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カテゴリ:未分類

  • 瀧清水と大笹生簡易水道~湧水の里の風景⑤
    [ 2012-03-27 05:20 ]
  • 今から思えば
    [ 2012-03-06 05:55 ]
  • 腰浜廃寺付近
    [ 2012-02-22 05:20 ]
  • 「『宮脇遺跡』~第6次調査現地説明会」に出かけてみる⑧
    [ 2011-10-04 05:30 ]
  • NHKニュースの全国版と県内版比較
    [ 2011-10-02 06:22 ]
  • 「上岡舘」
    [ 2011-08-26 05:19 ]
  • 戊辰戦争の犠牲者の弔い~ようやく会津へ⑥
    [ 2011-08-18 05:04 ]
  • 地震とのかかわりを確認する ~ ようやく会津へ⑤
    [ 2011-08-17 07:02 ]
  • 観光客が減ったこと~ようやく会津へ④
    [ 2011-08-16 05:59 ]
  • 鶴ケ城に立ち寄る~ようやく会津へ③
    [ 2011-08-15 06:14 ]

瀧清水と大笹生簡易水道~湧水の里の風景⑤

 瀧清水神社脇の建物は、塩素投入装置と水槽から簡易水道の管理小屋だろうと想像する。
 時代の要請ということで、福島市は、各簡易水道を福島市の摺上川ダムを水源とする広域水道に切り替えてきた。ここもその動きの一環として廃止されたようだ。

 大笹生簡易水道の廃止については、先に以下のように整理してきた。
 〇 大笹生⑧~豊かな水系
 〇 大笹生⑨~豊かな水系②
 〇 大笹生⑩~豊かな水系③
 大笹生簡易水道は、平成4年10月あたりから市水道局と統合の協定と統合計画に入り、平成5年から配水管工事に着工、その完成が平成13年とのこと。
 その中で、この大笹生東部簡易水道が、福島市の水道に切り替わるのが平成6年とのことなので、早い段階での切り替えだったのだろうと想像する。

 先の整理の時にもふれたが、この変化は単に巨大化効率化という効果に留まらず、心の変化につながるものなのだろうと思う。

by shingen1948 | 2012-03-27 05:20 | Trackback | Comments(0)

今から思えば

 先日、水分をたっぷり含んで結構重いぼたん雪に、春も近いと感じて、「春を待つ心」とした。それなのに、昨日の福島市の積雪は、この冬一番だったとか。
 それでも、これは、低気圧の接近に伴うもので、午後には雨に変わった。春が近いという事に変わりはない。
 昨日は、24節気のひとつ「啓蟄(けいちつ)」とのこと。

 自分の感覚の中では、1年のサイクルの切れ目が正月ではなく、震災を挟んだ今の時期になっている。そういうことで、昨年の出来事を思い出してみようとするが、震災と原発関連以外は、みんな記憶の外に飛んでしまっている。
 そんな中で思い出せるのは、上岡遺跡の「うずくまる土偶」が国重要文化財に指定されたというニュース。これを見たのが、7月初旬。

 それで、ちょっと調べてみようと、県立図書館に立ち寄ったが、残念ながら閉館中。これが、その時の県立図書館の様子。
 南面の大きなガラスが割れていて、べニア板で応急処置がとられていた。天板も抜けていた。



 東側の角のガラスは、特に大きく割れていた。
 これでは、暫くは無理かなと思って、市の図書館に行ってみた。

 こちらは、普通に開いていので、ここで上岡遺跡の資料を確認した。
 そして、当時の雰囲気の中ではどうでもいいような「祝 上岡遺跡「うずくまる土偶」国重要文化財指定」を整理した。

