地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 住職が、石碑が建てられたときに明治学院大の学長がお参りに見えられたことを話されたとある。今は、その石碑は湖畔戸ノ口のゆかりの場所に建った石碑の事だろうと思っている。
 結論としてはそうなのだが、今回整理する途中で分かったのが、明治学院の場合、学長と学院長の役職があるということ。住職の言葉では学長だが、今回は、とりあえず学院長であることを想定して整理している。
 整理過程の中で、もう一つ想定して考えてみたのがこの石碑が「兵戈無用」の碑を指している場合のことだ。以下のようなことになる。

 この石碑が「兵戈無用」の碑であることを想定すれば、その建立は2002年。この時の学院長を確認すると、第11代久世了氏(1998年 - 2012年)ということになる。
 この久世了氏なら、「明治学院百年史」の第6章で学徒兵である長谷川信氏について実際に調査に当たられ、まとめ上げられた方のようだ。実際に会津へもおいでになったというし、 生き残った周辺の人々にインタビューもなさったとのことだ。

 一人の学徒兵の個人的な記録を以って学校史を構成するという事について、久世了氏は次のような思いを抱いていたようだ。座談会の発言資料から要約する。
 この長谷川信という学徒兵を取り上げることによって、明治学院の二つの側面がある程度伝えられるのではないかと考えたとのことだ。
 その一つの側面が、明治学院の校風がこういう人(長谷川信氏)を生み出したということ。
 もう一つの側面が、その反面として、そういうすぐれた学生をむざむざ学徒兵として戦地に送らなければならなかったという学院の非常に痛ましい経験があるということだ。

 この方の前の学院長が、第10代中山弘正氏(1994年 - 1998年)だ。
 この方は、1995年に学院としての戦争責任の清算、和解の試みをなされているのだが、「明治学院百年史」の第6章を学徒兵である長谷川信氏個人の記録で編集する試みは、その流れの一環でもあったということのようだ。
 また、この中山弘正氏の戦争責任の清算、和解の試みの前史ともいえる89年の昭和天皇の死去に伴う大学の対応というものもあって、この時の中心になられたのは森井眞元学長とのことだが、この久世氏も教員としてかかわっておられたという。

 このことにもふれておきたかったのは、「会津の『わたつみのこえ』を聞く27」でふれた会津人である第2代目学長井深梶之助氏とのかかわりだ。
 井深氏は、あの時代に天皇に殉じて自決した乃木希典大将夫妻を批判したという。
 その日記に「大ナル心得違ナリ。其ノ不健全ナル思想ノ表現ナリ」と書き、学生には「基督教倫理ノ立場ヨリ判断スレバソノ非ナルコト勿論ナレトモ真ノ武士道ヨリ見テモ心得違ト云フベキナリ」と全否定したとことについては先に整理した。
 この事を、井深学長は「天皇のためなら死ぬのが当然という殉死の思想に潜む危険性を心底嫌った」ととらえたとするのが学院の基本姿勢として脈々として流れていると捉えれば、久世氏が「兵戈無用」の碑建立に共鳴されても自然ではある。

 ただ、久世氏なら信氏の具体的な戦死情報をお持ちのはずだと思うので、住職がおっしゃる方とは違う気がする。
 今は、これは別々に会津の「わたつみのこえ」を聞いたお二人が、結果として同じような思いに至ったという事なのだろうと思っている。
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# by shingen1948 | 2017-05-26 09:28 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 木村氏が長谷川家の菩提寺を訪ねた時に、住職が、石碑が建てられたときに明治学院大の学長がお参りに見えられたことを話されたとある。
 「石碑が建てられたとき」というのが、湖畔戸ノ口のゆかりの場所に建った石碑の事なら、この石碑建立は昭和21年(1946)5月なので、第4代の矢野貫城氏(1939年 - 1948年)ということになる。

 「明治学院百年史」によれば、この方は価値観が大きく変わる戦中から戦後にかけての院長だが、「今日内外之情勢は到底菲才不徳の私の是以上任に留まるべき時にあらざるを痛感」という昭和22年8月7日付の文書で、辞任の意思を明らかにしたとのことだ。

 教育にかかわる変換点を確認すれば、昭和20年12月21日に文部次官通牒で「御真影」奉還が、昭和21年6月29日には「御真影奉安室」の撤去が指示されたとのことだ。その間の昭和21年1月1日には、天皇の人間宣言。
 石碑建立の時期である昭和21年5月頃に強力に推し進められたのは、教職員適格審査の名のもとに教職員不適格者を摘発して教育界から追放する処置だという。
 矢野氏は、その前の昭和21年2月7日に発足した「日本教育家の委員会」の日本側の委員会の一員として加わっているという。

 矢野氏の信氏の石碑建立にかかわるかかわり方は、辞任前のけじめのつけ方の一つだったのかなと思う。
 矢野氏のこの辞任は、11月に迫った創立70周年記念式を前にしての辞任であり、住宅難からしばらく学園内にとどまっていたこともあって、同情の声もあったのだとか。

