地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 会津への路(伊達政宗)( 231 )

 内野停車場―下舘駅間 ~ 沼尻鉄道廃線跡⑦の中で、「磐椅王国」のページに掲げられた地図をもとに八手山城の位置をプロットしたところだが読み違えたらしいので修正する。
a0087378_6334678.jpg 「川桁山の西へ張り出した尾根上」という紹介に引きずられたようだ。マホロンの「遺跡データベース検索」で表示された地図を確認すると、白津の方向に貼りだした尾根上で、もっと手前だった。
 ついでに、「会津合戦記」には、「37、建久二年(1191)耶麻郡猪苗代八手山城(白津柵)」として、「建久二年辛亥義運之孫大炊介経連築き住す。亀ヶ城と稱す又白津に柵を築く。建久二年辛亥東西十六間南北九間城代岡部弥彌太郎居る(会津古塁記)」と記されるようだ。
 ただし、「磐椅王国」のページでは、「年代は不明で『会津古塁記』には建久2年(1191)築城、亀城と称すとありますが、その形態から南北朝以降に築かれたものと考えられます。」と解説される。

 もう一つついでに、マホロンの「遺跡データベース検索」では、猪苗代町 八幡字館ノ内地内に「内野村柵跡」も記されるので、これもプロットしておく。
 「会津合戦記」には、「33内野村柵(耶麻郡)大永自天正(1521~1591)」として、「昔恵日寺之代宦小檜山丹波住す。大永自天正之頃子孫同孫六(六郎)居る(会津古塁記)」と記される。

 なお、白津の平野部一帯(白津・白村東・白村西)は、縄文土器の散布地で、猪苗代地方でも1、2に属する縄文時代中期から後期にかけての大きな遺跡で「白津遺跡」としてプロットされている。ちょっと東寄りの「川桁字林口」の「林口遺跡」、「八幡字都沢道」の「都沢道遺跡」では、調査も行われているということのようだ。

 ※調査された「林口遺跡」は、白津集落東側の畑地に立地するようだが、ここは旧石器時代の終末期・縄文時代前期の遺跡のようで、旧石器時代の石器が発掘されたようだ。「磐椅王国」のページに、「尖頭器・彫刻刀石器・スクレイバーがみられ、これらは倒木痕の堆積土中より一括して発見されていますが、恐らく当時は木の根元にデポ(埋納)として置かれていたものと考えられます」との紹介。

 今回は、沼尻鉄道廃線跡の散策だが、情報としては、会津への道・伊達政宗とかかわるので、そちらに分類しておく。
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by shingen1948 | 2014-08-27 06:39 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 小森舘前の道筋の先というか、耳取川筋先というか、そちらに鎌田舘がある。
 ここは、2009年2月に「鎌田城」として整理している。土塁が残り、舘跡のイメージがしやすいところだった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7989181/
a0087378_603348.jpg この鎌田舘には、農面道路を下ってくるか、福島方面から街道筋を通ってくる事が多い。それで、今回のこちら側から近づくのは初めてで、その見え方も違っている。そのせいか、今回、鎌田公民館に鎌田舘跡の石碑が建っているのに気づいた。現地にたどり着くと、大概ぐるりと回ってみるのだが、その時に気づいていない。新たな見え方の成果かな。
 先の散策で知ったのは、耳取川筋は、舘の南から東にかけて流れていたものを、付け替えたとのこと。それなら、耳取川筋は、この公民館前辺りを東に流れていたのかな。

 この鎌田氏は、戦国時代には伊達氏の家臣となっていて、天文の乱では、嫡流の鎌田四郎兵衛某と出羽国長井庄の庶流の鎌田与総衛門が晴宗について加恩され、名取郡の鎌田助六は稙宗について失脚したという事だった。
 ここ鎌田氏の子息は、天正18年(1590)伊達政宗の岩出山城移住に従って鎌田郷を後にしたとか。

