地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 山歩きと温泉( 194 )

 「愛宕山公園入口」に建つ案内板には、この愛宕山を訪れた他の文人も紹介されている。
 「愛宕山頂上からの遠望は『屏風を建てたらん如く、西に吾妻山…』との題で、画家の布施淡氏が以下のように解説される。
a0087378_7383973.jpg 島崎藤村と東北学院教師として同僚で交友関係にあった、画家の布施淡は所用で飯坂を訪れ、愛宕山などを散策。そのとき、頂上からの眺望の素晴らしさに感嘆。
 その夜、早速、藤村に手紙を書いています。
 「食事をすまし、湯に入り君を思いつつ筆をとる」に始まり、当時の飯坂・湯野の様子、景観など細々と書き連ね、その中で「屏風を建てたらん如く」と愛宕山頂からの眺めをたたえています。
 (以下略)
 仙台のその道に詳しい方の間では、画家の布施淡氏も知られた方のようだが、ここでは、「島崎藤村と同僚で交友関係の深かった方」ということを肩書にして紹介される。仙台にかかわりある文人として名が通るのは、島崎藤村氏と土井晩翠氏だからだろう。

 島崎藤村氏とのかかわりを確認すると、東北学院教師として同僚で交友関係にあったことが分かる。
 島崎藤村氏が東北学院教師として仙台に赴任するのが、明治29年(1896)で、最初に滞在するのが、駅前の「針久支店」のようだが、すぐに支倉町の池雪堂(庵)に移るのだが、それが同僚の布施淡氏宅で、ここに身を寄せたということだ。
 まもなく布施一家は同町の田代家隠宅に移り住むのだが、藤村氏も一緒に移っているようだ。「若菜集」が書かれたということで有名らしい三浦屋へ移るのは、その後の話らしい。

 藤村氏の母がコレラで死んで永昌寺での葬儀と埋葬のため馬籠に帰省するあたりが、この布施一家と同居している時期だったとする島崎藤村氏側の資料をみる。
 たまたま布施氏は写生旅行に出ていて、藤村氏は土井晩翠氏と思われる?方と広瀬川畔を散策、一見亭という茶屋で一献傾けて帰宅した時だったという。
 布施淡氏が飯坂を訪れ、愛宕山などを散策し、藤村に手紙を書くのは、この写生旅行の頃なのか、その後なのかは分からない。
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by shingen1948 | 2015-02-23 07:40 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 木村氏の「禰宜様宮田」についての作品論副題は、「飯坂と『春の鳥』の影」である。今まで、その飯坂の影にかかわる部分をなぞってきたところだ。ようやく「春の鳥」の影をなぞってみようと思うようになったのは、集中力が27分しか持たなくてもなぞれそうだという見通しを持ったからだ。
 それで、再び「禰宜様宮田」作品論への項を起こしたところもある。

 氏が「春の鳥」の影を感じているのは、深い同情をこめて描かれている「六」少年の姿だ。ここに、国木田独歩の「春の鳥」でロマンティックに描く「六蔵」少年の姿が似ている事を指摘する。
 まずは、名前だ。「春の鳥」の主人公は「六蔵」というが、通称は「六」だ。自分でも、母親も、彼のことを「六」と呼ぶ。語り手の教師である「私」も「六さん」と呼んでいる。
 年頃と境遇も似ているとする。「六」が九歳で、「六蔵」は十一歳だ。ほぼ同年代といえるし、境遇も似ていると言えば似ているところがあるとも見える。
 墜落死自体も似ているところがあると指摘する。「鳥のように飛んで行ける」という衝動につきうごかされて墜落して死ぬという死に方だ。その死のイメージが深い哀感をこめてきわめてロマンティックに描かれている点も共通しているという捉えだ。
 そして、このことこそが日本近代文学史の流れに浮ぶ一つのロマンティシズムの系譜を認めることができるとする見え方に結び付けている。

