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カテゴリ:◎ 会津への路(伊達政宗)

  • 梁川城現地説明会に出かける⑨
    [ 2011-12-24 06:04 ]
  • 梁川城現地説明会に出かける⑧
    [ 2011-12-23 05:20 ]
  • 梁川城現地説明会に出かける⑦
    [ 2011-12-22 07:04 ]
  • 梁川城現地説明会に出かける⑥
    [ 2011-12-21 05:53 ]
  • 梁川城現地説明会に出かける⑤~調査地点の意義を感じてみる③
    [ 2011-12-20 05:20 ]
  • 梁川城現地説明会に出かける④~調査地点の意義を感じてみる②
    [ 2011-12-19 05:20 ]
  • 梁川城現地説明会に出かける③~調査地点の意義を感じてみる
    [ 2011-12-18 05:20 ]
  • 梁川城現地説明会に出かける②~輪王寺跡②
    [ 2011-12-17 05:14 ]
  • 梁川城現地説明会に出かける~輪王寺跡
    [ 2011-12-16 05:20 ]
  • 大森城⑧~出丸【ひめごてん】付近
    [ 2011-11-02 05:24 ]

梁川城現地説明会に出かける⑨


 少し時間がたって、見直すのに結構役立つのが、どう報じられたかと言う事。今回報じられたことを確認しておく。

<b>梁川城跡周辺に遺構 寺院か武家屋敷跡【福島民報(2011/12/09)】

  伊達市の県指定史跡・梁川城本丸跡の北東部分から、新たに鎌倉時代から室町時代にかけて造られた寺院か武家屋敷跡とみられる遺構が8日までに発見された。青磁盤などの出土品も確認され、位の高い人が利用していたこともうかがえる。市教委によると本丸跡や周辺の寺院などとの位置関係を考えると、当時、梁川城周辺は東北屈指の町並みがあったことも想定できる重要な発見となった。
 梁川城は中世伊達氏の本拠地の城として、室町時代から使われていた。「独眼竜政宗」の先祖である伊達家の当主らが住み、町並みを形成してきた。
 今回は、梁川城本丸の北東200メートル部分の範囲や遺構確認のため、11月から調査してきた。
しっかりとした柱穴が多数見つかり、約60メートル四方に区画されていたことから、寺院か武家屋敷とみられる建物があったことが分かった。
 このことから、梁川城本丸や八幡神社、輪王寺跡、東昌寺跡などの遺構と合わせると、かなり広い範囲で町並みがつくられていたこととなり、伊達氏が力を入れていたことが分かるという。市教委は11日午後1時半から現地説明会を開く。駐車場は梁川プールか、やながわ希望の森公園へ。問い合わせは市教委 電話024(577)3245へ。

 

 ついでに、今回梁川城現地説明会に参加して、整理するのに確認していく中で、曖昧なままだが気になっていることを記しておく。
 今回頂いた資料の宮城県図書館が所蔵する「梁川絵図」に神尾舘があって、ちょっと気になって「神尾氏」を確認するが、よく分からない。多分地元では直ぐに思い当たる方なのだろう。他所者の素人は勝手な想像を膨らます。
 資料は見失っているが、見かけた次のような解説と、この神尾氏とかかわるのかなと、……。
 代々の亀岡八幡宮神主は菅野氏で、伊達氏に従ってきたとされる。菅野氏は梁川天神社の神官も兼務していた。現梁川中学校の南側に神官菅野氏の古い墓地があり、この付近に菅野家の初期のころの屋敷があったと思われる。江戸期も引続き菅野神尾が梁川八幡の大宮司職を全うし、明治に至っている。ただし江戸中期に菅野氏は苗字が関根に替った。

 気になっているのは、この中の「菅野神尾」という部分だ。

 伊達市広報に「ふる里再発見」というコーナーがある。そのコーナーに現梁川中学校「茶臼山北遺跡」について以下のように紹介されているのも見かける。
 発掘調査の結果、伊達氏の主要な家臣や血縁者の屋敷、それらに付属するお堂などが存在したことが分かってきています。出土した「かわらけ」から、この遺跡では、武家の儀式が執り行われた可能性も考えられます。守護館となる梁川城跡本丸東側にこのような武家屋敷群やこれに伴う仏堂などが展開した姿が明らかになりつつあります。

