地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 水( 170 )

 平成21年(2009)年の散策時に蘇った記憶が幾つかある。その一つが、井野目の三井戸の話ということで、4回に分けて整理してきた。
 もう一つ蘇った記憶が、井野目沼構想だ。ただ、思いだしたのは、その沼は底が抜けて水が貯まらなかったと説明された事とその場所だけだった。
 それが、今回の整理中「平野の伝承とくらし」の「小字沼前」についての解説中に、この沼構想に関わりある記載を見つけたのだ。
a0087378_8354362.jpg 井野目堰の水を「小字沼の内」に大きな池を作って水を貯めて分水する構想があったとのことだ。土手を築いて、実際に水を引き入れてみたが、地盤がザルで水が溜まらずに計画は中座したという。
 この計画場所がここだと思う。
 「土手を築いて実際に水を引き入れてみた」とあることに相応しい地形と案内された記憶とを照らし合わせての判断だ。
 沼前
 沼前町内には、沼の内、沼前、堰端、沼畑の小字があります。
 井野目堰の水が隧道から出て小さな川のように堀を流れる所が小字の沼前と堰端の字境辺にあります。
 この井野目堰の水を大きな池を作って水を貯めて分水しようと考えました。
 今の沼の内を中心に水を貯めるための土手を築き、水を引き入れましたが、地盤がザルで水はたまりませんでした。沼造りは中止になりました。
 この事があって沼前の名前ができたと聞いております。
 この解説でもう一つ気になるのは、隧道から抜け出た井野目堰の水は「小字沼前」と「小字堰端」の字境の堀を流れるとあることだ。「小字沼前」と「小字堰端」の字境の堀の前の部分は現在は堀になっている。しかし、そこが昔は隧道だったというふうに読み取れる。
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by shingen1948 | 2014-11-02 08:40 | ◎ 水 | Comments(0)
 「井野目村人紺野伴右エ門」氏が、村の為政者だったのか文化人だったのかは分からない。しかし、紺野伴右エ門宅で行われた村の旧習からの解放儀式がなければ、この地区が近代化から大きく取り残される事になったであろうことは想像できる。
 その視点で「昭和28年録し伝説に遺す」記録を読めば、以下の手続きが読み取れる。

 まずは旧習からの解放理由だが、願掛けは150年限度でよいのに、それより100年以上続いたのだから充分だとする。もう願はとっくに外してもよかったということだ。
 そうは言っても、280年も続いた旧習を止めるには相当な勇気が必要だったろうと思われる。それで、その道の権威者が神かがりの話と搦めて村民を納得させるという方策が取られたという事なのだろう。

 次に行われたのが、山口庄右エ門重久氏墓前に村民一同が集まて、充分に祈願を行うということだ。先に整理した愛宕山参道前の墓前だろうと思う。
a0087378_6103363.jpg 更には次のような願外した後の対応まで決められていて、その対応策が浸透するのに充分時間をかけて待っている。
 願外し後は、元井野目村人相集まり、山口庄右エ門重久の霊を弔ひ招いて、先祖代々の各霊の念仏講を行うというものだ。話し合いから8年の歳月をかけてようやく「昭和28年録し伝説に遺す」ということになったという事のようだ。

 この地域に念仏講が続いているという事を、伝統の継承という側面だけで捉えるのではなく、山口庄右衛門氏の偉業と大恩への感謝を先祖代々の各霊への感謝と同列に扱う念仏講になったという伝統の継承と近代化の融合と捉えるべきなのではないかなと勝手な想像する。
 そのことと観音山山頂の観音堂がかかわるのではというのが、これまた散策人の勝手な想像だ。

 その道の権威者として選ばれたと想定した石塚直太郎氏だが、ネット上で宮崎県延岡市天下町の「国指定南方古墳群1,2号墳」の2号古墳解説にその名前が登場するのを見つけた。これが「研究家として天皇御陵の発見者」と「天孫御陵発見始末」とかかわるのではないかなという想像。
 「大正12年11月16日元延岡城主内藤家の協力にて考古学者石塚直太郎博士と村上兄一氏が東京より招聘され調査の結果ご神体は日子番邇々芸尊(天照大神のご子息)の塚であると今日まで伝えられています」という部分だ。
 「国指定南方古墳群1,2号墳」
 天下(あもり)神社の後方に有り現在大きな石が出ていますが、これは言い伝えによりますと村の人々が神社建設の際山を切り取った時にこの石が出てきたので石工が神社の石段として割り出そうとしたところ頭上に多くのカラスが舞い下りて仕事を留めるように鳴き散らし又仕事にたずさわっていた人々が倒れる等した等割ってはならない石であらうと言うことで作業を取り止め現在に至ったものであります。
 この古墳は高さ2米80、直径東西26米50、南北12米の大きさで大正12年11月16日元延岡城主内藤家の協力にて考古学者石塚直太郎博士と村上兄一氏が東京より招聘され調査の結果ご神体は日子番邇々芸尊(天照大神のご子息)の塚であると今日まで伝えられています。
 現在このお方の御神徳は棟木(むなぎ)の神であらせられます直古墳のお告げにより邇々芸尊であるとして大正12年から今日までお祭りをされている人に延岡市出北町に住まれている前田正恵という方がおられます。
 昭和51年11月吉日
 右 天下世話人会

