地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 玉井村の史跡考( 11 )

玉井城に関する記述を探していたら、「戦国大名二階堂氏の興亡史」のホームページに「南奥州戦国大名」の項目があり、その中の「田村氏」に、以下の記述を見つけた。
天文十六年(1546)二月、田村隆顕は畠山義氏・石橋尚義とともに安積郡に侵攻して十ヶ城を落とし、玉井城(安積郡大玉村)を自落させた。同年十二月、岩城勢が田村郡小野地方に侵攻してきた。
天文十九年(1550)六月、田村隆顕は安積郡に於いて芦名盛氏と戦い敗れた。

この記述が事実を反映しているとすれば、玉井氏が滅んだのは、近隣の有力者の攻防による戦いによる敗北という予想通りということになる。直接的には、田村氏によって滅ぼされたということだろうか。
 その田村氏も葦名氏によって、やぶれ和睦する。畠山尚国・白河晴綱の仲介で芦名盛氏と和睦するということから、芦名氏と二階堂氏の緊密な関係と、畠山白河との信頼関係が伺える。
 また、田村氏は、天文の乱以降、伊達稙宗の娘婿であったので、一貫して稙宗方として戦っている。この後の伊達政宗と須賀川城の二階堂氏の敵対関係も予測させる記述である。

以下に、田村氏に関わる記述から、玉井氏のかかわりを想像させる部分を引用しておく。
天文十一年(1542)六月、「天文の乱」が勃発すると、田村隆顕は一貫してまた、この頃から田村氏は頻繁に田村郡以外の地へも軍勢を出していて領国の掌握に成功していることが伺われる。
 天文十一年九月、田村隆顕は二本松に出馬した。翌十二年(1543)四月には安積郡に侵攻して伊東氏・芦名氏の軍勢を討って六ヶ城を奪った。
 同年十月には安積郡中山(郡山市)に於いて芦名勢と戦い、侍四十一人足軽雑兵八百人を討ち下飯津島(下伊豆島)・前田沢・小荒田(小原田)・荒井・名倉を手に入れた。
 天文十四年(1544)二月頃、二階堂氏・石川氏と抗争していた田村隆顕は二階堂照行と講和し今度は北進をみせる。
 天文十五年(1545)三月、田村隆顕は石橋尚義とともに信夫郡杉妻(福島市)に出馬した。このため伊達晴宗は白河晴綱に田村の背後をつくように要請している。
 同年六月、田村隆顕は叛いた御代田伊豆守と下枝治部大輔を攻め、このため下枝治部大輔は岩城に逃れた。
 天文十六年(1546)二月、田村隆顕は畠山義氏・石橋尚義とともに安積郡に侵攻して十ヶ城を落とし、玉井城(安積郡大玉村)を自落させた。同年十二月、岩城勢が田村郡小野地方に侵攻してきた。
 天文十九年(1550)六月、田村隆顕は安積郡に於いて芦名盛氏と戦い敗れた。このため翌二十年(1551)七月、田村隆顕は畠山尚国・白河晴綱の仲介で芦名盛氏と和睦した。

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by shingen1948 | 2006-12-26 22:29 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)
a0087378_12391861.jpg   大玉の又兵衛山には、金山跡があり、高玉金山と同じ鉱脈という話は、聞いている。また、鉱山の抗口があって、蝙蝠が住み着いているということは知っているが、まだ行ってみていない。時代背景についてもよくわからない。それで、とりあえず、近所で、しかも同じ鉱脈で、確認しやすい「高山金山」を確かめてみようと思った。
 まず、「高玉金山」の現地を確認しておくことにした。県道8号線の道案内をたどって、とりあえず行ってみる。途中かなり細い道路で、迷ったかなと思いながら、看板をめがけていくと、高速道路をくぐった所にそれらしいところが出てきた。観光施設に着く前に、石垣を積んだ空間が見えたので、とりあえず写真を一枚撮っておく。
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 ここまでにして、家に戻り、観光施設の「ゴールドマイン高玉」のホームページで、概要を確認しようとしたが、見つからない。そこで、あちこち探していると、そこを取材したという、「空間通信」というページが見つかった。その「マインパークシリーズ」というところで紹介された記事をもとに概要をつかむことにした。その説明による概要は以下のようである。