 今回の発掘調査とのかかわりでは、この「守護館となる梁川城跡本丸東側にこのような武家屋敷群やこれに伴う仏堂などが展開した姿が明らかになりつつあります。」ということが、より確実性を増したということなのだろうと思う。

 気になることとかかわるのは、「茶臼山北遺跡は、発掘調査の結果、伊達氏の主要な家臣や血縁者の屋敷、それらに付属するお堂などが存在したことが分かってきています」とした後半の紹介だ。
 その「伊達氏の主要な家臣や血縁者の屋敷」とのかかわりを、「伊達の城」の「茶臼山北遺跡」にプロットされる「須田長炭塚」が常栄寺跡を推定する根拠で、その主要な家臣にかかわるのが、「神宮菅野家廟所」なのだろうと勝手な想像を膨らませている。他所者は、その「神宮菅野家廟所」ということと気になっていることが結びつかないかなと勝手な思いをいだく。

by shingen1948 | 2011-12-24 06:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Trackback | Comments(0)

梁川城現地説明会に出かける⑧

 予定よりちょっとはやめに着いたので、説明会の前に本丸庭園に立ち寄った。案内板によると、「本丸跡では発掘調査が行われており、主殿跡など建物の遺構を25棟の他に井戸、石敷き中国銭や陶器なども出土しており、伊達氏時代の居館が確認されました。」とある。

 その発掘調査が行われた本丸跡の資料が、今年9月伊達市文化講演会に出かけた時に頂いた「伊達の城」に、この「梁川城本丸庭園建物配置図」が載っていた。

 ここは、先に「梁川城④」として整理しているのだが、その時点ではこの資料のイメージは持ち合わせていなかった。
 ここに、福島県立博物館「 戦国の群雄 梁川城本丸・庭園跡(復元模型)」として展示されているという復元模型をイメージを重ねる。
 伊達氏の本拠であった梁川城(伊達郡梁川町)を発掘調査した結果、屋敷や馬屋と思われる複数の建物跡や池をともなう庭園跡が発見されました。この梁川城の時代に、伊達稙宗は陸奥国守護となり、また有名な分国法塵芥集を制定したといわれます。
 ただ、どうでもいいことだが、伊達稙宗が陸奥国守護となって、分国法塵芥集を制定したのは西山城だとの主張を聞いたこともある。

 梁川城は、概括的には伊達氏、蒲生氏、上杉氏、そして、近世の代官所としての歴史を刻むが、伊達氏の館というのが今回の発掘調査とのかかわりだ。
 伊達氏の時代の本丸のイメージも、9代政宗あたりの期、11代持宗あたりの期、12代成宗あたりの期、13代尚宗あたりの期、そして、この14代稙宗の期があるようだ。
 
 伊達氏の館として、ここ心字池を含む本丸と北三の丸屋敷とその東側に続く平場、茶臼山北遺跡侍屋敷あたりを想定するのだろうか。そして、本丸東南の東昌寺跡の後ろにそびえる茶臼山館が詰めの城だろうか。
 その中の心字池は新しい時代であり、北三の丸の現況のイメージは、伊達氏以降のものなのかもしれない。
 今回の調査は、そんな中の茶臼山北遺跡侍屋敷から続き、北三の丸屋敷の「東側に続く平場」付近の調査だったということになるのだろう。

by shingen1948 | 2011-12-23 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Trackback | Comments(0)

梁川城現地説明会に出かける⑦

 「しっかりとした柱穴が多数見つかったという状況」にかかわる説明があったのは、5番目の試掘の所。

 なお、手前左隅が粘土の部分。柱を建てるのに、その土台部分に粘土を張り付ける場合もあるとか。かかわるものやらないものやら、……。
 「しっかりとした柱穴」というのは、その大きさらしい。

 5番目の試掘の所から6.7.8の試掘が並ぶ方向(西側)を眺める。

6番目

7番目 カラーで無くなるのは、この辺りでデジカメのバッテリーが少なくなってきたため。
 気になるのは、小石群と溝。
8番目
 これが、約60メートル四方に区画されていたところから、しっかりとした柱穴が多数見つかって、寺院か武家屋敷とみられる建物があったことが分かったとされる現場ということのようだ。

 ここは、梁川城本丸の北東200メートルの地点だ。
 この調査結果と、梁川城本丸や八幡神社、輪王寺跡、東昌寺跡などの遺構と合わせて、伊達氏が力を入れた町並みをイメージするようだ。
 