 冨塚舘の冨塚氏は、天文の乱で稙宗方となったため乱後は、一族はほとんど領地を没収され、冨塚村の大部分を領有したとみられる冨塚新左衛門の冨塚在家・青木在家・上丸子その他が没収されている。その領地は、晴宗方だった大塚将監に与えられたとか。
 天文の乱で、どちら方についたかで、大きく運命が変わったという話らしい。
a0087378_622639.jpg
 鎌田舘跡の石碑が建つ公民館前の道筋を進むと、街道筋との交点に、鎌田村の道路元標が建つ。

 なお、この鎌田舘の跡には、鎌秀院が建つのだが、その墓地には、寛延農民一揆の寛延の三義民といわれる猪俣源七氏の墓が建つ。このことについては、先に「寛延農民一揆~寛延三義民猪俣源七」として、整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8055428/
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by shingen1948 | 2013-04-18 06:03 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 台畑周辺は、松川が形成した下位砂礫の段丘だといわれる。その台畑周辺の散策を通して、その高台の感覚を確認できた。ここに、台畑のこの高台には平安時代の住居跡とされる遺跡と平安時代の水田跡の遺構があること、そして、弥生時代の水田遺構も重なっているということもイメージする。更に、奈良時代初期には、この高台は住居跡ではなく、東斜面に窯跡と思われる遺構があるとも……。
 ここに、その高台の南縁に相当する冨塚前遺跡のイメージが重なる。ここには、時代的な空白を埋めるかのような水害にあったと思われる古墳時代の住居跡があり、鎌倉・室町時代の「屋敷の区画溝の遺構に青磁碗と白磁皿、それに茶色い瀬戸の陶器の大型壺と小型の千手観音の仏像の遺物が発掘され」があり、これが富塚舘と無縁とは思えないということらしかった。
 その富塚舘は、字冨塚とも字冨塚前もかかわるとかという曖昧さは残しながらも、台畑の高台南縁を意識させた。
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 この散策で、幾つかの見え方に変化があるのだが、その一つがこの台地から東側に下る耕地に適する地帯としての見え方なのだと思う。この東側の向こうに先に散策した本内舘・鎌田舘等があるのだが、この散策時点では、どちらかというと街道沿いの意識が強く線的なイメージだったように思う。これが、高低を含む面的な広がりの中に見えてきているように思う。
 そんな中で気になってくるのが、小森舘の確認が抜けている事かな。
a0087378_945838.jpg この舘に関しては僅かな情報しかなく、先にふれた「冨塚前遺跡報告書(2006年)」の第2節「歴史環境」に、「小森舘跡は、冨塚舘跡とも呼ばれていたが、現在は小森舘跡の名称で県の遺跡台帳に登録されている」とし、その現況を「現在は果樹園・住宅地と化し、土塁・濠は失われている」と紹介されること。
 その現況とされる「果樹園・住宅地と化し」とされる部分を、南側から確認すると、こんな感じかな。

 もう一つが、「歴史地図」に「小森重右衛門 鎌倉末期?」とあり、その北西に、「ゆうれい重右衛門的?場」がプロットされること。
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by shingen1948 | 2013-04-17 09:47 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
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 南矢野目の字台と丸子の字冨塚・字冨塚前は、地形的にはほぼ同程度の高度の平坦地で、ここが南矢野目字台と丸子字冨塚の大字界だ。路地道を挟んだ向こう側が、丸子字冨塚になる。
 「歴史地図」の「富塚館」は、道を挟んで台畑八幡側にプロットされるので、この写真では、大きな道筋の右手を「富塚館」としていることが想像できる。そのメモが「伊達の家臣冨塚中網?天文の乱1542~で戦死」。
散策していると、「屋敷の区画溝の遺構に青磁碗と白磁皿、それに茶色い瀬戸の陶器の大型壺と小型の千手観音の仏像の遺物が発掘された」という情報に、ついそちらに寄ってしまう。特に青磁碗という情報に近視眼的になってしまって、「富塚館」のイメージを重ねてしまうのだが、「ふくしまの歴史」がいうように一歩引いて「冨塚氏などに関係するものと注目されます」とか、「冨塚氏はその後復活しました」とかという見え方も大切かな。
 報告書で紹介される冨塚氏は以下の通り。
 冨塚氏は、古くは源姓、鎮守将軍陸奥守満政の孫隆祐が出雲目代として同国冨塚郷に住み、冨塚氏と称した。常陸(伊達)入道念西に仕え、伊達郡に下り代々伊達家宿老に列したとされる。晴宗采地下賜禄によると、信夫庄北郷冨塚新左衛門知行と記され、市史では冨塚氏が天文の乱前後、冨塚近隣を領したと解される。
 伊達氏の始祖とされる常陸(伊達)入道念西の時代から、有力な家臣として仕えてきた方ということのようだ。
 「晴宗采地下賜禄によると、信夫庄北郷冨塚新左衛門知行と記され、市史では冨塚氏が天文の乱前後、冨塚近隣を領したと解される。」という部分が、「ふくしまの歴史」がいう「天門の乱で稙宗方となったため乱後は、一族はほとんど領地を没収されました。冨塚村の大部分を領有したとみられる冨塚新左衛門の冨塚在家・青木在家・上丸子その他が没収されて、晴宗方だった大塚将監に与えられました」という情報と重なるのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2013-04-16 07:25 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 富塚舘にかかわって、「日本地名辞典」の「富塚(中世)」の項に次の解説がみえ、ここにも、「富塚館」という館らしきものがあるとされる。
  
