地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 信氏は、会津中学に入るとボートに熱中するようだ。
 「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」には、次のように紹介されている。

 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 「会高通史」には、そのボート部創設にかかわる情報が紹介される。
a0087378_9154435.jpg 「明治の頃」の学校の様子を紹介するのに、昭和35年発行の「創立70周年記念誌」の明治時代に会津中学の生徒だった方々の座談会が引用されるのだが、そこにボート部創設について次のような事が紹介されていた。

 ボート部創設のきっかけについて、その運動の趣意書には格好よく海事思想の普及などとするが、実際の動機は明治30年の徒歩で新潟まで旅行するという学年行事での出来事だということだ。
 この旅行の途中で、新潟中学校の生徒が会津中学生を曳き舟に乗せて、ボートを漕いでその船を引いて阿賀川途中まで送ってくれたというのだ。
 これに感激したというのが、ボート部創設のきっかけだとのことだ。
 野沢の宿に泊まった時には、舟を作ろうという話で衆議一決して戸ノ口建設運動は始まったとのことだ。
 明治32年には磐梯・吾妻・飯豊のカッターができ、明治42年には県費で玄武・青竜・朱雀のカッターができたとのことで、現在このカッターが中田浜に浮かんでいるとのことだ。

 この「戸ノ口艇庫」ができると、ボート部の生徒は土曜日放課になると下駄ばきで滝沢峠を越えて練習して、夜道を家路に帰ったのだとか。
 毎年春と秋には水上大会が開かれ、会津中生は必ず1度はボートを漕ぐことになったのだとか。

 ここにもお婆さんの話が登場し、こちらでは「とら婆さん」と呼称され、艇庫に泊まる時には一泊3銭で飯をたいてもらったとある。
 信氏の話に登場するのは通称「モンタ婆さん」のようだが、本名は古川トラさんのようなので、「とら婆さん」の「とら」は「モンタ婆さん」の本名で、同一人物のような気がするが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-08-23 09:17 | Comments(2)
 この辺りの散策でよく見かける庚申塔碑は、「庚申」の文字碑や「青面金剛」像の刻まれた碑だ。a0087378_1123850.jpg この梵字の刻まれた庚申塔碑も初めてみる碑だと思う。

 散策の中で庚申塔碑だと気づいたのは、下に三猿像が刻まれていたからだ。
 この碑で他に庚申塔碑であることがはっきりしているのが、上部に太陽と月が描かれていることだ。雲に乗っていることもあるようだが、この碑では象徴的に記されている。
 散策で素人が簡単に庚申塔碑の見分けに使うのが雄雌の二羽の鶏だ。庚申の夜は徹夜をするので、夜明けを告げる鶏ということで描かれるようだが、この碑ではその鶏は見かけない。

 梵字だが、いろいろ検索して金剛界大日如来(バーンク、荘厳体)でないかなと思っているが、素人判断でしかない。
 ※ その後、梵字をいろいろ確認していて、青面金剛(ウン)かなと思い直して修正する。

 写真からは「七」が読めるのだが、手持ち資料からは、この碑造立については元禄6年(1693)造立情報と元禄5年(1692)造立情報しかない。また、常円寺の庚申塔(元禄7年造立)と同形式との情報もある「松川の今昔(三浦富治)」
 ◇     ◇       ◇         ◇          ◇

 「川俣町の文化財」の「旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」解説で、松川の眼鏡橋にかかわった布野氏について、以下のような詳しい情報を見つけた。
 「設計施工者は布野宇太郎義成,弟源六義和兄弟で,布野氏は上杉氏家臣の家柄でその祖は西根堰工事の功労者と伝えられている。兄弟は「ぷっちの宇太郎,字彫りの源六」とうたわれた当地方きっての名工で、宇太郎の作には信夫橋(眼鏡橋)、飯野新橋、金華山の灯台等がある」

 参照させていただいた「街道Web」が、柴切田川橋と命名した飯野町の「広表のめがね橋」について、次のように締めくくられていた。
 「もしかすると、この柴切田川橋も布野氏の手によるものではなかろうか。そう思えてならないのである」
 これが、「川俣町の文化財」がいう「飯野新橋」だと思う。