 暫くは無理だろうと思っていた県立図書館の一部開館の掲示板を通りがかりに見つけたのが、7月の中旬。

 これが、一部開館した7月末の様子。書庫は閉じ、本の検索を閉架式にしての開館だった。
 ここで、とりあえず確かめたかったのは、上岡遺跡発掘をどんな風に報じられたかということだ。
 震災当時の様子をお聞きしながら、マイクロフィルムを準備していただいた。
 この震災当時の図書館の様子は、「福島県立図書館復旧状況の報告」に見える。
 本棚は無事だったようだが、本は飛んで散乱し、ダクトと天井の一部が落下した様子が分かる。
 8月19日にも被害を受けている情報から、そうだ、あの後大きな地震があったなと思い出す。多少の揺れは、慣れっこになってしまっている自分に気づく。

 やはり、この1年は、震災とかかわってしか思い出せない。

by shingen1948 | 2012-03-06 05:55 | Trackback | Comments(0)

腰浜廃寺付近

 自分の住んでいた辺りを確認してみる。
 昔を懐かしく思うようになるのは、先に心細さしかなくなった時とのこと。

 記憶にある道筋をたどるが、当時の面影はない。確かお店の隣だったはずなので、その店が頼りだったが、この辺かなというあたりに、店らしきものはない。
 ぐるりと見回すと、その商店名と同じ表札が掲げられた民家があった。それを目印に周りを見回していると、何となくこの辺だったと思えてきた。
 その記憶をたよりに、阿武隈川方面に向かう。当時は、その辺りは畑地だったはずだが、びっしりと民家が建ち並ぶ。その向こうに、記憶と一致する建物を見つける。何となく、その頃の記憶が蘇ったような気分になる。

 その感覚をもとに、稲荷神社を探す。
 稲荷神社にこだわるのは、腰浜廃寺跡調査状況の写真には、その脇に稲荷神社が写っていたことと、この辺りに住んでいた記憶を結び付けたかったからだ。

 その「腰浜稲荷神社」前には、白い案内柱が建っていて、直ぐにそれと分かったが、記憶には結びつかなかった。当時、関心がなかったからだろう。

 鳥居脇に、「腰浜廃寺跡」の案内柱も建っていた。
 特に案内はない。以下は、「ふくしまの歴史」よりの引用。
 腰浜廃寺は、信夫評造(大領)の私寺で、7世紀後半ごろに朝鮮半島の百済系の瓦を用いて建てた東北地方で最も古い寺院です。7世紀末に信夫郡寺に昇格します。

 更に、金堂の基壇は、23×19mで、多賀城より大きく堂々とした寺院であり、信夫郡家・郡寺は、朱塗りの柱・青い瓦の壮大な建物群が並ぶ、見事な景観であったことだろうとの紹介。

by shingen1948 | 2012-02-22 05:20 | Trackback | Comments(0)

「『宮脇遺跡』~第6次調査現地説明会」に出かけてみる⑧

 今回の説明会の遺物の紹介は、出土瓦に焦点を当てていた。
 昨年度までの出土瓦の紹介は、多量であることと格調高い寺院であることが伺える文様の紹介が中心だった。
 今回は、ここから出土した瓦の多様さが強調され、それと瓦葺屋根の瓦の紹介図と文様が掲示された。
 これと照らし合わせながら瓦を眺めることで、この建物が総瓦葺屋根であったことに実感を伴って納得する。
 その実感の背景には、ここから出土した多量の瓦のイメージがある。

 今回紹介された瓦の多様さは、構造物としての多様さと文様の多様さ、それにへら書きのある瓦、スタンプのある瓦といった特殊な文様のある瓦等といった多様さが紹介される。

 まずは、構造物としての多様さを確認する。
 これは、示された瓦葺の屋根の構造図だが、今回の震災でやられた屋根は、瓦葺の屋根だった。
 これは、「鬼瓦と塼」だ。頂いた資料に、鬼瓦と破片の照合図があるが、省略する。
 落ちた瓦を拾いながら、あらためて屋根を眺めたので、確かにこんな平たい瓦もあったよなとの実感だが、読み方は「せん」でいいのかな。