戦国期に見える地名信夫【しのぶ】荘のうち天文段銭古帳に「しのふ北郷」のうちとして「一,五〆五百文 とミつか」と見え、5貫500文の段銭がかけられていることがわかる(伊達家文書/県史7)また「采地下賜録」によれば「富塚在家」が見え、 大塚将監の知行となっている(伊達家文書/山形県史資料篇15上)中通り北部、現在の福島市丸子字富塚前に比定される。
 「福島市の中世城舘」の城舘一覧では、「富塚館」の備考に冨塚右門(一統志)としているのが、館主と思われる。
 「歴史地図」では、「富塚館」のプロットに、「伊達の家臣冨塚中網?天文の乱1542~で戦死」がメモされる。
 「ふくしまの歴史」では、「富塚」について、次のように解説される。
 この村を本領として発展した冨塚氏は、伊達家の有力な家臣でしたが、天門の乱で稙宗方となったため乱後は一族はほとんど領地を没収されました。冨塚村の大部分を領有したとみられる冨塚新左衛門の冨塚在家・青木在家・上丸子その他が没収されて、晴宗方だった大塚将監に与えられました。冨塚氏は、その後復活しました。最近、室町後期の屋敷跡と中国製磁器碗などが発掘されました。冨塚氏などに関係する者と注目されます。
 この「最近、室町後期の屋敷跡と中国製磁器碗などが発掘されました。」という部分だが、「ふくしまの歴史」では、中心的に古墳時代のムラの遺構として解説される「冨塚前遺跡」で、鎌倉時代から室町時代の住居跡の屋敷跡と比定される屋敷の区画溝の遺構と青磁碗と白磁皿、それに茶色い瀬戸の陶器の大型壺と小型の千手観音の仏像の遺物が発掘されたことを指しているように思われる。
 このページにも、冨塚前遺跡の方形竪穴建物跡で倉庫や作業場と考えられる写真が掲げられ、冨塚前遺跡は室町時代の屋敷の一部とみられ、建物跡や井戸跡、陶磁器類や風炉(茶道用)・小型の仏像など出土したと解説する。
 また、井戸跡の写真も掲げられ、その井戸が、直径1m程の石積みの井戸で、多量の石で埋め戻されていて、鎌倉~室町時代の遺跡らしいことが解説される。
 更に、これが「日本地名辞典」が、「富塚在家」を「中通り北部、現在の福島市丸子字富塚前に比定される」としたことと重なるのだろうと想像する。
 なお、福島県の遺跡分布図が福島市の冨塚前遺跡とされる位置よりも西側の台地に寄っていることや、発掘調査地点が、福島県の遺跡分布図に近いように感じる事とも関わるのかな?
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by shingen1948 | 2013-04-15 08:58 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
a0087378_9431861.jpg 富塚舘の位置情報は、冨塚前遺跡でいいのかなと思うのだが、いろいろな情報があるので、そう思おうとした時の不安になる情報を確認する。
 「冨塚前遺跡報告書(2006年)」の第2節「歴史環境」では、この舘に関して「小森舘跡は、冨塚舘跡とも呼ばれていたが、現在は小森舘跡の名称で県の遺跡台帳に登録されている」とし、その現況を「現在は果樹園・住宅地と化し、土塁・濠は失われている」と紹介される。そして、周辺地図には、小森舘跡と冨塚前遺跡の表示はされるが、冨塚舘跡の表示はない。
 ここから読み取れるのは、「小森舘跡」=「冨塚舘跡」と考えられていたことがあるということかな。

