地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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2018年 01月 31日 ( 1 )

 漢文の素養を持ち合わせていない散策人には、「覇陵熊阪君墓碑」から直接墓碑の漢字群の配列を確認することができない。
 この碑に刻まれているとする情報と照らし合わせながら行ったものだ。

 その情報は、前回の熊阪台州氏整理時に拾ったものだ。
 この熊阪墓地が改修工事されていたようで、ネット上の墓碑改修作業状況報告を見つけたのだ。確か山形県の業者だったと思う。
 その報告の中に、熊阪覇陵・台州・盤谷氏の三代の墓碑の写真と、そこに刻まれることの紹介があったのだ。
 そのうち、興味のあった覇陵熊阪君墓碑の情報をメモしたのが、次のようなものだ。ただ、今回、再確認しようと思ったら、ネット上からは消えていた。
 この参考文献が「白雲館墓碣銘(菅野宏)【白雲会研究会1989/4】」であることは記憶に残っていた。

 「覇陵熊阪君之墓」

君諱定昭、字君行、稱卯右衛門、號覇陵山人、考孫右衛門、諱定悠、姓兒島氏、有故冒鮒子田氏、按譜蓋出自
宇多天皇之苗裔、兒島三郎備後守高德、高德當元弘建武之間、勤王之勲、詳于史籍、不復贅焉高德生高光、高光生正綱、正綱從新田義宗、徙豫州、正綱生正光、正光生光義、光義生定義、定義生定綱、定綱生定宗、定宗生定直、定直生定信、蓋自光義至定信、在江州屬六角氏、定信生定德、定德生定次、定次生定政、自定德及定政、世仕宮津侯京極氏、寛文丙午、侯有罪國除、定敢與同志士五十餘人、堅守其城、待侯手書至、而後致諸 官使而去、乃客平安、寛文己酉生定悠、亡何買田宅於一乘寺村而隱焉。定悠以季子、出嗣鮒子田氏、故稱鮒子田氏、少東遊、奥州伊達望族、熊阪土佐之裔助利、遇諸東都、器之結爲親姻、遂藉伊達、冒熊阪氏、配片平氏生君、助利姉之子、同郡秦豐重、養助利之女、爲子以妻君、以爲己嗣、既豐重亦冒熊阪氏、君承家服農、又善廢著修業而息之、産日益殖。少有志功名、以策于東、諸侯厚禮遇之、遂傾橐給焉、盡破其産家人憂之、君曰、富無經業貨無當主、散千金致千金、是在我乃復治産、比及十年、果致千金、鄰里待君、而擧火者數十人、年飢、推産損息、貧者爲折券所全活、甚多、君疾惡若仇、恒言不如郷人之善者好之、其不善者惡之是我志也、吾耻爲郷原矣、未強喪秦氏、遂不復娶、旁絶妾甑、曰、楊叔節我師也、幼強記、能象棋洞蕭、長渉群書、好爲詩、中喜禪、及讀物先生之書、爽然自失、醜平生所爲、盡焚其稿、晩自放丘壑爲園、種牡丹、郵致洛種數十品、顔其居、曰白雲舘、樓曰明月樓、 析子彦、日嘯歌其中有二十景詩、命子彦和之、父子之間、自爲知己、疾病作詩自題、筆翰如流恬然臨終、明和甲申十一月十五日也、距生寶永己丑十一月二十八日、得年五十六、葬伊達高子村西門外、蓋執紵者三百人、君生二男二女、男曰定邦、即子彦、先娶某氏、繼娶寺島氏、女適信夫宍戸某、其二夭、孫男二人並幼、子彦善文章、有奇才、與余善、親状君行、千里乞銘、銘日、戒之在色、守志不惑、死生亦大、悠然自得、宜乎富好、行其德有、子能文維、其攸燕翼
明和五年六月壬戌、龜山松崎惟時撰、東都大田覃書并篆額、孝子定邦立
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by shingen1948 | 2018-01-31 10:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)