地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

2017年 10月 23日 ( 1 )

 明治19年に、計画されていたルートは、平石トンネルから陸羽街道に沿う形で、関谷字清水―浅川村字市ノ沢を経由して松川町街の西方に出て、菅良神社西方に松川駅が設置されるということだったようだ。
 それが、松川町の鉄道回避の問題が起きて、地元の了解を得ることができずに現金谷川駅付近でかなり迂回する路線を通して、松川町街東方2.2㎞に松川駅を付設するということになったとのことである。
 魔の踏切と恐れられたとされる舟橋踏切、割石踏切の誕生は、その迂回に伴って必然的に派生したものと想像できる。

 地域の年表から東北本線にかかわる他の項目を抜き書きしてみると以下のようだ。

 明治42年に、金谷川駅が新設される
 昭和35年東北本線白川福島間が電化される。
 昭和36年東北本線金谷川永井川間が複線化される。
 昭和38年東北本線金谷川松川間が複線化される。
 昭和39年東北本線上野福島間の複線化が完成する。

 「貫通記念碑」にある「複線化の実現を見るに当たり」というのは、「昭和38年東北本線金谷川松川間が複線化される」という項を指しているのだろうと思われる。
 また、以下の村の変遷経緯から、ここでいう「町当局」及び「町議会」は、昭和30年に新しく4町村が合併して誕生した「松川町」を指していると思われる。

 浅川村は、明治21年に公布された市政町村制に基づいて、明治22年に金沢村と関谷村と合併し、金谷川村となる。
 その金谷川村は、昭和30年に松川町、水原村、下川崎村の一部と合併し、新「松川町」となる。

 新旧の違いはあるが、大きく迂回する路線にせざるをえなかったのは「松川町」の対応のためだが、その派生した問題を「松川町」が解決するために対応したことが称賛されている。
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by shingen1948 | 2017-10-23 17:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)