近の西海道も書き入れて見た。
 西海道は、大笹生に向かうのに、村界の道筋を通る事になるのだが、気になる事の一つが、その村界が集落界と一致しないことだ。曲屋集落は、村界から南へもう一つの字を含んでいるのだ。

 ならば、西海道の原形は、どちらの界を進むことになるのかということになるのだが、「飯坂古道」では曲屋集落界に近い道筋をイメージしていることが分かる。
a0087378_16114475.jpg 先の「飯坂古道―大笹生~平野③」では、大笹生から進んできているので、「飯坂古道は、十六沼あたりからフルーツラインに重なって進んだあと、井野目の交差点の少し手前から、今の道筋よりやや南側を通って、曲屋の道筋につながっていたようだ」と表現するのは、この「飯坂古道」を参考にしているからだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10991987/
 ただ、曲屋集落が現在の範囲に拡大するのが、井野目村と入江野村界の道筋の後の話なら、村界の道筋自体を西海道と見る見方もあるようにも思えるのだ。

 「平野の伝承とくらし」によれば、街道沿いの石垣のある紺野宅が、曲屋紺野一族の大本家なそうで、集落で一番古い家なそうだ。このご先祖様が岩手県の南部出身とのことで、曲屋の語源にもなっているようだ。
a0087378_16174264.jpg この事を頭に入れながらやや古めの地図を確認し、古道と村界と集落界の道筋らしきものをなぞってみるとこんな感じだ。
 その集落らしき部分を赤で囲ってみると、この時点でも集落としては井野目村と入江野村界を越えていないように思う。
 ということで、古道と村界の道筋が重なるという見え方があってもよさそうにも思うが、些細な事ではあるな。
[PR]
by shingen1948 | 2014-10-20 16:20 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(0)

飯坂への道~旧道諸説②

 佐藤静雄氏の「飯坂道の今昔」による飯坂古道の道筋と、江代正一氏「古代道」がいう東山道(後期駅路)とが、少なくとも森合の一杯森から重なるとした。
 しかし、確認してみると、一杯森付近は大きくずれている。
 大きな違いとして、江代正一氏「古代道」がいう東山道(後期駅路)は、一杯森の西側を通るように描かれるが、飯坂古道馬道は、一杯森の東側に描かれることだが、これは先に分かっていたこと。もう一つ違がっていたことがあったのだ。
a0087378_4402053.jpg
 実際に歩いて確認している時点では、江代正一氏「古代道」がいう東山道(後期駅路)は最終的に佐藤静雄氏の「飯坂道の今昔」がいう飯坂古道の馬道と重なるというイメージで確認していた。ところが、それを整理するのに地図に落としてみたところ、重なるのは徒歩道の方のようなのだ。
 「ふたつやま公園」に掲げられる「森合史跡地図」の図をお借りして、東山道(後期駅路)を想像するらしい道筋として、黄色線を加えると、こんな感じだ。

 徒歩道が字曲松と字道下の字境に沿って右折して北進し、下谷地字境で西進すると、泉・前原線(市道)に合流するのだが、この道筋が、松川までほぼ直線に近い道筋で北進する。これが、東山道(後期駅路)とされる道筋を引いた線を延長させた線と重なるようなのだ。
 松川からは、飯坂古道は馬道と徒歩道は合流して北進する。その道筋は、やや西に傾くもののほぼ北に向かって直進する。
 二つの道筋の重なりは、「佐藤静雄氏の「飯坂道の今昔」がいう飯坂古道徒歩道が泉・前原線(市道)に合流した地点から平野字矢車の地点まで」とし、そして、飯坂古道はそのまま北進するとすれば、より正確な言い方になるのかな。
a0087378_4424796.jpg

 江代正一氏「古代道」がいう東山道(後期駅路)のこの一杯森までの道筋の想像だが、先にも記したように、江代正一氏の「古代道」が描く東山道(後期駅路)の道筋は、字名の資料等に描かれる。それで、現地を歩いてみた勘で修正を繰り返し、小字名を確認して地図に落としてみたものだ。
 その想像のポイントは、方向的には字児子塚のやや西側を結ぶ直線を意識しているということ。解説では、ここから坿屋敷(直線道路)―丑子内―街道下―一杯森という表現をしている。実際に歩く時には、一杯森の高まりが目印だ。
 なお、江代正一氏の「古代道」では、この字児子塚から郷野目村字向原まで、東山道(前期駅路)が北東に直進し、腰浜方面に向かうように描かれる。解説では、ここから坿屋敷(大森川、旧荒川の河岸段丘)斜向道路―下宿―渡利―腰の浜という表現をしている。
 旧道諸説を歩いた時点では、この字児子塚と、実際の児子塚を勘違いしていた事も、今回気づいた事の一つ。
[PR]
by shingen1948 | 2012-09-27 05:20 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(0)

