地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 会津への路(戊辰戦争)( 65 )

a0087378_6233993.jpg 会津に来る時には殆どいつも立ち寄るヨークベニマルの近くに、この道標が建っている。
 西面に、「向 右 若松市ニ至ル約十二町」 「左 大寺及猪苗代方面ニ至ル」が紹介される。これが二本松街道の紹介のようだ。

a0087378_6255395.jpg 南面には「向 右 長原村ヲ経テ戸ノ口方面ニ至ル」、東面には「大正9年2月1日建立」、北面に「郷之原青年会」が刻まれる。
 写り込んでいるのは 「左 大寺及猪苗代方面ニ至ル」方面の風景だ。

 実は、この道筋自体も、結構馴染みのある道筋ではあったのだが、これが「二本松街道」の道筋ということを意識してはいなかったし、この道標にも気づいてはいなかった。

 特異点付近では街道筋を意識するのだが、それを連続的に意識しているわけではない。
 旧市内では、「白河街道」が「札の辻」から東に六日町を目ざし、そこから北に博労町(相生町街)→養蚕国神社と進むその手前で「二本松街道」が分かれるあたりは特異点付近として意識している。
 しかし、この辺りまでくると、二本松街道を意識してはいなかったのだ。

 意識させられたのが「街道web」の「二本松街道・郷之原」のページだ。
 この道標が紹介されているのを見た時に、ここは見慣れた風景なのに、そこにこの道標を見ていなかったという据わりの悪さだ。
 http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/nhm/24.htm
 今回はその据わりの悪さ解消のための確認だ。

 今までなら、今回のようなスポット的な確認をしても、線としてもある程度見えてくるまで整理するのは待った。それを、今回はとりあえず整理しておこうと思ったのは、そのままになってしまっている事が多いなと感じているからだ。
a0087378_634023.jpg 赤い線が、道標西面に紹介される「向 右 若松市ニ至ル約十二町」 「左 大寺及猪苗代方面ニ至ル」と紹介される二本松街道の道筋。緑の線は、南面に紹介される「長原村ヲ経テ戸ノ口方面ニ至ル」と紹介される道筋のつもり。

 二本松街道は、会津街道とも呼ばれる会津若松と二本松を結ぶ街道だが、これから先の大雑把な見方を確認しておく。
 その経路の概略は、磐越西線の経路に近いという。現在の交通路の道筋としては、磐梯町付近までは県道64号線「会津若松裏磐梯線」が近く、そこから猪苗代町付近までは県道7号線「猪苗代塩川線」が近いとされる。

 この道筋の二本松街道にかかわる地点のあちこちに立ち寄ってはいる。
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by shingen1948 | 2014-09-16 06:35 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 散歩で心がけているのは、感性を磨けば宝が見えてくるはずという思い。
 しかし、それは徒歩で何度も繰り返して歩ける場所の話で、ここでは通用しない。見たことと得た情報とを照らし合わせて補強しておいて、次の機会を待つということになる。

a0087378_6114387.jpg 戸ノ口原の戦いの視点での戸ノ口原古戦場から先の興味は、西軍の陣になる。
 情報では、その西軍が会津軍と対峙して陣を敷いたのが現会津レクリェーション公園内の小高い丘とのこと。白虎士中二番隊が、船石茶屋あたりで聞いたという砲撃の音は、ここからのものと想像しているところだ。
 しかし、今回もここは通過するだけで、その確認は次の機会にゆずる。ただ、通過するときに右手のレクリェーション公園の二か所でシャッターを切った。その位置と西軍陣地位置情報を関連付けて、次の機会につなげたい。
 これが、その中の一枚で、公園の北西隅の部分と思われる。