 つまり、「川俣町の文化財」では、「街道Web」さんが想像したように柴切田川橋は、布野氏の仕事だと言っているということだ。
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by shingen1948 | 2017-08-15 12:09 | Comments(2)
 薬師堂の欄干に石が吊るされるのは、「7日本の民族『福島』(岩崎敏夫)【第一法規】」が紹介する伊達郡保原町の耳石の呪いのようなものなのだろうと想像する。
 ただ、右側の欄干に吊るされる石に交じって、願い事を書いた絵馬も下がっていた。
a0087378_8401254.jpg また、この写真の左側の欄干に吊るされる石の中に、願い事としてここでの出会いを記されているものも見える。耳石からの転化だと思うが、これらも受け入れられているという事なのだろうと思う。
 そして、この医王寺薬師堂はこの耳石に特化しているということではなさそうだとも思う。

 先に整理した「薬師堂」の案内板に、「声がたたねば鯖野の薬師 七日こもれば声がたつ等々と唱えられ」る霊験あらたかな薬師如来であるとあった事もそう思う理由の一つだ。

 もう一つあって、それは、入り口にあった「南殿の桜」と「奥の院薬師堂」の案内板で、奥の院の薬師如来について次のように解説していることだ。
 「12の誓願『ちかい』をお持ちになり、その中でも衆病悉除の誓願は私たちの心の無明を解き、身体を病気から守り、ひいては延命に導いて下さるという、如来のお名前の起こりとなっております。」

 ここでいう「12の誓願『ちかい』の「衆病悉除」の誓願」というのは、先に整理した「薬師如来 大願」の第七願、除病安楽と同義で、人々の病を除き窮乏から救い、心身に安楽を与えるといった意味合いなのではないのかなと思う。
 ここの薬師では、主としてこの誓願におすがりすることを意図しているように思うのだ。

 更には、御堂の中をのぞかせていただくと、そのお願いの仕方が、次のようだと解説されていることがある。
 「薬師如来御真言 オンコロコロセンダリ マトウギソワカ」と七回唱えてから、自分のお願いをしてください」とのことだ。

 なお、ここの「御詠歌」は、次のようなことだとか。

 やおよろず ねがいを
 たつる いおうじの
 るりもかがやく
 いにしえのあと
 オンコロコロセンダリ マトウギソワカ
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by shingen1948 | 2017-06-27 09:39 | Comments(0)
 「吾妻の里の自噴泉と伝説」を整理した時点で、この「ふくしま散歩(小林金次郎)」が紹介する鎌倉権五郎影政と家臣の墓の写真を手掛かりにここにたどりついてはいたのだが、そのままにしていたところだった。
 a0087378_5423129.jpg 「ふくしま散歩」では、片目清水の紹介の前に「現在、鳥川の成川に住む矢吹友右衛門氏といわれる」として、権五郎影政の子孫が紹介されていたのだ。

 しかし、時系列に沿って整理してみると、片目清水の頃の鎌倉権五郎影政氏は16歳で、それ以降の生き様の紹介があって、それからその子孫というふうな話にしたいところだ。
 「日本の伝説(柳田國男)」では、そこら辺も心得ていて、安積郡に飛んで以下のように話の紹介になる。
 奥州の只野村は、鎌倉権五郎景政が、後三年の役の手柄によって、拝領した領地であったといって、村の御霊神社には景政を祀り、その子孫だと称する多田野家が、後々までも住んでおりましたが、ここでも権五郎の眼を射られた因縁をもって、村に生れた者は、いずれも一方の目が少しくすがめだといっていました。(相生集:福島県安積郡多田野村)


 安積郡多田野村は、現郡山市逢瀬町多田野地区ということで情報を集めてみる。
 「郡山公式ウェブサイト」の「逢瀬町の伝承・魅力」では、八幡太郎義家公にちなんだ伝説が各地にあるとして、その一つに御霊神社を挙げている。
 この神社については、本来関東における平家5家(大庭・梶原・鎌倉・長尾・村岡)を祀る神社として創建されたそうだが、八幡太郎義家公の家臣である武勇の人鎌倉権五郎景政を祀る神社となったと紹介する。更に、大庭・梶原・長尾氏は景政氏の血縁だとも紹介される。

 その「御霊神社」を確認すると、「福島県郡山市逢瀬町に鎮座し、御祭神は火之夜芸速男神、鎌倉権五郎景政公で、社格は村社」とある。
 由緒ととのかかわりで、祭神である鎌倉権五郎景政公が次のように紹介される。

 「平安時代後期の康治2年(1143年)、鎌倉武士の鎌倉権五郎景政公が東北征伐の際、当地を訪れ浄土ヶ岡に住んでいたという盗賊と大蛇を悉く退治したことによって村民の禍を除いたため、景政公とその御兄弟一族を 「 御霊の宮 」として相殿に祀った。」
 御霊櫃峠伝説もこの伝説とかかわりあっているようだ。