 「冨塚前遺跡報告書2(2009年)」の第2節「歴史環境」では、「冨塚舘は、現在住宅地と化し、土塁濠は失っている」ことが表記される。この周辺地図には、「小森舘跡」も表記されるが、冨塚前遺跡とは別に、字冨塚の位置に「冨塚舘跡」が表示されている。
 それとかかわるかどうかは知らないけれども気になるのが、冨塚前遺跡とされるのは、実際に発掘調査された位置は、冨塚前遺跡とされる西側の範囲を発掘されていて、元々の冨塚前遺跡とされる位置はその東側の台地の裾が堰の水路よりも低くなる位置まで含んでいる範囲を指していたらしい事かな。
 これらの遺跡にかかわるイメージには、少なくともこの程度の揺らぎがあるらしいことが分かる。単なる散歩を楽しむ者としては、情報を発信される方の元々お持ちのイメージを想像して、それに対応して聞き分ける必要がありそうだという事らしい。
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by shingen1948 | 2013-04-14 09:44 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 昨年の現地説明会の後でも、中舘の現況と西舘の様子を確認したくて散策した。これは、その時撮った中舘。a0087378_5401553.jpg
 今回の西舘の説明の中で、中舘の改変についてふれていたので、その事とのかかわりを整理しておく。
 確認したら、中舘の調査が行われたのは2009年で、その8月27日(土)に、「桑折西山城跡<中舘>」現地説明会が開かれていたようだ。
 そのこの時にも参加して、以下のように整理している。
 ○ 「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」
 http://kazenoshin.exblog.jp/8870189
 ○ 「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」②~中館西の中壇帯郭
 http://kazenoshin.exblog.jp/8875407/
 ○ 「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」③中舘西の虎口
 http://kazenoshin.exblog.jp/8880318/
 ○ 「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」④中舘南東の虎口
 http://kazenoshin.exblog.jp/8885033/
 ○ 「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」⑤中舘南東の虎口②
 http://kazenoshin.exblog.jp/8889810/
 ○ 「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」⑥大手門
 http://kazenoshin.exblog.jp/8895403/
 ○ 「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」⑦~出土した遺物
 http://kazenoshin.exblog.jp/8900103/
 ○ 「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」⑧~説明会を終えて
 http://kazenoshin.exblog.jp/8905444/
 これは、昨年の時点での南東の虎口付近の様子。
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 この「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」④と⑤で整理した中舘南東の虎口の昨年度の段階での現況ということになるかな。
 今回の説明にある中舘の改変は、「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」②~④あたりで整理した「中館西の中壇帯郭」や「虎口」がかかわりそうかな。
 この時点で、この改変について整理したのが、「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」⑤だが、今回の説明での仮説と微妙に違っているように思う。
 それとかかわるのかどうかは分からないが、説明会参加者のこそこそ話は白石城。家に戻って確認すると、今回の震災にかかわる調査の中で、蒲生郷成が白石城代の頃の石垣が確認されたらしいことがうかがえるが、その詳細は分からない。
 白石城は、天正18年(1590)伊達政宗が、豊臣秀吉に臣従するまでは、伊達氏にかかわっている。以降、白石城は会津の支城となり、若松城主となった蒲生氏郷の支配下に置かれ、その城代が、重臣の蒲生郷成だった。この時に益岡城と改称され、織豊系城郭として改修が行われたが、その詳細は不明だとされていたという経緯の中らしい。
 慶長3年(1598)氏郷が急死し、秀行が宇都宮へ移封されると、若松城主は、上杉景勝になり、それに伴って家臣の甘粕備後守景継が城代となる。この時、再び改称され白石城となっている。