 「高玉金山」は、安土桃山時代から天正年間(1573~1591年)において、会津藩領主・芦名盛興によって開山され、以後昭和51年の閉山まで4世紀の歴史を持つ金山である。開山したころ、時はまさに戦国時代。諸大名は生き残りをかけ、武器や兵隊の調達、また献上物として、財源確保のための金銀獲得は重要であったことから、金山開発を奨励していた。それを裏付けるように芦名盛興は、この「高玉金山」以外にも加納、高旗、佐渡と次々に発掘。それらをあわせて、「芦名四金山」といわれている。
 「高玉金山」は主に本山(もとやま)・青木葉(あおきば)・鶯(うぐいす)の三抗部(ひとつの坑口から広がる採掘エリア)から構成され、 現在の施設は、青木葉エリアに属している。金は、国内の金鉱山では1トンあたり2~3gほどしか採掘されないが、この青木葉抗では、多いときには1トンあたり10~20kgも産出されていたという。

1573(天正1)会津藩主芦名盛興公によって「高玉金山」開山。(安土桃山)
1643(寛永20)保科正之が就封するとともに、高玉金山は二本松領となる。(江戸時代)
1696(元禄9)二本松藩高玉金山奉行として中村与葱左衛門(1684年没)の記述あり。 <二本松寺院物語>以後技術的に限界に達したためか、鉱山記述はなくなる。
1893(明治26)樽混泉法による製錬を開始。
1903(明治36)青化製錬法による製錬を開始。
1918(大正7)高玉金山として生産を開始。
1920(大正9)本山~熱海駅間に索道を架設。鶯軌道(馬車)設備。青木葉坑開発に入る
1929(昭和4)日本鉱業の経営となる。
1962(昭和37)日本鉱業、高玉鉱業所を廃止。高玉鉱山株式会社となる。索道廃止、トラック輸送へ。
1976(昭和51)生産を全面休止。総生産量、金28トン、銀280トン、採掘総延長 800km。
1996(平成8)観光施設、「ゴールドマイン高玉」として再開坑する。

 玉井の金山は、葦名氏時代のものに相当するものか、それとも、近代の鉱山に相当するものか、確認できていない。こういった鉱山は、私有地で、盗掘を恐れて、情報や記録が見つけにくいと聞いている。偶然何かの機会に知っている人とであえたらいいなと思っている。楽しみである。
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by shingen1948 | 2006-12-26 12:56 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)
  ここ二週間、資料をもとにいろいろイメージを重ね合わせたことをもとにして、どこまで玉井の村を想像できたかを確かめてみる。時代を大河内氏の時代に戻し、そこに自分を重ねて想像をしながら村を眺めてみる。

まず、玉井舘から大名倉山を覗いてみる。
a0087378_4195277.jpg 大河内氏の気分で眺めれば、里山としての大名倉山は、かなり近くに存在感を持って迫ってくる。我が裏山の実感がわく。その山の姿を通して、会津を意識している。左手が本宮で、そこから大名倉山を回り込んで、自らの大将である会津の葦名氏へ続く街道がある。今よりも会津への街道は、大名倉山山頂近くを通っていたと考えられるので、意識の中で街道のイメージを引き寄せて想像する。

 次に、逆に大名倉山方面から、舘を通して村をみる。
a0087378_4285557.jpg 左手に玉井の集落があり、そちらへの街道を進むと、現在の相応寺あたりが意識できたであろう。しかし、当時は「安達太良神社」と「織井の清水」、「玉井の井戸」の意識だったはずだ。相応寺や薬師堂は意識から消し去ってイメージする。桜はそのままあってよい。
 その少し奥まで進むと自らが造った玉泉寺がある。更にそこから奥は、うっそうとした林の中の山入りとしての意識だろうか。手前の参道も森に囲まれている。参道は杉林がいいだろうか。寺の「いぐね」の役割の森がいい。
 その山入りの奥の亀山という所に、今の相応寺のような感じで薬師堂があり、修行僧で活気づく修験場となっていたのではないだろうか。

