西根堰「産沢の迂回」

 昨年は、新年になって西根神社に参拝した後、西根堰を中心に散歩をしていた。
 その時点では、「産ケ沢の迂回」は、気にはなっていたが実感はなく、そのままにしていた。
 「産ケ沢の迂回」というのは、桑折の産ケ沢という所で、そこを流れる産沢川を西根堰が横切るのに、川と同じ高度になるまで回り込んで、それから川を横切るという流れ方のことだ。

 こちら方面に散歩に来るたびに、その場所が気にはなったが、それだけだった。
 なんとなく確かめてみたのは、昨年の秋だ。
 確かめてみれば、見慣れた景色で、西山城に来るたびに見えていた景色だった。見ようとしなければ、見えていても見ていないということだ。それが納得したということで、特に整理はしてはいなかったことを思い出した。
 西根神社に出かけたということの関連で整理する。
 
 これは、産沢川下から横切る西根堰を見ているところだ。多分、昔はしがらみのの方法で横切ったのではないかなと勝手に想像する。



 これを、産沢川の上流から見るとこんな感じ。
 産沢川が、手前から奥手に向かって流れ、右手から西根堰が流れ込んでくる。写真には写っていないが、この流れが、奥にダムになっているところを横切って左手に流れていく。産沢川の水は、ダムを越して流れていく。



 折り返した西根堰は、東側を南流する。
 足元に見えるのが折り返して、北から南に向かう西根堰で、この向こうには南から北に流れる西根堰が見える。理屈では分かっていたのだが、実際にその風景を見て自己満足した。



 西根堰が横切る前の産沢川上流を確かめる。



 流れをたどっていくと、途中に、ホタルの里の看板。



 更にたどっていくと、橋の下に出る。
 ここまでで散歩を終える。

# by shingen1948 | 2010-01-06 05:32 | ◎ 水 | Trackback | Comments(0)

砂子堰~取水口②

 少し家の片付けをして、ママチャリでサイクリングということで家を出たが、途中でブレーキのワイヤーが切れてしまった。改めてこの自転車も酷使によく耐えたなぁと思う。
 散歩そのもののまとめは、ブレーキのワイヤー交換ということになった。

 今年の散歩は、天地人とかかわる事を意図したのだが、その面白さを味わうには、先に地域の概要を知っている必要かあった。それで、その地域を知る作業と実際の散歩、そして、新たな時代の捉え方を知るという作業が重なってしまった。そこに、不器用であることが加わった。一度でその場所が実感できないので、何度も訪ねてからその整理に入るという事で、即時性にも欠けた。
 そんなこんなで、本当は区切れが大切だと思っているのだけれど、だらだらと進んでいる。

 年の句切れの時なのに、砂子堰についての整理を始めてしまっている。このまま年を挟んでだらだらとつながってしまいそうだ。
 この堰は、その完成した後も、水管理に苦労しいると聞く。それが、その後の失敗続きの阿武隈川からの揚水の工夫に結び付き、そして、東根堰と結び付くまで、満足できる水管にはならなかったという背景があるからだ。

 それでも、今日は句切れを意図して、砂田堰の新取水口の下流にかかる次の橋の河原から橋を写した写真を掲げて一応のしめとする。
 その心は、この間にあるはずの旧取水口は、解決しないままお預けという思い。

# by shingen1948 | 2009-12-31 05:42 | ◎ 水 | Trackback | Comments(0)

砂子堰~取水口

 宮脇遺跡現地説明会の帰りに、砂子堰の現在の取り水口に立ち寄った。
 懸田城は、伊達氏側の興味だが、砂子堰は、上杉氏の仕事だ。

 ここ伊達郡東根上郷は、慶長6年(1601)に成立した米沢藩の県北の伊達・信夫両郡は寛文4年(1664)まで米沢藩領だ。
 砂子堰は、その家臣渡辺新左ヱ門、堀江輿五右衛門が、広瀬川から取水した疏水だ。難工事で、慶長3年に工事に着手したが、取入口の度重なる堰堤の変更を経て、慶長9年に完成する。
 後の世まで「伊達のさかさ水」と言われた隧道2ケ所、樋口を大小172ケ所埋設し総延長16kmの用水路で、15ケ村710余町歩の灌漑をする。



 現在の取水口から川下に少し行くと、「新砂子堰隧道」が埋まっている。



 旧取水口は、この取水口から川下に200mくらい行ったところと聞く。
 そこには、砂子堰の旧取水口の杭跡らしい痕跡が認められるという。
 岩に穴を掘り、柱や杭を立て、板や石を使って水を堰止めるのだか、その岩の穴が確認できるらしい。
 更にそこから北に10m位のところには、川のすぐ脇の山裾に掘られたトンネルがあるらしいが、埋まりかけているともいう。上部からの土砂の崩落が常に心配されるところと聞く。
 本当は、その辺りまで確認してから整理したかったが、多分案内なしでは確認は難しいだろうし、その当てもない。とりあえず、現時点での確認を整理しておくことにする。