 この紹介だと、景政公が後三年の役(1083~1087)の後半に16歳だったとしても、盗賊と大蛇退治の康治2年(1143年)が、それから56年後ということで72歳ということだ。随分お元気だったようだということになる。
 ただ、郡山の「安積名称考」の紹介だと、景政公は寛治3年(1089)年に死去したとされる説もあるようで、これだと全国的な話の流れでは20代で亡くなったことになるのだが、16歳時の活躍の前提が永承康平(1046~1065)という話になっているようだ。これだと59歳~79歳という事になるようだ。

 ここには、別説も紹介されている。
 奥州での戦いの功により石川郡鎌田の城主となり、68才で没したという伝えもあるとの紹介だ。
 これだと全国的な話の流れとの辻褄を合わせると、亡くなったのは1135~1139ということで、保延元年~4年頃ということになるかな。

 こんな活躍の想像を挟んでから「ふくしま散歩(小林金次郎)」の紹介の最初に戻ると、結構楽しめる伝承になると思うが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-06-15 09:40 | Comments(0)
 西蓮寺に建立された碑に刻まれるのは、「兵戈無用」。
 この言葉、確認してようやく分かったつもりになれたところだ。
 「兵戈を用いること無し」とは読めるし、兵は兵隊であることは分かるが、戈が分からなかった。これを確認すると、戈は盾と矛のほこの意味で、要は武器のことらしい。
 「兵も武器も用いること無し」ということになるようだ。

 もうちょっと確認を進めると、「大谷大学」ホームページに、生活の中の仏器用語としての次のような解説を見つけた。
 「武器も軍隊もいらない」という意味である。
 浄土三部経のひとつ「大無量寿経」に出てくる言葉である。釈尊が悪を戒め信を勧められるところで語られるのだ。この背景には「不殺生」「殺すなかれ」という釈尊の思想がある。
 釈尊の時代にも戦争はあった。大規模な戦ではなくとも、人が人を傷つけ、武器を持って殺しあうのは人間の最も愚かな行為でありながら、絶えることがない。そのような人間の有様のただ中で、釈尊の世の祈りを示す言葉として語られたといって良いだろう。

 「大無量寿経」については「ウィキペディア」で確認する。
 「無量寿経」の漢訳の項に、次の説明がある。
 「仏説無量寿経は、経名に「大」の字を冠して大無量寿経』と称し、略して『大経』とも称する。日本の浄土教の根本聖典の一つで、「仏説観無量寿経(畺良耶舎訳)」「仏説阿弥陀経(鳩摩羅什訳)」とともに「浄土三部経」と総称される。
 浄土真宗の宗祖とされる親鸞は、この経典を特に重んじ、浄土真宗の最重要経典である。また「浄土三部経」の中でも、「大無量寿経」を根本経典と位置付けている」
 「浄土真宗(ドットインフォ)」というページを確認すると、長谷川家の菩提寺西蓮寺の宗派は浄土真宗のようであり、昨年9月の「親鸞教室」で、「非戦平和」をテーマに太平洋戦争末期、特攻隊員として戦場に向かった西蓮寺門徒「長谷川信少尉」の手記をもとに講座を展開したようである。
 http://jodo-shinshu.info/2016/07/03/6912/

 「Web東京荏原都市物語資料館」では、この「平和の碑」の建立に至る経緯は、「わだつみのこえ」(2002年7月15日発行)116号に西蓮寺住職は秋月亨観氏が「 西蓮寺『平和の碑』建立に思うと題する記事がある事を紹介する。
 その記事を確認することを試みたが、今のところできていない。
 ただ、「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅)」という【朝日新聞】コラム欄(2016/7/7)の結語の部分に、次のように紹介されているのを見つけた。意図されることは大差ないものと想像する。
 会津若松の長谷川家の菩提(ぼだい)寺西蓮寺に「兵戈(ひょうが)無用」の碑がある。 悲劇を忘れぬため02年に前住職の故秋月亨観(こうかん)さんが建立した。大無量寿経 にある恒久平和を祈る言葉だ。信が涙した祈りを忘れてはならない。

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by shingen1948 | 2017-05-16 09:33 | Comments(0)
 「世田谷ボランティアセンター」のページの「セボネ8月号特集『世田谷の疎開児童と特攻隊の出会い~戦争体験を聴く会、語る会より~』」と題した記事があり、その中の「特攻隊の若者の思いを聴く」という項が、昨日まで整理している疎開児童秋元佳子さん証言とかかわることだと思われる。
 http://blog.canpan.info/setabora-vc/monthly/201508/1

