地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 西蓮寺に建立された碑に刻まれるのは、「兵戈無用」。
 この言葉、確認してようやく分かったつもりになれたところだ。
 「兵戈を用いること無し」とは読めるし、兵は兵隊であることは分かるが、戈が分からなかった。これを確認すると、戈は盾と矛のほこの意味で、要は武器のことらしい。
 「兵も武器も用いること無し」ということになるようだ。

 もうちょっと確認を進めると、「大谷大学」ホームページに、生活の中の仏器用語としての次のような解説を見つけた。
 「武器も軍隊もいらない」という意味である。
 浄土三部経のひとつ「大無量寿経」に出てくる言葉である。釈尊が悪を戒め信を勧められるところで語られるのだ。この背景には「不殺生」「殺すなかれ」という釈尊の思想がある。
 釈尊の時代にも戦争はあった。大規模な戦ではなくとも、人が人を傷つけ、武器を持って殺しあうのは人間の最も愚かな行為でありながら、絶えることがない。そのような人間の有様のただ中で、釈尊の世の祈りを示す言葉として語られたといって良いだろう。

 「大無量寿経」については「ウィキペディア」で確認する。
 「無量寿経」の漢訳の項に、次の説明がある。
 「仏説無量寿経は、経名に「大」の字を冠して大無量寿経』と称し、略して『大経』とも称する。日本の浄土教の根本聖典の一つで、「仏説観無量寿経(畺良耶舎訳)」「仏説阿弥陀経(鳩摩羅什訳)」とともに「浄土三部経」と総称される。
 浄土真宗の宗祖とされる親鸞は、この経典を特に重んじ、浄土真宗の最重要経典である。また「浄土三部経」の中でも、「大無量寿経」を根本経典と位置付けている」
 「浄土真宗(ドットインフォ)」というページを確認すると、長谷川家の菩提寺西蓮寺の宗派は浄土真宗のようであり、昨年9月の「親鸞教室」で、「非戦平和」をテーマに太平洋戦争末期、特攻隊員として戦場に向かった西蓮寺門徒「長谷川信少尉」の手記をもとに講座を展開したようである。
 http://jodo-shinshu.info/2016/07/03/6912/

 「Web東京荏原都市物語資料館」では、この「平和の碑」の建立に至る経緯は、「わだつみのこえ」(2002年7月15日発行)116号に西蓮寺住職は秋月亨観氏が「 西蓮寺『平和の碑』建立に思うと題する記事がある事を紹介する。
 その記事を確認することを試みたが、今のところできていない。
 ただ、「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅)」という【朝日新聞】コラム欄(2016/7/7)の結語の部分に、次のように紹介されているのを見つけた。意図されることは大差ないものと想像する。
 会津若松の長谷川家の菩提(ぼだい)寺西蓮寺に「兵戈(ひょうが)無用」の碑がある。 悲劇を忘れぬため02年に前住職の故秋月亨観(こうかん)さんが建立した。大無量寿経 にある恒久平和を祈る言葉だ。信が涙した祈りを忘れてはならない。

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by shingen1948 | 2017-05-16 09:33 | Comments(0)
 「世田谷ボランティアセンター」のページの「セボネ8月号特集『世田谷の疎開児童と特攻隊の出会い~戦争体験を聴く会、語る会より~』」と題した記事があり、その中の「特攻隊の若者の思いを聴く」という項が、昨日まで整理している疎開児童秋元佳子さん証言とかかわることだと思われる。
 http://blog.canpan.info/setabora-vc/monthly/201508/1

 昭和20年3月の数日間、世田谷の疎開児童たちと出会った特攻隊(武揚隊)の若者15人が、出撃の前日の壮行会に「別れの歌」を東大原小学校の100数十名の女子の前で歌を披露したとのことだ。
 この歌詞とメロディーを記憶していた疎開児童が秋元佳子さんだと紹介されている。その歌詞を引かせていただく。