 古い遺構は、新しい大きな改変によって失われることを考慮すれば、その改変は西、北に向かって進められたらしいことも考慮してイメージすることになるのだろうか。

by shingen1948 | 2011-12-22 07:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Trackback | Comments(0)

梁川城現地説明会に出かける⑥

 武家屋敷跡か寺院跡と想定する根拠の一つに、「比較的区画規模が大きい」とされることとがあげられている。説明会では聞き逃したが、「福島民報」記事中には、「約60メートル四方に区画」とある。その大きさは、地籍図をもとに調査対象区とした範囲とほぼ同じ大きさだ。

 ここが、その調査区の南西隅の地点だ。そこから、発掘調査の行われている方向を眺めている。地籍図の水路の折れ曲がりを感じているが、地図でこの地点を検索して、その付近の航空写真を眺めると、このことに実感が伴う。

 そのこととかかわるのが、堀跡が出土したとされこの調査地点だろうか。
 白線でその堀跡が示されている。
 その西側に、この堀跡の詳細が堀上げられている。この試掘の大きさは8m程度ではあるが、この状況と地籍図、それに実際の地形等から、住宅が立ち並ぶ裏道の道筋に沿って、それと平行に東西に走っていると想像を膨らませた状況が読み取れる。
 この堀が、先の調査地点南西隅まで続いているということなのだろう。



 散歩を楽しむ者にとっては、このことから見え方が変わる。この調査区まで来たこの住宅が立ち並ぶ道筋を裏道とみていたのだが、裏道などというものではなく、この道筋が、元々の道筋で、地籍図にある道筋はこちらなのではないかと勝手な転換が起きている。



 これは、その隣の試掘の様子だが、立て札がある白線で記された所が、検出遺構ということのようだ。
 広めの土抗は、確かめられてはいないが、井戸が想像されているらしい。

by shingen1948 | 2011-12-21 05:53 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Trackback | Comments(0)

梁川城現地説明会に出かける⑤~調査地点の意義を感じてみる③

 資料として挟まれた梁川城跡周辺の地籍図で、素人が興味をそそられる堀と土塁に囲まれる地形は、調査地点の北西の状況だろうか。
 
 ここも比較的新しい時代なのかも知れない。鈴木啓氏の梁川城跡復元図をみると、ここは、曲輪となっている。

 梁川城全体ではなく、本丸のみに網目を入れているのも、それ以外は比較的新しい時代の遺構ということを考慮しているのだろうか。
  
 発掘現場の状況だが、ここが、約60メートル四方に区画されていたということ(区画規模が比較的大きい)と、しっかりとした柱穴が多数見つかったという状況から、しっかりとした建物が建っていたことが推定されるとのことだ。
 更に、出土品に位の高い人が利用する青磁盤なども確認されている。それらのことから、寺院か武家屋敷とみられる建物があったとしたということのようだ。
 これ等の状況を踏まえて、今回の発掘成果を「本丸跡や周辺の寺院などとの位置関係を考えると、当時、梁川城周辺は東北屈指の町並みがあったことも想定できる重要な発見」と意義づけたようだ。

 その出土品を確認する。

 この日に撮った写真の後半は、カラーになっていない。これは、安物のデジカメのバッテリーが切れかかっているからだ。パッと写しては直ぐに電源を切るという事で、記録に間に合わせる。

 青磁は、高位の人が権威の象徴として所有したものとかかわるという。また、茶臼は、当時茶をたしなむのは、武士や僧侶らだったはず。これらの状況とかかわって、伊達家の有力な家臣、あるいは有力者が住んで可能性が高いとした根拠の一つになっているように思う。

 越前焼きは、福井県で造られた製品で、これは、高位の人の使用と限定できるものではないようだ。それでも注目されるのは、県北地方では、伊達氏と深く関わりのある遺跡だけで見つかっているということらしい。
 この当時、日本海側の製品は、太平洋側ではあまり流通していないが、この越前焼は、桑折西山城跡でも見つかっていて、県北地方では、伊達氏とのかかわりを想像させる出土品ということらしい。
 
 梁川城は、室町時代から戦国時代を中心に、伊達家の本拠として機能した城舘跡であることと、出土品の状況からも、「伊達家の有力な家臣」の居住も可能性の一つと推定するのだろうと思われる。