a0087378_6124625.jpg これが、それから少し進んで、公園内の道筋と二本松裏街道とが接した付近の風景。
 この2枚の写真と、西軍が会津軍と対峙して陣を敷いた位置の情報との関係を照らし合わせておく。
a0087378_6144146.jpg 公園の北西隅と思われる風景の方をAとし、公園内の道筋と二本松裏街道とが接した付近の風景をBとして表記し、会津軍と対峙して西軍が陣を敷いた位置をプロットした。ここに、レクリェーション公園の駐車場とバス停をプロットして次回立ち寄りのための資料になるようにしておく。
 なお、「赤井谷地湿原」の視点から眺めると、このレクリェーション公園内の池で新たにマダラナニワトンボが発見されたとの情報も見る。
 このトンボは、本州のみに分布し、水中から根を張るような植物が茂る浅い沼地に生息するという。湿地が減少してそのすみかを失って、環境省、県の「絶滅危惧(きぐ)Ⅰ種」に指定されているとのことだ。
 専門家ではないので、難しいことはさておいて、赤くならない黒のままの赤とんぼのイメージらしいとの情報だけ頭にいれておく。
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by shingen1948 | 2014-09-15 06:19 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(2)
 二本松裏街道を「戸ノ口原古戦場―笹山」の道筋とクロスする地点まで進む。
a0087378_9342149.jpg ここで、昨年整理の「戸の口原古戦場に立ち寄る」につながる。http://kazenoshin.exblog.jp/18539424/
 「戸の口原古戦場に立ち寄る②」では、「会津戊辰戦争」の移動図から読みとれる白虎隊士中2番隊の最前線と小さな案内板にあった「因みに白虎隊士中2番隊士は、此処より2㎞も西の赤井谷地周辺で戦っている。」という解説との違いに戸惑っている。
 今回の散策で確認した資料に、白虎隊士中2番隊士の最前線情報を混乱させいているのが、この会津戊辰戦争」の移動図だとの指摘も見た。
 何とか辻褄を合せようとしていたが、今は、この情報で納得してしまっているところもある。
 http://kazenoshin.exblog.jp/18586368/ 
 「戸の口原古戦場に立ち寄る③~戊辰戦争戦死者の墓群」では、戸ノ口原古戦場―笹山」の道筋を「戊辰戦争戦死者の墓群」まで進んで整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/18592458/
 ここは、戸ノ口原で戦死された会津藩士を弔う墓標と、笹山や戸ノ口原で戦死されたそれぞれの方々の墓で構成される。戸ノ口原に点在していた墓を、この一画に移したものと思われる。
 「戸の口原古戦場に立ち寄る④」では、全体的なイメージを整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/18599191/
a0087378_937433.jpg 今回中心的に散策した地点は、「地形的にも戸ノ口原の低地を見渡せるこの菰槌山(こもつちやま)の地名の小高い丘付近に塹壕を掘って対峙していたらしい。白虎士中二番隊が胸壁を築いたのはその右手で、藪に覆われ自然に還りつつあるが、戊辰の役の際に築いた3重の塹壕がこの近くにあるという情報」と概括。
 ここに掲げた全体的なイメージ図に今回実際に散策して得た情報を橙色で付加した図がこれだ。

 なお、この二本松裏街道の道筋の北側が、大きくみれば大野原であり、戸の口原はその大野原の南縁ということになるようだ。昨年整理の大河「八重の桜」に描かれた会津藩の軍事訓練「追鳥狩」が実際に行われていたのは、この大野原らしい。具体的な地点は分からない。

 会津事典では、「追鳥狩」について、以下のように解説する。
 「追鳥狩」
 会津松平藩政時代の軍事演習。
 兵学の研究は、藩校日新館の武講で行なわれていたが、これは学校奉行の管轄ではなく、軍事奉行が総括していた。
 日常講習の結果を、城内三の丸で実地に演習するのを「小操練」といい、全藩をあげての大演習を「大操練」または「追鳥狩」という。
 寛政4年(1792)3月、当時の軍事奉行黒河内内揮の建言により、本郷河原で始められたのが最初。その後、藩主在国の年に、一大軍事演習として同所で行なわれてきたが、文化12年(1815)9月からは場所を大野ヶ原に移している。

 軍事演習であるから、藩士たちは伝来の甲冑を着けた武装の上、長沼流軍学に基づいた部隊編成で次々と鶴ヶ城を前日の夕刻に出城し、現地で野営しつつ夜明けを待つ。夜が明けると、法螺貝が吹き鳴らされ、全軍が鬨の声を上げて演習が開始された。
 まさに実戦さながらの部隊演習が繰り広げられた後、あらかじめ捕まえておいた雉、山鳥、兎、熊の子、狸、狐などが放たれ、兵たちはこれを敵将に見立てて追うのである。
 獲物を捕獲した藩士は、藩主の立つ「御立場」の下に行き、目付所に捕獲した獲物と姓名を自書して藩主に献上する。これを一番先に行なう「一番鳥」は極めて名誉なこととされ、藩主から褒美が与えられた。