  1.広い飛行場に黄昏れ迫る
    今日の飛行も無事済んで
    塵にまみれた飛行服脱げば
    かわいい皆さんのお人形

  2.明日はお発ちか松本飛行場
    さあッと飛び立つ我が愛機
    かわいいみなさんの人形乗せて
    わたしゃ行きます◯◯へ

  3.世界平和が来ましたならば
    いとしなつかし日の本へ
    帰りゃまっさき浅間をめがけ
    わたしゃ行きます富貴の湯へ

 その歌詞を見れば、その解説にもあるように、都会のかわいい女の子たちが心をこめてつくったお人形を飛行機に乗せて、沖縄に「死ぬために」向かうとある。この特攻隊(武揚隊)の若者15人には、当然長谷川信氏も含まれる。
 信氏の飛行機にも、このお人形が乗っていたということだ。

 そして、宿の人は、訪ねて来た信氏の母親にこの出撃の前日の壮行会の様子は伝えた可能性は高いのだと思う。
 「結局会うことは叶わず」という会津の情報からは、結局無駄足だったというニュアンスが感じられる。その前の秘密の情報を聞き出したことと共に、やってはいけない行動の結果としての表現のように読み取れるのだ。
 しかし、実際には、建前の世界を超えた母親としての本音の行動は、「結局会うことは叶わなかったものの、その代わりに宿の方から疎開児童との交流の話や、壮行会の様子の話など、ここでの生き様にかかわる生活の様子などの情報を得て帰っていった」ということではなかったのかなと思うのだが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-05-08 09:29 | Comments(0)
 「松川のあゆみ」によれば、松川鉱山の最盛期は昭和9年から昭和14年頃で、従業員数500余人を数え、社宅も設立されたという。その職種は主として坑内夫、製錬夫、雑役夫、選鉱婦なそうだ。
 当時の採鉱設備は、手掘りからコンプレッサーによる削岩機に移り、掘削作業が一段と発展していたのだという。坑内採掘は、排水ポンプ等の設備導入で水準以下の採掘が可能となり、山神竪坑では地下200mに達したのだそうだ。

 その繁栄のなごりの遺跡として現在も残るのは、製錬所の廃墟の跡、六本松と仲の内変電所、それに山神社なそうだ。そのうちの今回の確認のメインは、仲の内変電所の確認だが、その変電所は製錬所とのかかわりでつくられたものだ。
 この製錬場は、1500屯の処理能力のある青化製錬場だったそうで、ここには分析所も併設されていて、化学的に純金と純銀とに分析することが可能になっていたのだそうだ。
毎月金が20㎏、銀が400㎏産出されていたといい、国内でも重要な鉱山になっていたということだった。
 その製錬所の廃墟の跡も残るという。

 航空写真などで確かめると、その「製錬所の廃墟の跡」へ向かう道筋は、「小金塚から峠を越えて関根に向かう道筋」から左手に入っていくことが分かる。
 実際にその道筋の山際まで進んでみた。
 航空写真でみた感じでは、この辺りから左手にその「製錬所の廃墟の跡」が見えるかもしれないと思ったが、木々に覆われて何も見えなかった。
a0087378_17583385.jpg 航空写真で見ると「小金塚から峠を越えて関根に向かう道筋」は整備されているように映るのだが、実際にはこのような山道だ。
 今までならもうちょっと先まで進んでみただろうが、ここで引き返す。
 無理して藪漕ぎをするつもりがないのは、熊や猪の出没のニュースが多かったせいではなく、その元気がなくなっているのだ。
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by shingen1948 | 2017-04-08 17:59 | Comments(0)

森鴎外と福島

 前回まで、「伊沢蘭軒(森鴎外)」と福島ということで、福島市大町在住の池田家宗家末裔鑑三郎氏が、森鴎外氏に提供した情報の確認をしてきた。
 その池田家宗家末裔鑑三郎氏の福島での情報を確認する手立てがないので、とりあえず古い地図で、福島市大町近辺を眺めてみた。
 自由業ならその冠に「池田」とつくはずという期待もあったが、その手掛かりもなく、空振りだった。ただ、今ではビル街になっている付近にも、個人宅が沢山あったらしいという雰囲気は感じられた。