 出土品に、かわらけがみえる。
 この素焼きは、主に武家の儀式の際に宴の杯として使われるものだ。武家屋敷跡の可能性とすることとかかわる出土品なのだろうか。
 瓦質土器片もみえる。こちらは、お寺のお堂などを想像させる出土なのだろうか。それとも、……。

 近くの梁川中学校の茶臼山北遺跡では、伊達氏の主要な家臣や血縁者の屋敷、それらに付属するお堂などの存在が想像されている。その状況等も考慮されているのだろうと思う。

 出土品の壁土・釘などは、発掘された状況から、火災の痕跡があることとのかかわりで、興味がつながるものだろうか。

by shingen1948 | 2011-12-20 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Trackback | Comments(0)

梁川城現地説明会に出かける④~調査地点の意義を感じてみる②

 説明会資料では、発掘地点を「15世紀を中心とした武家屋敷か寺院跡とのかかわりではないかと考えられる」とする。

 鈴木啓氏の梁川城跡復元図に発掘地点を示した資料は、この武家屋敷跡と推定されるということとかかわる資料として読み取れる。

 この梁川城跡復元図は、伊達市ふるさと会館で開催された「平成21年度伊達市歴史文化講演会<北の関ヶ原>~上杉氏と信達地方~」(2009/9/19)に参加した時の鈴木啓氏の説明資料に入っていたものと同じだ。
 先にこの資料をもとに散歩していて、そのことを「梁川城③」で整理している。

 この時は、梁川中学校地付近の「茶臼山北遺跡」が常栄寺跡と推定され、そこから北、西に侍屋敷跡が広がるイメージで散歩している。
 その梁川中学校の南側の梁川高校校庭が東昌寺跡であり、その南東の高台が茶臼舘であるというイメージする散歩は「梁川城⑤~「天地人の時」を中心に」として、整理している。



 その延長戦にこの発掘現場を眺めれば、武家屋敷跡と推定されていることが理解できる。

 ただ、散歩を楽しむだけの者にとっては、堀で囲まれた武家屋敷跡ということに期待を膨らませてしまうが、説明は慎重のようだ。

by shingen1948 | 2011-12-19 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Trackback | Comments(0)

梁川城現地説明会に出かける③~調査地点の意義を感じてみる

 輪王寺はこの辺だと実感を伴うイメージにしたかったのは、今回の説明会の意義について実感を伴った理解がしたかったからだ。

 今回の輪王寺付近の散歩と、東昌寺跡とされる梁川高校グランドとその南の高台「茶臼舘」、そして、侍屋敷跡から常栄寺跡にかけての梁川中学校との位置関係をイメージして、資料として頂いた「宮城県図書館蔵「梁川城」」の資料を眺めたかった。

 絵図にある「町屋川」と塩見川を重ねてイメージし、それぞれの地点とこの絵図を重ね合わせてイメージすると、今回の調査区が、この絵図の覚範寺跡とされる地点に近いように感じる。

 説明会資料に、「15世紀を中心とした武家屋敷か寺院跡とのかかわりではないかと考えられる」とされる中の「寺院跡とのかかわり」の推定意図が、ここにあるのだろうと勝手に思う。

 梁川城について、「伊達市ホームページ」に解説される以下のこととの関連を想像する。
  政宗の孫である11代持宗から14代稙宗までの本城であった梁川城(伊達市梁川町)は、丘陵突端部を利用した平山城で、南は広瀬川の断崖、西は段丘、北に中井戸、東に金沢堀という大きな堀で画されていた。
  また、宮城県図書館が所蔵する「梁川絵図」などによれば、城の東側に東昌寺や常栄寺、覚範寺、輪王寺などの寺院が一列に並び、土塁と堀を方形に廻らしていた。近年梁川城は数度の発掘調査がなされ、当時の素晴らしい遺構が多く検出されている。
  11代持宗は大仏城(福島市杉妻町)に懸田氏とともに立てこもり、関東管領に反抗したという。彼は、後に梁川八幡宮を再建したほか、祖母の政宗夫人「蘭庭明玉禅尼」のため、嘉吉元年(1441)に、輪王寺を梁川に創建しているので、梁川城に居城していたことは間違いない。
  12代成宗も梁川城を本城とし、多くの献上品を携えてここから上洛し、将軍や公家たちに莫大な砂金や馬、太刀、名取川の埋れ木などを献上し、伊達家の勢力を示している。また古町観音堂や鬼石観音堂などを再建している。
 今回の発掘調査は、この「覚範寺」付近というこということだろうか。