飯坂への道~旧道諸説

 芭蕉も子規も、飯坂温泉へは「信夫文知摺観音」からやってくる。旧道諸説との観点からは、東から西に諸旧道を横切ってやってくるというイメージたろうか。
 ふと、その芭蕉が追う義経弁慶などがここに立ち寄ったとするならば、どの道筋を想像する事になるのかなと思う。
 岩手県平泉にいた源義経が源平合戦に旗揚げした際に継信と忠信が同行するのだが、その継信と忠信が平泉に向かったとするならば其の道筋、源義経が立ち寄ったものだとするならばその道筋。そして、義経と弁慶が、京都を離れ奥州藤原へ下向の途中、医王寺に立ち寄り、二人の遺髪を埋め、追悼法要を営んだとするならば、その道筋だ。
 西行が、佐藤氏を訪ねたと想像するならば、その道筋ということでもある。

 そんな視点で江代正一氏の「古代道」の資料を見てみた。
 この資料に描かれる道筋は、小字名の資料等に描かれるので、地図で小字を確認して道筋を想像し、現地を歩いてみた勘で修正を繰り返して、その道筋を想像してみる。
 すると、少なくとも森合の一杯森からは、飯坂古道馬道で歩いてみた道筋に近い道筋の想像らしい事が分かる。
 飯坂古道馬道は、佐藤静雄氏の「飯坂道の今昔」を参考に2006年あたりから歩いてみていたところだが、その馬道の森合一杯森付近から字矢車の地点辺りまでが、微妙なずれはあるものの、江代正一氏「古代道」がいう東山道(後期駅路)と重なっているようなのだ。
 江代正一氏「古代道」では、その地点から飯坂までが飯坂古道とするが、いずれにしても、道筋としては「飯坂道の今昔」の飯坂古道馬道と重なっている。
a0087378_652286.jpg
 ここが、その江代正一氏「古代道」が、飯坂古道と東山道(後期駅路)の分岐点とする字矢車付近だ。
 東山道を想像する根拠は知らないが、江代氏は、ここから飯坂古道は真っ直ぐ飯坂めがけて北に直進するが、東山道(後期駅路)は、中荒田・吉原・地蔵の小字界を通る道筋に沿って東湯野村を目ざすとする。
 ただ、この辺りはそれ以前の耕地改善に加え、高速道で分断されて道筋の想像は難しい。

 地図上に表現してみる。
a0087378_6554194.jpg
 東山道(後期駅路)とされる道筋の方は、方向としては細実線で示した方向で、字界を忠実にたどれば、太実線方向に向かうと想像されるらしい。
 義経と弁慶が医王寺に向かったとするならば、あるいは、西行が佐藤氏を訪ねるとすれば、地元の方々は、その道筋を江代正一氏の東山道(後期駅路)とする道と佐藤静雄氏の飯坂古道とする道の重なった道筋をここ字矢車までやってきて、ここから東山道(後期駅路)と分かれて、飯坂古道に沿って飯坂に向かって北進したのであろうと想像をするのだろうか。
a0087378_6573813.jpg
 個人的には、この字矢車と字天王下の字界から天王社に向かう道筋も気になっている。何の根拠もないのだが、この辺を歩いた感じでは、この天王社を中心とした放射状に多くの地点を結んでいる感じがするのだが、それだけかと言われればそれまでではある。
[PR]
by shingen1948 | 2012-09-26 07:03 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(0)
a0087378_35391.jpg
 高舘の公園南側に「ふくしまの散歩道50選」の案内板が建つ。
 
 その案内の中で気になったのが、「花水山孝徳寺跡」の地点だ。この「花水山孝徳寺」についての案内を目にしたのは2度目だ。ただし、その詳細の案内は見ない。

a0087378_371879.jpg  
 「花水坂」は「花水坂駅」の北側に飯坂線とクロスして登ってくる道筋だが、この案内板には描かれていない。この道筋については、先に「飯坂古道最終地点の確認」として整理した。
 この時の散歩では、とりあえず坂を登り切った所を最終地点とした。しかし、花水坂というのは、「花水山孝徳寺」の参道ということのようなので、本当はこちらを最終地点としなければならないのかもしれないとは思っていた。