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by shingen1948 | 2014-10-31 06:11 | ◎ 水 | Comments(0)
 平成21年(2009)にも井野目堰に関わってこの辺りを散歩している。
 「井野目堰⑤」の整理で、三角山手前に「紺野伴右衛門屋敷跡」という案内板があったことについてふれている。ただ。その時点では地元の人々にとっては、周智のことなのだろうが、よく分からないという状態だった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7980999/
 その案内板は撤去されてもう無いのだが、今回「平野の伝承とくらし」の願外し経緯の記録に「紺野伴右衛門屋敷」とかかわる記載を見つけたので、関連付けておきたい。
a0087378_18103561.jpg 元井野目村の各集落では、井野目堰の山口庄右衛門氏の偉業と恩恵に感謝し、その大恩を忘れないようにするためその「願掛け」として、280年に渡って井戸を掘らなかったのだが、その願外しが昭和28年に完了する。
 その経緯に「去る昭和20年4月6日井野目村人紺野伴右エ門氏宅に相集まり神霊の学者石塚直太郎氏(四国生れ飯坂に転住す)同夫人石塚澄江殿を招き山口庄右エ門重久の霊魂を呼び出し聞き伝ふところ霊魂の曰く……」とある。
 この「紺野伴右衛門屋敷」で、昭和20年から昭和28年にかけて、その儀式とそれ以降の在り方について話し合われたのだろうと想像する。

 平成21年(2009)の散策では、「280年に渡って井戸を掘らなかった」事について、その熱意にとらわれて肯定的にしか捉えられなかった。
 しかし、当時の井戸は飲料水をも意味する。この村に生活する人々は、昭和20年代まで3つの古井戸で全村民の飲料水を賄うことを強要されていたということでもある。
 この「願掛け」は、その負の遺産をも背負っていたと見るべきなのだろう。
 そう視点を変えると、時代の要請と真摯な願かけとの調整には見事な合理性を感じる。

 どこか怪しげに感じたのは、神霊の学者が「山口庄右エ門重久の霊魂を呼び出し聞き伝ふところ霊魂の曰く」とある部分。
 それで、学者石塚直太郎氏の情報を検索してみた。
 すると「戦前期温泉地間競争と交通網の革新(上)名古屋大学論集第49 巻 第1 号】」に飯坂温泉にかかわりのある石塚直太郎氏が紹介されるのを見つける。
 経歴としては「研究家として天皇御陵の発見者」であり、「山陰水力・但馬電力・保坂鉄工所・月島・平井両鉄工所・千代田印刷・日本名物商工・湊鉄道・武相電軌・早川組等の」役員などを歴任していたと紹介される。
今のところ確実な根拠はないが、素人判断でこの方ではないのかなと思っている。
 この方は、当時の飯坂町・湯野村当局や温泉旅館の依頼によって「飯坂湯野温泉」(飯坂湯野温泉案内所,昭和2年)の編纂作業に携わっていらっしゃるようなのだ。
 この「飯坂湯野温泉遊覧案内」の石塚直太郎氏ならば、「鳴子温泉案内」・「天孫御陵発見始末」の石塚直太郎氏でもある。

 確実性は無いが「研究家として天皇御陵の発見者」と「天孫御陵発見始末」と「神霊の学者石塚直太郎氏(四国生れ飯坂に転住す)同夫人石塚澄江殿を招き」の情報に矛盾がなさそうにも思えるのだ。
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by shingen1948 | 2014-10-29 18:13 | ◎ 水 | Comments(0)
 井野目では、井野目堰の山口庄右衛門氏の偉業と恩恵に感謝し、その大恩を忘れないようにするため井戸を掘らなかった。
 「井野目の三井戸」は、その「願掛け」以前から既に村にあった古井戸の事だが、前回「字山口」の井戸と「字中屋敷」の井戸についてふれた。
a0087378_14162927.jpg 昨日、福内集落辺りを散歩してみたら、集落道沿いに防火用水池があるのを見た。「字栗畑」の範囲に思えるので、かかわりがあるかもしれないなと思ったので写真を撮っておいた。