 昭和20年3月の数日間、世田谷の疎開児童たちと出会った特攻隊(武揚隊)の若者15人が、出撃の前日の壮行会に「別れの歌」を東大原小学校の100数十名の女子の前で歌を披露したとのことだ。
 この歌詞とメロディーを記憶していた疎開児童が秋元佳子さんだと紹介されている。その歌詞を引かせていただく。

  1.広い飛行場に黄昏れ迫る
    今日の飛行も無事済んで
    塵にまみれた飛行服脱げば
    かわいい皆さんのお人形

  2.明日はお発ちか松本飛行場
    さあッと飛び立つ我が愛機
    かわいいみなさんの人形乗せて
    わたしゃ行きます◯◯へ

  3.世界平和が来ましたならば
    いとしなつかし日の本へ
    帰りゃまっさき浅間をめがけ
    わたしゃ行きます富貴の湯へ

 その歌詞を見れば、その解説にもあるように、都会のかわいい女の子たちが心をこめてつくったお人形を飛行機に乗せて、沖縄に「死ぬために」向かうとある。この特攻隊(武揚隊)の若者15人には、当然長谷川信氏も含まれる。
 信氏の飛行機にも、このお人形が乗っていたということだ。

 そして、宿の人は、訪ねて来た信氏の母親にこの出撃の前日の壮行会の様子は伝えた可能性は高いのだと思う。
 「結局会うことは叶わず」という会津の情報からは、結局無駄足だったというニュアンスが感じられる。その前の秘密の情報を聞き出したことと共に、やってはいけない行動の結果としての表現のように読み取れるのだ。
 しかし、実際には、建前の世界を超えた母親としての本音の行動は、「結局会うことは叶わなかったものの、その代わりに宿の方から疎開児童との交流の話や、壮行会の様子の話など、ここでの生き様にかかわる生活の様子などの情報を得て帰っていった」ということではなかったのかなと思うのだが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-05-08 09:29 | Comments(0)
 「松川のあゆみ」によれば、松川鉱山の最盛期は昭和9年から昭和14年頃で、従業員数500余人を数え、社宅も設立されたという。その職種は主として坑内夫、製錬夫、雑役夫、選鉱婦なそうだ。
 当時の採鉱設備は、手掘りからコンプレッサーによる削岩機に移り、掘削作業が一段と発展していたのだという。坑内採掘は、排水ポンプ等の設備導入で水準以下の採掘が可能となり、山神竪坑では地下200mに達したのだそうだ。

 その繁栄のなごりの遺跡として現在も残るのは、製錬所の廃墟の跡、六本松と仲の内変電所、それに山神社なそうだ。そのうちの今回の確認のメインは、仲の内変電所の確認だが、その変電所は製錬所とのかかわりでつくられたものだ。
 この製錬場は、1500屯の処理能力のある青化製錬場だったそうで、ここには分析所も併設されていて、化学的に純金と純銀とに分析することが可能になっていたのだそうだ。
毎月金が20㎏、銀が400㎏産出されていたといい、国内でも重要な鉱山になっていたということだった。
 その製錬所の廃墟の跡も残るという。

 航空写真などで確かめると、その「製錬所の廃墟の跡」へ向かう道筋は、「小金塚から峠を越えて関根に向かう道筋」から左手に入っていくことが分かる。
 実際にその道筋の山際まで進んでみた。
 航空写真でみた感じでは、この辺りから左手にその「製錬所の廃墟の跡」が見えるかもしれないと思ったが、木々に覆われて何も見えなかった。
a0087378_17583385.jpg 航空写真で見ると「小金塚から峠を越えて関根に向かう道筋」は整備されているように映るのだが、実際にはこのような山道だ。
 今までならもうちょっと先まで進んでみただろうが、ここで引き返す。
 無理して藪漕ぎをするつもりがないのは、熊や猪の出没のニュースが多かったせいではなく、その元気がなくなっているのだ。
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by shingen1948 | 2017-04-08 17:59 | Comments(0)

森鴎外と福島

 前回まで、「伊沢蘭軒(森鴎外)」と福島ということで、福島市大町在住の池田家宗家末裔鑑三郎氏が、森鴎外氏に提供した情報の確認をしてきた。
 その池田家宗家末裔鑑三郎氏の福島での情報を確認する手立てがないので、とりあえず古い地図で、福島市大町近辺を眺めてみた。
 自由業ならその冠に「池田」とつくはずという期待もあったが、その手掛かりもなく、空振りだった。ただ、今ではビル街になっている付近にも、個人宅が沢山あったらしいという雰囲気は感じられた。

