地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:☆ 死生観( 6 )

 8月のこだわりを漠と感じていたのだが、明確ではなかった。なるほどと思う意見を見つけた。
  「毎日新聞」(2007.8.12)「発信箱」で、広岩近広専門編集員が、「死者たちの8月」と題した記事に感じるものがあった。
  その中で、俳人長谷川櫂氏の言葉を紹介している。
 八月は死者の月。私たち生きている者にとっては死者を弔う月だ
はるか昔から、先祖の魂を家に迎えて数日を過ごす死者と過ごす月だったが、そこに戦後から原爆の日と終戦の日が加わった。

 長谷川氏は、ここに9月1日の関東大震災の日を加えて全くの偶然だが意味のある偶然だと雑誌「俳人」で述べているという。そこに、日航機事故等も加えれば、確かに、死者を弔う月だということに合点がいく。
  記者がいうように、原爆や空爆の犠牲者は、何の罪もない人々が戦争の結果として尊い命を奪われているということである。

 更にぴたりと決まった感じだったのが、石垣りん弔辞の言葉の引用文だ。孫引きは最悪というのを知りながら、借用する。
死者の記憶が遠ざかるとき、同じ速度で、死は私たちに近づいてくる。
戦争の記憶が遠ざかるとき、戦争がまた 私たちに近づく。
そうでなければ良い。
8月15日。眠っているのは私たち。苦しみにさめているのは あなたたち。行かないで下さい 皆さん、どうかここにいて下さい。

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by shingen1948 | 2007-08-21 20:02 | ☆ 死生観 | Comments(0)
死生観を語るのは、宗教関係者との固定観念があった。偶然、2007年 3月 4日(日)午前5:00からのNHKテレビ「心の時代~宗教・人生」番組の「森の記憶とともに」という放送を観た。
語っているのは、吉田敏浩氏というジャーナリストであった。聞き手の大高崇氏に、北ビルマ山岳地帯で自ら生死をさまよい、少数民族カチンの人々の自然な精霊信仰に魅せられたことを語っていた。私にはとても新鮮に感じられた。

  内容的には、ミャンマーでの解放軍と生活を共にした経験の中から、少年の死の経験をもとに、自然な精霊信仰の在り方について、また、政府軍の死体との対面から、死者との対峙のありかたについて語っていた。他者の悩み痛みに寄り添うことや、生と死を自らの胸に抱いて多様な生き死にを見つめること等の有り様を模索しているとのことだった。

 著者検索で、氏が、フリー・ジャーナリストで、85年3月から88年10月まで、ミャンマー北部のカチン州とシャン州を長期取材し、その記録をまとめた『森の回廊』で、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞された方だと知った。お恥ずかしいことだが、それまで氏を知らなかった。著作を確認したら、主著の中に「民間人も戦地へ」、「反空爆の思想」等反戦の著書があった。この本なら本屋で見たことがあると思ったが手に取らなかった。それは、私には、反戦運動のイメージは、正義感をもとにした政治活動としての印象が強かった。それで、手に取る事は無かったのだ。

 ところが、氏は、自ら生死をさまよい、少数民族カチンの人々の自然な精霊信仰を体験を通して理解し、他者の悩み痛みに寄り添うこと、生と死を自らの胸に抱いてた上で、反戦の思想を著しているのだ。

 手に取らなかったのは、自分の反戦イメージの貧弱さと、死生について求めるものが浅かったから、見ていても見えていなかったせいであることを認識した。
 まずは、氏が魅せられた少数民族カチンの人々の自然な精霊信仰について学んでみたい。
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by shingen1948 | 2007-03-05 20:02 | ☆ 死生観 | Comments(0)
<訃報>池田晶子さん46歳=文筆家 [ 03月02日 19時00分 ] Excite エキサイト : 社会ニュース
 「千の風になって」以来、死との付き合い方が気になっていたところだったが、毎日新聞を開いて、写真入の訃報が目にとまった。池田晶子さんの死去を報じたものだった。2月23日に腎臓ガンで亡くなったとのことである。46歳の若さだったようだ。
 主な著書として、「14歳からの哲学」を掲げてあるが、私が、この著者のものを読んだのは、「41歳からの哲学」という本である。これは、「週刊新潮」2003.5.1から2004.6.3号までの「死に方上手」のタイトルで連載したものを集めたものだ。その後も、「人間自身」として続けられているということであった。訃報によると、「サンデー毎日」で「暮らしの哲学」を亡くなる直前まで活動していたとのことである。