「行基葺瓦(玉縁あり)と丸瓦(玉縁あり)」とある。丸瓦にも玉縁のあるものとないものがあるということでいいのかな。それに、「平瓦」。これらは、出土品としてはスターにはなれないが、構造体としては多量に大切な役割を担うはず。


 「軒瓦と隅切瓦」。
 この隅切瓦あたりから文様が気になってくるのかな。


 そして、「軒丸瓦」と「軒平瓦」。
 ここからは、文様が気になる瓦ということになるようだが、まずは、構造物として屋根の図と照合しながら眺めている。

by shingen1948 | 2011-10-04 05:30 | Trackback | Comments(0)

NHKニュースの全国版と県内版比較

 NHKニュースの全国版と県内版では、「福島市 2年間で全世帯を除染へ」というニュースについて、違う報道をしているようです。
 県内用には、次のように報じています。
 計画では、放射線量が比較的高く高校生以下の子どもがいる住宅などについては、市が業者に委託して屋根や側溝の作業に加え、放射性物質が取れにくいコンクリートをはぎ取るなど建物全体を除染するとしています。また、それ以外の住宅についても原則として委託を受けた業者が屋根や側溝を除染し、市内の全ての世帯に当たる11万世帯で作業を行うとしています。

 これが、全国用になると、次のような報じ方になります。
 放射線量が比較的高く高校生以下の子どもがいる住宅などについては、市が業者に委託して屋根や側溝など住宅全体の除染を行うとしています。さらに、それ以外の住宅についても住民に協力してもらい、11万世帯すべての除染を進めるとしています。放射線量が比較的低いとされる場所の住宅の屋根や側溝の除染は、当初、原則として市から委託を受けた業者が行うとされていましたが、国の財政的な支援がどの程度見込めるかがはっきりしないため、「委託業者による除染」は計画には盛り込まれず、「住民に協力してもらう」となっています。

 違いを確認すると、全国版では、県内版でいう「放射線量が比較的高く高校生以下の子どもがいる住宅では、放射性物質が取れにくいコンクリートをはぎ取るなど建物全体を除染する」ことには触れません。恐らくやらないとみていると想像されます。
 それ以外の住宅については、「原則として委託を受けた業者が屋根や側溝を除染し、市内の全ての世帯に当たる11万世帯で作業を行う」ことはなく、「住民に協力してもらう」という形になるだろうとしています。
 なお、全国版はそろそろ消えるようで、県内版はまだしばらく残るようです。
 福島市 2年間で全世帯を除染へ(県内版)9月27日 4時17分
 福島市は、市内の放射線量を大幅に減らすため、今後2年間で市内の全世帯に当たる11万世帯を対象に、放射性物質を取り除く大規模な除染を行うとする計画を固めました。27日に計画を公表し、今後、住民への理解を求めたいとしています。
 福島市は、市内の一部の地域で避難が求められる国の目安に近い放射線量が計測され、子どもを持つ住民らが市外に移り住む事態となっています。このため福島市は、今後2年間で市内の大気中の放射線量を大幅に減らすため、放射性物質を取り除く大規模な除染を行うとする計画を固めました。計画では、放射線量が比較的高く高校生以下の子どもがいる住宅などについては、市が業者に委託して屋根や側溝の作業に加え、放射性物質が取れにくいコンクリートをはぎ取るなど建物全体を除染するとしています。また、それ以外の住宅についても原則として委託を受けた業者が屋根や側溝を除染し、市内の全ての世帯に当たる11万世帯で作業を行うとしています。さらに、公園や公民館など公共施設も市が除染を行う一方で庭の土のはぎ取りや草むしりなどは住民に行ってもらい、人手が足りない場合は全国から募集するボランティアを派遣するとしています。しかし、今回の計画では、除染で出た放射性物質を含む土などの処理方法は決まっていません。福島市は、27日に計画を公表し、今後、住民への理解を求めたいとしています。