 その捉えを確認するのには、国木田独歩の「春の鳥」に目を通す必要がある。これが、青空文庫で読む事ができるのだが、27分の集中力で充分読み切れる長さだ。   http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/1057_15980.html
 氏がふれている「六」と「六藏」の違いも確認できる。
 その一つは、「六」が学校に行かないのは、もっぱら貧窮からであって、知能が遅れているからではないこと。むしろ善良で感受性ゆたかなナイーブな少年であるということだ。
 もう一つは、「六蔵」は単なる「白痴」としてではなく、「天使」・「自然の児」として描かれる。それに比して、百合子の「六」の方は、「目然の児」の側面もあるにはあるのだが、より「社会の子」というリアリスティックな少年像となっていることだ。
 これに現実の場の素材を提供しているのが飯坂であるという捉えだ。

 これで、飯坂は「禰宜様宮田」という一篇のユニークな農民小説の誕生にあたって、その産婆役を果たしたという氏の見え方に少しは近づけたかなと勝手に思っている。
 もう一度、「禰宜様宮田」の「六」の場面を読み返してみる。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2027_49536.html
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by shingen1948 | 2015-02-22 06:18 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 「禰宜様宮田」の魅力は、「リアリスティックな要素」と「ロマソディックな要素」とが複雑にからみ合って成立した一篇のユニークな農民小説」という捉えをした。
 それが、「貧しき人々の群」では、「観察」と「主観」、「リアリスティックな要素」と「ロマンティックな要素」とがわりあい簡単な構造で結びついていて、わかりやすく現われていると木村氏はいう。
 「貧しき人々の群」での「リアリスティックな要素」は、安積開拓村の貧しい農民群像を外側から「観察」された対象でしかないとのこと。主人公は、あくまでも農民たちに同情し、善意をもって近づいて行こうとする私=百合子自身にほかならないというのだ。「ロマンティックな情感」は、作者のヒューマニスティックな「同情」が「私」の身上となって発露しているに過ぎないという。

 この「貧しき人々の群」もまた、青空文庫で読む事ができる。27分の集中力の限界を越えた散漫な読みではあるが、ともかく読んでみた。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2025_5834.html
 この作品の魅力は、「ロマンティックな情感」を持った主人公=百合子自身の目で「観察」された安積開拓村の貧しい農民群像の捉えと、「ロマンティックな情感」そのものであることの確かめだ。
 この時、百合子氏は十九歳の少女であり、「まだ社会主義もしらなければ社会科学もしらない。したがって農村における階級対階級の関係もしらない。それにもかかわらず彼女のものを正しく見ようとするリアリズムは、農村における一つの社会的現実としてこの関係を見のがすことができなかった」と言うのが、この作品の魅力の根源になっている「ロマンティックな情感」なのだろう。

 これに対して、「禰宜様宮田」の作品に、作者は直接登場しない。作者は、宮田の主体性の陰に隠れて、この主人公を同情される人物として表現する。木村氏は、これを「主人公に対する作者の『深い同情』に根ざした『主観』の現われ」とし、これが「ロマンティックな情感」の発露となり「牧歌的な要素」となっていると表現しているようだ。
 そういう好人物の農夫が、好人物であるという「牧歌的な要素」が強まれば強まるほど、その対比として商業資本・地主・高利貸をかねた海老屋の「鬼婆」の悪辣さが強烈な印象となり、その手にかかって、まるで猫の手にもてあそばれる鼠のように無力な百姓として、搾取の好餌にされるということがリアリスティックな見つめになるという関連性の捉えが大切なのだと思う。
 そういう見え方からすれば、飯坂の「詳細な観察」は、全てがリアリスティックな要素としてかかわるのではなく、むしろ、飯坂の「取材メモ」のなかから小説としてのフィクションをふくらませるというかかわりと捉えるべきなのだろうなと思う。
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by shingen1948 | 2015-02-21 07:21 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 秋山政一氏が書いた「百合子の道のこと」と、「百合子といいざか」の吉田千代子氏が斎藤信夫氏の案内で「滞在の足あとを追って」散策したことが繋がって、愛宕山に小説家「宮本百合子文学碑」が建立されたということだ。百合子氏は、この文学碑建立の地である愛宕山には、何度も足を運んだであろうと思われる。