 「41歳からの哲学」を手に入れたのは、哲学という本のタイトルが気になって、つい立ち読みしてそのまま購入してしまったものだ。面倒くさい哲学という言葉を臆面もなく前面に押し出したことが、私が手にすることになった理由ということだ。
 訃報に接し、改めて本棚から引っ張り出して、第五章「信じなくても救われる」を読み返した。
あの世とこの世については、分からないことが分かっていないというテーマでまとめてある。死んだらどうなるというテーマでは、墓・葬式・霊の弔いという観点で、考察している。宗教との接し方については、神道・宗教について考えている。
 改めて心に留めて自分の考えを熟成したい。
 ご冥福を祈ります。

 <訃報>池田晶子さん46歳=文筆家 の記事内容
 親しみやすい哲学エッセーで知られる文筆家の池田晶子(いけだ・あきこ、本名・伊藤晶子=いとう・あきこ)さんが2月23日に腎臓がんのため亡くなっていたことが2日分かった。46歳だった。葬儀は近親者のみで済ませた。自宅は非公表。喪主は夫實(みのる)さん。

 東京都生まれ。慶応大学文学部哲学科卒。難解な専門用語を使わず、日常の言葉で執筆した著作は幅広い層の人々に支持されている。主な著書に「14歳からの哲学」「14歳の君へ」「帰ってきたソクラテス」「知ることより考えること」などがある。「サンデー毎日」で「暮らしの哲学」を連載し、亡くなる直前まで活動は続いた。

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by shingen1948 | 2007-03-03 19:57 | ☆ 死生観 | Comments(2)
[「お墓」の誕生]を読んでいて、気になる観点があった。それは、今までの葬送儀礼の実施では無理が出る場合だ。
本書は、その具体例として戦死を扱っている。
 戦死は遺体が存在しないという今までにない経験対応である。遺体埋葬の伝統地域でも、石塔建立を重視せざるを得なかったという。この場合、家という単位では、戦死者の個性が重視されることになった。それが、多重祭礼として拡大していくときには、個性は消滅し、抽象性の高いものになり、露出性が加わった。そのことで、石塔は、祈念の対象としてだけでなく、記念性がでてくるという。その過程で、祭礼のレベルが複数になり、それぞれのレベルで宗教が違うことも起きてきたという。そういう受け入れをしてきたと紹介されている。

 現在ではどんな場合が想像できるのだろうか。
 出生率が、2ならば、確率的に、長男と次女、長女と次男の組み合わせで結婚することが多いので問題は起きないだろう。しかし、出生率が2を切ったところで、長男長女の婚姻組み合わせの割合が高くなる。また、それが実家から離れて生活する者も出てくることが多いということが起きる可能性が高い。このことが、現代の墓を守るという観点からは、葬式仏教との整合性が確保しにくくなっているという問題が起きるといえる。

 この問題に対処するのには、葬式仏教的な先祖祭礼の経緯の確認が必要になると思う。そのことを本書によって確認する。
 要約すれば、葬式仏教が、生活及び身体感覚レベルまで浸透した象徴が「現代の墓」とのことだ。これは、近世幕藩体制政策の一環として、寺檀制度として宗門人別張に家単位で一人一人が記載されことが、始まりとのことだ。それが、民衆に受け入れられたことになって、現代でいう戸籍の機能を持った寺の役割が確立し、発展したものとのことだ。