 福島市 全世帯対象に除染計画(全国版)9月27日 19時12分
 福島市は、市内全域の放射線量を大幅に減らすため、11万世帯すべてを対象に除染を進めるとした計画をまとめ、27日に発表しました。
 これは、福島市の災害対策会議で27日に発表されたものです。それによりますと福島市は、今後2年間で市内全域の大気中の放射線量を1時間当たり1マイクロシーベルト以下に減らすため、重点的に除染を進めるとしています。このうち、放射線量が比較的高く高校生以下の子どもがいる住宅などについては、市が業者に委託して屋根や側溝など住宅全体の除染を行うとしています。さらに、それ以外の住宅についても住民に協力してもらい、11万世帯すべての除染を進めるとしています。放射線量が比較的低いとされる場所の住宅の屋根や側溝の除染は、当初、原則として市から委託を受けた業者が行うとされていましたが、国の財政的な支援がどの程度見込めるかがはっきりしないため、「委託業者による除染」は計画には盛り込まれず、「住民に協力してもらう」となっています。また、公園や公民館など公共施設の除染は市が行う一方、住宅の除染などで人手が足りなかった場合は、全国から募集するボランティアを派遣するとしています。福島市によりますと、2年間で重点的に除染したうえで、さらに3年をかけて市内全体の除染を完了させたいとしています。福島市では、一部の地域で避難が求められる国の目安に近い放射線量が計測され、住民からは早急な対策を求める声が上がっていました。しかし今回の計画では、市の7割を占める山林や田畑の除染は、国の指針が示されていないため、具体的にどうするかが盛り込まれなかったほか、除染で出た放射性物質を含む土などの処理方法も決まっておらず、福島市は今後、住民への理解を求めたいとしています。

by shingen1948 | 2011-10-02 06:22 | Trackback | Comments(0)

「上岡舘」

 この舘の近くには、「増田舘」「塩野目舘」「志和田舘」があるが、ここは唯一発掘調査が行われたところだ。
 ただ、その調査は、高速道路建築に伴うものであり、舘の全容解明のための調査ではない。従って、高速道路建築に伴って、現況ではこの舘は消滅したと勝手に思い込んでいた。それで、ここの散歩では、おおよその位置を確認して納得していたところがあった。
 そのことは、「近傍の舘遺跡~再び上岡遺跡⑱」として整理した。
 ところが、「福島市の中世城舘」を確認すると、現在でも遺構らしきものを確認しながら散歩することが可能であることが分かった。

 この舘の略測図には、調査や現況から掘と土塁と想定される遺構が示されている。この付近の地籍図も示されているので、その図の特徴的な部分から主として掘と土塁が想像できそうなところを書き写し、その略測図に重ね合わせてみる。
 その図から、高速道路幅を消し去ってみると、こんな図になる。

 先の散歩で、この舘付近ととらえた写真は、案内板がいう「田屋の清水」の角からねらっているが、そこがこの図の「掘と土塁」と想定される南西の角だ。ここは、民家の境にあたるところで、その脇を道が走っていたことを想いだす。
 上岡遺跡の岡の南東端の部分で、標高80mの標高線沿いに走る西根下堰が北に回り込んで、その地形的な特色を感じさせてくれる所であり、位置的にこの辺りとの見込みは、大きな誤りが無かったらしいという事でもある。

 この図ではその掘りの続きと思われる地形は、先の散歩ではこの地が扇状地であった事に伴う名残川が作った地形と思い込んでいた。その北側の地形も同様だ。
 東側の掘りの続きらしい地形は、現在鉄塔が建っている付近で、ここは先の散歩でイメージしたことと一致する。

 この図で消し去った高速道路の部分が、発掘調査が行われた所だ。この路線幅のみが調査されたという。
 ここを、「福島市の中世城舘」で情報として補う。
 昭和47年の調査では、舘の整地層と土塁・空掘跡、それに舘の施設と考えられる掘立柱建物跡の一部が発見され、灰釉陶器も出土しているとのことだ。
 また、時代は不明だが井戸跡が発見されたとも。その井戸内からは、曲物、塗器、編物などの木製品が出土しているということで、その図も紹介される。
 この事によって舘の全容が調査されたのではないが、調査によって舘跡の存在は肯定されたということにはなるということらしい。