 秋山氏の「百合子の道のこと」は、福島民報のサロンに書かれた記事のようだ。その主旨は、彼女の取材に歩いた道をたどれる「百合子の道」を開いたらどうかということのようだ。 
 百合子氏の日記には、大正時代の飯坂の自然と、当時の生活のよすがが、細かに記されている。しかも、彼女が取材のために歩いた道筋は今も明らかである事ということからの提案だったようだ。

 ただ、文学作品を散策と結びつけて読んでいくと、その読みに歪が生じる事がある。そのうちの地域を知り尽くしているが故に深読み過ぎてしまうことの弊害は、「愛宕山散歩29~小説家「宮本百合子文学碑」情報修正⑬」で整理した。どうしても、作品の全ての題材が飯坂で完結していると見たいと言う願望が起きてしまうという弊害だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20864830/
 「愛宕山散歩30~小説家「宮本百合子文学碑」情報修正⑭」で確認したのは、この作品が注目される事になった「明治以来の日本文学の中で農村における封建制を、そのもっとも悪質なる典型の一つにおいて、これほどはっきりえぐり出した文学はほかにない。」という「リアリスティックな要素」への注目し過ぎによる見え方の偏りの弊害だ。
 散策で確かめようとすると、この事が飯坂での「詳細な観察」の賜物であるというとらえが強くなりすぎる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20869601/
 そろそろ木村氏の作品論としての考察の読み取りに戻りたい。
 木村氏はいろいろな「禰宜様宮田」評価の考察の上で自らの指摘をしているのだが、当方にはそれを確認するだけの素養がない。それで、木村氏の作品論の世界観を自分なりに読み取って、その概要をパターン化するという簡素化された捉えだが、「禰宜様宮田」の魅力は「リアリスティックな要素」と「ロマソディックな要素」とが複雑にからみ合って成立した一篇のユニークな農民小説」ということにする。
 その「リアリスティックな要素」に絡む「ロマソディックな要素」を確認すれば、主人公のどこか現実離れした善良純朴な人柄・息子の「六」少年の孤独で哀な姿、しばしば擬人化される抒情的な自然描写などにつきまとう「ロマンティックな情感」・「牧歌的な要素」ということだろう。
 作品を魅力的にしているのはこちらの要素が強いのだろうと思う。

 ならば、彼女の飯坂での散策から読み取るべきは、感性的なものなのだろうと思う。例えば、軽便鉄道を使わずに乗合自動車でやってくること。2度目の滞在の旅館に角屋を選ばずに丸正旅館を選んだ事、旅館の変遷の捉え、牛乳屋殺人事件、岩倉公の別邸の興味等々。これらは、余談として整理しているが、「ロマンティックな情感」・「牧歌的な要素」が作品の魅力との視点に立てば、むしろこちらの捉えが本筋だったのかもしれないとも思う。
 そういう視点でみれば、気になるのは3月29日(木曜)の日記の見え方。
 「禰宜様宮田」の作品と直接的に結びつくような白土や、天王寺沼や愛宕山策動の観察に目がいって、省略していた日記の最後の文章。
 少しばかり曲がりくねった細道を歩くとき、Iがこわがって座ってしまったときには、可笑しい裏に非常にいやな心持が湧き出した。女性は弱いのが美しい原因ではない。
 この感覚、押さえておきたい。
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by shingen1948 | 2015-02-20 07:18 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 天王寺付近の整備はややマイナーな感じはするものの、百合子氏が天王寺付近を散策している当時は「まちづくりの構想」の一つとして開発が進んでいたのだろうと思われる。それで、愛宕山、舘の山に加えて、天王寺付近の散策もしているのだろうと想像され。いずれも、当時公園化の整備が進行していた頃であろうと思われる。
 天王寺周辺の散歩の時点で頂いた情報に関連する事がいくつかある。