 多分、専門的にはどうという事ではないのだろうが、散歩人としては気になるのが、「覚範寺」は、伊達政宗公の父輝宗公の戒名と同じという事だ。
 ただ、輝宗公の菩提寺の覚範寺は、米沢城の西方、斜平山のふもと遠山村に創建されたはずで、直接的には関わらないはずだと思う。
 それならと確認していくと、東昌寺の言い伝えとのかかわりで、この寺名を見る。
 「伊達5山のうち、3代目夫妻をまつった寺が、観音寺、興福寺という2寺だが、これが廃寺になって、資福寺という寺がこれ等を吸収する。更に、この資福寺から覚範寺が別れた」ということだ。

 これらのこととかかわるものかどうかは、分からない。 

by shingen1948 | 2011-12-18 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Trackback | Comments(0)

梁川城現地説明会に出かける②~輪王寺跡②


 歩き回っている場所と、現地説明会の「調査対象区と周辺の遺構」の地図に描かれた地点の最初に一致点と感じたのは、東側に阿武隈急行線を跨いだ付近の水路だ。
 何となく、これが地図で阿武隈急行線から東にはみ出して描かれる地点と合っているのではないかと勝手に思った。
 この水路の延長線をたどってみると、その左側がやや高台になっている。その高台とその北側の民家との間を水路が続く。頂いた地籍図を確認しようとしたが、残念ながらのその付近は切れていた。

 先の散歩で、実感が持てなかったことについては、「上町辺り~輪王寺跡→八幡神社
でさらりとふれているが、ようするに、小心者には塩見川の南土手に抜ける公の道筋が見つらないということだ。
 それが、今回は、少しだけ踏み込めた気がするということだ。

 阿武急線の西側には102号線から線路沿いに道筋が伸びている。この道は公道で、とりあえずその道を歩いてみる。ただ、そこから水路沿いの道に入り込める公道が見つからずに引き返す。
その途中に、公道とも私道ともとれる道筋があったので、ちょっとだけ入って見るが、どちらも民家の入り口になってしまう。
 北側のラインを確かめる所まで進める道筋ではなかった。
 その途中で、家から出てきた方に、現地説明会の「調査対象区と周辺の遺構」の地図を示して、「この付近が輪王寺跡で間違いないでしょうかね」と尋ねたが、赤五輪という地名は教えて頂いたが、詳細は分からないとのことだった。
 西側のラインに近いと想像する道筋も、公道とも私道ともとれる道筋で、行き止まりが民家なので最初は遠慮した。

 そこから少し西に進むと、民家の脇をすれすれに走り、なんとか北側に廻り込める道筋があったので、とりあえず進んで東側を眺めてみると、遠慮した北西隅と思われる地点だった。

 その北西隅に進んで、遠慮した民家の東側の索道を北に通り越して、北側から眺めてみる。それが、こんな感じだ。林の奥に高い木が写り込んでいるが、これが、現在北側の土塁と堀が少し残っているとして紹介される写真に写り込んでいる木ではないかと勝手に想像する。
 現在残っているとされるその北側の土塁と堀を直接見てはいないが、家に戻って航空写真を確認してみて、違いないと勝手に思っている。

 案内板が、建っていた位置だが、マホロンの「輪王寺跡」で紹介される写真付近ではないかと、これも勝手な想像をする。
 そう思うのは、カードレールの道筋が写り込んでいて、「寺の南側を区切る土塁と堀」との解説だ。現102号線改良工事前は、最初に入り込んだ道筋とこのガードレールの道筋がつながっていたとの想像で、この遺跡は現102号線の下で、その手前に建った案内板が残ったという勝手な想像だ。

by shingen1948 | 2011-12-17 05:14 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Trackback | Comments(0)

梁川城現地説明会に出かける~輪王寺跡

 梁川城跡現地説明会があるというので、出かけて見た。
 梁川城跡は、中世伊達の本拠として室町時代以来機能した城館跡だ。その本丸跡とされる舘址から北東200m程の箇所について、範囲と内容確認のための調査とのことだ。
 調査の結果、整地層及び掘立柱建物跡が確認できて、15世紀を中心とした武家屋敷か寺院跡とのかかわりではないかと考えられるとのことだ。