 「桑折西山城中舘跡 発掘調査 現地説明会」⑦の出土した遺物も、今回の説明とかかわりそうかな。
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by shingen1948 | 2012-12-13 05:50 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 大概、説明会の後には、その周辺を歩きまわる。昨年の説明会の後には、中舘・西舘の方も下草が刈られているとのことだったので、そちらを少し散策した。
 今回はいつもと違う方向から案内された事で、今まで案内された方向からの見え方と馴染ませるために西舘内部の確認したことが、それにあたるかな。

 昨年歩きまわった時に今回説明を受けた所が、どんな見え方だったのかを整理しておくか。
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 まずは、結果としては否定形だが、調査対象になっていた「中舘と西舘の間の土塁の内側の石積み」だが、写真を確認したら、同じような構図で写しているものがあった。これが、それだが、この石積みは史跡としての石積みではない可能性が高いという情報は、先に得ていたように思う。

a0087378_4541321.jpg
 この裏側の架橋想定部分については、その意識していなかった。
 それよりは、中舘と西舘の間の深い空掘りとの印象は強かった。ただ、今思えば、中舘と西舘の間を往来するには、西側の土塁のつながった部分しか方法はないということではあるという意識はあったようにも思う。
 思い出せば、その問題意識よりも、中舘から南の方向に案内される事への違和感が強くあった。西舘という名称から、自分勝手な思い込みで、西館は中舘の西側との感覚があり、本丸と中舘・西舘の位置関係は、自分の感覚では、南北のイメージというそのずれだ。
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 これは、今回の説明会に参加した時に西舘側から撮った空掘り。昨年の散歩では中舘から撮っているが、写真を見ると、同じような印象を受けている事がわかる。
 今回はそれ程意識に上っていないが、この時には、西舘の東西の段差を感じていたことを思い出す。その段差は北側がやや平滑化されていて、そこから枡形虎口のある平場に来たといった印象だった。
 その東側に進むと、空掘りの端と共に、その先が崖になるという感じだったように思う。
a0087378_533214.jpg
 西側の土塁上を一周したのだが、その上部に石積みに使用される石と同質の石が転がっているという印象が強かったという記憶。
 そこを歩いた後、枡形虎口とされる地点を撮ったのがこれだが、藪の中で内側の枡形を感じるのが精いっぱいで、外側の枡形を観察する余裕はなかったように思う。
 そういう意味で、今回この虎口から見える信夫山の方向とか、下の平場を意識して眺める事が出来たというのも視点の広がりと言える。

 自分の散策時の見え方の癖や、その時の盲点になり易いものも少し見えたような気がする。
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by shingen1948 | 2012-12-12 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 木の根を剥ぐと直ぐに、石がびっしりと検出されたとか。
a0087378_4525449.jpg この散乱状況が、通路の両側から通路の両脇から中心に向かっていることから、内桝形内部にあった石積みが崩されたとみるようだ。その崩される方向性から、「耕作のために、畑の石を除去して積み上げた石積み」ではないとみるようだ。
 これらのことから、戦国時代に「独自の技術で築かれた石積み」が意図的に壊された状態と見るらしい。
 
 報じられている事は、奥歯に物の挟まった慎重な物言いだが、散歩人の立場では、気になるのはストレートにその仮説の方。頂いた資料で、この仕事の主を伊達政宗と推定する仮説が読みとれる。
 報じられる「石積みの構造は、安土桃山時代以降に各地に伝わる関西地方の石垣構築技術でなく、戦国時代の山城で独自の技術で石積みが築かれた」という表現は、構築の可能性のある上杉氏でもなく、蒲生氏でもないということと、伊達氏である事の可能性が高い事を想定し、それが壊された状態で発見された状態ということなのだろう。
 資料と照らし合わせれば、「関西地方の石垣構築技術」というのは「石垣の内側に土台になるような小さな石を詰め、外側にくる大きな石を支える構造」らしい。それと、ここでは大小の石をバランスよく積み上げていたと想像されるということも、その根拠とするらしいことも伺える。