 この地図を眺めていたら、大原病院の福島城大手門通りを挟んだ東側に「玉盛館」・「川合亭」が隣り合ってプロットされているのが、気になった。
 鷗外氏は、公的な用務で東北・北海道へ2回旅をしているのだが、明治15年(1882)9月にも福島市を訪れている。その時に宿泊したのが「川定家」とのことだ。
「 МASAの道中日記」では、「福島公娼史」を資料に「遊郭地移転以前に営業していた貸座敷名の川定楼」を想定しているようだ。
 http://blogs.yahoo.co.jp/ssyinb27/12620027.html
 学生時代、遊郭から旅館や下宿に変化したりしたところに遊びに行ったこともあるので、それ程不自然な想像だとは思わない。
 その宿が、プロットされていてもよさそうに思ったのだが、これが見当たらない。それで、名前が似ているこの「川合亭」が気になったというだけのことで、確かな事は分からない。

 この時の鷗外氏の日誌が「後北游 日乗」とのことだが、まだこちらを確認していない。いろいろの資料からの孫引きの状態だが、メモしておく。
 この日記は、明治15年9 月27日から11月6日にかけて函館、青森、仙台、福島、新潟、高崎を旅したもので、東部検閲監軍部長である陸軍中将三好重臣の属員として、徴兵の業務に従事したものという。
 その概要は、以下のようだとのこと。(「МASAの道中日記」からの孫引き)
 9月27日横浜から兵庫丸に乗船-9月30日函館着、五稜郭などを見学-10月3日箱館から浪花丸に乗船、青森濱町の鶴屋に宿泊-10月9日盛岡六日町の斉藤家に宿泊-10月12日~18仙台國分町の針生家に宿泊、10月19日増田、大川宮(原)を経て白石から馬車で福島に向かい川定家に宿泊-10月20日本宮水戸屋に宿泊-10月21日会津城をみて、東山に遊び若松七日町藤田家に宿泊-10月22日以降新発田等を経て関東に戻り、11月17日に帰京

 なお、針生旅館の元々が花街とかかわるかどうかは知らないが、多分、仙台では一流旅館の一つとされているはずだと思う。
 また、「後北游日乗」では青森濱町の鶴屋に宿泊したと記しているのだが、青森の資料では、これは鷗外の誤記で、実際に宿泊したのは「滝屋」だとされる。宿帳の記載から実証されることなのだそうだ。
 鴎外氏が「火後、ただでさえ寒ざむしいこの里は愈々寂しい」と歌ったことにかかわって、鷗外氏たちが宿泊 した「滝屋」の主人伊藤裕之の備忘録で9月30日と10月3日の二度大火があったこと傍証されるのだそうだ。(森鴎外と「北遊日乗」、「北遊記」―函館、青森を中心としてー【松木明知】より)
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by shingen1948 | 2017-01-04 08:23 | Comments(0)

熊阪台州氏⑥

 台州氏が5月25日付第3書牘で送ることを告げた「西遊紀行」と「海左園稿」だが、その評価の返書が、翌明和3年5月13日付(継志編)とのことだ。
 そこには、「西遊紀行」を読むに及んで「其の人に従って其の地を踐むが如き」と健筆を認め、徂徠の「峡中紀行」・安藤東野の「遊相紀事」の後を承けるものと評価する。そして、これを「東都に携へて帰りて、諸氏に夸示せん」とまで称しているという。
 また、「海左園稿」については、台州氏の盛唐詩風の詩と覇陵の隠君子の風格ある詩との評価とのことだ。
 その心情を「観海先生集二」では、次のように詠じているとのこと。
  老夫平日喜交遊 老夫 平日 交遊ヲ喜ブ
  愛子文章揚馬流 愛ス子が文章 揚馬ノ流
  到処逢人使誇説 到ル処 人二途ウテ 便チ誇説ス
  津津極口不能休 津津トシテ ロヲ極メテ 休ムコト能ハズ

 これ以降の「西遊紀行」の刊行の経緯も、「『吾妻鏡補』と熊阪台州・盤谷(徳田武)」の読み取りをガイダンスに整理する。

 観海書牘の返書が、明和3年6月20日付第4書牘とのことだ。
 この中で、亡父の墓石をまだ立てていないことを述べていて、これが後で整理する「覇陵熊阪君墓碑」を撰する話につながる。
 また、その追伸で「西遊紀行」の巻頭に文字を与えるように依頼する。それにこたえたのが、明和6年8月24日の観海氏が「西遊紀行序」を撰することに繋がる。