 この地図を眺めていたら、大原病院の福島城大手門通りを挟んだ東側に「玉盛館」・「川合亭」が隣り合ってプロットされているのが、気になった。
 鷗外氏は、公的な用務で東北・北海道へ2回旅をしているのだが、明治15年(1882)9月にも福島市を訪れている。その時に宿泊したのが「川定家」とのことだ。
「 МASAの道中日記」では、「福島公娼史」を資料に「遊郭地移転以前に営業していた貸座敷名の川定楼」を想定しているようだ。
 http://blogs.yahoo.co.jp/ssyinb27/12620027.html
 学生時代、遊郭から旅館や下宿に変化したりしたところに遊びに行ったこともあるので、それ程不自然な想像だとは思わない。
 その宿が、プロットされていてもよさそうに思ったのだが、これが見当たらない。それで、名前が似ているこの「川合亭」が気になったというだけのことで、確かな事は分からない。

 この時の鷗外氏の日誌が「後北游 日乗」とのことだが、まだこちらを確認していない。いろいろの資料からの孫引きの状態だが、メモしておく。
 この日記は、明治15年9 月27日から11月6日にかけて函館、青森、仙台、福島、新潟、高崎を旅したもので、東部検閲監軍部長である陸軍中将三好重臣の属員として、徴兵の業務に従事したものという。
 その概要は、以下のようだとのこと。(「МASAの道中日記」からの孫引き)
 9月27日横浜から兵庫丸に乗船-9月30日函館着、五稜郭などを見学-10月3日箱館から浪花丸に乗船、青森濱町の鶴屋に宿泊-10月9日盛岡六日町の斉藤家に宿泊-10月12日~18仙台國分町の針生家に宿泊、10月19日増田、大川宮(原)を経て白石から馬車で福島に向かい川定家に宿泊-10月20日本宮水戸屋に宿泊-10月21日会津城をみて、東山に遊び若松七日町藤田家に宿泊-10月22日以降新発田等を経て関東に戻り、11月17日に帰京

 なお、針生旅館の元々が花街とかかわるかどうかは知らないが、多分、仙台では一流旅館の一つとされているはずだと思う。
 また、「後北游日乗」では青森濱町の鶴屋に宿泊したと記しているのだが、青森の資料では、これは鷗外の誤記で、実際に宿泊したのは「滝屋」だとされる。宿帳の記載から実証されることなのだそうだ。
 鴎外氏が「火後、ただでさえ寒ざむしいこの里は愈々寂しい」と歌ったことにかかわって、鷗外氏たちが宿泊 した「滝屋」の主人伊藤裕之の備忘録で9月30日と10月3日の二度大火があったこと傍証されるのだそうだ。(森鴎外と「北遊日乗」、「北遊記」―函館、青森を中心としてー【松木明知】より)
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by shingen1948 | 2017-01-04 08:23 | Comments(0)

熊阪台州氏⑥

 台州氏が5月25日付第3書牘で送ることを告げた「西遊紀行」と「海左園稿」だが、その評価の返書が、翌明和3年5月13日付(継志編)とのことだ。
 そこには、「西遊紀行」を読むに及んで「其の人に従って其の地を踐むが如き」と健筆を認め、徂徠の「峡中紀行」・安藤東野の「遊相紀事」の後を承けるものと評価する。そして、これを「東都に携へて帰りて、諸氏に夸示せん」とまで称しているという。
 また、「海左園稿」については、台州氏の盛唐詩風の詩と覇陵の隠君子の風格ある詩との評価とのことだ。
 その心情を「観海先生集二」では、次のように詠じているとのこと。
  老夫平日喜交遊 老夫 平日 交遊ヲ喜ブ
  愛子文章揚馬流 愛ス子が文章 揚馬ノ流
  到処逢人使誇説 到ル処 人二途ウテ 便チ誇説ス
  津津極口不能休 津津トシテ ロヲ極メテ 休ムコト能ハズ