 その一つが、天王寺前に建つ「天王寺温泉碑」に関わることで、もう一つが、中野―湯野間の軽便鉄道連結構想だろうか。次の機会には、天王寺前に建つ「天王寺温泉碑」に刻まれる事柄の読み取りろうと思うが、とりあえずは、記憶にある「天王寺湯」を整理しておく。

 飯坂にかかわりのあった頃、その「天王寺温泉」の地点には、「くさっぽ」に効く共同湯「天王寺湯」があった。
自分は、特定の植物を触れると手がかぶれるというアレルギーがあるのだが、そのことにかかわって、ここの湯を紹介されたことを思い出した。半信半疑だったが、何度かここに入りに来たのだが、確かに効いたという印象がある。
 ここは真っ白な湯で、無色透明な飯坂の他の湯とは違うというイメージも残っている。
 その共同浴場の位置は、現「おきな旅館」(当時もこの脇を通って行った)の脇を通ってコンクリートのつり橋の主柱が残る地点の直ぐ西手だった。この時点で、立花屋はなかったと思うが、その奥に旅館風の建物はあって、立花屋はその付近かなとの想像はした。ただ、この共同湯「天王寺湯」と立花屋との関係は分からない。

 もう一つ思い出したのが、地質に興味を持った子供を連れて、ここから河原に抜ける細道があって、そこを通って植物化石を探しにいったり、転がった石ころが岩石に穴をあけたと思われ石を観察に連れて行ったり、穴原温泉側の波の跡の化石が見える地点を観察した事などがあった。

 天王寺散策時に「TUKA」さんから「天王寺温泉碑」についてコメントを頂いて、この共同湯「天王寺湯」を訪ね直した事があった。しかし、この時点では、現「天王寺穴原湯」の共同湯になっていたのだ。
 小心者は天王寺の丘の上から覗き込んで観察するだけで、そのままになっていた。
 本当は、上から覗き込んだ地点と、河原に抜けた細道との交点附近を確認したかったのだが、現「天王寺穴原湯」の共同湯に入ってそのままになっていた。
 なお、こちらの湯は無色透明で、当時の「天王寺湯」の湯質とは全く違って見える。情報によれば、こちらへの移動は昭和61年とのことだ。

 大正12年創業「おきな旅館」のホームページを確認してみる。
 「アトピー皮膚炎でお悩みの方へ」とあって、「昔から皮膚病でお医者さんに行って治らない人は“天王寺温泉に行け”と言われています。 2日位宿泊し入浴されると効果が実感できるはずです。」とあり、「くさっぽの湯」は健在のようだと思った。ただ、紹介写真を見る限り、無色透明の湯のような気がする。