 曲屋集落紺野氏宅前の「字南山神」は、その集落名ともかかわるお宅前かな。
a0087378_14173375.jpg 「平野の伝承とくらし」によれば、このお宅は曲屋集落の大本家で、岩手県南部出身。南部の家屋は曲屋造りが特徴なので、屋号を曲がった鍵に屋の字を入れて曲屋としたと考えられるとのこと。
 この街道を通る大笹生のつけ木売りの人々にとって、その曲屋のお宅の石垣は思い荷を背負ったまま一休みするのに都合がよく、「曲屋のお宅」がこの辺りの指標になったと考えられているようだ。

 「平野の伝承とくらし」には、願外し経緯の記録が紹介されるのだが、こちらも紺野氏。
 願願外し後、「其換りに毎年春の彼岸の中日に元井野目村人相集まり先祖代々の各霊の念仏講がありますその時に山口庄右エ門重久の霊を弔ひ招き井戸掘りし家であるとて何事も障りなく子孫繁栄に続くように障害を解消する事に村一同して念仏を奏上する事に子孫に伝へて念仏を続行することに申し合わす 昭和28年3月録し伝説に遺す」とある。
 また、その経緯に、「去る昭和20年4月6日井野目村人紺野伴右エ門氏宅に相集まり神霊の学者石塚直太郎氏(四国生れ飯坂に転住す)同夫人石塚澄江殿を招き山口庄右エ門重久の霊魂を呼び出し聞き伝ふところ霊魂の曰く……」とある。

 
 今は撤去されているが、昔、三角山の手前に紺野伴右エ門屋敷跡の案内板が建っていた。
 その「井野目村人紺野伴右エ門氏宅に(全村民が)相集まりて」神霊の学者石塚直太郎氏(四国生れ飯坂に転住す)同夫人石塚澄江殿を招いて、山口庄右エ門重久の霊魂を呼び出したというのだ。
 観音山まで、この紺野伴右エ門屋敷とかかわりがあると仮定すれば、願外し後の元井野目村人相集まり、山口庄右エ門重久の霊を弔ひ招いて先祖代々の各霊の念仏講を行うことと、山頂の観音堂もかかわりがありそうだなと思うのは、散策人の勝手な想像。
   
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by shingen1948 | 2014-10-27 14:19 | ◎ 水 | Comments(0)
 先にもふれたが、井野目堰の佐藤氏が案内する地域探訪会に参加した事がある。平成21年(2009)年の11月には、その時に御案内頂いた事を思い出しながら散策し直した。
 その平成21年(2009)年の散策時に蘇った記憶が幾つかある。その一つが、井野目の三井戸の話。

 元の井野目村(現井野目集落・福内集落・沼前集落・曲屋集落辺り)では、井野目堰の山口庄右衛門氏の偉業と恩恵に感謝し、その大恩を忘れないようにするために280年の長きに渡って、井戸を掘らなかったという。
 「井野目の三井戸」というのは、その「願掛け」以前から既に村にあった古井戸のという事のようだ。
a0087378_736188.jpg 「平野の伝承とくらし」によれば、その井戸のあった所は、井野目集落紺野氏宅裏の中屋敷と福内集落佐藤氏宅裏の畑の栗畑と字山口の佐藤氏宅で、更に、曲屋集落紺野氏宅前の南山神にもあったという。
三井戸との事で3つの井戸かと思えば、井野目の三井戸というのは、この4ヶ所の古井戸を指しているとの事だ。
 その位置が「字中屋敷」・「字栗畑」・「字山口」・「字南山神」と記されているので、先の道筋と村界、集落界を書き込んだ字源図に、その古井戸があった字地を水色線で囲ってみた。
a0087378_7412087.jpg それで思い出したのが、先の地域探訪会で字山口と中屋敷の古井戸はご案内頂いたという事だ。そして、平成21年(2009)年の11月の散歩時には、その案内された字山口の古井戸は思い出すことができた。
 それがこの井戸のはずだ。

a0087378_7424951.jpg 案内された中屋敷の古井戸の方は記憶が曖昧なのだが、多分ここだったと思うのだが、勘違いの可能性もある。
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by shingen1948 | 2014-10-26 07:44 | ◎ 水 | Comments(0)
 文政元年(1818)8月の須川が変水することとかかわることが「福島市史」の「庭塚(在庭坂・二子塚)」の項で解説される。
 須川の変水による田地の地焼・根腐被害を何とかしてくださったという話ではない。在庭坂・二子塚の両村でその対策を協議した改善策を提示し、それを最初にお認めくださったことが称えられた功績ということのようなのだ。

