地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

2017年 10月 26日 ( 1 )

 船橋観音堂は、黒沼神社同様開放的な管理なので、案内にあった「船橋十一面正観世音」も見ることができた。しかし、半沢氏の「歴史地図」に案内された「和算額」は見逃した。
 軽くそう思っただけだったが、確認してみると、この見逃しは黒沼神社の和算額の見逃しと共に結構大きいかもしれないとも思えてきた。

 「金谷川のむかしと今」の地元年表を確認すると、この明治2年の和算額については、「最上流四伝丹治明斉門人が眩斎尾形貞蔵額を奉納」とある。半沢氏の「歴史地図」の案内と重なる。
 また、「金谷川の私塾」の項には、最上流和算の金谷川関係者として、以下の三氏が紹介される。

 〇 丹治明斉は天保7年(1836)金沢村生74歳で没門弟1000人。御山黒沼神社(安政7年1860)、立子山篠葉沢稲荷神社(明治24年)他神社名不明2面
 〇 尾形曠斎は天保6年(1835)浅川村生大正7年(1918)84歳没門弟44人。浅川観音堂(明治2年1869)、浅川黒沼神社(明治25年1892)、黒岩虚空蔵堂(明治26年1893)、木幡弁財天、立子山稲荷神社。
 〇 長沢保斎は嘉永元年(1848)浅川村生大正11年(1922)没門弟55人。立子山篠葉沢稲荷神社、浅川黒沼神社

 「最上流宗統派の系譜」の解説とも照らし合わせてみると、その後半に渡辺一より三伝の算法印可を受けた二本松藩の完戸政彝(まさつね)の門弟、下川崎の野地弥源太豊成、金沢村の丹治重治が紹介される。
 この丹治重治氏が、上記「丹治明斉」氏という事のようだ。
 氏が安政4年(1857)に四伝の算法印可を受け、明治17年(1884)に丹治明斉氏の門弟だった上記浅川村舩橋の「尾形曠斎」が五伝の算法印可を受け、明治38年(1905)に上記浅川村下中沢の「長沢保斎」が六伝の算法印可を受けたとのことだ。系譜が金谷川地域でつながっている。
 その後、杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏が七伝となったが、後継者なく最上流が途絶えたとのことだ。

 つまり、この地の和算は、二本松藩の最上流宗統派の系譜を引き継いで栄えたということのようなのだ。
 その二本松藩の最上流宗統派の系譜は、次のように解説される。

 最上流元祖合田安明は延享4年(1747)山形生文化14年(1817)没とのこと。
 その合田安明氏が、出身地最上国山形に帰郷の際、土湯に立ち寄り、速算という評判の渡辺一に難問を提示したのだとか。一氏は即座に十一乗式の解を示したが、安明氏は直ちにもっと明快な三乗式の解を示したという。
 それで、一氏は安明氏の門人となり、江戸で十余年の指導を受けて寛政6年(1794)12月に、算法印可を受けて二本松に帰り藩士になり、敬学館で数学を教授していたとのことだ。
 その門人が、先の三伝の算法印可を受けた二本松藩の完戸政彝(まさつね)とのことだ。
 ここまでが二本松城下の話で、最上流宗統派はここから先、この金谷川地域に伝授されていったということのようだ。

 県内の和算二大拠点地が、ここと最上流佐久間派の三春藩ということなそうだ。
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by shingen1948 | 2017-10-26 15:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)