地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

2017年 09月 02日 ( 1 )

 今思えば、ここまでの物語に接触するチャンスは何度もあった。それを逃しているのだ。
 まずは、高校時代、中田浜の艇庫と「学而 (がくじ) 会館」を折り返し点に行われている「中田浜強歩大会」には当然参加している。その事自体が一つのチャンスだった。
 しかし、自分はN先生とのかかわりで、小学校6年生の時分、中田浜の合宿所に連れていてもらった記憶があるのだ。それはボート仕舞とのかかりの筈なのだ。つまり、中田浜の艇庫にボート仕舞の行事にも参加した上で「中田浜強歩大会」に参加しているのだ。多分、他の人にはないこの経験があったのだが、この事については「山中毅さんの訃報に接して④」でふれている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23720067/

 他に、もう一つのチャンスもあったのだ。
 この「会高通史」の表紙を見て思い出したのが、この冊子、自分にも配布されているのだ。
 この冊子は、昭和40年に会津高校の火災からの復興期成の記念誌として発刊されたものだったのだ。発行者は会津高等学校復興期成同盟会で、会津高校の全生徒にも配布されていたのだ。
 目は通しているはずだが、心に留まらなかったということだ。
 ちなみに、N先生、「落成祝賀運営役割名簿」の会場係の一員として名前が挙がっていた。

 その「会高通史」から、「魅力に惹かれて、性懲りもなく戸ノ口通いをする」若者の様子の描写も拾ってみる。

 〇 生徒の幹部はモンタの二階に泊まり、それ以外は艇庫の二階に雑魚寝。飯は自分達で炊いて、味噌汁と漬物はモンタに頼んだのだとか(後には完全自炊だが味噌汁はなく、おかずは生味噌だったとも)。
 〇 食事は一斉に食べ始めるが、スピード8杯の猛者がいたので、後にはアルミの食器に均等に盛ることになった。
 〇 洗面入浴は湖水で、便所なし。
 〇 着る者にも頓着なしで、フンドシだけは皆しているが、シャツも着ない者、シャツだけ着る者。裸足の者、鉢巻の者、首にてぬぐいを巻いている者等々……。

 服装は罹災者のようであり、乱暴者のように見えるが、漕艇は計画的で厳しかったという。自然をナメてかかるような事はなく、慎重だったともある。
 それでも、ただ一度無断で遠漕に出かけて心配した次のようなエピソードも記される。
 上戸まで行ってしまって、その帰途につこうとした時に波が高くて戻れなくなったようなのだ。とりあえず小学校へ泊めてもらうことにしたのだが、食事の都合がつかない。
 それで、キャプテンが大目玉覚悟で、自転車で指導者の待つ宿に向かうことに……。

 宿に来たのは夜9時頃だったとか。
 心配していた先生方に大喝を食らいながらも、モンタに飯炊きを頼んでもらったとか。
 キャップテンは、バツとして一人でその飯を運ばされたということだ。
 小林先生は、自転車にご飯をつけて暗い湖畔道ぐるっと廻ったのだから、夕飯は夜中だったろうと想像している。
 この大目玉覚悟で指導者の前で背を丸めて小さくなりながらも夕飯を頼むキャプテンと上記のような指導者の対応の信頼関係を元にした絶妙なやり取りがほほえましく描かれる。

 現在の会津高校端艇部は、全国的な活躍を中心に紹介される。優秀な競技スポーツとしてのボート部としての紹介だ。
 中田浜の「学而 (がくじ) 会館」についても、「昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設されました」と競技成績の結果とのかかわりで紹介される。
 自分が、会津高校端艇部が昭和26年に荻野ダム県営漕艇場に乗り出したことと中田浜の「学而 (がくじ) 会館」とのかかわりがよくつかめなかったのは、そのためだ。
 小林先生いわく、こちらは「全国的なスポーツ熱に促され」たことであり、この競技スポーツと長谷川信氏が熱中した会津高校端艇部の戸ノ口伝統とは別物ととらえているようだ。
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by shingen1948 | 2017-09-02 09:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)