 ここで確認したことは、「花水坂駅」の「花水坂」というのは、駅の北側を東西に交差する坂の名称であるとこと、それは、明治6年(1873年)に廃寺になった「花水山孝徳寺」の参道であること、そして、ここが飯坂古道の一つの最終地点であるということだ。
a0087378_31143.jpg
 この辺りかなと思う辺りを何度か歩いてみた。何となくこの辺りとめぼしをつけたのが、この空き地があって、その奥に地蔵と石碑が大切に管理されている風景だ。この辺りが似合っていると思っていた。この地点、高舘の公園案内板で案内される地点と重なるような気はするのだが、よくは分からない。


a0087378_3124264.jpg
 この地蔵と石碑が建つ坂道は、民地へ向かうようなので遠慮して、次の道筋に回り込んでみる。
 確認していくと、大門へのつながりが意識される。
[PR]
by shingen1948 | 2011-09-16 05:20 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(0)
a0087378_4385224.jpg
 飯坂古道の道筋を土手側から確認したら、民地に入って行き止まりになるのではなさそうだということが分かった。それで、行き止まるまでの道筋を確認した。

 この先の民家の裏にある道筋が、先に確認した行き止まりの所だ。


a0087378_4401822.jpg
 そこから土手を超え、河原まで抜けて、橋の下をくぐったどこかから松川を横切ったのだろう。
 飯坂古道は、崖を登って先に整理した道筋に沿って、途中瀬上道と分かれ、菅原神社方面へ向かうようになるのだろう。


 今回の散歩では、この地区の石仏があちこちに移動された様子も確認した。そのきっかけは、この地区が住宅地に変貌することに伴うもののようだが、それだけではなさそうだった。
 道路網が整備されてこの地区の交通が便利になるのだが、その反面コミュニティーの分断があったようだ。その時にきずなの拠り所として石仏が意識されたというような形跡がある。
a0087378_454769.jpg
 この「難除馬頭尊」が鎮座するのは、どの道筋の行き止まりだったかは忘れた。多分、飯坂古道の行き止まりの右手だったと思うが曖昧だ。
 ここに案内板が建っているが、傷んでいて読みとれない所もあるが、次のような概略だと思う。

 この難除け馬頭尊の本体は、刻字によると明治15年2月に建立とのことだ。元々は、泉川原前川寒橎南側約80mの地域に鎮座して、毎月旧暦祝日にはお供え物をして供養していたという。そこには、この馬頭尊も含めて大小8体の石仏が鎮座していたという。
 それが、昭和24年頃に、この地域全体が住宅になった事に伴って、この馬頭尊本体は、泉八幡地区にある八幡神社に移されたという。
 それ等の経緯の後、昭和48年9月14日この馬頭尊を地域の心のよりどころにしたいということでこの地に鎮座し、毎年9月14日が祭礼の日とのこと。

 八幡神社からの移動に、分断されたコミュニティー意識の復活の思いを感じる。 
a0087378_4595781.jpg
 保育園の北側には、金毘羅大権現他幾つかの石仏が鎮座していた。


a0087378_524744.jpg
 中には入れないので、後ろ向きの写真だけ撮らせていただいた。
 案内柱が建っていて、金毘羅大権現について解説されていた。それによると、文政10年11月建立らしい。もと飯坂古道作場道脇に建立されていたものだが、地区の発展に伴って、ここに鎮座したとのことだ。


※ 自分がこの地を動かないのは、単にここを動ける状況にないからでしかない。
 しかし、長いスパンで考えれば、大きな決断になっているのかもしれないとも思う。
 長いスパンというのは、チェルノブイリ事故を、たった25年しかたっていないという位の感覚の長さだ。

 福島県民は、100mSvを健康被害が発生し始めるしきい値で、それ以下の低線量被曝なら、細胞の自己修復機能が働くと指導されてきた。それで、福島県民は、他の県民と違って、20ミリシーベルト/時を基準とした国の指針に従うのが国民の義務(福島県アドバイザーの二本松市講演会での指導)ということで指導を受けている。

 福島原発と同等あるいはそれ以上といわれる「チェルノブイリ原発事故」では、放射能汚染地域の法的扱いについては、次のようだとの情報がある。
 この法の基本になっているものは、年間被曝量が1ミリシーベルトを越えなければ、人々の生活および労働において何の制限措置も必要としないという考え方で、今までの日本の基準と変わらないようだ。それに基づく汚染地域は、以下のように区分されている。