 その改善策だが、具体的には目洗川および鳥川から引水して、在庭坂地内の新規堰掘割り工事を行うというものだったらしい。
 その目洗川・鳥川からの引水するという策を、文政2年、桑折代官寺西重次郎に願い出たということだ。

 その鳥川についてはまだ確認できないが、目洗川は清水屋向かい側から、高湯街道を越え、須川に流れこむ川のようだ。
 「高湯温泉 周辺の観光スポット」のページでは、「高湯ダム公園」の中で、「目洗川という高湯地区内唯一の温泉の流れ込んでいない川がある。 岩魚が生息し、新緑と紅葉時の散策は素晴らしい」と紹介されている。

 ここからは、先の散策とのかかわりで想像したことで、まだ、確認していないことだ。
a0087378_9334691.jpg これは、高林簡易水道の水源からタンクに向かう水筋を整理した時に、こんな風に高湯街道沿いの水筋が、高林簡易水道の水源からの水筋とクロスしているのをみつけた。その高湯街道沿いの水筋の方なのだが、位置関係を地図で確認すると、その目洗川から取水した水が流れる用水路なのではないかなとも思えている。
 そして、姥堂への道筋を間違えてたどり着いた滝だが、これもかかわっていないかなとも思っている。

 豊かな水というと大きな川をイメージしてしまうが、その大きな川の豊かな水は、そこに注ぎ込む支流によって支えられているのであって、名もなき水筋が先達山からも流れている。高林簡易水道の水筋だって、その中の一つの水筋で、その水道の余剰水だって豊かで、堂ノ上の集落に向かって流れていた。
 ということで、今のところ、鳥川もその中の一つの支流とイメージしておくことにする。
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by shingen1948 | 2014-08-12 09:35 | ◎ 水 | Comments(0)
a0087378_10505336.jpg
 これが、皇大神神社境内拝殿右手に建つ「寺西大明神」の石塔だ。
 右側に「文政5士年(1822)」、左側に「○3月吉日」が読める。

 「寺西大明神碑」が建立された経緯は、文政元年(1818)8月の須川が変水することとかかわることが「福島市史」の「庭塚(在庭坂・二子塚)」の項で解説される。
 文政元年(1818)8月、在庭坂村・二子塚の用水である須川が変水して、田地が年々地焼・根腐れをおこす被害が続出し、在庭坂・二子塚の両村では、協議のうえ、在庭坂地内に新規に堰掘割りの工事を行う事を取り極め、まず文政2年目洗川および鳥川からの引水を桑折代官寺西重次郎に願い出た。
さらに文政6年12月、在庭坂村三役は、桑折代官西重次郎に詳細な「在庭坂村・二子塚村 根腐除・高湯尻悪水落箱戸井自普請目録見帳」を提出した。
 寺西代官は、この工事に対して文政7年2月に最初に許可を与えたという。それが称えられる功績のようだ。
 しかし、建立の年代とちょっと合わない。許可が与えられる2年前にこの碑は建立されているようだが、これは、御愛嬌かな。
 「寺西大明神碑」であれっと思ったのは、その事ではない。
 二子塚村には溝口大明神碑も建っていることとのかかわりだ。解説の続きに、こちらの碑は在庭坂村と二子塚村の両村民が建立したとの説明。
 当時、桑折代官の支配下にあった在庭坂村と、新発田藩分領八島田陣屋の支配下にあった二子塚村の名主・組頭・百姓代が世話人として名をつらね、両村惣百姓によって建碑されたものと紹介される。
 高さは台座の自然石をふくめて約2.5mの堂々たるもので、寺西代官の顕彰碑のなかでは、最もりっぱなものなのだそうだ。