 砂子堰の開削については、先に保原の仙林寺に行ったときに、「渡辺新左衛門墓所(仙林寺)」で、以下のような概要にふれて整理した。

 県資料情報では、梁川町史をもとに、慶長5年(1600)、信達四郡役として東根郷を差配していた堀江与五右衛門・渡部新左衛門が関波村南部に堰口を設け、大門・細谷(梁川町)から金原田・上保原(保原町)に至る水路を開削したと伝えるとしている。
 この二人は、上杉氏の大肝いりという身分らしい。
 米沢藩は、村々を束ねる大肝煎(信達4郡役)に依拠しての統治していた。その大肝煎は鈴木源左衛門(信夫郡、福島)・佐藤新右衛門(伊達郡西根郷、桑折)・渡部新左衛門(同郡東根上郷、下保原)・堀江与五右衛門(同郡東根下郷、梁川)・高橋清左衛門(同郡小手郷、秋山)の5人だ。

 なお、この中の佐藤新右衛門氏は、西根堰の開発にかかわる。

# by shingen1948 | 2009-12-30 05:11 | ◎ 水 | Trackback | Comments(0)

渡利地区の阿武隈川沿いの風景⑨

 休日に手持ちの資料を整理していたら、ふれあい歴史館の「阿武隈川の舟運」というパンフレットが出てきた。
 散策してきた渡利地区とかかわる部分を整理すると、より深く実感できそうに思えた。

 「弁天山」は、先に整理したように三山からなる。東から福見山・椿舘・八千代山が連なっている。その西端の八千代山に、弁財天が祭られているので、ここを単独に弁天山と呼ぶこともあるということだった。
 その弁財天の勧進だが、これも舟運とかかわるようだ。
 弁天山の登り口の案内板に「貞享2年(1685)渡辺友意の子孫貞嘉が水上運行の安全を祈願し山上に勧進す。」とあったが、この渡辺氏というのが、この阿武隈舟運を始めた方らしい。
 寛文4年(1664)に、信達地方の米を江戸に運ぶために、代官に阿武隈川の川浚い普請を願い出たのが、阿武隈舟運の始まりとのことだ。
 本格的な舟運は、寛文10年(1670)で、幕命を受けて、その渡辺氏の子孫が代々十左衛門を襲名して、普請や廻米をしていたということだ。
 福島から沼の上までの小鵜飼舟による舟運を渡辺氏が請負い、水沢以降が艜舟に積み替えて上総屋が請け負うということだったらしい。それが、明和4年(1767)に渡辺氏が廃業に至って、上総屋が全ての舟運の主になるという経緯を辿るらしい。

 その渡辺氏が舟運の神として弁天山に滋賀県の竹生島の弁財天を勧進したのだか、その後、天神河川岸に移動した理由は案内板にある通りのようだ。
 ただ、移動先として指定されたのは、小倉寺村のようだ。黒岩の向いあたりというから、今の蓬莱橋のあたりだろうか。舟運を守護する神としてはこの位置は納得がいかないということで、福島河岸が見守れる位置にこだわったという経緯もあったようだ。
 絵地図には、弁財天は阿武隈川守護仏として天神様と共に天神渡しの少し下流に描かれているようだ。上の写真に写っている橋は天神橋で、その橋の左手あたりと思われる。

 それが、これもまた明治の廃仏希釈によってこの弁財天は名倉の長勝寺観音堂に移ったそうだ。この長勝寺は、立子山を訪ねた後、その続きである農民一揆のかかわりで訊ねたことがある。そのことを「義民⑤~名主半十郎供養塔」として整理しているのだが、その観音堂のこの事情について考えは及んでいなかった。
 弁天山には、新たに鹿島神社が勧進されて、弁天山が復活する。
 案内板はこういった事情も説明しているのだが、その知識を持たない者にとっては歯切れの悪さを感じてしまっていた。

 もう一つ渡利地区とかかわるのが河岸だ。
 福島河岸には、福島藩と米沢藩の御米蔵があったそうだが、渡利側にも、天神河岸と渡利河岸が舟運の蔵場としてあったということだ。
 渡利河岸の賑わいはイメージしていた所だが、天神河岸にかかわる道筋が明治2年の絵図では、それ程重要にみえなかった。
 その天神河岸は、主に立子山・飯野方面の幕領米を運んだとのことだ。そして、渡利河岸(松齢橋のやや下流の位置)が、川俣を中心とした小手郷の幕領米を扱ったということだ。そこに、天神様と海運の守護神として弁財天が鎮座していたということだ。

 阿武隈川海運図には、確かに天神河岸から延びる道が描かれている。
 その時代の川俣方面と渡利地区のつながり具合は分からなくなるが、立子山・飯野方面と天神河岸は繋がっていたということになりそうだ。
 鳥谷野渡しはその途中ということで、農民一揆の義人の足跡は、鳥谷野の渡し経由で信夫の里に入って大森陣屋とかかわった道筋だろうし、案内板にあった「伊達政宗の父が粟の巣から、こちら側を経由して、鳥谷野の渡し」を渡ったということも、実感しやすい。ここから大森経由で慈徳寺に向かったということになるのだろう。

 最近、「疣石峠の話」~享保14年信達農民強訴物語~という、労作を見つけた。眼を通してみたが、この地域に五感を通して馴染んでいなかったので、実感を持って捉えきれなかった。
 今回、渡利・小倉寺・山之内から、立子山辺りを散策したが、その後で、もう一度目を通して見たら、今度は読めるような気がした。
 この立子山地区を最初に散策したのは疣石峠で、農民一揆の確認だった。是非、読み通して、この地域をもう少し深く感じてみたい。

# by shingen1948 | 2009-10-28 05:06 | ◎ 水 | Trackback | Comments(0)

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