 ○ 無人ゾーン:1986年に住民が避難したチェルノブイリ原発に隣接する地域。
 ○ 移住義務(第1次移住)ゾーン:各放射能による土壌汚染基準(略)の地域。
 ○ 移住(第2次移住)ゾーン:年間の被曝量は5ミリシーベルトを越える可能性がある。又は、各放射能による土壌汚染基準(略) の地域。
 ○ 移住権利ゾーン:年間の被曝量は1ミリシーベルトを越える可能性がある。又は、各放射能による土壌汚染基準(略)の地域。
 ○ 定期的放射能管理ゾーン:年間の被曝量は1ミリシーベルトを越えない。又は、各放射能による土壌汚染基準(略)の地域。

 チェルノブイリ事故の場合は、被災者に対し次の特典を定めている。
 ○ 医者の処方に基づく薬の無料入手
 ○ 家賃の50%割引、暖房・水道・ガス・電気代の50%割引・所得税の免除,休暇の割増等
 ○ 被災者には普通より早く年金生活に入る権利

 チェルノブイリの事故なら、福島は移住(第2次移住)ゾーンの可能性がある。
 この地にいると、関東の1ミリシーベルト/年を超えに自衛策を考えるべきだとする感覚を空騒ぎと見がちだが、チェルノブイリ事故なら、移住権利ゾーンではある。

 中央で指揮をとられていらっしゃる方は、福島県民には20ミリシーベルト/時を基準とした指導をするが、本音ではチェルノブイリ事故基準も頭にあるはず。多分、汚染がれき最終処分場を県内に建設する計画を示した際の環境省事務次官の発言は、その本音が現れただけだと思う。
「福島県は、後利用がしにくい地域ができる。当該市町村の理解が必要だ」
 県民は反発するが、本当はそちらが正常な感覚なのだろう。本音と建前がごっちゃになるので分かりづらいだけなのだと思う。

 長い時が過ぎた時、こんな地域に居残った自分を変人としか見ない時もくるのだろうと思う。
[PR]
by shingen1948 | 2011-06-18 05:11 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(0)
 岩代清水駅前の道筋から八幡神社方向に向かう飯坂古道途中の日本廻国供養塔があったことを抜いたままにするのは落ち着きが悪い。
 それをつけたしておく。
 これが、「日本廻国供養塔」。案内柱が建っている。
a0087378_4512729.jpg
 日本廻国供養塔
 2基の経典供養塔は、200年以上昔のもので、66部の法華経をつくり、全国66ケ国の寺院や霊場に奉納するため、国々を廻った証として、建立されたものです。
 施主 常州下舘 荒川治良衛門
 天明6年丙午年3月建立
 行者 佐藤宗兵衛
    妻 こん
 泉地区郷土史研究会

a0087378_50394.jpg
 古道の道筋は、改修前はこの石塔に近いところを通っていたようなので、古道からは、こんな風な視界でみえたのではないかと思う。

 先に確認したように、古道はここから字界の道に入る。
 字界の道に入ると、「飯坂道の今昔」では砂利道と紹介されるが、次の交差点までは舗装されている。
a0087378_535974.jpg
 それから、先の石塔のあった道筋になるが、ここは紹介されたままの砂利道だ。この先に簡易舗装された細道が続く。


a0087378_5101837.jpg
 次の交差点を越してからは、また砂利道が続く。
 ただこの道筋なかなか入りにくかったのは、行き止まりになっているような感じだったからだ。


a0087378_5131775.jpg
 土手側から回り込んで確認する。ここから土手に抜ける道筋だった思われる。

 ただし、この土手は、後の時代にできたのであろうと思われる。そのままの高さで河原まで抜ける道筋だったのだろうと想像する。



 ※ 「毎日新聞」は、郡山タウン誌が、放射線で頭も良くなったと被ばくの効能を強調する記事を、実在の大学教授からの寄稿と偽って掲載したことを報じた
 これが、幾つかのインターネットで取り上げられ、非科学的などと批判が相次いだとのことだが、
その記事は偽寄稿だったということだ。偽った報道がよくないというのは当然だ。

 この記事は偽りでけしからん事だが、学者様が放射線被ばくの効能などという馬鹿なことを言い出すはずがないと思うのも早計ではある。
 多分、本音と建前がある。立場上、現状では言ってはいけないことをわきまえているに過ぎないとも思う。

 「朝日新聞(2011・5・5)」のインタビュー記事で、自民党の反原発河野太郎氏とのインタビューを並立させて掲載されていた加納時男氏とのインタビュー記事を目にした。
 直接みかけたのではなく、ネットの中で確認した
 何かの情報で、被災者の方が絶対に許す事ができないと名指しで批判しているのをみて、確認したものだ。