 住職がおっしゃる明治学院長が、この第4代の矢野貫城氏ならば、長谷川信氏の戦死についての情報は公式記録「4月12日与那国島北方洋上戦死」以外ないだろうと思う。住職が紹介する「長谷川君は飛行機の燃料がなくなるまでずっと飛んでいったんだとおっしゃっていましたよ」というのは、矢野氏の思いだったのだろうと想像する。
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# by shingen1948 | 2017-05-25 09:42 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院百年史」の中村メモでは、4月12日の出発の遅れを、山本隊長機の接触事故とするが、「Web東京荏原都市物語資料館」の情報を加えるとそうなる理由まで想像が膨らむ。
 4月5日9時、山本隊は新田原を離陸して韓国済州島に向かう。そして、そこから7日には、杭州(現中国浙江省)に前進したとある。
 そして、11日を迎えるのだが、午後4時に杭州の筧橋基地を出発していることについては、中村メモの情報と同じだが、この時に「山本機は整備不良により引き返し、翌12日午前6時、再度出発する」とある。
 その12日の再出発の際にも、山本隊長機が接触事故を起こして、予定より遅れての出発となったという状況が想像できる。
 それ程、どの機体もぼろぼろの状態だったということが分かる。

 「Web東京荏原都市物語資料館」の「下北沢X新聞(1674) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて3~」の記事で、木村氏が長谷川家の菩提寺である西蓮寺前住職秋月亨観氏と会っていることが分かる。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51703204.html
 昨日、ひっよとすると記事の意図に反しているかもしれないと思いつつ想像を交えて整理したのは、この会話内容について深読みしたかったからだ。

 まず、気になったのが、「『生き残った仲間の人の奥さんが前に、うちに訪ねてきたことがありましたよ。確かね、茨城の人だと言っていました』住職の話である。仲間といえば武揚隊ではないだろうか」とある部分だ。
 昨日整理の生き残った仲間に該当するのは、力石丈夫氏と中村敏男氏で、「仲間」との表現からは力石丈夫氏かなとも思ったが、「明治学院百年史」では、この方は神奈川県在住とある。また、中村敏男氏は大分県在住とのことだ。
 「Web東京荏原都市物語資料館」にも該当するかもしれない方の情報がある。
 済州島へ飛来した時点で吉原薫機が不調を起こし不時着したが、この時に怪我を負ったのか、特攻には行っていないという情報だ。
 この方の出身地の情報はない。結局は分からないままではある。

 次に気になるのが、「石碑が建てられたときに明治学院大の学長がお参りに見えました」との話。
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# by shingen1948 | 2017-05-24 09:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院百年史」がいう「信と同じ第一次「学徒出陣」組で特捜2期生だった力石丈夫(神奈川県在住)」氏と「下北沢X物語(3137)~終章:悲運のと号第31飛行隊~」が消息不明者として挙げる「力石文夫少尉 見習士官(特操2期)」は、同じ方ではないだろうか。
 一字違いで、しかも誤ってもおかしくない感じの違いなので、可能性は高いと思う。

 この方の情報を「明治学院百年史」から拾ってみる。
 まずは、「明治学院百年史」が発行された時点で生存者として紹介されている。
 次に、本土から台湾に向かう時に、無事に台湾についたことの記述が見える。
 4月12日信氏を含む第2陣が敵機と遭遇するのだが、その第1陣4機は、4月11日夕刻に出発していてる。その第一陣が「力石少尉を含む第1陣4機」と紹介されてる。従って、氏は無事台湾に着いている。戦後生存からは、出撃して不時着か、出撃それ自体ができなかったかは不明なのだろうと思う。

 もう一方、「明治学院百年史」の中村メモの「中村敏男(大分県在住)」氏は、信氏の上官で、台湾に向かう時の交戦で、右肩撃ち抜かれ左腕に盲貫、顔面に破片による裂創を負い戦闘不能となり、低空飛行で与那国島に向かい不時着された方だが、この方もこの冊子が発行された当時健在だったとされる方がいらっしゃる。
 この方が、「下北沢X物語(3137)~終章:悲運のと号第31飛行隊~」が消息不明者として挙げる「中村欣男少尉 幹部候補生」とは別人なのだろうか。
 この方も一字違いだが、力石のように誤ってもおかしくない感じとも言い難いところはあるが、可能性としてはあるなと思う。

 実は「Web東京荏原都市物語資料館」では、別の意図があって敢えて消息不明者を挙げているのではないのかなと思うところがある。
 例えば、「明治学院百年史」では台湾へ渡った機の数を13機としているのだが、武揚隊の出発前の宮崎神社祈願参拝者が13名である事まで確認している記事がある。他にも記事の隅々にからは「明治学院百年史」を十分に確認していることが読み取れるのだ。
 ということは、敢えて消息不明者を掲げることで、別の情報を得たいという意図があるように感じられなくもない。
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# by shingen1948 | 2017-05-23 13:44 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)