 ただ、碑の建立だけでなく、以下のような分水問題自体もいろいろあって、単純な事ではなさそうだ。
 文政11年(1828)には二つの村で分水問題が起こり、文政13年閏3月に規定書を取り決めたとのこと。また、万延元年(1860)9月、在庭坂村が損置起返しを理由に須川の水源不動滝から新規の掘割を行って引水したことに端を発した紛争が福島領の8か村がからむ紛争に発展するようだ。
 これ等は、先に「野田村郷土誌」をもとに堰について整理したこととも複雑にかかわりを持ってくるのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2014-08-10 10:53 | ◎ 水 | Comments(0)
  「東北地方太平洋沖地震」で福島市の水道が断水した際に、福島市では、この時点では8つの簡易水道組合の給水協力を得て給水事業を補完してもらっていた。その給水協力の中に、南林簡易水道組合も給水協力をしているようで、そのことから、最近までずっと健在であることが分かる。<ふくしま市政だより速報版4号より>
 しかし、福島市は、災害時に給水事業を補完してもらうその一方で、摺上川からの巨大システム化による給水するという上水道計画を推進するため、各地の水源地を放棄すると共に、民営簡易水道組合を統合していく姿勢もそのまま継続しているようだ。
 次の災害時までには、給水事業を補完する設備は全て廃棄される方向にこれからも計画を進めていくようだ。

 「南林簡易水道組合」が給水する地域の直ぐ東側の五十須場簡易水道組合は、平成22年に福島市上水道に統合されたようだ。薬師堂境内に、その五十須場簡易水道組合解散記念碑が建っている。

 写真はその裏面で、「歴代組合長」と「解散時の役員名」が記される。
 五十須場簡易水道組合解散記念碑a0087378_12212624.jpg 五十須場簡易水道組合は昭和31年6月7日福島市在庭坂字五十須場地内に湧水により98戸に給水することで発足いたしました。
 昭和55年に渇水のため急きょ困り果てて、翌56年元五十須場に浅井戸により給水いたしました。
幾多の難題を克服しその目的を充分果たして参りました。
 困難を乗り越えて、組合を発足された方々の労苦、それを受け継がれた先輩役員、協力されました組合員各位の努力に心より感謝申し上げます。
 平成22年12月1日福島市上水道に統合されました。
 従いまして五十須場簡易水道組合は解散いたしました。
 平成23年3月20日
 五十須場簡易水道組合は、平成22年に福島市上水道に統合されたとある。それまでの水源について、創建当時(昭和31年~)は、五十須場地内の湧水を給水しているらしいことが分かるが、その位置は分からない。それが、昭和55年に渇水し、元五十須場に浅井戸からの給水になったようだ。その元五十須場の位置は、アイリス学園の東側付近らしい。
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by shingen1948 | 2014-07-28 12:24 | ◎ 水 | Comments(0)
 菅原氏は、須川を中心とした発電所建設の最適地探索の後、山越えで滝を確認しながら旧米沢街道にたどり着き、そこから庭坂を目ざす。その途中、豊かな水量の「無名の川の石橋」に出会い、その堰を清水原までたどることで、発電所建設の最適地に出合うという流れ。
 前回は、その庭坂まで行けば人力車があるからと目ざしたのは湯町のような気がするというあたりまでの確認だった。
a0087378_836416.jpg その発電所建設の最適地に出合うきっかけとなる、天戸川の第一堰から大字矢細工へ流れる用水路というのと、湯町の西側を字清水原に向かって流れている「天戸川支流」が同じ流れなのだと思う。

 この「天戸川支流」については、先に清水原までたどって確認している。
 その時には発電所とかかわるという意識はなく、「湯町温泉 引湯懸樋台石積」地点から、湯町までの方向を確認する手段としてだった。
 「『湯町温泉』再整理」のきっかけの一つが、「高湯―水沢―「湯町温泉 引湯懸樋台石積」―清水原―湯町」の引湯のイメージが現地と結びついたことだが、その「湯町温泉 引湯懸樋台石積」―清水原―湯町」部分を実感するための補助手段として、「天戸川支流」を確認したということだ。

