地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー

2018年 02月 02日 ( 1 )

 「覇陵熊阪君墓碑」の情報の元になったとする「白雲館墓碣銘(菅野宏)【白雲会研究会1989/4】」で、この碑の釈文を確認する。

 覇陵熊阪君之墓(篆額)

君、諱は定昭、字は君行、卯右衛門と称し、覇陵山人と称す、考(亡くなった父)は孫右衛門、諱は定悠、姓は兒島氏。故有りて鮒子田氏を冒す(鮒子田の姓を名乗る)。譜(家譜)を按ずるに、蓋し、宇多天皇(887~897)の苗裔(子孫)、兒島三郎備後の守高德より出づ。
高德、元弘建武の間(1331~1336)に当りて、勤王の勲、史籍(歴史の書籍)に詳かなり、不復た贅(ぜい)せず(余計な事は記さない)高德、高光を生む。高光、正綱を生む。正綱、新田義宗(新田義貞の子)に従いて、豫州(伊予)に徙(うつ)る。正綱正光を生む。正光、光義を生む。光義、定義を生む。定義、定綱を生む。定綱、定宗を生む。定宗、定直を生む。定直、定信を生む。蓋し、光義より定信に至るまで、江州(近江)に在り、六角氏に属す。定信、定德を生む。定德、定次を生む。定次、定政を生む。定德より定政に及ぶまで、世々宮津侯(丹後の国、宮津、今の京都府)京極氏に仕う。寛文丙午(ひのえうま=6年1666)、侯(時の城主、京極高国)、罪有りて国除かる(父高広の訴えにより、徳川家綱にとりつぶされる)。定政、同志の士、五十餘人と、堅く其の城を守り、侯の手書(明渡し状)の至るを待ちて、而して後、諸(これ)を官使(幕府の使い)に致し(渡し)て而して去る。乃ち平安に客たり(その結果士禄から離れて京都に仮寓する身となった)。寛文己酉(つちのととり=9年1669)定悠を生めり。何(いくばく)も亡くして、田宅(でんたく=家屋敷)を一乘寺村(京都東山、高広も東山岡崎に隠棲している)に買いて、而して隱る(隠栖する)。定悠、季子(末子)なるを以て、出でて鮒子田(ふしだ)氏(京都東山上岡崎村の庄屋)を嗣げり。故に鮒子田氏と称す。
少(わか)くして東遊す。奥州伊達の望族(ぼうぞく=名族)、熊阪土佐が裔(すえ)、助利(保原村、熊坂太左衛門といい、梁川藩御用達)、諸(これ=定悠)に、東都(江戸)に遇えり。之(定悠)を器なりとして(才能があると見込んで)、結びて親姻と為る(弟太次右衛門)の妻片平氏娟が寡婦となていたのに入夫せしめた)。遂に伊達に籍し(住むことになり)、熊阪氏を冒(おか)す。

 次に「配片平氏生君=片平氏に配して君を生めり」となるので、ここまでは、熊坂覇陵氏の父である兒島定悠氏が伊達の熊阪氏となるまでの経緯について記されている部分のようだ。
 ここからもう少しの間、伊達の熊阪氏となった父の代の家族の動向が記される。
[PR]
by shingen1948 | 2018-02-02 10:49 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)