 確かに、「低線量放射線は体にいい」とおっしゃっている学者さんがいらっしゃる事を、政策会議の「参与」らしい方が認めている。
 記者のインタビューに、以下のように応えているらしい。
 「低線量放射線は『むしろ健康にいい』と主張する研究者もいる。説得力があると思う。私の同僚も低線量の放射線治療で病気が治った。過剰反応になっているのでは。むしろ低線量は体にいい、ということすら世の中では言えない。これだけでも申し上げたくて取材に応じた」

 当時、福島ではまだ日常の生活を取り戻すのに必死で、発言に怒るゆとりが無い人が多い時期だったと思う。
 この現東電顧問・元参院議員の「加納時男」氏は、政策会議の「参与」として名を連ねているとのことだ。
 こちらの方は、現地と離れた東京からの発信で、建前よりも本音に近い認識での発言と思っている。

 情報としては、一般論ということまで引いて、原発講演においでになる専門家の方々の間の私的なメールでは、それに近いやりとりがあってもおかしくはないという受け止めもあっていいように思う。
 断罪することで満足してしまって、一つの視点を見失うことも心配ではある。
[PR]
by shingen1948 | 2011-06-17 05:24 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(0)
a0087378_575814.jpg 「飯坂道の今昔」に紹介される飯坂古道のおおよその道筋が確認できたので、地図に整理してみる。こんな感じだろうか。

 なお、黄緑の線で示した部分は、手持ち資料からの推定だ。実際に歩くことが出来るのは、西環状線の側道だ。
 現在庚申塔があるという民家の南東67mの位置に、この「右いいざか」「左ふくしま」の道しるべがあったということから、八幡神社から進んだ道が西環状線方向に進み、そこからこの道筋に入るのだろうと想像した。
 住宅地図で確認し、実際に歩いてみると、西環状線を挟んだ細道がこの道筋とつながっているようだった。少し西側に回れば道があるのに、ここに地下歩道が設置されているのは、その事を配慮されたのだろうと想像した。
 字界なども考慮すると、八幡神社から真っ直ぐ東に進んだ道がこの細道と交わったのだろうと想像した。そこに庚申塔があったと想像したが、確認はしていない。

 この前の飯坂古道の道筋が、岩代清水駅付近から八幡神社を経由してつながる。その道筋が、今まで思っていた道筋と少し違うかもしれないと思えてきた。
 「飯坂道の今昔」で描かれた道筋は、石塔のあたりから八幡神社付近にかけて、もっと西寄りの道筋のような気がしてきた。
 岩代清水駅の踏切を越えて暫くは、古道の道筋と重なるようだ。
a0087378_51181.jpg
 確認すると、石塔の手前からその名残のように感じられる地形がある。
 最近も西環状線整備に伴っても、この道筋も改良されたようだ。ヤフーの航空写真と地図を重ねてみると、八幡神社の境内を利用して道幅を広げる改良だったように想像する。
 これが、それら改良のなごりだろうか。


a0087378_5145667.jpg
 その先のこの火の見やぐら・消防詰所・八幡神社とこの古道の道筋が、どんな風な位置関係であったのかは、地元の方のみぞ知るという状況だ。
 ただ、「飯坂道の今昔」で描く古道は、神社の西側を経由しているようにも伺える。

 ここから福島方面の飯坂古道は、「飯坂古道の泉付近を確認中」につながる。更に、その前の道筋が、「地図に沿って泉地区の飯坂古道を歩きなおす」につながる。

 日本廻国供養仏にもつなごうとしたら、まだ整理していないようだ。実際には何度も確認しているので、整理しているものと思い込んでいた。後で確認し直しておくことにする。

 

 ※ 先に、ネットの中で読み取れた行政側と危機感を募らせた若者層の間のギャップを確認した。 その時に、「その若者層の意見の中に、京大の先生方の調査結果が村長に届けられたはずだが、それが公表されていない」というのを見かけた。
 多分、NHK・ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図〜福島原発事故から2か月〜」の中にも登場した調査だと思う。
 それなら、4月4日付けで、ネット上でも公開されているのをみた。
a0087378_5284539.jpg 京都大原子炉実験所の今中哲二氏の「3月28日29日にかけて飯舘村周辺において実施した放射線サーベイ活動の暫定報告」だろうと思う。
 線引きにこだわらない対応・対策やサーベイ、汚染除去、村民健康管理の実施などを求めている。
 独自に、妊婦さんの早期避難等が行われていたのは、これ等データをもとにしていたのだろうと想像していた。
[PR]
by shingen1948 | 2011-06-16 05:29 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(2)