 これ以降の「西遊紀行」の刊行の経緯も、「『吾妻鏡補』と熊阪台州・盤谷(徳田武)」の読み取りをガイダンスに整理する。

 観海書牘の返書が、明和3年6月20日付第4書牘とのことだ。
 この中で、亡父の墓石をまだ立てていないことを述べていて、これが後で整理する「覇陵熊阪君墓碑」を撰する話につながる。
 また、その追伸で「西遊紀行」の巻頭に文字を与えるように依頼する。それにこたえたのが、明和6年8月24日の観海氏が「西遊紀行序」を撰することに繋がる。

 明和5年11月25日付第5書牘からは、観海氏の筆削に応じて「西遊紀行」を推敲し、再び斧正を求め、序文も乞うていることが読み取れるという。
 前述第4書牘、そして第5書牘で依頼に応じて観海氏が「西遊紀行序」が撰するのが明和6年8月24日。
 その序の中では、奥州の人材で最となすのは平野金華と大内熊耳だとし、台州の文才をこの二大名家に比肩させているという。

 その序が到着して狂喜するのが明和6年10月4日付第6書牘という。
 ここまでが、「西遊紀行」出版準備の一連の経緯の流れのようだ。この経緯の中でも、観海氏の 「東都に携へて帰りて、諸氏に夸示せん」が社交辞令の誉め言葉ではなく、実際にそうしていたことが、これらの活動の中で明らかになるようだ。

 「西遊紀行」は、それまで自費出版のつもりでいたようだが、書肆(しょし)が出資した出版になることが分かるのが、明和8年夏に書かれた観海氏宛ての第7書牘(継志編)という。

 疎い散歩人は、ここで「書肆(しょし)」の確認。
 辞書的には、書店、本屋だが、江戸期初め民間で出版活動がはじまってから明治初期までは、書肆=板元が編集から製作、卸、小売、古書の売買を一手におこなっていたとのことだ。したがって、現代風に言えば出版社、取次店、新刊本小売店、古書店の総称をさすようだ。

 「西遊紀行」の書肆は、江戸の申椒堂須原屋市兵衛であり、明和8年5月には刻板が完了し、出版願いが出されていたという。

 台州氏は、出版されたこの「西遊紀行」を、松崎観海氏、湯浅常山、野村東皐、稲垣白巌等に贈呈している。その授贈の返書からも、観海氏が「東都に携へて帰りて、諸氏に夸示せん」とした言葉通り、尽力していたことが伺えるということのようだ。
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by shingen1948 | 2016-12-17 09:12 | Comments(0)
 頂いた資料の亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎氏の紹介によると、「旧花水館奥御殿」も手掛けているとのことだった。
 「なかむらや旅館新館」は、「洋風農家かめおか」のエピソードからその確からしさの確率が高いように感じるが、こちらはその根拠は示されていない。ただ、「伊達市ホームページ」の「旧亀岡住宅」を紹介するページの「設計と施工」の項でも以下のように紹介されているところを見ると、ほぼ定説なのかもしれないとも思う。
 亀岡正元家文書によると、施工は飯坂町の大工小笠原国太郎が行ったとみられる。国太郎が手掛けた建物には、他に福島市飯坂町の「なかむらや旅館」と「花水館奥の間(御殿)」(ともに登録有形文化財)がある。

a0087378_646345.jpg
 先にも記したように、「旧花水館奥御殿」については、何度か整理を試みていたが、建物が花水館の奥にあることで、全体の姿がとらえ切れていなかった。
それが、花水館の廃業によって姿を現したことを機に「節目よりは、継続を意識すべき正月②:福島の建築42~花水館⑤<奥の間御殿>」として整理し直している。
http://kazenoshin.exblog.jp/14415214/ 
 この中に、「中庭にある貴賓室・御殿の間は、明治30年に新潟の宮大工によって建てられた木造平屋建、銅板葺の純和風建築である。内装の造作に見るべきものがあり、往時の佇まいを今に伝える」とある。多分、「花水館」のホームページから拾った情報だと思う。
 自分としては、この「明治30年に新潟の宮大工によって建てられた」という情報があって、今回の以下の大工棟梁小笠原國太郎氏の略歴と接しているので、自然に受け入れてはいる。
 万延元年(1860)4月8日新潟県長岡市寺泊町生まれ。大工修業の後、福島県飯坂町に赴き、飯坂温泉の「なかむらや旅館」「旧花水館奥御殿」「医王寺本堂」の建築を行いました。
後に、妻子を呼寄せ、福島市飯坂町に居を構えました。墓地は、新潟県長岡市寺泊町にあります。子孫の方は大工を継承しなかったため、記録・道具類などは残っていません。
昭和3年(1928)1月19日逝去。享年69歳。