 先の中舘の現地説明会では、本丸と同じころに造られた城を埋め立てて、現在の城跡になっているということだった。また、ここには、門や柵も含めて建物跡は見つかっていないとのことだった。そして、今回の調査では、西舘と中舘の橋も未完であったことから、中舘の改修工事と西舘の建築工事は未完に終わっているらしい事を想像するようだ。
a0087378_458751.jpg
 この仕事の主を伊達政宗とみれば、伊達政宗は天下の軍勢を迎え撃つために、古い西山城を大改修する。 しかし、豊臣秀吉は天正18年(1600)天下統一することにより、政宗がその抵抗を断念したこととのかかわりとみるようだ。
 この西館の枡形状虎口の石積みが崩された風景は、政宗が城の改修を断念し豊臣秀吉に降伏して、廃城の意思表示をした姿だと想像しているらしい。これが、報道が言う「全国的にも貴重な発見」という表現に結びつくのかな。
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by shingen1948 | 2012-12-11 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
a0087378_549322.jpg 今回、メディアが「石積み跡とみられる遺構が発見された」と報じるのは、西館の枡形状虎口のことのようだ。この石積みは、崩された状態だが、これは幅2~3mの通路の両脇に組まれていたと推定されるとする。


「『桑折西山城跡』の現地説明会 独自の石積み技術を解説【福島民友(2012/11/11)】
 発掘調査で戦国時代末期の最先端技術を導入して築かれたとみられる石積み跡が発見された桑折町の国指定史跡「桑折西山城跡」の現地説明会は10日開かれ、来場者が戦国時代の歴史背景に思いをはせた。
 説明会には約70人が来場。同町教育委員会文化財係の井沼千秋さんが、本丸の西側に位置する西館の「枡形状虎口(ますがたじょうこぐち)」と呼ばれる曲がりくねった出入り口で、石積み跡とみられる遺構が発見されたことなどを説明した。
 石積みの構造は、安土桃山時代以降に各地に伝わる関西地方の石垣構築技術でなく、戦国時代の山城で独自の技術で石積みが築かれたとすれば、全国的にも貴重な発見だという。
 石積みは壊された状態で発見されており、壊すことで「城はもう使わない」という意思表示があったと考えられるという。

 「独自の技術で石積みが築かれた」とするその石は、素人目には耕作のために、畑の石を除去して積み上げた石積みと同質の石に見える。積まれ方と崩され方の微妙な推定が、かかわっているようだ。
a0087378_8515325.jpg
 頂いたパンフレットの西館縄張図に、整理した地点をプロットしておく。
 赤〇の石積1.2は、耕作のために、畑の石を除去して積み上げられた石積み。
 水色〇の空堀跡調査地点は、架橋の可能性の調査と、中舘と西舘の間の空堀の形状の視点。
 紫〇の西舘桝形形状虎口調査地点は、石積状況とともに、桝形虎口そのものも興味。

 ※ 昔なら「づぶログ」にメモしたことだが、そちらがなくなったので、とりあえずここにメモしておく。
 <季節便り>としてのメモ
 7日、福島もかなり大きな地震で、なかなかおさまらない長い揺れだった。東日本大震災の余震なそうで、県内の広範囲で震度4が観測されたとか。あの日を思い出したが、忘れかけているところがあったかなと反省も。
 8日には、いよいよ本格的な冬を思わせる予報。9日、この辺りは屋根にうっすらと積もった雪が見える程度だが、会津は大雪の模様。
 今朝は、道路にも積雪。
 <福島を通り過ぎる風>としてのメモ
 8日、双葉郡8町村の議員研修会で、桜井よしこ氏(ジャーナリスト)が、「年1ミリシーベルトの除染基準は古里再生のために緩和すべきだ」と述べ、質疑で議員が反発する場面もあったとのニュース。主催者が人選しているはずで、その事実より、その意図の方に興味。
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by shingen1948 | 2012-12-10 05:54 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)