 先の散歩では、秋山氏の解説をもとに、以下のように整理していた。
 この調査で、東西160m南北105mの方形の城舘が確認されたとのことだ。
 この調査では、土塁・掘跡・井戸跡が発見され、陶器・木製品・漆器等も出土したとのことだ。秋山氏は、これに加え、柱根が残る柱穴の発掘と内黒土師器が出土も紹介し、鎌倉から室町時代の頃に機能した城舘跡であることが確認されたとする。
 なお、上岡遺跡とのかかわりでは、上岡舘遺跡は、下岡の地になるが、その地下1mから握用尖頭器が出土の情報もある。

 石器出土に興味の焦点を当てているのは、上岡遺跡が気になっていたからだ。舘中心の散歩をすれば、もっと明確にイメージできそうだということらしい。

by shingen1948 | 2011-08-26 05:19 | Trackback | Comments(0)

戊辰戦争の犠牲者の弔い~ようやく会津へ⑥

 少年期を会津で過ごし、他所で生活するようになった者にとってカルチャーショックを受ける事の一つに、戊辰戦争の犠牲者の弔い方がある。

 その感覚に関わるニュースがあった。
 「福島民報(2011/08/11)」では、「会津松平家13代当主松平保定氏が死去された」と報じている。 その中で、次のようなエピソードを紹介していた。 
 氏は、靖国神社宮司に推薦されたが、「戊辰戦争の薩長の戦死者がまつられ、賊軍とされた会津藩の戦死者がまつられていないのに、会津人として受けるわけにはいかない」と固辞したとのことだ。

 会津では、日本人同士の戦争である戊辰戦争と日清・日露戦争以降の対外的な戦争を分けて戦争の犠牲者を弔う。
 先日、TUFで、「会津で平和祈願祭、小山田忠霊堂(08月15日)」のニュースがあった。 「終戦の日」に、会津若松市では「小田山忠霊堂」で「平和祈願祭」が行われたとのことだ。
 この忠霊堂には、日清戦争から第二次世界大戦までに戦争で亡くなった県内出身者の霊およそ「1万3千柱(はしら)」が祀られている。

 そして、戊辰戦争にかかわる官軍の霊はこの忠霊塔には祀られていない。先に「会津西軍墓地」として整理したように、官軍の霊は、西軍墓地に祀られる。

 当然ながら、会津では東軍の霊も祀られる。
 この事については「戊辰戦争の非情さの象徴を訪ねる」・「戊辰戦争の非情さの象徴を訪ねる②」に整理している。

 「 下関市長が鶴ケ城健康マラソン大会に初参加」で整理したように、戊辰戦争では敵方であった西軍の方々もその霊を祀るのが、会津での美学なのだと思う。
 福島の信夫山護国神社を詣でることに抵抗が起こるのだ。
 松平氏が言うように、ここでも戊辰戦争の薩長の戦死者がまつられ、賊軍とされた会津藩の戦死者がまつられていないのだ。
 東征西伐ということで、東軍を成敗したとして西軍霊魂が祀られる。ここが気になるのだが、そのことは「信夫三山~松川と競馬場の情報④」で整理した
 元々福島にお住まいの方には分からない感覚なのだろうと思う。
 福島と戦争というようなことを考えるには、この護国神社も確認する必要があるのだが、それがなかなかできない。

 信夫山護国神社よりもっと違和感があったのは、仙台城西の丸の護国神社だ。
 仙台は東北の雄藩である伊達氏を誇り高く案内しながら、その東北の雄藩の象徴である仙台城に官軍の英霊を祀っていることだ。
 その違和感については、「青葉通りから大橋へ」で整理している