 明和5年11月25日付第5書牘からは、観海氏の筆削に応じて「西遊紀行」を推敲し、再び斧正を求め、序文も乞うていることが読み取れるという。
 前述第4書牘、そして第5書牘で依頼に応じて観海氏が「西遊紀行序」が撰するのが明和6年8月24日。
 その序の中では、奥州の人材で最となすのは平野金華と大内熊耳だとし、台州の文才をこの二大名家に比肩させているという。

 その序が到着して狂喜するのが明和6年10月4日付第6書牘という。
 ここまでが、「西遊紀行」出版準備の一連の経緯の流れのようだ。この経緯の中でも、観海氏の 「東都に携へて帰りて、諸氏に夸示せん」が社交辞令の誉め言葉ではなく、実際にそうしていたことが、これらの活動の中で明らかになるようだ。

 「西遊紀行」は、それまで自費出版のつもりでいたようだが、書肆(しょし)が出資した出版になることが分かるのが、明和8年夏に書かれた観海氏宛ての第7書牘(継志編)という。

 疎い散歩人は、ここで「書肆(しょし)」の確認。
 辞書的には、書店、本屋だが、江戸期初め民間で出版活動がはじまってから明治初期までは、書肆=板元が編集から製作、卸、小売、古書の売買を一手におこなっていたとのことだ。したがって、現代風に言えば出版社、取次店、新刊本小売店、古書店の総称をさすようだ。

 「西遊紀行」の書肆は、江戸の申椒堂須原屋市兵衛であり、明和8年5月には刻板が完了し、出版願いが出されていたという。

 台州氏は、出版されたこの「西遊紀行」を、松崎観海氏、湯浅常山、野村東皐、稲垣白巌等に贈呈している。その授贈の返書からも、観海氏が「東都に携へて帰りて、諸氏に夸示せん」とした言葉通り、尽力していたことが伺えるということのようだ。
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by shingen1948 | 2016-12-17 09:12 | Comments(0)
 頂いた資料の亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎氏の紹介によると、「旧花水館奥御殿」も手掛けているとのことだった。
 「なかむらや旅館新館」は、「洋風農家かめおか」のエピソードからその確からしさの確率が高いように感じるが、こちらはその根拠は示されていない。ただ、「伊達市ホームページ」の「旧亀岡住宅」を紹介するページの「設計と施工」の項でも以下のように紹介されているところを見ると、ほぼ定説なのかもしれないとも思う。
 亀岡正元家文書によると、施工は飯坂町の大工小笠原国太郎が行ったとみられる。国太郎が手掛けた建物には、他に福島市飯坂町の「なかむらや旅館」と「花水館奥の間(御殿)」(ともに登録有形文化財)がある。

a0087378_646345.jpg
 先にも記したように、「旧花水館奥御殿」については、何度か整理を試みていたが、建物が花水館の奥にあることで、全体の姿がとらえ切れていなかった。
それが、花水館の廃業によって姿を現したことを機に「節目よりは、継続を意識すべき正月②:福島の建築42~花水館⑤<奥の間御殿>」として整理し直している。
http://kazenoshin.exblog.jp/14415214/ 
 この中に、「中庭にある貴賓室・御殿の間は、明治30年に新潟の宮大工によって建てられた木造平屋建、銅板葺の純和風建築である。内装の造作に見るべきものがあり、往時の佇まいを今に伝える」とある。多分、「花水館」のホームページから拾った情報だと思う。
 自分としては、この「明治30年に新潟の宮大工によって建てられた」という情報があって、今回の以下の大工棟梁小笠原國太郎氏の略歴と接しているので、自然に受け入れてはいる。
 万延元年(1860)4月8日新潟県長岡市寺泊町生まれ。大工修業の後、福島県飯坂町に赴き、飯坂温泉の「なかむらや旅館」「旧花水館奥御殿」「医王寺本堂」の建築を行いました。
後に、妻子を呼寄せ、福島市飯坂町に居を構えました。墓地は、新潟県長岡市寺泊町にあります。子孫の方は大工を継承しなかったため、記録・道具類などは残っていません。
昭和3年(1928)1月19日逝去。享年69歳。

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by shingen1948 | 2016-12-01 09:44 | Comments(0)