 さて、現在の景色との相違の考察だが、ここには、大河内氏がそれほど強い権力があった様子は伺えないし、また、近隣の権力の奪い合いに埋没た存在としてのイメージである。また、相応寺の経緯を見ても、大河内氏が、自分の権威を使って祠を移動させたとは思えない。むしろ寺に力があって、そちらの意志の力で、眉岳から亀山へ、亀山から南町へ移動しているようなのだ。しかも、1560年に亀山から現在地に移動しているのは、大河内氏が力を失いつつある時代と符合しており、寺の権威者が、そのことを意識しての移動だと考えてもよいだろう。集落の中心地に権威を示すために移動してきたと想定したとしてもあながち間違いでは無いような気もする。結果的に、舘からみれば、現在は大河内氏縁の寺玉泉寺は、その奥まったところに位置するようになったといったところだろうか。
 しかし、現在の視点からは、相応寺と玉泉寺が中心地に位置するようにイメージされる。これは、水田の開発による山入り部分の後退、学校、役場などの設置位置などの変遷などの村づくりの結果からであろうか。 
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by shingen1948 | 2006-12-09 05:07 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)

玉井氏が隆盛の頃

 玉井氏が隆盛の頃の伊達家の大きな出来事は、以下のようである。

 1542年(天文11年)に、稙宗が、三男実元の上杉定実(越後国守護職)への嗣を図ったが、反対する長男晴宗は稙宗を西山城に幽閉するということが起きた。これが原因で混乱は、伊達家だけでなく周辺の諸氏を巻き込む。

 しかし、伊達家の混乱の影響だけでなく、あちこちで、権力闘争が頻繁に行われている。そういう時代である。近所の城「百目木城」を例にとれば以下のようなことである。

 百目木城主の石川氏が、1568年に小浜城主の大内備前定綱氏と組んで、主家の石橋氏を滅ぼして、三春の田村氏に着く。その大内氏が、1583年には、二本松の畠山氏の援助を受けて、田村氏配下の石川氏を攻めたりしている。
この大内氏も2年後には、伊達政宗に滅ぼされ、伊達政宗に味方した石川氏が小手森城築館城を加増されたりしている。

 伊達家の混乱は、結果的には晴宗が勝利し、稙宗は丸森へ隠居、晴宗は家督となり居城を西山城から米沢城に移し、講話の条件とて西山城を破却した。 安達信夫郡は、大森城に弟実元と、梁川城に宗清を城代として置いて、葦名・畠山・相馬の諸氏に供えることになる。
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 この間の玉井氏の様子を、「大玉村水利事業史」で確かめる。第2節二本松藩政下の村「玉井村」に、以下のように記述されている。

 
天文16年(1547年)2月、二本松畠山義氏は田村隆顕、石橋尚義とともに安積郡を攻め、玉井氏は没落した。
 天正16年(1588年)三月、伊達勢の攻撃を受け、「玉井日向守為始、三百余人討ち取り候」とあるように館は滅び、村は伊達の支配下となった。

 この記述の間に、弘治元年(1555年)初代玉井氏の大河内日向守光盛が亡くなったようだ。

 初代玉井氏の大河内日向守光盛が亡くなる前は、この地周囲の群雄割拠の状態で、玉井氏は没落していったと考えてよいと思う。その没落の時代に、大河内日向守光盛氏は亡くなってしまう。そして、伊達政宗と葦名の本格的な攻防の中で、伊達政宗が安達一体を荒れ狂う中、玉井の館は落ちたのであろうと思われるようである。
 
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by shingen1948 | 2006-12-06 05:08 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)

伊達家騒動と玉井権威者


 「大玉村観光協会[大玉まるごと百選]」では、玉泉寺の記述で以下のように記述する。
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 大河内日向守光盛は、1532年(天文年間)会津葦名に仕え玉井郷を領し、玉井舘に玉井城を築き、居城した。1555年(弘治元年)伊達政宗が安達一帯を占領したときの戦火で、没する。墓は玉泉寺墓地入り口にある。(「大玉村史」より)

 そこで、伊達正宗の動きと照らし合わせてみる。
 すると、伊達・葦名の本格的な抗争は1573年から1592年のことである。概要は次のようになる。

 天正13年に大内定綱の塩松城を攻め、定綱は葦名を頼っていく。また、同年10月政宗の父がニ本松城主畠山に捕らえられ、阿武隈河畔で非業の最後をとげる。翌天正14年政宗は、二本松城を落とし、畠山氏を滅亡させる。こうして、伊達政宗が安達郡を手にする。