 自分としては、現地説明会の「調査対象区と周辺の遺構」の地図を参考に、輪王寺はこの辺にあったと想像しているらしい付近をイメージできたことの満足が強い。

 最後に見つけた輪王寺跡の案内板は、以下のように解説する。
伊達氏ゆかりの輪王寺跡
  輪王寺は、伊達氏9代政宗の夫人「蘭庭禅尼」の初願により、嘉吉元年に11代持宗がこの地に創建した。夫人は、将軍足利義満の叔母にあたり、都との交流を深められた。
周囲に堀や築地塀のある土塁をめぐらし、後花園天皇のごしん筆の額を掲げて壮大な寺院であったが、火災により焼失した。
 以降、輪王寺は、伊達氏とともに会津・米沢などを経て、現在は仙台市北山に所在している。
 梁川町教育委員会
 先の散歩でのおおよそこの辺りという感覚と相違は無い。ただ、より実感を持つことができたということだ。
 前回は、この遺跡にかかわって他所者が不審がられない散歩の道筋が見つからなかった。それに、少し痕跡として残っている北側の土塁と堀の位置も実感できず、よく写真で見かけるが案内板なども見つけられなかったのだ。

 今回着目したのが、「輪王寺跡は土塁と堀に囲まれた方形の城郭寺院跡で、いざ合戦ともなれば館として機能した。いま北側の土塁と堀が少し残っているが、境内部分はすっかり住宅地となっている。」という案内だ。

 この「土塁と堀に囲まれた方形の城郭寺院跡」ということと、現地説明会の「調査対象区と周辺の遺構」の地図で輪王寺跡として囲まれたことを頭において、辺りを歩き回れば、地形的な特徴が実感できるのではないかと思ったのだ。
 その視点で、歩き回って、こんな感じに実感できた。

by shingen1948 | 2011-12-16 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Trackback | Comments(0)

大森城⑧~出丸【ひめごてん】付近

 散歩をしてみての実感として、北追手→城山観音堂→城山配水池→本丸へ至る道筋が、「牙城に登る正大手」としたいようにも思う。その場合、虎口については、いろいろな想像が必要にはなりそうだが、それでも10年程前に学習会に参加して頂いた大森城にかかわる「天正日記」の抜粋資料で、その情景を思い浮かべるには支障ない。

 虎口がどちらでも、現在では東側からこの城山公園へ登る主たる道筋になっている南追手からの道筋は、「南舘へ登る道」であるという事で一致しているようだ。しかも、その南舘の虎口は、北東側が想定されている。
 そして、本丸跡とこの南舘は、堀切で遮断されるとするらしい。そこは共通のようだ。

 ただ、「大森城の構成」では、西側の外郭線は、南舘にも至っていたのではないかと推定しているようだ。虎口にかかわって、現駐車場から続く平場が、従属的な曲輪であるが、その谷筋に主要な登城道の一つを想定することとかかわりかもしれない。

 諸曲輪を外郭の帯曲輪で包んで城を一体化していたということが基本プランとイメージして、南舘周辺の現状を確認する。

 南舘の虎口と想定される南館北東部までの公園への道筋は、登城道の改修ということだろうか。
公園への道筋は、ここから西側に南館をぐるりと回り込んでいるが、この部分は南館の外郭の帯曲輪の一つが改修されたものなのだろうとか。


 今回はその確認はしていないが、「南舘南東部には櫓台状の土塁を備えた部分があるが、土塁際まで近年の削平をうけており全体の構造の中で、この土塁の意味を読み込むことは難しい」とあるのは、この辺りだろうか。


 その西側は、現在も畑になっている。「大森城の構成」では、畑地化するために平坦化されているが、ここにも何らかの城としての遺構があったと見ているようだ。
 なお、「山形・宮城・福島の城郭」では、「この南館は本丸跡の南方の丘陵で『姫御殿』とよばれ、『東西30間許南北80間許、湮濠之を環る』とみえる」と紹介する。
 「信夫の府城:大森城フィールドワーク地図」にその呼称が「出丸【ひめごてん】」と紹介される根拠がみえる。

 搦手は、滝ノ前から登るものと、竹の内から登るものと二つあったと想像しているようだ。これは西側からの道筋に近いのだろう。字名では、「城裏口」の地名に着目しているようだ。

by shingen1948 | 2011-11-02 05:24 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Trackback | Comments(0)