 地図では、共同浴場「天王寺湯」だった所の奥に、「かじか荘」がプロットされる。
 そのホームページを確認すると「元湯・穴原天王寺温泉より引き入れております。源泉の温度は60度です」とある。こちらもイメージとは違うらしい。
 飯坂に関わった頃、「かじか荘」と聞けば、万人風呂をイメージしたものだが、こちらもその万人風呂とかかわるのかもしれない。
 この万人風呂は、一度だけ利用したことがある。名称は万人風呂とでかいのだが、千人風呂より、はるかに小さい浴槽というのが印象的だった。
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by shingen1948 | 2015-02-17 07:04 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 飯坂滞在中の日記で、週刊誌ネタというか三面記事に向く百合子氏の好奇心が分かるのが、もう一つある。(1917年)4月6日(金曜)の日記に、目が悪くなっているのに、おいくさんに誘われて殺人事件があった牛乳屋に出かける様子が記される箇所がある。
 おいくが来る。牛乳屋へ行こうという。そこではかって、殺人事件があったそうだ。AがBを殺してやるぞ、殺してやるぞといっていたところが、却って、BがAを殺して、自首したというのだ。面白いと思う。三人でぶらぶらと出かけていくと、小川のところで、川があふれて橋がながれてしまって居るのを知らなかったので行けない。河原で少しあそんで行く。柳やはこべが美しい。低い叢で、雲雀(ひばり)の声が聞こえる。いかにも春らしい。
山の雪が流れて、水がますので、又水が落付いてしまうまで橋はかけないのだそうだ。大勢そこまで来ては又かえって向うの橋の方へゆく。
 夜、善義のところへ行って、方言をきいてくる。思ったより沢山の収入があった。
 「大勢そこまで来ては又かえって向うの橋の方へゆく」とある「向うの橋」は、三島県令の飯坂街道の橋かな。その流された橋は、小川端辺りの橋なのか、あるいは医王寺に向かう飯坂古道の道筋の橋なのかと想像するがはっきりしない。
 ただ、いずれにしても、少なくともこの牛乳屋さんは平野方面ではないのかな等と勝手な想像。
  ◇    ◇      ◇       ◇         ◇
 所要で仙台に出かけた。福島は大雪だったが、仙台は数ミリの積雪。所要を済ませ、大町通りを芭蕉が辻付近まで散歩。2時30分の電車に乗ったら、強風による影響を配慮して白石から次の駅までの間ノロノロ運転。その前に、遅れた貨物列車とのかかわりで10分遅れていたことで、2時間かけての戻りとなった。
 昨年も今頃大雪だったなと思って確認したら、15日に大雪で飯坂電車がストップしている。こちらは正常に動いていただけよかったとすべきかな。
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by shingen1948 | 2015-02-16 07:22 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 百合子氏は、愛宕山、舘の山、そして、天王寺付近を散策している。いずれも、当時公園化の整備が進行していた頃であろうと思われる。
 現在も愛宕山、舘の山は、公園としての整備が継続されているようだ。それに比べれば、天王寺付近の整備はマイナーな感じはするが、当時は、「まちづくりの構想」の一つとして開発が進んでいたのだろうと思われる。

 百合子氏天王寺散策の第一回目は、祖母と飯坂滞在したときの(1916年)12月17日(水曜)。角屋―千人風呂―天王寺のコースで散策に出かけているようだ。その日の日記。
 昼過ぎてから、いくの息子が来る。私をおいてけぼりにした息子はあんなに大人になって居るので可笑しい心持になっていた。天王寺の方へ行ってみることにして、おいくさんと娘とで出かける。
 道は心持がいい。千人風呂というところは、まだ新開で、あまりよくはない。途中に岩倉公の別邸がある。妾の所有になって居るそうだ。天王寺は、すっかり山かげになって居て、朝の霜がとけずに居る。大変寒い。帰途には、坂道をあがるのにお祖母様の腰を持って、つりあげるようにしてあげた。すっかりあたたかくなった。
 千人風呂には何度か入ってはいるが、妾の所有になって居る「岩倉公の別邸」とやらは知らなかったが、大正9年発行の「ラジウム霊泉郷土之栞(大橋五郎, 堀江清)」に、その紹介を見る。
 元公爵岩倉氏の舊(ふん)別邸
 赤川端の東端金瀧温泉に面したる所にあり、嘗(かつ)て濱野繁氏の建つる所にして大作山、芋殻嶽、大鳥山を望みて老松繁茂し、眺望頗る佳なり、一時元公爵岩倉具張氏の有に帰したりしが、今は仙台の人尾形氏の有に帰せりと言ふ。
 ここに登場した「岩倉具張氏」を確認すれば、三面記事的な紹介が目にとまる。自分は知らなかったが、当時は誰しもが知っていたということなのだろう。
 「途中に岩倉公の別邸がある。妾の所有になって居るそうだ」は、女学生の百合子氏がこの週刊誌ネタへ興味ありと読み取れるということかな。

 飯坂とかかわるのは、岩倉具張氏の負の経歴のようだ。要約する。
 氏は、投機的商人の誘いで土地投機に手を出して失敗。さらに、新橋芸者に通い詰め、ひいきの芸者を落籍してレストランを開かせるなどの放蕩で一族の資産を浪費してしまう。その後始末に困って高利貸に頼った結果、自邸を差し押さえられてスキャンダルとなったという。これら負債累積など家計紊乱の責任を取って宮内書記官等重責の役職を辞任。
 親族会議の結果、家督を長男に強制的に譲らされて隠居させられ、その年の暮より行方不明となるが、1915年に「北海道タイムス」記者によって福島県飯坂町で発見されて、東京に連れ戻されたという。
 その後、詐欺罪で告訴されるが、以後は家族と別居、愛人とともに生活したとか。