 藩主在国の年、つまり2年に一度しか行われない行事のため、これを見物しようとする者も多く、みな藩士たちと同じように前日から野宿してこの一大時代絵巻を見物したという。

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by shingen1948 | 2014-09-14 09:39 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 現地で意識したのは、二本松裏街道筋の観点と現地に建つ「白虎隊の足跡を辿る」に案内されることの確認ということだけだった。整理する時点で、「白虎隊の足跡を辿る」で案内される事とかかわって家に戻って確認する内容が膨らんでしまったが、「赤井谷地湿原」の確認が、それ以上にてこずっている。
a0087378_4132587.jpg 二本松裏街道筋を天皇陛下御歌碑の地から東へ進むと直ぐに、前方に右へ入る脇道があり、その角に道標が建つ。「左戸ノ口 右笹山 ニ(至?)」が読める。
 どちらも「白虎隊の足跡を辿る」こととかかわって、気になる地点を指している。

 最近分かった事を付け加える。
 「天皇陛下御歌碑の地」と案内された地点は、地元では「姥山」と呼ばれているらしい。「白虎隊の足跡を辿る」観点からは、この地を「姥山」と見た方が分かりやすい。
 もう一つ、新四郎掘、菰槌山付近からこの地点辺りまでが、戸の口原戦の会津藩の前線基地であるらしいという事だ。
 更に、先に「荒井村」が分からないとしたところだが、これが、旧上強清水村らしいことまでは分かった。ただ、最近また地域名が変わったようで、強清水と上強清水の位置関係までは確認できていない。

 そして、「戸の口原古戦場碑」が建ち「白虎隊奮戦の地」が案内されるのは、この少し先だが、実際の「白虎隊奮戦の地」はこの辺りらしいこと。
 細かい点ではいろいろな微妙に違う見え方があるようだが、会津藩の陣が菰槌山であり、この辺りが会津藩の最前線であったらしいという見え方は変わりなさそう。
a0087378_4184658.jpg 最近本屋で立ち読みした資料では、「天皇陛下御歌碑の地=姥山」の地が8月22日の白虎隊奮戦の最前線地とみて、翌日の白虎隊奮戦の地が「新四郎掘」と見ていた。石田氏は、新四郎掘で戦うのは篠田隊とは別の隊と見ているようなので、確かに見え方に微妙な違いはありそう。

 この写真は、「左戸ノ口 右笹山 ニ(至?)」の「左戸ノ口ニ至る」道筋を意識して撮ったものだが、資料と照らし合わせると、石田氏が白虎隊奮戦の最前線地と見ているのは、道筋の左側に写り込んでいる辺りではないかな。
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by shingen1948 | 2014-09-12 06:05 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)

二本松裏街道⑥

a0087378_444386.jpg 右手に「赤井谷地湿原」の案内板が見えてくる。その案内板の右手下に「天然記念物 赤井谷地湿原沼野植物群落「天皇陛下御歌碑の地(会津生物同好会)」の案内板が写り込んでいる。
 「赤井谷地湿原」について、次のように案内される。

赤井谷地湿原
 「赤井谷地湿原沼野植物群落」は、昭和3年に国指定天然記念物となった。海抜530m、南北約2㎞、東西約1㎞にわたり、ヨシを主とした低層湿原から、ミズゴケの生育により盛り上がった高層湿原までの発達段階がみられる。
 この湿原は、泥炭層内の大量の水が層内や表面の温度変化を緩和し、寒冷時の湿度環境を維持しているので、ツルコケモモ、ホロムイイチゴ、ホロムイソウ、ミカズキグサなどの亜寒帯植物が群生している。
 特に、ホロムイイチゴ(幌向苺)の最南の分布地として貴重な存在となっている。
 昭和36年、昭和59年に昭和天皇・皇后両陛下がこのイチゴを観察され、昭和37年の歌会始で天皇陛下が詠まれたのが次の御歌である。
  「雨はれし 水苔原に枯れのこる 
   ほろむいいちご 見たるろこび」