 このことと、原始的な葬送儀礼のあり方を考慮して、新しい葬送のあるべき姿を創造することが必要になってくるだろう。
 解決のヒントは、「千の風になって」の「お墓の前で泣かないで下さい。そこに私はいません。」という歌詞をかみしめる事ではないだろうかと思う。
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by shingen1948 | 2007-02-27 21:43 | ☆ 死生観 | Comments(0)
 「千の風」の「お墓の前で泣かないでください。そこにわたしはいません。死んでなんかいません。」が気になっていた。お墓と死者への敬愛が気になり始めたところで、「お墓の誕生」に出会った。
 この本は、死者祭礼の習俗や儀礼の常識を民俗学から問い直し、そのありようを探っている。祖先への敬愛、家制度の因襲、お盆・葬儀・お墓参りなどのやり方、嬰児や戦死者の鎮魂。これらのこととお墓や死者祭礼の関連を探っている。

 若い頃、今で言う地域学の方から、「亡骸」は、「なきがら」で、魂のない遺体ということだということを念頭に調査しているということを聞いたことがあった。この本の読後には、両墓制の考え方のようだと分かる。しかし、このときには、実感のない世界だった。
 実感のある問題になったのは、親との別れの経験である。親の死が訪れた時、それを悲しんでいることができないで、しきたりに追われていった。あり方などの原点について考えるゆとりは無かった。
 最近になって、心にゆとりができ始めると、葬儀、お盆などのお墓参りをしている自分と、しきたりと死者への敬愛の関係が気になり始めていた。そんな時に、千の風に出会ったので、死んだ親はどう思っているのだろうかと気になりだしていたところだった。

 氏は、いろいろな風習の考察から、墓制について、処理形態、 遺体遺骨の処理方法、二次的装置としての石塔建立という三つの観点からから分析する。
そして、その様式の考察から、以下のマトリックスにする。
  処理形態 処理方法 石塔(二次的装置)  内容
  遺体    埋葬   非建立      石塔を伴う墓制の前史
                      風葬・遺体遺棄・盛り土・自然石等設置を含む
  遺体    埋葬   建立       単墓制 両墓制
  遺骨    埋葬   非建立      墓上植樹
  遺骨    非埋葬  非建立      無墓制 
  遺骨    非埋葬  建立       現代のお墓カロウト式石塔
  
 この観点で、民族的世界を起点として、現代のお墓が誕生するまでを確認していく。そして、仏教とのかかわり、寺とのかかわり、戦死という今まで未経験の死とのかかわり、子どもの成長段階と遺体埋葬の風習等から考察している。

 読後に、やはり、死んだ人は、お墓に眠ってなどいないし、死んでなんかいないんだと改めて実感する。
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by shingen1948 | 2007-02-25 05:50 | ☆ 死生観 | Comments(0)
旧暦1月5日月齢4.45大安丁亥
昨日の旧暦1月4日は、月齢3.45仏滅丙戍

 
  NHKの「千の風に乗って」という番組を観た。
世界中の死者を悼む場で読まれ続けてきた作者不詳の詩「千の風になって」をもとに、女優の木村多江がこの詩に導かれて、愛する人を失った様々な人と出会う悲しみと癒しの物語をドキュメンタリーとして展開する番組だ。再放送で、家族は前も観たらしい。脇でいろいろ解説する。

  私は、紅白歌合戦は、ここ何年も観ていないので全く知らなかったのだが、家族の話では、紅白歌合戦以来、この「千の風に乗って」という曲が話題になっているとのことだった。日本でも作家・新井満氏が翻訳していて、家族は、その「千の風に乗って」という本を買ったということだ。
このことに関しては、私は全く知らなかった。家族から自分だけが取り残されたという感じだ。その本を借りて読んだ。
  CDを探すと、秋川雅史 のシングル盤の「千の風に乗って」と「威風堂々」というCDの中に納められているものがあった。「威風堂々」を選んで聞いた。

  「お墓の前で泣かないでください。そこにわたしはいません。死んでなんかいません。‥‥‥。」の部分がいつまでも残る。何故か気になるフレーズだ。
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by shingen1948 | 2007-02-22 05:09 | ☆ 死生観 | Comments(0)