 「福島散歩」には、湯町に引湯した木管が残っていたとある。
 同誌発行が昭和45年ということなので、少なくともその頃までは湯町引き湯の痕跡を探れたということらしいのだが、自分がこの辺りを散策する時点ではその痕跡は全く見当たらなかった。
 多分、三島氏は「湯町温泉 引湯懸樋台石積」地点から湯町までも直線で線を引いたのではないかなと想像する。それが引湯の管を通すラインに近いとイメージし、地図上でそのラインと堰との位置関係を確認することで、現地とそのラインの実感に結びつけたということだ。
a0087378_844475.jpg この時に、これが天戸川の第一堰から大字矢細工へ流れる用水路であるは知らないのだが、その時の感覚を思い出すと、確かに湯町付近のこの堰は豊かな水量だなとの実感があった。その豊かな水量というイメージに、勢いのようなものを感じるようになるのは、清水原近くに来てからだ。その辺りでは、滝になって流れ落ちるような地点すらもあった。
a0087378_8461068.jpg その勢いを実感した清水観音の道標近くで、作業を終えて車に乗ろうとしていた地元の方に、この流れは何という川かなと尋ねることができた。その答えが、「天戸川の支流」とのことだった。
 その「天戸川の支流」が、菅原氏が発電所建設の最適地に出合うきっかけとなる天戸川の第一堰から大字矢細工へ流れる用水路ということなのだろう。氏が民家に出会って尋ねた地点も清水原らしいので、自分が尋ねた地点と重なっているのだろうと思う。

 「湯町温泉 引湯懸樋台石積」地点から湯町までの実感の為にたどった体験が、菅原氏の探索の追体験と重なっていたということだろうか。
 これが、今回の散策でつながったものの一つだが、他にもある。
 清水観音の道標の道筋と清水観音の曲がり角を示す道案内経由で清水観音に向かった道筋や天戸川の第一堰から大字矢細工へ流れる用水路の取水。
 更に、2004年に「湯町温泉 引湯懸樋台石積」にたどり着いたコースとも念頭でつながった。
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by shingen1948 | 2014-06-24 08:47 | ◎ 水 | Comments(4)
a0087378_838465.jpg ここは、旧米沢街道がフルーツラインより一本西を走る広域道路筋と交差する地点だ。今回の散歩では、清水観音から旧米沢街道に出てその道筋を降りてきて見える風景だが、この区間が、茶店から旧米沢街道を庭坂を目ざして降りてきた菅原道明氏の歩いた道筋と重なる部分でもあるはず。


 菅原氏は、ここから庭坂を目ざす途中で、勢いよく流れる水音を聞き、川幅が約2mでかなりの深さのある川に出会うとのことだ。氏は、この時点では知らないのだが、この水筋が天戸川の第一堰から大字矢細工への用水路ということだ。
 この堰が道筋とクロスする地点に、その堰を跨ぐ「無名の川の石橋」があるはず。しかも、発電所建設最適地につながる豊かな水量を感じさせる地点であることから、その本流であったろうと想像する。

 素直に旧米沢街道を下れば、鷲神社前で大堀川に排水される少し手前の堰に出会うことになるはず。
 しかし、この地点では堰の水にその勢いを失っている。現況は、改良工事が加えられたこともあるだろうが、大堀川の方に目が行ってしまう。
a0087378_8402135.jpg 庭坂経由福島に向かうのに、大きく南側に迂回するはずもないということも考慮すれば、湯町経由の道筋を選んだのではないかと想像する。
 氏は、その前の経歴が福島新聞記者であり、先に整理した湯町引湯完工と福島街道開通と合わせた式典と祝賀会に出席していたらしいのだ。その式典は、湯町の北はずれにあった湯町のシンボル共同館で開かれたはず。
 湯町温泉を知る菅原道明氏が、茶店で道案内を受けているはずで、湯町経由で福島に向かう経路の想像は無理筋ではない。
 散歩の中で確認できる「勢いよく流れる水音を聞き、川幅が約2mでかなりの深さのある川」は、その湯町の北側の道筋近くだ。
 この手すりの下を覗き込むと、その条件に合う川が流れている。
a0087378_8433922.jpg ここは湯町のシンボル共同館を回り込んだ堰が、幾つかに水路が幾つかに分岐される地点だが、ここも同じ道筋にあり、この道筋に沿って分水された水路でさえ、豊かな水量を感じることができる。

 「東北の電力創生記」では、庭坂湯町の落成時に、新聞記者として招かれて酒宴を開いたのは川原だとし、天戸川の源流に達したところで十年前に来たことのある地点であることを思い出すように描かれる。そうかもしれないが、湯町のシンボルである共同館で開かれた式典も取材対象であったとしても自然のような気がする。
 この湯町付近の勢いよく流れる水音を聞き、川幅が約2mでかなりの深さのある川をみた時点で、その「全くの奇遇」の予感があって、天戸川の源流に達したところで、その奇遇に驚いたというイメージの膨らませも不自然ではないようにも思うが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2014-06-23 08:48 | ◎ 水 | Comments(0)