 平成18年10月
 会津若松市一簣町
 旧滝沢街道ふれあいまつり実行委員会

a0087378_447298.jpg こちらが、「天然記念物 赤井谷地湿原沼野植物群落 天皇陛下御歌碑の地(会津生物同好会)」の案内板。戸ノ口原の戦いの具体的な描写では、溝に沿って移動するように描かれる。ここでは、赤井谷地湿原について案内されるのだが板橋がかかる溝が気になるのは、気になるのは、「白虎隊の足跡を辿る」観点を引きづっているからだ。
 なお、このいつでも干上がってしまいそうな浅い溝について、生物観察の情報では、水生生物の観察からは、意外に安定した水環境らしいとのことのようだ。
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by shingen1948 | 2014-09-07 06:42 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)

二本松裏街道⑤

 白虎隊士22人が、戸の口原の戦いに利あらず撤退し、飯盛山に向けて山中を彷徨するのは有名な話だが、その時の戦いが「新四郎濠の決戦」ということのようだ。
 この戦いが石田氏のホームページで「8月23日(10月8日)の戦闘」として紹介される戦いで、大窪山を背に、新四郎濠を塹壕として戦ったことからそう呼ばれているらしい事が分かる。
 この戦いから白虎士中二番隊士が飯盛山に向けて山中を彷徨するのは有名な話につながる撤退について、案内では「戦い利あらず川上に撤退し穴切一里塚を経て穴切○○を越え飯盛山に向けて山中を彷徨したと伝えられる。」と紹介する。
a0087378_10555215.jpg その「川上に撤退し穴切一里塚を経」るという事なので、大窪山の東側の「新四郎掘」に沿って撤退するらしいことが想像できる。
 昨日最後に掲げたロープで通行を遮断する轍のある道筋の右手が、その大窪山の東側の「新四郎掘」らしいので、その写真をこちらに移動して張り付ける。

a0087378_1057932.jpg 案内板の地図をあらためて見直すと、「穴切」「穴切一里塚」「烏帽子山」がプロットされ、その「穴切」までの古い道筋を意図した図になっている事が分かる。「強清水」と表記される辺りから「穴切」までの道筋は、その近くの案内板に穴切一里塚へ至る旧道と紹介される道筋だ。
 「新四郎濠の決戦」で紹介される撤退をイメージするのには、ここに「新四郎掘」と「大窪山」を表記することで、「小坂」に向かう道筋と沓掛峠との間の目標として、烏帽子山があり、その北側に回り込んで「穴切一里塚」から白河街道に入るというイメージがつかめそうかな。

a0087378_1058167.jpg なお、「戊辰の役殉難 会津藩二二士の墓」の少し手前の足元に、この案内板を見る。本宮街道を「二本松裏街道」と読み替えるのかなとは思うが、ここで案内される旧本宮街道の道筋とその案内意図が分からなかった。

 今回は、その退路目標にした「穴切り一里塚」付近については、「街道web」「白河街道小坂」の情報をお借りしてイメージを深めることにする。(「街道web」→<街道リスト>→「白河街道」→「穴切」)
 http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/sira/13.htm
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by shingen1948 | 2014-09-06 11:01 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)

二本松裏街道④

 菰槌山という小高い山の前に建つ会津藩二二士の墓の案内板を過ぎてちょっといった右手に、急ごしらえの案内板を見る。
a0087378_1015037.jpg 昨日確認した「新四郎掘」の赤井谷地の西側に沿って取水された水が、二本松裏街道の南側の水路に沿って先に見た集落の農地まで流れて行くことになる地点と思われる。

 その近くに自分から見ると不審車が止まっていて(相手から見ればこちらが不審車かも)、その赤井谷地の西側に沿う道筋には行けないようにテープが張られているという状況。
 案内されている内容を確認する。
 白虎士中二番隊 新四郎濠の戦い
 日向内記隊長とはぐれ、東の 山の○濠で西軍と戦い四人の友を失った。
○○湿原を撤退してきた16人は、篠田義三郎の指揮で此処の新四郎濠を○○にして再び戦った。戦い利あらず、津田捨蔵と石田和助が戦死した。
 敵兵の包囲から逃れ、皆は新四郎濠を辿り、穴切り一里塚方面に逃れ山中をさすらい飯盛山目ざして落ち延びて行った。(会津歴史研究会)