 大河内日向守光盛氏が活躍した時代と伊達家を照らし合わせて見る。
 すると、伊達家では十四代稙宗(1523~1555)の時代が中心で、長男の晴宗へ家督が移動する時代でもあるという時代になる。

 稙宗は、1523年(大永3年)ごろ、室町幕府から陸奥国守護職に任命されている。その頃の所領は本領である伊達信夫二郡から山形南部と宮城県中部まで及んでいたという。
 1542年(天文11年)に稙宗は、三男実元の上杉定実(越後国守護職)への入嗣を図ったが、反対する長男晴宗は稙宗を西山城に幽閉した。
 これが誘引となって、天文の乱という、伊達家だけでなく周辺の諸氏を巻き込んだ混乱になったが、1548年(天文17年)足利義輝の仲介で集結する。晴宗が勝利し、稙宗は丸森へ隠居、晴宗は家督となり居城を西山城から米沢城に移し、講話の条件とて西山城を破却した。 安達信夫郡は、大森城に弟実元と、梁川城に宗清を城代として置いて、葦名・畠山・相馬の諸氏に供えた。

 大河内日向守光盛氏が、没するのは、この混乱がとりあえず収束する時代である。したがって、大河内日向守光盛氏が活躍するのは、この混乱の時代だったと考えるのが自然だと思う。
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by shingen1948 | 2006-12-05 05:23 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)
 大名倉山に、村を見渡せる里山として精神的な基盤を求めていたが、もう一つ会津への憧れ道として村から眺めたかもしれない。「山形・宮城・福島の城郭」新人物往来社刊の321番の館は瀬戸川館の位置説明で、以下のように位置説明されている。
 
瀬戸川館は、本宮町の大名倉山から高日向の丘陵が本宮゜盆地に落ち込む舌状地に位置し、往昔は会津街道がこの丘陵から本宮の町に入っていたとされているが、……。本宮城の出城として、会津街道の要衝の守りのため、築城されたといわれている。

 大名倉山は、村のどこからも良く見える山だが、この記述からこの大名倉山は、会津への道でもあったことが分かる。

 なお、この館は、天正13年の人取り橋の合戦で脚光を浴びたところだ。この時、この城には、伊達成実が守っていた。また、物見櫓と烽火場が検出されたことが頷ける位置で、正宗が本陣を置いた日輪寺に近く、本宮城のものぞまれる要衝の地である。伊達家の前線基地高倉城が指呼の間にある。更に、ここからは仙道を東にのぞむことができる位置である。この時の反正宗勢力は、葦名・佐竹・岩代・白川・石川・須賀川で、畠山氏を擁護するため連合を組んでいた。

 この戦いで、連合軍が突然陣を払って引き上げたとのことであるが、会津に事件があったからと伝えられている。多分、地区の人々は、この大名倉山から、会津に戻る後姿を見送ったのであろうか。
 
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by shingen1948 | 2006-12-03 08:16 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)
 「玉泉寺」の記述によれば 、玉井近郊の権力者として「大河内日向守光盛」 の紹介があり、彼は、会津の蘆名氏の家来ということである。そこで、会津の蘆名氏の状況と、大河内日向守光盛氏の状況を重ね合わせて記述してみる。
 大河内日向守光盛氏については、「大玉村観光協会[大玉まるごと百選]」から、会津の蘆名氏については、「会津方部高等学校地理歴史・公民(社会科)研究会[資料が語る会津乃歴史]」から要約し、年代順に並べてみた。
 玉井の地域をメインに考えたいので、大河内日向守光盛氏関係の記述を太字にした。

1466年(文正1)頃には、蘆名の仙道(中通り)への進出が本格化していた。蘆名盛高は、この時期、安子ヶ島や岩瀬郡へ出兵している。蘆名は、領内でも内乱を克服し、戦国大名として成長していった。
 そして、盛氏の代には、伊達氏や結城氏と政略結婚などの外交手段も行使し、会津から越後の一部、仙道の安積郡岩瀬郡を手中に収め、全盛時代になっていた。