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by shingen1948 | 2016-12-01 09:44 | Comments(0)

新潟県知事選の報道

 16日の新潟県知事選での自民、公明両党推薦候補の敗北の結果を受けて、「毎日新聞(2016/10/18)」は、「知事選連敗、与党に動揺 再稼働・TPP、地方の反発警戒」の見出しで、与党の動揺を伝えている。
 その中で、7月の参院選について次のようにふれている。
 7月の参院選に新潟選挙区に続く敗北である上に、同月の鹿児島県知事選に続く原発立地県の知事選連敗という、二つの「連敗」が重なったためだ。安倍政権の原発再稼働容認方針や、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)推進への「地方の不満の表れ」との見方も強く、安倍晋三首相の衆院解散・総選挙の戦略にも影響がありそうだ。
 7月の参院選に続く敗北としているが、それを新潟選挙区に矮小化していることが気になる。
 実際には、「つぶやき古道」の「北日本は、自・公を選ばない」で指摘するように、与党は東北各地で敗北していたのだと思う。
 http://iwasironokuni.cocolog-nifty.com/komiti/2016/10/post-0514.html

 北海道と東北の議席は合計で9議席。そのうち、自民党が議席を得たのは北海道と秋田の各1議席ずつで、計2議席だった。残り7議席が野党統一候補の当選だった。
 その象徴的なことだったのが、福島県で現職の岩城法相が落選したことだ。

 中央のマスメディアは、安倍首相が争点と位置付けた経済政策「アベノミクス」が信任され、改憲の勢力が2/3になったとする視点からの報道が中心で、東北・北海道、そして沖縄の安倍政権のアベノミクスなどの政策に不信任を報じていないだけだったのだと思う。
 なんとなく自民や安倍首相に期待した中央の視点では勝利した感があって、それを民意だと中央のマスメディアが報じただけで、TPP・原発・基地と問題点がハッキリとしている北海道・東北・沖縄などでは与党が支持を得られていなかったはずだ。(沖縄でも現職大臣が落選しているはず)
 新潟選挙区も、まったく同じような状況だったというふうに受け止めるべきなのだろうと思う。

 「知事選連敗、与党に動揺 再稼働・TPP、地方の反発警戒【毎日新聞(2016/10/18)】」
 http://mainichi.jp/senkyo/articles/20161018/ddm/005/010/043000c
 16日の新潟県知事選での自民、公明両党推薦候補の敗北に、与党は動揺している。7月の参院選新潟選挙区に続く敗北である上に、同月の鹿児島県知事選に続く原発立地県の知事選連敗という、二つの「連敗」が重なったためだ。安倍政権の原発再稼働容認方針や、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)推進への「地方の不満の表れ」との見方も強く、安倍晋三首相の衆院解散・総選挙の戦略にも影響がありそうだ。【高橋克哉、水脇友輔】