 百合子氏天王寺散策の第二回目は、(1917年)3月29日(水曜)で、天王寺の白土を掘りだすところと沼廻りに出かけているのだが、この事については先に整理した。
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by shingen1948 | 2015-02-13 15:16 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 天王寺付近の自分の飯坂散歩を確認すると、飯坂氏とのかかわりとか、経筒など歴史的な事にかかわる視点で整理されている事が分かる。その視点で、但木氏と伊達氏のかかわり、を確認すれば、伊達氏家臣団の「宿老」に、但木氏〈1500石〉がみえる。このこととかかわるのだろうか。
 宿老とは、「宿徳老成」の人の意味で、十分に経験を積んだ老人を指す言葉とのこと。そこから転じて、古参の臣や家老など重要な地位に就く者の称となったとのこと。伊達家臣団では、政宗の初期から側近として仕えたものが多いとか。
 その伊達藩重臣だったとされる但木氏が天王寺を再興するとされる事情について、「百合子といいざか」の著者吉田氏は以下のように記す。
 明治の中期天王寺は、住職不在の寺でしたので檀家は、僧の適任者を求めていた。(案内者斎藤信夫氏の)祖父の斎藤久助はその世話人として、白石市北の「宮」に居られる但木という僧侶と話がまとまり、天王寺住職として迎える事ができた。
(中略)
 但木氏は、伊達藩の重臣であったことから、仙台では文化人との交流も深く知名度も高い人物であった。
 この初代天王寺住職が但木文雅氏である事、2代目は次男の文董が継ぐ事が紹介される。その文董氏が天王寺温泉に立花屋という旅館経営の発展に尽くした事、その業務には妹のフミさんがあたった事、福島軽便鉄道に勤務もしていたし、長期に町会議員もしていた事等がし溶解される。
 この2代目が、天王寺公園をつくる開発事業を手掛けたということだ。
 「ふくしま散歩」で、この事と重なる情報を拾えば、「天王寺の経筒とパラソルの碑など」の項に以下のように紹介されている。
 天王寺温泉はもと立花屋といって、代々「但木家」の経営していた旅館であった。かつては飯坂町長をした文董氏もこの出であるが、(中略)この立花屋には文人墨客が避暑のため訪れる事が多く、文董氏の妹「文尾」さんなどが誰彼の別なく面倒をみてくれたことも、今は語り草となってしまった。

 ここで見えてきたのは、天王寺を中心名とした「まちづくりの構想」とでもいうべきものだ。百合子氏は、その匂いを感じて天王寺散歩に向かったのではないのかな。
 よそ見や寄り道を大切にした散策を心がけていたつもりだが、削ぎ落してしまった視点だったとの反省。
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by shingen1948 | 2015-02-12 06:48 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 「百合子といいざか」の著者吉田氏は、郷土史家の案内のもと百合子氏の散策の追体験をするのだが、著者自身の興味が、追体験の範囲に優っていることがある。
 次の散策の機会に参考にしたい事を整理しておきたいことがある。
 その一つが、天王寺付近の散策だ。
 この付近の散策については、2011/1/14「飯坂散歩⑨と天王寺」辺りから整理している。
 まずは、以下の3回で天王寺と飯坂氏とのかかわりを中心に整理している。
 〇 「飯坂散歩⑨と天王寺」
 http://kazenoshin.exblog.jp/11911691/
 〇 飯坂散歩⑪:天王寺と飯坂氏のかかわり②
 http://kazenoshin.exblog.jp/11918706/
 〇 飯坂散歩⑫:天王寺と飯坂氏のかかわり③
 http://kazenoshin.exblog.jp/11925853/