1529年(享禄2年) 玉泉寺 大河内日向守光盛開基 利宵厳益和尚開山
1532年(天文年間)大河内日向守光盛は、会津葦名に仕え玉井郷を領し、玉井舘に玉井城を築き、居城した。
1555年(弘治元年)伊達政宗が安達一帯を占領したときの戦火で、没する。墓は玉泉寺墓地入り口にある。(「大玉村史」より)


1584年(天正12)に盛氏から引き継いだ盛隆は、籠臣に切り殺される。
1586年(天正14)に盛隆の子亀若丸も3歳で亡くなるなどの試練の時を迎えた。
 後継ぎをめぐって、伊達政宗の弟を押す派と常陸大名の佐竹氏の次男を押す派に分かれた。1587年(天正15)に白川結城義親の養子義広が黒川に入城した。

 伊達政宗は、会津への進出を狙ってたが、佐竹氏から後継ぎを迎えたことで対立は決定的になった。
1589年(天正17)政宗は猪苗代盛国を内応させ6月4日に猪苗代に入城した。6月5日の早朝から磐梯山南麓で繰り広げられた摺上原の戦いに敗れた蘆名義広は黒川城に逃れたが、四天の宿老たちに追われて白河を経て実家の佐竹のもとに走り蘆名は事実上滅亡した。

 伊達政宗が、周辺へ勢力を延ばし、会津への進出を狙うようになる状況については、残虐な戦いぶりと相手の悲劇として語り継がれていることは多い。
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by shingen1948 | 2006-12-02 17:09 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)
 大玉村のフィールドワーク資料の観点から、村の共同意識を確認する。
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 神社仏閣の歴史の読み取りからは、村の中心地として相応寺が意識されていると感じる。いくつかの経緯をたどりながらも、相応寺境内に神々を集中させようという意図を感じるのだ。実際には、織井の井戸の脇にあった祠もこの地に移動している。この地を中心にして整備充実しようという村の共同体としての意識を読み取ることができるのだ。

 村の共同体の意識の中には、ここに住む人々や権威者のほかに、修験者の還俗の問題がありそうに感じる。修験者は農民となり、寺院と鐘楼を残す。そんな意識も働いたのではなかろうか。それは、中心となる薬師堂移動から、記載はどこにもなさそうだが推定してもよいのではないだろうか。
 ただ、この相応寺境内移動前の薬師堂位置は、現在「戦死三十一人墓」のあるあたりだ。ここは、山入である。山入と玉井村との共同の意志も働いていると思う。この地を中心に、山入と玉井村の意志が何となく手を結ぶという共同意志を感じるのだ。

 戊辰戦争の資料で、「玉井に集結」という表現を見つけたとき、地点を特定できないのだが、まずは、この相応寺境内を推定することが正論であろうということだと思う。

 この相応寺境内を中心地に据え、この地の権力者の菩提樹玉泉寺を心のよりどころにする。そういった広い意味での玉井共同体の意志の上に、明治の国家神道政策を受け入れて、玉井神社を整備する中心地に加えたというところだろうかと推定した。
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by shingen1948 | 2006-12-02 05:53 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)

玉井の神々

 先日は、福島の信夫山の「心の神々」のようすについて資料をもとに確認した。その観点から、安達太良の里山「山入」の神々を確認してみる。そのため、現在の神社仏閣等の歴史を確認し、この地域の心の神々を想像する資料を探した。大玉村観光協会「大玉まるごと百選」がいいと思った。この資料をもとに、神社仏閣の歴史の記述から、移動の経緯等を中心に確認する。そうすると、もともとの神々の位置が分かる。そこに、安置されたものや言い伝えを合わせて確認して想像をすれば、地域の神々の認識に迫ることができるかも知れないと思った。
 
 この資料で、この地域の全体にさっと目を通す。すると、次のような概要を感じる。
 
 玉泉寺が、この地の領主の菩提樹であるようだ。この領主は、会津葦名のとのかかわりがある人物で、舘に住み、1555年(弘治元年)伊達政宗が安達一帯を占領したときの戦火で、没したとのことのようである。
 その他の神社仏閣は、いろいろな神々の変遷があり、今の神社仏閣としてかくりつしたようだということである。