 新四郎濠の決戦
 新四郎掘りは約4○○○○地頭荒井新四郎義重が築いた堀である。
 白虎隊教導の篠田儀三郎の指揮で、白虎隊士22人はこの壕を防壕にして戦ったが、戦い利あらず川上に撤退し穴切一里塚を経て穴切○○を越え飯盛山に向けて山中を彷徨したと伝えられる。
 飯沼貞雄翁は、この思い出を絵師に描かせた。左の地蔵尊は不明だが、荒井村の農家が描かれている。
上に掲げられる写真の解説が「飯沼貞雄翁は、この思い出を絵師に描かせた。左の地蔵尊は不明だが、荒井村の農家が描かれている」ということらしい。石田氏のホームページに紹介される「8月23日(10月8日)の戦闘」で掲げられた同図をお借りする。
a0087378_10185965.jpg
 ただ、この荒井村が分からない。文脈から強清水の村の気がする。荒井新四郎さんの村かとも……。

 案内板では「日向内記隊長とはぐれ、東の 山の○濠で西軍と戦い四人の友を失った。」とするが、石田氏は「戸ノ口原や滝沢不動滝上流で戦死した者は、伊東悌次郎17歳、津田捨蔵17歳、池上新太郎16歳の、3人」と紹介する。
 更に「8月23日(10月8日)の戦闘」の項で「ここで、篠田小隊長は、刀を振りかざし、指揮を執る。中には弾にあたり介錯を頼む者もいた。池上新太郎、伊東悌次郎、津田捨蔵の3人が戦死、または負傷」との紹介。
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by shingen1948 | 2014-09-05 10:20 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)

二本松裏街道③

 強清水から集落を左に右に耕地を見ながら進むと、山の切り通し風の風景になる。この辺りから先は土の道になる。
 この辺りの地形を地図で確かめると、右手に見えている高地が大窪山で、その山裾部分を二本松裏街道が通っている事が分かる。
a0087378_8454032.jpg しばらく進むと、「戊辰の役殉難 会津藩二十二士の墓」の案内板が建つ。
 その案内板には、「このあたりは菰槌山(こもつちやま)と言って小高い山になっていて、会津藩軍はざんごうを掘って対峙していた」と案内される。
 「会津藩軍はざんごうを掘って対峙していた」との案内から、この切り通し風の風景の左手の高地が、菰槌山(こもつちやま)と読み取れる。
 ここに「会津藩軍はざんごうを掘って対峙していた」と案内されるが、石田氏の解説を照らし合わせると「西軍に対峙した会津藩軍の塹壕は、この左手の高地の藪の中に3つ、この切り通しが過ぎたころのこの高地の山裾に確認できるらしい。
 また、「戊辰の役殉難 会津藩二十二士の墓」案内板の「戦死六人墓、戦死十六人墓を建て供養した」と解説される石塔も、この左手の風景の中らしいことが気になるが、今回は、このまま通り過ぎる。

 史跡の案内は、この辺りの地形についての基礎知識がある事を前提にして説明される。その当たり前とされる基礎知識を持ち合わせていないので、それを確認しながら整理することにする。
 その一つが、新四郎堀についての確認。
 白虎隊の動きについての解説では、溝に身を隠しながら移動することが解説されるが、これにはこの新四郎堀についての基礎知識確認が必要かなと思う。
 この堀は、強清水地区の水田を作る際に、東を流れる赤井川の水を利用するため、赤井谷地の西側に沿って掘られた水路とのことだ。その強清水地区の集落が、右手に見た集落で、その道を挟んだ向かい側に水田が広がる風景を見てきたが、その水田を潤す用水路ということらしい。
 「会津事典」の「強清水」の項では、万治2年(1659)荒井新四郎が村東の赤井川の水を引き(新四郎掘)、万治3年に開村。寛文2年(1662)から稲作開始」と解説されている。
 この新四郎掘が赤井谷地の湿原に及ぼす影響について、「赤井谷地の周辺は農地化され、このような用水路が掘削されたことで、湿原の水はけが良くなり、乾燥化が進んでいるという。そのため,湿原の西〜南側には潅木が進入してきており、徐々に湿原ではなくなりつつあるらしい」という評価も見る。

 このことを頭に入れてこの辺りを確認すると、この街道の南側の用水路が、赤井谷地の西側に沿って取水された水が、先に見た集落の農地まで流れていく新四郎堀らしいことが分かる。