 次に、以下の6回で、王寺公園と天王寺のかかわりを整理している。
 〇 飯坂散歩⑬:公園計画と天王寺
 http://kazenoshin.exblog.jp/11933586/
 〇 飯坂散歩⑭:公園計画と天王寺②
 http://kazenoshin.exblog.jp/11941951/
 〇 飯坂散歩⑮:公園計画と天王寺③~経筒
 http://kazenoshin.exblog.jp/11948911/
 〇 飯坂散歩⑯:公園計画と天王寺④~経筒②
 http://kazenoshin.exblog.jp/11957121/
 〇 飯坂散歩⑰:公園計画と天王寺⑤~経筒③
 http://kazenoshin.exblog.jp/11961775/
 〇 飯坂散歩⑱:公園計画と天王寺⑥~経筒④
 http://kazenoshin.exblog.jp/11968034/
a0087378_15291845.jpg この中の天王寺公園碑を、吉田氏は「大槻文彦文筆の碑」とする。
 そこで、大槻文彦氏は日本最初の辞典「言海」著者であり、晩年1928年に亡くなるまで増訂を重ね、その遺稿として「大言海」が発行された事が紹介される。
 ただ、「天王寺公園碑」には「大槻修如電撰文」が刻まれているので、大槻文彦氏のお兄さんではないのかなとも思うのだが、どうだろうか。

 それでも、近年無住となろうとした天王寺を再興した但木氏が、伊達藩重臣だったことや、その経歴から仙台の文化人等がよく来訪していたという解説はそのまま生きると思う。その文化人達が、2代住職がかかわる 天王寺温泉立花屋によく滞在していたのだとか。大槻氏もそんな中のひとりだったとのことだ。

 ここまで整理して気付いたのが、これって但木氏と伊達氏のかかわり、但木氏が天王寺の住職となる事情、更には天王寺温泉立花屋とのかかわり情報だよなということ。
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by shingen1948 | 2015-02-11 15:30 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 前回、地域を知り尽くしているが故の深読み過ぎだが、作品に誘発されてピソードが披露されたものでもあるという見え方を整理した。
 「悪徳の金貸的、地元地主の海老屋の年寄り」のモデルも飯坂に求めるのも作品論の視点からは深読み過ぎなのだろうと思う。
 確かに、戦後になって、この作品が高く評価されるようになったのは、「明治以来の日本文学の中で農村における封建制を、そのもっとも悪質なる典型の一つにおいて、これほどはっきりえぐり出した文学はほかにない。」というふうな、その「リアリスティックな要素」への注目であったと木村氏は指摘する。
 一方で、氏は「禰宜様宮田」の魅力は、「リアリスティックな要素」と「ロマソディックな要素」とが複雑にからみ合って成立した一篇のユニークな農民小説」と指摘する。この説に賛成するのは、お世話になったからという事ではなく、作品としてそうとらえたいということだ。
 というのは、主人公のどこか現実離れした善良純朴な人柄・息子の「六」少年の孤独で哀な姿、しばしば擬人化される抒情的な自然描写などにつきまとう「ロマンティックな情感」・「牧歌的な要素」が、この作品の魅力になっていると強く感じるからだ。

 もう一つ、「禰宜様宮田」作品全てが、直接飯坂と結びついているという捉えはしたくないということもある。
 木村氏が言うように「作者は、飯坂の「取材メモ」のなかから小説としてのフィクションをふくらませる種となるものだけを取捨選択している」のだと思う。
 百合子氏は、確かに飯坂でも「リアリスティックな要素」の関係性の影は感じてはいるのだろうと思うのだが、それを強調すれば、かえって作品の魅力が半減してしまうというのだと思う。

 ただ、郷土史の造詣深い方が、現在も観光の目玉の一つである「次男が、後年、大戦終結後、崩壊した日本資本主義の、再建の第一線に一定の役割を果たした人物」を、、「禰宜様宮田」作品の読者としての立場から、海老屋のモデルと重ねて見るというのは、郷土観に新たな視点を与える観え方になっているというインパクトを与えるのだとは思う。
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by shingen1948 | 2015-02-10 07:39 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)