 玉井を中心にしてみれば、大きな仏閣は、相応寺であろうか。この神々について経緯の記述を探してみると以下のようである。

 807年(大同2年)眉岳(前ケ岳)に堂宇を建てて如来を安置し、安達太良山相応寺と号した(木村完三「安達太良山」より)とある。この地に650年あったが、度重なる火災にあったとのこと。
 1452(宝歴4年)玉井亀山に再建され、修験堂当山派の拠点になった。この地に100年あった。
1560年(永禄3年)現在地南町に移された。

 この記述から、本堂の脇にある薬師堂から、「地域の神々」のにおいを感じ取ることができるようだと分かる。上記からは、更に山岳信仰に関わる神々が感じられる。 

 前ケ岳は、里山ではあるが、奥深い山々とのつながりある意識的にはやや深めの里山であり、修験者の存在を感じさせる。現在の遠藤ケ瀧の行事に残るイメージである。
 変遷は、薬師堂の「前ケ岳」→「亀山」→「南町」へ移動とのことである。
 この前ケ岳とあるのは、本山の前ケ岳だろうか、それとも、玉井の前ケ岳だろうか。いずれにしても、本山の前ケ岳に「神々の精霊」を感じた薬師というイメージの精霊をここで感じればいいのだろうか。

 記述によれば、次のような神々だとある。
 薬師堂内の薬師如来は、亀山の元相応寺から移った岳山湯前薬師とのこと。薬師如来の護衛として配された12神將は、一体は1481年(文明13年)江戸時代に制作されたものが、12体とのことである。
 
 信夫山の護国神社に相当する新しい神々は、午房内の玉井神社のようである。
 明治初期に、国家神道政策が荒れ狂い神仏分離が厳しく実施されたことに伴う変化であることは明らかである。ここからも、心の神々から権威の神々への変化を読み取る記述を探すと、以下の記述がされている。 

 大名倉山中腹の愛宕神社と相応寺境内に社殿のあった安達太良明神を合祀して、明治12年に建立された神社。現在玉井を鎮守する神社。

 ここから、心の神々は、国家神道政策の前には、大名倉山にもいたし、相応寺境内にも別の神がいたことが分かる。やはり、大名倉山は、里山としてのこの地のシンボル的存在だと感じる。また、相応寺の場所も現在の神々とは別の安達太良の山か川か里かは分からないが、重要な精霊の住む地であったと感じる。 

 その他の玉井の仏閣に、小菅の正福寺がある。ここの経緯は、以下のように記述されている。
 
 新義真言宗、城守山 正福寺と称する。
 1558年(永禄元年)山城の地に開創
 1708年(宝永に年)現在地に再興
 1803年(享和3年)火災で焼失、同年再建。
 本尊は、地蔵菩薩 脇仏は不動尊 文覚上人(遠藤盛遠)が背負って歩いたお不動様も安置。
 
 八坂神社とここの神々は、玉井とは別の山入地域の精霊であり、山入村の鎮守だろうか。
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by shingen1948 | 2006-11-30 20:33 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)

玉井の玉

a0087378_19311461.jpg 先日「立県130年記念展」福島県の誕生~明治巡幸と三県合併~と題した展示会を観てきた。そこで、天覧品目録に「玉井の玉」の出品を見つけた。それは、この玉であろうと思う。鈴木某氏によって出品されていたことだが、この写真には、所在地:郡山とある。恐らく、天覧の関係で郡山にあったのだろうと推測する。今この玉は、大玉のふれあいセンターに展示してある。



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 この玉はこの井戸から発見されたと言われている。だからこの地を玉井というとのことだ。こんな丸い玉がここにあったのかとも思う。しかし、穴原の波の化石のあるところの川底には、岩に真ん丸い穴をあけた丸い石がある。流水が形作ったという。だからありえないことではないかもしれない。しかし、この丸い玉が、人工であるとするなら、次のような解釈はどうだろうか。
 玉を丸いという意味ではなく、玉造りの玉と考えれば、原石としての水晶のことをいっているのかもしれないということになる。大山地区が、古墳群であることを考えれば、この玉を使って装飾品を造っていたことも考えられなくも無いとも思う。その場合、玉の産地としての玉井なのか、玉造のいる井戸なのかと空想は広がっていく。
 なお、この井戸の標識は、昭和11年ごろ、巡幸60周年記念で造られたものではないかと今のところ想像する。
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by shingen1948 | 2006-11-27 19:52 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)