 もう会津を離れて久しいのだが、「民衆の立場での交流を望みたい」で整理した感覚も、まだ自分にも残っている。
 

by shingen1948 | 2011-08-18 05:04 | Trackback | Comments(0)

地震とのかかわりを確認する ~ ようやく会津へ⑤

 鶴ケ城は、元々7重の天守が建っていて、それが改修されて現在の5重の天守閣になったという話は知っていたが、ここに慶長16年(1611)の会津大地震が関わることを意識していなかった。
 この地震、震度は7程度あったとのことだ。
 今回の会津の震災でも震度は4~5程度らしいので、それとは比べものにならない程大きかったということのようだ。鶴ヶ城の櫓の石垣が崩れたり、当時7層だった天守閣が傾いたりしたとのことだが、成程とも思う。
 今年は2011年で、丁度400年前ということのようだが、今回と違うのはその震源地だ。
 会津盆地西縁活断層との事で、一説によれば震源は三島町滝谷付近ともいわれているとか。内陸直下型の地震だったようだ。
 なお、今回の震災で話題になっている「慶長三陸地震」も、この年の12月2日に起こっているらしい。

 福島では今でもブルーシートを被せられた屋根の風景が広がるが、会津若松では見かけない。今回の地震それ自体による被害は少なかったように思う。

 ブルーシートを被せられた屋根の風景が自然に感じる麻痺した感覚で見ているせいなのか、こんな堅固な石垣も崩れることもあるのだろうなと意識する。

 石垣に登られないようになっているが、前々から登れなかったのかどうかは、意識していなかったので分からない。子供の頃は自由に登って遊んだものだ。



 この本丸の中の石垣も、少し膨らんでいるような気もする。



 あちこちにブルーシートがかけられているのは、今回の震災での被害なのかどうかも分からない。


 先に整理した上杉謙信公仮廟所跡の案内板に「当時の城内の様子は正確には分かりませんが、「城内」が今の内堀に囲まれた中を指しているのならば」という表現がある。
 上杉景勝が、120万石で入封するのは、慶長3(1598)。謙信の墓所が安置された城は、現在の城の形ではなく、蒲生氏郷が完成させた城のイメージのようだ。
 その城のイメージを確認する。

 天守閣は、自然石を積み上げた野面積みの石垣の上に7重の天守が建っていという。
 天正18年(1590)に会津に入封した蒲生氏郷が、文禄元年(1592)から建設し、完成させたものとのことだ。
 この時の城は、本丸の東に二の丸・三の丸を配したものとのことだ。

 それが、慶長16年(1611)8月の会津大地震後、現在の原形になっている5重の天守閣になるのは、寛永16年(1639)とのことだ。
 寛永4年(1627)、伊予松山から会津に入った加藤嘉明が、父子二代にわたる大改修で、現在の5重の天守閣になったという事のようだ。
 この時に、西出丸と北出丸が増築され、土塁は石垣になり、空堀が水堀になったということのようだ。


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by shingen1948 | 2011-08-17 07:02 | Trackback | Comments(0)

観光客が減ったこと~ようやく会津へ④

 観光客が減っているということは聞いていた。この状況は、地元の方にとっては死活問題なのだと思う。風評被害という言葉は聞いてはいたが、その通りのようだと実感する。

 ただ、見方を変えて客の立場になれば、この状況はゆっくりと観て歩くのには都合のいい状況ということでもある。

 鶴ケ城も、確かに例年に比べ極端に観光客の数は少ないようだ。それでも、全く客がいないという状況ではない。地域の「よさ」を味わうのには丁度良い人混みともいえる。



 何かイベントでもあるのか、他所の県の地方放送局の中継車も出ていた。地域の本当のよさをアピールするチャンスではあるように思う。


 客の少なさにショックを受けたのは、何時も立ち寄る強清水だ。
 ここで、天ぷら蕎麦を食べて会津に入るのが常だが、昼食時にもかかわらず、ほとんど車がないのだ。今日は休みなのだろうかと思ったほどだ。
 自分が思っていた客が少ないという状況を遥かに通り越していた。