 敗因に関し、ベテラン議員は「若い国会議員に『後援会』と呼べるほどの組織がない」と述べ、組織力の弱体化を挙げる。公明関係者は「気の緩みが敗因だ」とし、現職の突然の出馬撤回で与党陣営が緩んだと指摘した。
 追い打ちが原発だ。自民幹部は「県民感情的に厳しい。特に女性の反発が強い」と振り返る。二階俊博幹事長は17日の記者会見で「原発にもっと理解が得られるよう努力することも重要だ。即刻、敗因を検討したい」と述べ分析を急ぐとした。
 7月の参院選では、新潟のほか東北5県で自民公認が敗れ、北海道でも3議席中2議席を民進が獲得。TPPへの反発が強い東日本の農業県で苦戦が目立った。新潟選挙区では、自民公認が野党統一候補に約2000票差で敗れて18年ぶりに議席獲得に失敗した。
 再稼働に慎重な新知事の米山隆一氏がTPP反対も掲げる中、知事選での得票差は6万票あまりに広がり、TPP承認案成立を急ぐ与党には、痛恨の「農業県での連敗」となった。
 17日の衆院TPP特別委員会では、民進党の近藤洋介氏が「長州山口出身の首相には恐縮だが、(幕末の)奥羽越列藩同盟に加わった農産地の多くがTPPに厳しい目を向けた」と質問。首相は「県民の選択を真摯(しんし)に受け止めたい」としつつ、「参院選でTPPや農業がテーマになったのは東北だけではない。四国、中国、九州の多く(の1人区)で与党候補が勝利した」と反論した。

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by shingen1948 | 2016-10-18 16:01 | Comments(0)
 「奥の細道」の本文では、「キリスト教徒における聖書の地名のように、歌よみにとって必ず心得ているべき固有名詞になっている『信夫や捩摺』」を受けて、「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行」ということで、文知摺観音を尋ねる。
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺

 「苗をとっている早乙女たちの手元を見ていると、むかし、しのぶ摺りをした手つきもおなじようだったのかと偲ばれることだ」ぐらいの意だとおもうが、先にこの句については、以下の所で整理している。
 「文知摺観音」での忘れ物②
 http://kazenoshin.exblog.jp/8469769/
 曽良氏書留句の碑
 http://kazenoshin.exblog.jp/8469769/
 「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」は、これをも受けて表現しているように思う。
 「奥の細道」では、「あくれば」ということで、福島宿に宿泊した次の日から「信夫の里」の描写となるのだが、「新平家物語(吉川英治)」では、伏拝から「信夫の里」の描写に入る。
 伏拝の風景を「ふと、駒の背からのぞくと、その辺りを幾すじも落ちてゆく野川の水は、異様なほど、まっ藍(さお)に見える」と表現し、ここを河原と設定する。
 しかし、実際の伏拝にはそういう風景はない。これは、一気に「信夫捩摺の里」の世界に導く細工だ。
 「奥の細道」では、実際に「もぢ摺の石を尋」ね、早苗をとっている早乙女たちの手元から「昔しのぶ摺」のイメージに入った。そこを「新平家物語(吉川英治)」では、この風景から直に「近くの里の家いえで、染藍(そめあい)を流しているせい」だろうということで、「昔しのぶ摺」のイメージにはいっているのだ。
 そこから逆に、早乙女たちの手元が見えるというイメージの重なりをも利用しているように思うのだ。そして、このイメージは、物語の時代背景である平安朝の上方の貴族・歌人・文人の世界では常識であるということを介して、登場人物までもが納得するという設定なのではないのかなと思う。
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by shingen1948 | 2016-09-28 08:43 | Comments(0)
 「信夫の里から東屋沼を意識する⑥」で、田沢邨の吾妻信仰にかかわる伝承が採取されていることを確認した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20602163/ 
a0087378_7192046.jpg 蓬莱団地入り口近くに、その「種まき兎伝承発祥の地」の石碑が建つ。
 「種まき兎伝説」にこだわれば田沢村の兎田地区が散策ポイントとなる。この碑の建つ位置を「福島の小字」と「地図」を見比べながら確かめる。
 この団地の縁には小字名は残るが、団地内の地名は変更になっている。この石碑左隅にも蓬莱町三丁目旧田澤字兎田が記される。