 会津軍の兵士が身を隠しながら進んだり後退したりした溝というのは、そのようなこととかかわる溝ということでいいのかな。
 戊辰の役殉難
 会津藩二二士の墓
 戊辰の役では一六橋を渡って進んできた西軍と会津藩軍は戸ノ口原において激突した。この辺りは菰槌山(こもつちやま)と言って小高い山になっていて、会津藩軍は塹壕(ざんごう)を掘って対峙していた。やがて戦いになった。兵力に優る西軍は有利に戦いをするようになり、白虎隊をはじめ会津藩軍はやむなく後退せざるをえなかった。この戦いにおいて会津藩士には多くの戦死者が出た。
 戦後、あたりの山野に朽ち果てようとしている会津藩士の遺体を哀れに思い、近くの集落の人達が22の遺体を集め、手厚く葬り、戦死六人墓、戦死一六人墓を建て供養した。
地元の強清水では、亡くなった会津藩士を毎年ねんごろに供養している。
 平成18年10月
 会津若松市一簣町
 旧滝沢街道ふれあいまつり実行委員会

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by shingen1948 | 2014-09-04 09:03 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)

二本松裏街道②

 「沓掛峠入り口」の地点から国道294号線白河街道をやや北上すると、左手に自然なカーブを描きながら分岐する道筋がある。
 この道筋に入って進むと、左手に「白虎隊の足跡を辿る」の案内板が建っている。
a0087378_10174159.jpg この案内は、強清水からの案内を意図しているようだ。そちらから進むと、左手に自然に分離する細道があるようで、これが穴切一里塚へ至る旧道が案内される。地図で確認すると、地図によっては穴切まで繋がっているように描くものがあるが、切れている可能性もありそうだ。

 
a0087378_10184068.jpg 当方は、これから強清水で蕎麦を食おうと思っているので、そのまま進むと直ぐに、見慣れた強清水の風景が見えてくる。右手にもろはく屋、左手にやまぐち屋、その奥に清水屋の蕎麦屋さん。
 ここが、いつもの清水屋さん。
 昼時を過ぎていたので、店は空いていたが、ここで注文ミス。
 本当は、天ざるそばを食べたかったのだが、何を寝ぼけたか天ぷらそばを注文してしまっていた。おいしく食べたのだから、それはどうでもいいか。
a0087378_1023297.jpg 店を出て、店前の道筋を進むと、直ぐに左手に集落が現われる。
 この道を、そのまま道なりに進むだけ。
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by shingen1948 | 2014-09-03 10:28 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)

二本松裏街道

a0087378_13155471.jpg 会津での用事が昼ちょっとすぎには済んだので、いつものように強清水で蕎麦を食おうと思った。そのついでに、昨年整理した戸ノ口原古戦場跡あたりまで旧道を進んでみようと思った。
 とりあえず国道294号線白河街道に入って、「沓掛峠入り口」の地点まで進み、そこを出発点とする。

  「沓掛峠入り口」に建つ「白虎隊の足跡を辿る」の案内板は、白河街道と沓掛峠のかかわり、滝沢峠と沓掛峠とのかかわりを次のように解説する。
 沓掛峠は越後街道から白河街道に至る脇道であったが、寛永4年(1627)に会津領主となった加藤嘉明公が滝沢峠を開いてこの峠を継ぎ、2代明成公は石畳を敷き街道を整備して白河街道とした。
a0087378_13163242.jpg 
 この図は、その案内板の図から、「沓掛峠入り口」から「戸の口原古戦場入り口」間のあたりを切り取った図だ。
 点線で沓掛峠と交わる道筋が示されているが、これが「旧白河街道」のようだ。
 この範囲の街道webで「二本松裏街道」と紹介される道筋と重なる部分なら、車で動けるので、家人から申し渡されている長雨で危険だから寄り道は禁止の厳重注意には違反しないはず。

 会津にいるころには、「白虎隊の足跡を辿る」ことに抵抗感があった。その抵抗感の一つが白虎隊の悲劇の悲惨さであり、もう一つがこの悲劇が戦争賛美へ活用されているという抵抗感である。

 会津で生活した期間より会津を離れて過ごした期間が長くなって、会津が故郷としての懐かしさと観光地を訪れるような気分が入り混じるようになった。昨年、戸ノ口原古戦場跡を整理したのは、その気分と大河八重の桜の視聴によるものだと思っている。
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by shingen1948 | 2014-09-02 13:25 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(2)