 そのこととともに気になるのが、ここに立ち寄る客層だ。
 非日常を求める観光客よりは、地元の日常の中でちょっとリフレッシュしたいという意識の客層だと思っている。
 ということは、県内の日常にはまだその精神的なゆとりがないことを、象徴的に反映した状況なのではないかと思えたのだ。
 この状況は、風評被害の結果として生まれたものではなく、実害を受けた県民が精神的なゆとりを失った結果として生まれた状況なのだと勝手に思ったのだ。そのことにショックを受けている。

 その県民の一人に自分も含まれる。
 何時もと同じように湧水を汲み、何時ものようにそれでコーヒーを飲んでいるが、至福の時を感じられないでいる。
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by shingen1948 | 2011-08-16 05:59 | Trackback | Comments(0)

鶴ケ城に立ち寄る~ようやく会津へ③

 今回鶴ケ城に立ち寄ったのは、黒瓦だった天守の屋根瓦を明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元する工事が完成したとのことで、まずはその様子見だ。それと、御三階の復元計画があるということで、その様子を確かめてみたかったことがある。もう一つが、大河ドラマ「天地人」の放映で、上杉謙信公仮廟所跡が注目された情報をみたが、それがどうなっているのかを確認してみたかったということだ。

 まずは、赤瓦葺に復元された天守

 天守閣の再建は、次の経緯をたどっている。
 慶応 4年(1868)の戊辰戦争で攻撃を受けるが、修復することもなく放置
 明治 7年(1874)に政府主導のもとに取り壊し
 昭和40年(1965)に天守閣、走長屋、鉄門が復元
 平成13年(2001)に本丸内の干飯櫓と南走長屋が復元。
 平成22年(2010)に天守の屋根を、黒色の瓦葺から解体する以前の赤瓦葺に復元する工事が始まり2011年3月に完成

 解体する以前の鶴ヶ城の姿は、1611年(慶長16年)からなそうだ。
 昭和40年の天守閣の復元には、いろいろな意見があったのを思い出す。再建前の天守閣部のイメージは、塩蔵の印象が強い。
 今回は登らないが、再建後の内部は、若松城天守閣郷土博物館としているので、この塩蔵のイメージは薄い。ここを登るときに、懐かしくてちょっと立ち止まってしまう。

 次が、御三階だが、復元計画があるという事については、先に「御三階」で整理した。

 この鶴ケ城の御三階は、明治3年に阿弥陀寺に移築され現存する。
 鶴ヶ城本丸内には御三階の櫓台石垣が残っていたが、現在は、復元調査のためか工事中で取り払われていた。
 計画では、現存する御三階を移築するのではなく、新たに造るようだ。



 そして、上杉謙信公仮廟所跡だが、昔売店があった所だった。この売店は、鶴ケ城が復元される以前からあって、個人的にはこの売店の方が懐かしい風景だ。


 以下の説明案内板が建っていた。
上杉謙信公仮廟所跡

 天正6年(1578)に亡くなった戦国時代の武将上杉謙信は、甲冑姿で甕に納められたと伝えられ、居城の越後春日山城(現在の新潟県上越市)に葬られました。その後、跡を継いだ上杉景勝が会津へ移封するのにともない、謙信の墓所も会津へ移されることとなり若松城(鶴ケ城)内の西南の隅の仮殿に安置されたと記録があります。当時の城内の様子は正確には分かりませんが、「城内」が今の内堀に囲まれた中を指しているのならば、この蔵跡あたりが該当するのではないかと考えられます。
 慶長6年(1601)、上杉景勝の米沢移封により、謙信の遺骸も米沢城の本丸に移されました。

by shingen1948 | 2011-08-15 06:14 | Trackback | Comments(0)