 団地縁の地域名を小字と比べながら確認する。
 西から「神の前」―「中ノ町」―「木曽内前」―「壇ノ前」の小字とかかわる地名が確認できる。 「兎田」は、それ等の地域と小字「座頭山」の間の一区画のはずだ。
 小字「座頭山」は、その地名から蓬莱小学校跡地入り口付近にある三角点を頂点とする東西の高まりとかかわる地名と想像する。

 その視点でもう一度地図を眺めると、次の散策のヒントが見つかる。旧小字名が公園名として残っているようなのだ。東から「堰田公園」―「石田公園」、そして「兎田公園」が並ぶ。この石碑が建つ南東側は、蓬莱小学校跡地の高まりだ。「兎田公園」は、そのやや左手の高まりだ。
 これらのことから、おおよその小字位置を推定できそうだ。おおよそ、この団地入り口付近から、この石碑のある辺りの団地の民家も含めて兎田公園までの間の低地をこだわりの小字「兎田」だと想像した。

 この石碑の脇には、先に確認した「浄土平ビジターセンター」紹介の「種まき兎」原話の案内板が建つ。ただ、当方のこだわりは吾妻山信仰であり、「種まき兎」を通して円錐形の吾妻小富士に目が行くことを良しとはしない。
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by shingen1948 | 2016-09-18 09:17 | Comments(0)
 平野村道路元標設置場所跡を探し当ててはいないのだが、これを探す経緯の中でいろいろな事が分かったので、その事について整理してみた。
 今回の確認作業の中で、「道路元標」と「里程元標」の違いが曖昧だった事も分かった。
 「国道901号-道路元標が行く」という道路元標に詳しいホームページの開設を参考に、このことを整理し、この項を終わろうと思う。

 「国道901号-道路元標が行く」のページでは、「道路元標」と「里程元標」の違いとそのかかわりについて次のように解説している。
 まずは、「道路元標」については「道路元標設置の法的根拠は、大正8年11月に公布された旧「道路法」によるものです」とする。
 次に、「里程元標」については「『元標』と名のつくものは道路元標だけではなく、明治期のお触れによる『里程元標』も多く残っている。また、時には『御大典記念元標』なんてのもあり……」とする。
 ここでいう「明治期のお触れ」は、明治6年(1873)それぞれの府県ごとに、「里程元標(りていげんぴょう)」を設け、陸地の道程(みちのり)の調査を命じたことをいうらしい。
 更に、その「道路元標」と「里程元標」とのかかわりについては、「大正道路法で市町村に1個設置せよいうことになったものの、どうやらこれらのものを道路元標と『みなしてもよい』ことになっていた可能性が非常に高いらしい」とする。

 要は、道路元標設置は、大正8年11月公布の旧「道路法」によるものだが、道路元標設置にあたり、明治期のお触れによる「里程元標」を道路元標とみなしてもよい事になっていたらしいということのようだ。
a0087378_15493764.jpg これは、先の散歩で佐倉村の道路元標として整理したものだが、これが明らかにこの例になるということのようだ。
 つまり、この碑は元々は福島県の佐倉村里程元標だったものなのだろう。それを佐倉村道路元標とみなしたものというのが正確な表記なのだろう。

 今回の整理とのかかわりでは、平野村が誕生した明治22年には法的な意味で道路元標はまだ設置されてはいないことになる。
 「信達二郡村誌」によれば、ここでいう「平塚村元標」の「里程元標」が、「瀬上街道」と「山形街道」が交わる東六角地内「瀬上街道」にあり、「入江野村元標」の「里程元標」が、この辺りの人々が言う西六角に近い「角屋敷」にあったということのようだ。
 そして、合併したての平野村としての里程標はなかったのかもしれないとの想像もできそうだ。

 平野村としての大きな課題は、平野村の中央を走る開通したての飯坂街道新道沿いに、合併したての村の中心となる公共施設を建設することだったのかもしれない。
 それらの建設整備が進んだ頃、「道路元標」がかかわる旧「道路法」が公布(大正8年11月)され、それとのかかわりで「堂ノ前16」に平野村の「道路元標」が設置されたというおおよその流れを想像する。
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by shingen1948 | 2016-08-24 15:53 | Comments(0)